Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】   作:サクライロ

62 / 78
#24-3. 光の標【終章3】~side Flora(1/2)

 殿方二人を見送った重厚な扉が、音もなく閉められる。

 大きな窓から昼過ぎのやさしい光が差し込んで、室内は春めいた暖かさに満ちる。外の冬枯れの寒気が嘘のよう。

 ラインハット城、正殿の最上階。

 恐れ多くも王兄殿下ご夫妻の御殿にて、私は今、ご懐妊なさったばかりのマリア王兄妃殿下のお側に侍り、束の間の歓談相手という大役を仰せつかっている。

「お引き留めして申し訳ありません。お時間をくださり、ありがとうございます」

「いいえ、私の方こそ……こうしてゆっくりお話しさせていただけて光栄です。お疲れの時は遠慮なくお申し付けくださいね」

 蜂蜜のような金髪がふんわり揺らめく。胸許まで伸びたそれは菫色のドレスの肩口に踊り、淡い薔薇色の唇が金糸の睫毛とともに緩やかに弧を描いた。王兄殿下の寵妃のなんとも愛らしい様に目を細め、思わず微笑みを返す。

 室内には侍女の方々が控えていらっしゃるから、完全に二人きりではないのだけれど。互いの伴侶抜きでマリア様とお話をするのは、婚礼の日のわずかな時間以来だ。私と同じ修道院にいらした方だと伺ったけれど、初めてお会いした時には既に王家の一員でいらしたから、どうしても緊張が先に立ってしまう。

「お身体に、何か障りはございませんか?」

「そうですね。少し悪阻があるくらいで……実は一週間ほど前、軽くですが出血があったものですから。念のため、こうして休ませていただいている次第です」

 念のためとは言うが、それではほとんど寝たきりを余儀なくされている状態なのでは。

「少々、失礼いたしますね」

 断りを入れて、彼女の傍に置かれたもう一つの枕を引き寄せた。王兄殿下がお使いになるものだろうと思うと余計に緊張してしまうが、静かに息を吐いて気持ちを落ち着け、マリア様のお背中にそっと宛てがって身体を預けるよう促した。

 マリア様の枕に重なって生まれた微かな傾斜が、胃の中のものの逆流をわずかながらも防いでくれる。少しだけ前傾したこの姿勢は眠気を誘うのにも良い。気休めではあるけれど、これも修道院で培った知識の一つ。

「やはり、よくご存知でいらっしゃいますね。とても楽です」

「修道院で何度か妊婦さんのお世話をしたことが。赤児を取り上げたことはありませんが……あ、私、香油をつけてしまっているのですが、匂いがお辛くはありませんか」

「大丈夫です。とても良い花の香りですのね」

 微笑んで答えたマリア様がふぅ、と脱力し息をつく。

 投げ出された手がなんだか心許なげに見えて、思わず上から両手に包んだ。掌はそこまでではないのに、白い指先だけが凍るように冷たい。マリア様は少し驚いてたじろいだようだったけれど、すぐに恥ずかしそうにふわりと微笑んだ。

「ありがとうございます。……そうしていただいていると、何だか安心します」

「お楽になさっていてくださいね。眠くなったらお眠りくださって構いませんから」

 はい、とまたマリア様が柔らかな微笑みを浮かべて頷く。穏やかで静かな時間が流れる中、ふと、枕元に侍ってずっと見守っていたあの日のことを思い出した。

 あの時は、寝台に昏倒した夫が眠っていた。

 今と同じように彼の手を握っていた私の背後に、マリア様が黙って佇んでいらして。

「婚礼の時の……ご恩返しにもなりませんが」

 ぽつり、呟くと、マリア様が哀しげに瞠目し私を振り仰いだ。

 恐れ多くも準備の段階から何かとお気遣いをいただいた上、テュールさんを共に見守ってくださったというのに、そういえばあの時は気持ちに余裕がなさすぎて、ろくなおもてなしもできなかった。

 今更ながら、なんと失礼なことをしてしまったのか。

「テュールさんがお倒れになっていた間、ずっと傍についていてくださいましたでしょう? 当日は満足に御礼も申し上げられず、大変失礼致しました」

「そんな。私も、あの時は色々と考え事をしておりましたから」

 遅ればせながらも深謝の念を込めて深々頭を下げれば、マリア様は何故かひどく狼狽えて、顔を上げるよう懸命に私を促す。

 却って困らせてしまったようでますます恐縮しつつ、もう一度だけ謝辞を述べた。

「本当に心強うございました。ありがとうございました」

「……いいえ。何か、できたわけではありませんでしたが」

 そう仰ったマリア様は、やはりどこか哀しげに私を見つめている。御礼をお伝えしなくてはと思ったものの、タイミングを誤ったかもしれない。重くなってしまった空気をなんとかしたくて口を開きかけた瞬間、────

「何も、ご存知なかったのですよね……?」

 りん、と響く、マリア様のお声が。

 憐れみを感じる眼差しが、少し、つきりと心に刺さって。

 あのことを仰っているのだと、すぐにわかった。ヘンリー殿下にテュールさんのことをどれだけ知っているのか問われた時。私は愚かにも、最も愚昧な返答しか持ち合わせておらず、あの場に居合わせた方々を深く呆れさせてしまった。

 思わず目を伏せてしまうと、マリア様は緩く重い息をつき、少しだけ逡巡なさってから……薄紅の唇を開いた。

「ヘンリー様は、今でこそ気兼ねなく色々話してくださいます、が……お二人の婚礼に参列するまではやはり、何でも、とまではいかなかったように思います」

 私達の……結婚式?

 あの日、私達が与り知らぬところで何かあったのだろうか。不安を覚えてマリア様を窺い見ると、彼女はどこかお辛そうにやわらかな微笑みを歪ませる。

 その、次の瞬間。私は軽率に続きを聞いてしまったことを心底後悔した。

「私も、奴隷でしたの。ヘンリー様とテュールさんが働いていたあの場所に入れられてすぐ、ある失敗をしてその場で鞭打ちの刑に処せられました。死を覚悟した時、庇ってくださったのがお二人で────」

 マリア様の細い、鈴のような声が遠ざかっていく心地がする。

 ────そんな。

 マリア様も。マリア様まで、テュールさん達と同じ……だったなんて。

 かつての神々の居処と呼ばれる地で、教団に隷属し、苦役に従事させられた人々のうちのお一人だったなんて。

 考えもしなかった。テュールさんとヘンリー様、お二人といつから親しくしていらしたのか。お二人がセントべレス山を逃れ修道院に流れ着いて、そのご縁で知り合われたものとばかり。

「こんな話は、なさっていないのではありませんか。テュールさんは」

「……はい……」

 なんと言っていいかわからなくて、無意識にドレスの裾をぎゅうっと握りしめた。俯いてしまった視界には磨き上げられた床と緋色のラグ、そして寝台から流れ落ちた上質なシーツばかりが映り込む。

 ああ、本当に、私は何も知らない世間知らずだった。

 資産家の父母に拾われ、修道院の壁の中、真綿に包まれ何不自由なく育ってきたのだ。

 皆さんの苦しみを本当に理解することなどきっとできない。故郷を焼け出されたことも、親を目の前で殺されたことも、理不尽に鞭で打たれたこともないのだから。

「どうか気に病まないでくださいましね。きっと私達の旦那様は、私達を悲しませたくなくてお話なさらないだけなのです」

 身勝手に消沈し、顔を上げられなくなってしまった情けない私を、マリア様は慈しみ深く言葉を尽くして励ましてくださった。

 あまりに申し訳なくてそろりと瞳を持ち上げれば、深い優しさを湛えた瞳がやわらかく私を受け止めてくださる。

「フローラさんが、まだ出会って間もないと仰った時……他人事とは思えませんでした。私だって、テュールさんと比べたら。あの神殿で、奴隷としてお会いしていなければ、ヘンリー様に見初めていただくことだってなかったかもしれないのですから」

 そう言って、マリア様はまた切なく、綺麗に微笑む。

 こんなにもお優しく、清らかな心を持つお方が、奴隷として理不尽な辛さを背負われたのかと思うと。

 テュールさんのお話を聞いた時にも感じた憤りや悲しみが、行き場のない衝動となって身体の奥を駆け巡る。

「ありがとう……ございます。申し訳ありません。こんな、お辛いことを」

「大丈夫だからお話ししたのですよ。寧ろ、こんな話をされてもお困りなだけでしょうに、身勝手に押しつけて……私の方こそ、申し訳ございませんでした」

 込み上げる喉奥の苦しさを押し込めて詫びれば、心優しい王兄妃殿下は寧ろ、ご自身が悪いことを言ってしまったというように、懸命に言い募る。

 ああ、この方は、心から私を心配してくださっているのだ。

 だからマリア様は、ご自身の悲痛な過去を示してまで、こうして元気づけてくださっているのだ。

 恥ずかしい。ずっと、自分のことでいっぱいで。そのお心遣いに、今のいままで気づけなかったなんて。

 背筋を伸ばし、妃殿下に真っ直ぐ向き直った。頂いた真心への感謝を込めて、精一杯の微笑みを繕い、ようやく答える。

「お気遣い、誠に痛み入ります。……婚礼のあと、ちゃんとお互いのことを話す時間を持てました。私達も、もう話せないことなどないと、互いに……思っております」

 私が隠し通すと決めた、あのこと以外は。

 ふと後ろめたいものがざわりと背を撫でていった。もう一つ、私は彼に話していないことがある。

 天空の盾のこと。私自身の、本当の出自のこと。

 話さなくては。これ以上隠し事はしたくない。サラボナを発つまであと一週間もない。二人きりでいられる今のうちに話をするべきだと、わかっている。

 けれど、本当に束の間、旅から離れて彼と過ごすこの日々が、とても優しくて、愛しくて、幸せだったから。

 あと数日。せめて旅立つその日までは、憂いごとを考えることなく今の幸せに身を浸していたいなどと、わがままなことを願ってしまう。

 彼の出自も、私の出自も関係なく、今だけはどこにでもいるただの夫婦として、心穏やかに過ごしていたいと。

「良かったですわ。……お二人で、お話されたのですね」

 そんな、私の矮小な葛藤に気づかれることなく、マリア様はゆるく安堵の息を吐かれた。

 少し肩の力が抜けたご様子で、親しみを込めた表情で彼女は語る。

「ヘンリー様は、今でこそご自身のことはどんなことでも話してくださいますし、テュールさんと二人で過ごされた頃のお話も聞かせてくださいます。ですが、テュールさん個人のお話をしてくださったことはないと思います。あ、いえ」

 そこまで言って、マリア様はふと言葉を飲み込んだ。私が首を傾げると、小さく苦笑して頭を振ってみせる。

「聞きたいかと問われたことはあるんです。私がお断りしただけで。だって、あの方……私が、本当はテュールさんをお慕いしていた、なんて思い込んでらっしゃるんですよ」

 思わず目を瞠ると、蜜色の髪の乙女は困ったように肩をすくめ、また微笑んだ。

「テュールさんはもちろん、とても素敵な方ですわ。けれど、私が惹かれたのはいつでも私を真っ先に守ってくださった、あの方の大きなお背中なのです。……悔しいから申し上げませんけれど。無事に生まれたら、教えて差し上げてもいいかも」

 優しい手つきでお腹を撫でて、その指先をそっと唇に押し当てる。内緒話をするように密やかに、マリア様はきれいな微笑みでくすくす笑った。

「もう、動くのが分かりますか?」

「残念ながら、まだ。早く胎動を感じてみたいですわ」

 両手でお腹を大事に包み込み、幸せそうに頷いたマリア様が突然「あ」と声をあげ、何か思いついたご様子で瞳を輝かせた。

「良かったら、触ってみていただけませんか?」

 思わぬお申し出に目を円くする。え、と口籠る私に向かってマリア様は身を乗り出し、手を出すよう促してくださった。

「よろしいのですか?」

「ええ。是非、フローラさんからもこの子を励ましてあげてくださいませ」

 あくまで迷信だけれど、妊婦の腹に触れると子を授かりやすくなるという言い伝えがある。リーシャさんの未来視が戒めるように脳裏をかすめて、けれど欲求には抗えず、誘われるままそろりと腕を伸ばした。

 マリア様に手を引かれ、寝着の上から恐る恐る掌を載せたそこは、優しくて温かい、けれどまだ華奢なだけの腹部だった。

 この中で今、小さな命が育まれている。

「本音を申しますと、年の近いお友達に恵まれたら素敵だと思いまして。……ヘンリー様とテュールさんのような」

 あまり馴れ馴れしく撫でるのも憚られて、手を当てたままその温もりを確かめていたら、どこか悪戯っぽいマリア様のお声が密やかに響いた。

 やはり子授けの迷信のことを示唆されていたのだと思ったら、何となく可笑しくなって、自然と笑みが溢れ出る。

「それは、とても素敵ですね」

「でしょう?」

 くすくす、くす。

 どちらからともなく、あどけない笑い声を零しあって。

 本当に、とても素敵だと思ってしまった。

 こんなふうに、親しい相手と笑い合う子供達。

 そんな未来を繋いであげたい。幸せに、何も憂うことなく大きく育って。

「何か……不安なことがお有りですか?」

 笑い声がぽかりと途絶えたあと、ぼんやりとそんなことを考えていたら、ひどく心配そうにお声をかけられた。

「いえ────、いいえ」

 慌てて焦点を合わせてマリア様を見上げる。テルパドールを離れてからというもの、ふとした瞬間にこうやって物思いに沈むことが増えてしまっていた。

「何も……、ございません。申し訳ありません、次の出立が近いせいか、妙に緊張してしまって……」

 しどろもどろに、当たり障りない言い訳をする。マリア様は然もありなんと頬に手を当てて何度も頷き、「そうですよね、また旅に出られるのですもの。そういえば私も、サラボナに向かうと決まった時には色々考えすぎて、あまりよく眠れませんでしたわ。船も初めてでしたし……海の魔物も、全く居なくなったわけではありませんものね。ご心配ですわよね」としみじみ呟かれた。

 そうして暫し考え事をなさっていたが、「嫌だわ、私までぼうっとしてしまって」と頭を軽く振ると、気持ちも新たに明るいお声で違う話題を切り出された。

「これからのお話も良いですが、よろしければ是非、フローラさんが修道院にいた頃のお話を聞かせてくださいませんか。私は結局あまり長く居られなかったのですが、とても良くしていただいたので時々ひどく恋しく思われてしまって」

 そのお気持ちはよくわかる。頷いて、私も修道院時代に思いを馳せた。規律正しく過ごす日々の中で様々なことを学ばせていただいた。知識だけでなく実際に手を動かす経験を多く為せたことは、今の私の生きる力に繋がっている。

「私がおりましたのは、六歳から十四歳までの八年間です。大変幼くしてお世話になりましたが、できることから少しずつ……役割を振っていただき、色々なことを学べたと思います。身の回りのことは一通りこなせるようになりましたし、衣服の仕立てに彫り物、土弄りまでさせていただけるとは思いませんでした」

「そうですよね。畑も自分達で手入れしていたのは驚きましたわ。採れたてのお野菜があんなに甘いなんて、初めて知りました」

「ふふ、私もです。海が近いので土のお手入れが大変でしたわ。作付けの前には、地域の皆さまも総出で塩抜きをしたものです。マザーをはじめ、シスターも近隣の方々も大変お優しい、頼もしい方ばかりで」

 思い返すと懐かしい。質素倹約、自給自足を旨とする修道院では、何をするにも人力が必要だった。非力な私達を助けてくださる多くの方々がいて、少しずつ手を差し伸べあって、あの生活が成り立っていた。

 もちろん、父をはじめ、各地の資産家による修道院への支援があってこそ維持できたものもある。ラインハット王家による代々のご寄付が打ち切られた折には、マザーから内々に父への感謝の言葉を預かった。偽の為政者を打ち倒し、修道女を王族の妃に迎えた今ならば、もうその心配もないだろう。

「本当に、そうですわ。あの浜辺に流れ着いたことこそが精霊ルビスの思し召しだったと、私、今でも思いますもの。……異教徒だった私をも、そうして寛大にお救いくださる……」

 そう呟いて、マリア様は厳かに印をきり、両の指を組む。

 見慣れた仕草に懐かしさを感じつつ、私もそれに倣って静かに神へと祈りを捧げた。

 枕元で長い黙祷を捧げた後、顔を上げたマリア様がふと思い出したように私に問いかけられた。

「そういえば、フローラさんは私達とほとんど入れ違いに、修道院を発たれていたのでしたか」

「はい。夏に再訪しました折、私が修道院を発った数日後に皆様が流れ着かれたのだと……教えていただきました」

 このことを思うたび、あまりの間の悪さに泣きたくなる。

 どうして、たったあと数日。出立が一週間遅ければ、私も皆さんを多少なりともお助けできたのに。

「本当に、お気になさらないで。フローラさんには、フローラさんにしか成し得ないお役目がお有りでしたでしょう?」

 再び俯いてしまった私の肩を、マリア様はそっと撫でては優しく慰めてくださった。

「そう……、でしょうか」

「ええ。天空の盾を守るというお役目が」

 思わず目を見開き固まってしまった私を見て、マリア様が不思議そうに首を傾げた。

「違いましたか?」

 ────そうだわ。マリア様もあの時、一緒に盾をご覧になったから。

 ぎごちなく頷くと、彼女は穏やかに、星空のような深い藍色の眼を細めた。

「詳しいことは存じ上げませんが。ルドマン家が天空の盾を継承していらっしゃったことこそ、フローラさんとテュールさんのご縁を何より深く示すものだとは思われませんか」

 けれどその盾は、本当は、我が家に伝わっていたものではないのです。

 正確ではない事実でそんなふうに思わせてしまうことが後ろめたくて、しかし訂正もできず目を伏せてしまった。視線を合わせない私を責めることなく見遣り、マリア様はあくまでも優しく、嬉しそうに頬を緩ませる。

「ふふ。こんなことを言ったら不謹慎かもしれませんけれど、運命の恋、ってこういうことを言うのかしら、と思って」

 

 運命の、恋。

 

 昔、まだ物の道理も知らなかった幼い頃、両親に連れられて参列した結婚式で、幸せそうな新郎新婦を祝福したことがある。

 目映いほどの幸福に包まれたお二人を見て、いつか私も、私だけの素敵な王子様に巡り逢えたらと幼心に夢を抱いた。

 逆だと思っていたの。運命的だったのはビアンカさんの方で、せっかく再会できたお二人を私が引き裂いてしまったのだと。

 今も彼を信じられないわけじゃない。嬉しかった。それでも、私以外の方からすればそんなふうに見えて当然なのだと、それはずっと戒めとして心の内にあった。

 だから、────だから。

 マリア様の言葉は、心の奥底に眠らせた幼く無防備な私をほんの少し、揺さぶった。

 ずっと逢いたかった、私だけの王子様。

 あのひとに恋をする瞬間を、ずっとずっと待ち焦がれていた。

 この恋は私にとって間違いなく、運命の恋だった。

 何より得難い、たったひとつの。

『こんな恋、一度すれば十分過ぎるよ。心臓がもたない』

 ふと、夜明けの砂漠で聞いた、砂塵にかき消えそうだった愛しい囁きが、音もなく胸を凪いでいく。

 嬉しくて、胸がまた少しだけ、苦しくなる。

「……マリア様とヘンリー様こそ、とてもロマンチックで運命的なお二人ではございませんか。白馬に乗った王子様が迎えに来られたと、修道院のルーシィちゃんが教えてくれました。お話を聞きながら、うっとりしてしまいましたもの」

「ま、まぁ、そんな。お恥ずかしい限りです……」

 ぽぽ、と頰に紅を灯らせたマリア様を微笑ましく見つめた。彼女も気恥ずかしげに微笑んで、改めて修道院の話題を口にする。

「最近も修道院に行かれたのですか? テュールさんとご一緒に、色々なところを廻られているとお聞きしましたが」

「ええ。先日、テュールさんが朝の礼拝に連れて行ってくださいました。皆さんお元気そうにしてらっしゃいましたよ。マリア様のご懐妊が伝わりましたら、皆さん絶対に喜ばれますわ」

「そうですね、春にはきっと……無事に生まれて落ち着いたら、この子を連れてお顔を見せに行きたいですわ。ヘンリー様にお願いしてみようかしら」

 嬉しそうにもう一度、お腹を撫でるマリア様の仕草に笑みが零れる。そんな他愛ない話をしているうち、マリア様の蜂蜜色に彩られた星屑の瞳が次第にとろんと落ちてこられた。

「ごめん、なさい。やっぱり最近、どうしても眠くなることが多くて……」

「どうぞ、おやすみになってくださいまし。ヘンリー殿下がいらっしゃるまで、こうしてお側におりますから」

 きゅ、と手を握り直すと、安堵した微笑みと吐息が返る。

 程なく、金の睫毛が帳を下ろして。

 静謐でうららかな陽だまりの中、穏やかに響く規則正しい微かな寝息を、その傍らに侍ってただ静かに聴いていた。

 

 

 

 マリア様が眠りに落ちたのを見計らって、衝立の向こうに控えていた侍女の方がそっと声を掛けてくださった。

 良かったらあちらのソファでお茶を、と申し出てくださったけれど、緩く首を振ってお断りして。マリア様の手を包んだまま、しばらく寝顔を見守っていた。

 ────年の近い友人に恵まれたら、素敵だと思いまして。

 マリア様の嬉しそうな囁きを思い出すと、つい顔が緩んでしまう。そうなれたら本当に素敵だと思う。リーシャさんの予言は恐ろしいけれど、その部分だけは実現してくれたら、なんて都合の良いことを願ってみたり。

 ああ、でも、身篭ってしまったらきっともう気は抜けない。リーシャさんが仰った未来視の悲劇まで幾許もなくなる。何が起こるか分からない、けれど何としても助からなくてはならないのだ。

 いつかお腹に宿る子も、私自身も。

 テュールさんに、再び身内を失う悲しみなんて、絶対に味わせたくないもの。

 両手に包んだマリア様の温もりを額に押し戴き、深く祈りを捧げてからどれくらい経っただろうか。扉の方で誰かが話している気配がした。そのままじっと待っていると、緋色の長い被布を纏った王兄殿下が、そっと衝立からこちらを覗かれた。

 目礼を返すと、静かに頷いて足音を立てずに歩み寄る。

「よく寝てる。ありがとうな、ずっとついていてくれて」

 身を屈めて低く告げられた労いに、やはり黙って微笑みだけを返した。

 安らかな寝顔に今一度、愛しげな眼差しを落として。ヘンリー様が私についてくるよう促し、踵を返す。黙って承諾し立ち上がった。恭しく腰を折る侍女達に見守られ、殿下の背中に付き従って部屋を出る。

 螺旋階段を降りる間、ヘンリー様は終始無言だった。

 ……私も、敢えてお話しすることはないと思ったから、気分を害することがないようただ静かに後をついて歩いた。

 仕方のないこと。テュールさんとヘンリー様は特別親しい間柄でいらっしゃるけれど、私はテュールさんの付随品に過ぎない。ましてヘンリー様には、私は決して覚えめでたくない印象を持たれている自覚がある。

 結婚式の日、私は一度この方から失望された。

 直接非難されたわけではないけれど、何より、殿下の眼差しが全てを物語っていらした。

 テュールさんの生い立ちについて問われて、何も知らないと答えた。そんな大事なことも式の前に打ち明けられないような女が花嫁だなんて、さぞ落胆されたことだろう。

 ましてやあの場には、テュールさんがずっと探されていたビアンカさんもいらしたのだから。

 あの時の失望を払拭できたなんて思っていない。だから、束の間とはいえ殿下と二人きりで歩くことは正直、少し怖かった。

「……そんなに硬くならないでくれ。テュールに知られたら張り飛ばされそうだ」

 それでも怯えを表に出したつもりはなかったのだけど、先導するヘンリー殿下が苦笑いを醸しつつ、翠の髪の向こうからちらりとこちらを振り向いた。

 答えるべき言葉が見つからず、せめて視線が交わらぬよう瞳を伏せると、前方から更に困ったように小さく笑う気配がする。

「いや、自業自得なんだけど。わかってるけどさ」

 自業自得?

 そう言われても、私には殿下にそこまで言わせてしまう理由が思い当たらない。どうしてテュールさんが、ヘンリー殿下を?

 私が緊張している所為かしら。少なくともテュールさんは殿下を張り飛ばすなんてこと、なさらないと思いますけれど……

 心の中だけでそんなことを巡らせながら、察せられたいわけでもないのに萎縮するのは失礼だと思い直し、背筋をしゃんと伸ばした。その気配を察してか、殿下が少しだけ歩幅を緩ませる。半歩斜め前を歩く形になった殿下の横顔が視界に映り込んだ。

「……悪かった」

「え?」

 思わず訊き返してしまい、軽率な返答を一瞬で悔いた。聞き間違いかと思ったのだ。恐る恐る見上げると、ばつが悪そうなお顔の殿下が申し訳なさそうにこちらを見下ろしていた。

「不躾なこと、言った。婚礼の時」

 もう一度、はっきりと言われて、あの時のことかと得心する。

 謝罪を受けるようなことはなかったと言おうとしたけれど、更に重ねられた言葉に口を噤んだ。

「ビアンカさんだっけ。あいつの幼馴染の……あの人にも怒られたし、マリアにも後でたしなめられた。顔に出てたって」

 ────そういえば先程も、マリア様がそのことを随分と気にかけてくださっていた。

 まさかビアンカさんまで。あの場に居て、何も知らなかった私など軽蔑されて当然なのに、そんなにも皆様からお気遣いをいただいてしまっていたなんて。

「……どうか、お気になさらないでくださいまし」

 胸がいっぱいになる心地を懸命に堪え、精一杯、誠意を込めてお返事を口にした。

 眉尻を下げて私を見たヘンリー殿下に、どうか安心して欲しくて、にこりと笑みを繕ってみせる。

「ヘンリー様がテュールさんを、とても大切に想っていらっしゃること、よく存じておりますもの。……ご心配、でしたよね」

 見ず知らずの女に、大切な親友を任せることは。

 言葉にはしなかったけれど、ヘンリー様は私の返事を聞いて苦い顔をなさった。翠の美しい髪をさらりと掻き上げ、しみじみと嘆息する。

「……マリアといい貴女といい、修道院出の女性は出来が良すぎて肩身が狭いよ、俺は」

「勿体ないお言葉です」

 淑女の微笑を貼りつけ、慎み深く腰を折る。

 この方は夫の大切なご友人。けれど私からすればお互いに、それ以上でもそれ以下でもない。

 決して心証のよくない私がここまで気にかけていただいただけでも、畏れ多いことなのだ。

 話はそこで途切れ、殿下は謁見の間を抜けて更に奥の階段へと向かう。目礼を下さった玉座の国王陛下にきちんと礼を取り、距離の空いたヘンリー様の背中を少しだけ早足で追いかける。階段の手前でお待ちくださった殿下が、今度は私に手を差し伸べてくださった。

 紳士が礼を尽くしてくださっているのを無碍にはできない。戸惑いながら右手を預けると、ヘンリー様は「あいつの大事な奥方に、何かあったら大変だからな」と誤魔化すように笑った。

「前に来てもらった時にさ。神の塔の話したの、覚えてるか?」

「……あの、床が見えなかった塔のお話……でしょうか」

「うん」

 再び、少し近しい距離になったところで、ヘンリー様が声を顰めて私の頭上に囁いた。

 高い塔の最上階で、テュールさんと王兄殿下ご夫妻が目に見えない道……吹き抜けを歩いて渡られたという話だ。高いところが苦手な私は、思い出すだけでまるでその場にいるかのように、ぞくりと身体がすくんでしまう。

 幸いにも殿下には気づかれなかった。私を支えてゆっくり階段を降りながら、噛みしめるようにじっくり言葉を選ばれる。

「俺、あいつにもうちょっと配慮しろって怒ったじゃん? でも、本音はちょっと違くてさ」

「────……?」

 思わず首を傾げたが、そういやあいつ、本当にフローラさんに無茶なことさせてないか? と逆に問われて、慌てて首を振った。

 危険なところには近づかなかったし、長い階段などの苦手なところではいつも身体ごと支えてくださった。寧ろ、過保護なほど大事にしていただいて、いつも申し訳なく思っているのに。

 狼狽えた私を見てヘンリー様は微かに笑ったけれど、また少しだけ黙り込んで……言おうか、言うまいか逡巡なさって、ひどく、たくさん躊躇ってから、ついにそれを口にした。

「なんて、いうか……あいつ、恐怖って感覚が麻痺してるんじゃないかな、って」

 

 ────────好戦的?

 いいえ、違う。これでは まるで────

 

 どう し て。

 唐突に、鮮明に脳裏に浮かび上がったのは、ナサカの浜でのキメラ達との戦闘の記憶。

 怒りに満ちたテュールさんの気配。いつもより鋭く、激しかった斬撃。次々に敵を斬り伏せ薙ぎ倒していく、テュールさんも、仲魔の皆さんも、鬼神の如く容赦なく、残酷なまでの殺気を放って。

 何故、こわい などと、思ったの?

 あんなにも優しい皆さんなのに。

 あんなにも、あの瞬間だけ、

 別人のように感じた、だなんて。

「だってさ、おかしくないか? 床見えないんだぜ。歩けるってわかってても普通はびびるもんだろ。お袋の時だってそうだ、あんな……あんな魔物を前にして、なんで平然としてられるんだか」

 ヘンリー様の呟きを黙って聞きながら、私も、これまでの戦いに於ける彼の様子を必死に思い返していた。

 死を賭すような場面で、強大な敵を前にして、彼が怖気付いたり狼狽えたりしたことは……なかったと思う。私が巨大な幼蟲の顎に貫かれた時でさえ、きっと冷静に思考し対処なさっていた。キメラに囲まれた時も。大鮹と対峙した時も。

 ヘンリー様が言わんとしていることは、よく理解る。

 テュールさんはきっと、本能的な恐怖を意図的に封じている。

 恐怖は時に自我にも勝る。制御しようとしてできるものじゃない。私だってテュールさんと旅に出てから、怖くて動けないことが何回もあったもの。彼も恐怖を覚えるからこそ、無意識に抑制してらっしゃるのかもしれない。動けないことがないよう、己の激情に呑まれないよう────ああ、そうだわ。

 私は知っている。本当は、あの方の奥底にはいつだって、途方もない激情が渦巻いていることを。

「フローラさんはうちの義母のこと、聞いてるか? 魔物が化けて入れ替わってたのをテュールと一緒になんとか斃したんだけどさ……強かったよ。今までやりあった魔物の中で一番でかかったし、強かった。俺なんか膝が嗤ってたね、こりゃ無理だろって思ったけど、……あいつは顔色一つ変えなくてさ」

 淡々と殿下は告げたが、それが却って死闘の凄まじさを思わせる。

 ラインハット王国の横暴の噂は当時、修道院に居た私にも聞こえていた。オラクルベリーとラインハット地方の間に長い橋が懸けられたのはいつだったか。岸辺で舟渡りをしていた人々がいつの間にかいなくなり、しばらく往来が途絶えたのだけれど、気がつくと両岸が埋め立てられ、そこに堅固な橋が建設されていた。それからはオラクルベリーの人々も、いつ自分達にも火の粉がかかるかと、遠い王城を睨みながら戦々恐々として日々を過ごしていた。

 大きな声ではいえないけれど、当時罪に問われて必死に逃れてきた人々を、修道院の奥で匿ったことも何度かあった。

 テュールさんは、当時仲間だったピエールさんとスラりんちゃんとも力を合わせてヘンリー様の手伝いをした、ということしか仰っていなかった気がする。前王の後妻……殿下の義理のお母様に魔物が成り代わっていたことは聞いた。一国を牛耳っていた魔物なのだから、さぞかし強敵だったのだろうとは思ったけれど。

「何だこいつって思ったよ。ま、そのお陰でぎりぎり踏ん張れたんだけど。……多分、あん時テュールは……死ぬのが本当に、怖くなかったんだろうな」

 あまりに物騒な単語を聞き逃せず、弾かれたようにヘンリー様を見上げれば、殿下は困ったように笑みを繕い溜息を溢した。

「そりゃ、あいつには親父さんの遺志を継ぐっていう目的があるけど。それがなかったらあいつ、生きてる意味なんてとっくに失くしてたんだよ。あいつの中では多分、親父さんが死んだ時あいつも死んだんだ。そういう感じ。……たった今死に直面したとしても、もしかしたらあいつはああなのかもしれない。事切れる瞬間まで冷静にしていそうだ。でも、……フローラさんのことはまた、別だろ」

「────私……、ですか」

 隣を歩くヘンリー様の横顔を遠慮がちに仰ぎ見ると、殿下は端正な面立ちをやわらかく崩して頷いた。

 こんなふうに、私にまで気を許したような笑みを向けていただけるとは思わなかった。

「初めて見たんだ。こんなに長い付き合いなのにな。ああやって誰かに寄り添ったり……甘えたり、するテュールは」

 さっきだって、あんな情けない顔したりさ。思い出して再び苦笑混じりに肩をすくめ、ヘンリー様は────ふと、真剣な眼差しで前方の虚空を見つめる。

 きっと私の知らない、記憶の中だけのお二人の姿を追って。

「俺は、知らない。あんな顔して笑うテュールを……知らない」

 私もまた、微かに見える横顔に見入りながら、言葉よりずっと強く痛感する。

 今まで、この方がずっと、誰より深く彼のことを理解していらしたのだと。

 ご自身の辛苦もあったはず。それでも、目の前でお義父様を亡くされた幼いテュールさんの精神を、誰より近くで守り通してこられたのは、ヘンリー様だった。

「貴女に出逢って、テュールは今、もう一度生き直してる。そんな気がする。すごく嬉しいんだよ。 ……でも、俺は同時に恐ろしくも思う。いつか、あいつに」

 そこまで一息に口にした殿下が、不自然なほど唐突に言葉を飲み込んだ。

 止まりかけた足取りに合わせて歩調を緩め、黙って続く言葉を待つ。

 俯き、吐息だけで絞り出された、今にも霧散しそうなその呟きは、きっとすぐ隣に立った私にしか聞こえない。

「……耐えきれないような、恐ろしいことが起こったら……今度こそ、あいつはどうなっちまうんだろう、って……」

 

 ────────ああ、

 この方もまた、誰にも言えなかったのではないだろうか。

 言えるはずがない。マリア様にも、やっと兄君を取り戻したばかりのデール国王にも。

 

 これは悔恨だ。ヘンリー様もまた悩み、苦しまれていたのだ。テュールさんを一人、送り出す選択をなさったことを。

 それが真実、殿下が選ぶべき最善の途だったのだとしても。

「……勝手だなぁ。俺、あいつには誰より幸せになって欲しかったのにさ」

 きっと努めて明るい声を出されたヘンリー様は、そんな口調と相反して、今にも泣き出しそうに見えた。

 堪えて、堪えて、苦いものを飲み下して。

「幸せになったらなったで、今度は、いつかそれがあいつを壊すんじゃないか、なんて。……不毛だよなぁ……」

 想いが、溢れる。

 自嘲めいた笑みを滲ませたヘンリー殿下の呟きが、痛いほどぎゅっと胸を締めつける。

 テュールさんはご自身を薄情だと仰るけれど、こんなにも大切に想われていることに対して、盲目になれる方ではないと思う。

 お辛かったでしょう。大切に想うことと同じくらい、受け取る勇気を持てなかったことは。

 憶測に過ぎないそれを直接お伝えすることは憚られて、胸の中だけで密やかに、目の前を行く緋色の被布へと語りかける。

 ────……殿下。

 テュールさんはきっと今、ようやく、殿下の深慮、想いに向き合う勇気を持たれたのだと思います。

 お二人が越えて来られた十余年の歳月、その重みを理解できるなどと、おこがましいことは申しません。

 それでも、貴方が永く守ってこられた大切なものを、私にとっても何より大切なそれを、今度は私が全力で守り抜きたい。

 私の意思がある限り、彼のお側を離れないと、誓います。

 音にならない私の誓いを受け取ったように、ヘンリー様の哀しいお声が密やかに耳に届いた。

「頼むよ、フローラさん」

 きっと私にだけ聞こえている、三歩分のこの距離に響く願い。

 振り向かずに発せられる静かな声が、私の誓いを力強く後押ししてくれる。

「あいつの側に居てやってくれ。テュールを……一番近くで見ていてやってくれ。捕まえていてやってくれ」

 ────何度も何度も、そう在ることだけを願ってきた。

 あの方を一人にしない。孤独になんてさせない。

 あの方を絶望の水底にただ一人、突き落としはしない。

 お側にいる限り、私が絶対に捕まえていますから。

 青い扉の前に立ち、もう一度苦しげな吐息を漏らして、

 ヘンリー様が最後に一言、喉の奥から絞り出した。

「……貴女にしか、頼めない……」

 

 

◆◆◆

 

 

 すっかり重苦しい空気になってしまったのを無理矢理深呼吸して気持ちを入れ替え、ヘンリー殿下に続いて扉を潜った。

 案内された場所は、一階の奥まった場所にある書庫だった。

 普段は開放されていない場所なのか、あまり人が出入りした形跡がない。図書館には大抵司書が居るものだが、城内であるにも関わらず、中には衛兵一人いなかった。

 しん、と冷えた空気の中、隙間なくきっちり並んだ古びた本が整然とこちらを見つめている。

「──────、フローラ」

 その奥で、テーブルに向かって何かを黙読していた夫が顔を上げ、私を認めて表情を綻ばせた。

「お待たせいたしました、テュールさん」

「遅くなったな。マリアを寝かせてくれていたんだ。すっかり気を許したみたいで、夫人に相手をしてもらえて良かったよ」

「恐縮です。私の方こそ、マリア様に何度も気持ちを和らげていただきました。斯様な機会をいただけたこと、心から感謝いたします」

 深々と腰を折ったあと、満足げに笑った殿下に促されて私も席についた。「どうだった?」と気安く問いながらヘンリー殿下も椅子を引く。さすがに内容までは見えなかったけれど、テュールさんはうん、と言葉を濁しながら、紐で綴じられた分厚い紙束を見下ろした。何か、調べ物をなさっていたことが容易に察せられた。

「やっぱり、少なくとも数十年前までは何かしら記録があるみたいだ。多少なりとも親交があったんだろうね」

「こっちももっと記録をあたってみる。あー、隠居の爺なら何か知ってるかな。出発前にもう一度顔出せるか?」

「ありがとう……じゃ四日、いや、三日後でもいい? 慌ただしくて申し訳ないけど」

「申し訳ないのはこっちの台詞だろ。それが真実なら……とんでもない話だってこと、解ってるか?」

 テュールさんが黙って苦笑して、ヘンリー様はそれを肯定と見たらしく、重苦しい息を吐いた。会話の流れから恐らく、テュールさんがグランバニアのことをお話しになったのだろう。ヘンリー様のご様子を見るに、王室の件についても伏せることなく、そのまま話されたようだ。

 お義父様がグランバニア王国の国主であらせられたかもしれない、という、テルパドールの女王からもたらされた情報を、彼は私の両親や船員さん達、ビアンカさんに話さなかった。

 お義父様が亡くなられた経緯は、以前テュールさんが話してくださった範囲で知っている。村人だと思われていた護衛役が、実は一国の王だったとしたら。その方がラインハット領内で命を落としていたことが、今になって判明したら……とんでもないなんて話ではきっと済まされない。

 けれど相手は、今や亡国とも噂される極東の国。

 私達が生まれてこのかた、こちらの大陸では全く名前を聞かなくなった、閉ざされた王国。

「うん。こんなこと言っておいてなんだけど……あまり思いつめないで欲しい。今のいままでそんな話出なかったってことはやっぱり違うのかもしれないし、本当だったとしても、本人が全く仄めかさなかったのには理由があるんだろうしさ」

「それで済むような問題かよ。ああでも、お前が変な気を回して、俺に黙って行かなかったことだけは感謝してる」

「……そりゃどうも」

 とても深刻な話なのだけれど、お二方がいつもと変わらぬ調子でお話ししていらっしゃるのを見るとなんだかほっとする。

 長く、身分に関係なく親しんでこられたお二人だからこそ、ヘンリー様のみならず、もしかしたらテュールさんにまでしがらみが生まれてしまうかも知れないこの状況は、決して喜ばしいものでは無いように思われる。

 変わらないでほしい。出来ればいつまでも、ヘンリー様とテュールさんには気を許しあえる仲であり続けて欲しい。

 それから程なく、再訪についての打ち合わせを手短に終えて、私達はお暇することになった。最上階の殿下の私室に戻り、まだ微睡の中にいるマリア様にお声をかけてご挨拶をする。とろりと眠そうな瞼を持ち上げ、マリア様は柔らかく笑んで私達を見送ってくださった。

「すっかり眠ってしまってごめんなさい。お話できて嬉しかったですわ。今度はもう少し、ゆっくりお喋りさせてくださいね」

「私の方こそ、楽しい時間を過ごさせていただきました。どうぞお健やかにお過ごしくださいませ。可愛いお子様にお目にかかれる日を、心から楽しみにしておりますわ」

 数日後の再訪の際、私は同行しないことになったから。次にお会いできるのはきっとご出産の後だと思って、もう一度マリア様の手を取り、励ましの言葉を一生懸命選んで伝えた。

 寝台の中で身を起こしたマリア様が、優しくお腹を撫でながら蜂蜜色の髪を揺らして微笑む様は、まるで一枚の宗教画のように尊く感じられた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。