Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】   作:サクライロ

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ここからは第三幕、グランバニアを目指す章になります。
第一話から先は随時更新になります。
pixivとハーメルン、今後はどちらも同時に投稿してまいりますので、読みやすいほうでお付き合いいただけたら幸せです!



【第三幕】グランバニア篇
#1. 門出


 新年のいちばん初めの日は、家族や親しい人達とゆっくり祝うものらしい。

 ルドマン家の本邸にて義両親に新年の挨拶をした後、フローラは身支度を整える為、二階のかつての自室に篭った。

 いわゆる験担ぎだが、新年は門出に良いとされている。旅だけでなく引越しだったり、新たな商売を始めるにも良いのだとか。

 昔から、年の瀬は大工が忙しくなると言われるのはこの所以なのだそうだ。

 祝祭は通例、年が明けた翌日か三日目に行われる。要は世界各地で行われる街をあげてのお祭りなのだけれど、僕にはこの催しに関する記憶がほとんどない。子供の頃のことはあまり覚えていないし、神殿を逃れてからは勝手な疎外感から賑やかなところは避けていた。精々オラクルベリー郊外のぼろ家の中で、ヘンリーとささやかに祝いあったくらいのものだ。

 今年は妻と祭りを楽しむこともできる。けど、こうしている間にも船を守ってくださっている船員さん達がいると思うと、必要以上に遊ぶ気にはなれない。船長達と相談し、ポートセルミのいつもの酒場で、年末の慰労を兼ねた壮行会だけ開いていただいた。その翌日、新年明けたばかりの今日に僕達はいよいよ、グランバニアを目指してサラボナを発つ。

 ポートセルミに一泊して戻った今朝、既に別宅は引き払う用意を済ませてあったけれど、フローラと一緒にもう一度邸内の片付けをした。

 荷物の一部は先に船へ運んでもらってあって、馬車も準備万端だ。

 今回の旅立ちに際し、義父がフローラにと特別な魔防具を買い求めてくれていた。

 彼女がそれに着替える間、すっかり旅装を整えた僕はルドマン家のいつもの大広間で、お茶をいただきながら待っている。

「感慨深いな。この階段で初めて、君を目にした時を思い出す」

 何かを取りに自ら席を立った義父が、二階へ続く螺旋階段の上から姿を現した。真ん中のあたりで足を止め、そこからしみじみとこちらを見下ろす。

「あれだけの人がいた中、お気づきくださったのですか?」

「フローラがあの場で唯一、目を留めた男だったからな」

 笑い含みにそんなことを言われては、自然とにやけてしまう口端を誤魔化すので精一杯だ。本当に義父は、僕を悦ばせるのが上手い。

「儂からの餞別だ」

 おもむろに渡されたのは、ルドマン家の紋章が美しくあしらわれたペンダントだった。

 磨き上げられたダークマンモスの牙の白に、鮮やかな濃紺と金の塗料で描かれた紋章が浮かび上がる。ストレンジャー号の甲板で何度も見上げた帆と同じ意匠だ。鎖よりも細く編み上げられた金縁の細かさが、これを手がけた宝飾工の手腕を物語る。

「あちらの大陸でどれだけ意味を持てるかはわからんがな。身元を問われたら出しなさい。まぁ、古い人間なら思い当たるであろう程度には、こちらも由緒ある家柄だ」

 恐縮しつつペンダントを受け取った。鶏の卵ほどもある大ぶりのペンダントを早速首から下げ、外套の中に収める。ひやりと冷たい感触を感じながら、万一の時の為に石は懐にかかるよう忍ばせた。

 謝辞を述べれば、卿は少しばかりの苦笑を交えて小さく首を振る。

「いきなりその剣を見せては、動揺する者もあるだろう」

 ……ああ、そうか。

 そこまで思考が回っていなかったことに今更気がつき、思わず情けない溜息が漏れた。道中はともかく、向こうの大陸に入ったら父の剣は極力人の目から隠した方がいいかもしれない、のか。

 同時に、やはり義父は父の素性について察していらっしゃるのだろうと思う。一言も何も尋ねず疑念も気取らせず、僕の背中を押してくださる寛容さにただただ感服するしかない。

「ご深慮、本当にいたみいります。大変心強いです」

 もう一度、心からの感謝を口にすると、義父は大いに満足そうに相好を崩した。

 船員さん達からいつでも出られるとの報告をいただき、フローラを迎えに二階へ上がる。扉を開けたその先、義父の餞別のローブを纏った妻を目にした僕は思わず、すっかり息を呑んで固まってしまった。

 

 ──────なんて、青い。

 

 目の醒めるような蒼に包まれた、清らかな乙女がそこにいる。

 僕の入室に気付き、ちょうど髪を結い上げたばかりのフローラが後れ毛を気にしながら振り返った。水のリングを護っていたあの洞窟に似た、清涼な気配が部屋中に霧の如く立ち込める。青い魔法衣から幻想的な水煙が揺らめいて、よく見ればその裾には白い飛沫が雲のように浮かんでちらつく。両の手甲からたなびく帯はきっと、伝説の天女の羽衣を模したものだ。一体どんな不思議か、これもまた蒼い光を纏いながら陽の光に透けて輝く。

 なんと神秘的な光景だろう。見返り姿の君は、空から堕ちた天女かと思いきや、水の守護を得た聖女のようにも思われて。

 街に滞在するようになって、最近また腰まで流していた長い髪は綺麗に編み上げられ、真っ白なうなじを曝して小さな頭を丸く象っていた。耳朶には瑠璃色の小さな石が揺れる。

 金の細いフリンジがその動きにつられて、唄うようにしゃらりと音を立てた。

「……ど、どこか変、でしたか……?」

 茫然と魅入られた僕を見つめ返し、フローラは心配そうに鏡台を覗き込む。ううん、つい見惚れちゃったんだと慌てて伝えたら、彼女はまた恥ずかしそうに微笑んだ。軽やかに立ち上がり、裾を摘んでくるりと回って見せてくれる。その仕草も、愛らしくてたまらない。

 本当にものすごく似合っていて、そんな彼女を一番に見られるのはとても嬉しい。けど、今更ながら自分の甲斐性の無さというか、こんな風に今、彼女を美しく着飾らせているのが義父の伝手と財力であり、センスであるということにちょっとだけ悔しさを覚えた。芸術性からっきしの僕が義父を超える日は来ないかもしれないが、いつか僕だってフローラに似合うドレスを贈ってやりたい。

 青もいいけど、白も似合うな。婚礼の時のドレスみたいなやつ。彼女の指輪みたいに、銀糸で刺繍して蒼い石を散りばめたり……普段着ではあまり見ないけど、フローラはピンクも似合う。この間の薄桃色の寝衣もすごく可愛かった。うん、ラベンダー色もいいかも。いっそ、僕の外套とお揃いで紫のワンピースなんてどうだろう。

 幸せな妄想をしてにやけた僕を、フローラが不思議そうに見上げた。

 苦笑いで誤魔化し、武骨な掌を差し出す。やわらかな微笑みと共に、白い美しい手がつと添えられた。

 腰を抱き寄せ、透き通った眼差しと一瞬だけ、視線を愛しく絡ませ合って。

 何処までも行こう。ずっと、ずっと手を繋いで。

 声もなく、互いの誓いを確かめる。そうして二人、同じ歩幅でこの静かな部屋に別れを告げた。

 

 

 

 

 

 凡そ二ヶ月ぶりの再会を、ストレンジャー号の面々は大いに喜んで出迎えてくれた。

「テュールさん、お嬢様! お帰りなさい!」

 係留した甲板から身を乗り出し、アランさんをはじめとした乗組員達が手を振り声を上げて歓待してくれる。中には仲魔達の名前を呼んでくれた人もいた。ふにゃりと嬉しそうに緩んだ顔で、ホイミン達もおぉ〜い、やっほー! と叫び返す。そんな光景を目にして、不覚にも胸が熱くなってしまった。

 サラボナから岸までの道が思った以上に悪くて、馬車が通れるかはらはらしたけれど、無事に着けてほっとした。

 安心して気が抜けたのだろうか。ものすごく珍しいことに、船に着いて数日経ったある日、僕は風邪をひいて寝込んでしまった。

 と言ってもしんどかったのはほんの二、三日で、わりとすぐに快復したのだけれど、普段本当に体調を崩すことなんてないから、自分でも驚いた。

 発熱したその日は、いち早く僕の異変に気づいた妻と心配してくれる船員さん達に甘えて、特別船室で丸一日、ひたすら寝かせてもらうことになった。

「テルパドールからずっと、気を張ってらっしゃいましたもの。この船がテュールさんにとって安らげる場所になれているのでしたら、私もとても嬉しいです」

 乗船早々、看病のためにデッキを何往復もする羽目になった妻は、しかし自身の疲労はおくびにも出さず、どこまでも優しく労ってくれた。

 甲斐甲斐しく世話してくれる妻を眺めていると、申し訳ない気持ち半分、どうしても面映くて口許が緩んでしまう。

「しばらくは船に揺られるばかりですから、ゆっくり安静になさってくださいね。少しお眠りになりますか?」

「うん。そうする……ありがと。頑張って早く治すからね」

 重力を増していく瞼に抗えず、うとうとしながら答えると、ひんやり冷たい手がまだ熱い額をそっと抑えた。

「もう。こんな時くらい、頑張らなくともよろしいのですよ」

 優しい声が泣きたいほど心に染み渡る。ああもう、天使か僕の妻は。しんどさとは違った意味で昇天しそうだ。尊い。

 

【挿絵表示】

 

 こんな風に寝込むのは、あの修道院で助けられて以来だろうか。熱の所為か頭がぼうっとして、身体の節々が重く軋む。

 今、眠って夢を見ているのか、朦朧としたまま考え事をしているのか。意識の境界が曖昧だ。

 そういや父さんも僕が小さい頃、そうそう、旅から帰ってすぐビアンカとおばさんをアルカパに送って行った時に、風邪をひいて寝込んじゃったんだよね。あれはダンカンさんから貰ったんだっけ? でもやっぱり、気が抜けたのもあったんじゃないかなぁ。久しぶりにサンチョに会って、ダンカンさん一家にも会ったから。

 宿屋に泊まりっぱなしで、サンチョが待つ家にも中々帰れなくて。暇だった僕は昼夜を問わず、ビアンカにあちこち連れ回されたのだった。うん、何か色々と思い出してきた。

 サンチョ、今頃どうしているだろう。きっと僕達を探してくれただろうな。ダンカンさんみたいに病気になったりしてないといいけど、などと性懲りも無く考える。

 ……どうしてこんなにも彼の生存を諦められないのか、自分でもわからない。ほとんど絶望的だとわかっているのに。

 ただ、光明が見えたのだ。

 サラボナを発つまでの数日間に、自身の拉致事件とその周辺の出来事について改めて探っていた親友が、先日再訪した折の別れ際に教えてくれた。

 繋いでくれた。たった一条、彼に連なるかもしれない光を。

 いつの間にか寝入ってしまっていて、ふと目を覚ましたらシーツとシャツが寝汗でびっしょりだった。絶妙なタイミングで様子を覗いてくれたフローラが手際良く湯桶を用意し、着替えを手伝ってくれる。

 夫婦になって半年以上経つが、こうして世話をしてもらうのはどうしたって気恥ずかしい。けれど、こんな自分を赤裸々に見せられる人が出来たのだと思うと。ほんのり恥じらいながらも懸命に身体を拭いてくれる妻を、今すぐ抱きしめたい衝動に駆られながらひたすら耐えた。

 時折、仲魔達や船員さん達も様子を見に来てくれた。

 フローラは再び洗濯や厨房の手伝いなどで忙しなく動き回っていたが、手が空いた時は必ず僕の枕元に来て、汗を拭いたり水を飲ませてくれたりと、こまめに世話をしてくれた。変な夢を見てうなされていた僕を優しい手で起こしてくれて、そのあとは綺麗な声で子守唄を歌ってくれたりもした。

 不謹慎だけど、やっぱりものすごく嬉しい。君がアンディを看病していたあの時、どうしたって羨ましくてたまらなかった。

 献身的なフローラの看病のおかげで熱は一日で下がり、しかし症状が完全に治まったわけではなかったので、大事をとってもう一日、ゆっくり養生させてもらってから魔物番を再開した。

「律儀ですよね、テュールさん。もっと休んでくれて構わないのに」

 交代の船員はみんなそうやって気遣ってくれるが、僕が役に立てることなんてはっきり言ってこれしかないのだから、さぼってなどいられない。

 以前と同じ流れで二、三日過ごしていたら、倦怠感やくしゃみは大方消え失せたが、今度はフローラが体調を崩した。

 僕の風邪がうつってしまったのかもしれない。やはり熱は一日でひいたものの、彼女の風邪は胃腸に来てしまったらしく、吐き気の所為で食事もままならないようだった。

「久々の船で、酔っちまってるのかもしれませんよね……」

 心配そうに囁き合う船員達に同意する。ここ数日はセントべレス山から吹き下ろす寒気の所為か、海がいつも以上に荒れて、揺れも酷かったから。

 本人はそれでも動こうとしていたが、砂漠でのこともある。よくよく話をして、厨房の手伝いはしばらく食後の片付けだけにしてもらった。

「ここじゃちゃんとした医者にかかれないから、また別の病気になったら大変だよ。ほら、僕がうつしちゃったのなら他の人にも拡がっちゃうかもしれないし。お願いだから、ちゃんと休んで」

 発生源な上、病み上がり早々動き回っている僕に説得力など皆無だが、懸命に懇願したらフローラも神妙な顔で頷いてくれた。また吐き気を催していたのかもしれない。

「少しはましになったと思いましたのに、またこんなご迷惑をおかけして……本当に、申し訳ありません」

「迷惑なんて、全然ないからね。エストアに着くのはまだずっと先だし、着いてから元気に歩ける方がいいじゃない? その為だと思って、今はのんびりしておこう」

 しょんぼり項垂れるフローラを何度も慰めた。責任感が強い彼女だから、自分で請け負った役割を全うできないことは辛いだろう。僕もそこまで言ったからにはと、日中の魔物番は他の人に暫く代わってもらい、出来るだけフローラの側で過ごすようにした。

 やはり船酔いもあるかもしれない。小康状態を保ちながら、それから十日たってもフローラはさほど快復したように見えなかった。実は何かの病気ではないかと薬師のバルクさんにも相談してみたけれど、風邪で消耗した所為で船酔いが続いてしまってるんじゃないか、と彼も首を捻るばかりだった。とにかく何も気にせず休むのが一番なんだけど、気疲れというか、お嬢様は真面目な方のようだから、気が抜けなくて症状が治まらないのかもしれないね、と。

 船出早々風邪を引いて彼女に気を揉ませたのは他ならぬ僕である。もしや、看病疲れがすべての原因なのでは。その可能性に思い当たった瞬間、全身からさーっと血の気が引く心地がした。大体、僕とフローラではそもそもの体力が違う。看病してもらえるのが嬉しくて舞い上がって、またしても彼女の疲労や体調を慮れていなかったのでは。

 また熱砂病の時のようになるのは御免だ。あの時だって、僕が彼女の体力を慮れなかった所為であんな惨事になったのだ。

 酔い止めの薬湯を飲ませると多少落ち着くようだが、それでも部屋の隅で壁に向かい、ひたすら黙って吐き気に耐えている。食も元々細いのが、ここ最近はほとんど食べておらず、可哀想で見ていられない。

 気分転換に甲板に出してやりたくても、あの魔族の手下共に見つかったらと思うと気が進まない。本人とも相談の上で、陽が傾いてから夜の間だけ、必ず側に付き添ってデッキに出るようにした。

 潮風に当たると少しは気が紛れるようだった。真冬の夜の海は凍りそうなほど寒いから、ほんの数分しか出してあげられなかったけれど。

 せめてもと背後から外套に包んで抱きしめれば、ありがとうございます、と気恥ずかしげに振り返り微笑んでくれた。

 あまりに船酔いがひどいなら、次の停泊地では少し長めに滞在することも考えた。けれど、サラボナを離れてひと月が過ぎる頃、ようやくフローラの体調が好転してきた。少しずつ固形物を摂れるようになり、えずくことも減った。

 ぶり返してはいけないから、それでも油断せず体力の回復に努めてもらって。

 本人ももう大丈夫ですと言ってくれたので、当初の予定通り、物資の補充の為に三日間だけモン・フィズに立ち寄った。

 

 

 

 

 

 すっかり船の揺れに慣れた身体は、陸地を歩くと足下がふわふわ覚束ない。

 旅装である水の羽衣ではなく、いつもの見慣れた白いワンピースに着替えたフローラの手を引いて、凡そ三ヶ月ぶりに訪れた砂の国の白い港町をのんびりと楽しんだ。

 僕らのことを覚えてくれていた人達もいて、今度こそお土産に持っておいき! とあの装束をいただいてしまった。そう、モンバーバラの姉妹の装束である。しかも両方! 見た瞬間、僕の頰はきっとこの上なくだらしなく緩んでしまっていたことだろう。

「わ、私、着ませんから。もうあんな恥ずかしい思いはしたくないです……」

「うん、まだちょっと寒いもんね。僕もあんなフローラ、絶対他の誰にも見せたくないし。また今度、だね」

 必死に固辞する妻を見つめ、真顔で深々頷いた。我ながら気が大きくなったというか、最近性格が悪くなった気がするな。面食らった様子のフローラが「こ、今度、ですか? いえ、そうではなくて……あの」としどろもどろに呟いていたが、しれっと聞こえないふりをした。

 それを着ないなんてとんでもない。濃い化粧は要らないから、僕の前だけで恥じらいながらあの姿を曝して欲しいのだ。駄目だ、考えただけで興奮する。もっと温かくなって、二人きりのときならいいかな。いいよね。などと邪な思考がどこまでも頭をちらつく。ほんと僕って……

 南の国だけあってここは日中ほとんど寒さを感じないけど、ついこの間まで体調不良だった妻の負担になることはしたくないので今は我慢する。そもそもこの街の宿、みんな相部屋だしね。

 以前もお邪魔した酒場に入り、昼食をとった。その際、世間話ついでに目的地を聞かれた。グランバニアに行きたいのだと告げると、ぎょっとしたお客さんが数人、グラスを片手に群がってきた。

 少し詳しく聞いたところ、かの大陸は西岸ならまだ外界に開かれているものの、王都に通じる山道はかなり荒れて道が悪いだろうと言う。

 訪問したことがあるのかと問えば、商人と思しき客の一人はあっさりと首を振った。

「あそこは世界有数の鉱床地帯だからな。宝石とか、希少な鉱物が昔から多く採れた。だから今でもたまにエストアを探索したがる奴がいて、そういう話がこっちにも流れてくる」

 以前読んだ文献にも確か、グランバニアは鉱物の産地だと書かれていた。父が魔物を酔わせる宝石の特性を知っていたのも土地柄だったのかもしれない。

 相槌を打ったら、その隣からこちらを覗き込んでいた無精髭の男性が苦笑いしつつ言った。

「恥ずかしながら、そのお宝に目が眩んだ一人でね。昔、仲間と連れ立って行ったことがあるんだが……入れるところは粗方掘り尽くされちまってたよ。削られすぎて崩落してるとこも多かったな」

「あ、山に入られたことがあるんですね。良かったらもう少し、詳しく聞かせてもらえませんか?」

 どうやら僕らのことも、一攫千金を狙う冒険者だと思われたらしい。悪くない理由だと思ったので、ちゃっかり話を合わせてみることにした。

 遅い昼食のつもりで入った店で、客が少なかったのが幸いだった。居合わせた数人の客に気前よく酒を奢り、父の遺品の中にあった地図を開いて見せる。サンタローズの隠れ家で見つけた古い地図だ。今指し示したその場所から、二十年近く前に父さんが僕を連れて旅立ったのかと思うと、ひどく不思議な感慨に襲われる。

 先程、山に入ったと話してくれた髭面の男性がまず、斜向かいに椅子を引き寄せて座った。続け様に、三人ほどの男性客が僕達夫婦の目の前に並んで腰を下ろす。

「グランウォール山脈。その名の通り、南北に伸びて大陸をもろ縦断してる。壁みてぇな絶壁が多くて、吹き降ろしも強い」

 無精髭を撫でつけ、いかにも職人らしい使い込まれた太い指が地図を示した。そこから西側の境界線をなぞり、彼は言葉を続けた。

「ここから船で行くとこの辺に着くと思う。その辺りじゃネッドの宿がでかいから寄るといい。巨木が目印だ」

「あんま北には行くなよ。そっちは古戦場跡で、今も何が出るかわからんのだとさ」

「出るって……え、魔物ですか? まさか幽霊とか」

「さあな。大昔にやべえ魔物の根城があったって噂だぜ。塔になんかが封印されてたとか、魔物が湧く泉があるとか、そういう」

「兄さんが生まれるよりずーっと前の話さ。ひどい戦だったんだと。そりゃあ、浮かばれん魂もあるだろうよ」

 次々と地図を指さし、それぞれに相槌を打ち合っては淡々と会話していたが、僕の隣に静かに座っているフローラがひっそり息を詰めた気配が伝わってきた。古戦場の話で僕がうっかり幽霊などと口走ってしまったためだろう。

 魔物は僕らにとって現実の脅威だが、幽霊と呼ばれるものはすべての生き物の命が終わった後の姿と言われているものだ。目撃情報は時折聞こえるものの、それを実証することは困難で、実際にはデーモンが見せる幻ではないかとも言われている。

 僕は子供の頃、幽霊と思しきレヌール城の幻影と話したことがあるから今もなんとなく信じているのだけど、フローラはどうやらこの手の話が苦手らしい。膝の上でぎゅっと拳を握ったまま俯いてしまった。強張った肩を抱き寄せたら、それを見咎めた男の一人が心配そうに声をかけてきた。

「そんな線の細いお嬢さん連れて宝玉掘りかい? やめとけ。相当奥に入らんと質のいいのは採れないよ」

 思わずフローラと顔を見合わせる。申し訳なさそうに眉尻を下げ、フローラは懸命に「私は大丈夫です」と目で訴えてくれたが、男達は構わず異口同音に懸念と制止の言葉をくれた。

「俺も同感だな。何かあっても助けが来る場所じゃない」

「何が目当てか知らんが、あんま期待しないほうがいい。さっきも言ったが、こっち側は採掘され尽くしとるだろうし……掘るなら山脈の向こう側か、北の古戦場近くになっちまう。危なすぎる」

「集落だってどれだけ残っとるやら。何日野宿になるかわからんぞ。この親父達の言う通り、そんな育ちの良さそうなお嬢さんには荷が重かろう」

 息もつかせず降る言葉は僕達を心配してくれてのもの。それがわかるから、フローラも恐縮して小さくなるしかない。

 これはちゃんと事情を伝えたほうが良さそうだ。意を決して、改めて目的をきちんと告げた。

「あの、本当は……グランバニアの王都に行きたいんです。早くに亡くなった父がそこの出身だったと聞いたので、もしかしてまだ身内がいるんじゃないかと」

 男性達がそれぞれに目を見開く。まさか端から山を越える気とは思わなかったという顔だ。本気か、と言いたげに顔を覗き込まれたが、真剣な面持ちで一つ深く頷いてみせると、男の一人が重く息を吐きながら憐れむように言った。

「おやっさん、難民だったのかい? そうか……云十年前には結構見かけたな」

「難民かどうかはわからないんですけど、僕を連れて旅をしている途中、魔物に。まだ子供だったので、父の事情はあまりよく知らされていなくて」

 グランバニアのことを知ったのも最近なんです、と付け加えると、男性達はその眼差しに深い同情を映し、僕とフローラとを交互に見比べた。

「彼女は、妻です。彼女が背中を押してくれて、やっと故郷を見てみたいと思えたから……どうしても、連れて行きたくて」

 心許なさげに寄り添うフローラを労りながら続ければ、ああ、と男性達がまた顔を見合わせ頷く。

「そうか……兄さん、グランバニアって初めに言ってたな。すまねえ、早合点したわ」

 申し訳なさそうに頭を掻く男性に慌てて首を振った。否定しなかったのはこちらなのだから。へへ、と笑った男性に愛想笑いを返して視線を戻すと、他の皆さんと酒場のマスターまでもが、すっかり眉尻を下げた哀愁漂う顔つきで僕達を見つめていた。

「お身内、ねぇ。ま、絶対にいないとは言いきれない以上、兄さんが訪ねたいと思う気持ちはわからんでもないわな……」

「旅人さんじゃあ余計にな。帰る場所ってのは、さすらい人にとっちゃあ特別なもんだろう?」

 思わず、深く頷く。帰る場所────確かにそうだ。故郷という拠り所を持つヘンリーがずっと羨ましかった。今の僕には「お帰り」と言ってくれる人が少なからずいて、それで十分だという気持ちに偽りはないのだけれど。

 ずっと昔に途切れてしまった肉親との縁を、霞みたいなそれをどうにかして掴みたい。そんな衝動をどうしても捨てられない。

 父さんに。母さんに。もしかしたら、行方知れずのままのサンチョに繋がるかもしれない、微かな縁を。

「上陸、できないわけではないんですよね? 北の大陸でも色々聞いてきたんですが、今はどこもエストア大陸との往来がないって皆さんに言われていて」

 気を取り直して、もう一度だけ尋ねてみた。はっきり訊くのはどうしても憚られるけれど、何が起こっているのか全容を知ることは無理でも、せめてこれだけ肯定してもらいたかった。

 ポートセルミの船長達でさえ、エストアの近海で父さんと行き合ったという二十年前も上陸はしていない。義父以外であの大陸へ行けると明言してくれた人は、今のところ一人もいない。

 ……だから、次にあっさり返された言葉には、ほっとしたあまり思わず力が抜けた。

「そりゃ、出来なくはないさ。現に俺達は時々ネッドに物品を卸してる。あっちからも石やら草やら、多少買い付けることがあるしな」

 固唾を飲んで見守っていたフローラも、僕と同じようにほう、と緩く息を吐く。何となくお互いに視線を通わせ、密やかに微笑み合った。

 少しだけ、不安だったんだ。あの、まともに立ち入ることができないっていう『神の地』にもほど近い……この大陸もだけど、そういう場所だから。数ヶ月前、このアルディラ大陸で見舞われた不思議な霧と似た現象がもしエストアを覆っていたとしたら、どんなに頑張っても王都にたどり着けない可能性が出てきてしまう。

 逆に言えば、上陸できるならあとはこちらの体力次第。どれだけ苛酷だろうと、人の力が及ぶ場所ならなんとでもできる。

「但し、行っても年に一、二回だ。ネッド以外はほぼ交易が途絶えてるし、物見遊山で行くにはわりと博打な場所なんでな。特に山の方にゃ今、どういう魔物が出るかわからん。まず山越えしようって奴がいないから、情報もない。ネッドの奴らも長いこと王都との行き来はしてないっていうしさ」

 ……とか無理矢理自分に発破をかけたところで、これ。さすがに愕然とした。そのネッドとやらも、山脈を隔てただけのグランバニア領に違いないのでは無かったのか?

 つまり、現状グランウォール山脈の外側には王国の権力がほとんど及んでいないということで。

 実は本当に滅んでいたらどうしよう。最悪の想定が頭をかすめていく。なんだかもう、そこまで閉じられていて王都の人々はどうやって生活しているのか、逆にそちらを不安に思ってしまうぐらいだ。

 僕の動揺を察してくれたのだろう。「いや、たまに王都から人が降りてくるとは聞いたぜ? どれくらいの頻度かは知らんが」と苦笑混じりに言われて、とりあえず王都が機能しているらしいことに再び安堵した。

「山間の集落もかなり潰れちまってるだろうし……最悪、王都まで野宿も覚悟せにゃならんが」

「それも、承知しています」

 隣のフローラも、僕に同調してしっかりと首肯する。男性達はいよいよ困ったように顔を見合わせたが、誰ともなく「そうかい」と呟くと、やがてそれぞれが小さく苦笑混じりに息を吐いた。

「険しい道だが、山脈さえ越えれば王都はきっと目の前だ。ネッドに行けば山道のことも多少聞けるだろうさ。おい、てこたぁここが最後の準備処じゃないか? 何か入り用なら相談に乗るぜ」

 親身に話を聞いてくれた商人風の男性が懐から何やら紙を取り出し、ばらばらとめくり出す。他の男性客も「その前に海図を見てやれよ。確か半年くらい前にネッドから帰った奴、いただろ? ありゃカミーユだったか?」と立ち上がり、心当たりがあるらしい一人が足早に酒場を出て行った。あれよと言う間に消えゆく背中を目で追っていたら、残った男性の一人が「奢られて喜んでる場合じゃねえや。おいマスター、景気付けだ! こいつでこのご夫婦に腕を振るってやってくんな」と小銭入りの小袋をカウンターへと投げてくれる。すっかり恐縮する僕達夫婦を尻目に、男達は広げた書き付けを囲み、エストア大陸への海路について意見を交わし合っている。

「そういや前に、あの近海で幽霊船を見たって奴がいたよ。随分前だし、それきり聞かねえから見間違いだとは思うが」

 ある男がそんなことを呟いて、フローラがまたびくりと青褪めた。怯える彼女を見た別の男が「奥さんは旦那に守ってもらいな。中々腕が立ちそうな御仁じゃねえか」と笑って揶揄う。

「それにしても、若いのによく鍛えてんな。羨ましい」

 外套から覗く太い腕に視線が集まり、あはは、と乾いた笑いを返す。……鍛錬を欠かしていないのももちろんあるけど、こんなになったのは十年の苦役がかなり大きいんだよね。硬く育った上腕をさりげなく撫でて、苦いものを飲み下す。

「あんた見てると、なんか若い頃を思い出すんだ。俺も昔は大概無茶をやったが、グランウォールに比べりゃ海越えなんざ可愛いもんさ。まあ、頑張んな」

 どこかイヴァン元船長を思い出させる、厳つい初老の男性が僕の背中を力強く叩く。よくよく見れば、筋肉質の浅黒い身体には幾筋もの古疵が見えた。

 俄に湧いた喧騒の中、無精髭の男性がグラスを舐めながらぽつり、呟いた。

「……それにしても、誰が掘ってるンだろうなぁ……?」

 

 

◆◆◆

 

 

 サラボナを発つ二日前。

 その日は、僕だけで再びラインハットを訪った。

 約束した通り、ヘンリーはもう少し突っ込んだところを調べてくれていた。難しい調査だったに違いない。たった数日しか経っていなかったが、彼の微笑みには色濃い疲労、いや憔悴が滲んでいた。

「……何から、話せばいいのかな」

 前回利用させてもらった禁書庫の方がいいだろうと、いや部外者が何度も借りていい場所じゃないと思うのだけど……勧められて通された書庫の中で、ヘンリーはひどく神妙な顔つきで口籠もった。

 しかしそれは一瞬のことで、すぐさま顔を上げると「申し訳なかった」と頭を下げる。

「何がさ。その話はもういいんだって」

「良いわけあるか」

 すぐに険しい顔で睨まれたが、目が合えば途端に心許なげに表情が歪む。わずかに言い澱んだが、ヘンリーは眼に力を込め直すと、その続きをしっかりと口にした。

「いや、違うんだ……頼む。これから向かう先を聞かれても、この国ではまだ、誰にも答えないでほしい」

 あまりに真剣な物言いに思わず身構える。一度、息を吐いて心を落ち着けてから、恐る恐る尋ね返した。

「……因縁が、ある?」

 やはり真摯な面持ちの親友はわずかに睫毛を伏せ、深く頷く。

「断絶している。五十八年前、盟約が裂かれたと」

 五十八年前。

 多くの文献、人々の話ぶりから、グランバニアに異変が起こったのがちょうどその頃だ。

 にしても、思った以上に状況が悪いのか。思わず口許を覆って考え込んだ。旧くから親交があったはずのラインハットとグランバニアが国交断絶、だなんて。城はともかく、神の塔を擁するノルトノース大陸の最南端は地図で見る限り、極めてエストア大陸に近い。この地を介して過去、両国に行き来があったとしても不思議はないくらいなのだ。

 でも。

「ただ、……親父ん時の宰相の書斎を調べさせてもらった。当人は鬼籍だから、正確なことはわからない。そこは了承してくれ」

 そう、断りを入れてから、ヘンリーはいよいよ僕達の疑念の核心に触れる。

「恐らく、親父と宰相は、パパスさんの素性を知っていた」

 推測半分。それでも彼は、きっぱりとそう断じた。

 目を向けて続きを促すと彼はひとつ重く頷いて、懐から何やら手紙らしきものを取り出す。

 所々折跡のある薄い紙を広げると、青みがかった黒インクの文字が鮮やかに姿を表す。

「こいつがパパスさんを召喚した時の書簡。パパス・グランじゃなくて、パンクラーツ公って書いてるだろ。多分これ、パパスさんもわかってて応じてたよ」

 目の前に広げられた、少しだけ黄ばんだその紙をまじまじと見つめた。擦れた跡も滲みもない、流麗な筆跡で書かれた手紙の宛名は確かに『パパス・パンクラーツ公』と記されている。

「公」という尊称は一定の身分、特に最上位に準ずる地位を持つ相手に対して用いられる。さすがに王とは称せないから苦肉の策としての敬称だったのか。無教養の僕が何でそんなこと知ってるかというと、以前ラインハットを発つ際ヘンリーに叩き込まれた。処世術として知っといて損はないからと教えてもらった上流階級の知識は、確かに旅の途中で僕を大いに助けてくれた。ほら、義父と初めて話をした時とか。ハッタリは大事である。

 僕は卿と称したが、ラインハット王族であるヘンリーが義父をルドマン公と呼ぶのは、実質彼がかの大陸における統治者であるからだ。

 厳密な使い分けをする尊称ではないが、ただの村人相手に用いるものでは絶対にない。

「何のために親父がパパスさんを呼び出したのか、本当のところはわからん。まさか本気でガキのお守りだけが理由でもなかっただろうし。結局、本人達があの世まで持っていっちまったな」

 静かな部屋に、押し殺したヘンリーの低い声が密やかに響く。黙って耳を傾けながら、僕もまた無意識に顎を撫でつつ思考を巡らせた。

 かつての事件の真相はさておき、この時点で、僕が持ち込んだ情報の真偽がほぼ確定したことになる。

 父さんは正しく、パパス・パンクラーツその人であった。父の遺剣と、ラインハット王家の書簡がその裏付けだ。アイシス女王に教えられたかつてのグランバニア王の名とも符合する。……とすれば、僕が偽りなく彼の息子であるならば……僕もまた彼の、王家の血を継いでいる────

 何だかな。まだ、実感が全然湧かないんだけど。

「お袋は多分、今も知らないと思う。事がことなんでデールにだけは話した。……ったく、つくづくとんでもないことしてくれたもんだよ。魔物に成り代わったと言っても、あん時のお袋は間違いなく本人だったんだからな」

 苦々しく呟くヘンリーに、ほとんど上の空でうん、とだけ返しながら、下ろした鞘の剣柄を眺める。

 先日から文献で読み漁ってきた事柄が、次々脳裏に閃いては消えゆく様をぼんやりと見送った。

 心のどこかで、他人事だと思おうとしていた。たまたま境遇が似ていた、父に似た名を持つ誰かの話を重ねられているのだと。

 未だ名前しか知らぬ母を想うときに似た郷愁が、じわじわと胸を侵食するのを感じる。

 帰りたいと、感じているんだろうか。それとも。

「太后様は……ヘクトル王が崩御された時はまだ、成り代わられてはいなかったんだよね?」

 感慨に押し流されそうな内心を必死に鎮めて、そう問うた。ヘクトル王はヘンリーの御尊父だ。確か拉致事件の一年ほど後に病死なさったと……本当にご病気だったのかはわからないけど。ヘンリーの失踪にサンタローズ事変が重なって、お心を酷く痛められたことは間違いないだろう。

 ことの経緯は確かに太后様ご本人の口から聞いたけど、この事件は色んな人の認識がごちゃ混ぜだったり、そもそも偽物が暗躍していた所為で曖昧なところが多くて。

「まあ、疑って当然だ。本人は、サンタローズ村の焼き討ちも自分の指示じゃないって言ってる。いつの間にやら自分の功績扱いになっていて当時は気にも留めなかったが、実際に関与したのは俺を拉致させたところだけだって」

 だが、サンタローズの生き残りの人々は聞いている。あの日村を襲った兵士達が、王妃の命令を絶賛していた声を。

 正気でなかった兵士達、恐らく大半を占めた魔物達。

 誰があの惨劇を指示したのか、被害者である彼らはその耳で直に聞いていたのだ。

「……つまり、あの頃から偽の太后様に化けられる魔物が城近くに潜んでいた。……てことだよね」

 否、いっそ城内にいたかもしれない。あいつは恐らく、誰にでも化けられたのだから。兵士か女官か、もっと王に近しい何者かに成り代わることも容易かったはずだ。

 だから、父さんが呼ばれたんじゃないか。城に巣食う何者かを炙り出すために。────太后様の企みは決して計画的なものではなかった。王太子の誘拐など、正直稚拙なほど杜撰な顛末だったと思う。水路のある裏口から真っ昼間に賊を引き入れる愚行、彼女が直に手引きするつもりだったのかと今更ながら疑問が湧く。けれど、その一見杜撰な謀こそがきっと、国王様の予見を狂わせたのだ。彼女の目論見を利用して父と王様を陥れ、サンタローズを焼き滅ぼして、ラインハット王国の実権を掌握した……

 無意識に腕を組み、そんな思考をつらつらと巡らせていたが、ふと気がつくと、ヘンリーの青い眼がなんとも言えない感情を揺蕩わせてじっとこちらを見ていた。

 目を向けると、申し訳なさそうに睫毛を伏せる。

「お前にはこの国の誰もが感謝している。顔見せるだけで城に上がれて、良いんだよ。……いずれは避けて通れないことかもしれないけどさ、今はまだ、ここではただの『テュール』でいてくれ」

 どこか切なげに言葉を選ぶヘンリーを見ていたら、ひと月前、テルパドール王城の図書館で、妻がくれた言葉が耳に還った。

 ────ああ、フローラ。君が言ってくれた通りだった。

「……僕は、テュールだよ。どこに行こうと、誰になろうと」

 緩やかに瞼を閉じて、零れ出たのは、己の存在を確かめるための言葉。

 ヘンリーにも安心して欲しくて、縋るような瞳をした彼に向かってやわらかく微笑んでみせた。

「フローラが言ってくれた。例え僕の名前が変わっても、僕は僕でしかないって。……何も変わらないんだって」

 ただ、変わらず僕を慕ってくれるだけだって。

 彼女の純粋な想いが、信じられる幸せが、僕にどんな苦難も越える勇気を与えてくれる。

 たった今ヘンリーが伝えてくれた、切実な願いも。例えばあの、太陽みたいな姉貴分の存在も。

 君達を知らなければ僕は今頃、もっと怖気づいていただろう。女王の話も聞かなかったことにしたかもしれない。オラクルベリーに引き篭もっていた頃のように、全て投げ出して小さくなっていたかも。

 信じられる人がいる。きっと何があっても変わらず僕を見守ってくれる、待っていてくれる、信じてくれる。そう思えることが、今、どれほど僕を奮い立たせていることか。

「ヘンリーだって、この国に戻ってからも変わらず親しくしてくれてるだろ? 同じだよ。僕もそう在りたいし、それ以外になんてなれないと思う」

 気休めかもしれない。それでもそれが、僕の一番の本心だから。また切なげに僕を見たヘンリーに、もう一度小さく笑ってみせた。

 ヘンリーが望んでくれるそれは恐らく、フローラが言ってくれたことよりずっと難しい。

 名前が変わる、立場が変わる。今みたいに気安く城門を通してもらうこともきっと無くなる。最悪、父さんの件が引き金となって、両国の間にどんな溝が生まれるかもわからない。

 それでも、否、だからこそ、僕は君といつまでも親友で在りたいと、心から願っている。

 変わりたくない。変わらないでほしい。ずっと気高き人であった君が、幼かったあの日から一度たりとも僕を見放さずにいてくれたように。

「……ほんと、良かったよ。お前がいい奥さんに恵まれてくれてさ」

 張り詰めた表情をくしゃりと崩して、ヘンリーが控えめに微笑んだ。いい友にも恵まれてるんだよ、なんて思いながら、フローラを褒められたことが嬉しくてつい頬が弛む。しかしまた揶揄われてはと敢えて唇を引き結び、わざと重々しく答えた。

「うん、僕にはつくづく勿体ない奥さんだと思う。本当に。もし愛想尽かされたら絶対、人生終わる」

「終わらせんな阿呆が!」

 真顔で頷いたらすかさず突っ込まれた。絶妙な合いの手に心から砕けた笑みが弾ける。一緒になって気の抜けた顔をしたヘンリーとひとしきり肩を震わせた後、ぽかりと生まれた空白にそれぞれ思いを馳せて。やがて、先にヘンリーが小さく呟いた。

 禁書庫の本棚の奥、特別な鍵で封じられた見えない扉の向こうをじっと見遣って。

「本当は、あれの他にもう一つ、旅の扉があったんだって。グランバニアに通じていたそうだが……今は、力が枯れて使い物にならない」

 旅の扉、とヘンリーが口にするのを、わずかな驚きを押し殺しながら聞いた。────今やそのほとんどが神話の彼方に消えてしまった、神々の遺産と呼ばれる古代の転移陣だ。

 この城の奥には原始的な旅の扉がひとつだけ現存している。多分、ラインハットでも相当高位の人間にしか知らされていない。どういう理由か、それはあの海辺の修道院からさらに遠く離れた南の森の中、ひっそりと隠された祠に通じていて、僕達はかつてその旅の扉を潜り、この国の秘宝『ラーの鏡』を取りに神の塔へと赴いたのだ。

 いつからか、誰も潜れなくなったもう一つの『旅の扉』跡は神なる力の暴走を恐れ、強力な結界で封じてあるのだと。俺が生まれるより随分と前の話だ、と彼は淡々と教えてくれた。

「何があったのかな。五十八年、か。……何にせよ、もう少し調べてみる。悪いことにならなきゃいいな」

 うん、と頷いたところで、さっきから何となく引っかかっていたものがふと、鮮明になった。

 立ち上がり踵を返しかけた親友を、静かに呼び留める。

「…………、ヘンリー」

 何気なく振り向く翠髪を、その眼を正面から捕まえて。

「なんで、父さんに出した手紙がここにあるの? あの時、全部燃えたはずじゃ」

 大した疑念じゃないんだ。ふと、本当にふと気になっただけ。

 しかしヘンリーは問うた瞬間、蒼い眼を大きく見開き僕を見つめた。触れない方が良かったか。慌てて明るい声を繕い、当たり障りない回答を僕の方から提案した、が。

「あ、父さんが持ってきたのか。ヘクトル王にお目通りした時、お返ししてたのかな?」

 この推察ならおかしくないと思ったのだが、残念ながら外れらしい。蒼の虹彩をゆっくり緩め、ヘンリーは溜息混じりに、ごく微かに笑う。

「お前もさ、変なところで鋭いよな……」

 言いにくいなら、『そういうこと』にしちゃっていいのに。

 まだ少し逡巡しながら、彼は僕に身体ごと向き直った。どう話そうか考えあぐねている顔で、視線を泳がせながらも消沈したように眉尻を下げる。

 ヘンリーは、少なくとも僕に対してはいつだって誠実だ。

 口先で誤魔化さず、精一杯の誠意を尽くしてくれる。

 

「お前の家で働いてたっていう、ごめん、名前はわからないんだけど」

 

 ────予期せぬ存在を示唆されて、唐突に、どくりと心臓が爆ぜた。

 あの家を守って、働いていて。

 幼い僕と父さんを出迎えてくれたのは、ただ一人。

「…………、サン、チョ?」

 無意識のうちに、その名を呟いていた。

 僕はどんな顔をしていただろう。正面から僕を見つめ返すヘンリーの慈しみ深い眼差しがひどく、痛い。

「名前は、わからなかったんだ」呟いて、ヘンリーはゆるく首を振った。「……グラン家の使用人を名乗る男が持参したようだ。地下牢に一時期捕らえていたらしく、その男が最終的にどうなったのかはわからん」

 知らない。他にいない、あの家にいたひとなんて。

 サンチョだ。間違いなく彼だと高揚する気持ちと、今更消息を知る恐怖が、自分の中に湧き上がって綯い交ぜになる。知りたい、知りたくない、知りたい。やっぱり生死はわからないのかと落胆する反面、曖昧なままでいたい、薄っぺらい希望に縋っていたいと思う苦さと。

 思い返せば、浮かぶのは人の良い、陽だまりの笑顔ばかり。

 丸い頬で、いつだって大らかに、僕の成長を喜んでくれた。

 生きていてくれればいい。願うことはそれだけで。

 ────だから、

 

 彼が続きを、静かに告げた瞬間。

 不覚にも、泣きたいほど安堵、した。

 

「ただ、逃がせ、と」

 短い一言の後、ちらりとヘンリーが僕を窺い見る。

 どんな顔をしていただろう。情けなく崩れたであろう顔面になんとか笑みを繕って続きを促すと、ヘンリーは一瞬、ひどく辛そうに表情を歪めた。

「王の……親父の密命だった。彼を逃がせと……それだけ、当時の宰相が管理してた書簡に遺されてて。本当にそれ以降のことはわからないんだ。その後すぐ、宰相は死んじまったみたいだから」

 低く、淡々と呟いて、それきりヘンリーは叱られた子供のように力無く肩を落とす。

 知らなくて当然だ。思えば僕はこの十二年間、一度もヘンリーにサンチョの話をしたことがなかった。

 事件前の、父と過ごしていた頃の想い出話は、総じて彼に贖罪意識を刻みつけることにしかならない気がして無意識に避けていた。サンタローズの惨劇を知ってからは、益々口にすることが憚られた。船旅の話や、ビアンカのことならまだ時々話せていたのだけれど。

 結果として、サンチョを話題に出すこともなかった。幼心にあの頃、ヘンリーはもう十分すぎるほど打ちのめされているように見えたから。あんなに自戒し続けるヘンリーを見て、この上思い出させるようなことを言えるわけないじゃないか。

 今だって、ほら。

 こうやって一生懸命、伝えてくれているヘンリーの方が、僕よりずっと苦しそうだっていうのに。

「もうちょっとちゃんと調べてから言うつもりだった。隠すつもりじゃなかったんだ。すまん」

「謝らなくていいよ。そんな、ラインハットにまた面倒事を持ち込んじゃって……こっちこそ、ごめん」

 潔い謝罪を繰り返す親友をそれ以上追及したくない。とにかく顔を上げるよう、懸命に促した。

 本音を言えば、もっと詳しく聞きたい。消息不明のサンチョの痕跡にたった今、初めて触れられたのだから。けれど聞いた限り、これらはすべて僕の父について調べるために、当時の宰相様の書斎を探って初めてわかったことなんだろうから。

 でも、そこまで分かったなら、少なくとも処刑された可能性は低いんじゃないかな。そう思うと少し、怖れが紛れる心地がした。ヘクトル王がご存命の頃の話みたいだし、せめて友の遣いだけでも、と懸命に逃がしてくださったのではないだろうか。

 そうまでして生き延びたなら────生き延びてくれているなら。サンチョならきっと、父と僕をぎりぎりまで探し求めて、最後は祖国に戻ることを選ぶだろう。

 サンチョが持ち込んだというその手紙をもう一度、ぼんやり眺める。経年劣化で若干黄ばんでいるが、綺麗に畳まれた上質な紙。よくよく見れば、ラインハットの国章と思しき薄い透かしが入っている。これほど大事な文を父が自分で持たず、サンチョに預けて行ったことにも何らかの意味があったんだろうな。

 あの騒乱の中、サンチョはどんな思いでこれを懐に収めてラインハット城を訪ねたのか。

「……字、綺麗だね。さすが宰相様」

 ぽつりと呟くと、ヘンリーはちょっと困ったように眉根を寄せて、ぎごちなく笑った。

「稀代の書家と呼ばれた人だったからな。回り回って、お前も結構助けられてるだろ?」

 冗談めかした、しかしわずかに悔恨が滲む声音に思わず顔を上げる。意味がわからず首を傾げれば、ヘンリーはもう一度、苦く笑って首をすくめた。

「俺の字は彼直伝だ。くそ忙しい中、癇癪王子の読み書きの世話なんぞという貧乏くじを引かされた……すこぶる有能で口煩い、哀れな爺さんだったのさ」




テュールの風邪エピソードは、昨年の主フロの日に描いた漫画「風邪をひいた日。」(https://www.pixiv.net/artworks/81861873)と連動しています。
良かったら、覗いてやってください!

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