Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】 作:サクライロ
「……あー、びっくりした。あの二人に子供、かぁ……」
転移魔法でサラボナへ帰還し別宅に入るなり、テュールさんが深々と息を吐いた。無意識なのか、早速頸元のシャツの釦を一、二個緩めていらっしゃる。慣れぬ衣服と話題に緊張していらしたのだろう。……彼自身の祖国かも知れない国のことも、お話しされたのだと思うし。
子を望む気持ちは相変わらずあるのだけれど、例の未来視をいただいてしまったが故に、どんな顔をしてその話題に応じていいかわからない。曖昧に微笑んで頷くと、テュールさんは少しそわそわとした面持ちでこちらを覗き込んだ。
「フローラは?」
「え?」
「子供……欲しくない?」
思いきり率直に核心を突かれ、一瞬頭が真っ白になる。まるで心を覗かれたような。同時に何故か強烈な羞恥に襲われて、落ち着きを失った頭を必死に宥めながらなんとかお返事を絞り出した。
「……ほ、欲しい、です。けど、今は、ちょっと……グランバニアに行くことの方が、大事だと、思いますし……」
すっかりどぎまぎしながら答えると、テュールさんは何故か一瞬大きく目を見開いた。放心したようにも見えたが、すぐに目を逸らすと口許を掌で覆って言葉を濁す。
「んー……ううん。なんでもない。そうだよね」
ばつが悪そうに口籠った彼を見上げて、一つの可能性に思い当たる。私の思い上がりでないのなら、
────落胆、してしまわれたのかしら。もしかして。
熱をもった頰を抑えながら懸命に考える。この話を続けるのは藪蛇かもしれない。けれどまさか、彼も期待してくださっていたのかと思うと、嬉しさの方が勝ってしまって。
ちょっとだけ、なら、いいかしら。
私達の、少し未来の、希望に満ちた話をしても。
「テュールさんは、男の子と女の子、どちらが欲しいですか?」
「えっ? えっと、……ええ、悩むなぁ。女の子だったら、フローラに似て可愛い娘になるだろうとは思うんだけど」
思いきって訊いてみると、彼は珍しく狼狽えてから真剣に思案し始めた。指で隠した隙間から赤らんだ耳朶に緩んだ口許まで見えて、こちらまで微笑ましく、嬉しくなってしまう。
小さく唸りながらひとしきり考えあぐねた後、彼はどうにも弱りきった様子で首を振った。
「駄目だ、お嫁にやれない。泣くかも。お義父さんすごいね、僕に恨み言のひとつも言わないで」
この短い間に、一体どこまで想像を膨らませていらしたのかしら。そんなにも考えてもらえて嬉しく思う反面、大事なことを打ち明けられない狡い自分を突きつけられて、胸が軋む。
それは、私が父の、実の娘ではないからだと思うのです。
……そう、今なら言えるかも知れない。旅立つ前にお話しするなら今しかない、かも。
にわかにこみ上げる緊張を手の中にぎゅっと握りしめて、けれど私が切り出すよりも早く、突如勢いよく顔を上げたテュールさんが食い入るように私を見つめた。
「それって、どっちが欲しいって思って決められるものなの!?」
────え?
質問の意味が理解できず、しかし記憶から会話を辿ってじわじわと把握する。ああ、私が「どちらが欲しい?」と訊いたから、希望する性別の子を産むことが可能なのかと思われたのね。
答える代わり、抑えきれない衝動がお腹の底から込み上げる。ついに肩を震わせてしまった私をじとりと睨んで、テュールさんが軽く唇を尖らせた。
「……決められないんだね。そこまで笑うってことは」
「ご、ごめんなさい……ふふっ。授かりものですから、こればっかりは神様の思し召し、で……っふふ」
笑ってはいけないと思うのに、止められない。どうして私の旦那様はこんなにも、お可愛らしい方なのかしら。
無知を嗤ったつもりはなく、純粋な好奇心が微笑ましかった。それに思い至った瞬間のきらきらした瞳は、昔オラクルベリーの緑園で読み聞かせをした少年達のものとよく似ていて。
暫し不貞腐れていたテュールさんだったけれど、また何か思いついたらしい。ふわりと表情を和らげ、窓の外の、雪がちらつき始めた冷たい冬空を遠く見つめた。
「ああ、でも男の子なら、父さんがしてくれたみたいに剣の稽古をつけてあげることもできるかな。うん、それも楽しそうだ」
その声がとてもやさしくて、慈しみに満ちていたから、悲しくないのに何故か泣きたいような心地になる。
彼の目が映すあの空の下にはきっと、かつての緑豊かだったサンタローズ村の風景が広がっている。深い雪に埋もれた小さな村に、大好きな父親と二人。彼の記憶の中に生きる、まだ何も知らない少年の姿と、彼を見つめる逞しい父の優しい眼差しだけがあるのだ。
────だいすき。
大好きです。本当に、そんなあなたが。
失ったものも、今あなたのそばにあるものも、きっとこれから出逢うものも。そうやってどこまでも大切にできるあなたが。
あなたとなら、どんな未来も楽しみだと思える。
どんな子を授かっても、きっと素敵な毎日にしかならない。
「すごく小さい頃からお稽古してくださっていたのですね。今の剣筋も、お義父様の?」
「うん、さすがにうろ覚えだし、全然違うかもだけど。父さんに教わったものだから忘れたくなくて、セントべレスでもこっそり……ほんとにこっそりおさらいしてたんだよね。何か持つたび柄の握り方をいちいち真似たり、重心を意識したりしてさ」
喋りながらも、テュールさんはがっしりと筋肉のついた両腕を伸ばして剣を持つ真似をして見せてくださる。素手なのに、握り込んだだけでお義父様の剣が見えるよう。
最近、テュールさんはこうやって、お義父様の話をよく聞かせてくださるようになった。
どうしても辛い思い出がついてくるのではと、私から話を振ることが中々出来ずにいた。けれど思いきって聞いてみれば、テュールさんはとても嬉しそうに、時には得意げに、昔のお話を聞かせてくださった。
普段は落ち着いた、大人びた表情が多いテュールさんが、お義父様の話をする時だけは英雄に憧れる少年のように、無邪気なお顔を見せてくださる。それが嬉しくて、くすぐったい。
本当にお義父様が大好きなのだな、と思うと同時に、また一つあなたを知れた喜びに、心が温かなものを灯していく。
「父さんの剣は本当に凄かったんだ。とにかく速くて、瞬きする間に斬り刻んでしまう。今もずっと憧れだよ。父さんが教えてくれたのはすごく基本的なことばかりだけど、今ならなんでそれが大事なのかわかる。だから、構え方は一応父さん直伝って言ってもいいかな? 剣筋は見様見真似で、わりとピエールに矯正してもらったかも」
「是非、お義父様と手合わせなさるところを見たかったですわ。ピエールさんもお強いですものね。スラりんちゃんもそうですけれど、スライム属ってあんなに俊敏なのかと驚きました」
「だよね。ピエールなんてあんながっちりした鎧つけてるのに。新しい剣を持ったらますます強くなるんだろうな……うん、父さんの剣で遅れをとるわけにはいかないよね」
話の流れからピエールさんの話題になり、テュールさんがまた楽しそうに笑う。そういえばそろそろ、ノルンのおじさまに依頼した剣が出来上がる頃なのね。
仲間として、剣士として常に切磋琢磨しあえるお相手であるピエールさんに、特別な一振りを贈れることはテュールさんにとってもすごく嬉しいことなんだろう。不敵な呟きを零したあと、彼は傍に置いたお義父様の鞘を引き寄せ、しみじみと大切そうに撫でていた。
そして、その時は早々に訪れた。翌日の夕方、テュールさんが約束していた時間に連れ立ってノルン家を訪れると、すっかり準備を整えたおじさまとアンディがその二階で待ち構えていた。
かつてアンディがずっと療養していた部屋は、寝台以外すっかり職人の道具に埋もれて様変わりしている。「一応軽く掃除したけど、埃っぽくてごめん」と両手を合わせて眉尻を下げた私の幼馴染みは、半年前のどこか尖った彼とは別人のように穏やかに見えた。
私が良く知っている、幼い頃私の面倒を見てくれた、兄のような人がそこにいた。
「初めに言っておくが、鍛造代は要らん」
テーブルに置かれたその剣の上にわざわざ布を掛け、お披露目を前にしておじさまが鋭く釘を刺した。
「え。いえ、相当額はちゃんとお支払いします。こちらからお願いしたんですから寧ろ、依頼料をしっかり上乗せしてもらわないと」
「そう言うけどテュールさん、こいつの素材聞いたら驚くと思うよ。まあ、見てやって」
ここに来る前にかなりの金額を包んできたテュールさんだったけれど、予想外の申し出にすっかり困惑なさっている。
苦笑するアンディに勧められるまま布を取り、目の前に現れた流麗な形状に夫婦揃って息を呑んだ。
ご自身の出立準備がてら、テュールさんはノルンさんに頼まれ色々と素材の手配を手伝っていたようなのだが、それが何かまでは聞いていなかったらしい。自慢げに披露された剣の詳細を聞きながらどんどん表情が凍りついていった。剣身は最も硬質な金属と言われるメタリウム────はぐれメタルやメタルキングの核から精製される特殊な金属を用い、ピエールさんの体格に合わせて薄く細身に仕上げてある。隼の剣と呼ばれる究極的に軽い名剣を参考にしたという。連続攻撃を可能にするかどうかは使い手の技量次第、但しそれを補うために、身軽さを補う魔石を鍔に埋め込んである。これは身躱しの服にも使われている鉛丹色の宝石を加工したものらしい。美しく磨き上げられたその石は、今にも動き出しそうな小さな可愛いスライムの形をしている。
正しく、疾風のような剣捌きを得意とするピエールさんに相応しい一振りだと感じられた。
「いや、あの……せめて、材料費だけでも受け取っていただけませんか。まさかここまで希少な素材で鍛えていただけるとは思っていなくて」
すっかり狼狽えたテュールさんが力なく訴えたけれど、ノルンのおじさまは断固として首を振るばかりだった。
「こいつは値をつけられるもんじゃない。儂の気持ちだ。そこを汲んで、黙って納めていただきたい」
「ノルンさん……でも」
尚も食い下がったテュールさんに、おじさまは更に真摯な眼差しを正面からぶつける。
「あの日、若さん達に助けられなければ存在すらしなかった剣だ。意匠は全てアンディが手掛けた。柄と鍔はもちろん、剣身と鞘の図案もな」
「え⁉︎ これ全部……彼が、一人で⁉︎」
驚いたテュールさんがすかさずアンディを振り返った。腰まで伸びた金髪を無造作にひっつめた若き宝飾職人は荒れた指先で頰を掻きつつ「さすがに全部一人で作ったわけじゃないよ。鞘は特に、殆ど萬屋の親方に頼んだようなものだし」と照れ隠しの苦笑いを浮かべている。
「とにかく、まずはこの剣の主に握ってみてもらいたいな。スライムナイトのための剣は初めて造ったしさ」
是非本人の反応を見たいと言った、アンディとノルンのおじさまを伴って別宅へ赴いた。夕刻だったので、ピエールさんも散策から戻っている。テュールさんが早速呼び止めて、改めてアンディとおじさまを紹介した後、彼らが鍛えてくれた剣を見せた。
立派な鞘に納められた剣の柄を握った瞬間、鉄仮面の下の表情がすっと変わった気がした。剣身を抜き、角度を変えつつ眺めながらピエールさんはしきりに「ほぉ」「ふむ」と絶えず独り言ちている。剣のことはわからないけれど、小柄なピエールさんにもちょうど良い大きさに見える。やがて利き手に柄を握り、数回軽く薙いでから主人の方を向き直った。
「……そこの樹を斬り倒しては障りがあるかな?」
「この敷地内、っていうか街中では控えてほしいかな。試し斬りは外でやってね」
苦笑しつつテュールさんが答える。やっぱり仮面で見えないけれど、ふぅむ、と唸ったピエールさんのお声は少し浮かれていらっしゃるようにも聞こえて、満更ではなさそう。大事そうに剣を鞘に収めてから、ピエールさんはテュールさんに相対し恭しく敬礼した。
「これほどの業物を賜るとはまこと幸甚の至り。必ずや、これまで以上にお役に立ってみせよう」
「うん。いつも本当にありがとう。これからも頼りにしてる」
テュールさんもほっとしたように表情を弛ませている。良かった、本当に気に入ってもらえたみたい。少し距離をおいて眺めていたノルン親子も安堵の息を吐いた。彼らへもその場から丁寧な黙礼を送り、緑のスライムから降りたピエールさんが片膝と拳を地についた。
「あるじ殿。よろしければ今一度、従属の誓いを」
相棒のスライムと共に深く頭を垂れたスライムナイトを、テュールさんはとてもやわらかな微笑みで見下ろした。
親愛と、限りなく深い信頼が込められた、妬いてしまいそうな笑みだった。
「ほんと、ピエールはどんな騎士より騎士らしいよね」
それだけ答えると、彼は受け取った鞘を両手でそっと戴いてから、抜き身の平をすっと下ろしてピエールさんの肩口に当てた。
剣で三度肩を打つ、時折お芝居で見る騎士の誓いの場面だとすぐにわかった。きっと以前にもピエールさんに同様のことを請われて応じたことがあるのだろう。
「我が剣と終生の忠誠を、あるじ殿に」
厳かに告げられ、テュールさんがまた微かに笑う。
「絶対先に逝くと思うんだけどな。寿命が違う」
「なればこそ。あるじ殿の宿願が為に生きて散ることこそ我が本懐であり、最上の誉れである」
堂々と言い放つピエールさんは一寸の揺らぎもない。却ってテュールさんの方が渋い顔をした。少し逡巡したあと、彼は躊躇いがちに、目の前に跪く小さな騎士に釘を刺した。
「……犠牲は望んでないからね」
「心得ておる」
「そっか。ならいい」
淡々とした遣り取りのあと、立ち上がったピエールさんにテュールさんが再度剣を渡した。主従の一連の誓約を見届けたノルンのおじさまはやけに感極まっている。「良いものを見せてもらった。鍛治師冥利に尽きる」としみじみ感慨に浸っていたが、その隣で見守っていたアンディはどこか固い表情でテュールさんの背中を凝視していた。
こちらを向き直り、改めて親子に深々頭を下げて謝意を示したテュールさんに、アンディがおずおずと問いかける。
「あの、訊いてもいいかな。テュールさんの宿願って……」
躊躇いがちに呼びかけられて、テュールさんはどこか無機質な……感情を映さない瞳でアンディを見つめ返した。
────恐怖って感覚が、麻痺してんじゃないかなって。
お辛そうなヘンリー様のお顔が、その時の言葉が、哀しく脳裏をかすめていく。
「……母を、取り戻すことです。亡くなった父に託された……僕の唯一の、生きる目的なんです」
押し殺した低い声音で、淡々と。
伏せた睫毛に影を落としたテュールさんがそう、告げた。
その晩は珍しく、アンディがテュールさんを誘って、二人で酒場へ出掛けて行った。
殿方同士、私には入れないお話もあるのだろう。たまたま立ち寄った本宅で母にそんな話をしたところ、では今夜は実家で食事をして行かないかと誘われた。仲魔の皆さんもお誘いして、今夜は初めてテュールさん抜きで本宅の夕食の席に招かれている。
そういえば私も、両親とこうして食事をするのは、結婚式の前々夜が最後だった。
「ところで、彼には話したのかね」
賑やかな夕食が終わり、デザートも平らげた仲魔の皆さんは、すっかり暗くなった庭でリリアンと戯れている。食後のお酒を少しだけいただきながら両親と歓談していた時、父がおもむろに切り出した。
それ以上聞かずともわかる。天空の盾と、私の素性のことだ。
結婚してもう半年経つというのに、まだ話せていないと言ったら呆れられてしまうだろうか。緊張を必死に押し殺し答えを捻り出す。兜を被って見せたから、私が盾の正当な主でないことだけは彼に知られているけれど。
「グランバニアに行けば、彼の出自がはっきりするでしょうから……それまでには、お伝えしようと。盾の、ことも」
なんとか無難な回答を口にすると、想定の内だったらしく父は顔色ひとつ変えずに頷いた。母が注いだブランデーを掌に温め、静かながらも威厳のある太い声で更に問う。
「お前はどう見る。父君の遺剣に刻まれた国章を」
────今度こそ、心臓が止まるかと思った。
父は恐らく、勘づいている。
いつから見当をつけていたのかわからないけれど、あの剣がグランバニア王家に間違いなく連なるであろうこと。その持ち主も極めて王家に近しい者であろうことに、気づいている。
テュールさんならなんと答えるかしら。彼が伝えなかったそのことについて、私はどう応じたら。
「……その解は、彼の国の仕来りが示すのではないでしょうか」
「違いない」
迷いなく断じ、グラスの中の酒を舐める。誤った回答でなかったらしいことにほっとして力を抜いた。仕来りとは、グランバニアに伝わるという継承の儀のことだ。
今、王座がどうなっているか知る由はないが、彼の国の王は王家の証が選定する。いつ、どのタイミングで選定が為されるのかは知らない。空位になればすぐにでも次の王が選ばれそうなものだけれど、父の書庫で調べた限りはアイシス様が仰った通りで、パパス・パングラーツ王の次に誰かが即位したという話は伝わっていなかった。
弟君に王位を預けた、と仰っていなかったかしら。その方の名が未だこちらに伝わっていない。つまり、パパス王が本当に崩御なされていた場合……テュールさんのお父様が間違いなくその方であった場合、彼の真の後継者は弟君とは違う方である可能性が高い、ということで。
────考えたって仕方がないのに。きちんと知ることは大事なこと、そう思うのに、妙な胸騒ぎが消えない。
「何が起ころうとも、私達があなたの親であることに変わりはありません。……忘れないで」
優しく背を撫でてくれる母もまた、今の話をきっと承知している。恐らく父から概ねの推論を聞かされているのだろう。
「ありがとう、ございます……」
つい消沈が声に出てしまって、父が耳聡く片眉を顰めた。
「何だ。随分と気弱ではないか」
雄々しい声につられ顔を上げて、恨みがましく父を見遣ると、彼は全てを見透かしたような飄々とした表情で薄く笑った。
「お仲間にも、夫にもあれだけ望まれているのだ。自信を持て。本来の出自など、お前の価値を些かも貶めはしない」
……褒めて、くださっているの?
意味を理解しかねて呆けてしまった私に構わず、父はどこか満足げな様子で、グラスを揺らしながら言葉を続けた。
「どこの王の御前に出しても恥ずかしくない娘に育ってくれた。それでも万一のことがあれば、いつでもサラボナに帰って来るがいい」
「もう、あなたったら。そんな万が一はなくて結構でしてよ」
母がちょっと怒った様子で父をたしなめて、次いで茫然としている私の肩をもう一度優しく抱き寄せる。
励まして、くださっているのだろうか。
私にはずっと厳しいお顔しか見せたことがない、あのお父様が。
覚悟はしている。もちろん自分から離れるつもりはない、けれど、もしかしたら────彼の本当のご身分によっては、お側にいられなくなることがあるかもしれないと。
それでも、浅ましくても、今と変わらず愛し合っていけることを望んでやまない。
もしも今、彼の愛を失ってしまったら。そう思うだけで、心が凍りついて、砕け散ってしまいそう。
ふと過った恐ろしさにぞくりと身をすくませたところで、心底心外そうに父が苦言を呈した。
「何も儂は離縁されるなんぞ言っとらんだろうが。お前の目には、彼がフローラを手放すような男に見えとるのか」
え、と抱き合った母と共に思わず父を見つめると、彼はすました顔でなみなみ注がれた酒を一息に呑み干した。
そうしていかにも不敵な笑みを浮かべ、告げる。
「娘夫婦と何十匹かの仲間達くらい、囲えると言っている」
────たとえ、一国を敵に回しても。
遥か海の向こうの大陸だ。それでもかつては非常に大きな影響力を誇っていた、覇権国家とも呼ぶべき国だった。
サラボナをはじめとするこの大陸の民は今、決まった主人を戴かない。百年に満たない昔、ルラフェンの南にあったエルンハイム城が魔物によって跡形もなく滅ぼされてのち、民を統治する者はいなくなった。
父が領主という名目でこの一帯をまとめているのは、ひとえに代々この地を預かってきたルドマン家の矜持によるものだ。
「お……父、様……」
感極まって、声が震えた。手放しに味方すると言ってくださったことも、テュールさんが私を選ぶと迷いなく断じてくださったことも。急いで目許を拭って込み上げたものを誤魔化し、空になった父のグラスにお酒を注ぐ。
覚束ない手つきで酌をする私を見つめながら、私の前では珍しく、父が声を上げて愉しそうに笑った。
「ああ、その頃には小さいのがもう何人か増えるかもしれんな」
「〜〜〜〜っ、お、お父様っ!」
思いもよらぬ冷やかしに、頭のてっぺんまでかぁっと熱が走った。上擦った私の叫び声に、更に嬉々とした母の声が重なる。
「まぁまぁ、それならお部屋を増築しておかなくちゃ! お洋服もたくさん仕立てなくてはね。楽しみだわ。私、早くおばあちゃまと呼ばれてみたいのよ」
「もう、お母様まで……」
顔から火が出そうな羞恥に耐えながら、うきうきと声を弾ませるお二人を見ていたら、何故だかじわりと目頭が熱くなって、視界がだんだん潤んできてしまう。
こんな、本当の親子のような会話は、今までほとんどしたことがなかったから。反抗したことも、親子喧嘩をしたことも一度もなかったけれど、今になってこんなにも痛感する。
愛してもらっていたんだって。
血の繋がりがなくとも、お二人はこんなにも精一杯、私に愛情を注いでくださっていた。
────テュールさんに出逢ってから、私、本当に涙腺が緩くなりすぎだと思うわ。
「忘れないでね。私達は、貴女の親になれて幸せだったわ」
ついに堪えきれなくなった泪が膝へと零れ落ちて。ドレスを握りしめ俯いた私の手を、温かい母の手が優しく包み込んだ。
長く触れていなかったお母様の手は思った以上に萎びていて、離れていた年月の長さを否応なしに感じさせる。
「幸せになってちょうだい。それだけが、私達への親孝行よ。私達の、可愛いフローラ」
「いいや、孫の顔を拝ませてこそだ。期待しとるぞ、フローラ」
せっかくお母様が素敵な言葉をくださっているのに、お父様の妙に得意げな言い様が被さってきて、泣きながら思わず笑ってしまう。そんな遠慮のなさも、今だけはとても愛おしく思えた。
これからでも、なれるでしょうか。
もっともっと、あなた達と本当の親子になりたい。困った時には相談して、子を授かれば喜び合って。疲れた時には時々甘えて、そんな当たり前の親子らしいことを、今からでも、少しずつ。
そう、私が訊いたなら、きっとお二人は笑ってこう言ってくださるのだろう。
『お前は我々の娘だ。初めて授かったあの日から、ずっと』
年の瀬の最後の夜に、ポートセルミの酒場で盛大な忘年と壮行の宴が行われた、次の日の朝。
テュールさんと両親と共に新年の訪れを祝いあったあと、私は久々に本宅の自室で出立の準備をした。
また暫くは戻らない部屋。この家の娘になってから、この部屋で過ごした日の方が実はずっと少ない。
元々持ち物もそんなにないけれど、忘れ物がないようにクローゼットと鏡台の引き出しを確かめる。ベッドの下に隠していた盾は、半年前から馬車の奥。先日、オラクルベリーに赴いた時に、愛用の香油を買い足させてもらった。以前から使っている残り少ないひと瓶を、ほとんど無意識に鏡台の引き出しにしまう。
「フローラ。準備でき……」
ノックと共に寝室の扉を開けた旅装姿のテュールさんが、こちらを見つめたまま暫し茫然と固まった。どこかおかしなところがあったかしらと慌てて頭や服を確かめると、彼はぱちぱちと瞬きをしたあと、心なしか頬をほんのりと染めて、はにかむように笑った。
「……あ、ごめん。すごい綺麗で見惚れちゃった。これ、本当に寒くない?」
「ええ。不思議なのですけど……なんといいますか、スライムちゃん達に似た柔らかさがあるのですが、冷たくありませんし、とても滑らかで着心地が良いのです」
こんなに上質な護魔布は初めて見る。裾を摘むと水の如く指の間から逃げていきそうな心地がしたが、意外にも指はちゃんと布端を拾い上げた。そのままくるりと広げて見せると、テュールさんはますます笑みを深めて「うん、とても似合ってるよ。すごく可愛い」と褒めてくださった。
褒めていただけるのはいつだって面映いことだけれど、やっぱり、テュールさんに喜んでもらえたと思うと、どうしようもなく嬉しくなってしまう。
今日のために父が用意してくれた新しい旅装。滴る水滴を月の光で清めながら紡いだという、『雨露の糸』を使って織り上げられたこの水の羽衣は、水のリングの魔石のように裾がさらさらと漣を打ち、着ていると全身から水煙が立ち昇る。
糸に込められた魔力は、炎を弱める効果を持つのだという。
とても綺麗で不思議な素材だけれど、この真冬に着ていても寒さは全く感じない。
一つにまとめて結い上げた髪には、白い帽子を被る。外は冷えるだろうから、お気に入りの薄紅色のケープを肩に掛けて。
あなたと揃いの指輪を嵌めた手には、アイシス女王からいただいた天罰の杖。
差し出された大きな手に炎の指輪の金環が光った。その上に、空いた手をそっと預けて。
「行こうか」
愛しげに瞳を細めた彼に微笑みを返し、逞しい腕に誘われるまま、その部屋を後にした。
怖くても、大丈夫。
あなたの隣に居られるなら、どんな運命も厭わない。
……◇…◇…◇……
ふ、と。
硫黄の匂いが立ち込める秘境の村で、一陣の風がビアンカの鼻先をくすぐった。
こんな小さな村でも、新年の祝いはそれなりに行われる。小康状態が続いている父を支えて教会に行き、お祈りの後は道端で顔馴染みの木こり達が見世物をしているのを眺めた。店番以外で滅多に人前に姿を見せない萬屋のドワーフも、この日ばかりは村人に混じって踊っている。さすがに年配の気難しげなお爺さんドワーフは踊りの輪の中にいなかったが、店番も兼ねてか、洞窟の前でバザーを開いているのが見えた。手先がとても器用な彼らが作るアクセサリーは、村のお土産としても評判がいい。
そんな、賑やかでめでたくて、とても楽しげな光景なのに。
その風が妙に、生ぬるく感じられた所為だろうか。
重苦しい不安が唐突に、ビアンカの胸をざわつかせた。
「やぁね。気のせいよ、気のせい」
独りごちた娘に、父親が訝しげな目を向ける。何でもないわ、と首を振り、父を休ませる為に一度自宅へ戻った。久々に出歩いて疲れたらしい父は軽く咳き込みながら寝台へ戻り、もう一度出かける前に温かいミルクを用意しようと、ビアンカはその足でキッチンへと向かう。
「あら? ……やだ、何で割れちゃってるのかしら」
ミルクを運ぼうとしたその時、居間に飾ったばかりのある置物に異変が生じていることに気づく。
石のみで薔薇の花びらを見事に模したその置物は、つい先日仲の良い幼馴染みとその妻が置いていったものだ。その一番下の大きな花びらが真っ二つに割れて、戸棚の上にごとりと転がっていた。
────確か、厄除けになるって……
さっきざわついた不安がまた心臓をかすめる。縁起でもないこと考えちゃ駄目。頭を振って、漠然としたそれをもう一度追い払った。
洞窟のドワーフに頼んだら、直してもらえるかもしれない。
そう思って、急いで父にカップを渡し、置物を持ち出す準備をした。それ以上割れないよう柔らかい布に包んで籠に移し入れながら、ふと贈り主の若夫婦を想う。
もうサラボナを出た頃かしら。────あの子達に、危ないことがないといいけど。
日常の狭間に消えていくだけの、ほんのわずかな違和感に過ぎないはずだった。
まさか、次に会えるのが十年も先になるなんて、
この時のビアンカにどうして予想できただろう。
忘れないで。
あなた達の無事を、ずっとずっと願ってる。
ここまでご覧くださった皆様。
お付き合い下さり、本当に有難うございます!
恐らく今、この文章をご覧の方は、何度か拙作を覗いてくださっている方だと思います。
見つけてくださり、読んでくださって、本当に有難うございました。
何より、筆者の自己満足の塊に過ぎないこの物語に出会って頂けたことが嬉しいです。
途中、お気に入りに入れてくださった方。評価をくださった方。「ここすき」を残してくださった方。そして、ご感想をお聞かせくださった方。
ひとつひとつの反応から、返し切れないほどの励ましをいただいていました。
拙作をご覧くださった全ての方に、心から感謝申し上げます。
毎朝毎夕お騒がせ致しまして、第二幕、ようやく全話投稿完了です。
一話番外編を挟んで、次回からはほぼ一〜三ヶ月に一度程度の随時更新になります(三幕の一話目だけ、書きあがっているので明日明後日で投稿します)。
冗長な旅路でありますが、この先の彼らも引き続き、時折見守って頂けたらとても嬉しく思います。