Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】 作:サクライロ
「……大丈夫?」
心配してくださるリーシャさんの静かな声が、遠い。
一生懸命語りかけて下さっているのに、すぐ隣にいるのに、膜一枚隔てたような違和感。その内側で、どくん、どくんと自分の心臓の音ばかりが響いている。無意識に抑えようとした指先が冷たい。きっと私、今、血の気がひいて真っ青な顔をしている。
テュールさんも昨日、もしかしたら、こんな心地だったのかもしれない。
「……っ、でも」
溺れて、空気を求めてもがくように、苦し紛れに吐き出したのはひどく愚かな、浅はかな言葉だった。
「でも……、あのひとは、大丈夫、なんです……よね」
良くないこと。とても、良くないことだと、わかる。
怖気がする。それが現実になった時、彼にもたらされる絶望がどれ程悲惨なものになるのか。どれほど彼が苦しむことになるのか、手に取るようにわかってしまう。
でも。
「『そのとき』も、彼は、きっとご無事で……生きて、いらっしゃる……の、です、よね?」
唇が勝手に動いて、呟いた言葉と共にきっとひどくぎこちない……作り物のような微笑みが、零れ出た。
否定も、肯定もされなかったけれど、リーシャさんの紫水晶の瞳を見つめていたら、ああ、そうなんだとすんなり理解できてしまった。
「────か……った……」
良いはずがない。
良かった、なんて。言ってはいけない。
けれど、そうでもしないと、今はこの恐怖に心を壊されてしまいそうな気がした。
幼くして、何もかも喪って。
長い間、絶望ばかりに曝されて。
お義父様のご遺志に縋って、自分の望みは何一つ持たずに生きていらした。そんな彼を、今初めて幸せを知ったと笑ってくださるあの人を、今度こそ絶望の奈落へと突き落としてしまうのが、
────────私かもしれない、
なんて。
「わからないわ。あくまで、あたしが視た幾筋かの話でしかないし。……うん、でも、そう。テュールさんは、多分」
よほど告げることを躊躇ってしまうのか、それほどまでに恐ろしいことが起ころうとしているのか。
睫毛を伏せたリーシャさんは、大人びた、深い憂いを帯びた表情で静かに言い澱む。
見たこともない、『占い師』の顔をして。
「何度占ってみても、テュールさんの側にあたしがいる未来は視えなかった。……だからこそ、無理やりついていくことに意味があるかなって思ったんだけど」
寂しそうに微笑まれて、胸が張り裂けそうなほど痛い。彼女の想いが本当に痛いほど優しくて、刺さって、辛い。
一体いつからこの方は、私達のために悩み、考えてくださっていたのだろう。
「……まさか、リーシャさんはその先読みを歪めるために」
「違うわ!」
狼狽えた私より大きな声でリーシャさんが遮った。腰を浮かせて叫んだ彼女は、あの日夫に告白したときのように褐色の頬を薔薇色に染めて、どこか泣きそうな顔で訴えた。
「違うの。ちゃんと本気で好きだった。テュールさんの花嫁になれたらどんなに幸せだろうって思ったし、フローラさんが羨ましくてたまらなかったわ」
ひどく切ない瞳が真正面から私を捉える。すっかり気圧されてしまった私に、リーシャさんはまた、泣きたいくらい優しい笑顔を向けてくれた。
「お嫁さんにね、なりたかったんだ。元々出仕することになるかもって話はマイヤ様達としてたんだけど、あたしはどうしても姉様みたいに好きな人と……結婚して、幸せになるって夢も諦めきれなくて」
そしたらテュールさんに出会っちゃったんだよね、とリーシャさんは肩をすくめて恥ずかしそうに笑う。
「フローラさんのことすごく大事なんだって、あたしが入る隙なんかないって最初からわかってた。それでも、ううん、だからかなぁ? 看病してる姿見てたらつい目で追っちゃって、時々お喋りできるだけで嬉しくて。一緒に祠に行った時はどきどきして楽しくって……これでお別れなんだって思ったら、すっごく悲しくなっちゃって」
静かに、頷いた。あの時、瑞々しく頬を染めて訴えた彼女の恋が、演技だったなんて思わない。
他ならぬ彼への恋心を、私だけは疑わない。
「人の気も知らないで優しくするし、そのくせ全然靡いてくれないし……女として見てもらえてないからだって、わかってたけど」
さっきからずっと、きっと私を安心させようとしてリーシャさんが微笑むたび、切なくて、言葉で表しきれない苦しさで胸がいっぱいになる。
ビアンカさんの時と私達、きっと同じ、なんですね。
私達の恋に優劣などないのだもの。好きな気持ちに違いなんてない。相手がいようが、叶わなかろうが、出逢うのが早かろうが遅かろうが、芽生えてしまった想いを無理やりなかったことになんてできない。
好きなんだもの。その人の幸せをただ、願いたいんだもの。
「優しくて、話しやすくて、強くて格好良くて……フローラさんを一途に想うあのひとが、好きよ。やっぱり優しくて、いつだって女神様みたいに笑うフローラさんも、好き。そうやってお互いを大切に想いあっている二人が、大好き」
また切ない微笑みを浮かべたリーシャさんが、茶器を包んだまま動けずにいる私の手を包んで摩る。
やわらかな声が、耳の内側に優しく浸透していく。
「離れたくないって、あなた達と行きたいって気持ちに嘘はないわ。……信じて」
胸がいっぱいすぎて何も言葉にならない代わりに、一生懸命頷いてみせた。張り詰めたものをほっと緩めたリーシャさんが、紫水晶の瞳を揺らして少し困ったように微笑む。
「少し、不安なの。テュールさんってすっごく……フローラさんじゃないと、駄目なんだもん」
くしゃり、もう一度今にも泣き出しそうに笑ったリーシャさんに心が震えた。
答えたいのに。こみ上げた感情が喉につかえて、何ひとつ言葉にならない。
熱い目頭から涙が溢れるその前に、リーシャさんのあどけない腕が私の肩を思いきり引き寄せた。
茶器が揺れて、ぬるいお茶がほんの少しだけ、指先とテーブルを濡らす。
────強く抱き締めてくれた、
少女の小柄な身体が、極々微かに、震えていた。
「……頑張ってね。フローラさん。こんな未来なんか、思いっきり吹っ飛ばしちゃって」
弱々しい囁きに反して、震える腕は私の背をこの上なく強く、しっかりと包んでくれる。
もう、我慢できなくて。
限界を超えた感情が決壊する。視界がみるみる潤んで歪んで、はい、と絞り出した声もほとんど音にならなかった。頰をつたい落ちる熱い雫がとめどなく少女の肩を濡らしていく。嗚咽を必死にこらえながら腕を回して、彼女の小さな身体を精一杯受け止めた。
────あのひとにも、知ってもらえたらいいのに。
こんなにも大切に想っていただけているのだと。こんなにも心を砕いて、私達の運命を案じてくださる方がいるのだと。
「あたしも、頑張る。女王になるかなんてわかんない、けど、あたしなりにこの国のこと、世界のこと、二人のことも……色々考えて、頑張ってみる。だから、……だから、いつか絶対みんな一緒に、大人になったあたしに会いに来て」
幼い、涙混じりの声が耳にやさしく響いて、心地いい。
今は夢物語みたい。どこか遠くて現実味のない……けれど、どこまでも真摯な彼女の願いを、何度も何度も頷きながら聞いた。
絶対。絶対に、会いに来ます。
いつか、素敵な大人の女性になったこの方と再会する時、私の大切な方々が誰一人欠けることなく、会いに来られますように。
その時きっと、良かったねって。幸せだねって。
心から笑いあえることだけを、今はただ、希っていたい。
……優しさが沁み渡った心に、リーシャさんの切ないお声が、どこまでも深く、かなしく、響いてゆく。
「お願いよ、フローラさん。
絶対、ぜったい、一人にしないであげて。
あの優しいひとに、寂しい想い……させないで────」
涙で崩れた化粧を少しだけ整えさせてもらってから、テュールさんのところに戻った。
離席した時と変わらず、彼は数冊の本を傍らに積んでは黙々と読書に没頭していた。本を読むようになったのはここ一、二年のことだと仰るけれど、乾いた土のように彼は本を読み、貪欲に知識を吸収していく。旅の途中、私が勧めた本も既にほとんどを読破してしまっていた。
「ただいま戻りました」
いつも通りの微笑みを繕って声をかければ、テュールさんは優しく微笑んで顔を上げる。
「お帰り。楽しかった?」
「はい、とっても。美味しいお茶をいただいて、ついお喋りが弾んでしまいました」
「そっか。良かった、砂漠では二人が喋ってるとこ、そんなに見なかったから」
言われてみれば、リーシャさんはずっとテュールさんのお側にいらしたから、私とはあまりお話していなかったかもしれない。最後の晩もすぐに寝てしまったし……その後はあんなことがあって、慌ただしく見送ることになってしまったし。
「どんなこと話したの。僕の悪口でも言ってたんじゃない?」
雑談の内容を問われてどきりと胸が鳴ったけれど、冗談めかした物言いにつられて笑ってみせることができた。
「もう。悪口なんて言いません。テュールさんのどんなところが素敵か、二人でたくさん数えあってきたんですから」
つい緩んでしまう口許を誤魔化すためにわざと尖らせて見せれば、テュールさんは目を軽く瞬かせた後、溜息混じりに机に突っ伏し頭を抱える。
「数えるほどないって……そんなの」
腕に埋めた頭からちらりと覗く赤い耳たぶがお可愛らしい。ふふ、と思わず笑みが零れてしまって、テュールさんはそんな私をちらりと睨めつけると「……いいけどね。フローラが楽しかったなら、それで」と照れ臭そうに小さく笑った。
私の大好きな微笑みを独り占めしている。幸せで、ただそれだけで私の胸は何度でもぎゅっと切なく、甘く痛む。
絶対に悟らせない。動揺はもう、心の奥底に隠したから。
「いかがです? ……何か、気になるお話は見つかりましたか」
さりげなく椅子を引いて隣に座ると、テュールさんはばつが悪そうにそっと手元の本を隠した。
気になさらなくていいのに。彼の逞しい掌の下には、遙か東の大陸の地図が大きく描かれている。
「ごめん。勇者のこと調べに来たのに、つい……」
「テュールさんご自身のことなのですから、当然ですわ。……私も一緒に探してみますね」
昼食の前に持ってきた本がそのままだったけれど、テュールさんのお気持ちの方がずっとずっと大切だから。すぐに立ち上がり、改めて各地の歴史に詳しい本棚を探した。見つけた本棚には今はもう地図にない国名や、呼ばれることのなくなった大陸名がずらりと並んでいる。
エストア大陸。東国、改め東獄とも評されるそこには峻険で過酷な大峡谷が大陸の東西を分断し走る。その最奥地に、人を寄せ付けず建つ堅牢な王城があるという。
国名は知っていた。けれど、そこの出身だという方にお会いしたことはなかった。いくつかの史料に目を通していくと、およそ五十年ほど前の暦に併記して、当時の戦いについての記述があった。
曰く、魔族の激しい侵攻の折、時の王族が我が身かわいさに城と民を捨てて逃げ、城は朽ちて今や亡霊の居城と成り果てたと。
五十年前ということは、彼のお爺様か、曾お爺様の頃の話だろう。そこで滅んでいたなら、お義父様のご即位の報せがテルパドールに届くはずもないのに。
正直、自分が今までに読んだ本でもこれと大差ないことが書かれていた。勇者様の武具が伝わるという話もなかったし、だからこそこれまでグランバニアという国を特段気に留めたことがなかったのだ。何も知らない人間が書くものなんて、本当に無責任だと思わされる。アイシス様が国の記録を基に調べてくださっていなければ、敢えて訪ねようとも思えないような情報ばかりだ。
彼が読んでいる本にこんなこと、書かれてないといいけれど。
やっぱり、こういう本は八割疑って読むくらいでちょうどいいのね。微かな落胆と共にそんなことを思いながら、六冊目の本を手に取った。
さっきの本より少し古びているけれど、内容は割と新しい。凡そ三百年から数十年前までの、各国の王や戦士の武勇譚を集めた伝記本のようだった。目次を見るとグランバニアの方のお話もいくつか納められている。先ほどの戦いについても何か書いてあるかもしれない。逸る心を抑え、また、まともな内容であることを祈ってページをめくった。
────字面を追う前に、肖像画に添えられた一枠の挿絵が目に留まる。
何代前の王様かしら。立派な眉と口髭を蓄えたその方は、あまりテュールさんに似ていなかった。優しい印象のテュールさんとは違って、厳つい、いかにも武勇の方であるのが見てとれる。星形に似た特徴的な王冠を被り、強健な眼差しで絵のこちら側を射抜いている。
その方の、肖像の隣に描かれた紋章に見覚えがある気がした。
どこかしら。どこかで、ううん、私はこれをとてもよく見て、知っている────
「…………っ、これ……!」
ぱちん、と記憶の錠前が開いた。慌てて本を戻して席に戻り、読書中のテュールさんの肩をとんとん叩く。すぐ振り向いてくれた彼の腕を黙って引っ張り、たった今本を仕舞った本棚のところまで来てもらった。机で見せなかったのは何となく、人目につかない方がいい気がしたからだ。
「いきなりごめんなさい。あの、この紋章」
ともすれば震えてしまう手を必死に落ち着けて、さっきの本を引っ張り出す。
焦ってしまってうまく本を開けない。やっとさっきの、威厳のある国王様の絵が載ったページを開いて彼に見せた。
「テュールさんの、……お義父様の剣と同じ、ですよね……」
先日功績を挙げたばかりの客分の彼は、宴の日から城内での帯剣を許されている。食い入るようにその紋章を見つめた彼は、すぐに鞘から剣を引き出して確認した。
剣鍔に刻まれた紋章は確かに、本の中の図柄と一致する。
「その、剣の紋章も、以前どこかで見たことがあるような気がしていたのです。でも、中々思い出せなくて……」
言い訳がましい私の呟きを聞きながら、テュールさんの肩がだんだん、力なく下がっていく。
本棚の奥の壁に背を預け、片手で額を覆って……重苦しい溜息をついた彼が、ほとんど吐息だけで低く、呻いた。
「……本当、なのかな……」
親とはぐれた、迷い子のよう。
あなたらしくない、ひどく心許ない囁きが心臓を締めつけて、きゅうっと息が苦しくなる。
きっと表情を歪めてしまった私を見遣って、テュールさんが弱々しく微笑んだ。
「ごめん。……アイシス様の仰ったことが信じられないとか、そういう意味じゃないんだ」
またすぐに、足元に伸びる暗い影へと視線を落として。
昨夜からずっと苛まれていたご自身の葛藤を。彼は少しずつ、言葉に代えて吐き出していく。
ここまで、私に言うことが出来るようになるまで、彼は一人で何度も考えて、考えて、悩み抜かれたのだろう。
黙って続きを促せば、彼は縋るような瞳を一度私に向けた。小さく微笑みだけを返して、いつでも手が届くその距離で、ただ彼が伝えてくれるのを待つ。
大丈夫ですよ。
結論が出ていなくても、葛藤に押し潰されそうでも。
どんなあなたでもいい。誰より近くで、寄り添わせて欲しい。
「……なんて、いうか……グランバニアなんて国、僕はずっと知らなかったから。僕の故郷はずっとサンタローズだったし、そこが本当の故郷かも、なんて言われても正直……全然、実感が湧かなくて」
深く、お顔を伏せたテュールさんの独白は、本当に苦しげで。
叱責を恐れて隠し事をした子供が懺悔でもするみたいに、痛々しくて、小さくて。
それでも彼は、やっと形にし始めたそれを、一生懸命……誠実に、紡ぐ。
「わかってるんだよ。知ったからって、僕の何が変わるわけじゃない。それでも……怖いんだ。知ったらもう戻れなくなる。これが自分だと思いこんできたものが壊れてしまう、そんな気が、して。……行きたくないわけじゃない。けど、────怖い。情けないけど」
ああ。
私、たった今、
あなたを抱きしめたくてたまらない。
胸の内側に広がって抑えきれない、温かなものを代わりに抱きしめて。
溢れる想いをただ込めて、私はあなたを呼ぶ。
誰より恋しい『あなた』というひとを、何度でも。
「あなたが、誰であろうとも。例え、あなたのお名前が今と違うものになったとしても、私はあなたを恋い慕う、ただ一人の女でしかありません」
深く俯せた彼の、黒い睫毛が微かに揺れた。
それだけで、ちゃんと届いていることに安堵して。伝えたいこと、こうしているだけで溢れ出してしまうものを、一生懸命言葉に代えていく。
あなたがしてくれたように、私も、想いを込めて紡いでいく。
「お仲魔の皆さんも同じです。私も、皆さんも、あなたという方を心からお慕いしているからこそ、ここにいるのです。……いいえ、私達だけじゃありません。ヘンリー殿下も、マリア妃殿下も、リーシャさんやビアンカさんだって」
恐る恐る、顔を上げたあなたはどこか泣きそうな表情で目を瞠っていた。
零れそうに揺らめく黒曜石の瞳に、私に出来る精一杯の、愛しさと優しさを思いきり込めた微笑みを、向ける。
「怖くてもいいんです。ちっとも情けなくなどありません。半分ください、と申しましたでしょう? どんな時でもずっと私がお側におります。……あなたが、私を連れていってくださるなら」
今、告白するべきなのでは。
愛しい気持ちの片隅を、微かに理性が過ぎって戒めていった。
リーシャさんが語ってくれた、私達にとって忌むべき未来。それを私は、自分自身の科白の勢いに押し隠して飲み込んだ。
ほんのわずか、躊躇したそれに彼は気づかなかったようで、「フローラが来てくれなかったら、一人でなんて行けないよ。……ありがとう」と、控えめな微笑みと共に肯定してくださった。
気づかれなかった。ほっとして、思わず緩んでしまった頬を彼に向ける。今度こそ欠片も偽りない、私自身の想いをそっと、口にして。
「それに、あなたが今、ご自身の意思で故郷を、ご両親のことを知りたいと思われたのなら……お義父様も、魔界のお義母様も、そのことはきっと、とても喜んでくださると思うのです」
実の息子が、彼自身の力で、両親を────彼に連なるものを見つけてくれる。
そんなつもりはなかったけれど、私はいつの間にか、自分自身の知り得ぬ郷愁を彼と重ねていたのかもしれない。
本当の親を知らない私と、ご両親を失ったあなた。
だからこそ今、こんなにも嬉しくて、羨ましくて……眩しく、感じるのかもしれない。
「────────、……うん」
私の言葉を深いところに落とし込んで、ゆっくりと咀嚼した彼が、意志の漲る強い眼差しで顔を上げた。
窓の向こう、遥か遠い、日出ずる方角の彼方を見据えて。
「知りたい。父さんと、……母さんのこと」
窓の外は少しずつ、青から藍色に染まりつつあった。北東に面した図書室に西日は入らない。遠く東の果てを見つめたあなたの凛々しい横顔に束の間、我を忘れて見惚れる。
あの日、サラボナの街中であなたを一目見た瞬間から、その深い濃紺の双眸にどうしようもなく惹きつけられた。
「赤ん坊なんて、足手まといでしかなかっただろうに……それでも、父さんがどうして僕を連れて旅に出たのか。母さんはどんな人なのか、僕が生まれた時、二人に何があったのか……全然、人違いかもしれないけど。両親に繋がるかもしれないことなら、やっぱり知りたい。どんな些細なことだって」
強い眼差しの内側をほんのわずか、ご両親を想い、切なく慕う幼い少年の面影が揺れて、かすめていく。
けれど、あなたは自身の郷愁に流されない。寂しさも、痛みも、苦しみも、哀しみも、何度だって飲み込んでは立ち上がる力に換えて来られた方だから。
そんなあなただから、力になりたいと思うの。
その希みが叶う瞬間を、一緒に見たいと思ったの。
「行きましょう? あなたにきっと縁ある土地、グランバニアへ」
まだ見ぬ故郷に想いを馳せる彼の隣に寄り添って立ち、その手に指をそっと絡めた。炎を秘めた指輪に触れるときゅっと握って応えてくれる。もう一方の武骨な掌が長い髪を一条掬い取り、そのまま頬を包んで優しくなぞる。
「……一緒に、来てくれる? フローラが一緒なら僕は……何処へだって行ける」
優しく、揺るぎないあなたの誘いに、私も顔を上げて微笑み、迷いなく頷いた。
躊躇いなんてない。運命だって、怖くない。
どんな困難も試練も、あなたと一緒なら越えていける。
言葉の代わりに、そっと彼に身体を寄せた。広い胸に額を押しつければ、彼もまたふわりと微笑んで頭を撫でてくれる。とくとく、温かな鼓動を感じて、甘やかな幸せを噛みしめながら逞しい背中に腕を回した。しがみついた私を、彼も優しく両腕で包んで力強く抱きしめてくれる。
「────ありがとう。……愛してる……」
耳に落とされた吐息だけの低い囁きは、眩暈にも似た陶酔、恍惚を呼び醒ます。
黄昏時の図書室、背の高い本棚の間に埋もれるように。影を一つに溶かして抱き合った私達は、誰にも知られず密やかに、互いの吐息をそっと重ねた。
ここはどこ? ……夢?
見渡した世界に光はなく、音もない。純度の高い孤独の闇。そばにいると誓った、あの人の気配もない。
いいえ、いいえ。彼はきっと近くにいるはず。だって、離れないってあんなに強く誓ったのだから。
ふと、腹部を抑えた。まだ何も宿っていないはずなのに、とても大切なものがそこに在る気がした。ぬるり、座り込んだ下半身から何かが流れ出ていく。残酷な赤が闇の中、広がっていく。ああ、駄目。待って、行っては駄目。逝っては、駄目。
まだ、なの。まだ彼に言っていない。とても大切なことなのに、ちゃんと伝えたいのに言えない。だって、こんな風に失ってしまったら。それを本当のことにしてしまったら。
真実になんてさせない。
絶望なんて絶対、させない。
誰よりも大切なあなたを、私が絶対、独りにはしない。
「フローラ」
闇を掴んで振り払ってしまいたくて、宛てもなく彷徨わせた掌を暖かな指が捕まえてくれた。
……ああ、良かった。そこにいらしたのね。
ぼんやりと光を取り戻していく視界の中、深い黒曜石の瞳が真上から、心配そうに私を覗き込んでいる。
「うなされてた。大丈夫? 久々にあの、落ちる夢を見た、とか」
声をひそめて私を気遣ってくれる彼の姿にやっと、ああ、ここは宿だったのだと思い出した。目尻にそっと温かな指が触れて、零れ落ちたしずくを優しく優しく拭ってくれる。
「……泣いてる」
言われて初めて、自分が微かに震えていたことに気がついた。
「すみま……せん。こわい、夢、見ちゃったみたい」
慌てて自分の腰の下をまさぐった。シーツを汚していたらとぞっとしたけれど、ひとまず濡れてはおらずほっとして脱力する。こっそりと股にも触れてみたけれど、つい昨日始まったばかりの月のものが漏れた感触もなかった。
きっと、月のものの所為であんな夢を見たんだわ。そう自分に言い聞かせ、ようやくゆるく息を吐く。
どんな夢だったか、もうはっきりとは思い出せないけれど。
ひどく寂しくて、哀しい、虚ろな夢だった。
「でも、もう平気────」
言いかけた私を、力強い腕が抱き寄せて遮った。
逞しい両腕の中に私を捕まえたテュールさんが、愛しげに私の髪を梳いて、何度も優しく撫でてくれる。
「僕が、抱きしめて寝たいだけ。……おやすみ」
優しく、やわらかく微笑んだ彼は、すぐに瞼を落とすとほどなく規則正しい寝息を立てはじめる。
まだ速い鼓動が、少しずつ彼の静かな呼吸に溶けていく。背中に滲んだ嫌な汗も、彼の腕の温もりを感じていたら気にならないほどになって。その代わりに、たまらなく泣きたい気持ちがとめどなく喉にこみ上げた。
好き。好きです。本当にあなたが、大好き。
一緒に行きたいの。どうしてもあなたと、離れたくないの。
本当は、本当に一緒に行っていいのか、警戒すべきことをちゃんと相談して、二人でよく話して決めるべきなのかもしれない。ううん、そうすべきなんだろう。……けど。
(……ごめん、なさい)
ごめんなさい。
愛しすぎる寝顔に向かって、何度も何度も、声に出さずに繰り返し囁いた。
あなたじゃないと駄目なのは私の方。
あなたの隣にいられなくなったらきっと、私は寂しくて悲しくて、あっという間に枯れ果ててしまう。
怖いの。本当は、怖くてたまらない。誰よりもあなたに聞いて欲しい。大丈夫だよって抱きしめて欲しい。でも、あなたがこのことを知らなければ、悲劇は悲劇ではなくなるのかもしれない。知らなければ、もしかしたら絶望することもないかもしれない。……リーシャさんが考えてくださったことより全然幼稚な、こんなのはただのまやかしに過ぎないと我ながら思う、けれど。
リーシャさんが教えてくださった先読みの内容を思い返して、何となく、彼女にはまだ、私を慮って告げられなかった暗示があるのだろうなと、思った。
本当はもっとはっきり、『暗示』が視えていたのではないかしら。……私がこれ以上動揺しないように、言葉を選んでくださった結果があの内容だったというだけで。
そう思うと、本当は彼女が何を視ていたのか。考えるだけで恐ろしくて、隣に彼がいるのに身体がすくんで強張ってしまう。
死にたくない。死なせたくない。……一人に、したくない。
息が詰まる。そんな葛藤と相反して、淡い高揚感にじわり、心が浸っていくのも否応なしに感じてしまって。
(テュールさんと、私の、こども……)
敢えて考えないようにしていた『それ』に思考を寄せると、彼の胸許に埋めた頰がほんのりと熱を持つ。
喜んではいけないような、でもやっぱり、心躍らせるこの情動はどうしたって止められない。
浮ついていると思われたくなくて、なるべく表に出さないようにしていた。けど、本当はすごくすごく欲しかった。彼と私の血を半分ずつ継いで生まれてきてくれる、子供。肉親を知らない私には、生まれて初めて血の繋がりを持つ家族になる。それがテュールさんとの子だなんて、素敵過ぎて夢のよう。まだ旅を始めて半年、この後はもっと遠い異国を目指すのだから、懐妊なんてまだその時ではないとも思うのだけれど。
彼との子供を授かれるかもしれない。そう思うだけで、この不安な気持ちに拮抗するほど、甘くて幸せな気持ちが湧き上がって胸がいっぱいになってしまう。
……ああ、
早く、グランバニアに着けるように頑張ろう。私も。
そう考えてやっと、この重苦しさが少し和らいだ気がした。
どうしたって恐怖は消えないけれど、いつ身篭れるのだろう。性別はどっちだろう。どちらに似た子になるだろう。そんなことを考え始めたら、気持ちはすっかりそわそわする方に向いた。
大丈夫。大丈夫よ。リーシャさんだって、絶対じゃないって言ってくださったじゃない。
心の中で強く己に言い聞かせ、テュールさんの腕の中から枕元のチェストを仰ぎ見る。そこには今日の別れ際、リーシャさんがくださった御守り袋を置いてあった。
『フローラさんはテルパドールの民ではないから、私達の秘術を教えてあげることは出来ないけど……これ、あげる。マイヤ様からもらってきたんだ』
そう言って彼女が差し出したのは、隠匿の古代魔法を秘めた御守りだった。一度きり、中の石を取り出して念じれば誰でも、あらゆるものから身を隠してくれる御守りだから。と彼女は大事なそれを私に握らせ、託してくれた。
本当はこんなもの、使う機会ないのが一番いいよね。困ったように笑ったリーシャさんの姿が今も瞼の裏に焼きついている。
ゆきずりの旅人達に心を砕いてくださった。そのお気持ちに必ず報います。
絶望なんて、させません。
強い、強い決意を胸に抱き直して。愛しい夫の吐息を間近に感じながら、私はようやく再び、生ぬるい微睡みの中にゆるゆると意識を落としていった。
……◇…◇…◇…◇……
────────結局、
よく事情は知らないんだけど。
お二人はこれからも、伝説の勇者様を探して旅を続けるおつもりなんでしょう?
あのね。
彼に、家族……
ごくごく近しいひとを失う、暗示が出てる。
よく聞いて。
多分、これからフローラさんは身篭るんだと思う。
懐妊の暗示も出てるから。
でも、お子さんが無事生まれるのかがはっきりしない。そこだけがどうしても視えないの。
きっと、そこが運命の分岐点なんじゃないかって、
あたしは思うの。
失われる『家族』が、
フローラさんなのか、お子さんの方なのか、
或いは、両方なのかもわからない。
占いは、どちらの可能性も示してる。
お腹にいる間に、命を落とすことになるのかもしれない。
出産は命懸けっていうし、それが理由なのかもしれない。
……でも、もし、
もしそうなってしまったら、
きっと彼は今までにないほどの耐え難い絶望と苦痛、
昏い昏い、常しえの孤独を味わうことになる。
テルパドール女傑三人目。サブヒロインお疲れ様、のオリジナルキャラ、リーシャ・ガロン嬢。
【挿絵表示】
絵に書いてある通り、フローラに思いっきりやきもちを妬かせてみたかったが為に生み出された子なのですが、説得力のない横恋慕は書きたくなくてごちゃごちゃ練り練りした結果が↑。
やきもち妬かせる計画ってだけだったのに、何でこうなった一連の魔物騒動。
何度も思い知ります、ほんと物語って生き物(筆者の意とは別に動く)ですよね……
ここでやっと実質二幕の最終話なのですが、まだ10万字くらいの終章が残っていたりして。概ね読み飛ばして構わない10万字です。実は何度かアドバイスをいただいているのだけど全く活かせず、折角ご指摘くださった方には申し訳なく思います……いらんこと書きすぎなんだとわかっちゃいるのだけど、削るのが下手で読み辛い文章を改められず、本当に申し訳ない。