Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】 作:サクライロ
ふと、胸のあたりに熱さを覚えて目が醒めた。
まだ重たい瞼を薄くこじ開け、部屋を照らし出すその方角を仰ぎ見た。窓から低く差し込む光は朱く染まり、窓際に飾られたランプが床へと伸びる長い影を映し出す。どうやら、僕はすっかり夕方まで熟睡してしまったらしい。
ぐらつく頭を抑えながら肘をついて起き上がれば、あまりに着の身着のまま倒れこんでいた自分に失笑する。商売とはいえ、泥やら埃やら血痕やら、ついでに全身汗塗れのままシーツに倒れ込まれては宿の方の心労は如何ばかりだろうか。今更ながら、湯を使うついでにせめて目立つ汚れだけでも洗い落としてから返そう、と心に決め、手早く着替えを出した僕は浴場に向かうべく立ち上がった。
「──ああ! ようやくお目覚めですな」
廊下に出ると、ちょうど通りかかった支配人が僕を認め声をかけてくる。明け方から今まで一歩も外へ出ていないのだから無理もない。遠慮がちに笑って頷いてみせた。
「すみません、変な時間に休ませてもらってしまって。……少しシーツを汚してしまったので、あとで交換していただいてもいいでしょうか」
腕に抱えたシーツを掲げて見せると、支配人は大袈裟に腕を振りながら僕に近づく。
「ええ! ええ! お安いご用です。そちら、今お預かりいたしましょうか」
「あ、いや、すみません。申し訳ないので落ちるところまでは洗ってからお返しします。……少し、傷口が開いてしまったみたいで。本当に申し訳ありません」
支配人の厚意に思わず及び腰になりつつ、シーツを抱え直して答える。血痕もそうだけど、考えてみたらあの灼熱地獄でかいた汗を全く流していなかった。──今の僕はもしや、とんでもない悪臭を放っているのでは?
「あの、湯をお借りしてきますね。それでは」
慌てて支配人から目を逸らし、そそくさと階段を駆け下りた。とにかくこの身にまとわりついた汚れを早く落としきってしまいたくて、脱衣場に飛び込むと急いで服を脱いだ──瞬間、服の内側から何か小さいものが転がり落ちそうになり、咄嗟に手を伸ばしてそれを掴み取る。
「あ……、いけない」
忘れていた。掴んだ掌には昨夜、懐に入れたままにしていた炎のリングがほんのりと熱を帯びたまま納まっていた。嵌め込まれた石を覗き込めば昨日も見た炎が石の中、艶めかしく揺らめいている。昨夜はアンディの看病を手伝うことに必死だったから──そういえば、指輪を手に入れたことをまだ誰にも言ってなかったな、と思い至る。
……フローラは、喜ばないかもしれないな。
昨日の涙を思い出し、ずきりと胸が鈍く痛んだ。
僕が一つ目の指輪を手に入れたことを知ったら、彼女はどんな反応をするだろうか。
喜ぶ姿を想像したかったけれど、昨日のあの憔悴した顔がどうしてもちらついた。何の憂いもなく、僕が指輪を得たことを喜んでくれる彼女の姿など、どうしても想像がつかなかった。寧ろ、危険を冒したことを哀しむ姿しか、浮かんではこなかった。
──もう一つの、もっと嬉しくない可能性がその姿の裏側にちらついたが、頭を強く振って追い払った。
どうしたらいいんだろう。……それでも、僕は彼女を諦めたくないと思っている。リングを二つ、手に入れることで彼女を得ることが叶うなら、どんな危険を冒したって手に入れようとすら思っている。
そんな風に僕が、誰かが彼女の為危険に身を投じることを、彼女が何より望まないだろうということも、解っている。
(……やめよう。考えたって、答えは出ないし……)
所々破れた汚ない服を脱衣所の籠に畳み入れ、大きな溜息をつく。──恋の病とはよく言ったものだ。こんな痛み、ずっと続いたら僕は早晩神経をやられてしまいそうだ。
握りしめたままの指輪を、部屋に置いてくれば良かったと一瞬後悔したが、置いていくよりは身につけていた方がいいかなと思い直す。結婚指輪にすると言っていたものだけれど、少しの間ならつけていても問題ないだろうか。
湯浴みの間だけ。そう言い聞かせながら、躊躇いがちに指を通した。──まるで僕の薬指に誂えたようにぴったりと嵌ったその指輪は、艶めかしい夕闇の紅を湛えたまま静かに光を照らし返していた。
全身を洗い流してさっぱりしたら急激に腹が空いてきて、急いで湯浴みを終えた僕は固く絞ったシーツと引き換えに簡単な食事を頼んだ。
「永く宿屋を営んでおりますが、ご自分でシーツを洗ってくださったお客さんなんて初めてですよ」
支配人とコックの方に苦笑されながらも手短に食事をとり、仲魔達の分の食事も頂いて宿を出る。馬車で待っていてくれている皆に頭を下げつつ食事を届けてから、改めてアンディの家に向かった。
指輪は今一度、失くさないよう鎖を通して首にかけ、服の内側に隠した。昨晩のことがあったからか、まだ誰かに見せる気にはなれなかった。
家に着いて扉をノックし、また中に入れてもらう。覚悟はしていたが、昨晩以上にやつれた様子のフローラがやはりアンディの傍らに座っていた。その向かいで、患者の上だというのにちゃっかりアンディの腹の上に乗っかり回復を施すホイミンの姿が見える。
僕が声を発する前に気配に気づいたらしいフローラとホイミンがほとんど同時に顔を上げ、「テュール、さん」「ごしゅじんさまぁ!」とやはり同時に──否、控えめなフローラの呼びかけに被せるが如く、ホイミンが嬉々として叫んだ。
──そこはホイミン、空気を読んでくれたら……っ!
彼女が僕の名を呼んでくれた。そんな僕の密かな歓びと落胆など知る由もなく、ホイミンは嬉しそうに触手をくねくねと躍らせる。その様子に、くすくすとフローラが小さく笑うのを見て僕は更なるショックを受ける。
──なんでホイミンがフローラと仲良くなっているんだ!
そんなことを本人の目の前で、しかもこの状況で言えるはずもなく。動揺を必死に腹の奥へと押し込めつつ、挨拶代りに小さく頭を下げてみせるとアンディの容体を確認する為、ベッドの側へと歩み寄った。
アンディの顔はまだ少し赤かったが、昨晩のような内に篭った苦しさはかなり和らいでいるように見えた。穏やかな寝顔に、ひっそりと安堵の息を漏らす。
「昨晩より、ずいぶん落ち着いたみたいです。……テュールさんと、ホイミンちゃんたちのお陰ですわ」
目許に隠しきれない疲労を滲ませ、フローラがそう言って微笑む。
いつから来ているのかはわからないが、その横顔からはやはりろくに休息を取れていないのだろうと推測できた。
「いえ、そんな……貴女の献身の賜物です」
うまく言葉を選べなくて、そんな風に返した僕に、彼女はいよいよ申し訳なさそうに肩を縮めて眼を伏せる。
「……私は、今日はほとんど見ているだけでしたから。ピエールさんとホイミンちゃんが、何度も魔法をかけてくれていたんです。──テュールさんも、明け方までそうしていてくださったと、おばさまからお聞きしましたわ」
膝の上にきちんと揃えられた白魚の手は、指先と甲が特に痛々しく赤らんで見える。
昨晩から続く看病で、魔法が使えなくなるほど消耗しているはずなのに。それでも出来る限りそばにいて、何度も手拭いを変えて、身体を冷やして、薬草を塗り直して、時折アンディが身じろぎすればその口許にこまめに水分を運んで。
きっとそうして、彼女が献身的に看病を続けていたから、アンディはここまで回復できたんだろうと思う。
──本当に良かった。そう思いながら、腹の内側でちりちりと嫉妬が燻るのを止められない。
「ホイミン。休んできていいよ? しばらく僕が代わるから」
そんな、直視したくない黒い感情に黙って蓋をして。ずっと魔法をかけ続けてくれているであろうホイミンを撫でやり、休憩を促した。
「そぉ〜? ごしゅじんさま、ねた〜?」
「うん、もうぐっすり。魔力も戻ったし」
微笑みを返し、昨晩から何度も詠唱した回復魔法を掌に喚び起こす。今朝方枯渇した精神力は日中のほぼ全てを費やした睡眠で無事回復を果たしていた。
「じゃあ、ちょっとだけいってくる! ふろ〜らちゃん、またね〜!」
相変わらず、疲労など感じさせないのんびりっぷりで部屋中を大きくふよふよと漂い、ホイミンは窓から出て行った。いつの間にそこまで親しくなったのか「本当にありがとう。ゆっくりしてきてね」とフローラが微笑みそれを見送る。──何故か、つい最近そんな夢を見たような気がして、僕は軽く瞬いてから首を振った。
「貴女も、少し休んだ方がいい。僕が看ていますから」
魔法を施しながら休息を勧めてみたが、彼女は緩い笑みとともに遠慮がちに首を振る。
「お気遣いありがとうございます。でも……家に居ても、眠れなくて」
そっと、青黒く染まった目許を隠すように触れ、彼女は僕から顔を背けるように俯いた。
「……ごめんなさい。お見苦しい、ですよね」
「そんなことは」
思わず大きな声が出てしまい、慌てて言葉を呑み込んだが遅かった。小さく呻くような声がベッドの方から聞こえ、フローラは反射的にそちらへと身を乗り出す。
「────、アンディ」
金髪の青年は、うっすらと瞼を開けると僕が見たこともない穏やかな、優しい眼差しを彼女に向けた。
「……なんて、顔。してるの……フローラ」
「……っ、だっ、て、……あなたが……」
みるみるうちに瞳から涙を溢れさせるフローラを、アンディがさも愛しげに見遣って。
そんな光景を目の当たりにして、ざわざわと耳障りな音が鼓膜の内側へと纏わりついてくる。
「……つくづく、運の強い人ですね」
二人のやりとりに立ち尽くすばかりの僕にやっと視線をよこし、アンディがそう呟いて、息を吐く。
「二度も……助けられました。ありがとう、ございます」
「いえ、仲間達が頑張ってくれたお陰です。それより……間に合って、良かった」
二人には見えないよう、後ろ手に拳をきつく握りしめて、平静を装い答える。──こんな気持ち、どちらにも絶対に気取られたくはない。
僕の澱んだ感情などきっと知らない彼女が、涙を拭いアンディに言葉をかける。
「ずっと、あなたに回復魔法をかけてくださっていたんですよ。テュールさんも、仲間の皆さんも……ガンドフさんだって、昨晩ずっとあなたの身体を冷やしてくれて……」
荒れた手で、脱力したままのアンディの掌を包んで。彼女は含めるように、一言、一言丁寧にそれを伝えていく。
「もう、あんな危険なところには、行かないでください……お願い」
最後はまた、涙声に呑まれて。
しばらくそうして、フローラのすすり泣くような声だけが室内に密やかに響いた。
「まったく……存外、気が利かない人だな」
ややあって、呆れたようなアンディの掠れ声が耳に届く。何もできずただ立ち尽くしていた僕は、彼の言葉に若干鼻白んだ視線だけを返した。
「……あんな、溶岩の向こうまで単身乗り込んでおいて、生きて帰ってきたんです。……手に入れたんでしょう?」
アンディの静かな問いかけに、本当にごく微かに、
フローラの小さな背中が、震えた気がした。
ベッドに深く身体を沈めたまま僕にそう問うたアンディに、僕はただ──黙したまま、顔を背けた。
手に入れた、と、この場では何故か、言いたくなかった。
肯定も、否定もしたくなかった。
下らない、意地だったのかもしれなかった。
────臆病だったのかも、しれなかった。
彼女が其処で、どんな心境で、僕の答えを聞いていたのか、
そのときは確かめるのが、ただ酷く、
怖かった。
その後すぐ、当のアンディに促され、僕はフローラをルドマン邸へ送るという名目でアンディの家を追い出された。
もう大丈夫だから、フローラの方が倒れそうじゃないか。しっかり休んで、元気になったらまた顔を見せに来て。
看病していた本人からそこまで言われたら、フローラもさすがに引き下がるしかないようだった。
辺りはすっかり暗かったから彼女を送ること自体はやぶさかではないし、束の間とは言え二人きりで歩けることは嬉しかったけれど、それ以上に今は、先ほど答えられなかったアンディの問い掛けが重く心にのしかかっていた。
──気づきたくない、考えたくないことが。一度は黙殺した考えが、さっきから否応無しに僕の思考を揺さぶっている。
「……テュール、さんは」
そう、遠慮がちにフローラが言葉を発する。
「……あの……いえ、ごめんなさい。なんでも、ありません」
何か問おうとしたようだったけれど、そのまま口籠もり、また沈黙してしまう。僕も、折角のフローラと話す機会だというのに、聞きたいこと、話したいことが何一つまとまってくれなかった。
何を言っても、何を聞いても、己の情けなさを露呈するだけのような気がして。
────指輪を、
僕が持ち帰ったなら、貴女はどう思いますか。
あの日「夫となる人は自分で決めたい」と言った貴女に、意に添わぬ婚姻を強いてしまうことにはなりませんか。
大広間に候補者が大勢ひしめき合っていた中、僕に気づいてくださったのはなぜですか。
アンディをあんなにも親身に看病したのは、幼馴染だから、ですか。
あんなにも泣いたのは、ただ僕の身を案じてくださっていたから、なのですか。
────誰に、『夫となる相手』を、望みますか。
「……テュールさんは、お優しい方ですね」
唐突に。ぽつりと、彼女が僕の隣でそう呟いた。
「──そう、でしょうか」
どきりと心臓が高鳴る。その動揺をできるだけ押し隠して僕が答えると、隣を歩く彼女が密やかに微笑んだような気がした。
「お仲間の皆さんを見ていれば、わかりますもの」
それきり、僕達の間にはまた沈黙が満ちる。
噴水広場を抜け、橋を一つ渡れば、すぐにも彼女の屋敷に辿り着いてしまう。
「……わざわざお送りくださいまして、本当に有難うございました」
門の前で振り返り、フローラは美しい髪を肩からさらりと流して僕に頭を下げてくれた。
「いいえ。これくらい」
相変わらずろくな返答ができなくて、僕は名残惜しい気持ちを気取られないよう声音を抑えて首を振る。
顔を、あげた彼女が、
────幻かと思うほど。
ほんのわずかに、僕を上目遣いに、見上げた。
くたびれきったその頬に、ほんのりと赤みを差して。
ルドマン邸の周りは他よりずっと明るかったから、そう見えただけかもしれない。
僕が彼女を望むあまり、そう感じただけかもしれない。
けれど、彼女が一瞬だけ見せたその表情は、気のせいというにはあまりにも────
「フローラ。やっと帰ったのか」
甘やかな瞬間は、無情な一言にあっけなく破られる。
低い一声と共にフローラの背後の扉が開き、傅く使用人に見守られながら館の主が姿を現した。
──先日大広間の階段で見た、ロドリーゴ・ルドマンその人だった。
「……お父様。遅くなってしまって、本当に申し訳ございません」
微かに驚きを見せたものの、フローラはすぐにしなやかな礼をとり父親に頭を下げる。
「全く、嫁入り前の娘が……ノルンの息子が心配なのはわかるが、婚約者でもない男の部屋にこうも遅くまで入り浸る娘があるか。はしたない」
「承知しております。──意識が戻りましたので、もうこれほど長い時間お邪魔することはないかと」
「当然だ。そろそろお前は自分の立場を……、そちらは?」
立ち去るタイミングを失ってしまい、フローラの後ろでずっと親子のやりとりを聞いていた僕だったが、突然話を振られ慌てて背筋を伸ばす。紫の外套を纏っているから、彼の方からは宵闇に溶けてよく見えなかったのかもしれない。
「突然の訪問失礼いたします。テュール・グランと申します。遅い時間でしたので、フローラさんにここまで付き添わせていただきました」
一歩、前へ出て頭を下げる。彼の不興を買わないよう、なけなしの語彙を総動員して挨拶を述べた。ルドマン卿はそんな僕をまじまじと見つめると「あの時の若者だな」と低く呟いた。
「──テュールさんは、あの火山でアンディを助けてくださったのです。お仲間の皆様と共に、アンディの治療にもあたってくださいました」
少し、語弊があるような気もしたが。僕も一度は助けたことは事実だし、仲魔達と交代で回復魔法を施し続けたのも本当ではあったので、僕は黙ってフローラの言に首肯した。
ルドマン卿はそんな僕とフローラを尚も見比べていたが、ふむ、と一つ頷くと軽く指をならして僕を手招きした。
「ちょうど良い、寝る前に一杯やろうと思っていたところだ。君、付き合いなさい」