Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】 作:サクライロ
久々に訪れたラインハットは雪が深かった。
きりきりと骨まで響く冷え込みが古傷に堪える。二年ほど前にもオラクルベリーに長く滞在していたが、ここまでの雪は見なかった。尤もサンタローズやアルカパの方には山が多く、平野部にあるオラクルベリーに比べると雪が積もっていた印象がある。文字通り、橋を越えれば別世界だった。
サンタローズ村は僕にとって確かに故郷と呼べる場所だけど、幼少の頃のことはやはりあまりよく思い出せない。
「やっぱり留守だったね。……でも、良かった。出発までに会えないと、次はいつ会えるかわからないもんね」
重厚な造りの城門を出て一息つくと、碧い髪を白い暖かな帽子に納めた妻もほっとした様子で同意してくれた。
城門の入口で顔見知りの衛兵を捕まえた時、案の定いつものように城内へと案内されそうになったが、聞けばヘンリーは遠くレヌール城の方まで視察に出ており、不在だと言う。
レヌール城はアルカパの北西に位置する、僕が生まれた時には既に魔族に滅ぼされていた古城だ。古くはサンタローズの辺りまでがレヌールの統治下にあったという。周辺の村々は今は自治区という名目で、ラインハットの庇護下に置かれている。
僕がまだ幼い頃、レヌール城はお化け屋敷として周辺の住民達からひどく恐れられていた。実際、レヌールは当時ゴースト達の根城になっていて、それを一掃したのは実は幼い僕とビアンカだったりする。今思うとよくそんなことできたな、というか、もしかしたらあの城に縛られていた王と王妃の魂の力添えがあったんじゃないかなとも思う。幽霊と化したお二人を、僕らの幼さ故に視ることが出来たからこそ、加護に近いものを得られたのかもしれない。
多分、今も手入れのされていない古い廃城だが、最近あの辺りに旅人が住み着き始めたとかで、今はもう治める者のない城だからこそ、ヘンリーなりに気を回しているんだろう。
「王兄妃殿下が国王陛下と共に留守を守られておりますので、宜しければ!」「グラン殿のご訪問でしたら、御二方とも喜ばれます!」などと衛兵達は口々に言ってくれたが、年末でご多忙な時期だとわかっているのにそんな傍迷惑なお邪魔の仕方はできない。ましてや僕は要人でも何でもない、ただの旅人なのだから。
後日の謁見を平身低頭頼み込んで、それでもマリアさんのところへ案内してくださろうとするのを必死に止めて、なんとか約束を取り付けてもらった。この押し問答にかかった時間、凡そ二時間。
「……まだちょっと早いけど、お昼食べてから移動しようか? ここに来ると、何でかお腹が空いちゃうな」
半分くらいは気疲れだと思うんだけど。ぐったりと肩にのしかかる疲労感を紛らわせながらぼやいたら、健気な妻はすぐ隣で嬉しそうに頷き「そうですね。私、先日行ったお店でまたいただきたいなと思っていたのです」と優しく微笑みかけてくれた。
ああ、この笑顔を見るだけで本当に癒される。
つい最近まで遥か南の大陸に居たことを思うと、この気温差は同じ世界とは思えない。向こうも夜は寒かったけど、空気がからからに乾いていたし、雪なんてもちろん降らなかった。
白い息を吐きながら微笑みあい、冷えた小さな手を握る。
そうして僕達は連れ立って、開いたばかりでまだ客足の少ない食堂へと向かった。
今朝、目覚めて挨拶を交わしたときには、すっかり落ち着きを取り戻していた君だけれど、目許に浮かんだ赤みは正直だ。化粧で綺麗に隠してくれたから、ぱっと見はわからない……ことが今になって本当に恐ろしい。僕は今までどれだけ、このひとの化粧術に慰められてきたのだろう。
早く船長達に会いに行きたいのは山々だが、フローラが控えめに難色を示した。
「あの、ポートセルミに行くのは、明日……でも宜しいでしょうか」
遠慮しつつ問われて、否とは言えない。若い船乗り達はともかく、フローラと馴染みのある年配の方々には、昨晩泣いたことを勘付かれてしまうかもしれない。繊細な君はそう考えたんだろう。
「もちろん、いいよ。僕も今日は、ゆっくりしたいって思ってたんだ」
優しく答えて頬を撫でれば、フローラは微笑んでやわらかく息をつく。ちゃんと意図を汲めたらしいことが嬉しい。皿の底に残ったシチューをパンで拭ったところで「あ」と間抜けな声が出た。正面で目を瞬かせたフローラに苦笑を返し、僕はたった今思いついたデートコースを提案した。
「そうだ、じゃあ……このあとサンタローズに寄っていい? お爺さんと、父さんの墓にも、これからのことを報告しておきたくて」
そのあと、時間があったら少しオラクルベリーを廻って、出来たら修道院にも寄って礼拝して。夜しか営業してないオラクル屋も覗きたいな。そんなふうに誘ってみたら、フローラは花も綻ぶ愛らしい笑みで頷いてくれた。
「私も、サンタローズには是非行きたいと思っていましたから、嬉しいです。あなたと一緒なら何処だって……嬉しい」
頬を瑞々しい野薔薇色に染めてはにかむ妻が、ただひたすらに可愛くてたまらない。
何となく、サラボナに帰ってきてからフローラとの距離が縮まった気がする。別に今までがぎごちなかったというわけではないんだけど、大切に想うが故に、気を遣い合う感じがどうしても拭えなかった。久々に肌を重ねたからだろうか。一緒にいることを今まで以上に当たり前に感じて、少しの不安も抱かず彼女の想いを信じていられて。ここ数日も色々あったけれど、フローラ相手に変に緊張して息を詰めるようなことはひとつもない。
居心地がいい。君の隣以外の場所でどんなふうに呼吸をしていたのか、思い出せないくらいに。
相変わらず綺麗にカトラリーを使う妻に見惚れながら食事を終えて、雑貨屋に足を運び手土産を見繕う。
そこから街の外れの人気の無いところを選び、ルーラでサンタローズへと飛んだ。
凡そ半年ぶりの帰郷を、以前と変わらぬ顔触れが出迎えてくれた。以前薬師の親方が住んでいた崖下の家には家を失った夫婦が居を構えており、時折訪れる旅人を泊めることもあるという。まだ小さい息子さんはさすがに僕達を覚えていなかったが、村に入るなり「またおきゃくさんだー!」と飛び跳ねて住人達に知らせに行ってくれた。
鄙びた教会に残った神父とシスターも変わりなかった。洞窟付近の小屋に住むお爺さんも相変わらずかくしゃくとしていて、寧ろ前よりお元気そうでほっとする。
「今日は賑やかじゃのう。少し前に、ほれ、坊の友達がの」
友と言われて思いつくのは一人しかいない。フローラと顔を見合わせたところで、耳慣れた青年の声が僕を呼んだ。
「テュールじゃないか! 帰ってきてたんだな」
振り返れば村の外れから近づいてくる翠の髪。懐かしく感じるのは後ろで一つにまとめているからだろう。屈託なく笑いかけるその人を、僕が見間違えるはずがない。
「ヘンリー!? その格好……!」
驚愕し思わず叫んでしまった僕に、ヘンリーは彼らしい悪戯っぽい笑みを浮かべ、ひらひらと手を振ってみせる。
彼が着ているのは二年前、放浪の真似事を始めた頃に古着屋で揃えたくたびれた服だった。まだ処分していなかったのか。あの頃より手入れされてしなやかになった翠髪を無造作に引っ詰め、彼は肩に担いだ薪割り用の斧を丁寧に地面に下ろした。
慣れた様子のヘンリーを、フローラが茫然と見ていた。
「たまに来て、雑用させてもらってるんだ。お前達が元気そうでほっとしたよ」
なんとなく事情を感じ取り、相槌を打った。さすがにこれは、フローラには信じ難い光景かもしれない。
二年前、オラクルベリーの外れに粗末な小屋を借りて、一緒に暮らしていた頃の彼はこんな感じだった。手分けして薪を割り、下手くそな粥を拵えては分け合って食べる。当初は風呂なんてなかったので、冬場は特に辛かった。僕よりヘンリーの方が手先が器用で、料理もましだったなぁ……なんてことを思い出すと、今更ながらちょっと情けない。
あの神殿での日々を思えば、質素すぎる暮らしぶりにも文句などなかった。
それにしても、まさかここで会うとは。レヌール方面に発ったのは十日ほど前だと聞いたが、これまた随分と強行軍だ。隣のフローラが立ち上がり、淑女の礼を取ろうとしたが、ヘンリーはやはり苦笑いしつつそれを止めた。
「ああ、いい。そういうのはナシな」
白い息を風に流し、屈託なく言うヘンリーを少し困ったようにフローラが見つめる。そんな彼女にまたゆるく首を振って、ヘンリーは押し切るように頷いてみせる。
「俺、ここではただの『パパスさんの息子の友人』だから。パパスさんに昔世話になった餓鬼の一人でもあるかな。だからさ、普通にしててくれよ」
それでも尚戸惑い、僕をちらりと窺ったフローラに優しく肯定を返した。やっと納得したらしい彼女を見て目を細め、ヘンリーはさっき運んできた木材の上に腰を下ろす。
「……まだ、怖くてさ。俺の素性知ったら、村に入れてくれなくなりそうじゃん?」
声を顰めて囁いて、ヘンリーはまた自嘲気味に笑った。半年前デール様から伺った話を思い出し、無意識のうちに視線が地面の影をなぞる。定期的にラインハットに訪れている神父だけはヘンリーの正体を知っているが、いつも黙って迎えてくれているのだそうだ。
「いや、でも……危なくないか? ヘンリーに何かあったら」
「大丈夫だって。お前ほどじゃないが、俺だって鍛錬は欠かしちゃいない。それに、一応話のわかる奴は連れてきてる」
供もつけずに、とはさすがに濁して言ったが、ヘンリーが目配せした先を見れば、視界から大分外れたところに中背の男性が立っていた。目が合うと、顔を伏せて腰を折る。
「……あ」
こちらも町民らしい私服をまとっているが、そばかすだらけの面差しに見覚えがある。成長したヘンリーを見て感極まってらした……ああそうだ、以前関所を守っていた方だ。
「トム。覚えてるだろ? お前の大先輩だ。俺の筆頭子分のテュールな」
どういう言われようだか。苦笑いを噛み殺しつつ近づいて握手を求めると、彼はくすんだ茶色の髪を揺らし、丁寧に応じてくれた。
「忘れるはずもございません。その節は、我が国をお救いいただき誠にありがとうございました」と深々頭を下げてくださる。
「他の兵士と馬車は、少し離れたところで待ってもらってる。あんまり大勢で来ても警戒されるだろうしさ」
そう言って、ヘンリーは村の外に鬱蒼と広がる森を見遣った。
サンタローズは、山を背にして周辺を森に囲まれた村だ。サンタローズが焼き討ちに遭い、当時森まではさほど延焼しなかったものの、その後長く人が立ち入らない場所になってしまった。そうすると今度は、これまで人里付近には現れなかった魔物が棲みつく。サンタローズに戻ったばかりの頃、昔は見かけなかった魔物が村のすぐ側まで来ていて驚いた。
おそらくヘンリーとデール様は、村の周辺をさりげなく警護してくれているんだろう。劇的に、というわけではないけれど、サンタローズに来るたび魔物の気配が薄れている気がする。
「今はまだ、自己満足なんだ。俺の手でやれるだけのことをしたい。ここだけに拘ってる場合じゃないってのも、良くわかってるんだよ」
木材の上に座り込み、己の両掌をじっと見つめてヘンリーが呟いた。何か言って欲しくて零した言葉じゃないのがわかるから、僕も黙って視線だけを返した。
沈黙だけが過ぎる中、灰色の空からはらはらと粉雪が舞い始める。ヘンリーの翠の髪に触れるとあっという間に消えてしまう、ひどく儚い細雪。
感傷が過ぎるかもしれないけれど、ここでかつて犠牲になった人々が降らせた癒しの雪なのではないかと、僕には思えた。
「そういや、あれ……お前が作ったんだって?」
ふと、ヘンリーが顔を上げた。目配せの先、村を流れる小川の向こうに並ぶ墓標のひとつを示して彼が問う。半年前、ポートセルミを出港する前にフローラと一緒に作った、遺骨も遺品も眠ってはいない形ばかりの父の墓標が、風化した他の墓碑に並んで静かに佇んでいる。
「うん、フローラとね。僕もすっかり考えが及ばなくて……父さんのお墓、どこにもなかったよなぁって今更、思ってさ」
言いながら、ふと思う。グランバニアのことはヘンリーにもちゃんと話してから行きたいと思ってる、けど、何からどう話せばいい?
迂闊な言い方をすれば、彼はきっと自分を責めてしまう。いや、責めるなんて生易しいもので済めば良いけど。ヘンリーのみならず、デール国王をもひどく悩ませてしまうに違いない。
その後、父の死がラインハットでどう処理されたのか僕にもわからない。疑惑は無事晴れたと聞いたけれど、それはあくまでサンタローズの悲劇に紛れて数えられているだけだろう、と思う。
ヘンリーはきっと、パパス・グランが自身の誘拐事件に関与したと公に認めない。いっそ僕以上に父に心酔している彼だ。彼の英雄……父の名誉を守るため、パパスほどの男が自分の為に犬死にしたなどと、彼は誰にも言わせたくないのだ。だからこそ第一王子の件は関係なく、サンタローズの村長はあの日ラインハットの非道に抵抗し、村を守って命を散らしたのだと。言われなき冤罪に過ぎず、グラン氏は王太子の誘拐に全く関わっていなかったのだと、対外的には、そういうことで決着させているだろうと思われる。
ただ、最近になってもやもやと考える。当時のラインハット王は何故、只の村人に過ぎなかった父を招集したのだろうかと。
いくら気難しい王子だからって、子守のためだけに近隣の村長を呼びつけるか? 状況からして子守というより護衛目的に違いないが、それだって普通は自国の、信をおける兵士に任せるだろう。只の村長を腹心以上に重んじる理由がない。だがもし父が一国の王族であり、ヘンリーの父王とも以前から面識があったとしたら────説明がついてしまう。ヘンリーの件さえあくまで表層にすぎず、別の謀略に巻き込まれた可能性も。
「そう考えると、余裕なかったよなぁ。俺達」
僕の思考を知る由もなく、ヘンリーはのんびりと呟いた。
気取られないよういつもの顔でやんわり頷き、もう幾度となく口にした慰めの言葉を吐息に乗せる。
「でも、……是正できたことは、父さんも、ヘンリーのお父上もきっと、喜んでいらっしゃると思うよ」
欺瞞ではない。真実、やっと一つ父に報いたと思っている。
ヘンリーも、フローラも。黙って聞いていたトムさんも唇を引き結び、深く頷いてくれた。
暫しの沈黙の後、ひとつ息を吐いてヘンリーが立ち上がった。一拍置かずトムさんも彼に従う。つられて立った妻の手を取りヘンリーの後を追うと、彼は粉雪の中朽ちかけた橋の袂に立ち、その向こうに広がる、かつては畑だった澱んだ大地をじっと見つめていた。
「春には少し、改善できるといいんだけどな……」
ぽつりと呟かれたそれに首を傾げると、ヘンリーは曖昧に笑って視線を泳がせる。
曰く、毒素を含んだ土を浄化する方法を探しているのだと。橋を隔てた畑地とかつての僕の自宅、そして村の入り口一帯が広範囲に渡って汚染されている。ただの焼き討ちでこうはならない、おそらくあの偽太后率いる魔物達が何か撒いたか、それらの死体の影響でこうなっているのではないかと。
穢れた土を他所へ運ぼうとしたが、廃棄場所がない。少し掘るだけで毒に冒される為、長時間の作業も難しく、せめて侵食を抑えるために毒地帯の外側に浅い壕を掘り、聖水で清めているのだそうだ。掘った土は厳重に持ち帰り、毒素の分解を試みる。
「少し離れたところを耕してみたが、水が遠いんだ。土もあまり良くないから、やっぱりこの畑を早く使えるようにしたいな。あと、汚染されてるところをちびが踏み抜いたら大変だろ? 雪がもっと根付く前に目印をつけてやりたくて」
最後は僕の自宅跡を振り向き、ヘンリーが静かに言った。確かに、無防備に毒地を曝しておくのはよくない。必要なところを柵や縄で囲って、あっちの畑跡はあまりにも広範囲だし、冬の間は特に使い物にならない土地だから、いっそ橋を外しておこうかと言う。
神父に了承を得るためヘンリーが一度教会へと向かって、僕もせめてもと、旧自宅周りの柵囲いを請け負うことにした。
「こういうのは男手に任せて。フローラには、村の皆さんの話し相手をお願いしていい?」
僕を手伝おうとついて来てくれたフローラに声をかけると、彼女は遠慮がちに頷いた。そうしておもむろに、今来た道を振り返る。その翡翠の瞳が映すのは、ヘンリー達が早速作業を始めた堀の辺りだ。
「私……、ヘンリー殿下があんなに気さくな方だとは存じ上げませんでした」
「あれ、イメージ違った? そっか、フローラは王族らしいヘンリーしか見たことがなかったかもね」
自分自身のことは話したけれど、そういえばヘンリーについてはあまり話していなかったかもしれない。僕としては正直、ヘンリーといえども他の男に興味を持たれるのは面白くないので、今後もさほど詳しく話すつもりはないけど。
自宅周りを早々に終えてヘンリー達に合流し、入り口一帯にも柵を打ち込む。昼過ぎから始まった簡易柵の設置作業は、陽が傾く前に無事終わった。自覚するのも嫌だけど、僕もヘンリーも多分、身体に染みついてしまっているんだ。ずっとこういう力仕事ばかりやってきたから。
「良いタイミングで来てくれて助かった。さすがに、泊まりでやらないと間に合わないかと思ったよ」とヘンリーが労ってくれたが、それはこちらの台詞だ。ここまで細やかに気にかけてくれているとは思わなかった。
先を急ぐからと、ヘンリーはほとんど休みも取らず村を出るという。ルーラで送ろうか? と提案したが、あっさり断られた。元々日程を組んであるし、まだ見て回りたいところがあるから、とのことだった。見送りがてら、後日謁見を申し入れたことをこっそり告げると、ヘンリーは眼を円くした。
「お前がまともに予定を入れてくるとは驚いた。少しは常識が身についたじゃないか」
うるさいな。今までだって申し訳ないと思ってたよ。
数日後の再会を約束し、フローラと共にヘンリーとトムさんを見送ったあと、次の出立までにもう一度来訪する旨を村の人々に告げて、僕達もオラクルベリーへと飛んだ。
◆◆◆
商業都市、オラクルベリー。
市場を中心とした日中の賑わいは、夜になると少しだけ表情を変える。
この時間になると周辺に自警団が立ち、彼らに見守られて、郊外の家に帰る人達がまばらに街を出て行く。逆に仕事帰りの人や、宿で休息を取りたい旅人、カジノに向かう人などは煌びやかな喧騒へと吸い込まれていった。僕達は街の外側、あまり人が居ないところを狙って転移した。辺りはすっかり日没の頃合いで、オラクルベリー郊外から見える夕焼けを暫し、二人で楽しんだ。
海から少し内陸にある街なのでここから海は見えないが、地平を燃やす緋色とそれらを覆う藍が織りなすこの時間帯だけの幻想は、僕達の少し疲れた心を優しく癒してくれた。
「修道院には鐘楼がありまして。交代で鐘を鳴らすのですが、さほど高くない見晴らし台でもやはり私には怖かったのです。それでも、特に明け暮れ時の空と海は格別に美しく、毎回見惚れていたのを覚えています」
白い息を夕闇に溶かしつつ、フローラが嬉しそうに話してくれる。今日は遅くなってしまったけれど、今度修道院にも挨拶に行こう。抱き寄せてそう囁けば、彼女は穏やかな笑みと共に頷いた。
もう一度空を仰ぎ見て、その視界を左に辿れば嫌でも目に入る巨大な嶺。荘厳なはずのその頂は分厚い雲と稲妻を纏い、いかにも禍々しい気配を放っている。
この絶景にありて、あの一箇所だけが異様だ。まるで、神が怒りを露わにしているような。
気を取り直して、街に入った。ここはいつ訪れても活気に満ちていて、自分を知らない喧騒の中にいるということが何故だかすごくほっとする。自由を手に入れて、初めて踏み入れたごく一般的な人間の街がここだったから、かもしれない。修道院を出てオラクルベリーに入った時、たった今、この一歩から真実、僕の人生が始まるのだと震えたことは忘れない。
仕事を終えた人々で賑わい始めた歓楽通りを覗き、まずは食事処を探した。ほどなく香ばしい匂いが漂う大衆酒場的な店を見繕い、フローラを誘って入る。
本当はもっと格式高いレストランに連れて行くべきなのだろうが、まず僕がそういうマナーを全く知らない。恥ずかしながら。ついでに情けないことに財布に余裕もない。更には言い訳がましいけれど、当のフローラが心から楽しんで食事しているのがわかるから、つい甘えてしまうのだ。いつも綺麗な姿勢でカトラリーを用いる妻だが、最近では僕を真似て、素手で小さめの骨つき肉にかぶりつき、恥ずかしそうに笑ってくれることもある。そんな辿々しさが一層愛しい。
のんびり歓談しつつ楽しい夕食を終えた後は、手を繋いで夜の街をぶらぶら散策した。教会近くの辻で道ゆく人をじっと見ていたお婆さんに「そこの色男、なかなか面白い相が見える。ひとつ占ってやろうかえ?」と声をかけられたが、愛想笑いで躱した。また変なことを言われて落ち込みたくないし、占いはアイシス様からいただいた助言で間に合ってる。あの内容……グランバニアにまつわるようなことを言い当てられても正直、困る。
一つだけ、勇者について何か占いでわかることがあればと思って訊いてみたけれど「時が満ちれば、としか言えんな」とあしらわれてしまった。それって、まだ時機じゃないってことなのか? 今は探しても無駄だってことなんだろうか。
「そんなことより、わしはお前さんを占いたいんじゃがのぉ。実に面白い運命を持つお人じゃ」としつこく絡んでくるお婆さんに先刻分の代金を握らせ、そそくさと辻を離れた。
散歩の最後に、馴染みのオラクル屋を覗きに行った。夜しか開かないその店は、いつもならそろそろやっている頃合いだが、今日は少しだけ様子が違った。灯りはついているものの、見慣れたのれんがない。いや、看板が出ているし、営業はしているみたいなのだけど。
「あら? ホイミンちゃんそっくりの、あの可愛いのれんはどうなさったのでしょう……」
案の定、期待に足どりも軽やかだったフローラはしょんぼりと眉尻を下げている。「単に出し忘れているだけかもしれないよ。入ってみようか」と妻を促し、扉を開けた。
果たして中の店主はいつもと変わらず「よう、いらっしゃい! しばらくぶり」と気安く声をかけてくれた。何かめぼしいものはあるかと早速問うと、店主は些か申し訳なさそうな顔つきで頭を掻く。
「悪いな。ここのところ、面白い品が入ってこなくてさ……絵画とか壺とかそんなんばかりでよ。だが、お得意さんを手ぶらで返しちゃオラクル屋の名折れだ! ちょい待ちな」
言うなり、がさごそとカウンターの中を漁り始めた店主に、そういえば外ののれんは? と雑談がてら訊いてみた。相当意外だったらしく、店主はぱちぱちと睫毛を瞬かせたが、すぐにフローラに気付いてああ、と大きく頷く。
「あー、あののれん。だいぶ長いこと出してたんでボロくなってさ、修理に出そうと思って下げてんだ。そういや奥さん、あれをえらく気に入ってくれてたな」
僕より先にフローラがこくこくと頷いて、僕も苦笑しつつ同意した。店主も朗らかに笑ったが、ふと真顔になり僕の顔をまじまじと見てくる。え、何で僕?
変な汗が背中に滲むほどじっと見つめられ、そろそろ視線に耐えきれなくなってきた頃、ふむ、と店主が一つ大きく頷いた。
「……うん。あんたなら寧ろ、お誂え向きかもしれん。世界にただ一つ、この街名物オラクル屋ののれん! 買ってみないか?」
「は?」
思わず間抜けな声が出た。まさかののれん分け!? と頓珍漢な思考がぐるぐる回る。いやそもそも僕は商人じゃないんだけど!
思わず妻を振り返ると、僕と同じく言葉を失って目を円くしている。ああ、違う。これは感極まっている顔だ。無理もない、彼女が移住してでも毎日拝みたいと言っていた、あののれんを手に出来る千載一遇の好機が今、目の前に降って湧いたのだから。
「のれんにしちまっていたが、実はこれで立派な魔防具なんだ。昔とある魔物遣いがお仲魔に使わせた代物でな。うん、灯台下暗しってこういうことだな」
魔防具という響きについ身体が反応してしまう。喋りながらも件ののれんを引っ張り出し、店主がカウンターの上に広げてみせた。ほぅ、とフローラがまた熱っぽい感嘆の息をつく。声に出さなくとも「可愛い……!」という呟きが聞こえてくるようだ。
「スライム属にあわせた魔法処置が為されてる。具体的には疲労回復、傷の治りも早くなるんだったかね? 但しスライム属にしか効かん。近年じゃ魔物遣いもとんと見なくなったんで、こうして飾るくらいしかなかったんだが……あんたなら活用できそうじゃないかい」
……確かに。
身につけただけで生命力を補う魔防具とは恐れ入った。但し、これを一体どうやって装備するのか、全く想像がつかないが。のれんに使われているホイミスライムのモチーフは実際のスラりん達に比べれば小さいのだが、それが三体分となると中々の幅を誇る。サイズ的にはキングスライム用の防具なんだろうか。スラりんにしろホイミンにしろ、巻きつけて使うと逆に動き辛そうな気がするんだけど。
面白い代物ではある。凡そ市場では見たことがないし。先の魔物遣いが遺したものだと聞くと正直、すごく興味が湧く。
「ただまぁ、一応護魔布なんで修復に時間をもらわにゃならん。手間賃含めて、そうさな、一万ゴールドでどうだい?」
「護魔布の縫製でしたら、私、多少出来ます!」
ぐっ、高い!
思わず及び腰になった僕の脇から、ほとんど同時にフローラが身を乗り出し声を上げた。驚いて振り返れば、彼女の澄んだ両眼にはいつになく力が漲り、きらきらと輝いている。
「修道院で何度も手掛けておりました。私でも直せるものでしょうか?」
護魔布というのはその名の通り、精霊の加護を得るため魔力を施して加工された布地のことだ。加護布とも呼ばれる。見えない鎧の如く皮膚の脆さを補ったり、生命力を高めたりすることが出来る貴重な品である。確かドワーフ族に伝わるという秘法で、これを織れるのはドワーフやエルフといった人ならざる民のみだが、護魔布の効力を十分に発揮するための特殊な縫製術は人間にも伝えられているのだそうだ。多分、テルパドールの市で見かけたビスチェなんかは相当上等な護魔布を使っていると思う。
かなり専門的な分野だと思うのだけど、さすがは神に仕える修道院というか。僕の奥さんはやっぱり只者じゃない。
「ああ、奥さん、修道院のお人だったのか。そんなら問題ない」と店主も感心して頷いた。ついでに「いい嫁さんをもらったもんだ。羨ましいね」とにやにや冷やかされて、湧き上がる悦びに顔が熱くなってしまった。
「ちょっとほれ、こいつらを繋いでる触手が取れかけてるんでそこをちょちょいっとな。ついでに手の先がどれもよれちまってるから、出来たら直してもらって。その辺自分でやってくれるなら……うん、まけにまけて、五千ゴールドで譲ろうじゃないか」
おお、半額。というか、ここまで話が進んで買わない選択肢はなかった。
護魔布用の特殊な糸が必要ということで、取り扱いのある店を教えてもらった。妻も何度かお遣いに来たことがある、馴染み深い店だそうだ。「本職の方には敵いませんが、修道院で作る衣服に加護布を使うことが多かったのです。本当に、おまじない程度のものしか作ったことはないのですけれど」と謙遜しつつ教えてくれた。いやいや、十分すごいと思う。僕にはそういう生産的な能力がないから、余計に。
「本当に、本当に夢みたいです。まさかこののれんを手にすることができるなんて……!」
店を出てからも、フローラはずっと幸せそうにのれんを抱きしめていた。いかにもホイミンな見てくれのそれに何度も頬擦りする彼女に対して若干もやもやしつつ、嬉しそうな様子を見ると、こちらまで顔が綻んでしまう。何より、幸せが溢れ出ているフローラの笑顔は年相応にあどけなく、可愛くてたまらないのだ。
ああ、やばいな。今夜もまた、君に触れたくて仕方がなくなってる。
幸い僕にはルーラがある。思い立ったらすぐ移動できることがこんなに有難いことだとは。もう遅いし今日は帰ろう、と下心たっぷりに誘おうとしたその時、「もし、ルドマン様ではございませんか!?」と唐突に呼び止められた。
ぎょっとして振り返れば、そこは航海士アランさんのご実家、宿処マクベル亭の前であった。屈強な体躯のアランさんの兄君が、番頭のお爺さんと共に興奮気味に駆け寄ってくる。正確には僕達は『ルドマン様』ではないんだけど、もうこの勢いだけで何も言えず気圧されてしまう。
「いやぁ、なんと! オラクルベリーにおいででしたとは! ご健勝で何よりでございまして。や、よもや他の宿にお決まりだなどと仰いませんよね!? まぁまぁまぁこのような遅い時間まで、誠にお疲れ様でございます!!」
そもそも宿泊の予定など何も相談していなかった僕達は、亭主の揉み手と流れるような口上芸に乗せられ、あれよあれよとマクベル亭へと連行されてしまった。そうだよな、転移魔法なんて普通の人は使わない。夜に地元でもない街に居る時点で、どこかに泊まるのが当たり前だ。少々強引ではあるが、縁ある顧客を他所の宿に取られまいとする心情は理解できる。
「愚弟がご迷惑をおかけしておりませんでしょうか。以前お泊まりいただいた時、船旅の供をするなどと申しておりましたが」
「迷惑だなんて、大変助けてもらっています。魔物に遭遇した時も恐れず前に出てくださって……とても勇敢で、頼り甲斐のある方です」
アランさんについてそわそわと尋ねられ、船上での出来事を思い出しながら答えた。船乗りの中でも早いうちから打ち解けたアランさんと話す機会は多かった。感覚的に、歳も近くてまるで親戚の兄といった感じで。ナサカの浜辺では子供を庇って負傷してしまわれたけれど、すぐにフローラの魔法で治癒して、その後も後遺症はなく元気に仕事していらしたのだった。
ね、と妻に同意を求めれば、フローラも頷いて隣から優しく言い添える。
「アランさんには何度助けていただいたかわかりません。お人柄も親しみ深くて、責任感があって。共に船を護っていただけて、心強く思っておりますわ」
そんな僕達の言葉を聞いて、ご亭主も、奥から出てきた御隠居一同も感極まった風で目頭を抑えていらした。
通された客室は半年前と同じ、四階建ての最上階。部屋の窓からカジノを中心に夜の灯りがよく見える。ワンフロアまるごと贅沢に使用した客室に少ない荷物を下ろし、フローラが注いでくれた水を呷ってやっと一息ついた。
予算……うん、念のため多めに持ち歩いていて良かった。一泊なら大丈夫だろう。義父にいただいた貯金もあるけど、あれにはあまり手をつけたくない。次の出立前にまた小金を稼いでおかないと。
折角だし、明日は少し市場を廻って帰ろうかな。早く起きれば修道院の朝の礼拝にも行けるかもしれない。
……でも、今は。
窓際のテーブルでは妻がさっきののれんを広げ、触手部分をつまんで持ち上げたりしてにこにこ嬉しそうに眺めている。
「少し身体、動かしてくるね。フローラは先に湯を使ってて。……まだ、眠くない?」
肩越しに振り返った妻はまだ化粧を落としていないけれど、どことなく幼く、あどけない雰囲気を醸している。のれんが嬉しくてはしゃいでいるのだろうな、と微笑ましく思う。
それだけで終われば良いのに、最近君ともっと近づけたような気がする僕はすっかり我慢が効かなくなってしまった。
触れたい。抱きたい。こうやって二人きり、あとは寝るだけという状況になってしまったら。
「あまり声は出せないけど……寝る前に、ちょっとだけ」
それだけで、僕の邪な意図を理解してくれたフローラはほんのり頬を染め、こくんと小さく頷く。
悦びに弛む唇を彼女の額にそっと押しつけて、剣を携え部屋を出た。人気のない郊外のさらに外れに出て一、二時間、時折寄ってくる魔物を蹴散らしつつ鍛錬をする。雪は止んでいたが、足場がどうしても滑りやすい。逆に足捌きの訓練にいいかと思って、ぬかるんだところを選んでやっていたら、すっかり靴が汚れてしまった。別宅に戻ったら綺麗にしないと。
一通り日課を終わらせたところで、フローラが待つ宿に戻って湯浴みをした。
着替えなど一切持っていなかったから、フローラは部屋に備えられた白いローブを着て髪を乾かしている。
前を重ね合わせたローブに碧髪が散らされた様は、まだ少女らしい彼女の雰囲気に相反して、妙に艶めいた色香を醸す。
疲れたんだろう。少しうとうと肩が揺れているフローラをそっと抱き上げ、寝台に運んだ。ありがとうございます、と君が気恥ずかしそうに微笑む。それだけでもう胸がいっぱいになってしまって、約束通り少しだけ、湯上りでぽかぽか温かい妻とローブをはだけて抱き合った。
やっぱり、この瞬間が一番、心が解ける心地がする。
可愛い声が漏れないよう、口づけで優しく蓋をして。
いつもより緩慢に、じっくりと彼女を味わった。甘い花の香とぬるま湯に揺蕩うような心地よい幸福感の中、満たされあった僕達はやがて、どちらからともなく眼を閉じた。
◆◆◆
翌朝、まだ暗いうちに目覚めて支度をする。最近は僕も、フローラが化粧を始める頃には起きられるようになってきた。
普段は朝食の時間まで早朝稽古で身体を温めるのだけど、今日は修道院の礼拝に向かう為、早めに朝食をいただいて宿を出た。
ちょうど朝焼けが美しい時間帯だ。昨日降った雪のお陰で、空気がとても澄んでいる。凍りそうな寒風から妻を庇いつつ、南の修道院を目指して歩いた。舗装された森の脇道を抜けると、足下に降りた霜がしゃくしゃくと音を立てる。そのまま潮の香に誘われて南下すれば、やがて朝の光を瞬かせた水平線が見えてくる。
日が昇ってくると、そこかしこの民家から礼拝に向かうであろう人が増えてきた。
リーンゴーン、と重い鐘の音が潮風に紛れて響いてくる。森と海に挟まれた街道が海岸線にぶつかる頃、ようやく修道院に辿り着いた。門に立って礼拝者の案内をしていたシスターが僕達に気づき、嬉しそうに手招きしてくださる。
「まぁ、お二方がおいでくださるなんて。今日は何と佳い日なのでしょう! ご無事で何よりですわ。朝早くからまことに、ご苦労様でございました」
積もる話もあろうが、もうすぐお祈りが始まる。礼拝堂に通してもらい、長椅子の端にフローラと並んで腰を下ろした。
少し後ろから「お兄ちゃん! お姉ちゃんもー!」とこそこそ呼ぶ声がして、すぐにフローラが顔を綻ばせて振り返った。二列ほど後ろの席から、修道院に住み込みで下働きをしている母娘が、揃って手を振ってくれていた。
昔、フローラが修道院を離れた時、少女はまだ幼かった。それ故に半年前、少女は再会した元シスターのことを覚えておらず、フローラは少なからず落胆していたのだった。もちろん当然のことと割り切って優しく接していた妻だが、それだけに今回、少女の方から呼んでもらえたのは、彼女にとってたまらなく嬉しいことだったろう。
やがて、壇上に上がったマザーの厳かな声が福音を高らかに唱え始め、僕達は揃って指を組み、首を垂れた。竜帝へ捧げる感謝の祈りはやがて、シスター達による聖歌の斉唱に変わり、その頃には礼拝堂に集まった人々もそれぞれ起立し、唱和していた。
僕も釣られて立ったものの、歌詞なんてすっかり忘れてしまった。ここでお世話になった頃はそれなりに耳にしたというのに不甲斐ない。隣のフローラの澄んだ歌声に耳をすましながら、あの船旅の中で触れた、天空信仰にまつわる出来事にぼんやりと想いを馳せていた。
神の御許で死ぬ。信心深い人間には似合いの死に様だと揶揄した、酷薄だったはずのキメラの最期の生き様。
竜神の紋章の帆に神への淡い期待を抱いて、稚い願いを必死に叶えようとした、強い心を持つ少年。
今は、あの緑髪の少年が生き存えてくれているように。
神が存在するというなら、どうか、まだ幼すぎたあの子に、我らが天空神……マスタードラゴンの御加護があるようにと。
やがて礼拝が終わり、人々はそれぞれの生活に戻っていく。
聖堂を出る参列者達を見送った後、シスターや母娘達と改めて再会を喜びあった。皆さん口々にフローラが綺麗になったと褒めてくださり、妻はひどく恐縮していたが、幸せなのですね、と微笑んだマザーの言葉にはとても嬉しそうに頷いていた。
「そうして結い上げていらっしゃるのを見ると、ここで過ごされていた日々を思い出しますわ。お懐かしいこと」
親しげに声をかけてくるシスター達に囲まれ、フローラは楽しそうに思い出話に花を咲かせている。そんな彼女を微笑ましく見遣りながら、同じく彼女達を眺めているマザーに声をかけた。改めてこれまでのご厚意への感謝と、これからグランバニアという国を目指そうと思っていることを告げると、それまで穏やかに僕の言葉を聞いていたマザーが表情を曇らせた。
「グランバニア。良からぬ噂が蔓延ってその後、表舞台から姿を消した国ですね」
「噂……ですか? どのようなものなのか、良かったらお聞かせいただけませんか」
テルパドール城の図書館でも幾らか調べてきたので、心の準備は出来ている。残念だけれど、どの本にもあまり良い話は書かれていなかった。
「全ては噂に過ぎないのですよ。もう何十年昔のことでしたか、時の国王が────民を、魔族に売り渡したと」
それも読んだ本の中に書いてあった。父が王族かもしれない、と思うと信じたくない話ではあるけれど。思わず神妙に頷くと、「私が年端もいかなかった頃の話ですよ」とマザーが優しく言い添えた。とすると、もう五十年は昔の出来事なのだろうか。
「真偽はわかりません。それでもかつて数百年間、グランバニアは東の大陸一帯を支配し続けた大国でありました。ここ百年ほどで魔族との紛争が激化し、更には内乱の後、数多の国と同じく亡国となったとも。命辛々逃れてきた難民から端を発した噂だったと聞いています。その後、グランバニアの名を耳にすることはなくなりました。今はどうなっているものか」
言葉を切り、マザーは灰色の瞳を壁の向こう、神の塔のある方角に向ける。いつの間にかフローラも僕の隣に戻り、黙ってマザーの話に耳を傾けていた。
「ここから遥か南東に座す大陸にありますが、神々の地が近い所為か、海路で通じることは難しいとされています。元々険しい山岳の難所に囲まれた、閉ざされた地です。……苛酷な旅路になりましょう」
「彼のご両親が、グランバニアの方だったかもしれないのです」
尚も僕らを案じてくれるマザーの呟きを、フローラの凛とした声が引き継いだ。
マザーと、周りに残ったシスター達の視線が一斉に妻へと注がれる。否、僕もまた驚愕と、憐みを含んだ眼で見られていた。言葉はなくとも彼女達の目が物語る。滅びたとも言われるグランバニア、ではこの青年の両親は元難民だったのか、と。
だが、アイシス女王は仰った。凡そ二十年前、テルパドールはグランバニアから新王即位の報せを受けたのだ。
噂が全て流言飛語だとは言わない。だが、女王を信じるならその報せを出した当時、両親は確実にそこで生きていた。そして僕が生まれた……それだけで、僕がグランバニアを目指したい理由は事足りる。
大昔のことは二の次でいい。僕は今、僕に連なる両親のことを知りたいだけなのだ。
「難しい旅かもしれませんが……私にも、彼のルーツを探る為のお手伝いを少しでもできたら、と思っております」
強い意志を秘めた澄んだ声が、静かな聖堂に響き渡る。
皆、不安そうに僕達を見比べていたけれど。やがて緩く息を吐いたマザーが、真剣な面持ちでフローラを正面から見据えた。
「大丈夫、なのですね」
真っ直ぐに問われて、僕の妻は揺るぎなく首肯する。
もう一度、微笑んで彼女を見つめ返したマザーは、正に慈愛に満ちた母のように大らかに、フローラへ激励をくださった。
「貴女が譲らぬ心の持ち主であることはよく存じています。シスター・フローラ。くれぐれも、気をつけて行くのですよ」
かつての彼女の呼び名で呼ばれ、フローラは「はい」と力強く応えた。マザーは眩しそうに目を細め、次いでフローラだけを見つめたその視線を緩やかに下方へと流す。
「そう……御身を、特に大切に。ね」
思わせぶりなその言い方が、無意識のどこかに引っかかる。ほんの微かな違和感だったけれど、愛弟子とも言えるフローラの身を案じてくださっていると思えばそこまで気にならず、僕らはシスター達の慈悲と献身に感謝しながら修道院を後にした。
「……全ては、この目で確かめてから。ですよね」
転移魔法を使う為、人目につかない物陰へと移動しながら、フローラが極々小さく囁いた。
「うん。噂が本当でも……昔のことだよ。父さんがまだ、生まれる前の話かもしれないんだし」
僕も歩きながら頷いた。やっぱり、フローラもあの時そういう情報を読んできたんだ。僕を気遣って、今まで一度も話題にしないでいてくれた。
世界からほとんど隔絶された国。真実は、その身中に飛び込んでみないとわからない。
修道院での挨拶を終えた後はオラクルベリーに戻って、少しだけ買い物をした。例の糸を間違い無く買い求め、ルーラでサラボナに戻る。別邸の庭で仔犬と遊んでいたスライム属達が「あっ、ふろ〜らちゃん!」「ごしゅじんさまも、おかえりなさーい!」と真っ先に声をかけてくれた。
フローラが珍しく小走りで彼らに駆け寄り、大事に抱きしめていたのれんをいち早く披露した。うわぁ! と歓喜の声を上げ覗き込むスラりん達に囲まれ、幸せそうな妻を眺めやり、こっちまでにやけながら別宅に入る。フローラは早くのれんを直したいだろうから、たまには僕が昼飯を作ろうかな、なんて思いながら。
さて何を作ろうか。悩むほどレパートリーはないけれど。
手早く着替えをして調理の準備をしつつ、遅れて入ってきた妻に昼食は自分が作る旨を告げると、彼女は申し訳なさそうに一度頷いたが、すぐにエプロンをつけて厨房に入ってきてくれた。
「のれんはあとでゆっくり直しますわ。私もあなたと一緒にお料理したいです。……良いですか?」
はにかみながらそう言われて、やっぱり我慢が効かない僕は、衝動的に妻を力いっぱい抱きしめてしまった。
腕の中であわあわと体温を上げる妻を見下ろし、ごめんね、やっぱりすごく好きだなぁと思って。とにやけ顔で言い訳する。恥ずかしそうに眉尻を下げて見上げてくる様もまた可愛い。
そんなこんなで、僕達はパントリーを覗きつつ、今日のランチメニューについてようやく相談を始めたのだった。