Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】   作:サクライロ

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#20-1. テルパドール城(1/2)

 集落に帰り着いた頃にはすっかり夜が明けていた。

 男性が数人、武器を片手に周辺を守ってくれていて、僕達を見つけると慌てふためき人を呼びに行った。僕もフローラも一見すれば血みどろの重傷者だから致し方ない。少し離れたところから見張っていたマーリンもすぐに気づいて、小さく会釈をすると集落の中へと戻っていった。他の仲魔達に僕らの帰還を報せてくれるつもりなのだろう。

「あ、あんた達だけか? あの巫女様はどうなすった⁉︎」

 駆けつけた年配の族長はそれでも真っ先にリーシャの安否を問うたが、これもまた致し方ないことだろう。

「はい、実は女王陛下が直々に御助力くださいまして……賊が魔物を使役していたのですが、無事核に還すことができました。リーシャは陛下がその場でお召しになり、先ほど登城しました。集落の皆様には心労をかけてすまないと、陛下よりこちらをお預かりして参りました」

 やっと眠った妻を抱いて両腕とも塞がっていたため、説明がてら目配せをすると、気の利く相方がすぐに僕の道具袋から一本の扇を取り出してくれた。女王直々の預かり物と聞いて、族長は更に顔色を変える。騎士よろしく恭しく差し出された扇を、震える手で受け取った。

「間違いございません。陛下の砂薔薇扇じゃ」

 親骨を改め、老人が感慨深く僕と扇を見比べる。今更ながら、女王の御物をぞんざいに扱ってしまったことに気づき、焦ってついつまらない言い訳を羅列してしまう。

「粗末な袋に入れてきてしまって、申し訳ありません。せめて懐に収められれば良かったんですけど、血がついてしまうかもと思って」

 ベルトに挟んで落としたら困ると思ったのも事実なのだ。何せずしりと重い扇だから、革袋でも破れるんじゃないかと少し不安で。さっき青褪めた族長は髪の薄い頭に再び血を昇らせ、「そ、そうじゃ、あんた達酷い怪我じゃ……! ご無事なのかね、そちらの方は」と食い気味にまくしたてた。

「大丈夫です、生きてます。……傷は治したのですが、出血が多くて。念のためよくよく身体を休めてから城に上がるよう、陛下からもお言葉を賜りました」

 落ち着かせるべく、他所行きの笑みを繕いゆっくり答えれば、老人もやっと胸を撫で下ろす。その頃には祠のシスターも迎えに出てきて、フローラを見て再びよろめいたものの、気丈に案内をしてくれた。

「ふ、ふろーら、ちゃあっっ」

 しびれんとホイミンは、祠の寝袋の上で僕達を待っていた。しびれんは元々そんなにひどい怪我ではなかったけれど、思いの外元気な様子でほっとした。泣きそうな顔で飛びつこうとする二匹をそっと制して屈み込み、脱力したフローラの顔を傾けて見せる。衣服は破れて血塗れだが苦しげな様子はなく、落ち着いて眠る彼女を見たら彼らもやっと安堵したらしい。二匹揃ってふにゃりと相好を崩した。

「ちゃーんと、とりかえしてきたよーぅ!」

 プックルの背から僕の肩へ、ぴょこんと跳ね上がったスラりんも小声ながら得意げに笑う。

「フローラもしびれんのこと、とても心配していたよ。目を覚ましたらお帰りって言ってあげて」

 ぷにぷに肌を撫でて囁いたら、感極まった様子でこくこくこくと頷いた。思わずこちらまで頰を綻ばせつつ、まずはゆっくり休むようシスターに勧めてもらって地下の寝室へと降りる。女性二人が休んでいた小部屋のベッドにフローラを横たえたら自分も急激に眠気が襲ってきて、狭い寝台の上、彼女を包み込むようにして寄り添った。フローラのほのかな花の香りを嗅ぐのも、なんだかすごく久々な気がする。心地良さのあまり、そのまま彼女を抱き枕にして、陽が傾く時間までぐっすり熟睡してしまった。

 眠っている間に城から遣いの方が来て、滋養の薬を差し入れてくださったり、例の魔物が作った溝の後始末に奔走してくださったりしたらしい。住民宛てに、改めて陛下からの親書も渡されたらしく、戻って尚半信半疑だった集落の人々は、僕達が次に目を覚ましたときにはうってかわって、親身に世話を焼いてくれた。

 僕は夕刻の少し前に起きたけれど、フローラはその後もうとうとと眠り続けて。ちゃんと目を覚ましたのは、陽が沈んでだいぶ経った頃だった。また水も飲めず病気になったら、と心配だったから、瞼が開いて視線が交わった時には心底ほっとしてしまった。

「もう大丈夫。集落の祠だよ」

 抱き起こし、傍らに置いた水を支えて飲ませる。茶器に指を添えた彼女がふと、自分の手を見つめた。眠っているうちに少し身体を拭かせてもらったから、そこにあるのはいつもと変わらない滑らかな白い腕だ。

「うん。跡は、残ってないかな」

 初めてにしては上出来だ。舞い上がる気持ちを抑えて、指輪を通した左手を上から包んだら、彼女は満ち足りたやわらかな表情でそれを眺めた。

 もう歩けるというので、宿屋に連れて行き湯浴み場をお借りして、数日ぶりに身を清めてから、スープをいただき夕食にした。食堂の一角で人心地ついたところで、フローラが記憶を頼りにおずおずと切り出した。

「一日経ってしまっていますから、もういらっしゃらないとは思うのですが……」

 そう言って、フローラは自身が拉致されるきっかけとなった深夜の密会のことを話してくれたのだった。すぐに宿の主人に確認したが案の定、賊の取引相手と思しき商人は、騒ぎが落ち着いた昼前には逃げるように集落を出ていってしまっていた。妻の話では賊の一味ということもなさそうだし、さすがに今から自分達で追うわけにもいかなくて、念のため族長にその旨を伝えるに留めた。手掛かりには違いないので、何とかして城の方にも伝達してもらえればと思う。

「もう、何があっても一人で夜、外に出たりしないでね。僕はちゃんと帰ってくるから。置いて行ったりしないから」

 情けないけど、今更不安がこみ上げてきて。祠に帰宅後、寝台に身を起こしたフローラを固く抱いて繰り返し訴えた。フローラも涙ぐみ、何度も頷いては僕の背に腕を回し、抱きしめ返してくれた。

 そうしてその夜もまた、フローラを腕の中に閉じ込めて一緒に眠って。

 翌朝、いつも通り早い時間に目覚めたフローラと相談して、いよいよ王城へ向かうことに決めた。もっとゆっくり休ませるべきか悩んだけど、やっぱり少しでも早く医者に診せたくて。残念ながらこの集落には、あまり傷病の経過に詳しい人がいなかった。王都に近いこともあり、大きな怪我や病気はやはりそちらを頼るのが無難なようだ。

 リーシャの手荷物含めて持ち物を改めて確認し、天空の剣と盾が揃っていることも確かめて、ほっと息をついた。

 会ったこともない、しかも人の神とも崇められる『勇者様』に対して、こんな不敬で捩じくれた感情を持つ人間なんて僕ぐらいのものだろう。それでいて今、この世の誰より勇者の力を必要としているのもまた僕なのかもしれない。そんなことをふと思い、つい失笑してしまう。

 こんな歪んだ自分、妻には絶対に見せられないな。

 物言わず馬車の片隅に鎮座する一対の剣と盾を眺めていると、腹の底で何かが燻る。これは嫉妬か、羨望か。

 早く探しに来い。お前が持つべきものは今、僕達がここに預かっているのだから。

 世話になった祠のシスターと、族長までもがわざわざ見送りに出てくれた。幌の中に寝袋を重ねてフローラを休ませる場所を作り、張り切る仲魔達が周りを囲む。しびれんなどはもう、フローラにぴったりくっついて離れそうにない。申し訳なさそうに身体を横たえる妻の傍らに陣取り「では奥方様、久々に集中講義と参りましょうか」と相変わらず無表情なマーリンが呼びかけた。僕達がやり合った魔物の話を聞きたくてずっとうずうずしていたようで、隙あらばとタイミングを窺っていたから、ああ見えてもの凄く気分が高揚しているんだろう。狭い幌から追い出され、馭者台の隣に腰掛けたガンドフと顔を見合わせてくつくつ笑った。

 あの賊の魔物の所為か、王城の結界とやらの影響かはわからないが、やはり道中、魔物に遭うことはほとんどなかった。

 落ち着いて馬車を走らせること半日、傾きかけた太陽が砂丘を朱く染め上げ始めた頃、僕達はようやくテルパドール王城の城下町へと辿り着いた。

 

 

 

 

 

 昼の店は閉まり始める頃合いだから、謁見は明日になるだろうなと漠然と考えていたのだが、そこかしこに配置された衛兵達には僕らのことが既に伝わっていたらしい。馭者台から降りて早々、声をかけていただいた。

 あの大蜻蛉討伐への労いに始まり、曰く、女王はいつ何時でもお会いくださる用意ができていらっしゃるということ。滞在先として是非、城の貴賓室を利用してもらいたいということ。また、必要なものがあればなんなりと伝えてほしいということ。

 妻の体調を考慮した上で決めてもらって構わないとのことだったが、砂が吹き荒れる道程を越えてきたばかりで服も髪も埃だらけ。さすがにこの状態では陛下の御前に上がれない。貴賓室なるものを使わせていただくほどのことをしたとも思っていないし、しかし扇だけは一刻も早くお返しした方が良いように思われたので、とにかく一度、城下の宿に落ち着いてから登城する約束をした。

 仲魔達も問題なく城下に入ることができてほっとする。やはり本来制約があるものらしいが、軽い検問の際、僕と仲魔達それぞれに何らかの魔法を施された。今のは? と訊けば、僕に従属する魔物を悪意なきものと見做すための処置らしい。大昔にはもっと魔物と共存していた時代もあったが、今は人間に敵意を持つ魔物が増え過ぎてしまったため、やむなく城に結界を張っているのだとも。

「皆々様のご活躍は陛下よりお聞きしております。魔物遣いでいらっしゃる旨、グラン殿がお連れの魔物殿は種属を問わず丁重にお通しせよとの通達も戴いております」

 丁重すぎて、却ってこちらが恐縮してしまう。宿も場所さえわかれば自分で手続きするつもりが、わざわざ衛兵が付いてきて宿の方に口添えまでしてくださる始末。しかも宿の入口で待っていてくださるというので、否、僕らを女王の御前まで案内してくださる心算なのかもしれないが、支度の間お待たせするのはあまりにも心苦しい。取り急ぎ一刻後、こちらから城門前に出向くことを伝えて、衛兵にはリーシャの荷物を預かってもらい、一度戻っていただくことにした。

 拓けたテントの納屋に馬車を入れさせてもらって、仲魔達にはここで待つよう伝える。

 その上で、大急ぎで荷を部屋に運んだ。いつもと同じ相部屋ではあるが、今回は大きな衝立に隠れた特に広い一角、一際大きい上等なベッドを充てがわれており、またまた恐縮してしまう。それから各々急いで身支度をし、綺麗に化粧を整え直した妻の手を取って表に出た。

 

 

 

 予想していた通り……いや、巨大な石造りの城構えを遠くから眺めながら、色々と想像はしていたのだけど。

「お城の中、とっても綺麗にしてありますのね。砂もほとんど落ちていませんわ……」

 分厚い扉を三枚潜り、取り次ぎのため場を離れた衛兵を見送って、フローラと僕は城内を見渡してはしみじみと感嘆していた。

 外は相変わらず砂塵が舞って目も開けづらい程だというのに、城の中はラインハット城にも引けをとらない荘厳さと清潔感に溢れていた。フローラの言う通り、赤い絨毯がひかれた広い廊下は隅々まで綺麗に掃かれていて、砂が溜まったところもない。

 左手奥にあるのは鍛錬場だろうか。こんな時間にも、威勢の良い男達の掛け声と剣撃の音が響いている。出入りする兵士達がちらちらとこちらに視線を遣っているのがわかる。

 拓けた通路のちょうど中央、僕らの目の前には大層立派な階段が伸びていて、上下をこれまた屈強な兵士達が守っていた。さっきの衛兵もそちらへ上がって行ったから、恐らく上に玉座の間があるのだろう。

 事前に面識を得ているとはいえ、改まっての謁見はやはり緊張する。

 握り締めた手にじわじわと汗が滲み出すのを、フローラの優しい手がそっと包んで励ましてくれた。遠慮がちに掌を開くと、湿り気も厭わず指を絡めて応えてくれる。

「大変お待たせ致しました。陛下の処へご案内申し上げます」

 衛兵に代わり女官が三人、階段を降りてきてたおやかに腰を折った。引き返して上がるのかと思ったら、彼女達はするりと僕らの傍らを通り抜け、階段奥の通路へと促す。

「我らが主はただ今、地下の緑園にて過ごされております。グラン様ご夫妻にも是非、お運びいただくようにとの仰せです」

 地下の庭園というなら、マイヤ様の薬草園に似た感じだろうか。そんなことを漠然と思いつつ、女官の一人に鞘を預けて地下へと続く階段を降りた。

 そこで僕はまたしても、衝撃的なまでに期待を裏切られることとなったのだった。

「……まぁ、なんて素晴らしいお庭なのでしょう!」

 僕に続いて降りてきたフローラも、感激のあまり息を呑む。

 天上と呼ばれる世界が本当にあるなら、こんな場所なのではないだろうか。

 白い御影石で組まれた階段は澄んだ水の上に浮かび、飛石の通路には銀の小波が静かに寄せて煌めいていた。その白い道の先に、夢のような緑園がどこまでも続く。美しく手入れされた芝生は露に光り、その至る所に赤、黄、白といった色とりどりの花が咲いている。花々の邪魔にならない絶妙なところに石畳が敷き詰められていて、ここを散策したら、まさに天上に昇ったと錯覚してしまいそうだ。

 花だけではない、砂漠ではまず見かけなかった樹々も数多く植えられている。冬の入りだというのにひらひらと蝶も舞って、なんなら鳥のさえずりまで心地よく響く。地下だというのに不思議な明るさに満ちた空間は、マイヤ様の診療所で見た地下の天井よりさらにあたたかく、常春の如く朗らかな気配がした。

 こんな美しい光景は、緑豊かなルラフェンやサラボナ地方でも見たことがない。

「あの、こちらの像は、精霊ルビス……像、でしょうか」

 静かな水をたたえるオアシスの、その水面から立ち上がった巨大な女神像を見上げてフローラが問う。

「左様でございます。と申しましてもこちらは大変古いもので、我々の始祖たる伝説の姉妹を模したとの説もございます。正しい題材は残念ながら伝わっておりません」

 妻の疑問を拾い上げた女官の一人が丁寧に説明してくれた。黄金のティアラを冠し、ゆったりと両手を広げ立つ白亜の女神像は目映いほどに神々しく、その慈悲深い表情に、僕は不思議と妻の面影を見る。

 かつて敬虔な修道女であったフローラは自然と胸の前で手を組み、碧髪をさらりと揺らして、厳かに首を垂れた。

「信心深くていらっしゃるのですね」

 聴き覚えのある落ち着いた声が響く。女神像に語りかけられたのかと一瞬錯覚しそうになったが、すぐに身を翻し、声の主を仰いでその場に膝をついた。

「妻は修道院に長く居たことがありまして。……到着が遅れましたことを心よりお詫び申し上げます。アイシス女王陛下」

 フローラもまた、僕に続いて音もなく叩頭する。両脇で礼を取った女官達へ目配せをし、剣を預かった一人を残して静かに下がらせながら、女王は温かな親愛と、信頼を込めて僕らを呼んだ。

「お着きになって早々、お呼び立てしたのはこちらです。どうぞお顔をおあげくださいませ」

 今度こそ、お言葉に甘えて顔をあげれば、目の醒めるような濃い美貌の女性が艶かしく笑んでこちらを見下ろす。

「ようこそ、砂の国テルパドールへ。テュール・グラン殿、そしてフローラ・グラン殿」

 

 

◆◆◆

 

 

「改めまして先日のこと、心より御礼申し上げます。あなた方のお陰で、民に無用の混乱を招くことなく済みました」

 庭園の一角に設えられた東屋に女王自らご案内くださり、ますます緊張しながら勧められた椅子に座った。赤銅色の扇を受け取った女王が目を細め、向かいに並んだ僕ら夫婦へ自ら謝意を示してくださる。

「いえ、そんな……どうか本当に気になさらないでください。僕達の方こそ助かりました。数々の魔法でご助力いただいて」

 狼狽しつつ謝辞を返すと、女王はすぐ艶やかに微笑んだ。

「残念ながら、あまり効いていなかったようでしたが。急所を的確に貫かれた御手前、まことにお見事でした」と耳にくすぐったい褒め言葉を頂戴し、益々恐縮してしまった。さらには「ご滞在中、我が兵らをご指導いただくことは叶いませんか?」などと冗談めかして仰るものだから、僕はもう緊張のあまり呂律も回らず「いえ、とんでもございません。まだまだ未熟者ですから、今後一層精進致す所存で」としどろもどろ返事するので精一杯だった。

 すっかりがちがちになってしまった僕を、傍らのフローラが心配そうに覗く。そんな僕らを女王は何故か微笑ましげに見つめ、テーブルの上の茶器を指して勧めてくれた。

「この庭園で採れる香草を芳茶に致しました。お口に合うと良いのですが」

 妻と一度視線を交わし合い、有り難く頭を下げてからお茶をいただいた。気持ちぬるめに淹れられたその芳茶の中には紅い花びらが二枚、ひらひらと漂っている。湯気は意外にも甘酸っぱいような、心地良い香りがした。

 こくりと一口飲み込めば、ちょうどいい熱さの液体がまろやかに喉もとを下っていく。

「初めていただきましたが、大変美味しゅうございますね。この香り、心がとても和らぎますわ」

 同じく芳茶を味わったフローラが頰を綻ばせ呟いて、女王もまた満足気に微笑んだ。

「褒賞、などと申し上げるのは大変おこがましいのですが、テルパドールをお救いくださったあなた方に何か御礼をと考えております。必要なものや、お探しのものなどはございませんか」

 そう言われても、本当に何も受け取るつもりはないんだけど……困惑してちらりとフローラを窺い見たところで、思いついたものがあった。せっかくならこの機にと、到着を急いだ理由のひとつを、躊躇いつつも口にした。

「本当に大したことはしていませんし、いただきたいもの、というのも特にないのですが……あの、もしよろしければお医者様をご紹介いただけないでしょうか? 妻の傷を、念のため診ていただきたくて」

 自分で探そうと思っていたけど今日はもう遅いし、腕のいい方に早く診てもらえるならそれに越したことはない。フローラは狼狽えたようだったが、女王は表情を変えることなく穏やかに頷くと「すぐに侍医をお呼びいたします」と背後を振り返り、離れて立つ女官を呼んだ。

「これでは御礼になりませんね。配慮が行き届かず大変失礼いたしました。……お二人とも、本当に無欲でいらっしゃる」

 恐縮のあまり、フローラと二人ぶんぶんぶんと首を振る。女王はそんな僕達にまた目を細めてから、芳茶の茶器を揺らし上品に口をつけた。

「────失礼ながら、お二人は勇者様を求めて我が国をお訪ねになったとか」

 長い睫毛を伏せた女王が、おもむろに問いかける。

 唐突に核心を突かれ、殊の外動揺した。ああそうか、リーシャが話してくれたのかもしれない。そんなことを思いながら、必死に思考を巡らせて訊きたかったことをまとめる。

 女王の扇も、フローラの体調も大事だったけれど、僕がここに来た一番の理由は。

「そ、そうです。伝説の勇者にまつわる国だと聞いて……あの、僕がどうしても、勇者の力を借りなくてはならなくて」

 女王は落ち着き払った様子で僕の拙い言葉を聞いていた。神秘的な眼差しが話の続きを促す。一度息をつき、心を落ち着かせてから……本題を、切り出した。

「この国には、かつての勇者の墓が祀られていると聞きました。伝説の七人のうちの二人、モンバーバラの姉妹が創られた国だとも。……父が、ずっと勇者を探していました。僕が幼い頃命を落としたのですが、代わりに必ず勇者を見つけるよう、最期に託されました。ですが、勇者が現れたという話はどこに行っても、露ほども聞けなくて。もし何か、勇者への手がかりをご存知ならば是非、お聞かせいただきたいのです」

 些細なことでも構わない。何かヒントを得られるなら。

 膝の上で両の拳を握りしめ、女王の返答を待った。彼女は真剣な面持ちのまま、扇で口許を隠し何事か考えているようだった。漆黒の虹彩が正面から僕らを捉えて、内側まで見透かされる心地がする。

 長く、長く思案して、彼女は一度美しい睫毛を伏せた。

「少しですが、私は、人の心を読むことができます。……いえ、魂を感じる、と申しましょうか」

 人の心を、読む?

 驚きや畏れを覚えるより、よく意味がわからなかった。目を瞬かせた僕とフローラを穏やかに見遣り、女王は音もなく椅子を引いて立ち上がる。

「先日、初めてお会いした時から、あなた方から強く感じているものがありました。それが何なのか、私も確かめたく思います。……どうぞ、私についていらしてください」

 細い、しなやかな腕を蝶の如くひらりと舞わせて、女王は艶かしい眼差しで僕らを誘う。

「御廟へご案内します。内殿に祀るものを、どうぞあなた方ご自身の目でお確かめください」

 

 

 

 

 

 階段を上がり、緋色の絨毯と重い扉を抜けて屋外へ出る。

 外はすっかり暗く、相変わらずの強風が外套をはためかせていったが、目を庇うほどの砂塵ではなかった。

「普段はこちらで礼拝していただいております。どなたにも参じていただけますが、内殿へお通しすることは基本的にございません」

 石造りの渡り廊下を曲がったつきあたりに、祠に似た小さな建物があった。正面に立派な祭壇が設けられ、その両脇をプックルに似た勇ましい獅子の像が物言わず護っている。

 竜神の印が刻まれた緋色の幕の前には聖杯が並び、また花や宝石、菓子といった様々な供物が捧げられていた。

 きっと街の人々が墓を詣でて、供えていくのだろう。

 祭壇の脇に小さな扉があり、そちらへ案内してもらう。女官は扉の外で立ち止まり、中には女王と僕ら夫婦だけが通された。

 人の気配が全くない扉の内側はひやりと寒く、足を踏み入れただけで凍りそうな心地がする。

 重く、静謐な雰囲気だったが、なぜか僕はこの空気を良く知っている気がした。

「王家を名乗ってはおりますが、我々はかつての英雄達の伝説と御意志を永く弔ってきた、いわば墓守の一族」

 カツン、と硬いヒールの音が御影石の床と壁に反響し飲み込まれてゆく。スリットの入った長いドレスの裾を揺らめかせ、女王はゆっくりと歩みながら静かに告げた。

「只人には扱えぬ強大な御力です。竜帝が授けたと言われる『天空の武具』は、古の昔には武に秀でた賢人達が用いていたものだと申します。永きに渡り強大な異形を封じてきたそれら武具のうち、天帝たる竜神が剣、盾、鎧、そして兜をそれぞれお選びになり、血を分けた愛し子のため更なる加護を与え鍛え直された────そう、伝えられております」

 天空の、武具。

 何故そのことをいきなり話されたのか、唐突な話題ではあったが不思議とさほど驚きはなかった。

 事前にフローラが教えてくれた為でもある。ユノ女官長が示唆したという、勇者の兜がここに祀られているということ。

 この重苦しい空気をよく知っている気がするのも、きっと僕らが剣と盾を預かっているから。

「この仕組みも見直さなくてはなりませんね。乱心する者が長でないとは限らない」

 部屋の中央、下り階段の前で女王が立ち止まり、ぽつりと呟きを零した。

 そうして彼女は真っ直ぐに手をかざす。足下から淡い紫の光が迸り室内を満たして、女王はその幻想的な光の中にするりと足を踏み入れた。

「我々は墓守。そして、女王とは言葉通りの『鍵』です」

 手招きされ、女王の後に続いて恐る恐る階段を下りた。長い階段は踊り場を経てさらなる階段へ、そして都度、女王は足を止め階段に向かって手をかざしていく。

 幾重にも結界が張られている、ということなんだろう。それを解除できるのは女王だけ、否、女王が『鍵穴』に在る時のみ通過できるということなのか。肩越しに女王がちらりと笑み「ご推察の通りです」と囁いた。本当に思考を読まれているのか、と密かに驚愕する。

 長い長い回廊を下りきり、先ほどの庭園に似た場所に出た。

 風もないのに周辺には手入れされた草花が揺れ、その上に階段から伸びる緋色の絨毯が歪みなく敷かれている。小さな庭園を囲んで澄んだ水路がたゆたう。同じような緑、同じような明るさなのに、さっきの場所よりずっと狭く整然として、どこか作りものめいて感じた。異界をも思わせる、清浄で、異質な。

 物音一つしないこの空間に、アイシス女王の通る声だけが厳かに響く。

「勇者様を祀る御廟ではありますが……実のところ、ここは勇者様の御墓ではございません。魔王を討ち果たし、世界をお救いになった後。勇者様がどこへ赴き、どのように生涯を終えられたのか……どこにも、何一つ伝わってはいないのです」

 ゆっくり、祭壇前の階段に足をかけた彼女が両脇の燭台へと手を伸ばした。元々明るい空間だが、燭台は女王に応えて音もなく火を灯し、壇上に安置されたものを静かに静かに照らし出す。

 フローラの持つ盾によく似た、白銀と翠の竜翼を左右に宿す。千年以上の時を経ても尚くすまぬ黄金の細工に、竜眼の如く大きな碧のオーブをひとつ、その額に埋め込んである。

 ────天空の兜。勇者が遺した。

「ですが、我らが始祖……マーニャ様とミネア様は勇者様の証のひとつ、兜を勇者様より託されました。他の『伝説の七人』もまた、それぞれが勇者様の天空の武具を預かられ、地上へとお戻りになりました。勇者様の行方は誰も知らぬまま。故に我々は、次代の勇者様が天空の武具を求められるその日まで、この御廟にて天空の兜をお預かりしているのです」

 淡々と告げる女王は、兜を捧げた台座を通り過ぎその奥の石碑の前に立つ。僕らの船に掲げたものと同じ、この御廟の入口に置かれたものと同じ、竜神の印を刻んだ滑らかな石の表面に、丹念に彫り込まれた文字がある。

 ────闇が世界を覆う時、再び勇者来たらん。

 天空信仰の決まり文句だ。今までに何度も聞かされたし、目にしてきた。それでも、勇者が現れたのはもう千年以上昔の話じゃないか。それから今まで闇は一度も世界を覆わなかったのか。人の国がいくつも滅ぼされ、生存を脅かされる世界は闇に覆われているとは呼べないっていうのか。

 そんな行き場のない憤りを覚えてしまったからだろう。目の前に天空の兜があるというのに、僕は感慨も何もなくただ立ち尽くしていた。睨んでしまっていたかもしれない。……女王はそんな僕を振り返り、ほんの少しだけ、深い漆黒の虹彩を揺らめかせた。

 見透かされただろうか。僕の本音、勇者にすべての負の感情をぶつけてしまいたい、いっそ憎悪にも似た衝動を。

 だが彼女はそのことについては何も触れず、石碑の前に祀られた伝説の兜を示し、端的に告げた。

「被ってみて、いただけますか」

 でも、

 ────僕には無理なんです。

 必死に目で訴えたが、女王は拒絶を許さぬ鋭い眼差しで再度僕を促した。どうあっても辞退出来ない圧を感じ取り、諦め混じりの溜息を一つ吐いて、のろのろと祭壇に近づく。

 兜と呼ぶには繊細な意匠のサークレット、その中央にあしらわれた碧の宝玉が冷たく僕を見定める。

 自分の頭にそれがしっくり嵌るところなんて、どうしても想像がつかない。

 ターバンを脱ぐとすぐにフローラが受け取ってくれる。彼女の温もりに励まされ、思いきって兜の縁を握った。ちらりと顔を上げると、女王が真剣な面差しで唇を引き結び、僕と兜をただ真っ直ぐに見つめている。

 ────もう、なるようになれだ!

 絶対に弾かれる。首が折れないことを祈りつつ勢いに任せて頭に載せた、瞬間、ズン‼︎ と頭全体に支えきれない衝撃が走った。退けたくても重すぎてびくともしない、持ち上がらない。

「ぁ、ぐ……ッ‼︎」

 みし、と首の後ろが軋んで、たまらず呻くと同時にフローラの両手が兜を支えた。あの重圧が嘘のように彼女は軽々と兜を退かし「テュールさん……! 大丈夫、ですか」と心配そうに僕を覗き込む。なんとか息をつき彼女を見上げたら、この一瞬に噴き出た脂汗がこめかみから首筋を伝い落ちていった。

「……ありがと。頸がやられるかと思った」

 華奢な肩にもたれかかりなんとか答えると、やわらかく安堵した気配が返る。

 一連の事象を見守った女王は今も真剣な表情を崩していない。失望も落胆も見せず、彼女は視線をほんのわずか横にずらして今度は妻を鋭く見据えた。

「奥方様も、是非」

 僕も、フローラも、女王の静かな一言にたじろいだ。

 あんな重さにもなるこれを、フローラにも被らせるっていうのか。

 強烈な躊躇いの片隅に、淡い淡い疑念があることを否定できなかった。結婚して凡そ半年、僕はまだ、フローラが天空の武具を持ったところを見ていない。盾の持ち手を、剣の柄を、彼女が僕の目の前で持って見せたことは一度もない。

 彼女自身が『勇者』である可能性を、否定しきれない。

 身につけられるか否か、本人が一番よくわかっているはずだ。拒否したっていい。けれどフローラはきゅっと唇を噛み締めると、僕にターバンを返し祭壇に向き直った。一度壇上に戻した兜を震える細腕に持ち直し、そっと掲げる。首を傾け、小さな碧い頭にその金の冠を恐る恐る、載せて────

「……ッ、う……‼︎」

 一瞬で肩が落ちた。がくん、と膝から崩折れたフローラを咄嗟に抱きとめる。必死に頭を支えようとするも前を向くこともできず、フローラは兜の重みに引き摺られ前のめりに倒れ伏す。よろめいたはずみに兜が投げ出され、かつん、と硬い音を立てて地面に転がり落ちた。片手で難なくそれを拾い上げ、女王は今度こそ深い失意を表情に滲ませる。

「……あなた方なら、と思ったのですが。申し訳ありません。私の思い違いだったようです」

 圧し殺した声が、この閉じた空間に残酷に響いてゆく。

 いつか父の手紙を読んだ時にも苛まれた、あの無力感にまた、心臓を握り潰されそうになる。

 持ちたかったよ。父さんだってきっとそうだった。僕だって、この手で父の悲願を果たす資格を得たかった。

 叶うなら、自分の力で母さんを救いたいんだ。勇者だろうが何だろうが、軽率に頼ってまるごと任せるつもりなんかないんだ。

 なのに、それなのに、何もしないうちから現実を突きつけられて。それを可能とする勇者はどこにもいなくて、こんな世界、見捨てたとでも言うように全く姿を表さなくて。

 どうしようもない憤りを誤魔化そうと視線を泳がせたその時、たった今跪いた妻が、両手をついたその地面をじっと見つめていることに気がついた。

 泣いているのかと、思った。赤らんだ瞳はわずかに潤んでいたが、涙を滴らせることはなかった。眼を見開き唇を噛みしめて、彼女は瞬き一つせず、何もないその地面の一点を食い入るようにただ、見つめていた。

 ────考えもしなかった。僕と同じくらい、もしかしたらそれ以上に、フローラは天空の盾を扱えない自分をこれまでずっと責め続けてきたんじゃないのか。

 あの盾が彼女のものだというなら、尚更。

 僕の視線に気づいたフローラがはっと顔を上げ、ばつが悪そうに顔を背けた。それからふと、兜を取り落としたことを思い出したのだろう。黙って見守っていた女王を見上げ、震える声で詫びた。

「申し訳、ございません……陛下。大事な兜を……」

「いいえ」ゆるく首を振り、女王は優しく口許を緩ませる。

「曲がりなりにも天空の兜。落としたくらいで歪むことはありません。ご安心ください」

 それもそうか。雑に扱われて安心したというわけではないが、少しくらい問題ないと女王が言ってくださったことで幾分気が楽になった。フローラはやはり気落ちしているようだったが「ああ言ってくださったし、きっと大丈夫だよ。立てる?」と手を差し出したら遠慮がちに応じてくれた。軽い体重を引き上げて立ち上がると、女王は一つ頷いてすぐに踵を返す。

 そのまま黙って祭壇を後にした。来た時と同じ長い回廊を、静かな足音を伴ってゆっくりと昇っていく。

「天空の武具を、お持ちなのですね」

 途中の踊り場を過ぎる時、女王がすれ違いざま静かに問うた。

「……はい。妻が、盾を。剣は、亡くなった父が見つけて、僕に遺してくれていて」

 行きより階段の下がよく見える。高所恐怖症ですっかり及び腰のフローラを支えながら答えた。どこまで読まれていたものか、さすがに複数は想定外だったらしく、女王が微かに目を瞠る。

「驚きました。まさか、二つもお持ちだったとは」

 どうしよう。もし今、この祭壇で預かると言い出されたら。

 思わず警戒してしまったが、女王がそれを提案することはなかった。その方が安全だと自分でも思う、そして我ながら理解し難いとも思うけれど、あの剣と盾をどうしても手元から離したくない。そんなことを、思ってしまって。

 愚かだと思う。あれは決して、僕のものにはならないのに。

 それきり天空の武具の話は途切れ、彼女は押し黙ったまま僕らを地上へと導き、先ほどの庭園まで先導していった。

 庭園に戻ると、さっきの東屋に医師らしき女性が女官と共に待ち構えていた。芝生の端に敷物まで敷かれており、フローラはすぐにそちらへ呼ばれ、診察していただくことになった。

「問題ございません。きれいに治っていらっしゃるとお見受けします。ただしばらくは傷が開きやすい状態ですから、激しい動きは出来るだけ慎んでくださいませ」

 具体的には走ったり跳ねたり、大きく腰を捻るような動きは控えた方が良いとのことだった。ちょうど貫かれたあたりの近くに、子を為すのに必要な器官があるのだという。幸い傷痕が触れてはいないが、治したところが引き攣れてそちらに影響を及ぼしては良くない。一週間も経てば心配要らない程度に戻るだろう、と言っていただき、心からほっとした。

 それにしてもあの時、ほんの少し大顎がずれていたら、フローラは一生子を望めない身体になったかもしれないのか。

 不幸中の幸いだが、つくづくぞっとする話だ。大事に至らなくて本当に、良かった。

 昨日の朝には鬱血の痕がうっすら見えていた左手の薬指も、特に異常なく、きれいに修復されているとのことだった。

 初めてベホマが成功したんです、と言ったら女医が目を円くしていた。これは自分でも頑張ったと思うんだけど、最上位魔法なだけあって、旅人の身でベホマを使う人はそういない。普通は神の道を修め、長く修行を積んでやっと覚えるものだから。

 何はともあれ、これでようやく本当に安心できる。フローラと二人、医師に何度も礼を言い、どちらからともなく安堵の微笑みを交わした。

「明晩は城にてささやかながら感謝の宴を設けます故、是非おいでくださいませ。魔物の皆様もご一緒に。ご滞在中、お力になれることがございましたらなんなりとお申し付けください。……ああ、そうでした」

 診察を終えてそろそろお暇しようかという頃、女王からそんなお誘いをいただいた。またも恐縮しつつ承諾したところで、はたと女王が目を瞬かせる。

「確か、転移魔法をお使いになられるのでしたね? この城のみの効力になりますが、グラン殿には今後自由にお渡りいただけるよう、印をお授けいたしましょう」

 それは願ってもないお申し出だ。有り難く頭を下げた僕に女王は手を出すよう促し、差し出した武骨な掌を両手で包み呪言を唱えた。ふっ、と指先から身体の芯を風精霊の気配が突き抜けていく感じがして、すぐに冷たい手が放される。

「念のため、ご出立の前に城壁の外から転移をお試しくださいませ。我々の都合で再び制限をかけることがあるやもしれませんが、その点ご了承いただけますと幸いです」

「もちろんです。とても大切なものを祀られているのですから。……ご厚情に心より感謝いたします、アイシス女王陛下」

 跪き、深々と叩頭して謝辞を告げた。決して常識的とは言えない時間に伺ったにもかかわらず良くしてくださり、僕らを信用して御廟の内殿までも案内してくださった。その上転移魔法のお許しまで。どれだけ感謝してもし足りない。

 庭園の階段までお見送りいただき、改めて今日の御礼と、明日の約束を交わした。

「そうだ。お城に書庫があると伺ったのですが、後日、本を見せていただくことは叶いますか? 勇者についての伝承など、調べられたらと思っていまして」

 別れ際にふと思い出し、書庫について尋ねてみた。マイヤ様は自分の名を出してもいいと言ってくださったけど、御伽噺めいた太古の神話を知りたいわけではないから、その必要はなさそうだ。

 ああ、でもここは伝説を継ぐ国。マイヤ様が言われた異界──かつての魔界の話もどこかに記されているだろうか。

「もちろん、ご自由にご覧いただいて構いません。正門の右手に図書館を設けております。そちらは民が自由に出入りできる場所ですので、どうぞお気兼ねなく」

 快くお許しをいただきほっとする。フローラと二人、深々と頭を垂れてその場を辞した。

 城を出るとさすがにとっぷりと暮れている。いつもは新しい土地に着くと情報収集のため酒場に立ち寄るのだが、今夜はもうそんな気力もなかった。夕方からの短時間のうちに色々ありすぎて、緊張で精神力を使い果たしてしまった。

 宿へ向かう道の途中、屋台で軽食を買い込み、納屋で待っているみんなへの差し入れにした。僕らも手早く夕食を済ませて急いで湯を使い、既に就寝している人もいる中こそこそと奥のベッドへ向かう。

 ……疲れたな。でも、まだ女王にお会いしただけだ。明日からしっかり城と街の中を歩いて、人々の話を聞いてみなくては。

 フローラもすっかり眠そうにしていて、とろんとした目つきで髪を梳いている。今日のことを少し話したい気もしたけれど、他人と相部屋でお喋りというのも憚られる。細い腰を抱き寄せ、心地よい体温を感じながら横になった。「おやすみ、なさい。テュールさん」と、ほんのり微笑んでくれる君がやっぱりとても愛おしい。

「おやすみ。……フローラ」

 枕元の灯りを消して、星空のようにぼんやり光る天井の下、口づけた妻の額は果実みたいな甘い香りがした。

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