Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】   作:サクライロ

59 / 78
#23-2. 手繰り綾なす【終章2】(2/2)

 昼飯を食べて少し休憩したあとは、帰宅の挨拶のため本宅の義両親を訪ねた。夕方はいよいよ、ポートセルミの海運漁業組合を訪問する予定だ。

 僕らの帰還の時期について、船乗りの皆さんにはざっくり伝えてあったし、早く顔を見せに行こうと思ってはいたものの、サラボナに戻ってから既に一週間経過してしまっていた。ポートセルミに行くなら義父もお誘いした方がいいかもしれない、と思ったのもある。以前の宴の席で、義父と船長達から盟友と呼ぶべき堅い絆を感じたから。

 果たして、在宅中の義父は夕刻の予定を聞いて大層喜んだ。お茶をいただき、義母を交えて暫し歓談した後、上機嫌の義父を伴いポートセルミへと転移した。

 暮れなずむ港湾の一帯は、着いたばかりの船から荷下ろしをする人や船舶の整備をする人、明朝の準備をする人々などでごった返していた。近海にやっと少しずつ、魚が戻って来ているのだそうだ。もちろん、最近沈没したポートセルミ籍の船はないという。

 魔物が全く出なくなったわけではないし、日々の警戒の賜物ではあるけれど、ほとんど船を出せず歯噛みしていた頃に比べたらずっといい。少しずつ安全を確保して、今は二、三週間に一度はビスタ港との往復も出来るようになったとか。

 忙しなく働く人足達の間を縫って、ルドマン卿は防波堤へと続く狭い道を悠々歩いていく。すれ違った人々は皆驚いたが、同時に威勢のいい挨拶がそこかしこから飛び交った。その背後に僕ら夫婦の姿を見つけると、船乗り達が大いにどよめいた。すぐさま人を呼びに数人が走り出し、こちらが係船場に到着する頃には、顔見知りの船乗りが一同総出で出迎えてくれた。

 ストレンジャー号の老練の前船長、イヴァン殿。まだ年若い黒髪のデニス船長。出航前の会議で顔を合わせた副船長達、航海士達。ストレンジャー号の乗組員以外、あの日共に戦った船乗り達がその後ろにずらりと並び、僕達の帰還を喜んでくれていた。

 イヴァン前船長……否、現組合長とお呼びするべきか。彼はまず主であるルドマン卿とフローラに対し深々と礼をとったが、次いで僕を目すると怖い顔のままずかずか歩み寄ってきた。船上での緊迫した遣り取りを思い出し、咄嗟に身を固くする。すわ殴られるかと身構えたが、果たして彼は僕の首に太く焼けた腕を回し、広い胸元にターバンを押し付ける如く乱暴に引き寄せた。

「おう、生きてやがったな! しぶとい小僧だ。そうでなきゃお嬢様の伴侶は務まらん!」

 褒めているのか貶されているのか、厳つい表情のままターバンをぐりぐり掻き乱される。まるで舎弟にするような仕草に気恥ずかしさを覚えながら「あ、ありがとうございます。その節はご理解と、多大なるご助力をいただきまして」としどろもどろに答えた。

 冬でも褐色に日焼けした逞しい老船長は僕の辿々しい謝辞を聞き、ニヤリと口端を歪ませる。

「地獄は免れたな。大見得で終わらせなかったのは褒めてやる」

 ……そういや後続の船が来るまで持ち堪えるって豪語した時、地獄の果てまで追いかけてやるとか物騒なこと言われたな。やられるつもりはもちろんなかったけど、この方なら本気で地獄だろうが魔界だろうが追いかけてきそうだ。

 それから一刻ほど待って、仕事を終えた皆さんと連れ立って、街で一番大きないつもの酒場に足を運んだ。ポートセルミの酒場はこの時間になると大賑わいになる。今日はルドマン卿もいらっしゃるので尚更だ。ステージには花形の踊り子が集められ、正面の特等席に卿とイヴァン船長が陣取った。いつの間に呼ばれたのか、イヴァン殿の奥方をはじめ、船乗り達の細君と思しき女性達も所々席についている。僕達も相席を勧められたが、義父達と同じ席はどうにも落ち着かない気がして、カウンターの反対側にある少し離れたテーブルを選んで、フローラと共に座った。

「やっぱり、テルパドールの宴で見た踊りに似ている気がしますわ。ほら、ご衣装も」とフローラがステージ上のダンサーを遠目に示す。衣装はともかく踊りの質はやっぱりわからないが、よくよく見ると中央で踊っている女性は確かに、あちらでよく見かけた褐色肌をしているらしかった。

 程なくイヴァン船長の仕切りで酒宴が始まった。開幕一声、今日一日の働きを力強く労われると、グラスを高く掲げた男達がオォ!! と海鳴りの如く呼応した。それを皮切りに硝子がぶつかり合う音が忙しなく響き、あちらこちらからオーダーを呼ぶ声と応じる声とが交錯する。

 少し落ち着いてから、こちらから皆さんにご挨拶に行こうと思っていたのだけれど。僕が立ち上がるより早く、名前も知らない船員さん達が代わる代わるテーブルを訪れてくれた。軽く乾杯しては、一人一人と短い言葉を交わす。無事で良かった、見事な戦いだった、あれを討てるとは思えなかった。海に散った客船の人々の魂もきっと浮かばれる。お嬢様に何事もなく安堵した。最後にとどめを刺した、あの仲間の魔物は無事か。

 僕やフローラだけでなく、仲魔達をも気遣ってくれる人が少なからずいて、胸が熱くなるのを感じながら、健在である旨を伝えた。次の出航前にはストレンジャー号の乗組員達も可能な限りここにお連れするつもりだったが、その時には仲魔達も連れて来ます、と言い添えると、皆さん揃って満足そうに頷いて下さった。

「大人気だな。青年」

 かれこれ二時間近く、絶え間なく挨拶を続けてようやく人が途切れたところで、ふぅと息をついたら背後から声をかけられた。物静かなその声の主は、例の海戦で後方支援を担当した新型客船フローリア号の船長、デニスさんだった。フローラにも卒なく紳士的な挨拶をすると、彼は温かい茶が注がれたカップを二つ、僕達の目の前にさりげなく置いてくれた。

 僕ら夫婦があまり酒を呑まないことに気づいてくださっていたんだろう。こういう心配りのできる人間になりたいと切に思う。

「恙無く……と言うには申し訳ない気がするんだが。有難いことに、我々船員に大きな被害はなかった。そちらの、その……魔物の方は、どうだい」

 自らは水割りをからりと鳴らして。僕を挟んでフローラと反対側の椅子を引いて腰を下ろし、デニス船長がおもむろに切り出した。

 彼もまた、ピエール達を気にかけてくれる。

 あの戦いで大きな損傷を負ったのは、結果として仲魔達の方だった。共に戦った仲間として、そのことをきちんと認識してくださっていると思うとひどく、面映い。

「あの時のスライムナイトは、すぐ持ち直して今は全く変わりありません。他のみんなも、元気です。……キメラは……そもそも、敵だった者なので」

 最後は言葉を濁して答えると、彼は軽く目を瞠ったあと、そうか、と小さく呟き手の中のグラスを呷った。

「魔物遣い────不思議な力で魔物を服従させ使役する者、か。伝説じみた存在と思っていたが」

 誰にともなく、ぽつりと独りごちて。

 何か、瞼の裏に思い返しているようだった。少しの間のあと、些か逡巡しながら彼は静かに呟いた。

 酒場の喧騒に反して、それはひどく鮮明に耳に届く。

「魔物だけじゃないな。君はまるで、ある種の……神のようだ」

「神…………、です、か?」

 呆気にとられ、思わず鸚鵡返しに訊き返したが、彼は答えず眼を伏せたまま暫しグラスを覗いて思案した。やがて険しい顔つきで面を上げたと思えば、また違った問いを投げてくる。

「あの時のキメラはもしかして、君達が会議の時に話していた奴らの残党か?」

 無視された回答が気になったが、とりあえず感情を整理し頷いた。あの戦闘の総括は後日、フォスター船長の帰還を待ってすることになっているのだが。

「残党……というか、そうですね。襲撃してきたうちの一羽でした。たまたまやりあった時に少し話をして、その後危ないところを助けてくれて」

 最期を思い出すと今も胸が軋む。同時に何故、あんなにも手助けしてくれたのだろうとも思う。

 スラりんを救って、ピエールを乗せて、最後は僕らを庇ってくれた。もう、その真意を直接訊くことはできないけれど。

「全然、楽しい話はしてないですよ。ただの尋問です。船を供物にするつもりかとか、何故フローラを狙うのかとか」

「お嬢様を?」

 しまった。フォスター船長はともかく、フローラが狙い定められていることは他の船長には伝えていなかったのだ。失言を鋭く聞き咎め、デニス船長は眉をひそめたが、すかさず答えたのは僕の隣で背筋を伸ばし、静かに話を聞いていたフローラだった。

「お父様にはテュールさんから報告してくださっています。ずっと昔から、世界中で特に、女子供が魔物に拐われるという事件が続いていることをご存知でしょうか。その被害者の要件がどうやら、私のように『変わった髪色』といった身体的特徴を持つ人間なのではないかと」

 美しく背筋を伸ばした彼女から、あの船上会議の時と同じ威厳が滲み出る。

 デニス船長もどこか畏った様子で、フローラの発言に耳を傾けていた。

「テュールさんはそのことを確認してくださったのです。……残念ながらその後、ナサカの悲劇は防ぎきれませんでしたが……」

 フローラが睫毛を伏せ、デニス船長も悼ましげに俯いた。ナサカの報告は当然ここにも届いていたのだろう。「ああ、それでお嬢様も……で、間違いなかったんだな」と低く問われて、黙って控えめに首肯した。

 外野の喧騒の中、暫し、氷がからんとグラスの中を踊る音だけがこのテーブルの上に響いて。

「……俺が『神のようだ』と言ったのはね。あの場で誰も、誰一人、君を疑う者がいなかったからだ」

 重く、低い囁きが、沈黙を割った。

 蒸し返されると思っていなかった僕は思わず目を剥いてしまった。それが可笑しかったのか、デニスさんはほんのわずか、笑うように口端を弛ませる。だがすぐばつが悪そうに目を逸らし、グラスを弄びながら言葉を選んだ。

「気を悪くさせたらすまない。正直、俺だけは今も少し……疑っている。疑おうとしている」

 ……隣で身動ぎ一つせず聞いていたフローラの肩が、初めて、ぴくんと揺れた。

 黒曜石の視線が交錯する。デニスさんの深い灰緑の虹彩が、僕の深いところを捉えようとしてくる。何かを試すような眼差しだと思った。真正面から僕を見据えた彼はやがて、おもむろに口を開く。

「どんなに従属していると言われても、魔物だ。手放しに信用できるものじゃない。普通ならね。ましてや敵も魔物を遣ってきていて、もしかしたらその教団自体が魔族の謀り事かもしれないんだろう? 君が使役する魔物達がそちらに通じていてもおかしくはない。寧ろ、こちらの味方だと盲信する方が危険だと思わないか」

 そこまで言うとデニスさんは一旦こちらを窺い見たが、逆に僕があっさり同意したことに戸惑ったようだった。何を驚くことがある、人間という一種族として魔物の存在原理を疑うことは誰にも咎められない。実際、多くは自分達に害を成す生き物なのだから。

 僕は仲間である彼らのことが好きだし、出来ることならこの先も共存を望むけれど、受け入れられない人を非難するつもりは毛頭ない。そんなの当たり前だと思ってる。

 ただ、そこにあるのが種族の隔たりだけだと思いたくない、それだけのことだ。

 心があって、意思の疎通が図れた時、種族なんてあまりに些末な問題だと思うだけだ。魔物だろうが人間だろうが、ドワーフだろうがエルフだろうが。相手を尊重し慮ることが出来る相手になら、僕の接し方は誰に対してでもきっと変わらない。それだけが、今の僕が持てる最大限誠実な答えだから。

 特に反論のない僕に怪訝そうな眼をして、デニスさんは更に躊躇いながらも続きを口にする。

「他ならぬお嬢様の伴侶であり、ルドマン様の後推しもあった。その上で俺もイヴァン船長も、ある程度の裏切りは想定していた。だが、実際戦場に出た時────やっぱり微塵も疑わなかったな。君や、君の魔物達があそこで反旗を翻すだろうだなんて思わなかった」

 わりと今、とんでもないことを言われてはいるんだけど。

 何故か僕は頭が冷え切ったままで、多分やはり表情を寸分も変えないまま、黙ってデニスさんの言を聞いていた。

 寧ろ、憤ったのはフローラの方だった。息を呑んだ彼女の手をすぐに包み、落ち着かせるようぎゅっと握り締める。

 僕が、フローラを人質にしていたのではないかと。そういう予測を立てていたと、この人は言っているんだ。

「……だから、今になって疑おうとしてるんだ。これでも昔から、猜疑心だけは強くてね」

 言葉とは裏腹に、彼は困惑を示すようにくしゃりと笑った。僕も別段警戒しているわけではなかったから、無難な愛想笑いだけ繕って頷く。

 少なくとも、この人は『敵』ではなかった。

 腹に一物抱えられるより、こうやって直接言ってもらえる方がずっといい。普通の人間にとって、魔物の力を借りるということが真っ当なやり方でないことくらい、承知している。

 外面はきっちり繕ったつもりだったが、いつしかデニス船長はなんとも言えない表情で僕の眼を真っ直ぐ見つめていた。何か、と首を傾げると、尚も逡巡しながら重い口を開く。

「わかるかい。……信じさせる力があるんだよ、君には」

 気のせいだ。そんなもの。

 咄嗟に吐き捨てそうになってしまった。肚の奥から迸りかけた衝動は、僕を見据える深い黒曜石の瞳に鎮められた。深い翠を帯びた黒い両眼が、真剣な色だけを纏って正面から僕を射抜く。

「頼ってやれ、って言っただろう? あの日、君はそんな視点を超越した、全然違うところに立っていた気がするんだ。どんなに疑いを抱いていても、受け入れ難い状況でも、いざ目にすれば信じざるを得ない。……まるで暗示だ。神懸かった、強烈な信仰のようだった」

 ────よりによって、自分が最も毛嫌いしているものに喩えて言われるとは。

 我ながら失笑を禁じ得ない。フローラの手前、惨めな自分を必死に隠して、眼を伏せたまま首を振った。どんな反応を期待していたものか、デニス船長は微かに溜息をついたが、すぐに肩の力を抜いて硬かった面持ちも崩した。

 喉を鳴らして一息に水割りを飲み干した彼は、もうすっかり普段と変わらぬ様子だった。

「ま、魔物遣いってこういうことなのか、と思ったって戯言さ。君が悪人じゃなくて本当に良かった」

「……わかりませんよ。いつか、酷い悪事を働くかも」

 知ったように言われるのが悔しかったのかもしれない。考えるより先に、そんな悪態が口をついて出た。

 何だろうな。決して嫌な人ではないのに、何がこんなに鼻につくのか。妙に神経に障るというか、自分と近しい黒髪黒眼の所為だろうか。

「お嬢様が悲しむことを、望んでする男には見えないがね」

 案の定見透かしたように微笑んで、デニスさんは氷だけになったグラスを持ち席を立った。ひらりと掌を返し、あちらで盛り上がっている船員達の集いに混ざっていく。

 その背をぼんやり見つめながら、僕はまとまらない思考の中、たった今もらった言葉の数々を何度も何度も反芻していた。

 デニス船長の言ったことは正直、概念的で僕にはいまいちよくわからなかった。

 信じざるを得ないなんて言われても。それって僕が本当に、仲魔に恵まれているってだけじゃないのか? そりゃピエールにしろスラりん達にしろ、彼らをちゃんと知れば疑う人なんていないだろう。本当に気の良い、仲間思いの魔物達なのだ。大体そういう……洗脳じみた、すごい影響力が僕にあったなら、ナサカの皆さんにあそこまで責め立てられることもなかったのでは。

 なんだろう。詐欺師にでも向いてるってことかな。

 ひねくれた考えに走るのは悪い癖だ。ふるふると首を振り頭を上げて、改めて、ついさっき言葉を交わした人々が集っている酒場の風景を眺めた。

 僕よりずっと年配の方が多い。アランさんくらいの若手達は少し離れたところで、楽しそうに肩を寄せ合い談笑している。時々目があうと、照れ臭そうに目配せで挨拶してくれた。それぞれ和気藹々と今日の仕事を労いあい、ふざけたり語り合ったりしている。

 あの人達はきっとみんな、仕事に精を出して、時々好物を食べたり、やりたいことのために金を貯めたりして、一日が終わるとこうして、気心知れた人達と酒を酌み交わすのを楽しみにしているんだろう。

 色んな人がいる。知っている人、知らない人。それでも共に戦い、命を賭けた人。覚えていてくれる人、怒ってくれる人、心配してくれる人、疑ってくれる人も。

 ああやって日々を一生懸命生きている人達に、僕は一生関わることがない人種なのだと思っていた。

 彼らの輪に加わることなんて、絶対にないと思っていた。

「────テュール、さん?」

 いつの間にか、フローラの手を握ったままぼうっとしてしまっていた。慌てて手を解き、拙い言葉を必死に繕う。

「……いや。いつの間に、僕の周りにはこんなに『人』がいたんだな、って……」

 あの牢獄から逃れて。修道院の方々に救われて命が繋がって。

 やっと自分自身の人生を手に入れたあの頃、僕はすごく孤独だった。側にいてくれたのはヘンリーだけだった。やっと戻った故郷はぼろぼろに朽ちていて、落ち着けるところなんてどこにもなくて。いっそ父の遺言など忘れて普通に暮らしたいと思ったことも正直、あった。けれど、じっとしていると気が急いて、父の懇願に急き立てられる感じがして。普通の人に紛れて生活することも、次第に息苦しく感じるようになっていた。母の居る生活というものをうっかり夢に見てしまったことも、何度かあった。

 ラインハットの政変を経て、ずっと共に過ごしてきたヘンリーと別れて。気づけば僕の居場所と呼べるのは、馬車と仲魔達の側だけになっていた。

 放浪は性に合った。当り障りない遣り取りばかり巧くなった。一期一会の人々なんて、他人以上の関係にはならないと思っていた。

 今だって他人には違いない。けれど、違う。前よりずっと、相手の生きた意思みたいなものを尊重できるようになった。その命の営みを大切だと思えるようになった。僕と知り合ってくれたことを、感謝できるようになった。

 ヘンリーだって、きっとそうだ。多分僕はあの時、諦めてしまったんだ。これでお別れだと思った時、ヘンリーとは別々の道を往くと決めた時、彼との縁はここで一度途切れてしまうのだと。十年分の腐れ縁なんて彼にはもう重いだけ、二度と同じ関係には戻れないのだろうと。

 全部、僕の勝手な思い込みだった。

 彼が僕を見放すはずがなかった。離れても尚変わらず、彼は僕の親分だった。今や彼は、彼にしか出来ない形で、ああやって手を尽くして僕の力になろうとしてくれているのだ。

「こんなふうに、誰かと過ごすようになるなんて思わなかった。親しい人なんて出来っこないって……そう思うと、僕は随分と薄情だったんだなぁって」

「そんなこと、ありませんよ」

 自嘲ばかりの情けない呟きを、フローラの澄んだ声が遮った。

 顔をあげれば、いつもの慈愛に満ちたあたたかい微笑みが、頼りないばかりの僕を優しく肯定してくれる。

「薄情なんてこと、ないと思います。大切にしたい、そう思えるご縁が増えたのでしたら……それがあなたにとってご不快でないなら、とても、素敵なことだと思いますし」

 ひとつ、ひとつの単語を大切に選びながら、彼女は誠実に言葉を紡いでくれる。

 君がそうしてくれることがとても素敵だと、僕には思える。

 君が言うと、本当にそうなんだって気がしてくる。

「大切にすることは、怖い、ことでもあります……ものね」

 どきん、と心臓が鳴った。矮小な自分を思いがけず、言い当てられてしまった気がした。

 微かな後ろめたさを感じたものの、フローラはそんな僕をもやはり、慈しみ深い瞳で穏やかに見上げていた。

 そこには、憐みや嘲りなんて欠片もなくて。

「私も、あなたに恋をして……一緒に過ごして、旅をして、知らなかった世界をたくさん知りました。大切にしたいものも、増えました。……強さなんだと思います。大切にする勇気を、持てるようになったの」

 静かに呟いた彼女は、小さな両掌をそっと広げ見つめる。

 空っぽのその手の中に今、彼女は何を宿し、視ているんだろう。

「以前の私なら、手を伸ばすことも尻込みしてしまったと思うから。……大切なものが増えることは、怖いです。失うかもしれないことが怖い。まして、私には守れる力などまだ、これっぽっちもなくて」

 どこか心許なさげに眉尻を落として。その手をきゅ、と握りしめ、彼女は揺るぎない眼差しを持ち上げてやわらかく微笑んだ。

 強く、儚い。まるで暁に微笑む、女神ルビスのように。

「それでも、私はあなたの側に居たい。そう、願うことが私に、勇気を……望むための強さを、与えてくれているような気が、するんです」

 いつか船上や、この街の夜の港で二人、テトラポットを眺めながら話した時を思い出す。

 彼女が密かに零した優しい優しい独白は、じわりと温かな熱を伴って僕の心に浸透した。

 僕が今感じている『これ』も、きっとそういうことなんだ。

 人を知って、また別れることが怖かった。幼い頃の僕はただ父やサンチョが大好きで、けれど別離は唐突に、理不尽に突きつけられるものだと思い知った。割り切らなければ生きることが辛過ぎた。だからこそ、大切に想うことから逃げたんだ。感傷なんていらない、ただ目的を果たすだけ、父の遺言に従って生きようってひたすら自分に言い聞かせて。

 それなのに、君は臆病だった僕の殻を一瞬で破壊した。失う怖さより、永遠に手に入らない恐怖の方が呆気なく勝った。世界が鮮明になったあの日から、僕を取り巻く人の綾はずっと温かく、近しくて、複雑になった。

 そんなしがらみが、今ではとても愛しく思えて。

「……すごく、わかる気がする。大切に思う、勇気……」

 それを彼女が『強さ』と表現してくれたことが、嬉しい。

 剣や魔法の腕では測れない。力の優劣でもない。

 大切だと思えた何かを、自分の手で大切にしていけるということ。それを望む勇気を持てること。

 それはきっと、孤独で臆病だった僕がずっと欲してきた心の強さ、そのものだった。

「テュールさん」

 指輪ごと白い手を包んだ武骨な掌に、もう一方の華奢な指がそっと添えられる。

 握り返して顔をあげれば、透き通る翡翠の双眸が愛しげに、僕を見上げてくれていて。

「……大好き、です。心から」

 耳に甘く、幸せを滲ませた君の微かな囁きが、届く。

 とくん、と。心臓がまた、悦びに震えて。

「僕も、誰よりも君を愛してる。本当に僕は、幸せ者だ……」

 何度でも、何度だって、僕達はこうして恋い慕い、欲し合う歓びを確かめる。

 やわらかな髪を、花の香薫る頭を抱き寄せ、腕の中に閉じ込めた。空色の髪から淡い珊瑚に色づいた頬を覗かせて、僕の大切な奥さんは、甘酸っぱい微笑みを僕だけに向けてくれる。

 手を離さない勇気を持てたのは、君が隣に居てくれたから。

 こんな薄情者の僕が善人だと言うなら、そこから踏み外さずにいられるのは紛れもなく、君がそのきれいな感情を惜しげもなく注いでくれるからだ。

「ったく、今時の若いもんは。人目も憚らず惚気やがって」

 白髪のイヴァン元船長が手元に残ったエールを飲み干し、忌々しげに舌打ちした。そういや義父を含めた公衆の面前だった。いつの間にかしっかり衆目を集めてしまっていて、今更羞恥に頬を染めたフローラが離れようとしたが、ここまで見られたら今更だろう。腕の中の妻に微笑みを落とし、離すどころかぎゅっと腰を引き寄せ抱き直した。フローラの顔が耳までみるみる真っ赤に染まって、同時にヒュウ! とそこかしこから冷やかしの口笛が飛び交う。

「良いんですかい、お義父様。あんなもん見せつけられて、内心穏やかじゃないんでは?」

「さぁて。イヴァンが初めて奥方をこの酒場に連れてきたのはもう三十年ほど昔だったかな? 鼻の下を伸ばしたお前さんに散々惚気られたもんだ」

「あら嫌だ、ルドマン様ったら。初めてお会いした時にはあたしなんてもう随分と年増でしたわよ。ルドマン様には子供達にまで本当によくしていただいて」

 昔の話を持ち出しての意趣返しに当の奥方本人が同調し、イヴァン殿はこれでもかと渋い顔をした。奥方は何か思い出したように瞳を潤ませている。そんな友人夫妻を笑って見遣り、義父は手の中のグラスをからんと揺らして、しみじみと満足げな顔をした。

「儂は嬉しいよ。あの子にこんな、平穏な幸せを望んでやれる日が来ようとは」

 ────それは、彼女が天空の盾の持ち主だから、だろうか。

 ぱっと思い当たるのはそれしかなくて、恐らく何も事情をご存知ない船員達は目を瞬かせて卿を見た。とは言え、僕もまだ何も知らない。どうしてフローラが『元々の』盾の所有者だと言われたのか。彼女自身がその使い手ではないことくらいしか、知らない。

「……負わせるばかりで、何も報いてやれなんだ」

 少し離れた座席に座っていた僕には、その独り言は残念ながら良く聞こえなかったけれど。同じく耳を澄ましていたフローラは何故か、泣きたいみたいにくしゃりと目許を歪ませた。

 完全に卿にあしらわれ、目論見外れたイヴァン殿が面白くなさそうに立ち上がった。カウンターで新しいエールを注がせると、その足で何故かこちらのテーブルに向かってくる。

「おい、坊主。いつまでお嬢様を独り占めしとるつもりだ」

 それなりに酔っていらっしゃるのか、軽口と同時に僕の背もたれにドカッ! と強烈な蹴りをくれた。いや、卿といいこの方といい、腕力脚力が半端ないな! 咄嗟に平静を装ったものの、臀部にびりっと衝撃が来た。

 船上での戦闘や、出航前の宝石集めでもフローラを危険に曝したことを、イヴァン元船長はしっかり根に持っている。この上テルパドールでの出来事を知られたら半殺しにされかねない、が、一度本音でやりあったからか、僕はつい太々しい返しをして彼の神経を逆撫でしてしまった。

「お言葉ですがイヴァン殿、フローラは『僕の』妻なので」

「ほおおぉ、言うようになったじゃねぇか。儂に口答えする度胸があるならこれッくらい、一息でいけるンだろうな?」

 近くのテーブルを乱暴に引き寄せ、僕を見下ろす形で腰掛けたと思えば、イヴァン元船長は口をつけたばかりの、まだなみなみとエールが入ったジョッキをだん! とこちらのテーブルに叩きつけた。

 げっ、これを一気飲み!? 下戸には難易度が高過ぎる!!

「およしったら! 全く、ジジイの僻み酒なんざみっともないよ」

 さーっと血の気がひいた僕の様子を察して奥方が止めてくれたが、この場の最高権力者たる義父は何やら涼しげに笑んで酒を舐めるばかり。その背後から、好奇と哀れみが入り混じった船員達の視線が幾重にも注がれる。なんだろう、これはもしや、いわゆる洗礼とかいうやつでは?

 フローラも、不安そうに僕とイヴァン殿を見比べている。

 なんとか断る方法をと思考を巡らせている最中にも、ほれ、と鼻先までジョッキを押しつけられる。下手すりゃ頭から浴びせられかねない剣幕に、恐る恐る酒を受け取った。独特の酒の匂いがつんと鼻の奥を突く。ジョッキと彼とをまじまじと見つめれば「儂とあんたの仲だろう、総帥殿」とニヤリと詰め寄られ、いよいよ後がなくなる。

 ────神よ、御加護を!

 人間なんて調子いいものである。普段微塵も縋らぬ神を念じ、一息にジョッキを呷った。一口、喉をまろび落ちたその一瞬でものの見事に食道が焼け、呷った体勢のままブホッ! と咽せてしまう。そのままげほごほと激しく咳き込み、口から鼻からとアルコールを噴き出してしまった。

「テュールさん!」

「あらら、若さんは強くないんだねぇ。大丈夫かい?」

 悲鳴を上げたフローラがすぐさま水を注いでくれて、空になったピッチャーを駆け寄ったイヴァン殿の奥方が取り替える。慣れたもので、手拭いに水を浸して額に充てがってくれた。そうこうしつつ若い船員を捕まえて、たらいを持ってくるよう言いつける。

 ばたばたと介抱してくれる人達に囲まれて、僕はひとしきり咽せて吐き出した後、木の椅子にぐったり身体をもたれてだらしなく宙を仰いでいた。酒が逆流した所為で顔中の穴という穴が痛い。瞼の裏に火花が散って、顔面というか身体が燃えるように熱くて、こめかみの血管ががんがん鳴り響く。おかしいな、ただのエールじゃなかったのか? ちょっと動かすだけで更に吐いてしまいそうで、怖くて体勢を変えられない。

 何度か酒の席をこなして、少しは強くなったと思ったけど。まだ全然駄目みたいだ。悔しいなぁ。

「酒の弱さは親父譲りのようだな。坊主」

 愉悦混じりにくつくつ笑うイヴァン殿の声が遠ざかっていく。あれ、何だか今、ものすごく気になることを言われたような。しかしすっかり朦朧とした頭では、理解が全然追いつかない。

「あのひと、孫が帰ってきたみたいで嬉しいんだわ。ちょうど若さんくらいの歳でねぇ。絡み方がそーっくりだもの」

「ジーラ! 余計なこと抜かしてんじゃねぇぞ」

 しれっと次のエールを注文しに行ったイヴァン殿が、カウンターからの大声で奥方に横槍を入れた。苦笑しつつ近づいてきたデニス船長が僕の脇の下に肩を差し込み、ひっそりと囁く。

「あの人のエールは特別なんだよ。度数の高い蒸留酒を割ってるんだ。知らずに飲まされるとキツいよな」

 ……そこはもうちょっと、早く教えて欲しかったな……

 思えば義父も相当の酒豪だった。同気相求むということか。

 たった一口で使い物にならなくなった僕はデニス船長と若い船員さんに支えられ、酒場二階の宿の一室に押し込まれた。寝台に横たえられ、少し遠くから「そんな状態では転移魔法も難しかろう。気にせず今夜はゆっくり休みなさい」と義父の声が聞こえる。くつくつと笑い含みに響くその声に、ひぁい、と呂律の回らぬ返事をして、そこからの記憶はない。

 翌朝目が覚めると、綺麗に身支度した妻が心配そうに僕を覗き込んでいた。起きてからずっとそうしていてくれたのだろうか。まだ頭はずきずきと痛かったが、ほんのりと鼻腔をくすぐる花の香りが昨夜、意識を飛ばした僕に寄り添い一緒に眠ってくれたであろうことを教えてくれて、ほわりと温かい気持ちになった。

「本当に、ありがとうね。酒臭くなかった?」

 水をもらって飲み干し、謝辞と共に滑らかな頬を撫でれば優しく微笑んで首を振る。「全然、気になりませんでしたよ」と答えてくれる聖母のような彼女に、それでもやっぱり臭っただろうなと思いつつ一度だけ、遠慮がちに口づけをした。

 珊瑚色の唇をそっと食めば、桃みたいに甘く蕩ける。

 ほとんど触れただけの幸せな口づけのあと、頬を薄桃色に染めはにかんだフローラが、急にしゅんと眉尻を下げて俯いた。

「昨晩は側に居ながらお止めできなくて、本当に申し訳ありませんでした」

「フローラが謝ることは何もないよ。僕がちゃんと断れば良かったんだ。みっともないところを見せて、本当にごめん」

 さらりとシーツに碧髪が流れて、慌てて顔を上げさせた。

 自分でもあれはないと思う。確か、思いきり咽せて……うん、絶対ひどい有様だった。あんな姿を見た上で幻滅しないでいてくれるフローラは、やはり女神としか思えない。

 落ち込ませてしまったかと思ったが、意外にも顔を上げた彼女は瞳に強い意思を宿して真っ直ぐに僕を見た。

「相手の事情を汲みもせず強引に呑ませるなんて、やっぱり良くありません。ましてやお酒は、人によって許容量が違って当然ですのに。イヴァン様には私からも良くお話ししておきましたから」

 正面を睨み、きっぱりと言い切ったフローラの表情は、義父絡みの話の際に時折見せる険しいもので、背筋が凍るような戦慄を覚えた僕は思わず、こくりと唾を飲んだ。

 それこそ孫娘のようなフローラに、こんこんとお説教される屈強な体躯の老船長か。申し訳ないけど是非見たかった。

 それから凡そ二週間後、僕達は再びこの酒場で二度目の壮行の宴を開くことになるのだが、その時のイヴァン殿は何故だかやけに大人しかった。フローラの『お話』が効いたのだろうか。口では相変わらず絡むが、若い船乗りに無理矢理呑ませようとする姿は見られない。久々に会ったフォスター船長も「どうしたんです、イヴァン船長。随分と人がまるくなって」と驚くほどだった。……時折イヴァン殿が戦々恐々という風にこちらを盗み見ていて、ん? と振り返ると、その視線の先には都度、フローラがにこやかに微笑んでいたのだった。一体彼女はどんな『お話』をしたのだろう。

 昨晩の吐瀉物で汚れた顔や身体は、意識が飛んでいる間に綺麗に拭いてもらってあって、シャツもすっかり剥ぎ取られていた。記憶が曖昧だが、多分デニス船長が処置して下さったんだろう。何もかも世話してもらったことに恐縮しつつシャワーを使い、洗い替えを借りて着替える。そういや昨晩は酒を吐いたのもあるし、そもそもずっと人と話していたからほとんど何も食べていなかったんだ。思い出したら急に空腹が辛くなってきた。

 そうして僕は小さくなりながらフローラと共に酒場に降り、豪快に笑い飛ばしてくれた義父と共に朝食をたらふくいただいたあと、ようやくサラボナへと帰還したのだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。