Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】   作:サクライロ

70 / 77
#6. 怨敵襲来

【side Tyr】

 

「あんなに親切な方を怖がるなんて……、私、まだまだ人としての修行が足りませんわ」

 まだどこか怯えた様子のフローラが、今来た道を振り返り、しみじみと呟いた。

 殊勝な彼女には申し訳ないが、昨晩の宿には思うところがありすぎる。ん、と曖昧に相槌を打ち、尚も後方を気にする妻の手を掴んで引き寄せた。驚いた彼女が青翠色の瞳を大きく見開いたが、苦笑いで誤魔化した。

 昨夜はこうやって手を取りたくても、一服盛られて身動きできなかったからね。実際、とんでもない大失態である。

 時は少し遡って、マッドとラゴンが仲間入りした翌日の夕方。

 グランウォールを更に登った山の奥深くで、僕達は怪しいお婆さんが隠れ住む洞穴を見つけた。否、正確にはすっかり道に迷ってしまって、彷徨っているうちに日が暮れてしまったのだ。途中までは道なりだったし、時々坑道への目印と思しき石塚も見かけたから、そこまで大きく外れてはいなかったと思うんだけど……

 山の天気は変わりやすい。その日は昼過ぎから雨が降ったり止んだりを繰り返していた。もう四日登っていたから早く坑道に着ければと期待していたが、歩けども歩けどもそれらしき洞窟は見当たらない。駄目もとでマッド達に心当たりがないか聞いたところ、奇声をあげて踊りあがった二匹が大股で走り出した。慌てて馬車を駆り追いかけて、結果、見つけたのがその奇妙な洞穴である。

 坑道……、ではなさそうだ。馬車を引いて中を窺うとすぐ下に掘られた階段があり、どうやらずいぶんと拓けた空間になっている。が、暗い。じめじめして、何だかすえたような嫌な匂いもする。薄気味悪いが、外はいよいよ本降りになっていて、敢えてここで雨宿りする以外の選択肢が見当たらない。

「誰か住んでいるのかな。魔物の巣じゃないといいけど」

 独りごちつつプックルの首を撫でたが、彼が警戒を強める様子はない。ということはひとまず、安心していいのだろうか。

 空間があるとはいえ、全員で暴れるには狭すぎる。プックルとピエールにだけついてきてもらい、下層の偵察をすることにした。

 果たして、僕達はその奥で、実に怪しげなお婆さんに出会ったのだった。

「まぁ、なんだかんだ親切だったんだとは思うし。悪い人じゃなかったのかもしれないけど……」

 昨晩の出来事を思い出し、苦いものを噛み潰す。たまたまあのお婆さんが僕らを害さなかったというだけで、あれが悪意ある魔物やならず者の類だったらと思うと。今更肝が冷えるばかりだ。

 何があったかというと、前述した通り、薬を盛られた。疲れているだろうからと泊まっていくよう強引に勧められた挙句、睡眠薬の類だろうか。恐らく夕飯の粥か何かに入れられたのだと思う。よく眠って疲れが取れるようにの、と老婆は悪びれず言ってのけたが、深夜たまたま目を覚ましたフローラと僕は金縛りにあったように身体を動かせず、正直精神疲労が倍増した。しかも、無音のはずの洞穴には何やら刃物を研ぐような音が静かに響き渡っていて、気味が悪いことこの上なかった。そういえば洞穴を降りてくる途中、おびただしい骨が打ち捨てられているのを見た気がする。

 必死に呻き声をあげる僕らに気づいたらしい老婆が降りてきて、ニタリと薄気味悪い笑みを浮かべて言い放ったのが、言い訳じみたさっきのあれ。

 その上、研いでいた刃物の正体が、いつの間にか掠め取られていた父の剣だったと知って背筋が凍った。寝台のすぐ脇に、咄嗟に掴めるよう置いておいたものなのに。

「やっぱり、父さんの剣を勝手に触られるのは嫌だよ。僕は」

 どうにもざわざわする、腹の中を落ち着かせながらそれだけ言うと、フローラはやるせない表情で僕を振り仰ぎ、小さく小さく頷いた。

 そもそもあの人、本当に人間だったのかな。あんなところに変わり者の老婆が住みついているなら、ネッドさん達が教えてくれていそうなものだけど。仲魔達が全く警戒していない様子を見るに、どうやら本当に悪意はなかったようなのだが。

 不思議なことに、正しい山道はその洞穴を出て程なく見つかった。見覚えのある石塚を辿り登っていくと、割とすぐに坑道の入り口に出た。

 昨夜は雨だったし、暗かったから見落としてしまったのかもしれない。大きくくり抜かれた岩棚にはざっくりと、見慣れない地名がいくつか掘りつけてあった。その中に、これから通過するであろうチゾット村の表記を見つけて安堵する。

 最後に食糧とみんなの体調を確認して、いよいよ坑道に入った。ここからはまた数日、時折分かれ道を確認しながら長い洞窟を進んでいく。

 一本道かと思ったが、そうでもなかった。天井は思いのほか高く、途中途中に広く掘り抜かれた空間が点在している。

 削りすぎて崩落したところや、時折人が亡くなった跡を見かけたりもした。小さな墓標を見つけるたび、フローラが足を止めて祈りを捧げていた。

 魔物に襲われたのか、数人分の白骨が、雑多な荷物と共に散乱していたこともある。

 あまりに痛ましいその光景を、見て見ぬ振りは出来なかった。フローラと、手伝ってくれる仲魔達と共に簡単に亡骸を供養した後、形を残した荷物を拾って包んだ。最近山を降りてきた人がいないってことは、この先の村か王都に、持ち主の縁者がいるのだろうなと思ったから。

 魔物は、それなりに巣食っていた。洞窟内だと言うのに飛空魔も相変わらず飛び交っている。それと、骸骨の魔物がよく出た。まるで地獄の底から這い出てきたかのように、低く唸りながら僕達を追ってくる。幽霊の類が苦手なフローラや臆病なしびれんは特に、この骸の魔物達に対して怯えを隠せずにいる。

 どうしても灯りを要するこの場では、カンテラを持ち歩く僕らは恰好の的だった。

 坑道に潜り始めてから、体感としては三、四日目。

 睡眠のため、少し長めの休息を交代で数回取って、その間にも魔物の群れに何度か遭遇した。場所が場所なので派手に魔法を使うことは憚られて、仲魔達との連携を頼りに、慎重に敵を捌いていく。

 スライム属達をはじめ、何匹かの仲魔達は洞窟内が狭いこともあり、移動中は馬車の中に引き篭っていた。結界魔法をかけ直すため、ホイミンだけが時折幌から出てきて辺りを旋回する。最後尾には疲れ知らずのドラゴンマッド二匹、先頭をプックルに守ってもらって、パトリシアの手綱を引く僕と荷台の隣を歩くフローラの五名が、今、馬車の外に出ている面々だった。

「外が見えないと、時間が全然わかんないね。疲れたら早めに教えて? 本当に、気を遣わなくていいから」

 前回の休憩から一刻は経っただろうか。もはや腹時計が唯一の頼りだ。体の大きいマッドに追い立てられるようにして、懸命に歩くフローラを振り返った。

 だいぶ暗闇に目が慣れたとはいえ、ここでは彼女の様子をしっかり見てやることができない。口数が少なくなっていたフローラだが、返ってきた声はすこぶる元気そうでほっとした。

「まだ、大丈夫ですよ。テュールさんは本当に体力がお有りなのですね」

「男と女じゃやっぱり違うよ。特に僕は、歩くのも戦うのも、人よりずっと慣れてると思うし」

 実際、今も僕はさほど疲労を感じていない。ホイミンのトヘロスとフローラの支援魔法のお陰で、遭遇した魔物は総じて難なく退けられている。仲間になった当初は力任せに暴れるばかりだったラゴンとマッドも、フローラや馬車を守って戦うことに少しずつ慣れてきている。戦い方さえ落ち着いてくれば、効率良く体力を温存していける。

 僕や仲魔達はそれでいいけど、線の細いフローラが同じようについてくるのはきっと、僕らが思うよりずっと大変なことだ。

 特に彼女はこういう時、自分から休みたいとは中々言ってくれない。僕らの歩みに合わせて、一生懸命ついてきてくれるから。

「フローラに体力で負けたら、僕の立つ瀬がない。だから、本当に遠慮せず、休みたい時は言ってね。あ、足痛くない?」

 前にもこんな会話をした気がするが、妻の我慢強さはもう嫌というほど知っている。しつこく繰り返す僕に鬱陶しがる素振りも見せず、彼女は「大丈夫です。やっぱり、テュールさんはとてもお優しいですね」とくすくす、珊瑚の唇に白指を添えて愛らしく笑った。

「十分すぎるほど気にかけていただいていますよ。でも、ありがとうございます。嬉しいです」

 そんなふうに言ってもらうと、単純だけど褒められた子供みたいな、面映い心地になる。

 優しいのはフローラの方だよ。絶対、僕の方が気遣ってもらってると思う。

 けれどそのあと、続けて呟かれた言葉がほんの少し心許ないように聴こえて、思わず身体ごと彼女を振り返った。

「本当は、洞窟に入れてほっとしました。……ちょっと、高いところが怖く、なってきていました、から……」

 肩をきゅっとすくませ、それでもきっと精一杯、平気な顔を繕って、君は微笑む。

 微かな自嘲を含ませたそれは、また僕に迷惑をかけまいと気を張ってくれているが故だろう。

 頼って欲しい。たまには泣き言を言ったっていいのに。みんなより多く休憩したって構わない、高いところが怖くたって、足手まといでも何でもないのに。

 それでも、たった今零した独白が、何でも一人で乗り越えようとする君の、精一杯の弱音なんだってわかるから。

 労しい、切ない想いが込み上げて、パトリシアと僕の間を少しだけ空けて手招きした。不思議そうに首を傾げたフローラが歩み寄る。その細い指の隙間に、掌をするりと差し込んだ。

 肩を震わせた彼女が、白い吐息を零して僕を見上げる。

 相変わらず儚い君の手は滑らかで、氷みたいに冷たかった。

「こうしていると、安心しない?」

 耳許に問いかければ、恥じらうように俯いた君が、遠慮がちにきゅっと握り返してくれる。

「……安心、します」

「僕も。……なるべく、離さないようにするからね」

 気休めに過ぎないとお互いわかっていたけれど、フローラはほんのり、嬉しそうに微笑んで頷いてくれた。

 魔物が出れば、どのみち手を離して彼女を後ろに隠さなくてはならない。けどせめて、こうして歩いている間くらいは。

 それきり会話は絶えたけれど、さっきより温もりを取り戻しつつあるフローラと手を繋いでいると、余計な思考が削ぎ落とされて、精神が静かに凪いでいく心地がした。

 ────そう、言った通りにすれば良かったんだ。

 状況が許さないことは多々あるし、それでどうにかなることなんて、現実にはそう多くはない。

 けど、どうにもならなかったとしても、あの時だけは手を取りあっていたかった。離さなければ良かったって。

 時間が経って思い返すほど、後悔は飲み下せない、苦い味に変わるのだ。

 

 

◆◆◆

 

 

 途中、幾つもの分岐に迷いつつ、正確には何度も袋小路に突き当たっては来た道を戻ることを繰り返して、更に歩くこと数日。

 狭い坑道を抜けた先に、よく磨かれた滑らかな大岩がいくつも乱立する、少し広い場所に出た。

 天井も高い。どうやらここから先はまた、山道のような急勾配になっていくようだ。鉱物を多く含んでいるのか、岩壁がカンテラの灯をきらきらと反射して、なんとも神秘的な、仄かな明るさを保っていた。

 これが、鉱床というものか。

「……きれい……」

 夏の夜にだけ見える、星の河にも似た細かな光を仰いで、フローラが感嘆を滲ませた。

「うん。夜空みたい、だよね……」

 僕もまた、天に見惚れる仲魔達と共にしみじみと見上げる。

 祭壇みたいだな、とちょっと思った。今まで来た道とは違い、壁面を無造作に彫られた形跡がないのだ。この辺りは何か、地元の人々にとって特別な場所なのだろうか。

 とはいえ、魔物が出ることに変わりはないらしい。

 大岩の陰から三、四体の骸達がぞろりと顔を覗かせた。僕達を見咎めると、法衣を纏った骸骨の低い唸りを受けて、槍を構えた骸骨達が一斉に襲いかかる。

「無粋な輩だ。映す眼なくば詮なきことか、哀れな!」

 暗黒の眼窩を睨み据え、ピエールとプックルが真っ先に飛び出した。何度かはその身に雷と穂先をかすらせながら、しかし息のあった連携で次々に敵を打ち伏せる。ここ数日、骸骨とばかりやり合ってきた仲魔達の迎撃ぶりは見事なもので、あっという間に方がついた。

 魔物の気配が消えたことを確認して、星屑の広間のようなその場所で全員、半日ほど休憩した。今まで歩いてきた狭い坑道より明るい為か、さほど魔物に煩わされることもなく、交代で睡眠を取ることができた。

「結構歩いたから、もうすぐ山頂の村に着けるんじゃないかな? そろそろ宿でゆっくり休みたいよね」

 坑道に入って何日経ったのか、もうずっとまともに湯浴みをしていない。旅をしていれば当たり前のことだけど、今はフローラがいるから、やっぱり出来ることなら清潔にしたいと思う。

 高い山では体調を崩すことが多いと聞いていたので、ここまでの道のりはなるべく無理をせず、急ぎ過ぎず来たつもりだった。だからこそ、頷いたフローラが元気そうにしていてほっとした。

 その後も何度か魔物に遭遇しては打ち倒し、きつい傾斜では馬車をラゴン達に押してもらって。

 きらきら輝く高い天井を仰ぎながら進んでいくと、切り立った岩の上方に吊り橋が架かっているのが見えてきた。

 傾斜の続く方向を見るに、あそこを渡ることになりそうだ。

「怖かったら、馬車の中にいていいんだよ?」

 さほど高くはないものの、下から仰いだだけでフローラはすっかり青褪めて硬直してしまった。彼女にとって吊り橋は、最も苦手なものの一つだ。馬車が一番吊り橋に負荷をかけることを考えればなるべく重くしない方がいいけど、まぁ、フローラ一人くらいなら。

 覗き込むと、彼女はぐっと唇を引き結んで僕の顔を見上げ、ふるふると首を振った。

「て、手を……繋いでいて、いただけるなら」

 そんなの、お安い御用だって。

 だらしなく緩む頬を懸命に引き締め、小さな手を握る。きっと無意識に、腕に縋りついてくる彼女が可愛くてたまらない。

「支えていてあげるから、フローラは上だけ見てたらいいよ。下が見えると怖いもんね」

 つい弾んでしまう声音を落ち着けて、そう囁いた。強張りながらもフローラが何とか頷くと、彼女を気にしたホイミンとしびれんもふわふわと頭上を旋回して「ホイミンのてにつかまっててもい〜よ〜!」とはしゃいだ声をあげる。仲の良いスライム属達のフォローのお陰で、フローラの緊張も幾ばくか和らいだようだった。

 それからおよそ一刻、急勾配を登り続けて、ようやく吊り橋に辿り着いた。

 強度を確認してまず軽い仲魔達を通し、続いて馬車と大柄な仲魔達を順次渡らせてから、いよいよフローラを迎えに行った。がくがく震えて足を動かせない妻を宥めて肩を抱き、スライム属達の応援をもらいながらも何とか渡りきる。

 不幸なことに吊り橋はその先にもう一箇所あり、フローラは安心したところで再び、命が縮む思いをしなくてはならなかった。

 僕はしかし、役得である。珍しく半泣きでしがみつくフローラを、ほとんど抱きしめながら吊り橋を渡った。

 何故かいつも以上に瑞々しく薫る花の香りに思わず、とくんと胸が高鳴る。

 先に渡りきった仲魔達のぬるい眼差しを浴びながら、苦笑いを噛み殺して少しずつ歩く。半分も過ぎたところでふと、彼らの向こう側に揺らめく小柄な影が目に入った。

「みんな、後ろ!」

 思わず叫んだ。腕の中のフローラがびくりと強張り、一瞬緊張が走ったが、仲魔達の背後から響いたひどく厳かな声が、張り詰めた空気を打ち消す。

 

「お待ちください。私は、魔物ではございません」

 

 殺気もなく、そもそも仲魔達が警戒していなかったのだから恐れる理由もなかったが。思わず身構えたのは、その方が纏っていた装束がここ数日、何度も目にしたものに似ていたからだ。

 神父──司祭の、法衣。

「大変、失礼しました。神父様がこのようなところにいらっしゃるとは思わず」

「驚かれるのはご尤もでございます。お気になさいませんよう、旅の方」

 急いで吊り橋を渡りきり、フローラと並んで腰を折る。

 御年六、七十前後だろうか。物腰柔らかなその老司祭は、濃い笑い皺を刻みながらおっとりと微笑んだ。

「私も驚きました。旅の方にお会いするのは実に久しいもので。ずいぶんと珍しい魔物をお連れですね。魔物遣いとは、またお懐かしい」

 確かに、ドラゴンマッド以外はこの辺じゃ見ない魔物ばかりかもしれない。けど、懐かしいってなんだろう?

 思わず首を捻ると「遥か昔の話でございますが、我が国の王妃殿下が魔物遣いの特性をお持ちでいらっしゃいました」と静かな答えが返った。

 母さんだ。直感してどきりと心臓が跳ねた。魔物と親しむこの能力が、やっぱり母さん譲りのものだったかもと思うとつい気持ちが昂るが、過去の話として語られることにはやはり、一抹の寂しさを覚えてしまう。

 仕方ない。この国は僕の歳と同じだけの年月、王と王妃を失って時が過ぎたのだから。

「はて、しかし鉱石をお探しでしょうか。残念ながらこの辺りはあらかた掘り尽くされておりまして」

「あ、えっと……そうではないんです。昔亡くなった父の故郷が、こちらではないかと教えてくださった方がいまして。是非一度見てみたいと思って、西の、大陸からやって参りました」

 背負った剣を、こっそり隠しながら言葉を選ぶ。

 これだけご年配の、恐らくは地位のある方であれば、両親と何らかの面識をお持ちかもしれない。だが、それを問うのはまず、王都で父の素性をきちんと確認してからだ。

 果たして老司祭は、驚愕も露わに眼を瞠る。

「……本当に旅の方でいらしたとは。これは、失礼を」

 苦笑を交わしあう僕らを見遣り、彼はおもむろに、更なる問いを投げてくる。

「どちらの村をお探しですか。もう小半刻も歩けば、この先にチゾットという村がございますよ」

 チゾット。目標にしていた中継地点の村だ。もう数十分も歩けばこの坑道を抜けられるらしいと聞いて、自然とみんなの顔も明るくなる。僕もまた、胸に広がる安堵を噛みしめながら老司祭に向き直った。

「良かった。実は僕達、グランバニアの王都に行ってみたくてここまで来たんです」

「王都、でございますか」

 しかし、老司祭の反応は芳しくなかった。見るからに表情を曇らせ黙り込んだ老人の様子に、一抹の不安が過る。

「もしかして、他所者が都へ入るのは難しい……ですか?」

 恐る恐る問うと、彼は灰色の眼を軽く瞬かせて首を傾げた。

 何と答えたものか、考えあぐねている様子だ。

 入れないなら、周りの村から周ってみるしかないかな。そのうち伝手を見つけて街に入れるかもしれないし。困惑させたことを詫びようと口を開きかけたところで、努めて穏やかな声音で神父が答えた。

「……いいえ、失礼致しました。長いこと、旅の方のご来訪がなかった国でございますから。恐らく城門で検問がありましょう。我が王都は、城塞の中に街を囲っておりますので」

「ああ、本当に。本で読んだ通りなんですね」

 思わず頷くと、司祭は表情をふっと和らげて僕を見た。

「チゾット村に吊り橋が架かっております。そこから、城影がよく見えましょう」

 ──そう教えられると、途端に気持ちが逸ってしまう。

 高揚を隠しきれない僕を見てとった司祭が、ふふ、と密やかに微笑んだ。子供を見守るような温かい視線に気恥ずかしさを覚えたが、着実に故郷に近づいているのだと思うと、やはり胸が躍る心地は抑え難い。

 こんなにも自分は期待していたのかと、しみじみ思うほどだ。

 ちらりと肩越しに振り返ると、妻も嬉しそうに表情を綻ばせ、僕を見つめてくれていた。

「私がご紹介して差し上げられれば良いのですが、あいにく今、王都の教会から籍を外れた身でございまして。御力になれず、誠に申し訳ございません」

「いえ、そんな、お気持ちだけで十分です。……あなた様のような徳の高い方と行き会えましたことこそ、何よりの幸運です」

 頭を下げられ、寧ろ慌てて言い繕った。不信心極まりない僕としては若干後ろめたい心地だったが、さぞ修養を積まれたであろうこの年配の神職者は、人を癒す微笑みを浮かべて僕ら一行を改めて眺めやった。

「せめて、旅の安全をご祈念致しましょう。チゾット村より先はますます、険しい道のりが続きますゆえ」

 言い終わると同時にとん、と杖を地に打ちつけて鳴らし、厳かに印を切る。疲労回復の魔法をかけてくださっているのか、じわじわと活力が身体の内側に満ちてくる。

 敬虔なフローラも彼に呼応して指を組み、神父様と共に、深く祈りを捧げていた。

「神父様は、どちらかの村へおいでになる途中でいらっしゃいましたか?」

 祈りを終えた司祭に深々謝辞を示した後、改めて問うた。

 王都から登ってこられたのなら、山の反対側へ降りるおつもりなのだろうと思って出た疑問だったが、やや怪訝な顔をされてしまった。

 土地勘がないはずの旅人がこんなこと聞いたら確かに、探りを入れているようにしか聞こえないか。

「あの、麓の……大樹のある教会でお会いしたシスターも、王都から来られたと仰っていたものですから」

 首を傾げていた司祭が微かに瞠目する。「ツリーハウスのような。宿屋に併設されている教会なのですが、ご存知ですか」と言い添えれば、彼はようやく息を吐き、肩の力を抜いた。

「そうですか。彼女は無事、ネッドに……」

 しみじみと呟かれたそれには、確かに安堵と、深い喜びが満ちていて。

 ああ、お知り合いだったのか。

 腑に落ちると同時に、この日この場で彼女の身を案じる人にその無事を伝えられたことは、まるで神の……人智を超えた何者かの采配のように感じられたのだった。未だ、神の奇跡なんて信じちゃいないけど。きっとたった今、この方にとってこれは必要なことだったんだって。

 ……どうして、今、必要なんだ?

 突如、ざわりと────言葉にできない重苦しい予感が胸の中を駆け抜けた。息が詰まる心地がしてふと喉元を抑えた、その刹那。

「目的を申し上げるなら、ここがそうです。私は、この坑道を目指して参りました」

 強い意思が込められた、覚悟すら滲むその声につられて顔を上げる。目が合うと、神父様はわずかに哀しげに、灰色の瞳を細めた。

「ここ数年、この近辺に骸の魔物が多く現れるようになりまして……個人的に、大変気にかかっていたのです」

 ああ、と思わず頷く。同じく僕も、何とはなしに気になっていたことだったから。

 坑道に入ってから見かける魔物がほとんど、骸姿の魔物ばかりだったのだ。あの厄介な飛空魔も飛び交っているが、数はさほど多くない。どちらかと言えば、法衣を纏った魔物が雷魔法を浴びせてくることの方が多かった。雷と言っても勇者由来の天雷魔法ではないようだ。魔道具らしき杖から発せられる弱い稲光を合図に、どこからか骸骨兵が湧いては錆びた槍で猛攻を仕掛けてくる。

 初めは淡々と打ち伏せていたのが、数日間相手をするうちにじわじわと疑念に変わってきた。

 それでも、まさかと思っていた。

「以前は出なかったのですか? あの、骸骨の魔物は」

「ここ四、五年ほどのことでございます。以前は鉱夫も多うございましたから、骸のみならず、ここまで魔物が出るという話はございませんでした」

「そうなのですね……地元の皆様はさぞご不安なことでしょう」

 相槌を打つと、フローラもまた僕の隣でこくりと頷く。

 山を越えようとする人間が減るわけだ。ネッドさんのお孫さんが輿入れしたのも確か、五年くらい前じゃなかったっけ。こうも骸骨がうようよしていては、相当の腕利きが二人三人いないと、ここまで登ってくるのも辛いだろう。

「ご覧になりましたか。あの骸達、多くが兵を、我々のような司祭の法衣をまとった者が指揮しておりましょう」

 雷を放つ、杖を持った骸を思い出し頷くと、淡々と告げる司祭の瞳に苦しげな色が過った。

「先の大戦で、命を落とした方々やもしれませぬ。魔族に利用されたか、朽ちて尚、安らかなることを許されないのであれば……少しでも、浄化してやれないものかと」

 それでここ数日、チゾット村に滞在して魔物退治をしていたのだと、彼は言った。

 神職らしい、立派なお志だと思う。でも、こんなご年配の方がお一人でだなんて。問題が上がっているなら組織として対応するのが筋だろうに、そういえばさっき、王都の教会から籍を外れているって仰っていなかったか。

『異教』が幅を利かせているらしいことと、何か関係があるんだろうか。

 宗教というだけでどうにも警戒してしまっていけない。つい考え込んだところで「皆様がいらした麓側には、骸の魔物は多く出ましたか」と問われた。意識の照準を司祭に戻して、つい昨日までの坑道の様子を思い起こす。

「そう……、ですね。この奥の、狭い坑道の方がもっと多く出たような気がします。神父様が鎮めてくださったから、この辺りには少ないのでしょうか」

 頷く彼に、これは少々気まずく感じながらも言い添えた。

「途中、何度か旅の方と思しき亡骸を弔いました」

 そういう話を聞いてしまうと、僕らが弔ったあの亡骸も、もしや魔物になってしまうのではと不安になってしまう。遺品だけでなく遺骨も、せめて山頂の村まで運んだほうがよかっただろうか。

「……ありがとうございます。大変有意義なお話を拝聴いたしました」

 目を閉じて、何やら思案していた司祭が重々しく息を吐いた。深い嘆きを灰色の瞳の奥に押し隠した彼は、穏やかながらも強い意志を嘆きの代わりに宿し、顔をあげる。

「皆様が来られたばかりですので、しばらくは何も出ないやもしれませんが。少し、奥を見て参りましょう。夜にはチゾットに戻りますから、またお目にかかれるかと存じます」

「お一人で? よろしければ護衛しましょうか。せっかく行き合ったのですから、多少なりともお力になれれば」

「いえ、ここまでの道のりも一人で参りましたから。ご心配には及びません。奥様もいらっしゃるのですから皆様はどうぞ、お先に村へ」

 僕の申し出をやんわりと退け、しかし司祭は、和やかな瞳に一抹の寂しさを滲ませた。

「……ですが、皆様を見ておりますと、賑やかな旅路も悪くないと思えますね。一人旅はどうしても、心細いものでした」

 今夜の宿泊予定を問われ、当然迷わず首肯した。久々に宿が賑やかで皆が喜びます、と神父様が微笑んでくださる。この洞窟にお一人で、と思うとどうにも不安だが、またお会いできると思えば、何故かざわつく胸の内が少しだけ落ち着く気がした。

「それでは先に行って、お戻りをお待ちしております。どうぞお気をつけください。神父様」

「ええ。皆様もどうか、ご無事で」

 軽く腰を折り、杖を握り直した司祭はしっかりした足取りで吊り橋を渡っていった。カンテラの光が届く範囲を外れると、その背中はすぐ洞窟の闇に溶けて見えなくなってしまう。

「……きっと、私も一人だったら……旅に出ることもありませんでしたわ」

 隣で見送っていたフローラがぽつりと呟いた。きっと本当に独り言のつもりだったんだろう。覗き込むと、少しだけ驚いたように瞠目してから恥ずかしそうに肩をすくめ、吐息だけで囁く。

「あなたと一緒だから、私は……」

「……うん」

 肩を抱き寄せ、こつんと頭を寄せる。白い帽子がくすぐったそうに僕を仰いだ。

 ずっと前に、言ってたもんね。大切な人と、世界中を自由に旅するのが夢だったんだって。

 こんな、苦労させてばかりの旅路だけど。僕のわがままは君の望みを叶えることに、少しでも繋がっているだろうか。

 僕の考えていることがわかったのか、フローラが微かに笑う。「これでも私、昨年よりずっとましになりましたでしょう?」などと首を傾げて得意げに言うのが可愛くて、我慢できずにすぐそばにあるこめかみに口づけた。途端にぼんっ! と顔に火を灯したフローラが額を抑え、勢いよく飛び退く。

 残念、久しぶりだからもっと触れたかったんだけどな。

 仲魔達のにやついた視線を再び浴びつつ、なんとなく、神父様の気配を感じなくなるまでその場で見送ってから、ようやくみんなの方を向き直った。

「とりあえず、良かったね。もうすぐチゾットだって。折り返しには来てるから、あとは山を降りるだけ」

 ──……だね。

 言いかけた言葉は、にわかに届いた喧騒に掻き消される。

 洞の奥、今来たばかりの吊り橋の先だ。神父様が消えていった暗闇から不穏な怨嗟が幾重にも響く。老人の険しい声が、何らかの詠唱を試みたその声が、不自然に途切れた。

「────プックル‼︎」

 僕が叫ぶより早く、プックルが地を蹴った。数が多い、いつの間に!

 瞬時に遠ざかる緋色の背中をピエールとスラりんが追って駆け出す。その後をマッドとラゴン、マーリン達が続いた。こんな大群、そう簡単に一人で捌けるもんじゃない。無事でいてくださることをひたすら願って、僕も身を翻した。

「すぐ戻るから、ホイミンは念の為トヘロスかけ直して。フローラは治癒の準備を!」

 ほとんど駆け出しながら、馬車に寄り添う二人にそれだけ言い残して。頷く妻の気配を信じて振り返らず駆けた。馬車を起点にトヘロスを発動してもらっているから、万が一魔物が来ても簡単には二人に近づけない、はず。

 カンテラを掲げて飛び込んだ岩壁の向こうは、言いようのない混沌が広がっていた。

 血の匂い。幽霊の如く揺らめく黒い影は骸達だ。今まで遭遇した中で、最も多い群れに違いなかった。それらが取り囲む中央、仲魔達が庇う地面に誰かが倒れ伏している。

 薙ぎ払われた骸の魔物達のものに似た、司祭の服。

 ついさっきまで、本当にちょっと前まで、僕達と朗らかに話をしていた。あの方が。

 

 何故、喉を、錆びた槍に貫かれ倒れ伏しているのか。

 

「よくぞ耐えられた。今、お助け申す」

 それだけ呟き、跪いたピエールが魔力を集中させ始める。司祭を狙っているのか、骸骨どもが襲いかかるが仲魔達に阻まれ次々に崩れ落ちた。その背後から僕も斬って掻き分け、ピエールの横に滑り込む。

 奇跡と言って良いのか、槍の穂が引っかかってすぐ抜かれなかったことが幸いしたのだ。即死でもおかしくなかったが息があった。ピエールを補佐し、彼のベホマが発動すると同時に思いきり槍を引き抜いた。治癒の光が辺りに満ちて、どぷりと血にまみれる疵口が塞がっていく。が、その最中にも飛空魔が滑空してきた。間の悪いことに誘眠魔法が辺りに充満し、正面から受けたラゴンと、施術真っ最中のピエールがよろめく。

「ガンドフ、マッド! ラゴンを守って!」

 素早く叫び、懐のブーメランをダックカイト目掛けて投げつけた。同時に脇から放たれたマーリンのメラミが飛膜を焼く。ゲェエ、と呻いてダックカイトは落ちたが、その間にも骸骨の兵と司祭が闇の中から湧いて出た。

 ────いや、違う。

 そこかしこに散らばった骨が、少し経つとキングスライムの如く一箇所に集まり、再び正しい位置に組み上げられていく。

 目を疑う暇もなく、一度崩れた骸骨が再び形をとって襲いかかった。斬撃を重ねればまた骨はばらばらになるが、数分と待たず、骸達は次々元の姿に戻ってゆく。

 新たに湧いているのもあるかもしれない。でも、実際に蘇る骸をこの目で見てしまったら。

「……またか……!」

 この気配、覚えがある。砂漠で、海で、異様な再生力を誇る魔物達とやり合ってきた。

 今まで斃してきた骸骨達と明らかに違うのは、何らかの強化を施されているのだろう。それでも、今まで戦ってきた化け物共に比べれば、こいつらはそこまで脅威じゃない。

「きっちり核を取ろう。そうすれば復活しなくなる!」

「うー、でもこいつら、どこにかくあるかわかんないよー!」

 急いで傷を改め、血が止まっていることだけ確かめて。傷ついた司祭を抱き上げるなり、怨念めいた咆哮が木霊した。苛立ちながらも威嚇し返すスラりんの覇気は奴らに負けていない。彼を守るようにひらひら飛び回るしびれんもまた、臆病な彼女に似合わぬ果敢な表情で骸達を睨み返した。

 いつの間にこんな、守る者の顔をするようになったんだろう。

 しびれんの息は効くようだ。僕らを巻き込まないよう、さっきから注意深く、骸だけに麻痺の息を浴びせてくれている。タイミングよく数体の動きが鈍ったところで声を上げた。

「三分止めてて、すぐ戻る。プックル!」

 踊り出たプックルの背に司祭ごと跨って、道を塞ぐ骸達に指輪を向けた。炎に弱いくせに、爆発をものともせず立ち塞がる骸を蹴散らし血路を開く。伸ばされる白骨の腕を次々斬り弾き、マーリン達の援護を受けた隙をついて、一気にその場を離脱した。

 眠って動けないラゴン達には見向きもせず、神父様だけを狙ってくる。当然追おうとしたようだが、手隙の仲魔達が阻んでくれた。感謝しつつ吊り橋を越えると、不安そうにこちらを見守るフローラとホイミンの姿が見えた。

 トヘロスが効いているのだろう。馬車の周りにはひとまずおかしな気配がなくほっとする。司祭を降ろし、治癒をホイミンとフローラに任せて僕だけ戦場へ駆け戻った。どうしても不安だから、プックルにはそのまま彼らを守ってもらうことにする。

 骨の一本だって、この吊り橋は通さないから。

「かような時に寝入るとは、不覚の極み」

「不可抗力だよ。無理するな、ピエール!」

 再び戦場に飛び込めば、ちょうど眠りから覚めたピエールが骸の懐に斬り込んだところだった。一際大きいマッドが吊り橋の前に立って、骸骨どもの進路を阻んでくれている。ラゴンも起き出したらしく、眠気を振り払いながら地面の骨を次々踏み砕いていた。なるほど、粉砕すれば時間稼ぎになるか。でも。

「頭蓋骨を砕いても駄目なのか。もういっそ、全部の骨を砕ききるくらいじゃないと無理かな……」

 それでもうっすら金の光を帯びて、じわじわ修復していく骨を見れば舌打ちせずにはいられない。飛空魔は全部片付いたが、主力の骸が一向に減らない。

「心の臓があるようには見えぬな。核があるとすれば恐らく、骨のいずれか」

「喉、では」

 ピエールの呟きをマーリンが遮った。目配せで理由を問えば、彼はしわがれた低い声ではっきりと告げる。

「司祭殿も、喉の一点を狙われておりましたので。同じヒト型なれば、この者共の狙いにも意味があるやもと」

 ……なるほど。

 神父様もさっき、こいつらが元々人間なのではと仰っていた。同種属とみなして急所を狙ったなら、逆に言えばこの骸達の急所こそ喉なのかも。

 人体には急所と呼ばれる部位がいくつもあるが、特に喉の骨には魂の核が宿ると昔、聞いたことがある。あれは修道院だっただろうか。僕らが流れ着いた後、身を寄せる間にも浜辺に打ち上がった遺体を供養していたシスターが教えてくれたのだ。

「狙えるか? マーリン!」

 既にメラミの詠唱に入っていたマーリンは、答える代わりに素晴らしいコントロールで見事、骸の喉元を撃ち抜いた。

 ただ高火力なだけではない。人にしろ魔物にしろ、これだけの精度の高さを誇る魔法の使い手は非常に稀有だ。

 炎が直撃し、オオオンと濁った絶叫が骨の隙間から漏れる。そのたった今、赤々と燃え上がる喉から金色のまるい光が浮かび上がった。禍々しいその輝きに思わず、息を呑んだ。

 砂漠で。玉虫色のさなぎが弾けた時、あんな光がほとばしったのをこの目で見た。

 今のそれは、あの時よりずっと弱い光ではあるけれど。

 珍しく、マーリンが苦々しく舌打ちした。横目に盗み見て忍び笑ったピエールが、剣を抜きざま加速しながら叫ぶ。

「焔だけでは焼ききれぬか。スラりん、援護を!」

「まっかせてー!」

 ピエール達が駆け出したその時、炎を放つマーリンを狙って別方向から槍が飛んできた。僕が穂先を払ったのと、ガンドフがその柄を掴み取ったのがほぼ同時。動きを止めた骸の首をマッドの爪が抉り取る。呻いた頭蓋骨がぐらりと落ち、尚も力を込めたマッドの怪力で喉骨が粉々に砕け散った。フン、と前足を振ったマッドの爪ほどしかない黄金の核が、骨粉に紛れて闇に散り落ちた。

「ガンドフ、平気?」

 それなりのスピードの槍を素手で止めてくれたガンドフを労えば、力強く笑んで頷いてくれた。彼もベホイミを詠めるから、戦闘に支障があれば自ら回復してくれる。

「いけるね。この調子でこいつら全部沈めて────」

 

 

 異変が起こったのは、その時だった。

 

 

 キィ……────────ン、と、

 ひどく耳障りな波動が、頭の芯を貫く。

 薄気味悪い冷気が音もなく伝播して、洞窟中に充満する。

 気配の元は吊り橋の向こう。たった今フローラ達が司祭を治療しているその場所からだ。他に誰もいなかった、聖結界魔法の効力で、滅多な敵は近づけないはずではなかったか。

 

 

 

 まさか。でも。

 重苦しい。抑えて尚滲む威圧感、存在感。禍々しい、今にもこちらを死の淵へと引き摺り込む、圧倒的な、闇の力。

 なんで。だって、たった今戻った時は確かに、なんの気配もなかったのに。

 全身が逆立つ。魂がたった一点、遥か忌まわしいあの一瞬を、記憶の底から投影する。

 

 忘れない。

 あの日、首に当てられた鎌の冷ややかさを。

 

「────、……ゲマ……?」

 

 身動ぎ一つできなかった。一瞬で迫った熱源に、父の最期が脳裏を駆け抜ける。刹那、巨大な焔が吊り橋上の天井に直撃した。けたたましい爆煙をあげて、強固な岩盤は呆気なく崩落した。

 

 

◆◆◆

 

 

【side Flora】

 

 呪詛めいた叫び声がいくつも響いて、思わず身を硬くする。

 ついさっき行き合った神父様が魔物に襲われているのだと、すぐにわかった。私達が来たばかりの道だったから、油断なさっていたのかもしれない。

「プックル‼︎」

 テュールさんが叫ぶより早く、プックルちゃんが駆けた。その背を追ってピエールさんとスラりんちゃんが走り出し、他の仲魔の皆さん達も流れるように追従していく。

「すぐ戻るから、ホイミンは念の為トへロスかけ直して。フローラは治癒の準備を!」と口早に言い残し、駆け出したテュールさんの背が洞窟の奥に飲み込まれていった。

 少し離れた場所から、ひっきりなしに怒号が響いている。グェエと鳴くダックカイトの断末魔、皆さんの雄叫びに紛れて、指示を飛ばすテュールさんの力強い声が聞こえると少しだけ気持ちが強くなる。髑髏達の槍が爆ぜる音、言葉にならない怨嗟。次々に空気を焼く杖の雷とカンテラの灯りが、揉み合う彼らの影ばかりを壁に映し出す。震えてしまう肩を叱咤し、指を組んでひたすら彼らを待った。ほんの三、四分のことだったけれど、この世が終わるのではと思うほど長い時間だったと思う。

 やがて、血塗れの神父様を抱えたテュールさんを乗せて、プックルちゃんが闇の中から飛び出し、こちらに駆け戻ってきた。

「……酷い……!」

 滑らかに減速したプックルちゃんの背からテュールさんが降りて、すぐさま神父様を横たえる。その惨状に、息を呑んだ。

 喉を、鋭いもので抉られた痕。

 つい先ほどお話しした時には優しげに微笑まれていたお顔が、今は苦悶に歪んでいた。杖を握りしめた腕も不自然に捻れて、腹部に頭部、いいえ、もう全身に傷を負っているようだった。呼吸も微かに胸が上下していなければ、既に事切れているようにしか見えない。

 直視するには痛々しすぎる、けれど、こみ上げる恐怖を必死にこらえて顔を上げた。

 テュールさんもところどころ傷ついていらっしゃったけれど、頬の傷を拭っただけですぐに身を翻す。

「喉だけ軽く処置した。あとは二人に任せていい? プックルはこのまま、ここでみんなを守っていて」

 手短な説明を聞きながら頷く間にも、ホイミンちゃんは触手に眩しいベホマの光を灯し始める。私も気を引き締めて、腹部の損傷から治癒すべく手を翳した。

 集中して。今は、自分に出来ることをやるだけ。

「絶対、あそこで止めるから。頼む!」

 私達が施術に取り掛かったのを見て、短く言い置いたテュールさんが再び戦場へ駆け戻っていった。もう背中を見送る余裕もない。掌に熱く跳ね返る魔法の反動を感じ取りながら、満遍なく丁寧に、ベホイミをかけていく。

 お助けします。絶対に。

 ホイミンちゃんも目を閉じて集中している。小さな身体から眩く放たれる全快魔法の光が、みるみるうちに喉の、額の刺創を修復していく。

 治癒魔法が全身に行き渡るごとに、止まりかけていた浅い呼吸が少しずつ、穏やかで深いものに変わっていくのがわかった。

 間に合うわ。きっとこれなら、大丈夫。

 ほっとして、同時に微かな不安が過った。小さく頭を振って嫌な予感を振り払う。良くないこと、考えちゃ駄目。こういう時ほど、良いことを思い浮かべるの。

 悪い予感は、大抵、当たってしまうものだから。

 

 突如、

 プックルちゃんの低い咆哮が、洞窟の天井に響き渡った。

 

 顔を上げず、集中を切らないようそろりと意識を外に向ける。

 この気配は、何?

 テュールさん達じゃない。何か、ものすごく嫌な、恐ろしいものが、影のように揺らめいてこちらを見ている────

「まったく。なんてことを、してくれるんです……?」

 見てはいけない。

 どうしてなのか、本能が拒絶した。逃げ場などその時点でとっくになかったのに。ぞわぞわと、粘りつくようなおぞましい声が、まるで耳に直接囁きかけるようにまとわりついてくる。

「この私が直々に才を買って差し上げたというのに。折角きれいに空けた穴を、塞がれては困ります」

 聞き分けのない子供をあやすように、その何者かは、まろやかな言葉遣いに薄い嘲笑を含ませ嘯く。

 なんて酷い言い様だとさすがに鼻白みかけたけれど、軽率に言い返す気概が今の私にあるはずもなく。

 どうしたらやり過ごせるの。見えないふり、聞こえないふりをする以外に。

 思わず、下腹部をそっと抑えた。プックルちゃんが私達を守って威嚇するも、その者は全く意に介した様子がない。黙って回復術に集中する私達を……いいえ、神父様を見つめて、それ(・・)はおもむろに口を、開く。

「返してもらおう。それは、我々の獲物だ」

 

 刹那。

 

 凄まじい圧に、吹き飛ばされた。

 岩壁にめり込むほど叩きつけられ、かは、とかすれた呻きが気道から漏れる。軋む身体がずるりと滑り落ちて────私よりずっと小さなホイミンちゃんが、木の葉の如くぽとりと、壁から地面へと落ちた。

 魔法なのか、ただの風圧だったのかもわからない。

 駄目。駄目。駄目。駄目。

 誰も勝てない。こんな、一瞬で圧倒されてしまう相手なんて。

 ……来ては駄目。来ないで。お願い。

 咄嗟に過ったのは、愛しい夫の顔だった。神父様を救い出したあと、尚も蔓延する魔物を一掃するため、戦場へと駆け戻った夫。

 今来ては、駄目です。勝てない。

「……ほぅ?」

 何が目に留まったのか、魔族がぴたりと動きを止めた。目を合わせたらいよいよ逃げ場がなくなる気がして、必死に顔を逸らし神父様を探す。数歩先に倒れ臥したその方を、せめて守ろうと腕を伸ばした瞬間。

「っ……!」

 空気中を転移したかの如く、ほんの一呼吸のうちに私の眼前に現れたその魔族は、そう認識した時には既に、私の髪を掴んで見下ろしていた。

 背中を踏み躙られ、縫いとめられた身体が悲鳴をあげる。

 結い上げた髪を、千切れそうなほどきつく引っ張られて。

 瞬きもできない。吸った息を吐くことすら。

 御者台に吊るしたランプが煌々と灯る。その淡い光に照らされて、冷たい眸をすっと細めた魔族は、地獄の底から這い摺り出た呪いの如く……呟きをゆっくり、ひとこと、絞り出した。

 

「……碧、髪」

 

 見下ろしてくるその顔はひどく、蒼い。

 私の髪とも、ホイミンちゃんやラゴンちゃん達の深い青とも違う。禍々しい、澱んだ、暗い蒼。

 その恐ろしい顔が、溢れんばかりの愉悦にニイィと歪んだ。

「こぉんなところに居たのですか。道理で、見つからないはずですよ」

 

 ……臓腑が、

 凍りつく。

 

「貴女にお会いしたくて、配下の者がずぅっとお探ししていたのですがね。とんだ無駄足だったようで」

 離して。

 帽子が、いつの間にかどこかに落ちてしまっていたのだ。呼吸が、喉が貼りついたみたいに、声が、出ない。ほほ、と慇懃に笑いを漏らし、髪を掴んだ魔族の爪が一房、乱れた髪を引き抜いていく。

「それにしても、反吐が出るほど輝かしい……、碧だ」

 さらりと軽い衣擦れの音を立てて、解かれた髪が、魔族の指から地面へと落ちた。

「…………っ、な、して」

 駄目。

 殺される。本能がひたすら警鐘を鳴らす。『これ』は、危険。今すぐに、離れないと。

 たった今、この瞬間にも、私とここにいる皆さんをまとめて捻り潰せるだけの力を持つ魔族。

 どうして、なぜ、いきなりこんなところに。

 グォア‼︎ と鋭く吼えたプックルちゃんが次の瞬間飛びかかり、だが触れる前に吹き飛ばされた。ギャウと鳴き声が聞こえた気がした。どこかの壁が音を立てて崩れて、プックルちゃんの声はそれきりもう聞こえなくなる。

「ほ、……ほほ。ほっほほほほほほほ!」

 たった今跳ね除けたキラーパンサーに目もくれず、この魔族は私だけを見つめて────さも、可笑しげに笑った。

「何故、このような高位の魔族が? ……と、顔に書いてありますよ。格の違いがわかるとは、聡い仔は嫌いじゃありません」

 ねっとりと、舌舐めずりをして。

 赤紫色のローブをはためかせ、ふわりと宙に浮いた魔族が腕を大きく開く。

 その掌の上、小さな金環がぼんやりと浮かび上がった。神秘の光を放つそれをさも大切そうにくるりと撫でると、俯せに倒れていた神父様の身体までもふわりと浮き上がり、仰向けになる。

 何をする、つもりなの。

 止めたいのに。強張った身体は言うことを聞かない。

「いいでしょう。見せてあげます」

 まるで、旅芸人の見世物の幕開けのように。

 私という、たった一人の観客を前に、蔑みに満ちた歓喜を全身から溢れさせて────魔族が、告げた。

「憐れな人間が、貴き魔物に進化する様を……ね‼︎」

 

 広げた爪から雷の如く、どす黒い魔力がほとばしった。

 

 意識を失っていた神父様ががくんと唐突に仰け反る。白目を剥き、苦しげに喉を、掻き毟って。

 ぐぁア、と悶絶する、その声を、聴いてしまったら────

「や……めて、やめてえッ‼︎」

 恐怖を振り切り、夢中で掌を魔族に向けた。まだ行使したことのない攻撃魔法を身の内に喚び出して。

 先日、たまたま馬車の中でマーリン様とホイミンちゃんの三者だけになった時、意を決してお話しした。妊娠していて魔力が不安定なこと。使い慣れた補助魔法なら落ち着いて行使できているけれど、未習得の攻撃魔法を扱うのは、今はまだ、不安が大きいこと。

 考えてなんていられない。ほとんど無詠唱で、何度も習った発動手順を拙速になぞる。凝縮した魔力を支えきれず掌から零しかけた。初めて生み出した炎帯魔法を撃とうとした、瞬間、わずかな躊躇が意識を過った。

 

 ────神父様を巻き込んでしまう。

 

 その一瞬に、放てば良かったのだ。戸惑いを飲み下す前に魔族が鋭い爪を差し向けた。ぱちりと爪弾いた途端、私の炎が手の中で勢いよく弾けた。

 反動で炎に煽られ、頭を庇うも、ごほごほと濁った咳が出る。

 魔封じでもなく、発動しかけた魔法を、……

 相殺、された?

「炎の出し方も知らないと見える。哀れですねぇ! それほどの魔力を持ちながら、ろくに扱い方を知らないとは」

 茫然とする私を、魔族はさも可笑しくてたまらないというように嘲笑った。耳障りな、甲高い笑い声を響かせた後、ふと厭らしく声を低める。

「こうやって、出すんですよ?」

 猫撫で声で、囁いて。

 再び手をかざす。大気が蠢いて凝縮し始める。魔族の、長い爪を開いた先に魔素が集中する。膨大な魔力は瞬く間に、天を焦がす巨大な火球へと変貌を遂げてゆく。

 あんなもの、かすめただけで跡形もなくなる────

「選ばせてあげましょう。今日の私は気分が良い」

 凍りつく私を見下ろして、見たこともない炎を片腕にまとった魔族が恍惚と、唄うように誘いかけた。

 選ぶって何。意味がわからず、でも知りたいとも思えなくて、ただ目の前の灼熱に震え、慄くばかり。

 圧倒的優位で私を眺める蒼黒い顔の悪魔が、紅い眼を細めてくつくつと笑った。

「どうします? そこの老人を生きたまま焼きますか。それともそっちのホイミスライム? ああ、キラーパンサーもいましたかね。ずいぶん変わった顔触れですが」

 なんて、ことを……!

 聞くに堪えない提案に吐き気が込み上げる。ただただ激しい憤りが胸の中渦を巻く。どうしてそんな非道を、顔色ひとつ変えずに言えてしまうの。そういう存在もあるのだと、わかっていたつもりだったけど。

 命を踏み躙って何とも思わない相手は、種族を問わずいくらでもいる。けれど、現実として目の前に突きつけられたら酷い嫌悪を感じずにいられないものなのだと、たった今思い知る。

 涼しい顔で指折り対象を並べていた魔族が、はたと、得心したように頷いた。

「こういう時はまず、統べる者から消すのが順当でしたね」

 冷たい双眸がつと、吊り橋の向こうを示す。

 この時の私は、いったい、どんな顔をしていただろう。

 目の前の魔族が、ゆるゆると振り返った。この上なく嬉しそうに……面長の蒼い口端を、にんまりと持ち上げて。

 

「あァ……! 良いですねぇ。好きですよ。かけがえないものであればあるほど絶望に歪む、その、顔」

 

 ────させるわけ、ないでしょう⁉︎

 遮り、腕に飛びつく。不意を突かれた魔族が初めて、驚愕を露わに私を突き飛ばした。その弾みに火球が悪魔の手を離れて、息を呑んだ一拍後────吊り橋の真上に火球が直撃し、岩天井が崩落した。

 けたたましい、爆音。

 炎が弾けて、黒煙が噴き上げる。息苦しい。がらがらと耳を割り続ける轟音に生きた心地がしない。祈るしか出来ない、巻き込まれないでいて、お願い、お願い……

 怖くて、怖くて、彼が下敷きになっていたらと思うと気が狂いそうで。震える指を組み、一心不乱にただ、祈る。

 生きていて。お願い、無事でいて……!

「下種が。この私に、触れただと?」

 片や、魔族は激昂していた。さっきまでの余裕は見えず、腹の底からわなわなと声を震わせる。

 ……ここまで、でしょうか。

 本気を出されれば私など一瞬で殺される。付け焼き刃の魔法は呆気なく無効化された。弱い私にこれ以上、何が出来るというの。

 ごめんね。何も、出来なくて。

 ほとんど無意識にお腹を抑えて、半ば投げやりな気持ちで胡乱な目を持ち上げた、その時。

 崩壊した岩の残骸の向こうから、何かに遮られたような、ひどく篭った音がした。

 

 ……ああ。

 足元から、安堵がじわじわ這い上がる。

 崩落のせいで反響がおかしいのか、よく聞こえない。けど。

 呼んでる。

 崩れた岩壁の向こうから、彼が何度も何度も叫んでいる。

 声を枯らして、岩を殴って、

 繰り返し、何度も必死に、私を呼んで。

 

 ────今、行くから、フローラ‼︎

 

「テュール、さ……、テュールさんッッ‼︎」

 気づいた時には、吼えるように叫んでいた。

 生きてる。

 胸が熱い。私も、生きてる。まだ大丈夫。大丈夫。

 とめどなく頬を濡らす雫を拭う。挫けそうな膝を叱咤して立ち上がり、紅い視線を真正面から受け止めた。

 どんなに怖くても、負けない。

 勝ち目なんてない。弱い私が敵うはずがない。そんなの当たり前で、それでも、気持ちで負けたりしない。

「させ、ません」

 私は、あの人の妻だから。

 あの人を守れるなら、何も、怖いことなんてないから。

「あなたの思い通りには、ならない。────もう誰も、傷つけさせません!」

 

 身体を盾にして、神父様達を庇い立った私に。

 怒りを飲み下したらしい魔族が、冷淡な視線を返した。

 

「無様ですねぇ。愚昧、蒙昧。もう少し賢しいかと思ったら」

 莫迦にされて吐き棄てられたって、もう何とも思わない。

 愚かだから、何なの?

 無謀でも、意味がなくても、抗うことまで諦めたくない。

「所詮はお前もただのヒトの仔。残念です」

 無機質な眼差しと交錯する。睨み合っているだけで潰れそう。意地でしかなくても、目を逸らしたら負けだと思った。

 ……くつ、と喉の奥で、魔族が笑う。

「だが、その瞳はいい。折り甲斐がある」

 ぞくり、と悪寒が這い上がる。怖気づきたい全身を必死に叱咤し、押し留めてもう一度、睨み返した。

 そう簡単に折れてやるものですか。あなたの思い通りには死んでやらない。

 暫し、双方息を殺していたけれど、ふと魔族が紅い眼に妖しい光を点し、下卑た笑いを浮かべた。

「────ああ! 良いことを思いつきました」

 ぽん、と手を打ちさも楽しそうに宣う、その明るさが神経を逆撫でする。身構えた私に、魔族がすっと声を低めた。

「あなた、胎に仔がいますね? せっかくのご縁です。ささやかながら私からひとつ、贈り物をしてあげましょう」

 

 ……気づかれて、いますよね。

 

 顔に出さないよう堪えながら、落胆を抑えきれない。これだけの力を持つ魔族だもの、一目で見抜かれてもおかしくない。けど叶うなら、このまま気取られずやり過ごしてしまいたかった。

 リーシャさんの未来視に、この光景はあったのでしょうか。

 じり、と魔族がにじり寄る。薄い笑いを浮かべて、あの小さな金環を再び、音もなく掌に現出させた。よく見ればそれは、以前砂漠で私を攫った男が持っていたものに似ている気がする。

 あれが鍵、なの?

 だったら、なんとかしてあれを奪えれば、この場はやり過ごせるのでは。いえ、触るのは危険だわ、失くしてしまうなり封じることが出来れば一番いい。呪いを封じる魔法、どうして探しておかなかったの……!

 確証はなくとも、幻の魔法に縋りたい気持ちになる。じりじりと壁に追い詰められ、お腹を掻き抱きながら蒼い顔をひたすら見据える。

 何が出来る? 何、だったら。

「そこの老いぼれより……楽しませて、くださいよ?」

 ニィ、と更に深い笑みを刻んで。

 あの、瘴気のような黒い魔力が、魔族の皮膚からぶわ‼︎ と立ち昇った。咄嗟に手をかざし、指輪の吹雪を楯に自らを庇った、けれど。

(苦、し……!)

 魔族の力が強大すぎて。

 敵わない。精一杯念じても、魔力の侵食はわずかにも止められない。皮膚を、神経を通じて、私のものではない異質な力が注ぎ込まれて氾濫する。苦しい。支配されないよう、必死にお腹を庇い身体を捩った。とにかく体内に少しでも作用する魔法をと、ひたすらお腹にベホイミを当て続ける。

 弄んでいるのだろう、神父様の時とは違って、魔族は明らかに私の反応を愉しみながら加減している。

 唇を噛み、必死に呼吸を繰り返して、それでも己の息を止めない私に業を煮やしたのか。黒い靄を割いて、赤紫のローブがふわりと眼前に舞い降りた。

「そんなに頑張らなくとも。今、埋め込んであげますよ」

 粘りつく囁きと共に、お腹に直接手を当てられかける。かざしただけなのに、ずにゅ、と何かが表面から侵食してくる心地がした。もう無我夢中で、それを阻むためだけに腹部に手を捩じ込む。

 止めなくちゃ。

 いま、止めなくちゃ、この子が……‼︎

 

「……ふろ〜ら、ちゃんに」

 

 まさかその瞬間、足元から、触手が伸びてくるなんて。

 金の触手が凄まじい勢いで魔族の手首に巻き付く。

 小さな身体で、果敢に力を振り絞って。

「ホイミン、ちゃ……!」

「さわるな〜〜〜〜〜〜っっ‼︎」

 

 かつん、かん、かん…………

 ホイミンちゃんの絶叫に紛れて、何か軽いものが、地面を打ちつけて反響した。

「……スライム属如きが、邪魔だてすると」

「その子に手を出さないで‼︎」

 咄嗟に身体ごと腕を伸ばした、けど、魔族の方が早い。

 触手が捕らえた方とは反対の掌が、爪が、青い柔らかい肌を貫いた。握り潰される、私が息を吐くより早く、あの指は容易くホイミンちゃんの命をもぎ取ってしまう────

 

 刹那。

 何かが目まぐるしく駆け抜けた。見たことない情景が滝のように流れて落ちて、脳裏に映し出されては消えてゆく。

 底無しの青い空。雲の向こうにそびえる白亜の城。絵画のような美しい情景は血に濡れる。瓦解、落下、それから。

 ああ、また。

 泡沫に似たその情景の奥底に、翡翠の髪。

 これは何。

 あなたは、誰なの。

 どうして、私に力をくれるの。

 

「……があッ⁉︎」

 

 突如、もんどりうって額を抑えたのは、魔族の方だった。

 真っ白な、光。

 気がつけば、辺り一面が目映い光に染まっていた。

 以前ナサカの浜で、ベホイミを使った時のような。あの時と違うのは、私の身体から何故か、その不思議な光が絶えず放たれ続けているということ。

 煌々と光る渦の真ん中に佇んで初めて、腕の中にホイミンちゃんがくたりと沈んでいることに気づく。

 動かない、柔らかな身体に頬を擦り寄せ、そっと抱き直した。だらりと垂れた触手があまりに痛々しい。

「ぐ、ぅ……ッ、この力、やはり」

 その光に眼を潰され、気圧されたように見えながら、妙に嬉しそうに魔族が顔を、歪めた。

「ほ、ほっほほほほほ! これはまことに、嬉しい誤算でした!」

 何がそんなに嬉しいの。狂ったように笑う魔族とは対照的に、私は凄まじい勢いで自らが疲弊していくのを感じていた。

 早く、はやく、諦めて。

 耐えきれない。身体中の力が蒸発するみたいに、力がどんどん抜けていく。まるで命そのものが燃えて、尽きていくように、きっともういくらも保たない、枯渇、して、立って、られない。もう、……意識、も────

「とは、いえ……貴女も、限界のよう、ですねえ」

 頭から、崩れる。

 ぎりぎりで膝をついて、片腕もついたけど自分すら支えられなくて。残った腕で精一杯、ホイミンちゃんを庇って倒れ込んだ。

 ────だめ。もう、ほん、と、に、…………

 朦朧としながら、視界の中に魔族を探す。眼を開けていたつもり、だったけど。その時にはもう、見えていたのかも判然としない。

「つくづく貴女は運が、いい。その血と胎の仔に免じて、今日のところは、痛み分けとして、あげましょう」

 音が、遠ざかっていく。

 魔族の、声も……遠い。けど、身を震わせたあの恐ろしい覇気は、今は感じられなかった。一瞬、お腹が熱くなった気がしたけれど、今の私にはもう、何も、確かめる術がない。

 魔力を使い果たして空っぽの身体に、心なしか、優しくてあたたかいものが、お腹のなかから満ちていく。

「もうしばらく、泳がせてさしあげますよ。……天空の、姫君」

 てんくうの、

 ……何?

「────っ、ぅ……」

 最後、薄れゆく意識の中で何かを聞いた気がした。けれど。

 ふつりと意識が途切れてしまった私には、その言葉を理解することも……記憶に残すことすらも、結局は、叶わなかったのだった。

 

「せいぜい、大きく育てなさい。貴女の胎からどんな化け物が産まれるのか……、実に、たのしみ、です」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「────ラ。フローラ、フローラ‼︎」

 あたたかい、よく知った感覚が体の表面をなぞっていく。

 同時に、余裕のない男性の声が私を呼んだ。

 この声。恋しくて、守りたくてたまらなかった、大好きなあなたの声。

「…………、ル、さん……?」

「フローラ……ごめん、──ごめん。来るのが遅くなって」

 抱き起した大きな手が、震えていた。彼の腕。その中に、肩をすっぽり抱かれている。そう気づいた時、全身を脅かした恐怖がゆるやかに溶けていくのを感じた。

 ……よく、わからない、けど。

 どうなったの。あの、魔族は。

「君が無事で、……良かった……!」

 どうして。連れ去られることも、殺されることもなかったのかわからない。けど。

 ────助かった、の?

 あなただってぼろぼろなのに。傷だらけの腕に、それでもきつく抱きしめられたらほっとして、喉に熱いものが込み上げた。

 もう、大丈夫。大丈夫なの。

 束の間、固く固く抱き合って。子供みたいにすすり泣いて、身体中を支配する恐怖が少しずつ薄れてきた頃、やっと、自分以外の皆さんのことに思い至った。

 そうだわ。神父様、ホイミンちゃんとプックルちゃんは?

「……み、皆さん……は」

「今、確認してる。とにかく急いでチゾットに入ろう。目を覚ましたの、まだフローラだけなんだ」

 口早に告げられた返答に、言いようのない戦慄が走った。

 ホイミンちゃんは、私の傍らにうつ伏せで倒れていたらしい。テュールさんが私を抱き起こしていた間にピエールさんが馬車へ運び込み、同じく昏睡状態の神父様の隣に並べて治療を試みている。

 プックルちゃんは、ずいぶん離れた岩壁の、崩れた残骸の下から助け出された。息はあるもののやはり意識がなく、彼と親しいガンドフさんが心配そうに幌を覗いていた。

 私も馬車に乗るよう諭されたけれど、頑として固辞した。

 人事不省の皆様を介抱なさっているところに、私が座り込む場所なんてない。せめて手伝えたならまだしも、目覚めた私はすっかり魔力が尽きてしまっていて、回復魔法すら使える状態ではなかった。こんな時まで、どこまでも役立たずでしかない自分が情けなくて、泣きたくなる。

 今は、回復魔法を使えるピエールさんとガンドフさんが馬車に乗り、手分けして治療に当たってくださっている。

 何があったか、道すがら少しだけお話ししたけれど、肝心なことをほとんど覚えていなくて。落胆を微笑みで覆い隠し、謝罪と励ましを繰り返すテュールさんのお姿に、苦く言葉を飲み込むことしかできなかった。

 ……怖い、魔族でした。それは覚えている。でも何故か、どんな姿だったか、何を話したのかの記憶がひどく曖昧で────

 ただ、最後。何かをお腹に埋め込まれそうになったことだけは何となく、覚えていた。

 いつかのベホイミのような、不思議な光で阻んだこと。私を庇ってホイミンちゃんが殺されかけた、ことも。

 だから、言えない。そのことだけが言えない。妊娠を魔族に気づかれた。必死に抗って、最後は気を失ったから、結局何がどうなったのかわからない。あの魔族の名を、押し殺した声で彼に問われたけれど、ゲマという名前にはまったく覚えがなくて、首を振るしかできなかった。

 ああ、でも、そうだわ。この碧髪も、知られたのではなかったかしら。探していたと、言われた気がする。

 それだけでも、テュールさんに伝えないと────

 呼びかけようと顔を上げた矢先、長い坑道の終着を告げる外の光が差し込んできた。もうすぐなのね。洞に吹き込む冷たい風が白い息をさらっていく。安堵と同時に、何故かざぁっと、全身から血の気が引く心地がした。

 

 ────貧血?

 嘘。どうして、こんな時に。

 

 早速人影を見つけたテュールさんが、一足先に駆けていく。さっき崩落した時の音が聴こえていたのだろう、数人の村人らしき人達が不安そうに洞を覗き込んでいた。

 きっと今、テュールさんが状況を説明して協力を仰いでいる。

 邪魔したくない。この上、心配をかけるようなことは。今は何よりも神父様と、ホイミンちゃん達を早く、安全な場所へ連れて行かなくてはならないのだから。

 吐き気が酷い。肌を刺すような寒さなのに、全身から噴き出る脂汗が旅装を湿らせていく。震え出した身体を抱きしめ、幌にもたれて待っていると、話を終えたテュールさんが急ぎ駆け戻ってきた。

 ぼんやり見上げたそのお顔がひどく、心許なげに歪む。

 まっすぐ、駆け寄って。私の両肩を荒々しく、掴んで。

 どうしてそんな、泣きそうなお顔をなさっているの?

「なんでも、ありません。少しだけ、気分が……」

 大丈夫ですから。皆さんを早く。

 そう答えたつもりだったけれど、うまく呂律が回らない。

「しんぱい、しないで。あ、な……た…………」

 

 ぐらり、

 混濁する。空が、真っ白な景色が遠ざかる中、

 名前を呼ばれた気がした。

 でも。

 あなたの声が、聴こえない。

 

 心配しないで。

 声にならない声で、何度も何度も訴えた。

 ────私はこれからも、絶対に、

 

 

 

 あなたの、

 お側にいますから。




祝・DQⅤ29th!
今年もまったくめでたくない話運びになりました。まぁでも毎年重要どころを通過してきてる気はするの。

冗長だし空行ないし、web小説の中でも大変読み辛いであろう拙作をご覧くださっている皆様には感謝以外ありません。
これで二年半書いて参りましたが、自己満足の欲求は依然衰えず。まだまだこの二人に会いたいし読みたいし、彼らを取り巻く色々なものを綴っていきたいと思っています。
改めて、今後ともよろしくお願い致します。

※さりげなーく、pixivの同エントリにて29thひっそり企画としてリクエストを募っております。さすがに他嫁は無理ですが、何かありましたらこそっと伝えてやってくださいませ!作品はポイピクに投稿後、そのうちpixivにまとめます。
※次回投稿分、少しばかりグロ表現含みます。苦手な方は凡そ前半まるっと読み飛ばしてくださいませ。R-15G程度(一応アシタカさんレベルだと思ってる。文字だし)と思っていますがこれはあかんと思われましたら是非そっと教えてやってください……よろしくお願いします。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。