Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】   作:サクライロ

66 / 78
#2. 懐妊〜side Flora

 月の障りは周期的に、多くは月の満ち欠けに通じて訪れるものだけれど、発育途中の十代においてはその限りではない。

 元々、予定日より数日から一、二ヶ月の周期揺れは普段から頻繁にあった。たった二週間で次が始まることもあれば、テュールさんと出会う前には、三ヶ月以上来ないことだってあったもの。

 考えすぎかもしれないけれど、それでも前回の障りからちょうどひと月になる今日、私はひどく安堵していた。門出の日に始まってしまったらと、些か不安だったのだ。

 歩かなくてはならない時と、出血のひどい日が重なってしまうのは、やっぱり少し辛いから。

 旅立ちの日は残念ながら、少し濁った曇り空だった。サラボナ周辺は比較的整備された道が続くが、ルラフェンへと延びる石畳を逸れた途端に地面が悪くなる。年の瀬はずっと小雨が続いていたから、雪も解けて更に歩き難い状態だった。

 とにかくぬかるみに車輪を取られないよう、時々馬車をみんなで押しながら歩く。

 障りが近いのか、下腹部にじわりと重い気配が続いていた。どうか船に着くまで始まらないで、と心の中で何度も祈る。つい口数少なくなってしまう私を皆さん慮ってくださり、馬車に乗るよう口々に勧めてくださったけれど、積荷が多いのに私一人乗せていただくわけにはいかない。

「まったく、血は争えん。あのお嬢様がすっかり、冒険家のお顔をなさっておいでじゃないか」

 付き添いでいらしたイヴァン様が苦い笑みを浮かべる。彼と、他にも数名の航海士さんが、ここまで荷を運んだルドマン家の馬車を街へ戻す為について来てくださっていた。本当のこと────血の繋がりがないことはさすがにこの場で言えなかったけれど、わずかでも父の面影を見出していただけたなら嬉しい、と素直に思った。

 そんなふうに思えるのはきっと、出立前にゆっくり、親子の時間をいただくことができたから。

 両親とは昨日、サラボナ東の橋の前でお別れした。

 ああやって見送られること自体は初めてではない。それでも、父に寄り添った母がひたすらに慈愛に満ちた眼差しで見つめてくれていたこと。母に抱かれたリリアンが、ずっと身を乗り出して私達を見送ってくれていたこと。

 相変わらず威厳に満ちた父の瞳だけが何故か、少しだけ、心許なく揺らめいていたこと。

 そんな二人の姿が、不思議なほど強く、瞼の裏に焼きついた。

 お歳のせいなのか、遠ざかる影は心細いほど小さく見えて。

 テルパドールへ向かったときは、帰還が前提の旅だった。

 もっとずっと昔、記憶も朧げな幼い頃、父に連れられて旅をした時も。修道院に向かった時も。

 いつかはこの街に……サラボナに、戻ることを約束された旅だった。

 ここに居合わせている皆さんにとっても、それは変わらないのでしょう。いつも通り、帰ってくることまで含めた旅路。けれど、私とテュールさんにとっては、違う。……いいえ、厳密に言うなら、テュールさんにとって『だけ』は、違う。

 今度のこの旅は、一度すべてを失くした彼が、真実、帰るべき場所を見つけるための旅なのだから。

「フローラ」

 つい考え事に没入してしまっていた。先ほどまでパトリシアちゃんを先導していた夫がいつの間にか後退して、ぼんやり歩く私の隣に並び、覗き込んでくれている。

 慌ててしゃんと背筋を伸ばし、笑顔を繕って彼に向けた。

「ご、ごめんなさい。何かありましたか?」

「ううん。ちょっと疲れちゃったかなと思って。大丈夫?」

 いつもと変わらず、穏やかに話しかけてくださる。砂漠に入ったばかりの頃、黙って無理をしてしまったから気を遣わせているのかもしれない。申し訳なく思いながらも微笑み、頷いてみせた。

「ご心配をおかけしてしまったでしょうか。大丈夫です、元気ですわ。歩いていたらつい、物思いに耽ってしまって」

 正直に告げたら、ふ、と小さく空気を揺らしてテュールさんがやわらかく微笑んだ。

 ────大人びた、穏やかなその表情を目にしただけで、私の心臓はとくんと甘く跳ね上がる。

「わかる。僕も時々、思考に没頭しちゃうことがある」

 密やかに囁かれた、そんな何気ないお返事にも、頰がほんのり熱を持つ。

 もう結婚してだいぶ経つのに、そうやって微笑まれるたび、私はまた彼に恋をしてしまう。何度も、何度も。

 またどきどきしたと伝えたら、呆れて笑われてしまうかしら。

「何か、悩んでる? 言いたくなったらいつでも話してね」

 一瞬うっとり惚けてしまった私を、心配そうに覗いてくれる。その優しさが愛しくて、でもぼんやりした顔を見られたのは何だか気恥ずかしくて、急いで首を振った。何か答えようとして、さっき取りとめなく巡らせていた思考をぽろりと口にする。

「悩みと言うほどのことではないのです。ただ──皆さんとは、帰る先が違う旅なのだな、と思って」

 言ってしまってから、あ、と口を噤んだ。今の言い方では、船員の皆さんと一緒に帰れないことが嫌だという風に聞こえてしまったかも。

 果たして、夫は軽く目を瞠ってから、どこか申し訳なさそうに眉尻を落とした。

「……寂しい?」

 力無く呟く彼を、地面に落とされた視線を遡って振り仰ぐ。

 私の前でだけ、寂しがり屋のテュールさん。人前でも臆さず、そんなお顔をするようになったのはいつからだろう。

 何も躊躇うことはない。溢れる想いをそのまま、偽りのない笑顔に込めて。

「テュールさんと同じところに帰れるなら、寂しいことなんて何ひとつありません」

 明るく、迷いなく答えれば、テュールさんはほっと頬を緩めて、照れ臭そうに微笑んだ。

 誰かと、大切な方と同じ場所に、一緒に『帰る』ことが、こんなにも幸せだなんて知らなかった。

 あなたが教えてくださったの。こんな、切ないほどの歓びのすべてを。

「あの、前に戻られなくてよろしいのですか? 私は本当に大丈夫ですから」

「パトリシアはガンドフとピエールが見てくれてるから、平気だよ。僕がフローラの側に居たいんだけど、だめ?」

 優しく囁かれて、胸にまたほわりと温かなものが灯る。嬉しい気持ちをそのまま微笑みに変えて向けたら、テュールさんもまた、幸せそうに目を細めてくださった。

 最近の私達は、視線を交わすだけでこんな風に通じ合えることが増えた気がする。

 幸せに浸っていたからか、いつからか背後を歩くイヴァン様にじっと見つめられていたことにも気づかなかった。さりげなく掬い取られた手が彼の温かい掌に包まれて、どちらからともなく指を絡め合う。甘やかな幸せにもう一度はにかんだ、次の瞬間。

「……お前ら、よくこの甘ったるい空気に耐えられるな‼︎」

 雷の如く厳つい怒号が唐突に響き渡り、思わずびくりとすくみあがってしまった。足元のぬかるみもあってうっかり転びかけたところを、テュールさんがすぐに抱き留めてくれる。慌てて御礼を言おうとしたが、更なるイヴァン様の追撃に、私の声はあっさりかき消されてしまった。

「おい小僧。お嬢様に向かってえらく浮ついた台詞を吐いとるようだが、他の女もそうやって口説いちゃいねえだろうな⁉︎」

「なっ……僕がこんな風にするのはフローラにだけです‼︎」

 瞬時に首まで真っ赤になったテュールさんが、間髪入れずに叫び返した。え、と驚いて顔を上げれば、周囲の船員さん達がそれぞれお顔を緩ませながらこちらを見たり、敢えて背けたりと、なんとも生温い空気を醸していたのだった。前方では手綱を持ったピエールさんが、にやにや顔を緩ませたスラりんちゃん達と一緒に肩を震わせていらっしゃる。そんなに恥ずかしい遣り取りはなかった気がするものの、今までずっとそんな目で見られていたのかと思ったら────

 激しい羞恥がぶわっ! と頭の天辺まで駆け上がった。

「俺らが知る限り、テュールさんがお嬢様以外の女子に色目を使ってるとこなんて見たことありませんて」

 船員さんの一人がどこか呆れたように笑って応じたが、そりゃあの船に他に女は乗っとらんからな、とイヴァン様は尚も苦虫を噛み潰したお顔をなさっている。

「イヴァン様。……テュールさんは私を、とても大切にしてくださって……います、から……」

 恥ずかしさのあまり頬を抑え、ぼそぼそとなんとかそれだけ伝えたけれど、イヴァン様は寧ろ射抜くような眼でぎん! と私達を睨み据えた。思わずびくりと背筋を伸ばした私に、彼は至極丁寧な口調に凄みを篭めて告げる。

「お嬢様。もしこの男に泣かされることがあれば、すぐお父上か我々に。全力で制裁してご覧に入れますからな」

「勘弁してください……それ、ほんとに命がいくつあっても足りない……」

 心当たりがあると言ったお顔でテュールさんは頭を抱え、イヴァン様はますます眼光を鋭く光らせる。泣かされるなんて、と思ったが、ふと思い返せば結婚してこのかた、涙腺が緩みっぱなしの私は彼の前で何度も泣いてしまっている。もう赤らんでいるのか青褪めているのか、自分でもわからないままに両手で顔を覆った。

「お嬢様? どうなすった。おい貴様、まさか本気でお嬢様が言葉にも出来んことを……」

「ち、違います! テュールさんは本当に、何も酷いことなんてなさっていませんからっ!」

 血の気の引いたお顔で視線を彷徨わせるテュールさんに代わり必死に声を上げたら、イヴァン様は夫の横顔をじろりと睨んだあと、小さく舌打ちをして後方へと離れて行った。

 ……この遠慮のない遣り取りは、やはりあの大鮹討伐があってのことなのでしょうか。大人げないなんて言ったら失礼だけれど、イヴァン様がまるで子供のようにああして戯れてらっしゃるのを見ると、何だか不思議な気分になる。私がずっと幼い頃から、とても頼り甲斐のある大人のおじさまだった方だから。

 それにしても、養父であるルドマンより、イヴァン様の方がなんだか私の父親らしいような。いいえ、どちらかといえば祖父と孫娘に近い感覚なのかしら? 父よりイヴァン様の方が、ずっと過保護な気がするもの。

「やはり儂がストレンジャー号に乗る方が良い気がしてきたな。おい、船長代わるか、フォスター」

「現役に返り咲かれるのは結構ですが、組合の事業がやっと軌道に乗り始めたとか仰ってませんでしたか。海運漁連の要が、そんな簡単にシマを空けるもんじゃありませんよ」

 すかさずフォスター船長から冷や水を浴びせられ、憮然とするイヴァン様を見て、今まで黙って見守っていた船員さん達がついに噴き出した。それでも船長達の手前、必死に笑いを堪えていたようだが、集団に伝播した衝動は簡単には収まらない。

「……お前ら、帰って来たらたっぷり可愛がってやるから、精々楽しみにしておけよ……?」

 魔神の如く怒気を漲らせ、イヴァン様は腹の底から凄みを帯びた声を発する。今笑った奴は覚えたと言わんばかりに船員さん達を睨みつけて、不幸にも目が合った数人はあからさまに震え上がってしまったのだけれど。

「……っふ、ふふ……」

 申し訳ないと思いながらも、そんな皆さんを見ていたら、ついに私も堪えきれなくなってしまって。

 込み上げる笑いを何とかして抑えたいのに、テュールさんまで小刻みに背中を震わせ始めた。ちらりと隣を見上げれば、真っ赤なお耳を背けて大きな手で口許を覆い隠す。今、絶対笑いを噛み殺していらっしゃる。

「おい、小僧────」

「観念したらどうです。お嬢様の笑いを戴いた時点で勝負有り、ですよ」

 額にぴくぴく青筋を浮き上がらせたイヴァン様が、テュールさんの背を再び睨みつける。が、それをたしなめたフォスター船長もまた、さも可笑しそうに口許を歪めていた。空は相変わらずの鈍色だったが、ストレンジャー号の船長が陥落したことで、数台の馬車を囲んだ一行は一転、曇天をも晴らす和やかな笑いに包まれた。

「……ったく。いいからお前ら、全員無事に帰って来い」

 はぁ、と毒気を抜かれた溜息を吐き、がしがしと乱暴に頭を掻いて、イヴァン様がそっけなく言い捨てる。

 ばつが悪そうなその表情からは、恐らくこのまま一年以上、ポートセルミに帰れないであろう船乗り達を案じていらっしゃるご様子が見てとれて。

 やっぱり、お強くて優しい、素敵な方です。私達の船長様は。

 どうにも地面が悪くて、予定よりずいぶん時間がかかってしまっている。結局もう一晩、この大所帯で野営をしてから翌日、船に乗ることになった。

 下腹部の鈍い痛みはまだ重く揺蕩っていたものの、皆さんの朗らかな雰囲気に紛れて、いつの間にか、ほとんど気にならなくなっていた。

 

 

◆◆◆

 

 

 翌日、無事ストレンジャー号に到着した私達は、イヴァン様と街に戻る皆さんに見送られ、ようやくサラボナ北東の岸を離れた。

 ここは本来、船を係留するのも難しい浅瀬だそうで、昨年の婚礼前、父の依頼を受けてポートセルミの皆さんや周辺にお住まいの大工さん達が短期間にも長い桟橋を造り、小さな船着き場の体裁を整えてくださったのだと言う。元々ラインハット王国の賓客を迎える故の火急の措置だったそうだが、今回は更に私達のために、馬車を載せることまで見越して、岩だらけの地面もある程度均してくださっていた。本当に、いくら感謝してもしきれない。

 モン・フィズの港でストレンジャー号を降りたのが、昨年の十月末のこと。

 それからたった二ヶ月しか経っていないけれど、この船の上に居ることがひどく、懐かしく感じられた。

 乗船して早々、テュールさんはお仲魔の皆さんと共に魔物番を請け負い始めて。私も再び料理長にお願いして、厨房の手伝いをさせてもらえることになった。

「お嬢様がいらっしゃると、私の手抜きがバレちまうもんで……お嬢様が丁寧な分、粗が目立つんですなぁ」

 そう言って料理長は苦笑いなさるけれど、私が見た限り、別段手抜きなさっているとは思えない。特にこの方の包丁捌きは見事なもので、釣りたてのお魚がこの方の手にかかるとあっという間に見事なご馳走に変わる。淡白なお魚を薄く切って、軽く炙っては手際良く、花びらのように盛り付ける。酸味の効いたソースを回しかければ、舌でとろける極上の逸品の完成だ。蓮の花のような美しい盛り付けが、私達の目をも楽しませてくれる。

 街で食べるお魚はよく火を通すのが普通だから、さほど火を通さなくても食べられる方法があるなんて全然知らなかった。

「火加減も絶妙ですけど、こんな薄さによく下ろせますわね……素晴らしいです。まだまだ修行が足りません、私」

「そりゃ、これでも私は三十年近く船の上で魚を捌いておりますからな! いくらお嬢様といえど、そう簡単に習得されては私の立つ瀬がございません」

 ナイフの扱いだけはどうにも苦手なのだ。昔、指を大きく切ってしまってからというもの、その時の恐怖を未だ払拭しきれなくて。思わずしょんぼり肩を落とした私を見て、料理長と、その補佐をしている船員さん達は揃っておおらかに笑う。

「ですが、お嬢様はなかなかどうして、料理に関しても造詣が深くていらっしゃる。エストアに着かれるまでに、我々も大いに学ばせていただきたいもんです」

 そうは言っても、私の知識は修道院で学んだ基本的なことと、ルドマン家のシェフに教わったものだけ。それでも、基礎が出来ていると判じて頂けたなら嬉しいと思う。「日々研鑽を積まれている皆様にそう仰って頂けて、大変有り難いことです。お邪魔にならないよう努めますので、何卒よくよくご指導くださいませ」と頭を下げれば、皆さん困ったように苦笑しながら顔を見合わせていらした。

 やっぱりお邪魔かしら、とちくりと胸が痛んだけれど、それ以上皆様から何か含みある言葉をいただくことはなく。

 いつも通り数品のメニューを任せていただいたり、盛り付けや配膳を手伝ったり。意見を請われて私なりの提案をお返ししたりと、そんな風に順調に、厨房の雰囲気に溶け込んでいっていた。受け入れていただけていた、と思う。

 テルパドールでは、未知の未来をあんなにも恐れていたと言うのに。順風満帆、旅立ちからほんの数日の私は、穏やかな日々の始まりにすっかり気を緩めてしまっていた。

 

 

 

 サラボナの岸辺を発って五、六日経った頃。

 テュールさんが熱を出してしまわれた。

 その晩は酷い冷え込みで、明け方、魔物番から戻った彼は船室に戻るなりくしゃみを連発した。いつも通り早く目を覚ましていて本当に良かったと思う。この時間はさすがに冷えるね、と笑った彼は全身すごく凍えていたけれど、額に手を当てると明らかに尋常ではない熱をもっていた。慌てて薪を運び入れ、室内を暖める。シーツに潜り込んだ彼の冷たい手足に温石をあてて熱が上がりきるのを待ち、その後はうとうと眠る彼の隣に侍って汗を拭くなどしていた。

「ごしゅじんさま、ぐあいわるいのー?」

 朝の挨拶がてら、看病の合間にスラりんちゃん達がぴょこぴょこ覗きに来てくれる。「今朝方のあるじ殿はやや鈍ったかのように見受けられたが、ふうむ、なるほど。これがカゼというものか」と寝顔をしげしげ覗き込むピエールさんは何故か妙に興味深そうにしてらして、その枕元でガンドフさんがこくこく頷いてらっしゃった。

 お二人もご一緒に魔物番をなさっていたのね。そういえば、ピエールさんはテュールさんから贈られた剣をとても喜んで、いつも以上に張り切って魔物番をしてくださっていると、先日テュールさんが笑いながら教えてくださったのだった。

 砂漠では私が体調を崩してしまって、ご迷惑をかけ通してしまったから。悪い病だったらどうしよう、という不安はもちろんあったのだけれど、リーシャさんの先読みで彼に危険は少ないと聞かされていたからだろうか。そこまで病状に怯えることもなく、寧ろようやく妻らしいことが出来た私は、恥ずかしながらも相当浮かれてしまっていたと思う。

 テュールさんは慣れぬ高熱にうなされながら、ちょくちょく目を覚ましていらした。とろんとした目つきで寝台から見上げてくる様は、逞しい体躯とは裏腹に、母親に甘える幼子のようでお可愛らしい。誰よりお側で看病できることが嬉しくて、つい甲斐甲斐しく世話を焼いてしまった。

「あんな幸せそうに走り回られてちゃ、手伝います、なんて軽々しく言えないよなぁ……」

 ああくそ、俺もあんな献身的な嫁さんが欲しい! などと船員さん達に噂されていたとは露知らず、その日はずっとテュールさんのためだけに駆けずり回っていた。薪をもらって運んで、消化の良いリゾットを作って、汗をかくたび着替えを手伝って。時折船員さんが交替を申し出てくださったけど、皆さんは私と違ってお仕事を抱えていらっしゃるのだからと御礼だけ言ってお断りした。シャツの洗い替えが足りなくならないよう、テュールさんが眠っている隙に急いで洗って干すことの繰り返し。忙しい一日だったけれど、全て愛しい夫のためと思えば何も苦にならない。

 仲魔の皆さんに教えていただいて、普段テュールさんがなさっているパトリシアちゃんのお世話にも挑戦した。本来、馬は船の揺れにとても弱く、またきちんと歩かせないと体を悪くしてしまう。私の覚束ない手つきでは不安だったでしょうに、おとなしい気質のパトリシアちゃんは嬉しそうに鬣を梳かせてくれたし、ピエールさんに補助してもらいながら少しだけ、船室内のお散歩もさせてくれた。階段をあんなに上手に登り降りできるなんて全く知らなくて、びっくりしてしまった。

 まだまだ知らない、見えていなかったことばかり。改めて、彼が普段から色々な方面に気を配っていることを知らされる。

 その晩にはもう、テュールさんのお熱はほとんど下がってぶり返すこともなかった。夕食のリゾットをきれいに平らげた彼が「寒気もないし、もう大丈夫そう。本当にありがとう、フローラ」とはにかみながら言ってくださる。念のため今夜はベッドを離した方が良くない? と心配してくださったけれど笑って首を振り、いつも通り彼の側に寄り添って、優しい鼓動を感じながら眠りについた。

 夜半、何度か彼の様子を確かめたけれど、苦しげにしていることはなく、本当に安堵した。

 やっぱり、鍛えてらっしゃる方は回復がとても早くて感嘆してしまう。翌朝、普段と同じ時間に目覚めた彼は少しくしゃみが出る以外、本当にいつも通りのテュールさんだった。

 すぐにでも動けると彼は言ったけれど、バルクさんをはじめ他の船員さん達の勧めもあって、念のためもう一日、この部屋でゆっくり過ごされることになった。

 皆様には申し訳ないけれど、思いがけず夫婦の時間をいただけたことは嬉しい。前日よりのんびりと彼のお世話をしながら、補佐的な雑用はなるべく多くこなせるよう夜まで奔走した。

 しかし、張り切りすぎたつけは程なく、倍返しで己に降りかかることになる。

 発熱から三日目、夫はすっかり普段通りの生活に戻った。

 日中の魔物番を引き受けた彼をいつものように見送った私は、何となく鳩尾と下腹が重いような、言いようのない不快感を覚えていた。

 ────きっと、テュールさんのお風邪がうつってしまっていたのね。船の中でもっと広がったら大変、今日は出来るだけ大人しくしていよう。

 テュールさんはえずいてなかった気がするけれど、タイミング的にそうとしか思えなかったのだ。その時点では本当に微妙な違和感でしかなかったけれど、不安に思った私はフォスター船長と料理長にだけ、自らの不調を告げた。お二方とも無理をしないよう言ってくださり、お言葉に甘えて、不調の間は厨房の仕事も控えるお約束をした。

 まさかそれが、こんなにも長く続いてしまうなんて。

 軽い症状だから、休んでいればすぐに治まるだろう。そう思って、部屋の中でできる繕い物などを引き受けて大人しくしていたけれど、お腹の不快感はなかなかすっきり解消してくれなかった。気分転換にお気に入りの芳茶を淹れてみても、今は湯気を嗅ぐだけで、なんとも言えない嘔吐感が増してしまう。

 テュールさんが良くなられて、ほっとして気が抜けてしまったのね。意識の緩みが身体に出たんだわ。もう、本当にまだまだ未熟なんだから。

 誰もいない船室に一人、閉じ篭っていたことも沈む気持ちに拍車をかけた。二日間たっぷり独り占めしたのだから、我が儘を言っては駄目。病み上がりのテュールさんにこの上、要らぬ心配をかけたくない。

 昼食も食べられる気がしなくて辞退したけれど、幸い、夕方には胸のむかつきが幾分落ち着いてきて、務めを終えた夫をいつも通り出迎えることができた。

「フローラ、体調良くないんだって? 気づかなくてごめん。僕がうつしちゃったんだよね」

 戻り際に船長から伝えられたらしく、テュールさんは酷く申し訳なさそうに私の頬を撫でてくれた。

「心配させてしまってごめんなさい。本当に、大したことはないんです。もっと拡がってはいけないと思って、念のため、一日お休みをいただいていたの」

「うん、無理しないでくれて良かった。夕飯は入りそう? 今日はお昼も食べてないって聞いたよ。なんだったら、こっちに少しもらってこようか」

 フローラみたいに僕が作れれば良いんだけど、とテュールさんが口籠もった。お料理は不得手だと仰る彼が、そうやって気遣ってくださることが嬉しくて、自然と相好が崩れる。

「ありがとう、ございます。……では、あの、スープだけ、お願いしてもよろしいですか?」

 素直に甘えてみたら、彼も嬉しそうに表情を弛ませた。

「もちろん。僕の分も貰ってくるから、ここで一緒にゆっくり食べよう」と嬉しいお誘いを残し、たった今来たばかりの扉の向こうへとテュールさんが消えていく。

 ストレンジャー号の皆さんは楽しい方々ばかりで、皆さんと賑やかに過ごすのもとても好きなのだけれど、やっぱり私は、大好きな夫と二人きりで過ごせる時間が何よりも嬉しい。どんなに短い時間でも。

 程なく、バスケットと小さな手鍋を携えた夫が戻ってきた。特別船室一階のテーブルにお料理を広げていたら、また少しだけ吐き気を催してしまう。ゆっくり、息を吐いて、自分のスープ以外はさりげなく、対面の彼の席に寄せて置いた。飲み物の準備をしていた彼は幸い私の不調に気づかなかったようで、その背中を盗み見ながら、内心ひどくほっとした。

「他にも欲しいものがあったら、遠慮なく言って? 無い袖は触れないけど」

 船上だからという意味で言ってくださったのはわかったのだけれど、優しくしていただけて嬉しい私は、図々しくもつい我が儘を零してしまう。

「あの、外に出たい……です。ずっと閉じ篭っていたので気が滅入ってしまって。でも、一人でデッキに出るのはまだ不安で」

 おずおず訴えると、テュールさんはまた穏やかに笑って頷く。

「じゃあ夕食の後、暖かくして少しだけデッキに出よう。今夜は久しぶりに晴れてて、星が良く見えそうなんだ。あの星屑の路、冬には本当に見えないものなんだね」

「そうですね……ええ、私たちのいる場所によって星の見え方が大きく変わるのだと、昔聞いたことがあります。アルディラ大陸に近づいたら見えるかもしれませんよね。私も星の位置までは、詳しくはないのですけど」

 他愛無い話で紛らわせていただけるのが嬉しい。彼の手が触れたところから、昼間続いていた吐き気が少しだけ、薄れていく心地がした。

 テュールさんと同じ。安静にすればすぐに治まる。

 半ばまじないのように自分に言い聞かせていたけれど、残念ながら翌朝も体調はさほど上向かず、また引き篭もっている閉塞感からか、調子は悪くなるばかりだった。吐き気とは別に、何故か節々がしくしく痛む。日が昇るごとに妙な怠さも増してきて、終いには起きているのも辛くなってしまった私は、まだお昼だけど少しだけ、と自分に言い訳をしながら寝台に潜り込んだ。

 結局それを皮切りに、私は再び、砂漠以来の高熱を出して寝込んでしまったのだった。

 

 

 

 ……そういえば、月の障りがまだだったわ。

 熱でぼんやりする思考の中、ふと思い出したそれは、浮かんだ瞬間流れて泡沫の如く消えていく。

 忘れていいの、とまた、狡い私がそっと囁く。

 ────あの可能性に、全く思い至れなかったわけではなかった。

 それでも私は、きっとまだ直視したくない愚かしさのあまり、無意識裡に思考を蓋して、気づかない振りをした。

 覚悟は十分すぎるほどしてきたのに、いざとなったらどうしても、…………怖くて。

 その恐怖感を、朦朧としたまま思い込みに換えた。

 障りの周期が狂うほどの体調不良だなんて、情けないわ。足手まといにならないと言い切ったくせに、またこんなご迷惑をおかけするなんて。テュールさんのように早く、早く治すの。治らなかったら、途中で下船することになったり、やっぱり身体が心配で連れて行けないなんて言われたら。

 そんな焦りで、自分自身を埋め尽くした。なんて不安定、不健全な状態だっただろう。

 焦るばかりの私を、テュールさんはひたすら心配して見守ってくれていた。折角良くなったばかりなのに、再開したばかりの魔物番も他の人と交替して。

「気にしないで。僕が側で見ていたいんだから。僕もこの間フローラがずっとついていてくれて、すごく励まされていたし」

 これでも少しは看病に慣れたと思うよ、なんて戯けて言ってくださる。そんなことに慣れさせてしまったと思うと申し訳なくて、けど、落ち込んだ顔は見せたくない。これ以上心配をかけることはしちゃいけない。

 穏やかなテュールさんとは裏腹に、先日はどこか楽しげにテュールさんを見舞っていらした仲魔の皆さんが、今はひどく心配そうなお顔で、私を覗いてくださっていた。

「おっきしちゃ、だめよっ。ちゃんと、ねんねしてっっ」

 お見舞いの御礼を言いたくて、身体を起こそうとした私をしびれんちゃんが優しく諌める。額にぺとりと当てられた触手がひんやり気持ちいい。「ふろ〜らちゃん、おでこあつぅいぃ〜〜」ホイミンちゃんがふにゃりと泣きそうな声をあげれば、今度は反対側から「んじゃスラりんがひやしてあげるー!」と明るいスラりんちゃんの声が耳許に響く。

 ああ、私、なんて幸せなのかしら。

 大好きな皆さんに、こんなに気にかけていただいて。勿体なくて、畏れ多くて、────しあわせ。

「ああ、顔はほら、危ないから……スラりん、こっちにおいで。首とか、脇とかを冷やすといいんだってさ」

「わかったー!」

 熱いのは苦手なのに。きっと窒息を心配したテュールさんがスラりんちゃんを誘導してくださり、枕元に降りたスラりんちゃんが、ぷるぷるの軟らかな身体を首にぺたりとくっつけてくれた。

「……つめたくて、きもちい、です。ありがとう、スラリンちゃん。……はやく、治します、ね」

「ほら、フローラも。こういう時くらい頑張らなくていいんじゃなかった?」

 くすくす、どこか悪戯っぽい声と共に頭をそっと撫でられる。優しさが摩耗した心に沁みて、またどうしようもなく、泣きたい気持ちになってしまう。

 すき。大好き。

 全部言ってしまえたら。弱い自分が心の底で泣き言を訴える。未来視のこと、隠し通すと決めたこと、盾のことも、私自身のことだって。

 こわいの。何が起こってしまうかわからなくて。何もかも知って欲しいのに、あなたにだけはすべてを知っていて欲しいのに。あなたを欺くことになってしまうのが、つらい。いつまで言わずにいられるのか、心が折れてしまわないか、こわくてこわくてたまらないの。

 ────それでも、あなたの絶望が意識の淵をよぎるたび、少しだけ冷静になる。

 まだ、負けない。もっと、守り抜くために、強く。

 いつの間にかうなされていたらしい。ふと、温かい大きな掌が私の手を握ってくれていることに気がついた。ぼんやり瞼を持ち上げると、掌の主はとびきりやわらかく微笑んで私を覗き込む。

「ずっとこうしてるから。安心して、眠ってていいよ」

 ああ。

 優しすぎるその声を聴くと、全身を支配したあのおぞましさが緩やかに解けていく心地がする。

 そばに、いて。

 あなたが居てくださるなら、どんな悪夢にも耐えられるから。

「うん、大丈夫。ここに居るから」

 実際声にした感覚はなかったけど、うわ言が表に出てしまったのだろう。テュールさんがまた優しく、空いた手で額を撫でてくれた。それだけで私は安心して、少しだけ浮上した意識を再び、泥のような混沌の底へと落としていった。

 

 

 

 その後もうとうと眠り続けて、次の日の昼にはだいぶ楽になっていた。

 熱は下がったけど、鳩尾の不快感は消えてない。薬湯を飲もうとしただけでどうしてもえずいてしまう。折角バルクさんが調薬してくださったのだから、ちゃんと飲まないと。息を止めて、一気に飲み下した。

 喉を通し切ってそっと呼吸した瞬間、今飲んだものが込み上げて咄嗟に口を抑える。

「大丈夫?」

 吐かないよう必死に堪える私を、テュールさんが抱きとめて何度も背中を撫でてくれた。

「…………、すみませ……」

「いいって。横になるより、こうしてる方が楽だよね? 力抜いてて大丈夫だから」

 穏やかな声を聞いているとすごく安心する。彼の匂いがする胸許にくたりと体重を預けて、子供にするみたいに優しく肩を撫でてもらった。

「昨晩からまた揺れが強くなってるから、その所為もあるのかもね。マーリンも、下でまた潰れてる」

 可笑しそうに告げられて、つられて私もくすりと小さく笑う。

 神の地から吹き下ろす風が高波を呼んで、海は荒れているようだった。サラボナ側の海流は北へ向かって流れているが、その時とった航路沿いにさらに南へ行かせまいとする強い潮流が生まれていて、ストレンジャー号は流れに激しく抗いながら航行していたのだった。これを回避しようとするとセントべレス山に近づく他なく、テュールさんが強く反対したのだという。

「テュールさん。すみません、応援頼めますか?」

 そんな話をした数分後、船員さんが申し訳なさそうに夫を呼びにきた。頷いて、彼はすぐに私を寝台へ横たえる。「すぐに戻るから、休んでいてね。無理しちゃだめだよ」と優しく言いおいてから、剣を掴むと素早く船室を出て行った。

 扉を閉めてしまえば外の気配はほとんど伝わらない。思わず溜息が漏れた。皆さんが戦っていらっしゃる時に何もせず寝ているだけだなんて。父に知れたら、きっとまた呆れられてしまうわ。

 今は昼間のはずだけれど、船室に備え付けられた窓の外は、澱んだ分厚い雲のせいでひどく暗く見えた。

 まるで今の私の心のよう、或いは、私達の先行きを暗示しているような。

 頭を振って、思考を振り切った。今はとにかく、良くなることだけを考えなくちゃ。

 黙って思索に耽ったらまた嫌なことばかり考えてしまいそうで、楽しかったサラボナでの日々を思い出したりして必死に気を紛らわせた。私達の旅路を呪うような窓の外の暗雲はその日、ついに晴れることはなかった。

 

 

 

 さすがに、数日経てば治ると思っていたのだけど。

 潮流の所為なのか、それから暫くストレンジャー号の航路は極めて不安定なままだった。私には皆さん何も仰らないけれど、昼夜を問わず度々テュールさんが駆り出されていくのを見ていれば、魔物の群れと頻繁に遭遇していることもわかる。気が急くからか、テュールさんの言う通り船酔いが慢性化してしまったのか、私の吐き気もなかなかすっきり治ってくれない。

 それでも二、三週間経つ頃ようやく、発作的な吐き気がじわじわと収まってきた。油断するとぶり返してしまうから引き金になりそうな食べ物や匂いはなるべく避けて、けれど本当に少しずつ、いつも通りの生活が戻ってくる。ああ、一日吐きそうにならずに過ごせることが、こんなに有難いことだなんて。

 ほとんど一ヶ月ぶりに厨房に入れた時には感激してしまった。といっても調理や配膳の手伝いではなく、食後の皿洗いなら出来るかと、無理を言って入れてもらっただけなのだけれど。

 もう立っていられないほどの体調不良はないし、大丈夫だと思ったけれど、長く胃の不調が続いてしまった私をフォスター船長はじめ皆様が慮ってくださって。引き続き、繕い物や洗濯物の片付けなど、無理のないところで仕事を譲っていただけることになった。

 本当は何もせずゆっくりしていただいて構わないのですよ、と困ったように言われてしまって、寧ろ気を遣わせていることが申し訳なくなってしまう。

 もうこんなことがないよう、今後はますます、きちんと体調管理をしていかないと。

 だいぶ復調してきた頃、アルディラ大陸の入り口、モン・フィズ港に辿り着いた。まだ春にも遠い暦だけれどここは日中、過ごしやすいくらいに暖かい。テュールさんと手を繋ぎ、一面の砂と白い石造りの住居が並ぶ異国の景観を楽しんだ。久しぶりに、遠くまで旅してきたのだという充足感を得る。

 現地の方の中には、グランバニアを擁するエストア大陸についてご存知の方もいて、色々と興味深い話を聞くこともできた。

 少しずつ、現実味を帯びていく。夫の故郷。今や幻の、峡谷の奥地に眠る王国。

 船が物資の補充を終えるまでの三日間、常春の楽園のようなこの白い港町で、私は束の間、不安なことも気鬱なこともすべて忘れて、大好きな皆さんと共に穏やかな時を過ごしたのだった。

 

 

◆◆◆

 

 

 それからはだいぶ体調も落ち着いて、表向きは本当に普段通りに過ごせるようになった。これなら山越えも問題ないかしら、とほっとする。

 エストア大陸まで凡そ二週間ほどとなった、ある朝のこと。

 遭遇した深海竜の一群を問題なく退けて、私達はそれぞれが後片付けや朝の仕事準備に邁進していた。セントべレス山からだいぶ離れて、最近は私も甲板に長く出してもらえるようになった。もちろん一人では出ないようにしているし、帽子で頭を隠してはいるけれど。

「ねえ、ねえ。ふろ〜らちゃん」

 ひと段落ついて一度船室に戻ろうとしたところで、ふよふよとホイミンちゃんが近づいてきた。

 首を傾げて振り返ると、早速肩にちょこんと捕まり、ホイミンちゃんは可愛い声をこそっと潜める。

「あのね、……からだ、えっと、だいじょうぶ?」

 思わず、目を瞠った。臥せっていたのは数週間前のことだけれど、まだ調子が悪そうに見えたのかしら?

 本当はすっきり全快とは言えなかったけど、いつまでも心配をかけたくなかったし、一時期に比べたら全然我慢できる状態だったから。そこまで辛そうな顔はしていないつもりだった。

「はい、だいぶ良くなりましたよ。ごめんなさい、心配してくださっていたのね」

 身を屈めて、覗き込む。何か言いたそうにむにむにとお口を歪めるけれど、ホイミンちゃんはそれ以上何も言わない。

 少し不思議に思いながら、特別船室の扉を開けてホイミンちゃんを招き入れた。何か、他の人には聞かれたくない話があるのかしら、と思って。

「先程も、わざわざベホイミをかけに来てくれて。本当にありがとう、ホイミンちゃん。お陰で傷一つありません」

 こんな風に御礼を言うと、いつもなら得意げに旋回して見せてくれたりするのだけれど。やっぱりなんだか様子がおかしい。もじもじ、触手同士を絡ませながら、ホイミンちゃんはいかにも言い難そうに言い澱む。

「ん〜……うん、んっとね〜」

 何かしら。ホイミンちゃんは回復の名手だけれど、病気がわかるということはないはず。……もしかしてさっきの戦闘で、私が何か良くない動きをしてしまっていたのかしら?

 ホイミンちゃんは優しいから、私が恥をかく前にこっそり教えに来てくれたのかもしれない。そんな、独り善がりな早合点をしつつ告白を待っていた私の耳に近づいて────ふわふわ、優しいホイミスライムは、吐息だけの消え入りそうな囁きを密やかに、落とした。

 

「あのね。……さっき、ふろ〜らちゃんにまほう、かけたとき。ふろ〜らちゃんじゃない、なにかが……なかにいたような、きがしたの……」

 

 ────────どくん、と、

 喜びより先に、動揺が全身の血を逆立てる。

 漠然と、目を背け続けてきたものが。

 唐突に鼻先に突きつけられて、思考が目まぐるしく渦を巻く。

 だめ。だめ、落ち着かなくちゃ。今はまだ、駄目。

「……それは……、魔法を使う方なら、どなたにもわかってしまうものでしょうか。────テュールさんにも」

「ん〜ん!」

 震えてしまう声を叱咤して何とかそれだけ問いかけると、ホイミンちゃんはくるんっと宙を旋回した。触手をくねくね躍らせて、屈託なく否定の意を示す。

「マーリンなら、もしかしたらわかるかもだけど。ごしゅじんさまには、わかんないとおもう〜。すご〜く、ものすっっっ……ご〜〜〜くちっちゃい、なにかだったから!」

 ────っ、…………良かった。

 思わず、ほっとして肩を落としてしまう。深い安堵と同時にじわりと、言いようのない嫌悪感が体の奥底から湧き上がった。

 どうして、喜べないの。あんなに望んでいたくせに。

「あのね、あのね。ふろ〜らちゃん、もしかして……」

 そわそわと覗き込んでくれるホイミンちゃんから高揚した気配を感じて。彼の歓びに水を差さないよう、精一杯の微笑みを繕って向けた。

「……はい。そう、かもしれません、ね」

 ぱぁっ、とホイミンちゃんのお顔が輝いた。うわあぁ〜い‼︎ と今にも躍り上がりそうなホイミンちゃんを慌てて止めて、ばくばく弾けそうな心臓を必死に落ち着かせる。

 そうして、真剣に真っ直ぐに、ホイミンちゃんの眼だけを見つめて。

 ただ一つの懇願を、口にした。

 

「お願いが、あるのです。このことは……まだ、どなたにも内緒にしていただけませんか?」

 

 溢れんばかりの歓びにすっかり破顔していたホイミンちゃんは、一転、ぷくぅと青い頬を膨らませ、いかにも不服そうに小さな唇を尖らせた。

 普段あまり見せないその表情がとても可愛くて、真顔で覗き込んだ私の頬も思わず弛んでしまう。

「なんで〜? だれにも〜?」

「はい」

 もう一度、はっきりと頷くと、ホイミンちゃんはやっぱり納得いかない様子で、「でも〜〜」と口籠った。

「もう少し、時機を見て……私からお伝えしたいので。やっぱり、お医者様にきちんと診ていただいてからの方が、良いと思いますし」

 珍しく不愉快な顔を隠さないホイミンちゃんに、一生懸命言い繕う。無邪気に粘られるのは正直、辛い。私がとりわけホイミンちゃんに弱いことを、彼はちゃんと理解しているのだ。

「まだ、ちゃんと育つかどうかもわかりませんから。がっかり、させたく……ないんです。お願い、します」

 無意識に指を組み、祈るように訴える。必死だった。まだ、気が動転している。筋の通らないお願いをしていると、自分でもわかっている。

 んむぅ〜、と唸って辺りをふわふわ漂っていたホイミンちゃんが、こてんと青い頭を傾けて私を振り返った。どきりとまた心臓が叫んで、深く組んだ掌が汗ばむ。緊張のあまり、私は硬い微笑みを貼り付けたまま、黙って続く言葉を待った。

「にんげんは、そだつの、そんなにむずかしいの〜?」

「そう、ですね。魔物さんがどんなふうに育つのかはよく存じ上げませんが、人間は他の動物に比べてもかなり、時間を要するので。もう大丈夫、と言えるまでは数ヶ月……ええと、多分今から、サラボナにあった雪が全部溶けて、暑くなるくらいまでは……かかってしまうと思います」

 人間が扱う単位は魔物さんに伝わらないことが多いから、噛み砕いて話したつもりが大袈裟になってしまったかも。驚いたホイミンちゃんが愛らしい目をますます円くする。いえ、でもそれくらいかかりますよね。もし今授かったばかりだとしたら生まれるのは秋か晩夏でしょうし、マリア王兄妃殿下が確か七月と仰っていたから……

 そんな計算を、眩暈がするほど頭を回らせて弾き出す。そこまで大きな誤差はないはず、苦笑を返してもう一度、ホイミンちゃんのきれいな瞳を覗き込んだ。

「大丈夫ですよ。これまで以上に気をつけますから。王都に着けばきちんと診てもらえますし、そうしたら皆さんにもちゃんとご報告しますね」

 真摯に、落ち着いて伝えたつもりだったけれど。

 やっぱりホイミンちゃんには、取ってつけた言い訳など通用しなかった。

 

「んん〜……それならよけいに、みんなにいったほうがいいとおもうの。これからおやま、いくんでしょう〜? みんなできをつけたほうが、いいんじゃないの〜〜?」

 

「……、えっと」

 ホイミンちゃんは鋭い。いつもほわほわして幼い雰囲気に見えるけれど、実は状況を読む力にも、洞察力にも長けている。小手先の理屈など、こうしてあっさり看破されてしまう。

 どうしたら。なんて説明したら、いいの。

「…………テュールさんは、とても、お優しいから……このことを知ったら、グランバニアに行かれることを諦めてしまわれるかもしれません、よね」

 藁にもすがる思いで、苦し紛れに吐き出した言葉だったが、それがやけに腑に落ちたようで。ホイミンちゃんが「あ〜」としみじみ溜息を漏らした。それがあまりに無遠慮に聞こえて、思わず笑ってしまいそうになる。

 共感をいただけたことで気が大きくなって、もう勢いで、思いつくまま捲し立てた。

「もし、間違いなく授かっていたとして。今ならまだお腹も大きくなりません。今なら、今しか、山脈を越えられないと思うんです。もし本当に生まれる直前だったら、私もこんな我が儘は言いません。それに、……それに、もし先延ばしにして、無事生まれたとして……赤児を連れて山を越えることの方がずっと、難しいのではないでしょうか」

 ────パパス王は、生まれたばかりの御子息を連れて国を出られたと仰っていたわ。

 ふと、アイシス様のお話が脳裏を過ったけれど、気づかないふりをした。赤児のテュールさんお一人だけでもお連れになるのは楽じゃなかったでしょうに、身重の私が自重しないのは愚かだ。そんなこと、言われなくてもわかってる。

 置いていかれる。どのタイミングで知られても、いつか私は待つだけの女になる。そんな直感が、恐怖が、私を激しく慄かせた。嫌、我が儘だと言われても絶対に嫌。ずっと一緒に居られると思ったのに、今更離れ離れになるなんて耐えられない。数ヶ月もの間、彼が迎えに来てくれる日を赤ちゃんと二人で待つだけの日々。それが正しい選択だと、どんなに頭ではわかっていても。

 ……子供は、欲しいの。彼の赤ちゃんが欲しい気持ちに偽りはないの。

 ふむ〜、とまたホイミンちゃんが唸った。そんな横顔を眺めながら、私の頭は今、焦りながらもあらゆる可能性を壊しては組み立てることを目まぐるしく繰り返している。

 あくまでこれは、一つの仮説。

 もし、リーシャさんの先読みを知らなかったら。赤ちゃんを授かって、私達はその後、きっとどうしてた?

 アイシス様の助言をいただいて、テュールさんがグランバニアを目指さないことなど考えられない。当初は躊躇っていらしたけれど、父ルドマンもいつかは示唆するつもりでいたのだから、結局は遠からず、今のように故郷へ向かったと思う。けど、その途中で私の妊娠がわかって。私はそのことを、テュールさんに伝えるだろうか?

 ……伝えたと思う。何も知らなければ、多少悩んだとしても私はテュールさんに伝えるだろう。今よりもっと早く月のものが止まっていることに気づいて、モン・フィズでお医者様に診ていただいたかもしれない。二人の子だもの、隠そうなんてきっと思わない。ヘンリー殿下ご夫妻の慶事のこともあって、テュールさんも子を望んでくださっていると、ちゃんと確認しあってきたのだから。

 では、彼に伝えた、その後は?

 妊娠がわかれば、彼はきっと私に山越えをさせない。私もそれは承知の上で伝えるだろう。ごくごく普通に考えれば、旅を優先させてお腹の子を流すなんてこと、あってはならないもの。身重の妻という爆弾を抱えてグランバニアを目指すなんてこと、聡明なテュールさんはきっとなさらない。

 少なくとも私は、どこかで出産を待つことになる。……考えれば考えるほど、生まれた後も連れて行っていただける気がしない。一緒に行こうと言ってくださったテュールさんがやはり私を置いて王都を目指すのか、それとも私と子供が本当に動けるようになるまで数年先延ばしにしてくださるのかはわからない。けれどルーラがあるから、やっぱり、私達は待つことになるのではないかしら。

 リーシャさんは、子供が生まれるかどうかが視えない、と仰っていた。

 畢竟、リーシャさんが語ってくださった『悲劇』は、妊娠した私の滞在先……恐らくはサラボナ、もしくはエストア大陸のグランドウォール山脈に入る前の村。そのどちらかで起こる可能性が極めて高い。

 違いますか。リーシャさん。

 彼女が視た未来視と、今の私達の違いは、その先読みを私が知っているか、否か。

 彼ではなく『私』に知らせることで、残酷な未来を変えられる可能性を、わずかにでも見出していただけたのなら。

「生まれてしまったら……いえ、妊娠したことが知られれば、私はもう、連れていっていただけなくなるかもしれない。……サラボナに、戻らなくてはならないかもしれない。これが、皆さんと一緒に旅できる、最後の機会かもしれないんです……」

 今、サラボナに戻るわけにはいかない。絶対に。

 情に訴えてでも踏みとどまらなくては。もう、必死だった。それでも尚、ホイミンちゃんは心配そうに私を見つめて何度も「うう〜〜〜ん」と唸ってくれていたけれど、駄目押しで口にした最後の願いが、ついに彼の信念を動かしたようだった。

「……叶うなら、彼の故郷で……産んであげたいのです。この子の、お父さんが……生まれたところで」

 言葉にしながら初めて、不思議な感慨が湧き上がる。

 一瞬過ぎった切なく温かい衝動に引きずられて、思わず愛しく腹部を撫でた。それと同時に、ホイミンちゃんがまんまるの目を大きく見開いた。ぱちぱち、何度か瞬きして、私のお腹と顔を交互に見遣る。

 やがて、長くゆるい息を吐いて。ホイミンちゃんが私の周りをくるくると舞った。

「ほんとに、ほんと〜〜……に、だいじょ〜ぶ?」

 ふよふよ、尚も逡巡しながら、神妙な顔つきで問うてくれるホイミンちゃんに、力強く首肯を返した。

 もう一度、弱い溜息を零して。にへ、と困ったようにホイミンちゃんが笑う。

 泣きたくなるような、よく知っている誰かに似た、とても優しい微笑みだった。

「じゃ、いまはホイミンとふろ〜らちゃんだけの、ひみつ?」

「……はい。秘密、です」

 安堵した所為かしら。張り詰めた感情が脆く、ほつれてしまいそうになる。ふわふわの黄色い触手を手に包み込んで、そっと握った。今にも溢れそうな涙を、唇を噛みしめて飲み込んで。

「ありがとう。ホイミンちゃん……」

 やっと、辿々しく御礼を伝えたら、ホイミンちゃんはいつもと同じ可愛い笑顔を作って、努めて明るく私をたしなめてくれた。

「んも〜、むりしたらごしゅじんさまにいっちゃうからね! だからぜったい、むりしないでね〜!」

 どうして、そんなにも優しいの。

 不器用な微笑みを繕って頷くばかりの私に、ホイミンちゃんはもう一度、照れ臭そうに笑ってくれた。

 それから、握った手を解いて、逆にたくさんの触手でぎゅうっと握り返してくれる。

「……ホイミンも、まもってあげる〜〜!」

 触手が離れていくと同時に、ちょっと恥ずかしそうに、ぽつりと小さく呟いて。

 えへへ、と今度こそ晴れた空のように鮮やかに笑ったホイミスライムは、くるりと室内を旋回した後、器用に開けた窓の隙間から音もなく出て行った。

 

 

 

 ホイミンちゃんを見送って、一人になったら少しだけ泣けてしまった。濡れた瞼を拭い、改めて、すっかり混乱してしまった頭の中をひとつずつ、ゆっくりゆっくり整理する。

 時間が経って実感が湧くどころか、未だ全く現実味がなかった。本当に、今、私の中に?

 へなへなと座り込み、お腹を摩る。ついに始まってしまったという思いと、実感を持てない情けなさと、ほんのわずかな高揚感────そう、高揚と。

 前回の月の障りは、テルパドール王都に着いた頃。十二の月の初頭だった。

 今は、二月。二の月が後少しで終わる頃。

 いつもみたいに、単に遅れているだけかもしれないけど。

 ……いいえ。だったらわざわざ、ホイミンちゃんが教えに来てくれた道理がない。回復魔法を行使した時、その術に特化したホイミンちゃんだからこそ気づいたのだ。私の中に、私のものではない生命反応があることに。

 テュールさんが風邪を引かれて、お世話をして。その後私も体調を崩して、熱が下がった後も吐き気が治まらなくなってしまった。風邪がお腹に降りてしまったのか、それとも今更船酔いだろうかと落胆しつつ、皆さんに心配ばかりかけながらも、今日までなんとかやり過ごしてきた。

 思えば、だいぶ落ち着いた今でも食べ物の匂いが引き金で吐き気を催すことが多い。単にお腹の不調の所為だろうと思い込んでいた、けれど。

 

「……本当に……ここに、いるの?……」

 

 恐る恐る、両手で抑えて呼びかける。

 まだぺちゃんこの、貧相なお腹からはもちろん、返る声などなかった。

【挿絵表示】

 

 それから数日後、船室でマーリン様の魔法講義の準備を整えていたところに、束の間見張りを抜けてきたというテュールさんがひょっこり顔を出した。

「あのさ。変なこと訊くけど……月のあれ、ちゃんときてる?」

 躊躇いがちに告げられたその問いに、一瞬心臓が凍りつく。

 落ち着いて。まだ、ホイミンちゃん以外に知っているひとはいない。ホイミンちゃんは言わないと約束してくれた。テュールさんはご存知ない、はず。

 動揺が、表に出ていないだろうか。冷えゆく内心をひたすら叱咤しながら、いつもの顔を装って、首を傾げた。

「はい、来て、おりますが……それが、どうかなさいました?」

 白々しい己の声が、耳の中、残酷に反響する。

 ……こんな声で、嘘をつける人間だったの?

 私は。

「そっか。いや、フォスター船長にさっき、もしかしてご懐妊では、って言われたんだ。ほら、妊娠すると悪阻があるっていうし、フローラもずっと吐き気が続いてたみたいだから」

 純粋なあなたは、私に今、嘘をつかれたなんて思いもしない。拍子抜けした様子で頭を掻いて、どこかばつが悪そうに目を逸らす。

 そんな仕草にほっとしてしまう自分が、浅ましくて、腹立たしい。

「……お詳しいのですね。殿方はそういったこと、あまりよくご存知ない方が多いのだと思っていました」

「あ、うん。いや、思いついたのは船長なんだけどね? 僕はついこないだヘンリーに少しだけ教えてもらって、ほら、あの時マリアさんの話もしてたから、言われてみればって」

 何故かしどろもどろ、理由を述べてくださる夫を微笑ましく見つめた。本当にお可愛らしい方。きっとあなたは、いつか子を授かるかもしれない私の身を慮って、あの日殿下に教えを乞うてくださったのだろう。

 そんな純粋な誠意を、私は今、偽りの微笑みで無情に踏み躙っている。

「残念ながら、違うと思います。吐き気も、もう治まっていますし。……やはり、風邪だったのだろうと」

 これも嘘。ひと月前ほど酷くはないけれど、本当は今も、ちょっとした瞬間に嘔吐感が込み上げる。顔に出さず、誤魔化すことに慣れてきただけで。

 最近は眠気も強くて、昼間一人でいると、椅子に腰掛けたままうたた寝してしまったりする。せっかく一緒にベッドに入れても、テュールさんの入眠を待たずに寝入ってしまうことばかりで。

 ────気づかないで。どうか、それ以上踏み込まないで。

「お気遣い、ありがとうございます。もしそのような変化がありましたら、真っ先にテュールさんにお話ししますね」

 ……今、私はどんな醜い笑みを、彼に向けているのだろう。

 有無を言わせず微笑んで、強引に話を終わらせた私を、テュールさんがほんのわずかに悲しげな顔で見つめる。……本当に一瞬のことで、彼もまた、いつもの穏やかな微笑みで頷いてくれた。

「ん、わかった。……変なこと訊いてごめんね」

 勉強頑張って、と最後に私を優しく労って、テュールさんが去っていく。閉じられた扉を茫然と見つめながら、私は込み上げる遣る瀬なさを、唇をきつく、きつく噛み締めてやり過ごそうとしていた。

 

 わたしも、楽しみだったの。

 あなたの赤ちゃんを授かれること。その奇跡を、歓びを、あなたと二人で分かち合えること。

 すごく、すごく、ものすごく……楽しみにして、きたのに。

 

(……ごめん、なさい……!)

 胸を掻き毟って。言葉にできない、ひたすら苦しいばかりの謝罪を、心の奥に葬るように、何度も何度も繰り返す。

 寂しいお顔をさせた。

 一番喜んで欲しいひとに、嘘をついた。

 こんな気持ちで授かりたくなかった。

 本当は婚礼だって、あんな気持ちで挙げたくはなかったのに。どうして、私、こんなことばかり。

 考えたって仕方ないのに、そんな鬱屈したものが目まぐるしく自分の中に渦巻いて止まらなかった。幸せなのに、幸せだから、幸せを幸せのまま享受できない苦しさが積もって積もって、少しずつ私を、息もできない毒の底へと沈めていく。

 溢れそうな感情をぐっと堪えて、周りに誰もいないことをよく確かめてから、そっと、かすれた声で自分のお腹に呼びかけた。

「……ごめんなさい、ね。せっかく……来てくれたのに」

 淡い淡い囁きはもちろん、ただの私の独り言でしかなく。

 応えるひとなどいない。私だけの広い部屋に、呟きはあっという間に霧散して消えていく。

 自覚なんて、まだ全然出来てない。足りない、けど。

「こんな、弱気じゃ……駄目よね。あなたの、お母さんなのだから」

 何も感じない下腹部を撫でてもう一度、優しく囁きかけたら、少しだけ、気持ちが強くなった気がした。

 そう。私には、塞ぎ込んでいる暇なんてない。

 強くならなくては。今より、もっと。自分の身を守れるよう、この小さな命を失わずにいられるよう。

 愛しい人のそばで生きていける、この幸せな日々が、無情に断ち切られることのないように。

 テルパドールを離れた日、アイシス様は何もかも見透かす微笑みで私達を見送ってくださった。

 最後に目が合った時、すべてわかっていると言うように深く、頷いていらした。

 リーシャさんが私だけに、未来視を語った理由。

 アイシス様からそのことについてのお話はなかったけれど、あの方が何もお気づきでなかったはずがない。

 それが、すべて。誓いを、今一度この胸に反芻して、独りぎゅっと、お腹を抱く。抱きしめる。

 何のために託されたの。

 あなたに、どんなに嘘をついても。

 不幸にはさせない。絶望は私が遠ざける。守り抜いてから喜べばいい。糾弾されたって構わない、この子も、テュールさんも、私が守る。絶対に────

 

 

 

 あなたを、

 私が独りにしない。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。