Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】 作:サクライロ
サラボナに戻り別宅で僕を休ませたあと、フローラはぱたぱたと忙しなく家事をこなしていたが、やがて洗濯がひと段落すると、裁縫道具を持って二階に上がってきてくれた。
僕の様子を確かめ、酔い覚ましの薬湯をカップに注ぎ直す。
それから、露台近くのテーブルに愛用の手帖とのれんを広げて、ようやくフローラは腰を落ち着けた。
気になってちらりと手帖を覗くと、綺麗な筆跡と図で縫い方がいくつか記されてるようだった。修道院時代に書きつけたものなのだろう。
冬の朝の、淡い陽光が広い露台から窓辺へと降り注ぐ。
静謐な陽だまりの中、穏やかに縫い物をする妻の姿は不思議と母性に溢れて、とても尊く見えた。
ぼろぼろに切れた糸を綺麗に始末し、ひと針ひと針丁寧に縫い上げていく。すごく集中していたようだったから、邪魔にならないよう僕も静かにしていた。だいぶ頭痛も落ち着いたので、暇つぶしに本を読む。義父からお借りした、彼が昔参考にしたというグランバニアについて書かれた本と、そこに挟み込まれた古い地図だ。
ルドマン家のご先祖様が書いたのだろうか。地図にはなかなか几帳面な文字で集落名がいくつか書き込まれている。それらを打ち消す印が文字より多く刻まれていることが物哀しい。かつて義父が訪ったとき、すでに廃村になっていた場所かもしれない。
本の内容は、修道院のマザーから聞いたものよりさらに古い時代の話だった。七百年の大昔、その地に巣食っていた魔物を殲滅したある男が国を建てたところから記述は始まる。
さすがに勇者というわけではなかったようだが、彼はその地に強大な邪悪を封じることに成功した。その封印と彼の血を守る為、グランバニアは代々、正当な王を不思議な力で定めるという継承の儀を行ってきた。どうやら正当な王は人が決めるものではなく、王家の証と呼ばれる何かが代々選定するらしい。
なんとなく、妻のものと対を為す、僕達の結婚指輪と重なった。僕とフローラ以外、恐らく誰も身につけることの出来ない、不思議な指輪。
もし、父さんが本当にグランバニアの『正当な』国王だったとしたら、彼が亡き今、空の玉座は一体どうなっているんだろう。
「────出来ました!」
いつの間にか本と思考に没頭してしまっていた。最後の糸を慎重に切ったフローラが、嬉しそうに声を弾ませる。
反射的に顔をあげれば、彼女もいそいそと立ち上がり、完成したのれんを広げて見せてくれた。
改めて見ると確かに、少し変わった縫い目だとわかった。
すごく細かくて気づき難いけど、多分、縫い目自体が魔法陣みたいな文様になっているのだ。なるほど、こんなふうに魔力を付与……というのか、織布が持つ力を安定させているんだな。
「すごく綺麗だね。こんな細かいこと、僕には出来る気がしないよ」
いつか硬い革袋を必死に縫ったことを思い出し、思わず感嘆して呟くと、妻は少し恥ずかしそうに、愛らしく微笑んでくれた。
庭の仲魔達に見せるため、のれんを抱いたフローラが階下へと降りて行く。僕も行きたかったけど、さすがにまだ本調子とは言い難い。大人しく本を開き直し、彼女が戻ってくるのを待った。
……こんな穏やかな幸せに浸れるなんて、夢みたいだ。
それは、戦いも旅も縁遠い、どこにでもいる普通の夫婦が普通の日々を過ごしているような、ちょっとくすぐったい感覚で。
露台から溢れる日差しがシーツまで届いて、暖められた空気は抗い難い眠気を誘う。
文字を追っていたはずなのに、いつしか僕は手の中から借り物の本を取り落とし、うとうと微睡んでしまっていた。
────テュールさん。
浅い眠りの中で、夢を見る。
まっさらな光に包まれて、君の優しい、透明な声が僕を導く。
姿は見えない。光が満ちて眩しいばかりの空間だけれど、不安はなかった。懐かしい、あたたかな気配に抱かれて、このまま身を任せて大丈夫だという不思議な安心感があった。
何故だろう。鈴を転がす綺麗な声がいつしか、未だ顔も、声も知らない母親と重なった。
──────かあ、さん?
喉から発したつもりの音はこぽ、と水の膜に阻まれて消える。溺れている、泳いでいる? このぬるい水の一部になったみたいに揺蕩っている。ゆらゆら、眩しい。……心地いい。
ああ、これはあなたなのだろうか。
知らないうちに、こんなにも恋しく思っていたのだろうか。
「あ! ごしゅじんさま、おーきた!」
ぷにぶにした感触が次第に現実味を帯びる。やわらかな水に包まれた気がしたのはどうやら、生温い軟体に頰を押し潰されていただけみたいだ。
ああ、僕、寝ちゃってたのか。
なんだかすごく甘い、いい匂いがする。下でフローラが食事の準備をしてくれているのかもしれない。
「……スラりん? あれ、どしたの……」
「あのね〜、みんなでおひるたべるの〜。ふろ〜らちゃんがおべんと、つくってくれるって〜!」
寝惚けてぼんやり問うた僕に、スラりんの隣からにょっきり顔を出したホイミンが声を弾ませて答えた。眼を擦って眠気をさましていたら、エプロン姿のフローラが軽い足音を立てて寝室へ上がってくる。その華奢な肩にはしびれんがぴったりくっついていて、随分フローラに懐いたものだとしみじみ思う。
目が合うと、ほっと息を吐いて薄紅の頬を緩ませた。
「起こしてしまいましたね。体調はいかがですか?」
「うん、ちょっと寝たらだいぶ良くなった。全部任せっきりで本当にごめんね」
僕としては心から申し訳なく思ったのでそう言ったのだけど、フローラはやはり優しく微笑むと首を振り「お疲れもあるのでしょうから、たまには存分に甘えてくださいまし」と答えてくれた。聖母にも程がある。
「皆さんがお弁当をと言ってくださったのですが、外は寒いですし、雪で濡れてしまいますから……今日はお家の中で、行楽気分を味わえたらと思いまして。テュールさんはいかがなさいますか? お辛いようでしたら別のものを」
「いる。もちろん食べる」
間髪入れずに即答したら、フローラは目を円くした。吐き気は朝から全然ないんだ、頭が痛いだけで。それも昼寝したらだいぶ良くなった。
ホイミン達にまとわりつかれながら一階に降りると、他の仲魔達もちゃっかりお揃いだった。プックルとピエールは朝の帰宅時には見かけなかったはずだが、昼飯を見越して戻ってきたようだ。いい勘をしている。
行楽気分ということなので、テーブルは端に寄せて敷布を敷く。外は窓から見える景色だけだけれど、久々にみんなでバスケットを囲むと、半年前、ポートセルミでのんびり昼食を取った晴れた日のことが思い出される。
あの日から一匹だけ、家族が増えた。旅の途中で仲魔に加わったしびれんは今、フローラの膝の上で、嬉しそうにもぐもぐサンドイッチを食んでいる。その左右にスラりんとホイミンが陣取り、彼らの好きなおかずを我先にと勧めているようだ。マーリンは相変わらず無表情だが、どうやら彼は野菜を好むらしい。蒸した野菜を近くに引き寄せ、黙々と食べている。時折こくこく頷いているのは無意識だろうか、なんとなく笑ってしまう。ピエールの緑のスライム……名前を聞いたけれど特に呼び名はないのだという。つけないの? と問えば必要がないと答えられたが、これはこれで彼らの絆の表れなのだと思う。その相棒のスライムに甲斐甲斐しく芋を食わせてやりながら、ピエールは卵に肉にサンドイッチを次々鉄仮面の下へと消し去っていく。どうやって食べているんだろう。プックルとガンドフはこれまた相変わらず、不思議と仲良くしている。二匹とも特に喋るわけではないが、ガンドフは自分に取り分けるついでにプックルにも置いてやり、二匹同時にそれをぺろんと平らげては満足げな顔をする、という謎の遣り取りを繰り返している。
スラりん、このおにくがいちばんすきー! と元気いっぱいにスラりんが叫べば、フローラはくすくす笑って小ぶりな揚げ鶏を摘み、スラりんの口許へと差し出した。う、羨ましい、なんて思っちゃいけないけど正直羨ましい。僕だってフローラの揚げ鶏は大好物なのに。でれっと嬉しそうに青い頬を緩ませたスラりんが遠慮なくぱくついて、それを見たホイミンが自分も~! とせがみだす。
つまらぬ嫉妬といえばそれまでだが、ふと悪戯心が疼いた。
サンドイッチをひとつ手に持ち、妻の前にそっと差し出す。きょとんと首を傾げる君に「みんなに食べさせてばかりで、フローラが全然食べてないよ」とあえて甘く囁いた。君が拒めないよう優しい微笑みを貼りつけて、口を開けてと目配せで促す。程なく意図を察した君は、みるみる頬を真っ赤に染めてサンドイッチと僕とを見比べたが、笑みを深めてじっと待っている僕の様子に、ついに覚悟を決めたらしい。碧髪を揺らして、ぱくん! とサンドイッチの端っこにかじりついた。
うっ、やばい。
可愛すぎて心臓止まるかと思った。自分で仕掛けておいてなんだけど、今のはフローラが小動物みたいで可愛すぎてやばい。変な扉が開いた気がする。やばい。
「……テュ、テュールさん。何だかすごく、恥ずかしい……の、ですが……」
「う、うん。なんか、その……ごめんね」
熟した苺みたいに真っ赤なまま、もぐもぐ小さく咀嚼する唇を両手で隠す妻を見ていると、可愛くて蕩けそうになる反面、ひどくいかがわしいことをしてしまった気がして申し訳なくなってくる。ていうか、何その小さい口。一口でそれしか食べてないの? 可愛過ぎない?
食べかけのサンドイッチを受け取り、今度こそ一人で綺麗に食べ終えたフローラが、もう一度大きめの揚げ鶏を選んで僕の目の前に差し出した。
一生懸命上目遣いで睨んでくるけれど、可愛いだけで威圧感は全くない。
「お返し、です」
仕返しって言いたかったんだろうけど、ご褒美にしかなってないよ、それ。
遠慮なく食いついて、脂のついた妻の指までしっかり舐めとる。結局また真っ赤になったフローラに思いきり笑いかけて、そんな風に過ごしていたら楽しいひとときはあっという間に過ぎた。ピエールをはじめ生温い視線ににやにや見守られ、気づけばバスケットの中身が空になっている。名残惜しい気持ちに苛まれつつ片付けをしていたら、実はクッキーを焼いたのです、と彼女が食後のおやつを持ってきてくれた。さっき寝惚けて嗅いだ匂いはこれだったのか。苺のジャムを宝石のように載せて焼いたクッキーは絶品で、きゃーっ! と歓声を上げた仲魔達と奪い合って食べた。
あまりに平穏で、楽しくて、幸せだから。これはまだ夢の続きなんじゃないかと思ってしまう。
お陰で体調も落ち着いたので、午後は馬車や旅で使ったものをきれいに整備したり、足りないものの洗い出しをしたり、アンディの家に立ち寄って依頼の進捗を確認したりなどして過ごした。
因みに、あののれんは誰が使うことになったんだろうと気になっていたのだが、庭に出たところで得心した。くたびれた馬車の庇にいつの間にか、愛らしいホイミスライム三連ののれんが堂々飾られていたのであった。「あのねー! これ、ここにあるとなんかげんきでるー!」「ホイミンもなんだかつかれとれる〜!」とスライム属達が異口同音に言い募るので、笑ってそのまま飾ることを承諾した。贅沢な使い方だなと思うし、やたら目立つようにもなったけど、他の仲魔達が不快じゃないならまぁいいかと思って。
更に余談だがその後、この馬車を見た人から「おや、そののれんはオラクル屋さん? 行商でも始めたのかね」と声をかけられることが増えた。驚いたことに、ルラフェンでもそうやって話しかけてきた人がいたのである。知る人ぞ知る隠れた店という印象だったが、実はオラクル屋は、あれで相当世界に名を知られた店だったのかもしれない。
◆◆◆
別宅でゆっくり過ごした次の日から、船と徒歩で凡そ一日半かけて、ビアンカが住む山奥の村を訪ねた。
二日酔いの後なのでフローラは心配してくれたけれど、この半年のうち半分くらいはずっと船で過ごしていたから、船体の揺れはそんなに辛くない。同じくビアンカに会いたいと言ったスラりんと、ふろ〜らちゃんがいくならホイミンも〜! と声を上げたホイミン、さらに触手を上げて賛同したしびれん。ビアンカの昔馴染みでもあるプックルも連れて、今回は夫婦二人に仲魔四匹同伴でのお出掛けだ。
定期船や連絡船といった公共の船の類では普段、魔物連れはどうしても肩身が狭くて、いつもはデッキの隅の方で大人しくしているのだけど。今回はサラボナ発の定期船の客で、フローラを全く知らない人の方が少ない。思いがけぬ邂逅に、サラボナの白薔薇を一目見ようと、どの客も遠巻きにしながらそわそわこちらを窺っていた。そんな中、彼女が親しげに仲魔達と話していれば、それだけで場の空気が嘘のように和らぐのである。さすがに地獄の殺し屋キラーパンサーを撫でていた時には畏怖ともつかない感嘆が漏れ聞こえていたが、当の彼女はどこ吹く風だ。
「ふわー、さむいけどきもちいねー、ふろーらちゃん!」
船縁の手摺りにひっついて、ぷるぷる身体を震わせ笑うスラりん達を見上げて、フローラは優しく頷いては何度もプックルの毛並みを撫でていた。
翌朝、いつもの水門近くの船着場で降りて、雪が積もった山道を登って行った。夏に来た時よりずっと歩き難かったが、仲魔達はもちろんフローラもさほど遅れることはなかった。
この調子で行ければ、想定より早くグランバニアに着けるかもしれない。同じ山道でもあちらの方が大変だろうとは思うけど。
「ふふ、グランバニアはもっとずっと険しいのでしょうけど。私も少しは体力がついてきたと思いませんか?」
フローラも同じことを考えていたようで、わずかに息が上がりながらも嬉しそうに笑いかけてくれる。うん、と微笑んで頷き返したが、彼女はふと真顔になると己を戒めるように肩を落として溜息をついた。
「こんな浮ついたことを言っていては、またお父様に怒られてしまいますわね。気を引き締めていかないと」
「大丈夫だよ。フローラがどんなに頼もしいか、僕らがちゃんとわかっているから」
僕の言葉に、仲魔達もにこにこ頷く。「しびれんも、もっともっとがんばるのっ。ずーっとずーっと、みんなといっしょにいきたいもんっっ」としびれんがはにかみながら言い添えれば、フローラもまた幸せそうに微笑んで「ええ、一緒に頑張りましょうね。しびれんちゃんが一緒ならとても心強いわ」と優しく語りかける。
そこから半日、小休憩を挟みながら歩き続けて、ようやく山奥の村に辿り着いた。
冬なので陽が落ちるのが早い。そんなにペースを崩したつもりはないけれど、村に着く頃にはとっぷり暗くなってしまった。実は今回、ノルンさん達から一つ頼まれごとをしているため、明朝萬屋が開くのを絶対に待たなくてはならない。つまり、ルーラで夜のうちに帰ることが出来ないわけで、村に入ってすぐ大急ぎで宿を確保しに行った。
「あら! テュール、今着いたの?」
挨拶もなしにいきなり声をかけられたと思ったら。宿のカウンターで話し込んでいた金髪の女性が、こちらに気づくなり蒼い眼を見開いた。一応半年ぶりだというのに、まるで朝見送って今出迎えたようなビアンカの言い様がなんだか可笑しくて、思わず口許を緩ませながら手を挙げて答えた。
「久しぶり。うん、たった今」
「やだもう、こんな寒くて暗いのに……足元悪い中、わざわざ来てくれたのよね。二人ともありがとうね。フローラさん、大丈夫だった?」
僕の背後からフローラがにこやかに会釈して、しかしビアンカは心配そうに妻の側に駆け寄った。靴や衣服こそ多少汚れていたものの、フローラは疲れた様子を見せることなく「はい。以前より体力がついて、余裕を持って歩けたように思います。お気遣いありがとうございます、ビアンカさん」と嬉しそうに首を傾げた。
「ふふっ。なかなか逞しいじゃない、フローラさん」
妻の気丈な返答を聞いて、ビアンカも安堵して笑う。一泊したい旨を告げると、ビアンカが仲介にたって部屋の手配をしてくれた。今回、馬車は置いてきたので、仲魔達にどこで過ごしてもらうかだけが悩みどころだったのだけど、それもビアンカが掛け合ってくれて無事、納屋の一角を借りられることになった。
「この人、私の弟みたいなものなのよ。魔物さんもみんないい子達だから、姐さんに迷惑はかけないわ」
一人でももちろん交渉できるけど、村の一員であるビアンカの口添えは大きい。自分達の家ならいざ知らず、宿の室内にキラーパンサーを入れるのはさすがに気が引けるから、納屋をお借りできるのはとてもありがたかった。以前ヴェールを取りに来たときはまだ初夏で過ごしやすかったので、プックルには村の外で一夜を明かしてもらったのだ。
それでも及び腰で、納屋への案内の為ついて来てくださった女将だったが、ビアンカが大喜びでプックルに抱きつくのを見て、引き攣りつつも納得したようだった。フローラにしろビアンカにしろ、魔物に寛容な彼女達にはつくづく頭が上がらない。
無事部屋に荷物を置き、腰を落ち着けた後は、ビアンカに誘われて宿屋の地下にある酒場で夕食をとった。マスターや村の方々がしきりに地酒を勧めてくれたが、つい先日大失態をかましたばかりなので、なんとか笑って断りきった。ビアンカは何故だか神妙な顔をしていたが、下戸なんだってば、と伝えたら合点がいったらしく、ああ……と憐みの篭った目で見つめられた。
いや言ったよね? ビアンカが別宅に泊まっていた晩に。うっかり言ってなかったにしてもその後、婚礼の後の宴でもあれだけ醜態を曝したんだからそこは察してほしい。酩酊状態の僕を嗤ったことは忘れてないぞ。
でもまぁせっかくだから乾杯くらいしましょ、とビアンカが軽い食前酒を選んでくれて、フローラも同じものを掲げて、ささやかに再会を祝いあった。
ルドマン家の上質な品揃えに慣れてしまうと、申し訳ないが若干物足りない味わいに思えてしまう。これにはレモンが合うんだよ、とマスターが搾り汁を持ってきてくれて、たっぷり入れたら柑橘の酸味でかなり飲みやすくなった。
「ねぇ、それでどうだったの? 船で極南の大陸に行って来たんでしょ。収穫はあった?」
「ううん、残念ながら。あ、でも、勇者の兜は見てきたよ」
熱々の腸詰を慣れた手つきで切り分けながらビアンカが問う。僕もフローラと一緒に皿を配りつつ答えた。邪魔にならない絶妙なタイミングで、酒場のマスターが次々料理を置いて行ってくれる。時々宿や酒場の手伝いをしているというビアンカは、店の方々にかなり可愛がられているようだった。
「色々あって、女王様に御目通りが叶ってさ。成り行きで二人とも被らせてもらったんだけど、もう全然駄目だった」
「女王様に!? へえぇ、すごいじゃない! その兜とかって、勇者じゃないとそもそも被れないんでしょう?」
「はい。ですから、私達に扱えないことはわかっていたのですけれど」
ビアンカが食い気味に身を乗り出したところに、フローラが穏やかに頷いて答える。
あの時は僕以上に落胆を滲ませていた君だけど、今はそんな素振りはおくびにも出さず、落ち着いた振る舞いを見せている。
「勇者って随分のんびり屋ね。恥ずかしがり屋なのかしら? こんなに探している人がいるのに出てこないんだもの」
早くもグラスを空にしたビアンカが、頬杖と溜息を同時についた。すかさずマスターが新しいグラスと、赤い液体が入ったピッチャーを置いていく。綺麗な色合いに興を引かれて覗き込むと、ビアンカは小さく笑ってベリーのお酒だと教えてくれた。本当は甘口の果実酒が好物なのだと。
「まだ生まれてないだけだったりして。……考えたくないけど、幼いうちに魔族の手にかかるってこともあるかもしれないし」
「わっかんないわよぉ。これで勇者がよぼよぼのお爺ちゃんだったらどうする? 惚けちゃって勇者の使命も忘れちゃってたりしてさ。悪いけど私なら百遍はっ倒すわね!」
酒が入っていよいよ饒舌になってきた幼馴染みが、ぱん! と勢い良く拳を掌に打ちつけた。なんとも男らし……いや、雄々しい仕草である。その喩え話、彼女なら間違いなく行動に移すだろう。そう思うとつい苦く笑ってしまう。
「それは……僕もさすがに一言言いたいかも」
僕だけならまだしも、父があんなにも探し求めた相手なのだ。真相がそれでは笑って流せない。まして自覚がありながら姿を隠したままだとしたら、勇者も人間といえどもあまりに釈然としない。
力を与えられた者に勝手に望みを託すことは無粋なのか。
元より人間の手で解決が可能なものならば、何故神は人間に勇者という存在を示し給うたのか。
もう何度も堂々巡りを繰り返している思考に嵌りかけ、頭を振って追い落とした。考えたって始まらないだろう。そうだ、グランバニアに行けばもしかしたら、父が勇者を求めた理由をもう少し詳細に知ることも出来るかもしれない。魔界のこととか、母が連れ去られた理由とか。
「それで、いつまでサラボナにいるのよ。少しはゆっくりできそうなの?」
「今正にゆっくりしてるとこ。僕達だけ転移魔法で帰ってきたから、もう少ししたら、戻ってきた船と落ち合う予定なんだ」
「ああ、なるほど。ほんとその魔法便利よねぇ。それで、またどこかに行くのね?」
何と答えようか、暫し逡巡する。黙り込んだ僕をビアンカは不思議そうに見上げたが、訝しむ様子はなかった。静かに続きを待ってくれる気配に安堵して、話す内容を頭の中で組み上げてからゆっくり、口を開いた。
「……父さんの素性がね。わかったかもしれなくて」
軽く首を傾げた幼馴染みを真っ直ぐ見つめ返し、深い蒼の瞳に問いかける。
「グランバニア、って聞いたことある?」
やはり彼女は首を振った。本当に忘れられた国なのだな、と落胆に似た重苦しいものを覚える。気を取り直し、まだ酒が残るグラスを手の中に弄びながら続けた。
「父さんの昔の噂を知っている人がいて。多分父さんはその国の出身じゃないかって、教えてもらったんだ。だから、次はそこに行ってみようと思ってる」
「……そう。パパスおじさまの……」
しんみりと呟き、ビアンカは長い金の睫毛を伏せる。
祈るようにグラスを両手に包み、息を吐いた後、彼女はようやく穏やかに微笑んで顔を上げた。
「何か、わかるといいわね。気をつけて行きなさいよ」
「ありがとう。かなり遠いみたいだから、次にいつ戻れるかはわからないけど……落ち着いたらまた、里帰りするからさ」
その時はこの村にもまた寄るよ、と言い添えたら、ビアンカはまるで血を分けた家族を慈しむような、とてもやわらかな微笑みを浮かべて頬杖をつき直し、首を傾げた。
「ふふっ。帰るところがいっぱいあって大変ね、テュール」
────良かったねぇ。
優しさに満ちたその囁きが、そんなふうに僕を労ってくれている気がして。
ほとんど無意識に里帰りという単語を使っていたことに今更気づき、胸がなんだかほんのり温かくなる。
不思議だね。あんなに孤独、だったのに。
「サンタローズにも行ってるんでしょ。少しは復興した?」
「ううん、あれはなかなか……時間かかるね。でも、ヘンリーもすごい気にかけてくれてるから、あまり心配はしてないかな」
ヘンリーの名前が出た途端ビアンカが何故か変な顔をしたが、思わず見つめ返すと「なんでもないわ」と首を振られた。
なんだろう、二人に面識あったっけ? ああ、結婚式で少し話したりしたのかな。
「ちょっとぉフローラさん、何だか遠慮してない? 私ばっかり呑んで喋っちゃってるじゃないの」
僕らの遣り取りを微笑ましげに見つめている妻を振り返り、ビアンカはずいっと身を乗り出す。ほらほら! と勝手に果実酒を注ぎ足そうとするのを見て慌てて止めた。フローラは僕ほど酒に弱くないんだろうけど、好んで呑んでいるところは見たことがない。
「お酒入るといつも以上に舌が回るからね、ビアンカは。ほんと一生勝てる気がしない」
「やらしー言い方やめてくれない? 自分の未熟を棚に上げてわかったような口きいちゃって。子供の頃は私よりちっちゃかったくせに、ほーんと偉くなったものよねぇ」
「やらしいって……あのさぁ。いつ僕が偉そうにしたの」
「その態度でしょ。弟分のくせに、口で私に勝とうなんて百万年早いって言ってるのよ」
ちょっと茶化すと即、万倍で返ってくるんだもんな。瞬殺され、憮然とした僕を見上げてフローラがくすくす笑った。目が合うと少し申し訳なさそうに「あ、ごめんなさい。笑ったりして」と詫びたが、すぐにまたほわりとあたたかな微笑みを浮かべる。
「やっぱり、幼馴染みって素敵ですよね。いえ、お二人がお話ししているところを見ていますと、とっても楽しくって」
嬉しそうに首を傾げたフローラをビアンカと二人並んで覗き込み、つい人の目も忘れてうっとりしてしまった。ああ、なんでこんなに無垢で素直で可愛いんだろう、このひとは。と思いきや。
「あぁんもう、可愛いっ! やっぱりこの子、テュールには勿体ないわよ。私にちょうだい! 絶対絶対幸せにするから!!」
「冗ッッッ談じゃない!! 断固お断りします、フローラは僕と一緒にグランバニアに行くんです!!」
がばっ!! とフローラに抱きついたビアンカがとんでもないことを言い出して、僕も思わず大慌てで奪い返して言い返した。だって、フローラもビアンカに好意を持っているのが丸わかりだっていうのに! 好意の種類はともかく!!
子供の喧嘩か。気がつくと僕らはめいっぱい衆目を浴び、居合わせた村のお客さん達に豪快に笑われていたのだった。
「何だ何だ。ビアンカちゃんはそこのお嬢さんにお熱なのか?」
「そうよー、旦那のガードが堅くてねぇ。減るもんじゃなし、ちょっとくらい良いじゃない、ねぇ」
ちっっっっっとも良くない。大体『ちょうだい』のどこがちょっとなんだよ。いやもう、本当にビアンカが男じゃなくて良かったと心底思う。
何やら周りの席から、そっちかよとか女に負けたとか、項垂れた声が幾つか聞こえた気がしたが。あらぬ誤解を振りまいているみたいだけど、良いんだろうか。ひとの心配をよそに、ビアンカはすっかり上機嫌で周りを巻き込み、ころころと楽しそうに笑っている。
……もてるんだろうに。さっぱりした世話焼き気質に人並外れた美貌、普通に考えて男が放っておかないと思うのだけど。この酒場の中にも、ビアンカを慕っている人が何人もいるんだろうな。さっきから妙に視線が痛いし。
「まっ、いいわ。ねぇねぇフローラさん! 寝る前にまた一緒に温泉入らない? 冬の温泉も乙なものなのよ!」
そら見ろ。周りの男性客がざっ!! と一斉に色めきたって振り返った。もちろん当の本人は全くお構いなし。無頓着なのか警戒心が薄いのか、僕が言うのもなんだけど餌撒きすぎだよビアンカ!
「もちろん貸切でね。天下のルドマン様の一人娘、サラボナの白薔薇に何かあったら大変だもの。ねっ、マスター?」
周囲の動揺に目もくれず、愉しげに脅し文句を嘯くビアンカ。ああこれ、わざとだ。案の定、卿の名を耳にした面々が次々に青褪め出した。噂は知っていても、この村の人々はさすがに領主令嬢の顔までは知らなかったらしい。僕が出る幕もない、鮮やかな牽制だった。これで少なくとも、フローラに直接無体を働こうとする者はいるまい。
思わぬ賓客であったことを知らされたマスターがすっかり縮み上がってしまったが、フローラは狼狽しながらも「今夜の私は一介の宿泊客ですから、どうかお気になさらないでください。本当に父は関係ありませんから」と懸命に訴えていた。
気を取り直し、さすがに今からじゃ寒くない? と訊いたが「わかってないわねぇ、それがいいんじゃない!」「そうですよ若旦那様! 冷たい山の空気に抱かれて入る温泉は最ッ高なんですから。これぞ露天風呂の醍醐味でしょ!」と、ビアンカと酒場のマスター双方から物凄い剣幕で詰め寄られる。また若旦那とか呼ばれてるし。しかし自分も勧めてもらったことで、ほんの少し気を良くしてしまった。今夜は思いがけず、他人の目を気にすることなく念願の温泉を楽しむことができるかもしれない。
何はともあれ、貸切のご厚意には感謝せねばなるまい。
そんなに呑んでいなかったはずだが、場の空気に酔ったとでもいうのか。確かにビアンカはその時、フローラに対して「一緒に入ろう」と言っていたのだが、僕は何故か自分に都合の良いところ以外すこんと耳から抜けてしまった。否、断じて三人で入るなどと不埒なことを思い込んだわけではない。それだけは明言しておく。
料理を全部平らげたあと、改めてビアンカが宿の方に話をつけてくれて、僕とフローラは屋外の温泉に入るための準備を整え、いそいそと脱衣場へ向かった。
うん。夜だから、ご自慢の絶景が見えないのは残念だけど。
念願叶って貸切温泉。澄んだ冬の星空に湯気が吸い込まれていく中、少し熱めの湯に浸かるというのは確かになかなか趣がある。ビアンカの思いつきのお陰で、現在僕は混浴であるはずのこの湯殿を独り占め出来ている。
あー……気持ちいい。本当に疲れが湯の中に溶け出していくようだ。何という贅沢、一人で、この広い湯殿を堪能するなんて。
────否。なんで僕はここに来て一人で温泉に入っているんでしょうか。一人で! 貸切ならそれこそフローラと夫婦水入らずでゆっくり浸かりたいんですけど!?
そりゃ正直なところ理性を抑えきれる自信はないけど、それでも密かに楽しみにしていたのだ。僕が知る限り、こういう温泉ってここしかないし。で、そのフローラはどうしているかというと、僕が入る前にビアンカと二人で入浴を済ませてしまった。その間僕は見張りを任され小一時間、脱衣場の前でお預けを喰らっていたのであった。血迷った男性客が乱入しても困るから、見張り自体は別にいいんだけど。当然僕も覗き見厳禁である。
「フローラさんは私が責任持って部屋まで送っておくから、テュールは秘湯をゆっくり堪能してらっしゃいな。暗いから足元に気をつけて、滑るわよ。誰か入ってくるかもしれないけど、さすがにこの時間に女性は入ってこないと思うから安心して!」
地元民のくせに、僕を差し置いてフローラと温泉を満喫したビアンカが実にうきうきそう言ってのけた。左様ですか。
というわけで、一人置いていかれた僕は些か悶々としつつ、駄々広い湯殿でしっかり身体を温め、宿の方に礼を言ってから部屋に戻ったのであった。扉を数回ノックして声をかけると、先に就寝準備をしていたフローラが出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ。温泉、いかがでした?」
屈託なく愛らしい微笑みを向けてくれる妻が何故か、すぐ側にいるのにひどく恋しく感じられてしまう。思わず肩を掴んで強引に抱き寄せた。やわらかい薄絹に包まれて、まだ温かい君がかぁっと首筋を色づかせる。
「テュ、テュールさん」
「……感謝したいような恨み言のひとつも言いたいような……や、いいけどね。一緒に入ってたら絶対箍が外れてたし」
こうやって抱きしめるとしみじみ痛感してしまう。おかしいくらいフローラが愛しくて、最近本当に我慢が効かないんだよね。だから一緒に入らなくて正解だったのだと、頭ではわかっている。こんな発情期の獣みたいな僕が今、君と二人きりで温泉に入ったりしたら、僕の申し訳程度の理性なんかあっさり消し飛んでしまうだろう。
「ビアンカとのお風呂、楽しかった?」
いつもの花の香りにすこし、やわらかな匂いが混ざる。温泉の匂いかもしれない。薄紅の滑らかな頬をなぞり問いかければ、君は花開くような可憐な微笑みで頷いてくれた。
「以前ご一緒した時は緊張もあったと思うのですが、今日はもっと気持ちが解れて、いろんなお話ができました。お化け退治に、宝探しのお話とか……ビアンカさん、小さい頃から冒険がお好きだったのですってね」
頬をほんのり染めて嬉しそうに語る。君が楽しそうにしているのを見るのはすごく好きだけど、可愛くてたまらないのだけど、今はその笑顔を見るのが少し、辛い。
寂しい気持ちに気づいてほしくて、ついどうしようもない戯言を口にしてしまった。
「……そのうち、僕とも入ってくれる?」
頭ではわかっていても、気持ちの整理は別なんだ。
突然の我が儘に君は驚いたようで、翡翠色の瞳を開いて一生懸命見上げてきた。愛しい彼女を真っ直ぐ見下ろせば、やかて困惑した様子で赤らめた顔を俯かせる。もじもじと視線を彷徨わせ、彼女は辿々しく言葉を紡いだ。
「テュールさんとは、あの、……別宅で、何度も入って……ます、が……」
そうだね。うん、そうなんだけどそうじゃなくて。
やっぱり今は邪な衝動を抑えきれる気がしないから、そこは今後の課題だけど。それはそれとしてやっぱり僕も、フローラと二人で旅先で温泉を楽しむっていう非日常感というか、思い出が欲しいわけで。空気がきれいな山の景色を眺めながら風呂に入るのってやっぱり気持ち良さそうで、フローラも温泉は好きだと言ってて、だったら僕もその心地よさを彼女と分かち合いたいのになんだかんだ機会を逃してて、毎回ちゃっかり彼女を独占してるビアンカがこの上なく羨ましくて。
きれいなもの、素敵なものは全部君と見たいんだ。どんな世界もきっと幸せそうに見つめる君を、いつだって隣で見ていたい。
遠慮がちに、胸許に頬を擦り寄せた君が、僕にだけ聞こえる微かな囁きをそっと、零した。
「……いつか、……二人きりで、入りましょう。……ね」
耳の端まで真っ赤に染めて、可愛い誘惑みたいなそれを、彼女は恥じらいながらも精一杯口にしてくれる。
────ああ。
嬉しい。すごく、嬉しい。
こんな幼稚な呟きにも、一番欲しかった答えを迷いなくくれる君が、たまらなく愛しい。
君がそうやって、僕だけの我が儘じゃないって思わせてくれることがもう、たまらなく、嬉しい。
「うん。……うん。いつかね」
さっきまでの心許ない寂しさとは打って変わって、満ち足りた気持ちで改めて、華奢な妻を腕の中に包み込んだ。
細い腕が背中を滑って、きゅっと儚く抱きしめ返してくれる。
僕の情けない本音を、ちゃんと受け止めてそう言ってくれた。それだけで今はもう、十分だよ。
その夜はなんだか身体の芯から眠気がきて、フローラを抱きしめて深く眠った。
温泉の効能もあるかもしれない。久々の山歩きで、疲れていたのもあったかもしれない。
一度も夢を見ないで、朝までぐっすり眠れたのは久々だった。
◆◆◆
翌朝、開店直後のドワーフの萬屋に足を運び、ノルンさんに頼まれた荷を受け取った。片眼鏡の店主に結婚式のヴェールの御礼を伝えると「おう。領主殿の」と言葉少なに頷かれた。
「なぁ、あれつけたか!?」
年若い方が傍からわくわく問うてきて、小花のブートニアのことを思い出し微笑んで頷くと、彼は喜色満面の笑みを惜しげもなく向けてくれた。
「本当に、素敵なヴェールを手掛けてくださり、ありがとうございました。あんまり素晴らしくて、私、今でも時々取り出して眺めているんです」
僕に寄り添い幸せそうに告げたフローラの言葉には、普段鉄壁の無表情を誇る名工も微かに目許を和らげた。若い方のドワーフはすっかり相好を崩し、咲き綻ぶように微笑む妻にうっとりと見入っている。
「うわぁ……なんか、妖精の姫さんみたいなお人だ。こんな人が嫁さんだなんて幸せもんだな、あんた」
手放しの賛辞に僕はつい頬を緩ませ、フローラは恐縮してほんのりと頬を染めていた。
萬屋を辞去した後は、ビアンカの家を訪ねた。昨夜挨拶できなかったダンカンさんを見舞うと、多少咳き込みながらも朗らかに迎えてくれた。
「大丈夫ですか? あの、休んでいてくださいね。確か寒いと身体に障るって」
「はは、ありがとうな。今日はだいぶ調子がいいんだよ。坊達が顔を見せに来てくれたからかな」
望みに応えられなかったのに、ダンカンさんはまるで、我が子か孫にするように優しく接してくれる。
昼食をご一緒してからサラボナに帰ることになり、女性二人は一緒に料理をすると言って、連れ立ってキッチンへ消えていった。その間、僕はダンカンさんの枕元に陣取り、昔話に花を咲かせた。以前泊まった時は僕のことばかり訊かれたけれど、今日はなんと、彼と父が知り合った時の話を聞かせてもらえた。まだ僕がろくに喋れないほど幼かった頃、たまたま立ち寄った宿で僕がひどく夜泣きしてしまい、サンチョもおらず困り果てていたところに手を貸したのが、宿の主人であったダンカン夫妻だったのだそうだ。ビアンカの子育てで慣れていた女将さんが僕を見事に泣き止ませてくれて、以来父は二人に頭が上がらなかったのだとか。
「あの小さかった坊がすっかり大人の男になって、可愛い嫁さんをもらうんだもんなぁ。私も歳をとるはずだよ」
眩しく見つめてくる瞳がくすぐったくて、思わず視線を泳がせてしまう。ふと、ずっと聞きそびれてしまっていたことを思い出し問うと、ダンカンさんは痛ましげに眉間を抑えて瞼を閉じた。
「サンチョさん、あの時うちの街に逃げてきた人の中にはいなかったみたいなんだ。当時はとにかく混乱していてね。サンタローズには長いことラインハットの兵士以外立ち入れなくて……どこかで元気にしてくれているといいんだがね」
悲痛な回答をいただいて、はい、と俯き答えた。当事者のサンタローズの方々すら彼の消息を知らなかったのだ。ラインハットに囚われた可能性が最も高い気がしたけれど、あの城の地下牢に彼はいなかった。とうの昔に処刑されたのかもしれない……それでも、生きていることを願ってしまう。ビアンカのように、いつかどこかで会えるのではという期待を捨てきれない。
寝室まで良い匂いが漂ってきてしばらく経った頃、ビアンカが呼びに来た。ダンカンさんを支えて居間へ行くと、テーブルの他にもピクニックよろしく床に敷布が敷かれていて、そちらにもいくつかバスケットが用意されている。が、何故かフローラの姿がない。聞けば昼食に仲魔達を招くため、家の裏で待っているみんなを呼びにいったらしい。
果たしてフローラが連れてきた一行を目にしたダンカンさんは、きゃっ! と可愛らしい悲鳴をあげて飛び退いた。
「場所がないから、魔物さん達は地べたでごめんね。折角だからプックル達とも一緒に食べたくて! 父さん、覚えてる? 昔テュールと一緒に助けた猫ちゃんよ!」
「いやいやいや、ビアンカ! どう見ても猫じゃなくないかい!?」
僕の背に隠れたダンカンさんが情けない叫び声を上げたのが可笑しくて、申し訳ないながらも噴き出してしまった。ビアンカも高らかに声を上げて笑っている。仲魔達を伴って戻ってきたフローラは目を瞬かせて僕らを見比べていたが、怯えた様子のダンカンさんを見て得心したらしい。
「大丈夫、ちっとも怖くありませんよ。とても優しい魔物さん達なんです」と妻がプックルの喉を撫でて極上の微笑みを見せれば、ダンカンさんも引き攣った愛想笑いで頷いた。
「あ、あ、あの時の仔猫、仔猫ね……いやいくらなんでもあれは猫じゃあ……」
「ちょっと父さん、独り言が煩いわよ。みんな、今日のランチはフローラさんと一緒に作ったから、たくさん食べていってね!」
ぱちん! とビアンカが両手を打ち鳴らせば、賑やかしいスライム属の三匹……特に青い二匹がわーっ! と歓声を上げ、我先にと料理に群がった。気後れしたしびれんもホイミンが触手で敷布へと引っ張り込む。その後ろからのそりとプックルが回り込み、料理をくんくん嗅いでは気に入ったものを牙で器用につまみ始めた。その様子を見て、女性二人は顔を見合わせ楽しそうに笑っている。
────仲良くなったなぁ。
これまで、二人が親しくしているのを見るたび、妙な嫉妬に苛まれてばかりいたのが、今はそんな二人が不思議なほど、微笑ましく感じられた。
いつの間に渡したのか、居間の戸棚にテルパドール土産の砂漠の薔薇が飾られている。フローラも気づいたようで、目が合うと「昨夜、部屋に送っていただいた時にお渡ししたのです」とはにかんで答えた。
「すごいわよねぇ、どこから見てもちゃんと薔薇よ。宝石みたいにも見えるし、砂から自然に出来たなんて信じられない。こんな素敵なものをありがとうね、二人とも」
選んだのも、買っていきたいって言ったのもフローラなんだけど。隣の妻がとても嬉しそうに肩を揺らしたのがわかったので、余計なことは言わないことにした。代わりに「テルパドールでは厄除けのお守りとして飾るんだってさ。二人に悪いことが起こらないように」と言い添えたら、ダンカンさんが照れ臭そうに「それで調子がいいのかもしれんね。ありがとうな」と微笑んで頷いた。
賑やかな昼食会のあとは暫し歓談に興じて、山の西側に太陽がかかり始めた頃、いよいよサラボナに帰還することにした。
思ったより長居してしまった。ダンカンさんにまたそのうち訪問する旨を伝えて、今僕らはビアンカの家の裏手側、さっき仲魔達を待たせていた人気のない村外れに来ている。
「すっごく楽しかったわ! フローラさん、また一緒にお料理しましょうね。次は違うレシピを教えてちょうだい!」
ビアンカがフローラの細い腕をとり、きらきら輝く興奮気味の笑顔で上下にぶんぶん振っている。もちろんです、と春風の如く表情を綻ばせた妻の両掌に、ビアンカはポケットから何かを取り出し、そっと握らせた。
「素敵なお花をいただいちゃったから、何かお返しにと思ったんだけど……良かったらこれ、持っていって」
ビアンカの手が退けられて、同時にフローラが翡翠の瞳を大きく見開く。妻の肩越しにその手の中を覗き込むと、手に余るほどの大きさの玻璃の瓶に、白くてふわふわしたものがたっぷり入っているのが見えた。
「私達は秘湯の花って呼んでるの。温泉の成分が固まったものでね、お湯に溶かすと、ここの温泉みたいになるのよ。疲れも取れるし、お肌にすっごく良いから、是非使ってね」
「ありがとうございます……! 実物を見るのは初めてですわ。とっても綺麗なのですね」
白い花びらか、羽が詰められているみたいだ。フローラが瓶を傾けて夕陽に透かすと粉雪みたいにふわりと舞った。すこぶる気に入ったらしく、妻はそれを何度も眺めては幸せそうな微笑みを浮かべていた。
「そんな顔してもらえると贈り甲斐があるわ。同じ富豪でも、どこかの誰かとは大違い」
何の話だろう。首を傾げた僕とフローラに、苦笑しながらビアンカが説明してくれた。
「良く知らないけど、数年前から秘湯の花を買い占めてる金持ちがいるんですって。もちろんルドマン様じゃないわよ? 買ってくれるのは有り難いけど、宿で売る分まで持ってかれちゃね。買い付けに来る商人もあまり感じがよくないし……そんなに温泉が好きなら、いっそこの辺に別荘でも建てればいいのに」
「ああ……でもそれこそ、泉源を独占されたら困らない? 自由に入れる風潮がいいっていうのもあるよね」
まぁ混浴は客を選ぶけどね、とは胸の中だけで呟く。聡いビアンカは僕が言いたかったことに気付いたようだが、黙って軽く睨めつけるに留めた。「まぁ、そうね。新しく掘るにしても簡単じゃないし」と独りごち、小さく息を吐いてフローラの方を向き直った。
「そんな貴重なものを……ありがとうございます。大事に使わせていただきますわ」
「ええ、またこっそり溜めておくわね。そのひと瓶で二回くらいは入れると思うの」
もう一度、喜び弾ける微笑みで感謝を伝えたフローラに、ビアンカもくすぐったそうににっこり笑ってみせた。
名残惜しいが、再会を誓い合って今度こそ別れを告げ、蒼い瞳に見送られながらルーラを唱える。
目を開ければもうサラボナに降り立っていた。この魔法にもだいぶ慣れて、最近は多少なら狙った場所の周辺に転移できるようになった。転移が可能な街には転移者を引き寄せる標のような場所があり、概ね入口がそうなのだけど、何度もルーラを行使するうち標からの座標のずれを体感で測れるようになってきたのだ。無論、隣町のように標からあまりにも離れたところに転移することはできないけれど、街の中くらいの距離なら調整できる。
今回は無事義実家の敷地内、別宅の庭の隅に転移した。噴水の上に出たらと少し不安だったけど、上手くいってほっとする。
秘湯の花の瓶を大事に抱きしめていたフローラが、ふふ、と小さく笑って碧い頭を僕の肩に預けた。そのまま少しだけ背伸びをして、僕の耳にそっと吐息を近づける。
「屋外ではありませんし、本物の温泉には敵いませんけれど。宜しければ今度、ご一緒に……いかが、ですか? あなた」
悪戯っぽく微笑んだ君に、思わず心臓がとくんと弾む。
艶やかな薄紅の頬を、恥ずかしそうに緩ませて。
見慣れた街が君ごと黄昏色に染まる。耳許に密やかに落とされたそれはひどく甘く、可愛すぎる誘惑だった。