Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】 作:サクライロ
「────フローラ‼︎」
強引に窪地を飛び出し、勢い余ってプックルの背から転落した。咄嗟にフローラを抱き込み転がって、止まったところで手をつきがばっと見下ろす。
痛々しい。さっき貫かれた腰だけじゃなく、殴られたのか頬も腫れている。急ぎホイミを唱えて頬を撫でた。彼女が降らせた水はぬるかったが、夜明け前の砂漠は殊更寒い。なぞった頬は生きた人間とは思えないほどひんやりしていた。
それもそのはず、彼女はきっと昨夜眠りについたときの薄絹の寝衣姿のままだった。ただでさえ冷え込む真冬の深夜の砂漠に、こんな薄着で。自分の外套も濡れてしまっていたけれど、たまらなくなって上体を抱き起こし、華奢な身体を腕に包んだ。力を篭めると弱々しい吐息が首筋にかかる。微かにでも、その身体が脈打っていることを確かめたかった。
僕達に続き脱出してきた仲魔達と、待ち構えていたリーシャがそれぞれまろびながら駆けてくる。涙で顔をぐしゃぐしゃにしてフローラを呼ぶ彼女に構わず、身体を傾け血まみれの寝衣をたくし上げた。薄く痕を残していたものの右脇腹の傷はとりあえず塞がっていて、ようやく息をつきながら、改めて回復魔法を施した。
「ごめんね、フローラさん。ごめんなさい……!」
しゃくり上げるリーシャを見上げ「ぶじで、よかった、です」とフローラが辿々しく答えて微笑む。背後でピエールが爆破魔法を数発放っている音が聞こえる。気休めでも時間稼ぎに、僕らが作ったあの傾斜を崩してくれているんだろう。
温めてあげたいけど、僕の外套も湿って冷たい。シャツもフローラの血に濡れて使い物になりそうになかった。吐血で汚れた妻の口許を指の腹で拭ったところで、リーシャが自分の外套を脱いだ。「もうすぐ日が昇るから、きっとすぐに乾くわ」そう言って、また泣きそうな笑顔を繕いながらフローラに掛けてくれる。案の定フローラは心配そうに首を傾げたけれど、もう一度微笑んだリーシャがふるふると首を振った。
「大丈夫よ、あたし寒くないもの。ほんとよ」
きっと励まそうとして、リーシャは防寒着の上からフローラの手を包んで握る。と、フローラがほんのわずかに顔をしかめた。
「……待って。フローラ? まだどこか痛い?」
満身創痍だっていうのに、どこまで我慢強いんだろう。慌ててリーシャが手を離す。上着を捲って妻の腕を見下ろした瞬間、雷に打たれたような衝撃が全身を貫いた。
指輪をしていた左手の、薬指だけが異様に太く腫れている。
フローラの繊細な指とは思えない。膨れ上がったそれに恐る恐る触れると、ひどく熱を持っていた。……多分、折れてる。明るくなれば、皮膚の内に滲み出た血でさぞ青黒く見えるだろう。
もう、一目見ただけでわかってしまった。さっき炎のリングが強烈に反応した理由も。きっと君は、指輪を奪われまいと必死に抵抗して────
「誰が、やったの」
こぽ、……と、
肚の奥で血が、沸騰した音を立てた。
「さっきの男? それとも、あのひと」
怖がらせてしまう。リーシャもすっかり強張って僕らを見ている。落ち着かないと、そう思っても今はこんな言い方しかできない。
小枝みたいな細い指だ。殆ど抵抗も出来なかったはずなんだ。
憤り、制御できない怒りが、憎しみが、押し殺しても肚の奥から噴き上げて。この身の内を激しく渦巻いて、止まらない。
許さない。許せるものか。なんで、彼女にこんなこと。
さっき魔物と対峙した時はフローラを生かすことで精一杯だった。怒りを覚えてもまだ冷静でいられた。今は、駄目だ。間違いなくこれは人間の仕業で、どう見ても故意に傷つけられていて、こんなにもか弱い彼女に躊躇なく手を下した奴がいて。
そいつの手足の指と腕と脚、全部へし折っても全然足りない。
周りをちらりと見回すと、さっきの女が焦点の合わない瞳でこちらを眺めてへたり込んでいた。フローラを捕らえていた賊達はいつの間にか姿を隠している。何処へ逃げたか、あの魔物を放置してそう遠くには行かないだろう。僕の苛立ちに敢えて答えず、フローラは腫れ上がった左手をゆっくり、顔の横へと持ち上げた。細腕に刻まれた縄の痕が月明かりに浮かび上がる。胸の上に置いた、右手の中の指輪をそっと握り直して。
「ゆびわ、入らない……でしょうか」
その囁きがひたすらに切ないばかりで、僕は今にも胸がぎゅうっと押し潰される心地になる。
どうして、そんな顔ができるの。
僕のやり場のない怒りまでまるごと全部受け止めて。
とても冷静とは呼べない幼稚な自分が心の奥で慟哭する。
こんな目に合わせたくなかった。
君だけは、こんなふうに傷ついて欲しくなかったんだよ。
傍らに膝をつき直し、脈打つ彼女の左手を両掌にやわらかく包んだ。静かに、静かに、ゆるく息を吐きながら、頭に叩き込んだ魔導書の発動手順を思い出してなぞる。
詠唱の真言は母なる精霊へ奉ずる祈りと誓約。躰を巡る魔力を臍の深いところへと落とし込む。────唐突に、内側から何かをもぎ取られそうな心地がしたけれどぐっと唇を噛んで堪えた。いつもここで、この衝動が空振りになって失敗する。何度か一人で試してみたけど、一度もうまくいかなかった。
集中しろ。成功するイメージ以外、今は要らない。
眼を閉じて、深く息を吸う。吐く息に詠唱と魔力を封じて。
「────、……『ベホマ』」
最後の詠呪と共に、篭めた力を彼女へと一気に流し込んだ。何か不思議な抵抗があってひやりとしたが、止まらないでくれとただひたすらに祈る。手元から広がった温かな光はフローラの身体を取り巻き、やがて華奢な掌から灼くような強烈な熱が返り、ふっと消失した。
フローラは肘をついてわずかに上体を起こし、目を大きく開いて僕を見ていた。他のみんなも見守ってくれていた。……光と熱が消えて、ずっと詰めていた残りの息をようやく吐いて。包んでいた両手をゆっくり、開いた。思った以上に消耗したけど、それ以上に────魔法の効果を確かめた瞬間、安堵のあまりすっかり気が抜けてしまった。
「……やっ、た」
笑いかけたいけど、一度怒りに凌駕された所為か、表情筋をうまく動かせない。
「多分、治せた。フローラ」
もう一度、そっと触れた指先から儚い気配が伝わった。
掌を退けたそこには、ついさっきまでの丸々膨れ上がった指はなかった。斑らに痣を残してはいたものの、他の指とほぼ同じ細さの薬指がすらりと伸びているだけだ。この暗がりで見る限りは、ほとんど何事もなかったかのように。
単回復の最上位魔法である『全快魔法』ベホマ。
ちゃんと、できた。成功したんだ。……初めて。
「あ、でも指輪はまだつけない方がいいよね。ちゃんと治せてるかしんぱ」
い、と言いかけた僕を、優しい感触が遮った。
魔法を施した無骨な手に、治したばかりの華奢な左手が添えられていた。恐る恐る、手の甲を包み込んだ彼女はほんの少しの力を篭めて握る。
碧いやわらかな髪が微かに震えて、伏せた睫毛からぬるい雫が滴り落ちた。軽い額を肩に受け止めればその愛おしさに心臓が甘く高鳴る。もう一度、きゅっと僕の手を握りしめた彼女の愛しい掌を、空いた手で大切に包み込んで。
「……っう、────……」
言葉にならない嗚咽が、フローラの喉から零れていく。
さっき僕の中を埋め尽くした憎悪はいつの間にか、彼女の泪に跡形もなく融かされ、消えてしまっていた。
僕の側に、君が居てくれる。
それだけでもう、他の一切はどうだっていい。
「あるじ殿」
ずっと魔物を見張ってくれていたピエールが、険しい声で僕を呼ぶ。大蟲はついさっきまでの暴れようが嘘のように静かで、混乱魔法が効いたとはいえ意識の隅で警戒していた。砂土を操れる魔物のようだし、正気に返れば僕らがいる地面ごと再び陥とされてしまうかもしれない。
「どうやら、あれで幼虫だったらしい」
苦々しげに鉄仮面が振り返り、つられて見下ろし愕然とする。少し前まで落とし穴の中心で蟲が蠢いていたはずなのに、今そこにあるのは金の卵────否、淡い星明かりの下、玉虫色に輝く巨大なさなぎだったから。
砂に沈まず、よく見ればわずかに浮いて見えるそれは今にも孵化しそうな様相で、表面はぱきぱきとひび割れつつある。
「リーシャ」
鼓膜に響く早鐘を聴きながら意識を前方へと研ぎ澄まし、背に隠した少女を短く呼んだ。こうしている間にも、いつか大鮹と対峙した時のような嫌な瘴気が辺りに充満していく。
「フローラを頼む。……二人とも、なるべく伏せていて」
頷く気配が返る。浅くなる息を、落ち着けながらゆっくり吐いた。肩にひょいと登ったスラりんが硬化の防御魔法を唱えた。皮膚を取り巻いた見えない膜、これは魔力の鎧のようなものだ。鋼鉄とまではいかないが、多少衝撃に強くなる。
────来る‼︎
殻が弾けた。玉虫色のさなぎからほとばしった金の光はその源を飲み込み、砂漠の闇をまばゆく照らした。直視できない光の中心から瞬間、烈風が放たれる。砂嵐から目を庇った一拍後、パリパリと薄い翅を広げながらそいつは姿を現した。
水晶玉に似た円い眼を二つ、細い胴体の頂点にある頭部に載せて。
透明な蟲の翅はしなやかに長く、双剣の如く胴体から左右二枚ずつ伸びる。
大きな満月の眼がぎょろりと回転して、僕の背後に居るフローラを真っ直ぐに見定めた。蟲にしてはやはり巨大な、蜻蛉によく似た魔物だった。身を寄せ合った二人の少女がぞくりと身体を震わせる。人や仲魔達と違い表情は全く窺えない魔物だったが、何故かこの時だけは、こいつはひどく無邪気に────歓喜、したように見えたのだ。
翅があるせいか、速い。ぎりぎりまで間合いを詰めてもひらりひらりと交わされてしまう。さっきまでの丸く硬かった図体とはえらい違いだ。フローラ達から離れたらすぐ滑り込まれそうで、迂闊に前に出られない。
「プックル、撃たせるな!」
上空に逃れた大蜻蛉がキイィン! と大気を揺らし魔力を集中させていく。あまり動けない僕らには奴の風魔法、恐らくバギマを防ぎきる手段がない。相殺したくとも、さっきの全快魔法で枯渇したようでろくに魔法が撃てなかった。ブーメランを投げつけると同時にプックルが臓腑を揺るがす雄叫びを発して、怯んだ大蜻蛉の動きが止まる。
何度も同じ手は通じないだろう。気を散らすことはできても飛ばれると厄介だ。どうする。
緊張から来る脂汗が額から顎へと滴り落ちる。早く方をつけないと、回復もままならない状況では長引くほど不利になる。
ピエールもさっきから剣撃のみに切り替えていた。内心舌打ちしつつ、攻撃の合間に極力平静を装い問いを投げる。
「ピエール、尽きてる?」
「いや。回復があと三、四度というところか」
「上々だ。────なら、使いきる前に沈めないとね!」
虚勢でいい。勝つ気で臨まなきゃ勝機も見えない。魔法が撃てないなら斃れるまで殴るだけだ。
魔物と僕らが近すぎるからリーシャも魔法で援護ができない。フローラもまた、さっきから何度も手をかざしているようだったが何もできそうになかった。手負いで魔力も吸い取られているんだから大人しく守られてくれて構わないのに、それでも戦おうとする健気な姿に全身が奮い立つ。
負けられない。本能がそう叫ぶ。絶対に守る!
魔物も恐らく苛立っていた。フローラを渡せと威嚇し、頭上すれすれの低空飛行を繰り返す。
その腹を狙って攻撃を数度仕掛けたが、飛びかかったプックルがやがて首から肩をやられた。槍の穂先に似た鋭い尾の先に貫かれ、一瞬呻いたプックルは地表に激しく叩きつけられる。
「プックルちゃん‼︎」
駆け寄ろうとしたフローラをリーシャが押し留めた。代わりにピエールが近づいて傷を検め治癒魔法を施す。「魔物の体液というが、拙者らは眼中にないな」などと苦笑いし、施術を終えた彼は再び剣を携え大蜻蛉を迎撃する。
あの翅がまるで剣なのだ。近づけば躱さざるを得ない。翅だけじゃない、槍のような尖鋭な尾も、口元に隠した針の舌も、まるで全身が武器のようだ。
ひらり、離れた大蜻蛉がまたもや魔法を放った。今度は遮りきれず、正面からまともに喰らってしまう。皮膚を刻む風の刃から必死に女性達を庇って顔を上げた次の瞬間、額の上から魔物が突っ込んでくるのが見えた。
「テュールさんッ‼︎」
「大丈夫!」
短く叫び返し思いきり薙ぎ払う。ヒュ、と翅がこめかみをかすめて少し血が舞ったが、同じく僕の剣がかすめた大蜻蛉も均衡を崩した。すかさずプックルが蹴り倒し、スラりんの牙が透明な翅を穿つ。すぐの斬り返しにスラりんとプックルが同時に跳び退いたがその時、空を切った翅からピキ、と微かに軋む音がした。
────割れるかもしれない。剣より薄い、硬質の翅。
「左翅。折れれば飛べなくなるかも」
剣を握り直して密かに告げれば、仲魔達は僕の意図を瞬時に理解し呼吸を整える。
再び一息に突っ込んできた大蜻蛉をピエールと共にぎりぎり受け止め、その隙に左翅だけを狙ってスラりんとプックルが飛びかかった。ピシリと更にひび割れる音がする。いける、そう直感してピエールとほとんど同時に大蜻蛉を抑えた剣を払った。返す刃に渾身の力を込め、またもやピエールと同時の斬撃を翅の一点目がけて叩き込んだ。
パリン、と薄い音がして、粉々になった翅の破片が舞い散る。まず一枚、と言おうとしたが、口にすることは叶わなかった。その代わり出たのは────絶望に酷似した落胆。
「くそ。……なんでだ⁉︎」
さすがに苛立ちが漏れる。たった今砕いたはずの左翅は、顔を上げたときには既に透明な輝きを帯び、みるみる再生を始めていたのだ。
嫌な予感ほど当たる。いつぞやの大蛸に似た気配だと思ったのは間違いではなかったのか。付け根から新たな翅が形作られ、先ほどと同じくパリパリと開く音がする。今の攻撃が徒労だったと思うと脱力したくなるが、歯を食いしばってなんとか己を奮い立たせた。
……だったら、生えきる前に破壊してやる!
歯を食いしばり、ブーメランを思いきり投げつけたが光を纏うそれを割るまでは行かなかった。俊敏に躱してそのまま宙へ舞い上がった大蜻蛉は翅を一息に広げきる。また振り出しか。さすがに戦意が挫けかけた、その時だった。
「────銀のタロット。塔‼︎」
鋭利な声が黎明の藍を裂いて、晴れた夜空を突如響いた雷鳴と暗雲が覆った。いきなり何だ。把握しようと顔を上げたその瞬間、高く浮上した大蜻蛉に雷が直撃した。強烈な雷光と大気を揺るがし響き渡った轟音に、数ヶ月前海上で見守った落雷の記憶が瞬時に蘇って身がすくむ。
「旅の御方よ、感謝いたします。あなた方のお陰で異形をこの地で食い止められる!」
恐らく味方なのだろうが、明け方前の空を背負った人々の顔はよく見えない。だが先頭に立ち片手を高く掲げる声の主はやはり、女性だった。暁の月を照り返す黄金のサークレットが彩る肩までの深い色の髪を風に流し、十数名ほどの小隊を率いた彼女は高らかに叫んだ。
「防壁、二拍で詠唱、炎‼︎」
号令を受けて、後ろに並んだ数名の魔導士らしき人々が一斉に術式を展開する。生まれたての翅を歪ませ、魔物は一瞬砂に堕ちてよろめいたように見えたが、すぐにその身から強烈な風を放ってこちらまでたたらを踏んだ。魔法の風刃は彼女達の前に張られた複数の魔法障壁によって半減もしくは跳ね返される。しかし魔物も退かない。己の放った風魔法に身体を刻まれながら高く飛翔し、彼女らの軍勢へと突っ込んだ。数名が炎魔法で迎撃したが、さすがに防ぎきれず陣形が崩れる。朦々と立ち込める砂煙の中から複数の悲鳴、呻き声が聞こえる。
助けに行く余裕はない。あいつはきっとまだ、フローラを諦めていないから。
ゆらり、大蜻蛉がこちらを振り向いた。二人ほど針の舌で貫いていたが、フローラに焦点が合うなり吸いかけの獲物を無造作に放る。理由はわからないが、あいつは本当にフローラの血だけに味をしめたらしい。舌打ちと同時に魔物との距離が一気に詰まった。滑空した魔物に咄嗟に──もう考えるより早く指輪をかざす。小規模の爆発で勢いを削ぎ、そこに仲魔達が襲いかかって次々に肉を抉り、抉られる。巨大な翅がわずかにも砕けると破片が雹の如く皮膚を刻んだ。背後の少女達を庇おうと外套を拡げた瞬間、再び鋭く「防壁、重ねて!」と指示が飛んだ。さっきより間近に響いた声の傍らから、幾重にも防護魔法がかけられて僕らを包む。
「あ、アイシス……女王、陛下!」
数枚の魔法膜に守られた中から、リーシャが畏敬を篭めて女性の名を叫んだ。
大陸に着いてからもう何度も聞いた名だが、今は気にしていられない。胸の中で感謝だけ告げて、折れた片翅を再びぼんやりと光らせる魔物と至近距離で対峙する。
「ユノ」
集中しきった視界の外側に、厳粛な声が響く。
「……陛下」
「稀人の前でこの上、醜態を曝すのですか」
覇気のない瞳で虚ろに見上げたが、跪いた女官長はしかし、主君の問いに答えなかった。もとより回答を期待してもいなかったのだろう。特に反応を示さず、彼女自身の右腕を見下ろし女王は命じる。
「お立ちなさい。貴女はただ、貴女の望むまま戦えば良い」
……誰も、
表立って異議を唱える者はいなかったけれど。
「貴女は女王従きを統べる長です。この悠久のテルパドールに有りて、伝説を守る私の片翼。けれど、それ以前に貴女はユノ・シューレンだった。……いいえ、貴女はずっと『ユノ』でした。貴女が何を望み、何を叶えたいと思ってもそれは自由だったのです」
後ろに控えた人々の間に、微かな動揺が波紋となって薄く広がっていく。彼らにとって上官と言えど罪人に対し、主君の言葉は信じ難いものだったろう。
己への反逆すら、いっそ肯定するかのように。
毅然としながらどこか哀しみを帯びた声で、女王はただ真摯に告げた。憐憫でも叱責でもなく、否、悔恨だったかもしれなかった。犯してしまったものが罪なら、止められなかったこともまた、彼女にとって咎なのだろうか。
恐らくこの場で誰より孤独な、唯一無二の彼女の友人の為に。
「それがテルパドールに仇なす結果になるならば、この手で止めてみせましょう。それが私の望む在り方です。ユノ!」
────キュオオオオォォ‼︎
強く言い切った女王の科白をも呑み込み、痺れを切らした大蜻蛉が吼えた。針の口を振り乱しフローラに向かって愚直に突っ込んでくる、その勢いを剣で弾いてピエールの斬撃と共に押し返す。プックルも尾に喰らいつき、自身も脇腹を抉られながら更に後方へ退けた。傷が浅いのを見届けて剣を構え直したその時、飛来した鋭い何かが魔物の鼻先をかすめた。
蝶のように花のように、鮮やかに舞った赤銅色が女王の手元に返る。ブーメランか? そのコントロールの巧みさに感嘆するも束の間、
「異形よ、そなたの相手はこちらです。その方が欲しくば我々を倒してからになさい!」
彼女の周囲もぎょっとしてどよめいた。女王自ら挑発するなんて前代未聞だ。当然大蜻蛉はそ知らぬ顔、キィン! と再び耳障りな音を立て僕らに風魔法を放つ構えをとったが、発動より先に赤銅の蝶が視界の端を舞った。鮮やかに旋回したそれは槍の穂先に似た魔物の尾先を一息に斬り落とす。ゴァオオ‼︎ と地響きとも咆哮ともつかない重低音が辺りに木霊した。
「よそ見をしていると、次こそ首をいただきますよ!」
鋭く言い放つ女王を振り仰ぎ、大蜻蛉がついに逆上した。荒々しく吠え猛り広げた翅からバギマが走る────と思われたが魔法は現出しなかった。ずっと放心していたあの女性が、咄嗟に腰を浮かせて魔封じの呪を投げたから。
「マホトーン‼︎」
反射的に叫んだらしい女官長をちらりと盗み見た女王は一瞬、どこか強かな笑みを口端に零す。
「アイシスの名に於いて希います。風精霊シルフィーダ、汝の聖刃を此処に顕せ」
かき消えた魔物の術に成り代り、真言を伴う詠唱が響き渡る。シルフィーダは風の高位精霊、その尊称。祝福を許された人間にしか真実唱えることを許されない、神聖な真名だ。
……驚いた。僕以外で風魔法を使う人間に、僕はこれまでに会ったことがない。しかも、これは。
「火精竜サラマンドラ。我が罪過を種火とし業火と為せ」
アイシス女王に重ねて、女官長が厳かに呪言を唱え始めた。サラマンドラもまた焔の高位精霊、ということは────
「火竜の焔、灼炎の盾となれ! ……ベギラ、ゴン‼︎」
「────バギクロス‼︎」
突如、魔物の眼前を猛火の壁が奔る。更に女王がきった十字印から渦巻く突風が放たれて炎を追った。竜巻に煽られ、火蜥蜴の如くうねる炎が魔物を取り巻いて火力を増す。ベギラマやメラミの比ではない、天まで届きそうな炎の渦が風と合わさりゴォ‼︎ と砂を焼いて熱旋風を起こす。
「すご、い」
炎に照らされたリーシャが茫然と呟いた。さすがにこれは、こんな凄まじい魔法の競演は僕だって見たことない。
英雄譚の賑やかしに語られる最上位魔法、炎帯魔法『ベギラゴン』と竜巻魔法『バギクロス』。どちらも恐らく、世界に片手で数えられるほどしか使い手はいない。まさかそれらをこの目で直に、しかも二つ同時に見られるとは。
「呆けているのは誰⁉︎ 構えなさい‼︎」
女王の叱責が飛んで、すぐに魔導士達が腕をかざし口々に詠唱を始めた。メラミ、ベギラマ、イオ、無数の魔法が入り乱れて炎の渦へと叩き込まれていく。
凍るほど冷え込んだ明け方の砂漠が一瞬で灼熱に包まれた。立っているだけで肺まで火傷しそうな熱が充満して、爆発と共に地面が何度も揺れて。連鎖する爆風にあわや吹き飛ばされかける。立て続けに打ち込まれる魔法の爆心地は真っ白に発光し続け、砂塵に砂礫もあいまって目も開けられない。
普通の魔物ならこれだけ一斉に魔法を喰らえば跡形もないだろう。普通の魔物なら。
「まだ再生するか……!」
さすがにピエールの口から焦燥が漏れた。視界を遮る白煙を、あの玉虫色の光が内側から貫いたのだ。
「あれで……斃れないって、嘘だろ⁉︎ 今のがほとんど効いてないっていうのか⁉︎」
魔物を囲んだ魔導士達から絶望の呻きが聞こえて、僕も動揺せずにいられなかった。光の中心、さすがに衰弱を感じるものの、禍々しい気配は変わらず砂塵の中蠢いているのがわかる。
いや、おかしいだろ。大蛸の時も再生能力に苦戦させられたけど、いくらなんでもここまで耐えるなんて。まるで伝承に語られる魔王を相手にしている気分だ。
まさか、フローラの血の……魔力の所為、なのか?
唐突にそんな考えが脳裏を過った。確かマーリンも以前、フローラの魔力は特殊だと言っていた。天稟だ、と。
…………クオォォォォオオン‼︎
大気をびりびりと揺るがし、大蜻蛉が再び激しく咆哮した。再生途中の翅を拡げ、風を捕まえた魔物が煽られて高く舞い上がった、そこからまたしてもフローラだけを狙って一直線に滑空する。その間ほんの一呼吸、再び妻の前に立ちはだかり切っ先を天に向けて構え立った。
逃がす余裕もない。見誤れば諸共死ぬ。
「テュールさん!」
ほとんど死に直面したこの瞬間に、
助けを請う悲鳴でも、無謀を諫める声でもない。
ただ僕を信じてくれる、儚くも強い呼び声が背中を押した。
あたたかい。
背中に触れるほど近く、妻の気配がそこに有る。
振り向かなくてもわかる。君が手を伸ばしている。潰されそうに強大な魔力を前に、あたたかくてやさしい君の存在が、僕を背中からただ力強く支えてくれる。
「……れらが創造主、精霊、ルビス」
そんな中、耳に直接、凛と響き渡るフローラの真言。
「この異形を、打ち破る力を……彼にお与えください!」
喉を震わせた透明な音が、最後の祈りを紡いだ瞬間。
全身の細胞が叫ぶように血が、
沸いた。
────力が、
爪の先まで漲って。
握った柄の掌と膝と、腰から背筋へと、噴き上げていく熱が一気に流れ込んで身体中を駆け巡って。
思わずほとばしった雄叫びと共に、狙い定めた蟲の額、その一点を、父の剣が迷うことなく貫いた。
深々と。硝子玉の眼と眼の間を割った魔物の肉感。喰い込んだ手応え以上に重く深い魔物の内部を、核から溢れた凄まじい魔力が暴走して爆発する。柄を握った腕に痺れるほどの衝撃が伝わって、真っ直ぐ交わった視線の先、一瞬金の光が眩く走った。
瞬きも、できなかった。鼻筋を伝い落ちる汗を感じながら、穿った剣身に尚も力を篭めてその最期を見届けた。
刃を突き立てた魔物の頭がじわじわとひび割れていく。渇いた泥人形のように、あんなに硬かった翅もぼろぼろと朽ちて崩れて散ってゆく。
その様を、僕のすぐ後ろで同じように、息を詰めて見守っている人が居た。
華奢な白腕を思いきり僕へと伸ばし、彼女がぎりぎりで詠唱したその魔法は、傷を癒すいつものベホイミでも、魔物を眠らせる為のラリホーでもなく。
大蜻蛉の額を、核を貫く力を僕に与えた筋力増強補助魔法、
────『バイキルト』だった。
◆◆◆
まるで灰塵の如く、魔物が砂に還るまでさほど時間はかからなかった。
降りしきる残骸の中から、亀裂の入った黄金の核が音もなく現れ足元に落ちた。それを見届けて無意識に息を吐いたところで、背後からとさりと小さく砂を打つ気配がした。重みが消失した剣を慌てて背の鞘に納め、振り返る。ぼろぼろに乱れた碧髪を額に零れさせ、フローラは張り詰めた糸が切れたように、透明な瞳で茫然と僕と、その肩口の向こうを見上げていた。
「終わったよ。……もう、大丈夫」
膝をついて二の腕を支えれば、ごくごく微かに震えていた。隣でフローラを庇い膝立ちしていたリーシャも気が抜けたように座り込んでいる。二人の少女の頭を代わる代わる撫でやってから、集まってきた仲魔達を改めて振り返った。
「お疲れさま。みんな、怪我はしてない?」
労いの言葉をかけると真っ先にプックルがフン、と鼻を鳴らし澄まし顔をする。その隣でピエールがくつくつと笑いながら「最後のベホイミはプックルの尻にかけてやり申した。気つけに一杯、エルフの妙薬を呷りたいものよ」などと飄々と宣った。芝居がかったその台詞にほとんど被せるように、地面に牙を放り出したスラりんが女性達めがけて飛びついた。
「うわーん! ふろーらちゃん、りーしゃちゃんも、みんなぶじでよかったよぅぅぅー‼︎」
無邪気なスラりんの純朴すぎる歓喜の声に、フローラもリーシャもみるみるその目許を潤ませていく。声もなく抱き合い、喜びを分かち合う少女二人とスライムを見ていると、こちらまで目頭が熱くなる心地がする。
「見事な戦いぶりでございました。旅の御方」
勝利の余韻に浸って、うっかり気が緩んでしまっていた。
凛とした女の声に、はっと状況を思い出し振り返る。そこには、さっきまで暗がりでよく見えなかった、肩ほどの黒髪に金のサークレットを冠した細身の女性が立っていた。目鼻立ちのはっきりした美貌は更に濃い色の化粧に彩られ、身体のラインに沿ったこの大陸特有の丈の長いドレスを纏っている。気づけば彼女の背後左右には数名の女性達が控えていて、敵意はないがこの瞬間にも襲撃に応じられる隙のなさを感じた。その中心にあって、赤銅色の扇を手に持ち佇む姿は言葉で言い尽くせないほど気高く、威厳に満ちている。
間違いなく、テルパドールを統べる女王アイシス、その人であった。
「ほとんど魔法を使わずあそこまで異形と渡りあわれるとは、まこと感服いたしました。……失礼ながら、お名前をお聞かせ願いましてもよろしゅうございましょうか」
額を覆う長い前髪の下、女王は美しく染め上げた瞼を細める。ぼんやりしている場合じゃない、慌てて剣を鞘ごと下ろし、片膝と片拳を地についた。
「申し遅れまして、大変失礼いたしました。アイシス女王陛下」
慌しかったとはいえ、女王の御前で加勢の礼すら伝えていなかったとは。突如襲った緊張に頭の中がぐるぐると混乱したが、とにかく必死に、僕なりに貧相な語彙を引っ張り出し、謝辞と名乗りを告げていく。
「先ほどは皆様でのご助力、誠にありがとうございました。テュール・グランと申します。こちらは妻にございますが、先の戦闘で負傷しております故、このまま挨拶を差し上げる無礼をお許しください」
万全ではないのだから無理に礼を取らなくていいよ。そう言外に伝えたつもりだったが、後ろに控えたフローラは僕の拙い口上を聞き届けると、血だらけの寝衣を手早く整え直し、綺麗な姿勢で跪いて碧い頭を垂れた。
「同じく、お初にお目もじ仕ります。魔物遣いテュール・グランが妻、フローラ・グランと申します。このような見苦しい姿で陛下の御前を汚しますこと、何卒お許しくださいませ」
鈴を鳴らした清涼な声が控えめに響く。飾り気のない、真摯で丁寧な彼女の言葉を背中に聞いているだけで胸が熱くなってしまう。物静かだがどこか誇らしげに、僕のことを『魔物遣い』と言い添えてくれたこともまた嬉しかった。
「そのようになさる必要はございません。お二方とも、どうぞ面をお上げください」
穏やかに促されるも体勢を崩す勇気が出ず、どうしたものかと面伏せたまま周囲を窺ったが、女王は親しげに微笑むと、いつの間にか僕らに倣って大人しくしていた仲魔達にも手招きし声をかけた。
「魔物の皆様もお楽になさいませ。あなた方はテルパドールをお救いくださった、英雄でいらっしゃるのですから」
それはちょっと大仰な気がする。僕達はたまたま巻き込まれただけだと思うのだが。返答に詰まった僕らを見遣り、女王は研ぎ澄まされた美しい眦に視線を載せると、ふと口許をやわらかく緩めた。流れるように開いた扇で艶やかな唇を隠し、彼女は楽器の如く流麗に言葉を奏でる。
「本来ならば我々が未然に防がねばならなかったこと。……少し前から不穏な予兆があり内々に調べておりましたが、お恥ずかしながら我々は今宵、女官長が城を出たことすら知らずにおりました。あなた方が戦端を開いてくださったことで異変に気づくことができた。討伐に出遅れたことを何よりお詫びせねばなりません。皆様がここで魔物を留めていてくださらなかったら、この朝焼けは今頃、血染めの城を照らしていたかもしれなかった」
あまりの内容に思わず息を飲む。ただの偶然とは言え、先に仲魔達があいつの気配に気づいていたこと。不幸にもフローラが賊と行き合い、連れ去られてしまったこと。正直、女王の軍に加勢していただけたことも、それなくして勝てた自信は全くない。全てが『偶々』重なり合い起きたこの一連の出来事は、別の側面から見れば、テルパドールの命運をも左右した奇跡でもあったのか。
「此度のこと、女官長の心中を測りきれなかったのは全て私の不徳の致すところ。あなた方のご尽力には言葉もございません。心より、深謝申し上げます」
綺麗に切り揃えられた真っ直ぐな黒髪を微かに揺らし、女王は自ら腰を折った。狼狽える僕らに慈悲深い眼差しを一度向け、彼女はつと、兵士に囲まれた女官長の背を見遣る。
どこか、女王に似ている気がした。冷たく研ぎ澄まされた気配はこちらへはもう向かない。罪を負って尚、凛とした佇まいに彼女の覚悟を感じる。恐らくはその配下であろう女官達は、畏れなのか憐みなのか、誰もが何とも言えない表情で自分達の長を遠巻きに見守っていた。
「巧く、占術を撹乱する術を得ていたのですね。さすがはテルパドール随一の術士、と手前味噌ながらも申し上げたいところですが」
その、形容し難い空気を眺めながら、女王がぽつりと呟いた。
裏切りに対する憎しみも、憤りも感じられなかった。
寧ろそれは、僕が普段仲魔達に抱いているような、親しみだったり、信頼だったり。そういうものばかりが滲んだ横顔だったように、感じられた。
……だからこそ、彼女は次に悔恨を露わにする。大切な存在であればこそ、過つことを止められなかった苦しさはきっと筆舌に尽くし難い。
「結果、大切な客人に犠牲を強いてしまいました。心よりお詫び申し上げます。……ご無事で、本当にようございました」
再び深く頭を垂れた女王に、僕達は何も言えずただ見つめ返すことしかできなかった。
そうして女王と言葉を交わしている間にも、二十数名の男女が後ろで忙しなく動いていた。ある人は負傷した仲間を治療し、ある人は近くの破壊された馬車の荷台を検分する。また数名が周辺を代わる代わる偵察し、戻ってくることを繰り返していた。ふと思い至り、次の兵士が女王に耳打ちして離れたところで声をかけた。
「先ほどの魔物、盗賊らしい男二人が何かに封じて連れていました。ないとは思いますが、他にも隠し持っている可能性が。戦いの最中、いつの間にか姿を隠していたようで……大事な手飼いでしょうから、完全に放り出して逃げるとも思えないのですが」
女王は表情を変えずに頷き、側にいた兵士に目配せをする。意を汲んだらしい男が同じく配下の人々に何かを伝えに行った。すぐに彼らは幾つかの二人組に分かれ、それぞれ違う方角へと散っていく。
「こちらへ向かう際にも沿岸に兵を数卒向かわせました。警備の手薄なところはある程度絞られます」
遠ざかる彼らの背を見送りながら女王が答えた。断言はされなかったが、捕らえる見込みがあるということだろう。フローラを傷つけた分、優しく言っても半殺しにしてやりたい私情はあったが、これ以上は僕が介入していい場面でもない気がしたので黙って頷いた。
女王が数歩、歩み寄りフローラの傍らに膝をつく。突然のことに動揺する僕らを尻目に、彼女は患部を見せるよう促してきた。治癒魔法は数度施してあるが、しかし、妻は血痕まみれの寝衣を女王に曝すことも厭っている。更には大分明るくなってきていて、衆目もある。尚も躊躇していると、女王はつと腕を伸ばしフローラの腹の上に手をかざした。ほんのり輝く魔法を掌に灯し、どうやら熱反応から傷の有無を探っているらしかった。
「見事な回復術です。内部の損傷まできれいに治っていらっしゃる。ですが、失った血は貴女自身の生命力でしか戻りません。どうか十分に休養をお取りくださいますよう」
丁寧な労いを頂戴した上、僕まで肩に治癒魔法をいただいてしまった。すっかり勝利の余韻に高揚していて気づかなかったが、とどめを刺した時、翅か脚が上腕に喰い込んでいたようだ。僕もフローラも恐縮して再び頭を下げた。
「リーシャ・ガロン嬢」
名乗りそびれていたはずの名をアイシス女王直々に呼ばれ、慌ててリーシャがその場に叩頭する。しかし女王は目を細めて微笑み、顔を上げるよう再び優しく促した。
「私達はこれから大きな家族になるのですから、楽になさい。……占にも魔にも長けた娘がエピカにいると、以前から噂は聞いておりました。貴女の到着を心待ちにしていたのですよ」
女王を見上げたリーシャの瞳が感極まって揺れている。畏れを知らない印象の強い彼女だが、尊敬や憧れはまた別物らしい。そんな少女を優しく見遣ってから、女王が僕へと向き直った。
「グラン殿がよろしければ、彼女はこの場でお預かりいたします。皆様もご一緒にお招きしたいところですが、一度ラクスにお戻りになる必要がありますでしょう」
女王の言葉に、ラクスと呼ばれた城近くの集落に置いてきた仲魔達のことを思い出し深く頷いた。馬車も荷物もそのままだから、僕達はまだ城へは行けない。
しびれんは回復しただろうか。逃げた賊やその仲間達に集落が襲われてはいないだろうか。
そんな不安がちらりと過ったけれど、僕らを穏やかに見つめる女王の眼差しに不思議と安堵感を覚えて、肩の力が緩々抜けた。
万が一集落に危機があったなら、まずこの方がお気づきになるだろう。
「どうする? リーシャ」
「あ、うん。……えっと」
リーシャが困惑顔で視線を彷徨わせた。僕と、女王を恐る恐る何度も見比べて、彼女はついに意を決して口を開く。
「……その前に、少しお話させてくださいませんか。この人と、大事な約束をしたんです」
全て見透かしたように女王は微笑む。それを肯定と受け取って、縮こまりながらもリーシャが立った。真っ直ぐに僕へと向き直り、紫の綺麗な瞳で相対する。
「────本当、ありがとね。テュールさん」
何を言おうか、随分と長く逡巡したようだった。
「色々、困らせてごめんね。短い間だったけど、すっごく楽しかった」
そう、告げた彼女は朝日みたいに笑った。黎明の藍の光がやわらかく彼女を包んで、俯きがちに弧を描いた長い睫毛がちらりと煌めく。泣いているのかもしれない。そう思ったらなんだか直視できなかった。彼女の鎖骨のあたりをぼんやりと眺めながら、曖昧に首肯する。
朝の気配のする風が、さぁっと砂地をさらっていく。昨夜この辺一帯を荒らした砂嵐は、いつの間にか穏やかなものに変わっていた。薔薇の花びらの如く、あちこちに砕けた朱い鉱石が、さっきの魔物の翅の破片とともに砂に埋まり、散らばっている。退廃的でありながら、どこか幻想的なその光景を背にしたリーシャが、ひどく大人びた声音で、最後の問いを口にした。
「……ね。あたしを、お嫁さんにしてくれる?」
────二週間近く、幾度となく繰り返したやりとり。
何度も確かめてくれた。何度も、何度も、君のお陰で、自分の気持ちをいやと言うほど思い知った。
「ううん。……ごめんね」
そうしてやっと、正面から少女の眼差しを受け止めて。僕もまた、精一杯の慈しみと親愛、誠意を込めて答える。
迷いなく。揺るぎなく。
この心が向かう先はたった一人。それ以外に、僕自身が欲するものなどないから。
予想していた通り、リーシャは切なく微笑んだまま小首を傾げるばかりだった。息を呑むことも、ショックを受けた様子もない。最初からわかりきっていたこと、それでも彼女は、奉公前の最後のわがままを見事貫いてみせたのだ。
「リーシャは何にだってなれるよ。素敵な奥さんにも、いつかそのうち……女王様にだって、きっと」
「そうね。そう、かも」
現女王の前で告げるのは不敬が過ぎるかと思ったが、本心からの励ましを伝えたくてそう言った。意外にもリーシャは当然とばかりにあっさり頷く。自信家だな、と思わず笑った僕を見て、リーシャはまた嬉しそうに、でもやっぱり切なげに、眩いほどの笑みを見せてくれた。
「なりたかったなぁ。あなたの、奥さん」
────本当に、その瞬間今更に、
ああ、この子もたったひとつに縋っていたのだ、と思った。
それがどこまで唯一の真実だったか、他人の僕には測れない。それでもきっと、僕がたった一人を望んでやまないように、リーシャもまた運命に流されゆく中でたったひとつ、僕達を通して、彼女自身が欲した何かを見つけてくれていたのかもしれない、と。
応えられなくてごめん。
望んでくれて、ありがとう。
「フローラさん、お城に着いたらお茶しようね。約束!」
話したいことがいっぱいあるんだ、ともう一度笑ったリーシャはすっかりいつもの彼女だった。フローラもまた、眼を細めて優しく頷く。
「荷物は後で持っていくよ。頑張って」
「ありがと。無理させちゃだめよ? あたしの荷物なんか、全然急がなくていいんだからね!」
服や雑貨はともかく、マイヤ様から預かった大事な手紙もあったんじゃなかったっけ。なんてちらりと思ったけれど、余計なことは言わず、頷いてひらりと手を振ってみせた。
きっと初めから必要なかったんだ。だって彼女達は、女王陛下も含めて、代々力を継いできた先読みの一族だから。
いつの間にか離れたところに魔法陣が描かれていた。大人数で転移するため用意したものだろうが、ふと気になって、間近で見守っていた女王に恐縮しつつ声をかけた。
「……キメラの翼は使えるのですか? あの、実は僕は転移魔法を習得しているのですが、この大陸では何故かうまく発動しないみたいで」
女王が漆黒の瞳を微かに見開いた。「転移魔法とは、また稀有な」と呟いて、彼女は次に卒なく頷き、手元の扇で表情を隠すように声を潜めた。
「御廟をお護りする為、空間転移には限られた者以外制限をかけております。宜しければ城に着かれました後、改めてお話いたしましょう。……そう」
そこまで言うと暫し思案し、女王は扇をぱちりと閉じた。シンプルながらも美しい装飾を施されたそれを眼前に差し出し、女王は告げる。
「こちらをお持ちください。彼女が戻らないことで不審に思う者もおりましょうから、わたくしが庇護したことの証になれば」
益々恐縮しつつ、両手で扇を受け取った。見た目よりずっと重く、掌にずしりと沈み込む。親骨に繊細な薔薇が彫られた見事な品だが、これはいわゆる鉄扇というものかもしれなかった。そういえば先の戦闘中にもこれがブーメランの如く華麗に舞っていた。魔物の鋭い尾を見事刎ねたのは確かに、この扇だった。
恐らくは愛用の武器を、赤の他人に預ける意味がわからぬほど莫迦ではない。
「ありがたく、お預かりいたします。後日拝謁の際、必ずお返しいたします」
女王はまた微かに笑みを浮かべると「楽しみにお待ちしております」とだけ答え、踵を返した。
既に魔法陣には女官と思しき女性達、兵士と思しき男性達が整然と集っていた。その中心に、捕らわれるというよりは自由だけを制限された格好で、あの女官長が静かに佇んでいた。俯き、抵抗する様子も見受けられなかったが、女王がその陣に向かうとどこか鬱屈とした瞳で主君をちらりと仰ぎ見た。そのまま視線だけを僕の後ろ、フローラへと移す。
初めて、何か言いたげに妻をじっと見ていたが、やがて唇を噛んでまた瞼を伏せた。
そんな女官長を、魔法陣の端で待っていたリーシャはひどく悲しげに盗み見ていたが、いよいよ転移というところでこちらを振り向いた。人懐っこく微笑み、ぱたぱたと手を振る。足元でぴょんぴょん跳ねて元気よく見送るスラりんにつられて、僕もフローラの肩を抱き寄せ手をあげた。
ちらりと振り返った女王が満足げに笑みを零し、女官に手渡されたキメラの翼を天高く放る。
瞬間、魔法陣から強烈な風が立ち昇った。砂を一気に巻き上げる風圧にたたらを踏み、外套で妻の頭を包んで砂塵から庇う。砂嵐がおさまり目を開けたときには、あれだけ大勢いた女王一行の姿はどこにもなかった。全ては砂嵐が見せた幻だったと言うように、取り残された僕らの目の前には、滑らかな砂丘に埋まった薔薇のような鉱石がきらきらと輝くばかりだった。
◆◆◆
深い蒼が染め上げていた砂漠に少しずつ、朝の白い光が満ちてゆく。
リーシャを伴ったアイシス女王一行を見送った後、僕達は一度、前泊したラクス集落に戻るためひたすら砂漠を歩いていた。やはり転移魔法は使えなかった、故に帰路はプックルの鼻だけが頼りだ。スラりんを背中に乗せ、迷いなく進んでいく緋色の背中は相変わらず頼もしい。
振り返らず、しかし迷いなく僕の歩幅に合わせて進むプックルをピエールを乗せた緑のスライムが追う。そのすぐ後ろを、フローラを抱き上げた僕が歩いていた。
傷は治しても、血も魔力も吸い取られた彼女の身体はぼろぼろだった。ひと一人抱いて歩くのはこの砂漠では容易ではなく、プックルに乗せてもらっても良かった、けれど。
僕が、離れたくなかったんだ。片時でも、わずかにも。
少しずつ体温を取り戻してはいたけれど、乱れた寝衣一枚で砂漠の夜風に曝された身体はやっぱりひどく凍えていて、せめて温めてやりたかった。明るくなるごとに露になる血痕がひどく痛々しい。外套でできるだけ彼女を覆い、己の体温を移すように肌を寄せる。
ずっと聞こえていた微かな嗚咽がいつの間にか止んでいる。眠ってくれて良かったのだけど、彼女はどうやらしっかりと意識を保ったまま、身体を預けてくれているらしかった。
ちらりと、胸に添えられた手を見遣る。いつもと変わらぬ細い指に今、あの可憐な指輪はない。覚えたての全快魔法で治癒したばかりだから、まだ通さないほうがいいかと思って、念のため僕が懐に預かっている。
治せたのに。もういつもと変わらない、彼女も大丈夫だと言ってくれた。それなのに、その指をただ目に留めただけでこんなにも胸が苦しい。
ああ、でも、もっと明るくなったら他におかしなところがないか、もう一度ちゃんと確認しないと。城に着いたら医師に頼んで、診てもらったほうがいいかもしれない。指も腰も、骨が変なくっつき方をしたり、後遺症が残ったりしたら大変だから。
「…………、テュール、さん」
どうしても落ちていってしまう思考をつらつらと巡らせていたら、懐からぽつり、僕を呼ぶ声がした。
見下ろせば最愛の君が、ひどく申し訳なさそうに、泣き腫らした目を懸命に持ち上げてこちらを見ている。
「来て、くださって……たすけてくださって、本当に、ありがとう、ございました」
目が合うと、碧い頭を前に傾けて真摯な謝辞をくれた。
「ううん。僕の方こそ……一人にして本当にごめん。こんな、酷い目に合わせてしまって」
思いの外沈んだ声が出てしまい、フローラが困惑に満ちた瞳を泳がせた。急いで微笑みを繕ったつもりだけど、多分僕はひどく情けない顔をしていたと思う。
「ちょっとの慢心も命取りになるね。今更すごい、痛感してる」
黙ってはいたが、前方を行くピエールも頷くのが見えた。自分が残れば良かったと考えているんだろう。確かに、あの時点で問題の場所に大物が出る可能性は否定しきれなかった。けれど今回ばかりは、実質戦えないフローラとしびれんだけを置いてきたことこそ最大の過ちだった。
集落だから。祠だから。眠っているから。一つとして安心材料にはならなかった。魔物が簡単に近づけないからって、危険なのは魔物だけではなかったのに。
けど、皮肉なものだ。フローラが連れ去られ、僕達が彼女を追わなければ、あの盗賊達と女官長は今頃、王城に恐ろしい蟲の魔物を仕掛けていたかもしれなかったのだ。ちょうど僕達が城に着く頃には大惨事になっていただろう。結果的には多くの民を巻き込むことなく、企みは未然に挫かれた。本当にこんなの、僕らには不幸な事故でしかなかったけれど。
間に合って良かった。君を取り戻せて本当に、良かった。
「……あの、しびれんちゃん、は」
ずっと気がかりだったのか、おずおずと問うたフローラに、すぐに微笑んで頷いてみせた。
「ホイミン達が祠で見てくれてる。大きな怪我はしてなさそうだったし、多分大丈夫だと思う」
返事を聞いて、フローラが張り詰めた息を緩めた。ここに向かう直前、大粒の涙を零しながらフローラを気遣っていた、小さな身体を思い出す。
「みんな、フローラをすごく心配してた。……早く顔見せて、安心させてあげないとね」
抱き上げた腕に力を入れ直して囁いたら、君は睫毛を伏せたまま、はい、と遠慮がちに頷いてくれた。
表情はよく見えなかったけれど、短い返事にも安堵の色を感じて、僕もまたほっとして頬を弛ませる。
────本当は、
こうやって、君とまた言葉を交わしあえるだけで。たったそれだけのことが、すごくすごく嬉しい。
他に何もいらない。僕には、君がいればいい。
そんなふうに思うのは愚かかもしれない。簡単に投げ出せるほど、諦めてしまえるほど今まで抱えてきたものは軽くない。そんなのはわかっている。けれど、……それでも。
それからしばらくは、無音の砂漠に響く鳥の音と、僕達の砂を踏む音だけを聴きながら、黙々と歩いていた。
「──……わたし……、砂漠に入ってこのひと月、なんにもお役に立てていなくて」
どれくらい黙っていただろう。風の音に紛れてしまいそうな、密やかな独白が胸許から聞こえてきた。
そっと見下ろすと、彼女はぽつぽつと言葉を選びながら、何かを懸命に伝えようとしているようだった。
言いたいのに、言えずにいた何かを、必死に手繰っているようだった。
「折角教わった魔法も、全然使えていませんし。やっと大陸に着いたと思ったら、すぐに体調を崩してしまいました。目が、覚めたら……あなたの隣には、リーシャさんがいて。若輩の私よりもっとお若い方でした、けど、私などよりずっとずっと頼りになって。屈託なくてお可愛らしくて、しっかりした考えをお持ちで、本当に素敵なお嬢さんでした。まるでビアンカさんみたい、砂漠を照らす太陽のように、眩しくて明るい……」
そんなこと、ない。急いで言い差そうとしたけれど、思いがけず聴こえた幼馴染の名に言葉を呑み込んだ。
誤解が解けて久しいが、フローラにとって彼女の存在は未だ特別なものらしかった。まるで正反対の気質を持つ僕の姉貴分を、フローラもまた実の姉のように慕ってくれていることを知っている。
「あなたが私を気遣ってくださるたび、嬉しくて、辛かった。いつだって私のために心を尽くしてくださるのがわかるのに、迷いなく信じていられたのに……それでも身勝手に、リーシャさんを疎ましく……思ってしまう、自分がものすごく、嫌でした」
え?
一瞬、頭が真っ白になる。今、嫌だったって言った?
僕が不安になるたび、優しく笑って大丈夫だと言ってくれた。信じていると、嫌いになんてならないと。この旅にほとんど無理矢理割り込んできたリーシャにも、君はいつだって変わらず、穏やかに接しているように見えた。
…………本当に、少しだけ、
たまにはやきもちを焼いてくれたりしないのかな。
身勝手にそんなことを思っては、寂しくなったりもしていた。
「こんな、愚かな────たしの所為で……皆さんに、あんな危険まで冒させて」
「いや、だったの?」
思わず、被せるように問うてしまった。消えそうな声で告げていた君がびくりと震えて、驚きの眼差しを僕に向ける。そこを追及されるとは露ほども思っていなかったという顔だった。構わず、いつも以上に勢い込んで畳み掛けた。
「ちゃんと言って。……嫌だった? 僕がリーシャと話したり、一緒に戦ったりしていた時?」
何度も何度も確かめあってきたのに、どうしてだろう。
いつの間にか、僕だけが、君への想いを募らせているような気がしていた。
腕の中の頬が、目許がかぁっと一瞬で紅く染まる。碧い瞳を見開き、あからさまに狼狽した彼女は慌てて華奢な手を眼前にかざした。その動揺を隠すように、懸命に顔を背けて。
「…………っ、ごめん、なさ」
謝ることなど何もないのに、彼女は首まで真っ赤にして必死に詫びる。
気づかせてくれない。心配させてくれない人だ。気にならないわけじゃなかったんだ。寧ろ、普段通りの振る舞いの裏で君は一人、どれほどの息苦しさに耐えてくれていたのか。
「────そ、……それ、でも」
尚も言い募りたい僕を懇願の瞳で制し、彼女は意を決したように言葉を続けた。
「それでも、私……わたしは、あなたの────ただ、一人の妻で、ありたい……」
ざぁ、と砂粒を運んで輝く朝の風が幻想的な空間を創り上げていく。目に入らぬよう咄嗟に外套で彼女を覆って、そうしてすぐ間近に抱え込んだ頭から、本当に微かな、泣き出しそうな声がした。
「ごめんなさい。こんな、迷惑ばかりかけているのに。まだ何一つ、期待に応えられてもいないのに。役立たずで、足手まといで困らせてばかりで、それなのに、それでも、私は────あなたが」
「……本当に?」
やっぱり、どこかで交わしたやりとりに似ている気がして、衝動のまま彼女の言葉を遮った。歩みを止めた気配に気づいたプックル達が振り向いたけれど、誰も何も言わなかった。彼女を砂の上にゆっくり下ろして向かい合い、身を屈めて、翡翠の瞳を正面から覗き込む。
「本当に、……『僕で、いいの』?」
君ならきっと、わかってくれる。
ひたひたと潤んだ瞳が見開かれる。空に深い翠を溶かしたような虹彩に、逆さまに映り込んだ僕の影は今にも崩れそうなほど揺れている。
今、お互いの瞳の中、僕達だけの時間が静かに静かに流れている。
あの日。たった半年ほど前のことなのに、どうしてこんなに遠く感じるんだろう。君の実家の応接間で、君と僕が交わしたたった二言、三言だ。君に結婚を請うたあのとき、尽くしきれなかった言葉がその後、君をひどく苦しめた。
今、きっと同じ言葉が僕達の寂しさを埋めてくれる。
────君さえ、覚えていてくれるなら。
大粒の翡翠が長い睫毛に隠され、ぽろぽろと雫が伝って頬を濡らした。ほとんど同時に深く頷いた君が、華奢な腕を僕の首にぎゅっと絡めて抱きつく。
「──……っ、『あなたが、いい』の」
腕を、肩を震わせて。いつかみたいに君が儚く泣いてる。
玻璃細工みたいに繊細で壊れそうな君の身体を、粉々にしてしまわないよう恐る恐る抱き寄せた。
僕がたった今欲した答えを、消えてしまいそうなか細い声が紡ぎ出す。
僕達だけがわかる、
僕達にしかわからない、
僕達二人の、秘密の合言葉みたいに。
「あなたで、なくちゃ、……だめなの……っ」
嗚咽混じりに、懸命に声を絞り出す腕の中の君はほんのりとあたたかくて、切ない。うん、と何度も頷きながら愛しい碧髪を繰り返し撫でた。
同じだよ。僕ももう、君じゃなきゃ駄目だって思ってる。
君がいいって言った、あの日の言葉に一寸の偽りもない。
ただ臆病だっただけだ。僕に何ができる、君に辛い想いしかさせられないんじゃないかって。君を不幸にしたくない、君の幸せの為ならいっそ手を放したっていい……そんな綺麗事じゃ誤魔化せないほど、想いはいつの間にか強く、鮮明になっていたのに。
「死にたく、ないって、思ったの」
まるで幼い子供みたいに、感情を曝け出して泣きじゃくる君が、辿々しく言葉を紡いでいく。
「ごめん、なさい。見捨ててくださいって言ったのに。そばに、いたい。これからもずっと、あなたの側にいたいの。戦うのも助かるのも、一緒じゃなきゃ」
「……僕だって!」
嫌、ときっと言おうとした彼女を再び遮って、今度こそ力の限り彼女を抱き潰した。んっ! と腕の中の君が苦しげに呻いたけど構わず、小さな頭をぐっと抑えてその存在を確かめる。
儚くて強い、なんて、愛しい。
「怖かったよ。めちゃくちゃ怖かった。君が、血まみれの君がものすごく冷たくて、このまま死んだらどうしようって。怪我を見落として、手遅れになったらどうしようって。もう、……もう、こんなの嫌だよ。君を失うかもしれないなんて、もう二度と考えたくない。耐えられない」
ぴったり抱きしめた腕の中から、とくり、とくりと微かに胸を打つ音がする。必死にしがみついたその温かさに、ようやく僕は生を実感する。狂った後の夢じゃない。哀れな願望に精神を浸しているわけではないんだと。
あんな凄惨な目にあったのに、君はどこまでも女神のようで。
安らかな微笑みを見るたび心臓が潰れた。今だって、いや、熱砂病で倒れた時だってそうだ。大丈夫と微笑んだまま天に召されてしまうんじゃないか。瞼を閉じたらもう目を覚まさないんじゃないかって、怖くて怖くてたまらなかった。
死の気配が君を脅かすたび、本気で狂いそうだった。
「どこにも行かせない。逃がさない。……離さないから」
あまりに自分勝手な呪詛めいた囁きにも、君はこくんと頷き、また碧い頭を擦りつける。
ふと、女官長が忌々しげに口にした言葉が頭を過ぎった。
僕自身が呪いだ。君にとって、君を捕えて縛める。苦しめるとわかっても手放せない。それでいいと言ってくれるから、君まで僕だけだなんて言ってくれるから、僕は調子に乗ってどんどん我が儘になる。さっきは指輪が選んだって言ったけど、多分半分は合ってる気がするけど、あとの半分は違う。君を手に入れる資格が欲しかっただけで、正直僕は、指輪という条件を都合よく利用したに過ぎない。
どうしたって、こんなにも君ばかり恋しい。
「……炎と水のリングはね。持ち主を選ぶんだって」
息を吐いて、君をどうにかしてしまいたい衝動をやっと落ち着けた。腕をゆるめて、泣き濡れた君を覗き込む。左手を拾い上げて、そっとなぞった。痛がる様子がないことを確かめてから、懐に収めた指輪をおもむろに取り出す。
「炎の指輪が僕を選んで、水の指輪が君を選んだ。多分、僕が指輪を授かった時にもう持ち主は決まっていた。……君しか身につけられなかったんだと思う。初めから」
淡々と告げながら、華奢な指にリングを充てがった。清廉な蒼の石を宿した白銀の輪が、吸い寄せられるように君の指を呑み込み付け根へと滑り込んでいく。
指輪を手にしたあの瞬間、僕は間違いなく君だけを想っていた。特に、水のリングの時。まるで指輪から飛び出した君を抱きしめたような錯覚に襲われた、あの甘く切ない感覚を、今も生々しく思い出せる。
水のリングを護る、滝の洞窟に満ちた君の気配。清涼な、静謐な、今も君自身から感じる清浄の蒼。どういうことなのか、僕にも真実はわからない。そう感じたというだけで根拠なんてない。何もかも不確かだ、けど、あの瞬間はっきりと感じたんだ。この指輪は、君という主に迎えられる日をあの場所でずっとずっと待っていたんだって。僕が炎の指輪に認められたからこそ、あの場で預かったにすぎないんだって。
運命と恋、本当はどちらが先だったのか。
「でも、……君を望んだのは間違いなく、僕自身の意志だよ」
再び彼女の手に戻った指輪を右の掌に包み込み、僕の言葉を噛み締めるように、フローラは黙って泣き腫らした瞳を伏せる。
これは、僕が君のものである証。
そして君が、僕だけの伴侶である証。
傲慢だって、身勝手だと言われたって構わない。これが呪いだというなら僕だってとっくに囚われている。指輪に選ばれたからじゃない。天空の盾の為でもない。あの日、君と視線を交えたあの瞬間から、僕の心は君という呪にすっかり根を張られてしまったのだから。
なんて幸せで、逃れがたい呪いだろうか。
「……本当にもう、二度と御免だ。こんなの」
もう一度、彼女の軽すぎる重みを確かめて繰り返し碧髪を梳いていたら、溜息に紛れて思わず本音が溢れてしまった。ぶっきらぼうな物言いだったからだろう、君が不安げに顔を傾げる。揺れる双眸を真上から覗き込み、たった今思いついた台詞を耳許に落とした。
「こんな恋、一度すれば十分過ぎるよ。心臓がもたない」
我ながら気障ったらしい言い回しに思えたから、冗談めかして言うつもりがどんどん気恥ずかしくなってしまった。心拍数が勝手に上がり、首から上がひどく熱をもつ。フローラは赤い目をぱちぱちと丸くし、次いでふふ、と小さく笑ってくれた。どうにもまだ照れ臭かったけど、やっと見せてくれた朗らかな笑顔はとても愛らしくて、愛しくてたまらなかった。
「さ。本当に、早く帰ろう?」
何も言わず、しかし生ぬるい眼差しで見守ってくれている仲魔達の手前、勢いよく抱き上げて羞恥心を紛らわせた。僕に再び体重を預けた君が、胸板にそっと額を埋めて、大好きです、と囁いてくれる。優しい声がじわりと胸に染みて、彼女が触れたところから言いようのない幸福が拡がっていく。
「そうだ。さっき、ありがとう」
ふと思い出して告げると、フローラは不思議そうに小首を傾げて僕を見た。
「最後のバイキルト。めちゃくちゃ絶妙だった。……さすが、僕の自慢の奥さん」
顔を近づけ、可愛い小さな耳を食んで囁く。目を瞠った彼女が、白いうなじをまたほんのり桜色に染めた。恥ずかしげに俯く君を追って覗き込み、やわらかな唇を素早く奪う。不意打ちに驚いた君はぴくんと震えたけれど、すぐ甘やかな吐息で応えてくれる。
身体ごと抱え込み、もっと深く口づけて。心地よい花の香りと蜜の味を繰り返し確かめた。とろける唇の心地よさに、またくすぐったい充足感が湧き上がって癒される。そうして、久々のフローラをじっくり味わった後、相変わらずにやにやと眺めてくれるみんなを赤面顔で促して、北東の集落へと再び歩き始めた。
乾いた風に、ほろほろと崩れゆくいくつもの砂山が朝日を浴びて輝く。振り返れば砂塵の向こう、まだ少し藍色を残す朝焼けの空の下に、荘厳な城影が浮かび上がった。蜃気楼の如く遥か彼方に鎮座したそれはもちろん、幻などではなく。
共に生きたいと願った人と、初めて越えてきた旅路。
父に託された旅の目的を果たすため船に乗り、この遥か遠い南の大陸を目指した。途中初めての海戦も経験した。衝突して、求め合って、いくつかの出会いと別れをも越えて。それでも、この手だけは離さないと、何度も何度も誓いあった。
互いの存在を、想いを、より強く胸に刻みながら僕達は進む。
────この砂世界の果てに待つ、かつての『勇者』の痕跡に触れる時まで、あとわずか。