Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】   作:サクライロ

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#3. 春来

「うわ。いきなりこれか」

 グランバニア王国を擁する峻険な大地が目前に迫った朝、エストア大陸は桶をひっくり返したような豪雨に見舞われていた。

「ひっどい雨ですねぇ……雷も鳴ってら」

 甲板を、海面を。重い雨粒が抉るように叩きつける。石礫のような雨の勢いが凄まじくて、おいそれと外に出られない。

「せめて、もう少し天候が落ち着いてからお発ちください。皆様に何かあってはと思うと、気が気じゃございません」

 こんな荒れ模様にあっても落ち着いた、フォスター船長の低い声が心地良い。暗い窓の外から室内へと視線を移すと、同じく外の様子を窺っていた船長もまた、白い髭を撫でつけながら僕を見た。

「本当に、戻ってよろしいのですね?」

「ええ、僕には転移魔法がありますし。それより、帰路もどうかお気をつけて……こんな遠くまでお送りくださり、本当にありがとうございました」

 深く頭を下げれば、微笑んで首を振ってくれる。「テュール殿の伴をしたお陰でアルディラに二度も寄ることができましたし、ポートセルミ籍の船がエストアに辿り着いたのは大旦那様の若き日以来の快挙です。全く、ストレンジャー号は今や、世の船乗り達の羨望の的ですよ」と、冗談めかした世辞をくれた。

 帰りの航路はどうするのか訊くと、このまま内海を一周する方向で考えているという。

「通れるかはわかりませんが、一度オラクルベリーの方に抜けてみようかと思っております。昔、このすぐ北のあたりに手のつけられん魔物が棲んでおりましてな。パパス殿とストレンジャー号が行き合ったのがちょうど、この辺りでして」

 オラクルベリーと聞いて、居合わせた数名が嬉しそうに顔を見合わせた。その中には以前、かの街への一時帰省をお手伝いした面々も含まれている。

 ビスタ港は少し遠いが、もう少し近郊に船を留められれば多少長く滞在することも可能だ。アルディラで仕入れた珍しい物品を元手に、交易に繋げることもできる。

「年数も経ちましたし、今の乗組員は当時よりずっと強い。あの海域を拓ければポートセルミの連中への良い手土産になります。もちろん、危険ならばすぐに回避しますとも」

 悠々構えた船長の言は相変わらず頼もしく、頷き合う船員達もまた得意げな顔つきをしている。これまで何度も共に戦い海の魔物を散らしてきた人達だからこそ、その判断に間違いはないだろうと素直に思えた。

「どうかお気をつけて。ご武運をお祈りいたします」

「それはこちらの台詞です。何卒、ご無事で王都に着かれますように」

 肯定の代わりに激励を返せば、力強い握手で応じてくれた。

「落ち着かれたら是非、組合に顔を出してやってください。私を含め、暇な年寄りの数少ない楽しみでございますから」

 それはまさか、屈強なる元船長を指して言っているのか。

 ご老体には違いないが、殺しても死ななそうなあの御仁を年寄りと称するのは違和感しかない。しかも、僕は正直、彼の気に障ることしかしていないと思うのだが。

 だが、舎弟めいた親しみの目を向けてもらえたように感じたのもまた事実だった。気安く接してもらえることも、決して不愉快ではない。

 フォスター船長の遠慮のない物言いに笑いを噛み殺しつつ、船長室に集まっていた面々に一度挨拶をして場を離れた。向かった先は、愛しい妻が待つ特別船室。

「フローラ」

 ずぶ濡れの雨着は船室の手前で脱ぎ、軽くノックしてから扉を開ける。椅子に腰掛けてぼんやりと窓の外を眺めていたフローラがつと顔をこちらに向け、やわらかく微笑んだ。

「寒くない? 天候が落ち着くまで待つことになったよ。なんだか出鼻、挫かれちゃったね」

 細い肩に腕を回し、きれいな睫毛を至近距離で覗き込んだ。綺麗に身支度を整えた妻が可愛すぎて、性懲りもなくどきどきしてしまう。この蒼の魔法衣、似合いすぎて反則だ。

 既に出立の準備は済ませてあるから、あとはこの春嵐が収まるまでのんびりするだけ。

 にこりと愛らしく微笑んで、彼女はおもむろに、視線を窓の外へと戻した。

「春雷、ですね」

 閉めきった窓の向こうで遠く、黒雲が唸る音がする。多分山脈の方なので稲光は見えない。まだ結構遠いかな、なんて思いながら頷いたら、透明な声が静かに空気を揺らして耳に届いた。

「ご存知ですか? 昔、春雷のことを『春来たる』と詠んだ詩人がいたそうですよ」

 博識な妻は古典にも詳しい。なかなか洒落めかした言い回しだ。相槌を打つと、フローラの蒼い瞳が蛍のように宙を薙いだ。

「きっと、春の訪れ、ですね」

 僕を捉えた、その双眸で。

 淡い春桜が花開くように、ほんのりと微笑んでみせて。

 思わず見惚れた僕に、フローラは再び、外を見るようそっと促した。暦は三月の初頭、外套を脱ぎ捨てるにはまだ寒く、窓の外は尚も痛いほどの雨がひっきりなしに玻璃を叩いている。砂礫混じりの嵐が幌を殴りつける時にも似た、ばらばらと激しい音が分厚い窓越しにこちらにも伝わる。

 そんな音以外、何もかもが雨に吸われたような静けさの中。

「──まるで、テュールさんのご帰還を歓ぶ涙雨のようだと……思われませんか?」

 静かに言い添えられたその言葉に、微かに目を瞠った。

 何度も読んでは聞いた、暗く澱むグランバニアの過去の物語。

 今や王を失い、その内情がどうなっているのか誰にもわからない。民がどんな想いで、一日一日を越えているかも。もしかしたらすっかり廃墟で、王都などとっくの昔に滅んでしまっているのかもしれない。

 でも。

「おかえり」と、誰かが言ってくれたら。

 そんな、淡く心許ない期待を捨てきれなくて。父さんの生きた痕跡が、ここにはあるかもしれなくて。名前しか知らない母のことを、知っている人がいるかもしれなくて。

 

 ────お帰りなさい、坊ちゃん。

 

 遠い日、まだ凍える寒さの残る初春の日。

 いい匂いのする暖かい家で、僕と父さんを出迎えてくれた。

 あれはサンタローズであって、こことはきっと、全然違う場所だったけれど。

「……うん。暖かいところだと、いいよね。父さんの国……かもしれないんだから」

「きっと素敵な処ですわ。あなたが生まれた国なのですもの」

 ふと襲われた郷愁に胸を抑え、ぽつり、零した独り言にすかさず、鈴の声が重なった。

 思わず顔を上げれば、春の木漏れ日のような温かい微笑みが僕を見ている。

「気が早いとお思いになりますか。けれど、私、心のどこかでもう確信しているんです」

 真っ直ぐに伸びた、綺麗な姿勢で。

 相変わらず、悔しいほど凛とした響きで僕の背中をも支えて。

 癒すように慈しみ深く。そぼ降る雨の如くやわらかく。

 彼女はそうやっていつだって、僕が欲する言葉を惜しみなく、降らせてくれるのだ。

「ここが、あなたのふるさとだって。……ようやく、帰って来られたのだって」

 ……もう、何度も言ってもらっているのに。

 どうして、彼女がくれる言葉はこんなにも僕を、泣きたい気持ちにさせるんだろう。

 一人で考えているとどうしても不安になる。聞くに耐えない噂話ばかりで、到底まともな国とは思えなくて。そんなこと僕が考えちゃ駄目だって、何度も何度も自分を叱咤して、無理矢理思考を打ち消すけれどやっぱり怖くて、また悩んで。

 けど、君が言ってくれる。絶対大丈夫、素敵なところに違いない。間違いなく、帰っていいところなんだって。

 たったそれだけで、僕は前を向いていられるから。

「……っ、ありがとう……」

 なんだかたまらなくなって、妻を背中から抱きしめた。鼻先を埋めた碧髪から花のいい匂いがする。くすぐったそうに小さく笑って、僕の可愛い奥さんは精一杯首を傾けて僕を振り返り、その肩越しに僕を見上げてくれた。

「……帰りましょうね。一緒に、あなたの故郷へ」

 言葉にならない、万感の想いを込めて頷く。

 絡めた腕を大切そうに撫でてくれるフローラは、ただただ、曇りなく、優しい。

 ────それがとても温かくて、まるで、

 未だ知らぬ母の腕に抱かれ、囁きかけられているような。

 

 そんな気が、した。

 

 

 

 激しい雨で濃霧のようになっていたから、巨大な峰がすぐ眼前に聳え立っていたことにも気づかなかった。

「これを、越えてゆくのですね……」

 覚悟はしていたのだろうが、船から降り立ったフローラがめいっぱい首を上向かせ、放心したように呟く。

 無理もない。僕も思わず、つられて天を仰ぎながら深々と感嘆の息を漏らした。

 山というより、実はこの大陸そのものが巨大な竜の背なんじゃないか。そんな風に思わされる。ここまで大きな、終わりの見えない峰の連なりは。

 分厚い雲に覆われて全容は見えないが、ここから一番距離の近い頂でさえ、今にもこちらに襲いかかってきそうに見える。否、山に見えないほど近いのだ。更にそこから折り重なって北へと連なる壮大な山影はまるで、伝説に語られるドラゴンの尾のようだ。

 自然、居合わせた誰もが深く嘆息する。サラボナにも火山はあるが、ここまで圧倒される規模のものではなかった。アルディラ大陸を横断する岩肌の山脈も。

 数ヶ月前、テルパドールを目指した時とは全く違う。

 ここにいる誰もが、この大陸のことを知らないから。

「何卒、……何卒、お気をつけください。お嬢様」

 いよいよ船を離れるその時、フォスター船長が皺深い大きな両手でフローラの手を包み、祈るように額へ押し戴いた姿が、ひどく鮮明に、僕の目に焼きついた。

「ありがとうございます。船長、皆様も、本当に。……必ず、無事グランバニア王都に辿り着いて、ご報告に参りますわ」

「お約束、しかと承りました。イヴァン殿のみならず、私をはじめポートセルミの者一同……お嬢様とテュール殿を、もはや家族同然に思っております。お二方のご無事を願い、一日も早く再会できますことを……その日を心から、お待ちしております」

 そんな切実な、送別の言葉を絞り出したフォスター船長の目尻は見たことのない涙で潤んでいたのだった。なんとなく直視してはいけない気がして、僕は急いで二人から視線を引き剥がした。

 他の仲魔達も、この船旅の間に仲良くなった船員さん達と名残惜しく別れの挨拶を交わしていた。オラクルベリーへの帰省から親しくなったアランさんは、屈託なく仲魔達の肩を叩いては「なぁガンドフ、またストレンジャー号に乗りに来いよ。次は俺がもーっと出世して、操舵室に入れてやるからさ!」などと朗らかに笑っている。船という乗り物がとりわけお気に入りらしいガンドフは、魔物番のたびにこにこしながら舵や帆を眺めていたから、この誘いにも嬉しそうに頷いていた。すっかり戦力の一員であったピエールにマーリン、乗船早々マスコットの地位を確立し、皆さんとの潤滑油になってくれたスラりんとホイミン。なんなら、船旅の途中で仲魔入りしたしびれんも。誰も彼もが今この時、慣れ親しんだ皆さんとの別れを惜しんでいた。

 そんな中、一匹だけ全く輪に加わらない者がいる。プックルだけはいつもと変わらず、パトリシアの横に寝そべって、賑やかな送別の喧騒にも関心を示さずにいる。

 さすがにキラーパンサーと親しもうとする猛者はいないか。無理もない、彼は曲がりなりにも地獄の殺し屋の異名を持つ、世にも恐ろしい魔獣なのだから。

 そんなことを思いながらだらけた寝姿を眺めていると、ふと、以前資材の買い出しに同行してくれた気弱な修理士のロニーさんが、馬車の陰からじっとプックルを見ていることに気がついた。

 そういえばロニーさんはあの時、プックルのこともすごくあたたかく受け入れてくれたんだっけ。

 短い馬車旅を懐かしく思い返していたら、そのロニーさんが今度はびくびくしながらプックルに近づいていった。えっ、本気か。別にプックルが噛むとか思っちゃいないんだけど、あんなに怯えられるとフォローした方がいいのかなという気になってくる。現に彼の挙動に気づいた兄弟子のテオさんは、おろおろしながら遠巻きに止めようとしているし。

「えと、……えっと、……ナサカの森では……ありがとう。俺達、全然出る幕なかった」

 腰が引けつつ、ロニーさんは何やら一生懸命プックルに語りかけているようだ。聞いているのかいないのか、地獄の殺し屋は相変わらずの澄まし顔で寝たふりを決め込んでいるが。せっかくロニーさんが話しかけてくれているって言うのに……とはいえプックルに言葉で意思の疎通は図れないし、やはりここはお節介を焼くべきかと一歩、そちらに近づきかけたところで。

「お、……お、お嬢様を……頼むよ。『プックル』」

 か細く聞こえたその一言が、僕の足を縫いとめた。

 一見ひどく怯えていたようだったけど、名を呼んだロニーさんのそばかす顔は確かに、少しだけ……得意げというか、どこかはにかんでいるように見えたのだ。

 呼ばれた瞬間、プックルがぴくりと耳をそばだて身を起こした。覗き込むロニーさんと真っ直ぐ目が合って、そのままのっそりと頭を持ち上げ立ち上がる。一瞬びくりと身体を強張らせたロニーさんだったが、どうやら意を決して手を差し出した。鬣を撫でようとしたのか、しかしプックルは次の瞬間、噛みつかんばかりの勢いで己の額をロニーさんめがけて突き出して、──……

 それって、頭突きって言わないか?

 ゴッ! と甲の関節に当たった鈍い音がして、さすがに本人と、はらはら見守っていた周りの人々までびっくりして固まった。ちょ、プックルはともかく今の、ロニーさんの手は大丈夫か。大事な修理工の手を壊したら洒落にならない。

 そんな僕らの緊張をよそに、フン、と荒く鼻息を鳴らしたプックルは、軽やかに身を翻して彼の側を離れていく。

 一連の出来事を目にしてしまった船員さんと同じく、ロニーさんは暫し茫然としていたけれど、やがてぱちぱち瞬きをするとプックルに頭突きされた拳をひとつ撫で、ふへへ、と脱力して笑った。

「……ほんと、心強いや。すっっっげぇ」

 おい、手は、手は大丈夫かロニー⁉︎ とおろおろ飛びついた兄弟子のテオさんに、全然平気ですよぉ、とロニーさんが笑いながら答えるのを見て、ようやく安堵が湧いてきた。涼しい顔で僕の側へと戻ってきたプックルに「心臓に悪いよ……加減はしたんだろうけど、ロニーさんは僕やみんなとは違うんだから」とこそっと苦情を申し立てたが、当の本人はしれっと聞き流したようだ。

 ていうかプックル、フローラにはいつも大人しく撫でられているくせに。プックルに限らず、以前より仲魔達のふてぶてしさが増している気がするのは、主人である僕の所為でもあるのだろうか。

「名残惜しいけど、そろそろ行こうか。また海が荒れてきたら船を出しづらくなるし」

 フローラも挨拶を終えて僕の側に戻ってきてくれたので、未だ盛り上がるスライム属達に声をかけ、全員の荷物を確認した。忘れ物はない? 引き出しもちゃんと見た? と、スラりん達の顔を順番に覗き込み確かめる。

 それを見た船長が何故か、眉尻を下げて軽く笑った。

 最後に、長く世話になったフォスター船長と正面から相対し、しっかりと手を握りあった。

 義父のルドマン卿然り、イヴァン元船長然り。

 父を喪ったあの日から時を止めていた僕の、僕すら知り得なかった幼い内面をゆっくり表へと導いてくださったのは、実はこの方々だったのではないかと思う。

 もう追うことの出来ない、父の背の代わりに。

 フローラがその母性で、僕の渇きを癒してくれるように。

 この手もまた、未だいびつな僕を一個の人間として認め、何度も背中を押してくれた。立たせてくれた。

「お嬢様を、よろしくお願い致します。……皆様に竜神の加護があらんことを」

 かたく握った掌はじわりと湿って、温かかった。

「ありがとうございます。────行って、参ります」

 込み上げる熱は、深く強い首肯に代えて。

 灰褐色の眼を見つめ返したあと、手を解き、手綱を取る。

 湿った空気がまとわりつく中、全員の準備が整っていることをもう一度確認して。いよいよ僕達は、グランバニア王都へ向けて一歩、エストアの大地を踏み出した。

 

 

 

 船を降りてすぐ、頂の見えない山の手前には鬱蒼とした森が広がっていた。地図を確かめると、確かにこの森の奥に宿屋があるらしい。

 海側の平地を迂回して行ってもいいが、この雨で潮位がだいぶ増している。歩きにくさは同等か。船から見た限り崖になっていたから足場は確保できるだろうけど、森の方が地盤が安心かなと思う。それと、幽霊船の噂を信じるわけじゃないのだけど、海側には少し思うところもあって。

 悩んだ結果、やはり森の中を突っ切ることに決めた。

「お、おっきい『き』って、あっちのあれかもっ……」

 僕が道を悩んでいた間にも、上から偵察してくれたしびれんとホイミンがいそいそと教えに来てくれた。

「おっきくて、おもそ〜なまものがいる〜〜! のっしのっししてる〜〜〜!」

 興奮気味のホイミンの説明はいまいち要領を得ない。「えっとねっ、さらぼなにいたのに、にてるっ。はながながくて、きばがあるまものっっ」としびれんが補足してくれて、ダークマンモスかその眷属かな、と当たりをつけた。

 果たして森の中には確かにダークマンモスに似た、薄桃色の牙を持った更に巨体の魔物が徘徊していた。いつも以上に緊張をみなぎらせた妻と仲魔達が、いち早く魔物の気配を察知してくれる。ズシン、と内臓を揺さぶってくる足音からこれは容易に存在を察せられたが、存外に動きが早いその魔物はこちらを捕捉するなり突進して間合いを詰めてくる。特に体重の軽い仲魔達は呆気なく張り飛ばされてしまう。馬車を壊されないよう、慎重に囲いながら捌いていった。

 船旅の途中、テオさん達のご厚意で荷台をかなり頑丈にしてもらったのだけど、今ここで壊されたら自力で直せる自信がない。

 マンモスの魔物にばかり気を取られていたら、今度は木陰から次々炎を放たれた。見れば巻貝を頭に乗せた老人のような魔物が、茂みの中でぼそぼそ炎帯魔法を詠んでいる。プックルが咆哮をあげて襲いかかると、鄙びた巻貝爺達は泡を食って逃げ出した。

 他に近づいてくる魔物がいないことを確かめてから、久々の地上での戦闘に高揚している仲間達の様子を見て回る。

 エストア大陸では初の戦闘であり、実はフローラにとって新しい武器……『天罰の杖』の初陣みたいなものだったから、張り切りすぎてうっかり前に出過ぎてしまわないか少し不安だった。そんな浅はかな懸念が真実杞憂に終わって、深々と安堵してしまう。つい不安になってしまうけれど、彼女は僕が思うよりずっと思慮深いひとなのだ。

 仲魔達の怪我を手分けして治癒し、落ち着いたところで改めて、宿屋を目指して進み始めた。

 森がいよいよ深くなり、濡れた霧が立ち込める。羅針盤と地図を頼りにひたすらパトリシアを歩かせた。長く船底に閉じ込められた挙句、久々の行軍がこんな足場の悪いところで、馬なりにいよいよストレスを溜めてるんじゃないかと思うと心底申し訳ない気持ちになる。

「ごめん。思いきり走らせてやれるのは、もうしばらく後になりそうだ」

 暇を持て余したスラりん達の手で艶やかに整えられた、美しい毛並みを撫でてやれば、パトリシアはぶるると鼻を鳴らして応えてくれた。

 気配を察知されているのか、わりと頻繁に魔物に遭遇する。さっきは見なかった竜肌の異形が数体、茂みの中から奇声を上げて襲いかかってきた。受け流したところへすかさず仲魔達が追撃を浴びせる。さすが、ピエールの剣は抜群の切れ味だ。異形の哀れな断末魔が森の中こだまして、周辺の気配がまたしても不穏になる。

 そこそこ数はいるけど、どうやら目的を持って統率されている様子は見受けられない。

「うん、今のところ……人を攫いそうな奴はいないね」

 うっかり独り言がこぼれた。隣に控えたフローラが瞠目し、弾かれたように僕を見上げる。

 不安にさせてしまっただろうか。びっくりした顔が可愛くて、思わず苦笑した。我ながら考えすぎかなと思うけど、フローラの件を差し引いても……僕には光の教団が、そう簡単に人の領域から手を引くとは思えなくて。

 船を捕らえ難くなった。サラボナもラインハットも、教団への警戒を強めている。テルパドールは大陸全体が古い伝承の力で守られている。多分、あそこは女王の護りもあって、教団の力を及ぼすことができない。少なくとも今は、まだ。

 そんな中漏れ聞いた、この近海での幽霊船の目撃情報。

 グランバニアは外界とほとんど接触が断たれていて、何か起こっても噂になりにくい。『幽霊船』を恐れて更に人が寄りつかなくなるかもしれず、それも奴らには好都合だろう。鉱床が豊富なここから、神殿の建設資材を運ばせている可能性もある。魔族が動かす船なら、甲板に人の気配がなくてもおかしくないし。

 だから正直、『幽霊船』に出くわすのは御免だった。海側を通りたくない第一の理由がそれだ。船長達に何かあっても困るけれど、ストレンジャー号が引き受けてくれるならそれに越したことはない。

「でも、何が起こるか分からないから。王都までは極力、髪を出さないようにしていてね」

 異形の叫びが引き寄せた魔物を続けて迎え討ち、こちらに損害が出ていないことを確認する。落ち着いたところで改めて注意を促すと、蒼の装束を纏った乙女はこくりと頷き、白い帽子を深く被り直した。

 ああ、早く碧天の下、君の長い髪がなびく様を見たいな。

 そんなことを思いながら、一息つき終わった仲魔達に順に声をかけて、僕らは更に先を急いだのだった。

 

 

 

 それから一度休憩を挟んで、三、四時間ほど歩いただろうか。

 少しずつ陽が傾き始めた頃、永遠に続くかと思われた森の光景の奥に、明らかに周囲と異なる大木が見えてきた。

「巨木……ってあれ、だよね?」

 聞くまでもない、明らかに異質な大樹だった。船から降りて山を臨んだ時も圧倒されたけど、あの木の大きさはあまりにも周りの木と違う。着実に歩を進めているのに、歩いても歩いても距離が縮まった気がしない。

 けれどさすがに、もう十数分も行くうちに、段々と大樹の全貌が見えてきた。

 天をも貫きそうな梢。両手を広げた枝葉はまるで、それだけで豪邸の巨大な屋根のようである。よくよく見比べて、さっきから引っかかっていた違和感の原因にようやく気がついた。この辺りの木は軒並み針葉樹だが、あの木だけが他とは違い、横に大きく、青々と茂っている。生命力みなぎる、巨大な広葉樹だ。

 気のせいかもしれないが、大樹に近づくごとに森の音が変わっていく。

 さっきからぱらぱらと小雨が降っているのだが、ずっと不揃いに幹を打っていたその雨音が、次第にからりころりと歌うような軽い音に変化していっている。……気がする。

 それはあの、大きな葉の集まりが為せる奇跡なのか。雨音が奏でる唄に迎えられる、それはひどく不思議な感覚だった。

「ただの大きな樹だと思ってた。ここまでだなんて……なんか、御伽噺の小人にでもなった気分……」

「ええ……本当に。まるで、数千年続く神話の世界に入り込んだような心地がしますわ」

 あまりに神秘的な光景に、フローラや仲魔達も、ほぅ、と感嘆の息を零した。

 不思議な雨音も相まって、森の奥深くに隠された、木々の秘密の祭礼を覗いているような。

 その主神である大樹に、よくよく見ると建物が備えつけられている。変な言い方かもしれないが、本当に家らしき建造物が木の一部になっているのだ。太い幹をぐるりと取り巻く階段もある。モン・フィズの酒場でいろいろ教えてくれた人達がすぐわかるって言っていたから、巨木の宿屋というのはやはり、ここのことなんだろう。

「ツリーハウス……と言うものでしょうか。この木の上に宿屋を造ろうと思われた方の発想が凄い、です」

「お褒めに預かり光栄だねぇ。なんとまぁ、今日はどうしたことだい」

 唐突に、しわがれた声が会話を遮った。

 振り向くとそこには、背景の木立に溶け込むように誰かが立っている。薄靄に佇んだその人影の正体は、ひどく小柄な、線の細い一人の老婆だ。

 こんなところに、お婆さんが一人で?

 思わず警戒したが、無造作に枝を抱えて立つ老婆に怪しげな気配は見られない。

 さりげなく剣を外套に引き込んで隠しながら、恐る恐る「あなたは……?」と尋ねてみたが。

「安心おし。この辺りは昔、大きな街だったところさ。今も精霊様の御加護が残ってるみたいで、魔物はそうそう寄ってこない。それにね」

 つまらぬ質問とばかりに一蹴された。淡々と告げ、老婆は僕らを押しのけて巨木の脇にがらん、と枝を放り出す。それから改めて、茫然と見ている僕らの方を向いた。

「あたしゃしがない婆だが、魔物の数匹凌げなくて、こんなところで宿屋はやれないよ」

 くつくつと忍び笑う老女になんと返せばいいのかわからない。相当ご年配のようだが、見た目以上にかくしゃくとしていらっしゃる。ふと気づくと、マーリンのフードの奥の目が興味深そうに爛々と光っていた。ということはやはり、この方も魔法においてはかなりの手練れか。

「おっどろいたねぇ、まだこんな僻地に来ようなんて物好きがいたとは。道理でさっきから、森がやたらとやかましいわけだ」

「は、はい。結構魔物が多くて驚きました。この辺りはいつもこんな感じなのですか」

「今日は特別だろうさ。見ない顔に釣られて、あちこちから湧いて出てるよ」

 やはり卒なく答え、老婆は改めてまじまじと僕達の顔を眺めた。特に仲魔達を忌避する様子もなく、一通り全員を確認した彼女は軽く首を捻り、宿業にしては不躾とも取れる問いを吐く。

「行商……? ってわけでもなさそうだね。どこから来たんだい」

「あ、えっと……サラボナ、という街です。神の地の向こうの、ずっと西の大陸から」

 何故か威圧めいたものを感じながら訊かれるままに答えると、老婆はいよいよ不思議そうに首を傾げた。

「はて、テルパドールにそんな街があったかねぇ」

「テルパドールではなく、その北にある大陸の街ですわ。旧くはエルンハイム王国が治めておりました」

 僕に代わって、澄んだ鈴の声でフローラが答えた。吸い寄せられるように背後へと視線を移した老婆が、妻を見つめてわずかに眦を緩ませる。

「あれま。本当にずいぶん遠くから来なさったもんだ」

 その一言をきっかけに、老婆の雰囲気がやわらかいものに変わった。「すまなかったね。すっかり耄碌しちまって」と付け加えると滑らかな足取りでこちらに近づき、骨張った手を差し出して、パトリシアを動かすよう目で促す。

「何しに来たのか知らんが、歓迎するよ。外の旅人さんをもてなすのは何十年ぶりだろうねぇ。しかも、魔物遣いときたもんだ」

 案内に従って、大樹の陰に馬車を牽く。大きな木陰の下には雫もほとんど降らない。代わりにさやめく風の音と、ぽろぽろ響く軽快な雨音ばかりが、折り重なった葉と葉のさざなみから木漏れ日のように零れてくる。

 どこのステージより壮大な、荘厳な大自然の舞台の真ん中で。

 賢者然した老婆が階段を指し示し、はじめて、他所行きの顔でにっこりと笑った。

「ネッドの宿屋へようこそ、お客人。長い船旅ご苦労さん。ここでゆるりと休んでおいき」

 

【挿絵表示】

 




パースも何もない絵ですみません。あくまで自己満足
宿屋の看板にはアストルティア語で「ネッド」って書いといたよ!(でもⅩは未履修)
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