Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】   作:サクライロ

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#24-2. 光の標【終章3】~side Tyr(2/2)

 山奥の村から帰って数日は、雑用や買い物をこなしながらのんびり過ごした。

 新年の祝祭が近づいている。どの街もそわそわ浮き足立って見えた。その前には降誕祭、遠い古に世界を救った勇者を称え、その生誕を感謝する祭りが各地で行われる。祭りといっても華々しいものではなく、教会やそれぞれの家庭で慎ましやかに祈りを捧げるだけのものだ。正直今までまともに祝ったことはないが、今年の降誕祭は義父夫妻にお誘いをいただいている。

 これから厳しい寒冷地に赴くので、その準備は特に念入りに進めた。砂漠用に仕立てた防寒用の上着や靴がそのまま使えそうなのは有り難い。凍った山道を歩くには靴裏に滑り止めを履かねばならず、これを作れる職人を探すのに少し骨が折れた。薬はその道に明るい道具屋の店主に相談して、必要なものを見繕った。中には手に入れにくいものもあり、条件によっては直接採取しに出掛けた。

 以前より魔物が外をうろついているので、普通の人が守り手なしで遠出するのは難しい。困り果てている人を見かけるとつい声をかけてしまい、移動ついでにちょこちょこ手助けしていたら、いつの間にか謝礼で結構な小金が貯まっていた。

 人と関わりたがる性分ではなかったのに、以前より他人が目に留まるのは、隣に居るフローラの目線のお陰かもしれない。

 彼女は人一倍、誰かの寂しさや辛さに敏感だから。

「ありがとうございます、テュールさん。……お力になれたなら、本当に良かったです」

 見ず知らずの方の悩みに手を貸して、晴々とした顔を見るたび、フローラは心を許しきった笑顔を僕に向けてくれた。労ってもらえるのがくすぐったくもある。僕にとっては、君が喜んでくれることが何より嬉しいご褒美だから。

 別宅に戻って三日後、船長をはじめとしたストレンジャー号の乗組員一行がサラボナに到着した。

 皆さん特にお変わりなく、本当にほっとした。無事の到着を労いあい、早速義父も交えて簡単に近況を報告し合う。次はグランバニアを目指したい旨を告げると、フォスター船長はやや難しい表情で黙り込んだが、少し思案したあと、穏やかな眼差しで顔を上げた。

「承知いたしました。エストア大陸に針路を定めるにあたり、航路や昨今の状況を確認したいと思います。私を含め、数名をポートセルミへお送りいただくことは叶いますでしょうか」

 もちろん、即時承諾した。元々船長は帰還次第、ポートセルミにお連れすることになっていた。数人増えたところで全く手間じゃないし、なんならポートセルミの物資をここに転移させることもやぶさかじゃない。

 ここにいる半数は今夜、サラボナである程度の物資を補給したあと、明日にはストレンジャー号に向かって発つという。今もアランさんを含む、残りの乗船員達が留守を守ってくださっているそうだ。

 新年明けた祝祭の日に街にいると身動きが取れないだろうから、その前にサラボナを発とうという話になった。凡そ一週間後だ。祭りを楽しんでからでも、と船長は言ってくださったが、その間も船を守っている人がいることを思えば、自分達だけ楽しむ気にはなれない。

 結局、皆さんは休みなく次の航海になってしまうのだが、誰もが心配ないと笑ってくださる。僕の方が申し訳なくて、肩をすぼめてしまうほどだ。

「休みもまあ、いいですけど、俺達はなんだかんだで船が好きですからね。陸に降りると酔っちまうくらいですよ」

 今だってもうストレンジャー号が恋しくてね、と笑う船乗り達が本当に頼もしい。下船していたのはたった二ヶ月だけれど、すごく懐かしく感じた。またよろしくお願いします、と頭を下げれば、皆さん揃って気の良い笑顔を返してくれた。

 ……やっぱり不思議だ。半年前、大鮹と戦った頃はまだ、あの船に身の置き場がないように感じていた。フローラにするように皆さんを信頼している自分なんて、これっぽっちも想像できなかったのに。

 いつの間に、ここまで絆されていたのか。

 その日は、船に戻られる方以外をポートセルミに送り届け、代わりに物資を幾らか預かって戻った。船まで馬車で二日弱、今夜宿を取る船員達は明日、ルドマン家の馬車で船に戻り、数日後再びサラボナへ戻ってくる。その往復をもう一度繰り返した後に僕らも合流して馬車に荷を積み、いよいよ遙か南東の大陸を目指して出航することになる。

 夕方は降誕祭。本宅での晩餐の前に義両親に連れられ、街の教会で礼拝に参列した。

 かつて勇者を戴いた奇跡に感謝し、同時にその再臨を神に祈念する。厳かな聖堂でフローラと並んで指を組み、いつもならば捻じ曲がった思考に心を委ねるところ、少しばかり謙虚な気持ちで静かに祈った。

 もしかしたらたった今、この世界のどこかで、あなたは自分の素性を与り知らぬまま、降誕の祈りを捧げているのだろうか。

 僕は、最近、前より人の温かさを知って。

 前より少しだけ、あなたを信じたい気持ちになった。

 あなたが我々のために起つならば、それを望む全ての魂があなたの力になるだろう。

 かつて勇者に七人の仲間がいたように、戦うあなたの傍にはきっと、もっと多くの光が共にあるだろう。

 

 羨望と、少しの嫉心。どうしようもない憧憬。

 もっと幼く純粋な僕ならば、きっとあなたに憧れた。

 その光を見届けたい。伝説となるあなたを、父の分まで。

 

 

 

 降誕祭の翌々日は、ヘンリーとの約束の日だ。

 いつもの旅装束ではなく、フローラに見立ててもらって誂えた他所行きの服を着込んで、再びラインハットへ赴いた。こういう服はどうにも着慣れないけど、もう大人なのだから少しずつでも場に合わせた服を着るようにした方がいいのかなと思って。

 普段が普段なので、服に着られてる感はあるけど、上品な装いのフローラと並んだ姿はこちらの方がしっくりくる気がして、我ながら悪くない。

 デール王にお会いして挨拶した後、案内されたのは応接室ではなく、城の最上階にある王兄夫妻の私室だった。

 かつての太后殿であり、偽の彼女を斃した場所でもある。

「お、来たな! なんだよ、珍しい格好してるじゃん」

 以前ほど豪奢ではないが王室らしい威厳を残したその部屋で、いっそ似つかわしくないほど朗らかな笑顔の親友が出迎えてくれた。王族然とした立派な装束に身を包んでも相変わらずのヘンリーに、軽く苦笑しながら自分も胸を張ってみせる。

「こういう格好の方が、登城って感じがしない?」

「いつもの格好の方が、あーお前が来たって感じはするけどな。うん、いいんじゃないか? 男前だぜ」

 本当かなぁ。ヘンリーに褒められるとなんだか面映い。へらりと笑ってみせたら意外にも真面目に頷かれてしまって、妙な気恥ずかしさが倍増してしまった。

 案内された先は思いっきり寝室で、旧知の仲とはいえ私的な空間だと思うとどうにも落ち着かない。奥の寝台には肩掛けをまとったマリアさんが上半身を起こしていた。僕達を認めるとふわりとやわらかく微笑み、軽く会釈してくれる。

「こっちに来てもらって悪いな。動けないこともないんだが、できれば安静にさせたくてさ。お前達なら快く許してくれるだろうと思って」

「許すも何もないけど、え、どうしたんですマリアさん。どこかお加減が?」

 客人をわざわざ褥から迎えるなんて相当だ。敬称をつけることも忘れ慌てて目の前の女性を慮ると、マリアさんはどこか困ったように睫毛を伏せたあと、傍らのヘンリーを見上げた。

「いえ、その……」

 言い澱む彼女を見て、余程難しい病状なのかと思わず身を硬くする。いや、でもそれならヘンリーがこんなに陽気なはずがない、そう思ったところで、僕の背後に控えていたフローラが口許を両手で抑え、大きな翡翠の目を見開いて呟いた。

「────もしかして、おめでたでいらっしゃいますか?」

「さっすが、フローラさん」

 え?

 理解が追いつかない僕の目の前でヘンリーが得意げに指を鳴らし、その傍らのマリアさんが恥ずかしそうに、ものすごく幸せそうに頷いた。

 陶器の頬を花の如く淡く色づかせた、春めいた微笑みを前にして、僕は暫し思考を失くす。

 おめでたって、ヘンリーに……子供? え? マリアさんが?

「まぁ……! おめでとうございます!」

 呆けてしまった僕の代わりにフローラが声を弾ませた。ヘンリーも照れ臭そうに笑うと、どこか浮ついた様子で饒舌に答える。

「まだ、城の極一部の人間しか知らないんだ。外にはいつ報せようか考え中なんだけど、妊娠初期は何があってもおかしくないっていうから、安定期まで待とうかって言ってて」

 こないだ会った時も、言いたかったのを必死に我慢したんだぜ? と笑うヘンリー達の会話を茫然と聞きながら、脳天を駆け抜けた衝撃がじわじわと感慨に変わっていくのを感じていた。

 嘘みたいだ。夢みたいだ。

 二人の子が今、本当に、マリアさんのお腹の中にいるなんて。

「おめでとう……ございます。ヘンリー、マリアさんも……身体に気をつけて、元気な御子様を産んでくださいね」

 なんだか無性に感極まってしまって、じわりと熱くこみ上げる目頭を指で抑えて誤魔化した。案の定、ヘンリーはすっかり困ったように目尻を下げ、笑いながら僕の肩を叩く。

「ばっか、何しんみりしてんの。俺達の親父か、お前は」

「……だってさぁ……」

 掌で顔を覆い俯いてしまった僕を見て、マリアさんも少し困ったように微笑んで首を傾げた。

 この場で名を出すことは控えたが、あの日暗い牢獄で、僕達にマリアさんを託した時の兵士の悲痛な顔が思い出されてならなかった。

 ヨシュアさん。妹さんの隣に今、ヘンリーがいます。

 あなたが助けた命が、次代へと繋がっています。

 二人とも、とても、幸せそうにしています────

「ご出産はいつ頃のご予定なのですか?」

「順調にいけば七月だって。六月後半から七月半ばかなぁ」

「七月? 来年の?」

「ああ」

 ぼんやり聞いていたフローラとヘンリーの遣り取りに引っかかりを覚えて、思わず変な声が出てしまった。幸いにも怪訝な顔を見せることなくヘンリーは頷く。

「その頃、お前達はまだ旅路かな。来られそうなら見に来てくれるか?」

 七月。その頃にはさすがに、グランバニアの王都に辿り着けているだろうか。

 フローラと一度顔を見合わせ、どちらともなく頷きあった。確約はできないけれど、もちろん可能な限り祝いに馳せ参じたいと思う。

「当然だよ。出来るだけ早く顔を見にくるから」

 意気込んで答えたらほっとしたらしく、ヘンリーが緩く脱力した微笑みを浮かべて「ん。待ってるからな」と頷いた。

「さて、そんじゃ積もる話もあることだし、場所移そうか。マリアは休んでな。二人が帰る前にまた連れてくるよ」

「あの、ヘンリー様。少しよろしいでしょうか?」

 話がひと段落ついたところで、ヘンリーが僕らを促し別室へと移動しようとした。確かに、妊婦さんの枕元で騒がしくしないほうがいいだろう。フローラの手を引いて後について行こうとしたが、そこへすかさずマリアさんが声を上げて、先頭に立つ夫を呼び止めた。

 視線を一度に集めた彼女は僕らの一番後ろ、彼女の近くに立っていたフローラを見上げ、少し遠慮がちに告げる。

「実は、私……フローラさんと、二人でお話してみたくて」

 名指しされたフローラをはじめ、全員が目を瞠った。穏やかな微笑みを浮かべたマリアさんが更にと言葉を重ねていく。

「フローラさんは長年、オラクルベリー南の修道院でお過ごしだったと伺いました。それこそご幼少の頃からと……実は以前マザーから少しだけ、シスター・フローラのお話を伺ったことがありまして。テュールさんのお相手がサラボナのルドマン嬢だとお聞きして、お会いできるのを大変楽しみにしておりましたのです。ご婚礼の折は慌ただしくてあまりお話できませんでしたから、是非この機会に歓談の時間をいただきたいな、と。宜しければテュールさんがヘンリー様とお話なさっている間、奥様を少しだけお借りすることは叶いますでしょうか」

 何だろう、リーシャといいビアンカといい、最近フローラが引っ張りだこな気がするな。

 マリアさんの申し出はとても嬉しいのだけど、わずかな時間でもフローラと離れるのは僕が寂しい。顔に出てしまったんだろう、ヘンリーが思いきり苦笑して肩を叩いた。

「ったく、そんな顔すんなって。どのみちマリアは少ししたら休ませたいから、しばらくしたらフローラさんだけ迎えに来るよ。それならいいか?」

 フローラも心配そうに首を傾げて僕を見ている。どれだけ情けない顔をしてしまったのだろう。慌てて笑顔を繕い頷いた。

「わかった。僕もヘンリーに相談したいことがあったから、ちょうど良かったかも」

 嘘じゃない。元々グランバニアのことを話そうと思っていたのだけど、できればフローラのいないところで訊きたいことがもう一つできてしまった。それを思えば渡りに船だ。

 というわけで、フローラをマリアさんの元に残し僕とヘンリーだけ移動することになった。部屋を出る直前「マリアをよろしく頼む、グラン夫人」とヘンリーが声をかけると、フローラはドレスの裾を摘んで恭しく綺麗な答礼を返した。

 ああそうか、そういう肩書になるんだよな……と今更ながら思う。僕の姓でフローラが呼ばれることにはだんだん慣れてきたけど、不意打ちで畏まった呼び方をされるとつい変な緊張が走る。

 碧い髪が蜂蜜色の黄金と並んで、視界の端で揺れる。

 穏やかに微笑んで見送ってくれる妻達に僕も目礼だけを返し、ヘンリーの背を追って、陽だまりのような暖かな部屋を出た。

 

 

 

 

 

「……べた惚れだな」

 閉じられた扉を背に、螺旋階段を降りようとしたところで、ヘンリーが冷やかし笑いを浮かべつつ振り返った。

「何さ。悪い?」

「なんで喧嘩腰なんだよ。安心してんの、お前がちゃんと夫やってるから」

 面と向かって言われればやはり気恥ずかしい。衛兵にだって聴こえているだろうに。熱くなった頰を誤魔化しついでに軽く睨むと、ヘンリーはいつものようにへらりと笑ったが、ふっと真顔になって正面に目線を戻し、僕に背を向けたまま独り言のような呟きをぽつりと零した。

「……あんまり、必要とされてる感なかったしな。俺」

 そんなこと、ない。

 思わず息を呑んだが、それきりヘンリーはこちらを振り向くことなく、黙って長い階段を下って行った。

 淡白だった、薄情だったという自覚はある。それにしたって、あんなに親身にしてくれたヘンリーに、そんなことを思わせてしまっていたなんて。

 唯一の友だった彼に、しかし帰るところを持つ彼に依存し過ぎるのが嫌で、ずっと変わらないなんて信じるのが怖くて、マリアさんと行動を共にするようになってからはその思い込みがますます強くなって。すれ違いというほどではなかったけれど、当時増え始めた仲魔達の世話にかこつけて、距離を置いてしまったことは否めない。

 今更ながらつくづく、自分の至らなさを思い知らされる。

「違うからな。そんな理由で国に残ったわけじゃない」

 同じく黙り込んでしまった僕に気付いて、扉の前で立ち止まった彼が静かに苦笑して言った。

 ────ああ、ほんと、気を遣わせてばかりだなぁ。

 やっぱり気の利いた返事はできる気がしなくて、黙って微笑みを繕い頷いた。それだけで言いたいことを汲んでくれる優しい幼馴染みは、満足そうに一度頷くと、目的の部屋の扉をおもむろに開けた。

 

 

 

 連れてこられたのは、以前も何度か通された応接間だった。

 室内に待機していた侍女の方々が、手際良くお茶の用意をしてくれる。ヘンリーに促されてふかふかの椅子に腰を下ろすと、ほとんど間をおかずに良い香りのカップと茶菓子をテーブルに置いてくださった。

「で、相談って何? テルパドールだっけ。あそこで勇者のこと、何かわかったのか? 俺に協力できることがあるなら何でも言ってくれよな」

 早速人払いしてくれたヘンリーが身を乗り出してきて、一瞬答えに窮してしまう。そのことも話したかったんだけど、目下相談したい事柄は実は、勇者とは全く関係ない話なのだ。

「あ……えっと、それはちょっと、おいといて」

「はぁ?」

 何からどう質問したものか。背筋を伸ばし、こほん、とわざとらしく咳をしてから改めて親友を見つめる。さっぱり見当がつかないという顔で、ヘンリーは肩に流れるまっすぐな翠髪をさらりと揺らし、不思議そうに首を傾げた。

「マリアさん、懐妊おめでとう」

「ん? ああ。なんだ、改まって」

 ますます困惑を深め、ヘンリーはぱちぱちと睫毛を瞬かせる。

 だめだ、反応が読めない。怖気付く自分を叱咤し、話の糸口を必死に探す。今しか訊けないんだから、躊躇ってる場合じゃない。

「────その、予定日って来年の……七月、って言ってたっけ」

「ああ。どんなに遅くとも七月末には生まれると思う」

 恐る恐る問いを発すると、ヘンリーは見たことがないくらいやわらかな、大人びた微笑みを浮かべて頷いた。

 ああ、こんな顔もするのか。

 付き合いの長い彼だけれど、すっかり大人の男らしい顔つきをした親友を前にしてひっそりと驚く。

「難しいかもしれないけどさ、遠慮せず絶対見に来いよ。八の月がいいかな。あれだろ、キメラの翼で立ち寄れる街に入れば来られるんだろ? お前だったら別に、いつ来ても構わないから。お産の真っ最中はさすがに相手出来ないだろうけど」

「あー……うん。ありがとう」

 そこまで配慮してもらえるのは有難いが、ここから先をどう切り出すかということでいっぱいいっぱいだった僕は、つい気の入らない生返事をしてしまった。期待通りの返答を得られなかったのであろう、当然面白くなさそうに顔を顰めたヘンリーが、据わった目でじとりと僕を睨んでくる。

「なんだよその奥歯に物挟まったみたいな言い方。親分の慶事を祝ってやろうって気はないのか?」

「違うって! ……こ、こんなこと、ヘンリーにしか訊けないから……なんて言ったらいいのか」

 迂闊だった。いよいよ逃れられなくなり、尚も睨めつけてくる幼馴染みから必死に目を逸らし、あらぬ方向へ視線を泳がせたが、ついに観念して燻っていた疑問を絞り出す。

「そんなに…………長いの? 子供が生まれる、までって」

 

 

 ばっちり防音を施され、外界から隔離された静謐な応接間に、更に居た堪れない沈黙が流れる。

 

 

「……………………へ?」

「だから、その、……だって、まだ半年以上先なのかって、びっくりして」

 縮こまりつつ眼だけでこっそり表情を窺えば、ヘンリーは蒼い瞳をますます円くしたまま、ぽかんと口を開けている。

 そこはもうちょっとさらっと流してくれよ、何でそこまで驚くのさ。と訊いておいてなんとも理不尽なことを思ったが、彼はぱちぱち睫毛を瞬かせると再びまじまじ僕を見つめ、テーブルに腕をついて、ずずいっと身を乗り出した。何この圧迫感。

「え……マジ? 念のため訊くが、ナニをしたら子供を授かるってのは理解してんだよな?」

「教わった覚えはないけど、奴隷してた時分にいつの間にか心得ていたとしか」

「うぇっ、風情も何もねぇ。お前まさかフローラさんと致したらすぐ子供が生まれるとか思ってねーだろうな!?」

「思っ……てない! ないけど、ただ、最近旅先でも妊婦さんに会ったんだけど、見た目じゃ全くわからなかったんだよ。その人も確か二、三ヶ月後が予定日だって言ってて、だから赤ちゃんってわりとすぐ生まれてくるもんだとばかり!」

 浅はかな胸中をずばり言い当てられ、あわあわと必死に言い繕う。荘厳なるラインハット城の応接間で男二人、何の話をしているやら。いやでも正直なところ、三ヶ月でも十分長いなと思ったばかりなのだ。妊婦さんは腹が大きいものだという固定観念があって、ということはリーシャの姉君、レイラ様はまだ身篭ったばかりだったんだろう、などと勝手に思い込んでいた。

「お産までは十月十日って、聞いたことないか?」

 聞いたことがあるような、やっぱり知らないような。首を捻ってみせると、ヘンリーはいよいよ呆れと憐みに満ちた表情でこれみよがしな溜め息を零し、頭を抱えた。

「あー……そっか、お前、お袋さん知らないんだもんな。兄弟もいないし、そりゃ知らないかぁ……」

 冷たい汗がじわりと背に滲む。……自分はどれだけひどい思い違いをしているんだろう。

 眉間に皺寄せ唸る親友を前にして、恐る恐る、純粋極まりない愚問を投げかける。

「それ、単に長い時間って意味じゃ……ないの……?」

「莫迦。そのまんまだ、つうかそれこそ母親が子を腹に宿す期間のことだ。実際は数日から数週間、前後することもあるというが」

 ということは、十ヶ月と少し? そんなに?

 向かいの席で眉間を抑えているヘンリー同様、僕も思わず頭を抱えた。それってほとんど一年じゃないか。妊婦は皆、そんなにも長い間、赤ん坊を腹の中で育てているっていうのか?

 あまりの認識の違いに愕然としている。いやまあ言われてみれば、いきなり抱っこできる大きさの赤ん坊が腹の中に来るはずないよね。そりゃそうだ。てことは逆算するとあの時、レイラ様は子を宿してからそれなりに長く経っていたってことで……そんな中でのあのご心労。うわぁ、無知はつくづく罪だ。こんな状態で授かってしまったら、僕の無神経な発言や行動は妻をほとほと困らせてしまうことになるだろう。

 そりゃ、半年も前には考えもしなかったことだけど、今の僕はわりと真剣に、父親になるのも悪くないと思ってる。未だ絵空事に近い感覚だけれど、フローラとの子供ならいつか腕に抱いてみたいと素直に思える。だからこそ、真剣に望むなら絵空事じゃ駄目なんだ。大切な妻に子を宿して欲しければ、僕もちゃんとその神秘について知っておかなくては。

「いや。よくわかった。そりゃ確かに、俺以外に聞いてやれる奴いないわ」

「恩に着ます……」

 しおしおと小さくなった僕の背を叩いて慰め、ヘンリーはすっかり憐れみ深い眼差しでこちらを見ている。

 あの尊大だった王子が、よくぞこんな世話焼きになったものだ。尤も彼からしてみれば何も出来ない子供が長年くっついていて、不可抗力の意味合いもあったのかも知れないが。

 意外にも面倒見の良かった彼が、あの牢獄で教えてくれたものは計り知れない。そうして今でもこうして見捨てず、頼れる親友で居てくれる。

「そういうこと訊いてくるってのは、あれか? もしかして、フローラさんもおめでたの可能性があるのか」

「ううん、ないとは言ってたけど……そういうの、本人にはわかるものなんだよね? 正直、今のマリアさんも見た目は前と変わらないから、言われないと気付かないよ」

「へぇ。ないとは、ねぇ」急ににやついたヘンリーが肘で僕の肩を小突いた。「やることはやってるわけだ。奥手すぎて手を出せないんじゃないかって、正直心配だったんだよ」などと揶揄われ、羞恥のあまり全身がかぁっと熱を帯びる。男同士だからこういう下世話な冷やかしは昔からままあるが、妻を絡めて当て擦られるのは良い気がしない。「ヘンリーだって、しっかりやってるから授かってるんだろ。変なところで茶化すなよ」と憮然として言い返すと、彼は笑って両掌を振り、こほんと一つ咳払いをした後、改めて話を切り出した。

「腹が大きくなるのは臨月って言ってさ、わりと生まれる直前まではそこまで大きくならないらしいんだよな。自覚……どうかな、うちも侍医が初めに気づいたからなぁ。ああでも、悪阻で気づくかな? マリアも今、メシの匂いで気持ち悪くなるってんで大変なんだ。赤ん坊のためって言って、本人は頑張って食ってるけどさ」

 悪阻ってわかるか? と問われて、聞き覚えはあるものの、やはり自信がなかったので正直に首を振ると、ヘンリーは困ったように笑ってから丁寧に教えてくれた。

 曰く、妊娠すると母体に現れる症状のことらしい。人によって症状も程度も違うが、マリアさんの場合、食べ物の匂いに苦手なものが多く難儀しているそうだ。食事のたび吐き気を催していては確かに辛いだろう。悪阻が全くない人も居るというが、自覚というならこれが一番わかりやすいんじゃないか、とヘンリーは言った。

「仕方ないな。このヘンリー様が直々に、初めて子を授かった父親の心構えってやつをしっかり伝授してやるよ! 有り難ーく拝聴していけ!」

 何やら偉そうに腕組みをし踏ん反り返る。こういう彼らしさが健在であることが嬉しくて、思わずふはっと笑ってしまった。

 それから小一時間、彼の特別講義が終わってやっと本題であるグランバニアの件を切り出すまで、僕はずっと前のめりの体勢で、ヘンリーの説明に耳を傾け続けたのだった。




またまた蛇足ですが。
これ書いてる時に描いたらくがき漫画です。

【挿絵表示】

こういう、原作に出てくる台詞から膨らませるの大好きです!(小説にもちょこちょこ入れているのですよー)
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