Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】 作:サクライロ
「……魔法、封じられてたなんて……気づかなかった」
階段手前で待つアイシス様達の元へ辿り着く直前、テュールさんがぽつりと、力なく呟いた。
思わず振り返り、俯いた彼を見上げて優しく微笑みかける。
「魔力を吸い取られたのも本当ですから。いつ魔封じが解けたのかは、私にもわかりません」
一般に状態異常と呼ばれる、正常な行動を妨げる魔法や奇術は時間の経過と共に効力を失ってゆく。混乱だって幻惑だって、時間が経てば自然に解ける。どれくらい持続するかは術者の力量と被施術者の精神力の強さに因る。ユノ様ほどのお力の持ち主に封じられたなら、小一時間は効果が続いてもおかしくはなかったと思う。
────もしかしたら、元々緩くかけてくださっていたのかもしれない。効果が長引かず、解呪されやすいように。……御本人はきっと、否定なさるのでしょうけれど。
それでもあそこで魔物に血を吸われなければ、後の戦いでももう少し役に立てたのでは、と思えてならない。やはりほとんど魔力は残っていなくて、身体の底から絞り出して最後の最後、一度きり魔法を行使するので精一杯だった。
「お疲れ様でございました。お身体に響いてはいませんか」
見張りの衛兵の隣に佇んだアイシス女王が穏やかにねぎらってくださり、恐縮して首を垂れた。それから来た時と同じように再び、アイシス様に続いて残りの階段を上った。
「何も、お話できませんでした。お力になれず、本当に申し訳ありません……」
何かできると驕ったつもりはなかったけど、あまりにも何の役にも立てなかった。無力すぎて情けなさすぎて、俯いてしまった私にアイシス様は優しくお声をかけてくださる。
「いいえ。感謝しております。貴女のお陰で、少しだけ……ユノの胸中が、視えました」
そのお言葉に瞠目し顔をあげれば、先ほどの憂いを帯びた表情とは違う、達観しきった穏やかなお顔が私を見つめていた。
本当に何も聞けなかった。きっとユノ様の気に障っただけだった。けれど、恐らく心を読まれるアイシス様の前では、ユノ様はもっと心を閉ざしていらしたのだろう。
私にはわからない、何も出来なかった気しかしないけれど、ユノ様のお心を測るお手伝いが少しでも出来たのなら良かったと、心の底から思う。
あの方は死を望んでいらした。今もきっとそれは変わらない。無関係の私が何か言うのも、願うこともおこがましくて、これ以上この方々に深く立ち入ることなどできない。────けれど、死に縋る以上に心を満たせる何かを、あの方が求めてくださったなら。そんな身勝手なことばかり、どうしても願わずにいられなくて。
あの方は決して冷酷ではない。言うなれば不器用な、けれど確かに彼女の優しさに触れたと思うからこそ、これ以上悲愴な結末を望んで欲しくない。『もう遅い』ことなどないと、信じていたいのだ。愚かな、稚拙な考えだとわかっていても。
誰も何も言わないまま、二人の兵士に守られ城門へ出た。仲魔の皆さんも黙ってテュールさんの後に付き従う。静かに私達を見比べて、アイシス様はもう一度深く頭を下げてくださった。国主であるアイシス様に二度も頭を下げさせて、しかも今度は城門の外、どなたの目にも留まってしまう。兵士さんも含め、その場にいた皆さん揃って思い切り狼狽えてしまったけれど、顔を上げたアイシス様はただただ穏やかに微笑まれるばかりだった。
「本当に、ありがとうございました。……皆様は、まだ何日かはこの城下にご滞在になられますか」
別れ際、アイシス様にそう問われ、横に並び立ったテュールさんをそっと見上げた。それまで睫毛を伏せて思索にふけっていた彼だったが、すぐに顔を上げると落ち着いた声で答えた。
「はい。明日からしばらく、図書館を利用させていただこうと思っています。まだあまり、街の中もゆっくり見られていませんし……住民の皆様からも、色々お話を伺えればと」
さっきよりずっとしっかりした、真っ直ぐなお声だった。
女王様のお話を聞いてから今も、ひどく戸惑われているはずなのに……私の旦那様は本当に、心の強い方だと思う。
けれどそれはやはり気丈に努めてらっしゃったからであって、二言三言の挨拶を交わしてお暇した後、テュールさんは再び物思いの底に沈んでしまわれた。手は引いてくださるけれど、地面のずっと先に落とした視線は誰の方にも向かない。
ホイミンちゃんとしびれんちゃんが心配そうに彼の周りを旋回して、その時だけは覇気のない微笑みを繕っていらした。
あの時の話はピエールさん達に聴こえていたのだろうか。何となく、皆さんはご存知ないのではという気がした。
アイシス様がお話を終わられた時、遮断された空間から唐突に引き戻されたような────奇妙な感覚があったから。
テュールさんの前で彼らにそれを問う勇気もなく、また仲魔の皆さんもこちらを気にしつつ何も聞けない様子で、重く沈んだ空気のまま宿に着いた。
お城で宴という今夜の予定が宿の方に伝わっていなくて本当に良かったと思う。晴れやかな席を終えてこんなに沈んだ顔をしていると思われたら、あらぬ不興を招いてしまったかもしれない。
それぞれ手早く就寝準備をしたけれど、やはりテュールさんは悄然としたままだった。
仕方のないことだと思う。私だって、もし今更血の繋がった両親の存在を示唆されたら、きっと冷静ではいられない。
ベッドに入る時、いつもよりずっと元気のない微笑みで「おやすみ」と囁いてくれた。痛々しくてたまらなくて、思わずその首にしがみついた。ぎゅうっ、と力を込めて抱きしめたら、彼は驚いたようにはじめ固まっていたけれど、ゆっくり長く息を吐き出すとようやく、温かな手で私の背中をぽんぽんと撫でてくれる。
「心配かけて、ごめんね。……明日にはきっと、もう少し、ましになるから」
そんなこと、気にしなくていい。思いきり悩んで、考えてくださって構わないの。
他ならぬあなたの、生まれ故郷のことなのだから。
そう、言いたかったけれど、かすれた低い声の前では何故か言葉にならなくて。黙って彼の広い胸に顔を埋めた。
本当は半分、背負わせてと言いたい。以前伝えた言葉に嘘偽りはない。でも、言えなかった。あなたの、やっとあなたが掴みかけた本当のご両親への手掛かりに、私が横から軽率に触れてはいけない気がして。
その悩み、苦しみ、葛藤も、あなただけのものだもの。
結局何一つ言葉を返せず、抱きついては頬を擦りつけるしかできない子供のような私に、彼は苦笑するでもなくもう一度優しく頭を撫でると、おやすみ、とひっそり告げた。
砂の王都テルパドールの二日目の夜が、切なく温かい腕の中、ゆっくりと更けていく。
◆◆◆
砂漠と言えど、真冬の朝は寒い。
思えばもうひと月もすれば新年だ。故郷のサラボナでもそろそろ、年越し準備が始まる頃だろうか。実は、ちゃんと年越しを実家で過ごしたのは昨年が初めてで、珍しく雪で白く染まった街が柊やヤドリギに彩られていく様には胸が弾んだものだった。
それまでの長い月日を過ごしていた、商業都市オラクルベリーにほど近い修道院では、この頃から年越しの祭礼や聖餐式の準備があってとても慌ただしかった。……院をお暇する頃にはラインハット城から一切の祭礼を禁止する通達があって、それでも年の瀬は礼拝の方の訪問が後を絶たなかったから、罰を覚悟で時間を決めてこっそり受け入れることもしていた。ラインハットが平定された今はきっと、あの修道院も例年通りの冬支度に追われていることだろう。
普段はそんなに一般の方が礼拝に来られることはないのだけれど、一年の行いを顧みるこの時期だけは別だ。
もしマスタードラゴン様や、精霊ルビス様が本当にこの世界にいらっしゃったら、きっとこの時期は世界中のあちこちでお祈りを受けるお役目をなさるのだろう。神様とはいえとっても大変そう、なんて不届きなことを思ってしまう。
着替えた上から防寒具を着込み、まだ大部分が寝静まっている大部屋をそっと抜け出した。テュールさんもまだぐっすり眠っている。私が動き始めると一緒に起きられることも多い方だけれど、昨夜は色々考え事をなさっていて、遅くまで寝つけなかったのかもしれない。
外は東から少しずつ白み始める頃だった。朝の食堂準備で慌ただしい調理場をお借りするのは気が引けて、宿の裏手に回ると期待通り、使用人の方が火を熾してらした。泊まり客のための湯を用意するというその方にお願いして、水汲みのお手伝いがてら、私も借り物の鍋に湯を沸かさせてもらった。あらかじめ用意してきた乾いた穀類と野菜を入れて軽く煮込み、調味料で味を整える。
いい匂いですね、と覗き込んできた使用人の方への御礼に一杯取り分けて勧めてから、溢さないよう蓋して布巾で鍋の取手を掴み、よろよろと納屋へと運んだ。
自分で言うのもなんだけれど、この半年弱でだいぶ腕力もついてきたと思う。修道院暮らしが長かった分、正直、体力には多少の自信があった。けれど実際旅に出てみたら、私なんて本当に非力なだけのただの女で……テュールさん達と過ごすようになってからというもの、自分の未熟さを痛感してばかりいる。
「皆さん、おはようございます」
納屋の中で誰かが動いている気配に、ほっとしながら天幕を持ち上げた。「おはよ〜〜、ふろ〜らちゃ〜ん」と真っ先に寄ってきてくれたホイミンちゃんに笑顔を返すと、それぞれ挨拶を口にしながらピエールさんとガンドフさんも寄ってこられる。「わざわざ温かいものをお持ちくださったのか。いや、有り難い」と鍋を引き取ったピエールさんが嬉しそうに労ってくださり、私も胸がほっと温かくなるのを感じた。
「簡単なもので、申し訳ありません」と頭を下げたが、皆さん口を揃えて「いやいや。朝から奥方殿の手料理をいただけることを思えば」「スラりん、ふろーらちゃんのりぞっとだいすきー!」「し、しびれんもっっ」と和気藹々言ってくださった。
本当に皆さん、とってもお優しくて感激してしまう。
「我があるじはゆるりと休まれているようで、何より」
冷めないうちにと急いで木皿に即席の雑穀粥をよそい、皆様にお配りした。いつもどうやって召し上がっているのか、鉄仮面をつけたまま器用に汁を啜ったピエールさんが笑い含みにぽつりと呟く。
昨夜の様子から、テュールさんが悩んで眠れないかもしれないことを察していらしたのだろう。そんな温かさがこもった呟きだった。……やっぱり、気になる。お食事中の皆さんの顔を見渡して、昨夜から燻っていた疑問を恐る恐る口にした。
「あの、皆さんには、昨日……女王様のお話は聞こえていらっしゃったのでしょうか?」
こんなふうに訊くのは、テュールさんの目を盗むようで居心地が悪い。私の質問に皆さんそれぞれ顔を見合わせたあと、ふるりと首を横に振られた。やはり皆さん、お話の内容はご存知なかったのだ。
「我々が宴に興じている間に、気づけばご主人が酷く気落ちされていた。詳しいことはわかりかねる」
ズズ、と音を立てて粥を吸ったマーリン様がごく静かに答えられる。小さく頷くと、ピエールさんもまた淡々と言い添えた。
「必要とあれば本人が話される。奥方殿が我々のことまで慮り、気を揉まれる必要はない」
はい、と思わず沈んだ声が出た。わかってはいたけれど、私にできることなど本当に何もない。
テュールさんと仲魔の皆さんの絆はとても強い。時々ものすごく羨ましく感じてしまうほど。彼らは主人を心から信頼し、敬愛している。不明なことがあってもそれすら信じられるから、心配はしても不安に思うことなどないのだろう。
それでも、普段と変わりなく見えるものの、皆さんどこか元気がないようにも思える。
それ以上言うべきことが見つからず押し黙ってしまったところで、すぐにテュールさんが納屋を覗いた。「フローラ。ここにいたんだ」と、ほっと胸を撫で下ろしたテュールさんは、昨日よりだいぶお元気そうに見えた。
「おはようございます。今日から図書館に行くと言ってらしたので、早めに皆さんの朝食をと思って」
「うん、ありがとう。一人で用意させちゃってごめん。わざわざ作ってくれたんだね」
頬を撫でて労ってくださり、くすぐったい心地になる。私達の朝食はそろそろ食堂に用意されるはず、そう言うとテュールさんは微笑んであっさり首を振った。
「僕もフローラのリゾットを食べたいな。まだ残ってる?」
そう言っていただけるのは嬉しいけれど、かなり冷めてしまっているし、量もそんなに作っていない。慌てて皆さんのお代わり用にとスナックとジャムを取り出すと、納屋の中はすっかり露営の時のような、和やかな雰囲気に包まれた。
いつも通りに振る舞ってくださっているのがわかる。テュールさんがそうだから、皆さんも敢えて何も聞かないのだ。そんな中で私が不躾に蒸し返せるはずもない。
……信じよう。私も、彼がその葛藤を呑み込んで、真実顔を上げてくださるその時まで。
私はただ、彼の側に居る。
どんな結論に至ったとしても、彼の一番の支えでありたい気持ちに変わりはない。
鍋がすっかり空になった頃、集めた木皿を中に入れて彼が立ち上がった。急いで後を追って立つと、何もしてないんだから片付けくらいさせてよ、とあなたはまた困ったように笑う。
微笑んで首を振り、そのすぐ隣に並び歩いた。
たった今胸に誓ったそれを、確かめるように。
◆◆◆
食堂にご用意いただいた朝食を無事食べ終えた後、予定通りテュールさんと連れ立って図書館に向かった。仲魔の皆さんは、今日は思い思いに過ごされるという。
マーリン様も後ほど図書館に来られると言っていたけれど、「こちらはこちらで励みますゆえ、一切お構いなく」と素っ気なく告げられた。昨日呼びに行った時も集中して本を読んでいらした。古い魔法の伝承も多く伝えられている国だから、きっと興味深い文献がたくさんあったのだろう。
城の中の図書館だからか、思ったより人がいない。
本を読むためのテーブルも数卓置かれているけれど、学者様らしい方が一人、書き物をなさっているだけだった。
司書の方にもお聞きして、早速何冊かの本を借りた。テュールさんと隣り合わせで席を取り、それぞれ数冊ずつ積んで読み始める。ほとんどが勇者様の伝承記だ。かつて冒険を共にした仲間達が記したと言われる日記の写しや、勇者様を見送った人々の口伝を収めてある。
こういった本を中心に読んできた私には既知の内容がほとんどだったけれど、時々、目を瞠るような情報も記されていた。
「天空人……と呼ばれる方々が、本当にいるのでしょうか」
思わず口にしてしまい、テュールさんもつられて顔を上げる。
「天空人?」
「はい。あの、ここに……勇者様は天空人の血をひいていらした、と書かれていて」
読んでいた頁の向きを彼の方に直して差し出すと、彼はすぐ指差した部分に目を走らせる。息を詰めてそれを読んだ後、彼は口許を指で抑え暫し考え込む仕草をした。
「血を分けた愛し子って、そういうことなのか……?」
私もこくりと頷いた。確かに、アイシス様も一昨日そのように仰っていた。
天空人という単語を聞いたことがないわけではない。だが、それは竜帝マスタードラゴンや精霊ルビスと同じ、あくまで伝説上の存在に過ぎなかった。天空と呼ばれる遥かな空の上、私達の世界に似た異界があるという。竜帝が治めるその世界に住う人々は私達とは異質の力と大きな翼を持ち、長い寿命を得る……
「勇者様は天空人、ということなのでしょうか。それではお生まれになったとしても、私達の世界にいらっしゃるとは……」
「失礼。それでしたら、正しくは『半分』です。奥様」
唐突に声をかけられ振り返ると、先ほど向こうのテーブルで一心不乱に書き物をしていた学者様が良い笑顔でこちらを覗き込んでいた。
「勇者様についての書物を編纂しておる者です。勇者様は、空から堕ちた天女と一介の木こりの間にお生まれになったと伝わっておりますね」
「天女……ですか?」
「ええ」片眼鏡の奥に人好きする笑みを浮かべ、壮年の彼はにこりと頷く。「勇者様の伝承をお探しですか? 旅のお方」と親しげに問われ、今度はテュールさんが「はい。こちらには言い伝えがたくさん残されていると聞いて、遥々海を越えてやって参りました。よろしければ先程のお話、詳しくご教授願えませんか」と穏やかに請うた。
学者様は満足げに頷き、こほんと小さな咳払いをするとおもむろに語り出した。
「その昔、天空より舞い降りし一人の美しき乙女が木こりと恋に落ちました。二人は結ばれ子をもうけましたが、竜帝がそれをお許しにならなかった。乙女は天空界に連れ戻され幽閉、木こりは竜帝の怒りの雷に裁かれ絶命したと申します。残された子供は、山奥の小さな村で存在を秘匿されて育ちました」
「それが、勇者様……、なのですか?」
左様でございます、と首肯する学者様に、私を挟んでテュールさんが疑問を投げた。
「それって天女伝説ですよね? よく舞台や吟誦で語られる。……まさか、勇者の両親の話だったなんて」
テュールさんの呟きで私も得心した。どこかで聞いた気がしたのは、勇者様の武勇譚と同じくらいよく取り上げられる題材だからだ。尤も勇者様の話は伝記として語られるが、天女伝説は基本的に御伽話の切ないロマンスとして扱われる。私も今まで、この物語を勇者様と結びつけて考えたことなんてなかった。
母親は何処へか、遠く手の届かぬところに連れ去られ、父親は強大な力を前に命を落とす。
まるでご自身をなぞるかのような勇者様の生い立ちを、彼は瞬き一つせず、ひたすら真剣な面持ちで聞いていた。
「天空界……、天空人とは伝説に過ぎないと思っておりました。学者様は、天空人と呼ばれる方々が実際に存在されているとお考えですか」
「私自身は、かつては存在したと考えております。が、今も絶えず生存されているかというと、どうでしょう」
率直な疑問を口にすると、学者様もまた首を捻った。どういうことかと見上げると、彼は私達が机に積んだ本の中から一冊を選んで抜き出し、ぱらぱらとめくってとあるページを示す。
「例えば、……これは導かれし七人の関係者が遺したと言われる日記の一遍ですが、一時期勇者様御一行が有翼の天空人女性と同行したことが書かれています。こういった記述は実は、古い文献には決して珍しくはないのです。人に交じってエルフが暮らしていた、という話もあるほどです」
どれもお伽話だと思っていた話だわ。内心ひどく驚きながら相槌を打った。
天空人や妖精、エルフ族。遥か昔はこの地上に現れていた彼らはどこへ行ってしまったのかしら。やはり魔族との抗争があって、滅びてしまったのかしら。
……修道院に入るより前の小さかった頃、妖精さんと遊んだ記憶があるのだけれど。なんて言ったらさすがに引いてしまわれるかしら。あまりに幼い頃の記憶だから、本当にあったことなのかも判然としない。
「この地上には元々、人間以外の種族が溢れていたのかもしれません。と言いましても数千年、数万年か……我々からすれば途方もなく昔の話です。少なくともここ千数百年ほどは、天空人を見たとの記録はございませんね。尤もここ数百年は我々にとっても多くの国が滅び、数々の記録も失われてしまいました。現存する国々との交流も絶えて久しい。まして天空神話の象徴たる城が落ちたと言われ、その上で世界のどこかに天空人の子孫が生き存えていたとしたら……それはもう、奇跡に他なりません」
「……それは例えば、かつては異界……との行き来が、今よりずっと容易であった、とも言えるのでしょうか」
ずっと黙って聞いていたテュールさんが静かに問いを発した。意外な発言だったのか、学者様は目を見開くとほう、と感嘆の声を漏らした。
「ああ。確かに、その可能性は大いにあります。とすれば、今、この世界はそれぞれの異界から扉を閉じられているだけなのやもしれません」
これは検証の必要があります、と嬉しそうに頷く学者様に、私も訊いてみたいことがあった。目で請うとすぐに気づいてくださり、何か? と首を捻る。あまり時間を取らせては申し訳ないから、急いで疑問を口にした。
「もう一つ、よろしいですか?その、勇者様が秘匿された村……というのは」
勇者様の血がどれほど稀有なものか、勇者様のお血筋が残っている可能性は極めて低いということもわかった。けれど私達は落胆しているわけにはいかないのだ。せめてどの辺りの話なのかがわかればと思って訊いたものが、まさかこんな答えが返ってくるとは思いもしなかった。
「さて……勇者様を狙う魔王軍に襲われ、跡形もなく焼かれてなくなったそうです。地図にもない名もなき村だったようで、世界のどこにその村があったのかは未だ不明のままです。我々も長いこと研究し、探し求めているところでして」
────確かに、魔族から身を隠していたと聞いたことはあったけれど。
いくらなんでも、ここまで似通った境遇だなんて。
思わず息を呑み、傍らの夫を見上げた。悼ましい記憶を呼び醒ましているのか、彼の濃紺の眼差しはいつか見たようにとても深く、混沌としている。
また何かあればお声がけください、と会釈して去る学者様に頭を下げて、無意識のうちに溜息をついた。忘れないうちに今お聞きしたことをメモしておかなくては。手元に置いたバッグから手帳を取り出したその時、吐息に紛れて消えそうなテュールさんの囁きが耳に届いた。
「────……たい、だな」
聞き間違いかと思うほど微かな呟きで、思わず振り返ってお顔を覗くと、何故か彼はどこか慌てた様子で首を振ってみせた。
「あ、いや。何でもない。ごめん」
なんとなく気になりつつも頷き、それからしばらくは、お互いまた無言で本を読み耽った。先に私が読み終え、次の本を探しに席を立つ。本棚を眺めながらちらりと彼の背中を窺うと、時折頁を捲る手を止めては溜息をついたり、ぼんやりと遠くを眺めては首を振ったり。やはり、あまり集中できないご様子だった。
今更ながら、離れた席にマーリン様が座っていらして、山積みの本をものすごいスピードで読んでいらっしゃる。
新たに三冊ほど選んでテーブルに戻ったところで、お城の外から正午を告げる鐘の音が鳴り響いた。テュールさんもきりの良いところまで読了されたらしく、司書さんに断って本はテーブルに置いたまま、昼食と情報収集を兼ねて一旦外へ出た。
いつもは勇者様らしき方がいないか、よくよく目を配りながら街を周るのだけれど、ここは伝説の国テルパドール。勇者のために兜を守り、彼の人の到来を待ちわびる国。
テュールさん自身この大陸に着いた時からそのことは弁えていて、だからこそ勇者様の手掛かりになりそうな話がないか、今まで周ってきた土地に見落としはなかったか、そういう観点から人々の話に耳をすましている。
けれど残念ながらこの昼時は、先ほど図書館で聞いたような目新しい情報を聞くことはできなかった。嘘か真か、耳に飛び込んできたのは「そこの旅人さん、どうだい? 勇者様ご一行も好まれたテルパドールの伝統料理、駱駝の串焼きはウチの店が一番旨いんだよっ‼︎」という呼び込みの常套句くらいのもの。テュールさんと顔を見合わせ苦笑しつつ、今日のお昼は香ばしい匂いが漂うその店でいただくことにしたのだった。
◆◆◆
昼食を終え、図書館に戻るとすぐに、リーシャさんが私を誘いに来てくださった。
「二人とも、昨日は楽しんでくれた? ねぇねぇ、あたしの歌良かったでしょー! 歌にはちょっと自信あるんだからぁ」
読書中にも構わず上機嫌で覗いてくるリーシャさんに、テュールさんはいつもの苦笑いを返す。そんな夫の肩越しから「本当に綺麗な歌声でしたわ。占者の衣装もよく似合っていて、とっても素敵でした」と心からの称賛を口にすれば、リーシャさんはえへへ、と嬉しそうにはにかんだ。
「ありがと、フローラさん。今大丈夫? 約束通りお茶行こっ!」
声を弾ませ私の腕を引っ張るリーシャさんに、再び本へと視線を落としたテュールさんが小声で注意を促す。
「リーシャ。ここでは静かに」
「わかってるー! フローラさん借りるね、テュールさん!」
わかっていると言いながらも声のトーンを抑えないリーシャさんに再び苦笑しつつ、テュールさんがひらりと手を振った。ほとんど引っ張られるまま図書館を出たところで、リーシャさんは今度こそ声をひそめて私に囁きかける。
「テュールさん、どうしたの……? 元気ないね」
思わず目を瞠った。すぐ気づいたリーシャさんの鋭さに驚き、たった今明るく振る舞ってくださったのもテュールさんを慮ってのことだったと得心する。確か昨夜、あの場で歌っていらした彼女だけれど、何があったかまではご存じないらしい。静かに頷き、答えられる範囲で慎重に言葉を選んだ。
「昨夜、陛下から……大事なお話をいただいたものですから。お一人で考える時間が必要なのだと思います。……ですから、今日、誘っていただけてよかったです」
そう伝えると、リーシャさんはほっと息をついて微笑む。
「そっか。じゃあ、タイミング良かったのね、あたし」
私も安心してもらえるよう、微笑みと首肯を返して。
案内されるままに城の奥へと進み、通路のずっと奥に並んだお部屋の一つに入った。綺麗に整えられたそこは女官の皆様の私室になるらしい。奥には美しい天蓋と衝立で仕切られたベッドが三つ、お城勤めをされる方のプライベートエリアに私のような無関係の者が入っていいのか不安になったけれど、リーシャさんはあっさりしたもので「平気よ。ここ三人部屋だけど、他の二人はお務めがあって夕方まで戻らないから!」と平然と言ってのけた。
「こっち、座って! 今お茶の用意するね」
勧められるまま椅子に腰掛けて、くるりと室内を見渡した。
大きめの家具以外、私物らしきものはほとんど見当たらない、綺麗に整えられた部屋だった。女王従きの皆様のお部屋なだけあって、豪奢ではないが家具は上等なものばかりが並んでいる。
今日の御礼にと持参したジャムの瓶を幾つか取り出して並べると、リーシャさんの頬が愛らしく緩んだ。「お部屋の皆様と召し上がってくださいね」と言い添えれば、嬉しそうにこくこく頷く。
やがて良い香りのお茶を淹れていただき、向かいの椅子に腰掛けたところで……リーシャさんはおもむろに、私に向かって深く深く頭を下げた。
「フローラさん。……この間は、ユノ様が酷いことしちゃって、本当にごめんなさい」
「そんな。酷いことなんて、私は何もされておりませんよ」
深々と頭を垂れた少女の謝罪を遮り、思わず声を上げる。
テーブルに手をつき前のめりになった私を、リーシャさんは眼を丸くしてまじまじと見つめ返した。
誓って彼女に傷つけられてなどいない。指輪を取られると思った時だけは気が動転してしまったけれど、彼女が内に秘めた苦しみの一端を知ってしまったらもう、そんなことも言えなくなってしまった。
望まぬ婚姻。どんなに覚悟していたとしても、その痛みに耐えられるかどうかなんて、その方にしか分からないことだもの。
「でも、王城の女官長ともあろう方が賊と共謀したのよ。まさかお城にあんな恐ろしい魔物をけしかけようだなんて。しかも、全然関係ないフローラさんまで傷つけて……テルパドールの民として、お詫びせずにはいられないわ」
「連れて行かれたのも偶然ですし、指を折ったのも、魔物を出したのも違う方です。寧ろ、ユノ様は私を大変気にかけてくださいました。御本人はお認めにならないかもしれませんが、布を噛まされて話せずにいたのを解いてくださったのも、私が凍えているのに気づいて暖かくさせるよう言ってくださったのもユノ様なのですよ」
一つ一つ、確かめながら告げるたび、リーシャさんの目が次第に大きく見開いていく。
「それ、本当?」
力強く頷いてみせると、リーシャさんは張り詰めたお顔からゆるゆると力を抜いた。
「そう、なんだ……」
ほんの少しだけ安堵の色を滲ませて、深く息をつく。そうしてひと呼吸置いてから「ね。今の話、アイシス様にお伝えしてもいい?」と問うてくれた。
躊躇いなく頷くと、今度こそほっとしたように微笑む。ありがと、と眉尻を落として囁いたリーシャさんはいつもの快活な彼女とは別人のように悄然として見えて、ずきりと胸が痛んだ。
何も言えず彼女をただ見つめてしまった私の手を握って、リーシャさんは丸めた肩を小さく小さく震わせる。
ほのかに赤らんだ目許がくしゃりと歪んで、今にも泣き出しそうで、痛々しくて。
────けれど、彼女の口から溢れたのは、悲嘆に暮れた沈痛な叫びなどではなく。
「……ほんとに、ありがと。フローラさんが、ユノ様を恨まないでいてくれて────こんなこと言うのは駄目かもだけど、あたし、今、すっごく嬉しい……!」
膨らんで、弾けるような。
溢れんばかりの彼女の歓びが、洪水のように流れ込んで私を満たした。
思わず瞠目してしまった私に、リーシャさんはえへへ、と泣き笑いを誤魔化すように笑った。きっと大事に温めてきた、彼女自身の想い出の欠片をぽつぽつ語って聞かせてくれる。
「小さい頃にね、魔法を教えていただいたことがあるの。姉様とマイヤ様から占いは教わってたけど、炎魔法は使ったことなくてね。すっごく優しく教えてくれて、あたしにも絶対出来るって何度も励ましてくださって」
とっても嬉しそうに話されるリーシャさんのご様子に、こちらまで思わず頬が緩む。微笑んで続きを促すと、彼女は益々声を弾ませ身を乗り出した。
「ユノ様は子供の頃から占いより魔法の方が得意だったんですって。マーニャ様の生まれ変わりじゃないかとまで言われているのよ。炎の最高位魔法、凄かったよね!」
「ええ。びっくりしました、本当に見事な魔法で。詠唱も淀みなく、二つを掛け合わせての相乗効果は本当に素晴らしかったです。お二方の深い信頼がなければ為し得ない技ですよね」
まさかの最高位魔法の競演を思い出しうっとりと口にすると、リーシャさんも満足げに何度も頷いた。
魔道を志す者ならば、あの領域への憧れを抱かずにはいられない。マーリン様の座学にも実はベギラゴンの話が出てきたことがある。信じ難いことだけれど、マーリン様は私がいつかは最高位魔法をも詠みこなせるようになると見込んでくださっているらしい。
初級魔法のメラですら放てたことのない自分が攻撃魔法を詠む姿など、未だ想像もつかないのだけれど。
少し気分が上向いた様子のリーシャさんがテーブルの上のお菓子をいくつかぱくりと摘み、私にも目で促してくれる。
ご厚意に甘えて私も焼き菓子をいただいた。気づくとリーシャさんはもぐもぐと咀嚼しながらも私の鎖骨のあたりをぼんやり眺め、手の中のカップを延々揺らして弄んでいる。
さっきから何となく、彼女が何かを言いたそうにしているように見えて、私から話さなくてはならない話も特になかったので、お茶をいただきつつ、黙って彼女の言葉を待っていた。
「……女王様の子が跡を継がないの、変わってるでしょ。これはテルパドールの民だけじゃないと思うんだけど……赤ちゃんを授かると、力が失われちゃうことが多いんだよね」
やがて切り出された話題に、ああ、と頷いて同意を示す。特に私達、女の魔力は大なり小なり、月の満ち欠けに左右される。同じように月が関係すると言われる女性特有のあの症状も、そして懐妊そのものも、魔力に影響することは少なくない。遺伝のためなのか、子を産むことで魔力そのものを失ってしまった人の話も何度か聞いたことがある。
「正確には、変質するっていうか……あたし達はそれが特に顕著で。占いがね、妊娠すると出来なくなっちゃうんだよね。ミネア様由来って言われてるこの占いは、女の人にしか出来ないんだ。姉様も、やっぱり赤ちゃん身篭ってから占い出来なくなっちゃったもん。無事に生まれたらまた出来るのかもだけど、こればっかりは生まれてみないとわからないかなぁ」
遺伝も、確実にするわけじゃないしね。と独り言のようにリーシャさんが呟いた。あの御廟でアイシス様がご自身を鍵だと仰っていたように、占い師が持つ特殊な力で結界を張り巡らし護るのが女王にしか出来ない役割ならば、女王の懐妊は確かに国家の根幹にも関わってしまう。
だからこそ、女王は在位中新たに子を為せない。未婚なら婚姻もしないし、子が欲しければ次代を選び譲位する。恐らく、経産婦でも変わらぬ占力を保つことができれば王位を得ることがあるのだろう。昔読んだテルパドールの史書で代替わりの間隔が極端であることに驚いた記憶があるけれど、そういう理由なら合点がいった。
「……なんかね。ちゃんと聞いた話じゃないから、こういうこと勝手に話すのは、本当はよくないんだろうけど」
リーシャさんには珍しい、歯切れの悪い物言いだ。ここだけの話と了承して、私も黙って小さく頷き、なんとなく身を屈めた。私の意図をすぐに汲んでくださったリーシャさんが少し安堵した様子で微笑み、また手の中のカップに力なく視線を落とす。
「ずーっと前から、ユノ様に求婚してた人がいたんだって。その方との間に何があったかは知らないけど、ユノ様は全然、お嫁に行く気はなかったらしいのね」
ぽつ、ぽつりと語り出したリーシャさんから、否応なしに痛々しいものを感じてしまう。黙って相槌を打つと、リーシャさんはずっと掌に納めていたカップをテーブルに置いた。
そうして、重苦しい息をひとつ、気持ちを落ち着けるようにゆっくり吐いて。
「でも、その人が数年前……お城に来たんだって。いつになったら嫁にくる気だ、ってユノ様に詰め寄って……その時居合わせたっていう先輩が教えてくれたの。いくら魔力が強くても、占いに秀でていないお前が女王になれるはずがない、だから俺が占にも長けた子を産ませてやる……なんて言ってたって! すっっっごい、やな感じ‼︎」
だんっ‼︎ と憤慨したリーシャさんが茶器の載ったテーブルを思いきり叩いた。小さな両手は怒りのあまり固く握り締められ、小刻みに震えている。
彼女が怒るのも当然だ。部外者の私だって、嫌悪を抱かず聞ける話じゃない。
「確かにユノ様、占いはそこまで得意じゃないらしい、けど! 炎魔法で右に出る人はいないのに‼︎ ……でも、結局ご実家からも嫁ぐように言われて、断れなくて、先輩達も心配して聞いたんだけど多分その人で間違いないって。それが原因で今回のことになったんじゃないかって……その人、ユノ様のことをずっと好きだったのかもしれないけど、ユノ様はきっと一人でずぅっと辛い思いを抱えてらして、それで」
「────はい」
気づいたら強く、頷いていた。一生懸命言い募っていたリーシャさんが目を見開いてこちらを見た、その正面から、胸を締めつける苦しい衝動を抑えてなんとか、微笑んだ。
「どうしようも、ありませんよね。自分で決めることも、選ぶことも許されないこと……、あります、よね……」
同じように選択肢がない状況だったとしても、初めから運命ときちんと対峙して受け止めていらしたリーシャさんからしてみたら、それはもしかしたら少し、違う感覚なのかもしれないけれど。
リーシャさんはきっと、今の境遇を誰の所為にもしていない。ご自身の意思で迷いなく、進むべき道を選んで、歩んでこられた方だから。
「少し……少しだけ、わかるような気が、するんです」
膝の上でスカートをぎゅっと掴み、言葉を探す。
無駄だとわかっていながら父に反論した。気が遠くなりそうな人集りを前に、指輪など探さないでほしいと叫んだ。────彼がその人だと確信しながら、けれどこんなの、愚かな恋情に流されているだけかもしれないとも思えてしまって。ビアンカさんの想いに気づいてしまったら、益々、私の恋心なんてなかったことにした方が良いのだと……あの時はどうしても、そんな風に思えてならなかった。
「私も、結婚に私の意向なんて関係なかった。元々は父が私の結婚相手を広く募って、その中から決めるというお話でしたから」
「……え⁉︎」驚いたリーシャさんが私を振り向く。「じゃ、まさか駆け落ちなの⁉︎ だって二人とも出会ってすぐって」
「ち、違うんです。それは、その……父が出した条件を、テュールさんが満たしてくださったから」
慌てて首と両手を同時に振った。期せずして彼と揃いの指輪が互いの目に留まり、リーシャさんが何となく、ああ、と頷いて息を吐いた。私も、白銀の指輪を、左手ごとそっと右手に包んで胸に抱き直す。
彼が私を選んでくれた、何より愛しい、私達の証。
「父が、持参金として家宝の盾を譲ると言いました。彼にはその盾が必要なのだと、ある方から伺って……ああ、だから求婚してくださったのだと、思っていました。────ですから、私はただ幸運だったのです。私だってテュールさんにお会いしていなかったら、……彼が、盾を……望んでくださらなかったら……」
────だって、あんなに素敵な方だっていたのに。
今でも信じられないの。いいえ、信じているけれど、それとは違う別のところで、今も夢みたいだと思っているの。
こうしてお側にいられる今が身に余る幸せなのだと、私が一番良く、わかっているの。
「……良かったね。テュールさんがフローラさんと出逢ってくれて」
いつの間にか深く俯いてしまっていた。しみじみと呟かれた、微かな声につられて顔を上げる。
頬杖をついて微笑んだリーシャさんの、淡い紫の瞳が優しく私を見つめていた。
「あ、全然皮肉とかじゃないのよ? だって見てればわかるもの」
どこか嬉しそうに、柔らかな表情でリーシャさんが笑う。
どういう意味……かしら。よく分からなくて小首を傾げると、彼女はまた愉しげに肩を揺らした。くすくすと悪戯っぽく笑って私を見上げ、揶揄うように顔を寄せる。
「やだ、まさかフローラさん、今もそんなふうに思ってたりしないでしょ? その盾のために求婚されたなんて、ずぅっと思い込んでたらさすがにテュールさんが可哀想」
────かぁっ、と髪の先まで甘い熱が走った気がした。
きっと頬を赤らめた私を眺めながら、ひとしきりリーシャさんが笑って。……ふぅ、と疲れた息をついたところで、彼女は私の向こうの窓の外、どこか遠いところへ意識を馳せる。
「ユノ様は極刑を望んでいらっしゃるって。……もう、どうしようもないのかな……」
淡々とした囁きが唐突に、昨夜の記憶を呼び覚ました。
突き放されただけだった。断罪を望むユノ様に、何ひとつかける言葉を見つけられなかった。
天空の勇者を祀り、天空神を信仰するテルパドールで、異形を神と崇める行為が許されるわけがない。どんな理由であっても、ましてやその異形に破滅を望んだとあれば。
「テルパドールの法が決めること、ですものね……」
力なく呟くと、目の前のリーシャさんががばっと顔を上げた。「でも」と、さっきまでの落胆が嘘のように、彼女は意志の強い眼差しで私を見つめると強い声音で言葉を続ける。
「でも、フローラさんがせっかく、命懸けで助けたお命なのに」
虚を、衝かれる。
前のめりに言い切ったあと、彼女は自分の言葉に驚いたように目を見開いた。ばつが悪そうに視線を泳がせ、もう一言、口籠もりながら言い添える。
「……なんか……そういうのまで、粗末にされてるみたいで……ちょっと」
そんなこと、気になさらなくていいのに。
胸に温かなものが灯るのを感じながら、あの瞬間を思い出して瞼を伏せる。
決して褒められたことをしたつもりはない。あんなものは自己満足に過ぎなくて、ユノ様自身、助かりたかったわけでもなんでもなくて。
ただ、私が嫌だと思っただけ。
あんなところで、あんな形が最後だなんて嫌だと思っただけ。
────もしもあの時、崩落から助けられず彼女が落ちて魔物に喰われてしまっていたら、それを目にしたリーシャさんはきっと、酷く嘆き苦しむことになっただろう。
余計なことしかできなかったけど、でも、あの時足掻いたことで、リーシャさんのお心をほんの少しでも軽くすることが、今、叶っているのなら。
「ありがとう……ございます。私のことまで慮ってくださって」
精一杯の微笑みを繕いそう答えたら、リーシャさんは何故か少し、困ったように目を伏せた。
すっかり冷めたお茶を飲み干し、リーシャさんは目配せをして席を立つ。しばらくぼんやり待っていたら、ティーポットに新しいお茶を淹れて戻ってきてくださった。私も急いで飲み干して注ぎ直していただいた。
「……アイシス様、お二人に何か占いのこと、お話されてた?」
問われて、一昨日と昨日の謁見の様子を思い返す。お話ししたのは兜のことと勇者の伝説にまつわること、それから夫自身の生い立ちに関すること。占いに関することは何も仰っていなかった気がする。ふるふると首を振ると、向かいの席に座り直したリーシャさんは、ふにゃりと眉尻を下げて視線を泳がせた。
何か、話して良いのか迷っているようだった。
「うーん……そっかぁ……そうだよね」
濃い紅の化粧を施し、独特な民族衣装に身を包んだリーシャさんはいつもより随分と大人びて見える。つん、と唇を突出し暫し思案していたが、何度もううん、と言い澱んだ末、意を決したように顔を上げ、改めて私を真っ直ぐ見つめた。
「あのね。あたし本当に、二人の仲を引き裂きたくて無理矢理ついてきたわけじゃないのよ」
「もちろん、わかっておりますとも。テュールさんを心から慕っていらしたから、でしょう?」
真剣なご様子のリーシャさんに、私も小首を傾げて返した。
そんなに必死なお顔をなさらなくても、今更彼への恋心を疑ったりなんてしないのに。
「同じ人を好きになった方ですもの。お気持ちは、わかります」
「……それは、そう、……なんだけど」
どうしてか、リーシャさんはまたもや言いにくそうに口籠る。何か、おかしなことを言ってしまっただろうか。不安になってじっと彼女を見つめると、彼女はついに観念したとでも言うように……本当に躊躇いがちに、迷いながらも口を、開いた。
「本当は、言うべきじゃないかもしれないけど。フローラさん」
……そわり、と、
意識のごくごく端の方を、何か、嫌な予感が過ぎっていった。
「占いって、決して決まった未来がひとつ見えるわけじゃない。今、私達のいる時間は次の瞬間からたくさんたくさん枝分かれしていて、私達はその時間のかけらを幾つも覗いてこの先起こることの可能性を占うの。……だから、今から言うことも、一つの可能性に過ぎないから」
その感覚を裏付けるように、
どこか厳かな、リーシャさんの声が。
私達の吐息以外、音のないこの部屋に、
神託の如く、不思議と響いて場を満たす。
「絶対じゃ、ない。……それだけは、わかっていて欲しい」
────こんな風に告げられるのが、悦ばしいことではないことくらい、私にもわかる。
「……あのひとに、何か……良くないことが起こるの、ですか」
どうしてそれを、道中ずっと側に居たあのひとではなく、私に教えてくださるのでしょうか。
思いつける理由が一つしかない。おそろしさで、背筋が強く硬って、動かなくなっていく。
せめて息だけは止めないよう、必死に心臓を抑えつけて。
恐る恐る返した問いに、リーシャさんは残酷なほどゆるく、静かに首を振った。
「そういう未来視も、あったわ。でもね、あたしがどうしても伝えたいと思ったのは……それよりもっとずっと、可能性が高い未来のこと、なんだ」
そうして、リーシャさんは尚も逡巡しながら……私の耳に顔を近づけて、吐息だけで密やかに、告げた。
私達夫婦を待つという、
今、最も可能性が高い、
ひどく恐ろしい未来の、
悪夢を。