Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】 作:サクライロ
こぢんまりとした宿屋だが、意外にも中はゆったりとした造りだった。
「お部屋でも本物の樹を見られるのって、とても素敵ですね。気持ちが安らぎますわ」
ベッド脇を貫いて伸びる大木をそっと撫で、フローラがやわらかく微笑んで呟いた。
通されたのは大きな相部屋の宿だった。他に誰もいないかと思ったが、お婆さんの息子さんご夫婦が番頭をしていて出迎えてくださったり、近くの村から来たという先客もいて、思ったより賑やかだ。宿の隣には小さな教会が併設されている。この一帯の祭礼は、そこの神父さんがとりまとめていらっしゃるとのこと。
普通に旅人さんがお泊まりになるなんて! と大喜びの番頭さんが、何やら手製のペナントをお土産にくれた。旅の思い出に、宿泊客に渡す日を夢見て作っていたのだという。残念ながら常連のお客さんには突っ返されてばかりで、大層切なかったのだとか……
仲魔達は今夜、宿屋の床下でのんびり過ごすようだ。ちょっと覗かせてもらったが、これまた意外にも広々としていた。物置でもあるらしく、そこらの道具を壊さないようあらかじめ注意はいただいたが。
外観で察せられた通り、この建物は壁面に大樹が食い込んだ状態で建てられている。
雨漏りしないのかとちょっと不思議に思ったが、ちょうど太い幹のそばにベッドが置かれている。どちらも濡れた様子はないということは多分、うまいこと雨除けが出来ているんだろう。
「森の香りがするね」
深呼吸したらフローラも僕に倣い、目を閉じて深く息を吸い込んだ。
「はい。とても心地いいです。樹の息吹が感じられますね」
二人一緒に清涼な自然の空気を感じて、微笑みを交わし合う。
思わぬ良宿に、久々に土の上を歩いた疲れが癒やされていく。
「へ? 王都に行くんですか。そりゃあまた」
人心地ついたところで、恰幅の良い中年の番頭さんが、僕達に温かいお茶を淹れて持ってきてくれた。聞かれるままに行き先を告げると、彼はすっかり目を円くして瞬きを繰り返した。
「はい。幼い頃亡くなった父がグランバニアの出身だったらしくて。故郷ならもしかしたら親族がいたりするのかもって……妻を連れて、遥々海を越えてきたんです」
「へーぇ。失礼ですが、お父上の御家名を伺っても? グランバニアを出られる方の多くはここを通られますから、うちの婆さんなら覚えてるかもしれませんよ。もしかしたら、領地の当てくらいはつけられるかも」
何気なく問われて、はたと気がつく。いけない、もしかしてもう偽名を使った方が良かった?
うっかり宿帳にグラン姓を書いてしまった、ていうか名前もそのまま書いてた……いやいやパパス王の息子の名前がテュールとは限らない、実は違う真名の可能性もあるよね。とはいえ今、父さんの名をそのまま出すのはさすがにまずい。
猛烈に焦りながら、数秒の間に頭をフル回転させた結果。
「…………グラン……へ、ヘクトル・グラン、です。すごく小さい頃、亡くなったので……詳しいことはわからない、です、けど」
頭の中で翠髪の親友に手を合わせ、若干どもりながら答えた。ごめん、亡くなった父繋がりでぱっと思い浮かんだのがヘンリーの父王陛下だったんだ……恐れ多いことこの上ないと我ながら思う。
「……えっ、もしかして、ずいぶん大層な御家の方です? グラン家なんて名乗れるの、王家に縁のある方なんじゃないかって思うんですけど……」
「い、いや、さすがにそれはないんじゃないかな。多分父は故郷の名を冠しただけで、本当の姓は僕が覚えてない、だけだと……多分」
ずいぶん恐れ多い名乗りだったんですね、と乾いた笑いで誤魔化した。誤魔化せたかな。はぁ、家名がわからないと難しいかもですけど、縁戚の方に会えるといいですねぇ。とのんびり頷いて、人の良い番頭さんはカウンターの方へと戻っていった。
独り言が聞こえないくらい遠ざかったことを確かめて、はぁ、とつい重苦しい溜息を漏らしてしまう。
「……今度から、ルドマン姓を名乗った方がいいね。いきなりしくじったなぁ……」
「ここで確認できてよかったですわ。王都近くで知れたら、もっと騒ぎになっていたかも知れませんもの」
フローラが優しく慰めてくれて、少しだけ気持ちが上向いた。うん、そうだよね。それにしても父さん、もうちょっと名前を捻ろうと思わなかったのかな。改めて思うとパパス・グランて、わかる人が聞けば一発で身元がバレたんじゃないのか。
……でも、こんなことがあると、ああやっぱり父さんなんだろうなって思うのもまた事実で。
形見の剣の紋様。ヘンリーが調べてくれた手紙。何より、アイシス女王の啓示。
状況に駄目押しされて、更にグラン姓まで。もう覚悟は十分してきたつもりだけど、やっぱり王家なんてものは、僕の想像が及ばないくらい重いものだから。ここに来てまだ、尻込みしてしまう自分がいる。
ふる、と首を振って立ち上がった。つられて僕を仰いだフローラに微笑みかけて、枕元に立てかけた剣を取る。今、この鞘に収めているのは父さんの形見の剣ではなく、以前祠のある宿屋で行商人から買った破邪の剣である。
「少し、この辺りを見てこようかな。行けそうなら明日から山に入りたいし。フローラは、ここで休んで待っていて」
申し訳なさそうに頷く妻を残して、広い客室を後にした。ついでに少し鍛錬しておきたいな、なんて思いながら番頭さんに声をかけ、いざ外へ出ようとしたところで。
「おお、魔物遣いの兄さんか。ちょうどええ」
やはり何やらきびきび動いている老婆……宿の主人にばったり出くわした。ネッドと名乗ったこのお婆さんは僕を見るなり何か思いついたらしく、きらきらと瞳を輝かせる。えっ、何。ついさっき外でお目にかかった時とは全然反応が違うんだけど。
ついでに肩から下げた鞘を見て、更ににんまり笑みを深める。何なんだ一体。やや及び腰になった僕に、ネッドさんは否と言わせぬ一方的な食材狩りの開始を宣言したのだった。
「ちぃとこの老人を手伝ってくれんかえ? 珍しいお客人にとっときの馳走を食わしてやりたいのさ。何だい、いつになく魔物が湧いとる森に婆ぁを一人放り込むつもりかい? そうと決まればちゃっちゃか動いとくれ。日が暮れる前に終わらせるよ」
◆◆◆
母さんいきなりお客さんに無茶言うなよ……と口籠る番頭さんに愛想笑いを返し、押し切られるまま連行されたのは、宿からほど近い森の外れの一角。
魔物が寄りつかなくなる、森とかつての街の境界にあたるこの周辺には、束の間の安寧を求めて、小動物が特に多く集まってくるのだという。
「ほー、こりゃええわ。お陰さんで活きのいいのが大量じゃあ」
老婆がほくほく顔で、捕まえたばかりの兎を次々荷台へ積み込んでいく。
ガンドフを連れてきてよかった。彼の、睡魔を誘う甘い息をバギで風下に流してやると、そこらに隠れている野兎や野鳥がぱたぱたと地に伏していく。これ、普段の食材調達にも使えるな。春が近いこの時期は兎が食べ頃なのだと、ネッドさんが上機嫌で教えてくれた。
なぜか今、この場には僕とガンドフ、ネッドさんと、先刻彼女に興味を示したらしいマーリンが無言で着いてきている。殺気とまでは言わないけど、背後から威嚇するのはやめてほしい……ネッドさんが気にしてないみたいだからまだいいけど。
「あんたら、グランウォールを越えるつもりだって? 物好きにも程があるねぇ。まぁ無事山頂に着けたらひとつ、村長の息子んとこによろしく言っとくれ。孫娘があちらに嫁いどるんだ」
成果は上々だったらしく早々に狩場を撤収し、今度は何故か、大木の脇にある井戸で血抜きを手伝わされている。僕一応客ですよね……いやもう何も言うまい。鳥や兎を捌いた経験はそれなりにあるけど、猟師さんがやっていたのを盗み見てはヘンリーと見よう見まねでやっていた素人仕事だったものだから、改めてやり方を学べること自体は、実はとても有り難いことだったりする。
それにしたって、生け捕りにした兎を捌くっていうのは、フローラにはあまり見せたくない光景だな。
何となく以前、故郷の洞窟で半死状態のアルミラージを乱獲したことを思い出した。
「お孫さんですか? え、山の中の村に嫁がれたんですか。かなり険しい道だって聞きましたけど」
素直に驚きを口にすると、ネッドさんはやれやれと溜息をつき苦笑した。
「こうと決めたら聞かない子でねぇ……チゾット村って、ちょうど王都の手前の山道にある村なんだけどね。昔は村の奴らがよくこっちに降りてきてたんだよ。そん時村長の倅に惚れたらしくてね。まぁったく、色気づくのが早すぎだっての」
言葉はやや辛辣だが、口調はとても温かい。血の繋がったお孫さんを大切に思っていらっしゃるのが伝わってくる。
実は僕にも、祖父母がいたりするのかな。
ちょっとむず痒い心地になったけど、同時に気鬱も感じて頭を振った。父さんの縁者って言ったら、悪名高い民殺しの王なんて言われる人かもしれないし。そんな人の血も継いでいるかもしれないと思うと、ひどく気が重くなる。
父さんは、何を思って王位を継いだんだろう。本当に母さんの為だけに、そのすべてを祖国に置いてきたんだろうか。
どうして僕は、連れて行ってくれたんだろう。
「ま、何だかんだ元気にやってるようだし。ひ孫がね、まだ小さくて降りてこられないのが残念だけど。会えたら婆ぁが寂しがってたって、伝えてやっとくれ」
器用に皮を剥ぎながらのんびりと呟く老婆に「わかりました。お会いできたら、必ず」と答えると、さも嬉しそうに「ティナって言うんだ。あたしに似て別嬪だが、惚れるんじゃあないよ」などと宣われた。うん、どんな美人さんでも問題ないです。僕には誰より大事な、最愛の妻がいますから。
それからしばらくは、山に棲む魔物のことだとか山道のことだとか、他愛のない雑談をしながら手を動かしていたが、ふとお婆さんが顔をしかめて、井戸の向こうに視線をやった。
「ああ。そういや、山に行くのはいいんだけどさ」
つられて僕も顔をあげる。視線の先には若い木立と、その向こうに聳え立つ山影が見えるだけだ。苦く笑って、ネッドさんが教えてくれた。曰く、登山口の手前の草地が瘴気に汚染され、毒沼と化してしまっている。時折橋を作るのだが、すぐ腐り落ちてしまうのだそうだ。ちょうど今、橋を渡せる職人がこの近くにいないので、すぐに渡りたかったら沼に入るしかなさそうだ、とも。
「数年前からじわじわ広がっちまって。今じゃそこの沼を踏み越えないと、山に入れないんだよねぇ……」
「解毒と回復は覚えているので、何とかなるとは思うんですが……深いですか」
「膝丈くらいかね。ぼろ布で良かったらあとでわけてやるよ。靴を駄目にしたら大変だろ」
思わぬ提案に、迷わずこくりと頷いた。さりげないご厚意が本当にありがたい。重ねて礼を言うと「今時王都に行こうなんて命知らずを見ると、お節介を焼きたくなるんだよ」とからからと笑われてしまった。
でも、毒沼がこんなところにも。変わり果てたサンタローズ村の様子が目に浮かぶ。あそこも村の入り口や畑が侵食されてしまって、未だ耕作もままならないのだ。
もしもその毒沼の汚染が今以上に広がって、この大樹まで腐ってしまったら。
ふと不安がよぎり、ネッドさんに訊いたが「大丈夫じゃないかね。この木は特に、不思議な魔力を帯びてるから」とやんわり回答を返された。
「魔力? ……あの、樹齢何歳くらいなんですか。この樹は」
「はて、何百歳だろね。グランバニアが建国された頃には既に、だいぶ長寿の樹だったようだけど」
「そんなに昔から⁉︎ だって、グランバニア暦ってもう七百年くらい……じゃなかったですか」
驚きのあまり、思わず腰を浮かせて梢の先を仰ぎ見た。確かに軽く千年以上は生きていそうな大きさだけど。まさかこの大樹は、古の勇者の時代からずっとここに存在しているものなんだろうか。
「詳しいじゃないか。尤も、今もグランバニア暦として数えて良いもんかどうかは疑問だけどね」
いつの間にやら剥いだ兎の下拵えを終えた老婆が、苦い笑みを浮かべた。言葉の意味を飲み込むより早く、遣る瀬無い呟きが重く耳を打つ。
「王様がご不在になって、長いからね。この国は」
……父さんのこと、だよね。
その『王様』がずっと昔に落命している事実を思うと、つきりと胸が痛む。当然そんなことは言えなくて、当たり障りなく濁した相槌しか返せないけれど。
「戻って、来られると……いいですね。王様」
どの口が言うか。
誰の所為だと、自分の中の何かが叫んで我ながら情けなくなる。それと同時に、今まで感じたことがなかった、壮絶な感情が突如として湧いた。
父の死は今まで、ずっと僕個人の悲しみだった。どこまでも、僕だけが抱く絶望でしかなかった。
僕以外の全ての人にとって、彼の死は他人事に過ぎなかった。
────あの日起こった一部始終をこの人達が知ったら、
どんな反応が返るだろう。
怖いと思った。そう思う自分を、卑怯だと思った。
祖国という、漠然と大きな存在に対して。この時僕は初めて、言いようのない恐怖を覚えたのだ。
「どうだろうねぇ。……信じたい、気持ちはあるけど。さすがにこれだけ長く、音沙汰ないっていうのは、ねぇ……」
そんな僕の暗い内心など知る由もなく、お婆さんはしみじみと、遠い空を見つめて呟いた。
「それにしても、あれだね。あんたの親は祖国のこと、あまり悪く言いなさらんかったんだね」
暫しの沈黙の後。何気なく振り返った老婆がさほど感情の窺えない、無色の声で問うた。首を傾げると、老婆はまたどこか自嘲気味に笑って、潮風が運ばれてくる方角を遠く眺める。
「昔は随分、逃げて行ったがね。戻って来た奴なんざ一握りさ」
それは、僕への答えなのか。ただの独り言だったのか。
このお婆さんが見送ってきた、たくさんの同胞達の……祖国を捨てることを選ばざるを得なかった人達の苦しみ、みたいなものが。
否応なしに滲んだ一言のように、僕には聞こえた。
多分、妻を求めて出て行った父さんとは全然違うのだろうけど。例えばこの街が街としての体を為さなくなるほどに、人々が祖国を見限ってしまった。去っていく人々を、どんな想いで見送ってきたんだろう。きっと今、外で伝えられているグランバニアの噂話も、全く根拠がないことではなくて。
だからこそ、グランバニアの袂であるここに宿屋を造ったのかもしれない。この人は。
「……そうですね。早くに、亡くなりましたから……父から直接、故郷の話を聞いたことはないんですけど」
そんな方に僕の言うことなんて、きっと何の慰めにもならない。慰めたいわけじゃない、意味のないことかもしれないけど。
「でも、多分。いつかは戻るつもりだったんじゃないかって……思います。志半ばで、絶えてしまっただけで……」
現に、僕は帰ってきたから。
遅かれ早かれ、ここが故郷なのかもって知ったなら、やっぱりどんな状況であっても、帰らない選択肢はなかったと思うから。
幼かった僕に、父さんは何も言わなかった。
母さんを取り戻して、いつかあのサンタローズの暖かい家で一緒に暮らす。そんな幻想を、僕も夢見たことがあった、けど。
ちゃんと帰るところがあった。弟君に王座を預けたというアイシス様のお話が本当なら、父さんはやっぱり、自分の国を完全に捨てたわけじゃなかったんだ。いつかは戻るつもりだったんだよ。息子の僕だからこそ、そう思う。
ヘンリーだって捨てきれなかった。その重さを、今、身を以て思い知る。
「……どんな、方だったんですか。その、行方不明の王様」
聞かない方がいい。理性が懸命に僕を制止する。
それでも少しだけ、という欲が勝った。遠慮がちに問いかけた僕に、ネッドさんはどこか疲れた笑みを向けた。
「さすがにお会いしたことはないがね。義を失ったこの国に、正道を取り戻してくださった方だって……パパス王の治世になってようやく争乱がおさまって、跡継ぎもお生まれになって。やっとグランバニアに安寧が訪れたんだって、誰もが思っていたもんさ」
まったく、なんでこうなっちまったかねぇ。
絞り出されたその一言を最後に、それ以上は僕も、何も言えなかった。再びぽつぽつと葉の屋根を鳴らし始めた小雨の唄を聴きながら、ネッドさんも僕も、使った道具の後片付けをただ黙々と進めたのだった。
動物を捌いた後だから匂いがついているかも。全ての片付けを終えたあと、せめてもと冷たい井戸水で念入りに手を洗っていたら「もうそのまま湯を使っておいき。沸いてるから」と思いきり苦笑された。お言葉に甘えて、僭越ながら一番風呂をお借りすることになった。
すっかり鍛錬し損ねちゃったな。夜、寝る前に少し、ピエールに付き合ってもらおうか。
そんなことを思いながら外の湯浴み場から戻ろうとしたところで「ご主人。少々奥方様にお目通りを願いたい」とマーリンに呼び止められた。居合わせたホイミンも一緒について行きたいらしく、マーリンの後ろでそわそわしている。番頭さんに彼らが仲間である旨を告げて、快く中に通してもらった。
遅くなってごめん、と言いかけた声は尻切れにすぼむ。
「あ〜、ふろ〜らちゃん、おひるねちゅうだ〜!」
僕の消えかけた呼びかけとは真逆に、ホイミンが頭上ではしゃいだ声を上げた。慌てて振り仰ぎ、しぃっ、と指を唇に当てる。
ベッドの脇の大きな幹にもたれかかって、蒼の乙女が静かに寝息を立てている。
さらさら、木々を揺するさわめきのような、水の羽衣特有の衣擦れの音がする。腰掛けたスカートの裾が白く泡立ち、絶えず波打っている。手首に巻きついた羽衣はふわりと彼女を包んで、大樹の脈動に同調するように揺らめいていた。
白と蒼の荘厳なコントラストの中、淡い息を零す珊瑚色の唇だけが、やけに生々しい人間らしさを醸している。
少しだけ崩れた碧い後れ毛が、細い首を無造作に滑り落ちた。
もう何度も見惚れているっていうのに。束の間、その清涼な雰囲気に、僕は容易く意識をもぎ取られてしまう。
無防備に眠る彼女を誰にも見せたくない。あの姿を全部、僕で覆い隠して。誰の目も届かないどこかに閉じ込めてしまえたら。
「いやぁ、お美しい方ですね。なんとも清廉な、天空の御遣いかと思いました。あんな天女のような奥様がいらっしゃるなんて、実に羨ましい」
不用意に近づかないよう、若女将さんに牽制されつつ遠巻きに寝顔を眺めていたらしい男性客が、うっとりと鼻の下を伸ばしながら僕に耳打ちした。そうしている間もふわふわ漂うホイミスライムが珍しいのか、興味深げに目で追っている。
うう、どんな顔をしたものだろうか。露骨に邪険にもできず曖昧に笑い返したところで、フローラが微かに身じろぎした。
「……、ん」
────だからその、いちいち儚げな声は反則だって!
僕の下らない葛藤など何のその。ひっそり滾った興奮を必死に鎮める僕を尻目に、ホイミンが「ふろ〜らちゃん! お〜はよっ」と彼女に近づいてくるくる回った。ぼんやり瞼を持ち上げたフローラが翡翠の瞳をぱちぱちと瞬かせ、僕達の顔を代わる代わる見比べる。やっと状況を把握したらしく、白い頬をかぁっと野薔薇色に染めて俯いた。
「嫌だわ、私ったら……うたた寝してしまって。ごめんなさい、テュールさん。マーリン様、ホイミンちゃんも」
何とも愛らしい鈴の声。見知らぬお客さんがまたもや、ほぅ、と感嘆の息を吐いた。そちらには気づかぬふりをして微笑みを顔に貼りつけ、間に割り込むようにしてさりげなく、彼女の側へと歩み寄る。
「久々に歩いたもんね。そりゃ疲れるよ。明日から本格的に山登りだから、今日はできるだけ早めに休もう」
隣に腰を下ろし、軽く跡がついて赤らんだ頬を優しく撫でたら嬉しそうに微笑んでくれた。ああもう、ほんと可愛いって。最近あまり彼女に触れられていない僕は、この程度のことでもつい舞い上がってしまう。
「ご主人の仰せの通り、今は鋭気を養うのがよろしいかと」
今度は僕の後ろに静かに控えていたマーリンが、淡々と同意を口にする。何の用かと思ったら、これまで学んできた魔法理論のおさらいをしたかったらしい。船上という限られた空間ではあまり大きな魔法は試せなかったから、マーリンとしてはいよいよこの山越えの中で、本格的に魔法を習得させていく心算らしいのだ。
「学びの成果をいよいよ実践に移していけます。奥方様の攻撃魔法、実に楽しみだ」
珍しく薄く笑んで呟くマーリンを、フローラがどこか不安そうに見つめながら頷いた。
それにしたって、つい半年ほど前にはベホイミ以外唱えたことがなかったフローラが。フローラの魔法教育はマーリンに任せきりだったが、以前習得順をどのように考えているのか尋ねたところ、初級魔法をすっ飛ばしていきなり中級の炎魔法を詠ませるつもりだと言われて驚いたことがある。
普通の人の習得間隔はわからないが、僕だって魔法を使い始めた頃は初級のバギが精々で、バギマを詠めるようになったのは成長し独り立ちしてだいぶ経った頃だ。ビアンカだって、あれで十年は炎魔法を詠んできている。確かにフローラは驚くほど習得が早いけれど、たった半年でメラミを詠むなんて、フローラの心身に負担がかかりすぎるのではないだろうか。
ましてフローラは、魔物を直接手にかけたことが未だない。
「少し、気を張りすぎてるんじゃない? 船の上でも体調悪いのに一生懸命勉強してたし……二人とも、船酔いしながらさ」
純粋に心配になったからそう言ったのだけど、船底でむっつりしていたマーリンを思い出したらちょっと可笑しくなってしまった。うっかり笑ってしまい、フローラとマーリンが揃って不服そうな顔をした。
マーリンは仲魔達の中でも特に船酔いしやすいみたいだ。元々寡黙だし無表情な御仁なのだけど、揺れが酷くなるたび趣味の読書を封印しては部屋の隅にうずくまり、落ち着くまでひたすら壁を睨むことを繰り返していた。わかりやすい。
当然似ても似つかない二人だが、生真面目な気質が元来近しいのかもしれない。最近見せてくれるようになった、フローラのそういうむっとした顔なんかは明らかにマーリンに寄ってきている気がする。
「私のこれは、性分でございます故」
「マーリン様、実はお辛かったのでしょうか。申し訳ありません、私の配慮が行き届かず」
船酔いを揶揄されて一瞬むくれた妻だが、すぐにマーリンを気遣う素振りを見せる。いや、君だって辛そうにしてたんだから仕方ないと思うよ。対するマーリンは全く無感動に首を振り、にべもない口調できっぱりと断じた。
「私への配慮など一切不要。奥方様はご主人の片腕となられる御方、私に尽くせる力があるならば、今後も全霊をかけてご助力致しましょう」
なんとも涙ぐましい師弟愛ではないか。「そのお気持ちに応えられるよう、一層精進いたします」と決意を新たにするフローラと黙って頷くマーリン、彼女をやんやと励ますホイミン達を微笑ましく見守っていたのだが、ふとそんな、傍観者みたいな立ち位置になっている自分に対して疑念が湧いた。
「……? どうか、なさいました?」
「あ、いや。なんか、本当に僕って魔物遣いなのかなぁって。だって最近、フローラの方がみんなと仲良い気がするし」
思ったことをそのまま口にしたら、フローラとホイミンがそれぞれきょとんと顔を見合わせた。
そこまで変なこと言ったかな。実際問題、最近スライム属のみんなが僕より先にフローラに飛びついていくなぁというのは感じていた。特に引っ込み思案なしびれんは、女の人であるフローラの方が僕より安心するのか、暇な時はすっかり彼女にくっついて離れないし。
「そんな、こと……ないと思いますよ。皆さんに良くしていただけるのは、私があなたの妻だから……ですよね? お二人とも」
「ホイミン、ふろ〜らちゃんだいすき〜! でもホイミンは、ごしゅじんさまのなかまだから〜!」
うん、ホイミンやっぱり要領を得ない。でもありがとう、なんとなく言いたいことは伝わった。
この、魔物遣いの力っていうものがどういうものなのか、未だにいまいち把握しきれてないんだよね。魔物研究所のお爺さんからは邪気を払う瞳だ、みたいに言われたことがあるけど、そもそも邪気ってなんだろう。異様な闘争心だとか興奮を鎮める作用があるのかな、とは思うんだけど。
彼らは、僕だから従属していると口々に言う。本当にあまり主従という感覚ではないのだけど、確かに彼らと自分が繋がっているのかな、と感じることはある。例えば僕が調子悪いと、みんなのキレも悪くなる気がする。双方の意思にかかわらず何らかの契約で繋がってしまっている状態なのだとしたら、逆に言えば彼らの意思に関係なく、一度従属した魔物は主の支配下から逃れることができないんだろうか?
例えば今みたいに、邪気が落ちた彼らが僕以外の誰かにすごく懐いたとして。その誰かを害することであっても、僕が命じれば、彼らは遂行してしまうんだろうか。
魔物遣いの、強制的な従属力によって。
それは、考えようによってはひどく、恐ろしいことのように思われた。
「全く、何を仰るかと思えば。我々が何故ご主人に大人しく繋がれておるのか、とんとご理解いただけていないと見える」
もやもや展開したろくでもない思考を打ち払ってくれたのは、常に沈着冷静な、学者肌の魔法使い。
「我々にとって、その御力は唯一無二。主と戴く存在は、貴殿をおいて他にはおられぬ」
……本当に、そんな大層な身分でもないと思うんだけど。
でも、やっぱりそう言ってもらえるのは……嬉しい。面映いし、そんな強い誠意に応えられる自分でありたいと思う。
『主』と呼ばれて恥じない、自分で。
「うん。……なんか、変なこと言ってごめん。いつも本当に、ありがとう」
まだ、何も覚束ない僕だけど。精一杯気持ちを込めてそう言ったら、フローラもホイミンもほっとしたように表情を緩めて笑ってくれた。もちろんマーリンも、無表情のまま一度だけ深く頷く。
僕はどこまで、間違わずにいられるだろう。
せめて、僕自身が正しいと思うことのためだけに。妙な力を傲るのではなく、彼らの厚意で力を借りているのだと、その意識だけは失わずにいたい。
「私も、皆さんと同じ、ですから」
僕を仰いであどけなく笑うフローラを見下ろしたら、たまらない愛しさが込み上げた。少し躊躇いながら碧髪を撫でれば、またほんのりと幸せそうに微笑む。そんな表情に、僕は恐ろしいほど安堵する。
どうか変わらないで。ずっとそうして、僕の側で笑っていて。
表に出せない密やかな葛藤を押し殺し、祈る。
初めて降り立った故郷の夜が、そうしてゆっくりと更けていく。
その晩は食堂で大きなテーブルを囲み、宿屋のご家族の皆さんとお客さんも一緒に、賑やかな夕食をいただいた。
メインの料理は、夕刻獲って捌いたばかりの兎の香草焼きとシチュー。あっさりした肉の旨味を、よくすり込まれた塩が引き立てる。素朴な味わいのパンにもよく合った。今頃この床下でも、ご馳走を囲んで仲魔達がわちゃわちゃ盛り上がっていることだろう。
狩りから下準備まで手伝ったことを話したら、敬虔なフローラは僕と宿の皆様に感謝の言葉を告げ、印を切っていつも通り深く祈りを捧げてから、カトラリーを手に取った。
「あらまぁ、だよねぇ。あんたも隅におけないじゃないか」
到着した時にも会っているだろうに、改めて皆さんに妻を紹介したところ、やたらにやにやと顔を緩ませたネッドさんに脇腹を小突かれた。何だと思ってたんだろう。まさか兄妹だと思われていたとか?
「大変な旅路でしょうに、ご主人についてここまで来られるなんて。本当に大したものですよ。愛ですねぇ……」
先刻フローラの寝顔に見惚れていたお客さんが、湯上がりで髪が湿ったままのフローラをうっとり見つめて話しかけてくる。恥じらって目を伏せたフローラはとても可憐だ。
「なんだっけね、遠い西の大陸からおいでになったんだって。旦那の故郷参りの為にはるばる、奥さんの故郷から? 見るからにいいとこのお嬢さんをこんなところまで連れて来ちまうんだから、あんたも大概愛が重いよねぇ」
そこら辺は自覚があるんで、ほっといてくださいね。込み上げる羞恥は一心不乱に肉を噛んで誤魔化した。黙々と料理を頬張り老婆の冷やかしを受け流していたら、隣のフローラが優しくフォローしてくれた。
「私も、彼の故郷を是非見たいと思ったのです。ずっと昔に、私の父がこちらの王都を目指したことがあったそうで。その時は辿り着けなかったそうですが、彼と一緒ならきっと、この険しい山も越えられる気がします」
うっ、天使かこのひとは。さっきまで僕を揶揄っていたネッドさんも何やら窪んだ目を潤ませては「泣かせるねぇ……なかなか大変な道だと思うが、頑張んなよ」などと優しく声をかけている。待って、僕とフローラで激しく態度が違う気がするんですがそれは。もしやお孫さんとフローラを重ねてない? 年齢が結構近かったりとかするんだろうか。
「ティナちゃんがお嫁に行く時も大変だったねぇ、ネッドさん。もう六年かい? 月日が経つのは早いもんだ」
そんなことを思ったところで、ちょうどよく話題がそちらに逸れた。不思議そうに瞬きして顔を上げたフローラに、番頭さんご夫婦が丁寧に説明してくれる。
「娘が、ここの山奥にある村に嫁いでおりましてね。輿入れの時は向こうが男手確保して迎えにきてくれたんで、まだ安心して行かせられましたけど……文をもらうまでもう、不安で不安で」
「ええ、そうなんです。お嫁に行ったのがちょうど、そちらの奥様と同じくらいの歳の頃だったかしら? それから一年くらいで孫が産まれたのよね」
この歳でお婆ちゃんになるなんて変な感じだわ、と若女将さんがそわそわ言うと、お前達も早かったじゃないか、とネッドさんが冷やかし混じりに笑う。他愛無い、ただの微笑ましいご家族の会話なのだけれど、何故か今は身の置き場がない心地がした。
孫、だって。フローラ。
ちらり、フローラの様子を窺うと、さっきと変わらず穏やかな微笑みを浮かべて相槌を打っている。僕の方を見ないまま。
……なんだろ。何でこんな気分になるんだろう。何か、違う。いつものフローラとはこう、いつもなら……こんなの、彼女らしくない。何で、意図して、何でもない顔してるみたいな────
やっぱり、変だ。
少し前までのフローラは、子供の話題にもっと……過剰なほど反応してた。授かった? と訊くたびに真っ赤になってぶんぶん首を振ったり、子供がいる未来を想像しては幸せそうに話してくれたり。
話の流れで、こんな風に子供の話が出た時なんかは、いつもちょっとだけはにかみながら、僕と視線を交わらせてくれた。
そういう素振りを微笑ましく感じればこそ、他人行儀に思ったことなんてなかったのに。
はっきりと違和感を覚えたのは、やっぱりきっとあの時だ。その瞬間を思い出し、胸がぎゅっと苦しくなるのを無意識に抑えてやり過ごした。
だからこそ、訊けない。もうこういうことは、僕からは絶対に訊かないって決めたから。
今更、悔やんでも悔やみきれないけど。
ああ、…………そんなにも、
君を失望させてしまったんだろうか。僕は。
◆◆◆
サラボナを発って、エストア大陸に着くまでかかった日数はおよそ二ヶ月半。
この長い航海の間、僕は全く意図せず禁欲生活を強いられた。年頃の若造なので察して欲しい……しかも傍には最愛の妻がいるというのに。
半年前の航海ではまだ時々交わりを持っていたし、出立前のサラボナでは蜜月というべき濃密な日々を過ごしてきたから、人目があるとは言え僕としては正直、その機会に恵まれることをものすごく期待していた。うん、恥ずかしながら僕はこの二ヶ月半、相当欲求不満気味だったと思う。
乗船して程なく、僕ら夫婦はそれぞれが体調を崩してしまった。
どちらも単なる風邪のようだったけど、特にフローラは吐き気を伴った症状がなかなか治まらなくて、長いこと、ひどく辛そうにしていた。
さすがに一ヶ月も経てばだいぶ良くなったように見えたけど、よくよく見ているとまだ不調なのか、腹部を撫でていることも多かった。更にフローラは毎晩、ベッドに潜り込むなりこときれたように眠るようになった。就寝前はいつもちょっとしたお喋りを楽しんでいたのだけど、最近はそんな機会もめっきり減ってしまって、でも寂しいとは何となく言い出せずにいた。一緒に眠っていることには変わらないのだから、そんなこと言っても困らせるだけじゃないかと思って。
やっぱりまだ、本調子じゃないんだろうな。そう思って夜、やっぱり誘いたいのをずっと我慢していた。
せめて、愛らしい寝顔をぼんやり眺めては、己の欲求をなんとか紛らわせて。
前、砂漠に降りた時には、下船の前夜に僕が我が儘を言ったせいで、彼女をしっかり休ませてやれなかった。
また同じ轍を踏むのは嫌で、そう思うと、いよいよ大陸が近づくごとに余計に言い出せなくなっていた。
そんな中、あの小さな事件は起きたのだ。
あれは、フローラに月のものが変わらず来ているかと問い質した日のこと。
フローラが過ごす特別船室を訪ねた後、僕は込み上げる羞恥とか後悔とかで頭の中をぐちゃぐちゃにしながら、仲魔達の憩いの場である地下の小部屋に駆け込んだ。
「おや、あるじ殿。今は後部の番のはずでは」
もはや彼の一部と言える、緑のスライムを拭いてやっていたピエールがのほほんと顔を上げる。今この船室にいるのはピエールとマーリンのみ。ガンドフとプックルは魔物番をしていて、今はサボり中の僕の分まで後部甲板を守っている。スライム属のみんなは最近、暇になると医療班として船員さん達の周りをうろちょろしたり、甲板の空いたところでスライム属流の鍛錬に精を出しているらしい。
「ちょっと、懺悔させて……!」
駆け込みざま奇声をあげてがつん‼︎ と壁に頭を打ちつけた僕を見て、ピエールは早速「魔物に懺悔とは、これまた珍妙なことを仰る」などと可笑しそうに揶揄ってくれた。じとりと睨んでから、口早にことの顛末を説明する。別に話さなくても良かった気はするが、その時の僕はどうにも、どこかにこの胸の内をぶちまけないと人前に戻れない有様だったのだ。
フローラの前では平静を装いきったつもりだったが、本当はもう、今すぐ頭を掻き毟って身悶えたくて仕方なかった。ここが海の上じゃなかったら、今頃僕は地中深くまで穴を掘って埋まっていたことだろう。
「ほおぉ。つまり奥方殿の胎に仔がいるやもと聞いて、居ても立ってもいられず」
慌てふためいた僕の要領を得ない説明でも、さすがピエール。簡潔に要点をまとめあげ、わざとらしく深々頷きながらこちらを覗き込んでくる。
「いやさすがに、今回は呆れられたと思う……あー! ほんとなんであんな風に訊いちゃったかな僕は‼︎」
思い出すだけで顔から火が出そうだ。ほんの半刻ほど前、魔物番をしていたところにフォスター船長が顔を出した。初めは他愛ない雑談をしていたのだが、ややあって相談したいことがあると言われ、持ち場を離れて一度船長室に入った。他の船員にあまり聞かれたくないと前置きした彼は、ひどく遠慮がちに、彼の抱いた疑念について話してくれた。
曰く、お嬢様は実はご懐妊なさっているのでは、と。
何故今までその可能性に思い至れなかったのか。言われてみれば、確かにヘンリーから聞いた悪阻の症状に似ている気がする。吐き気は慢性的に続いていたようだが、特定の食べ物とやらに反応する様子がなかったから見逃してしまったのか。体調を崩したのも、ちょうど僕が風邪をひいた直後だったから、その所為なんだろうと思い込んでいた。
もしかしたら本人も気づいていないかもしれない。意外と気付きにくいものだってヘンリーも言ってたし。さすがにお嬢様に直接お訊きすることは憚られる、と言葉を濁した船長に、すぐに確認してきますと豪語して船長室を飛び出した。
そう、まさに居ても立っても居られずだったが、結果は残念ながら、否。
しかも土壇場でいい確認方法を思いつかなくて、そういえば妊娠すると月のものが止まるって言ってた、くらいの思いつきでひどく不躾な聞き方をしてしまった。あんなの呆れられて当然だ……! なんてデリカシーのない夫だと、今度こそ幻滅されても文句は言えない。
思慮深い船長がああやって躊躇するくらいだ。夫婦であっても簡単に踏み込んでいい領域じゃない。だからフローラだって普段、僕にいちいち月のものの報告なんてしないのだろうし。いやそもそも、そういうものじゃないんだろうし……
ヘンリー夫妻の懐妊を聞いて浮かれたのもあって、サラボナに帰ったあたりからわりとしつこく聞いちゃってたもんな。毎回申し訳なさそうに否定してくれていたのが、今回ほどはっきり、妻に呆れられたと感じたことはない。
それでも微笑みを絶やさず、優しく諭してくれた妻に本気で頭が上がらない。あああもう、埋まれる穴はどこですかここですか‼︎
「そう石頭で乱打して、船底に穴が空いたら如何する。少し落ち着きなされ」
苦笑いで止めてくれたピエールに思わず恨みがましい目を向けて、がっくりと項垂れた。はああぁ、と口から勝手に盛大な溜息が漏れる。
……決めた。もう僕から不躾なことは訊かない。特にこういう、デリケートなことは。フローラだってあんなに苦笑しながらも、変わったことがあったら初めに教えてくれるって約束してくれたんだから。
「その愉快な姿をお曝しになれば、奥方殿も絆されるかもしれんよ。ただでさえあの方はあるじ殿に『くびったけ』なのであろうから」
────首っ丈、って。
全く調子いいもので、愛妻の好意を匂わされた僕はピエールの意のまま、そろそろと顔を上げてしまう。万年片想いの如く、僕の方が愛が重い自覚があるから、そういう言葉につい縋ってしまうのだ。絶対にその鉄仮面の下でにやにやと僕を冷やかしているであろう相棒を睨み、せめてもと口答えを試みたが。
「……ほんと、どこで覚えてくるの。そういう言葉」
「船乗り達が噂しておった。まぁその時は組合せが逆であったかな? 暁の見張りはなかなかに暇で」
逆って何。しかもいつの間に、船員さん達とそこまで親睦深めてたわけ? それなりに目を配ってたつもりだけど全然知らなかったぞ。
まぁ、皆さんと仲良くしてもらえるのは嬉しいけどさ。
「……船長に報告してこよ……戻るよ。聞いてくれてありがとね」
ピエールと話していたらなんだか脱力してしまって、のろのろと重い腰を持ち上げた。もう小一時間持ち場を離れてしまっている。騒ぎは聞こえてこないから今のところ戦闘はなさそうだけど、早く戻って船員さん達にも休憩をとってもらわなくちゃ。
はぁ、と最後にもう一つ気鬱な溜息を漏らした僕の背に、見送りの挨拶とばかりに愉悦混じりの呟きを投げられた。
「まったく、ヒトのオキモチとは実に度し難いものよ。斯様なあるじ殿を拝む分には愉快極まりないが」
「貴殿も魔物にしては大概好事家の部類かと。奇怪過ぎて、私には理解する気が端から起こらぬ」
「拙者とて恐らく一生、理解が及ぶ気はせんよ。なればこそ面白い、はてこれは崇高なるヒトへの探究の一端か、或いはある種の怖いもの見たさか……」
僕が言い返すより早く、今まで会話に加わらず魔導書を黙々読んでいたマーリンが無関心表明ともとれる合いの手を入れてくれる。魔物である彼が意外にも船酔いしやすいのは、ああやって空き時間にひたすら本を読んでるからじゃないのかな、と思ったりする。
どこか老獪な雰囲気が漂う者同士、意見を交わし合っているのはちょくちょく見かけるが、実のところ仲が良いのか悪いのか良くわからない。つれない一言だったがピエールが気を悪くした様子はなく、寧ろますます愉しげに好き勝手言ってのけては一人忍び笑っている。
……でも、そっか。傍から見て、そう見えるんだ。
首っ丈、だってさ。
自信のなさをこんなことで補うのは不毛な気がするけど、嬉しいものは仕方がない。にやける頬を叩いて誤魔化しながら、小部屋の階段を急いで上がった。
ほんと、一度満たされたらずっと変わらずいられれば良いのにな。我ながら贅沢な生き物だと思うよ。……どんなに満ち足りても、次の瞬間にはもっと、って思っちゃうんだから。
────絶対に変わらない、なんて、
誓い合うことは出来ないんだろうか。
ちょっと前にはもう、何も不安になることはないと思ってた。
あんなにも信じていられた。今だって、僕自身は何も変わっていない。同じだと、思うけど。
ただ、幸せすぎたから。欲張りになっただけ、なのかな。
僕も、もっと時間が経ったら、今のこの気持ちが変わってしまったりするんだろうか。
穏やかに。緩やかに。
想いの熱量が、前より増したと感じても。冷めたと思うことなんて未だないのに。
温度差、みたいなもの。
それはごく微かな違和感に過ぎなかったから、僕は頭を強く振って、そのもやもやを振り切った。
前に、何人でも産むって言ってくれてすごく嬉しかった。
フローラも子供が欲しいって言ってくれたし。男の子と女の子、どっちが欲しいですか? なんて君が問い返してくれた時にはすっかり舞い上がってしまった。……僕がはしゃいで訊いたものだから、話を合わせてくれただけかもしれないけど。
君と一緒に『親』になれるなら、とても素敵だと思ったんだ。
ちゃんと、僕達の想いは通じ合ってて。だからこんなの、考えすぎだってわかってる。僕が卑屈になってるだけだって。
彼女が僕のために、今はグランバニアに行くことを最優先に考えてくれていることも、ちゃんと、解っている。
だからこんなの、ただの、僕の甘えにすぎない。
「……フローラは、そこまで……欲しくない、のかな……」
本日、二幕・三幕の章整理を行いました。これまで7000字目安で分割していた話を2.5万字程度を上限に統合しています。第二幕以降で栞を挟んでくださっていた皆様、話数がずれ込んでしまい申し訳ございません。
今後はこのように動かすことはないと思います。冗長な物語ですが、少しでもお楽しみいただけたなら幸せです。