Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】 作:サクライロ
『みぃ──……んな、お前の所為で、死んだ』
青白い顔が冷たく私を睨み据え、おどろおどろしく笑う。
……『わたし』は、別邸で過ごしていたはずでは。
妊娠、したの。テュールさんと何度も話した、ずっとずっと楽しみにしていた、私達の大切な、赤ちゃん。僕達も早く授かれるといいねって、年の瀬ラインハットから戻って嬉しそうに話していたあなたは、私が妊娠したことを打ち明けたらとても喜んでくれた。少し涙ぐんで、両手をかたく握りしめて、何度もありがとうって言ってくださって。グランバニアに向かう船旅の途中のことだったけど、それなら一度実家に戻った方がいいよねって、船長達にもすぐ相談してくださった。
とんぼ帰りになってしまうことは申し訳なく思ったけれど、ストレンジャー号の皆さんは心から祝福してくださった。もちろん、仲魔の皆さんも。真っ先に妊娠に気づいてくれたホイミンちゃんは特に大喜びで、私の周りを何度もふわふわ飛び回ってはとろける笑顔を見せてくれた。
馬車に荷物をまとめ直して、船上からルーラでサラボナへ帰郷した。お父様もお母様も、懐妊の報告をとても喜んでくださったわ。なんならしばらく孫を預かるとも言われた。さすがの私も、今回ばかりは置いていかれる覚悟をしていたのたけれど、彼は、グランバニアにはやはり私と、生まれた我が子も一緒に連れて行きたいと言ってくださった。そうして思いがけず、サラボナの別宅で、もうしばらく新婚生活を続けられることになったのだ。
発育は順調で、秋口には生まれるでしょうとお医者様も言ってくださった。テュールさんと出会ってちょうど一年が経つ頃、初めての胎動を感じた。一度目の結婚記念日を迎える頃には、お腹の上から触ったテュールさんにも、ぽこんと軽い胎動を感じてもらえるようになった。
『ほんとに、ここにいるんだね。僕達の赤ちゃん』
そう言って頬を綻ばせ、何度もお腹を撫でていたテュールさんの幸せそうなお顔は、きっと一生忘れられない。
動けるうちにラインハットを再訪して、ヘンリー様ご夫妻の御子様と歳の近い子が生まれそうだとご報告したら、国王陛下も、王兄殿下ご夫妻も、まるでご嫡子の弟妹が生まれるかのように大喜びで祝福してくださった。
もう臨月のマリア様と労いあい、生まれて落ち着いた暁には、お互い赤子を抱きながらゆっくり語らいましょう、と嬉しいお約束までさせていただいた。
とても幸せだった。幸せでしかないと、思っていた。
────私が招いてしまった悲劇を思えば、そんな幸せ、許されるはずがなかったのだ。
『これだからお偉い様は、下々のことなんざなぁんも考えちゃいねぇ』
また、吐き捨てる男性の声が、ひとつ。
『ルドマン様も哀れなもんだ。まさか娘が、こんな魔女に生まれついちまうとは』
『呪われちまってるんだろう。あそこのご先祖はむかぁし、えれぇ魔物を封じたって言うぜ。祟りってやつだよ。あんな気味の悪い、青い髪の女が生まれる家なんぞ、とっくにまともな血筋じゃねえのさ』
嘲笑う声が、二つ、三つと増えていく。
違う、私はルドマン公の本当の娘じゃない。お父様は関係ないの、何も悪くないのに。
どこかもわからない真っ暗なその場所で、恐怖に肩を抱いた私を、いつしか人魂のような蒼い焔がぐるりと取り囲んでいた。
『だが、────ル様の贄にゃ、お誂え向きだろう』
浮かび上がった火を照り返す、細い何かが……闇を一瞬、裂いて煌めいた。
『家内と息子が殺された。あんただけのうのうと生きて、好いた男の餓鬼を産むのか』
『ナグも倅も、お前にさえ関わらなきゃ、あんなことにゃならなかったろうに』
キトと、そのお父様のことを示唆されて、またびくりと身体が強張る。
忘れたことなんてない。キトはきっと生きているって、信じてる。信じていたいの。必ずまた会うって、約束したもの。あの子が生きていたからって、私が赦されるわけではないけれど。
でも、でも、ナサカの件とこの子は全く、何ら関わりがない。罰するならどうか、私だけに。
『おめぇが隠れてたお陰で、どんだけの命が摘まれたと思ってる。てんで足らねぇが、その汚ねぇ魂で今度こそ、贖ってもらおうか』
気づけば両腕の自由はなく、もがく私を誰かが捕まえている。この先起こることが察せられて、あまりの恐怖に息も出来ない。切先が、迫る。着衣を無惨に破かれて、剥き出しにされた丸いお腹に。必死に身体を捻って、逃れようとしたけれど。
このこ、だけは。ゆるして。おねがい。
喉が破れるほど、どれだけ声を枯らして叫んでも、自分の声だけが何故か、まったく聴こえなかった。
────────りに、しないで。
知らないはずの、
リーシャさんの甘く、哀しい声が、脳裏を過って。
膨らんだお腹に、
パンを切る如く、白銀の刃が吸い込まれる。
その剣は容赦なく、私の鳩尾から股までを真っ直ぐに裂いた。血の、匂い。びしゃりと頬に浴びた、自分の返り血が妙に温かかった。
ああ、……駄目。
霞む視界、生々しい痛みの中。ぬらぬらとおびただしい赤が地面を染めていく。死の匂い。血塗れの肉に腕を捩じ込まれ、臓器ごと掴み取られる。やめて、やめておねがいごめんなさいもうゆるして。血を吐いて、どんなに必死に懇願しても私の声は誰の耳にもとまらない。胎の中身がただ無造作に引き摺り出されてゆく。うごいてる、まだてのひらほどの大きさもない、のに、一度も哭くことなく
────わたしの、だいじな、 こ が
「フローラ!」
強い声が私を引き戻して、びくん‼︎ と生身の身体が強烈に跳ねた。
血が、巡る。
どくどくいってる。鼓動と呼気が激しく鼓膜を打ち鳴らして、息をしていることに今更、ひどく驚く。
………………、なに が、起きたの。
「しっかりして。すごいうなされてたよ。……目、覚めてる?」
ただ私を気遣ってくれるあなたの声が、真摯に響いて。
少しずつ、現実に焦点があってくる。ああ夢を見ていたのだ、と思った。ぬるい脂汗が額からこめかみへと伝い落ちた。
暗い天井をよくよく眺めれば、そこはサラボナの別宅でもいつもの馬車の幌でもなく、宿らしき、見慣れぬ建物の中だった。
……そう、だった。私、この村に着くなり倒れてしまったんだったわ。
山奥の、万年雪が重く根付く、チゾットと呼ばれる村だった。これほどの規模の村は今や、王都近くにも数えるほどしかないのだという。
この村に着く前……長い洞窟を抜ける直前に、魔族が現れた。蒼い顔を酷薄に歪めて嗤ったその魔族は、旅の神父様を突然魔物に変えようとして────
今、私達が生きていられるのは奇跡でしかない。気が変わったと告げた魔族が、私に何らかの術を施そうとして……気づいたら消えていた。それから、神父様と倒れた皆さんを馬車に乗せて、急いでこの村に入って、それで…………
こわ、かった。
おぞましい夢を見ていた。恐ろしくて、酷く悲しい、夢を。
あんなに怖かったのに、目が覚めた今は夢の中で何を見たのか、何があったのか、これっぽっちも思い出せない。
思い出せないのに。────死の匂いを嗅いだ気がすることだけは、何故か鮮烈に覚えていた。
ふと、前にもそんな夢を見た気がした。あの時も、テュールさんが悪夢から救い出してくれた。ぞわりと背筋を這う悪寒を感じて咄嗟にお腹に触れたけれど、未だ変化のわからないそこからはやっぱり、まだ何も感じられなかった。
「……ありがとう、ござい、ます。……大丈、夫……っ」
「そんな顔して。どこが大丈夫なのさ」
硬直しきった身体がかたかたと震えて、気づいたら涙が溢れていた。鼻筋から耳へと流れ込む涙を拭おうとして、テュールさんの温かい手に手首を取られる。肩を支えて抱き起こしたテュールさんが、苦しくないようにゆるく、でも温かく、背をさすりながら抱きしめてくれた。
何も聞かず、黙って寄り添ってくださることが、嬉しい。
自らのシャツに涙と嗚咽を吸わせて、テュールさんは私の頭と背を繰り返し撫でる。やがて、私が落ち着いてきた頃を見計らって、ぽつぽつと密やかに、囁き始めた。
「……今は、夜だよ。フローラ、倒れてから今までずっと、眠っていたんだ」
静かに目を瞠る。どれくらい眠ってしまったのか、首を傾げて問うとテュールさんは微かに苦笑しながら「着いたときは、まだ昼過ぎだったみたい」と教えてくれた。
眠っていないのだろう。私がこんな状態なのに、彼が落ち着いて眠れるはずがない。テュールさんだって、絶対、ひどく疲れているのに。
室内はすっかり暗くて、寝台の脇に置かれた小さな洋燈だけが枕元を照らしていた。寝静まっているのか、テュールさんの声以外はほとんど物音もしない。きっと随分、遅い時間なのだろう。
「高山病じゃないかって、ここの人達が言ってた。魔族に襲われた所為も絶対あると思うんだけど……この辺は空気が薄いから、フローラみたいに倒れちゃう人が多いんだってさ」
頭を優しく包み込む、大きな手が心地いい。濡れた瞳でテュールさんを見上げると、彼はとろけるように微笑んで、そっと目尻を拭ってくれた。
「眩暈がしたり、頭痛がひどくなったり……眠れなくなることもあるんだって。それで変な夢を見たのかもね。頭、痛くない?」
そういえば少し、頭が重い感じがする。正直に伝えると、テュールさんは緊張をほんの少し緩めて息を吐いた。
「お義父さんが言っていた通りだな。本当に、あの方は見識が広いね」
強引な父には思うところがある私でも、それは否定できない。思わず口籠もったが「いいお父さんだよね。フローラのこと、いつでもすごく良く考えてくださってる」と子供みたいに頭を撫でられて、ついまた小さく頷いてしまった。
それからしばらく、私達の吐息以外聴こえなくなった。
空間を静寂が満たす。ゆっくり、黙って頭を撫でてくださるテュールさんの体温だけが心地よくて、ほっとする。
「…………ホイミン、きっと……大丈夫だから」
そう、だわ。ホイミンちゃん。
今、一番大事なことだというのに。たかが悪夢くらいで、ホイミンちゃんのことが頭から飛んでしまっていた自分が腹立たしくて、嫌になる。
ホイミンちゃんはあの時、魔族から私を庇って……倒れてしまった。それきり意識が戻らなかった。テュールさんの口ぶりからして、今も変わらないのだろう。目覚めていればきっと、真っ先に教えてくださるもの。
あの朗らかな笑顔に、二度と会えなくなってしまったら。
嫌な想像が瞼の裏を過って、心底、ぞっとする。
「なんて、言うのかな。仮死状態って言うか」
ぽつり、ぽつりと。吐息に紛れ込ませるように、テュールさんは低く、静かに、囁く。
「魔力の巡りは止まってる。でも、核に戻らない。いつ核になってもおかしくないらしいんだけど……魔力は変わらずホイミンの身体に留まっていて、尽きる兆候も、今のところない、みたい。すごく深く、眠ってるのに近い……のかな」
いつもと変わらない、凪のような、穏やかな表情で。
いっそ他人事のように、あなたは語る。何も感じていないのかと錯覚してしまうほど、淡々と。
悲しみを欠片も見せないあなたを見ていると、胸が苦しくてたまらなくなる。
主人であるテュールさんが、一番お辛いと思うのに。
ふと、ヘンリー殿下のお言葉を思い出した。誰よりもテュールさんと親しいあの方は彼を称して、恐怖という感覚が麻痺しているようだと仰っていた。
大切な存在を喪うということは、失い続けてこられたテュールさんにとって、どれほど恐ろしいことだろう。
「ここでは何も出来ないけど、王都の教会なら助けられるかもしれないって。取り返しがつかなくなる前に着きたいから……できれば早めに、ここを発ちたいと思ってる」
今度は正面から、宵闇のような、濃紺の虹彩に見つめられた。
当然、間を置かずに深く頷く。はっきりと首肯した私にテュールさんは苦い溜息をひとつ零して、玻璃にでも触れるように、頬へとそっと手を伸ばした。
「絶対に、体調が悪くなったらすぐに言ってね。倒れるまで無理しないで」
痛々しげな囁きに、どこまでも胸が締めつけられる。
テュールさん達が駆けつけてくださった時、蒼い顔の魔族は既に去った後だった。私を含め、その場にいた皆さんは全員気を失っていて、何があったかゆっくり説明する間もなかった。神父様はもちろん、ホイミンちゃんも微動だにしなくて。プックルちゃんは馬車の中で意識を取り戻したのだけど、回復が追いつかなくて、外にも出て来られなかった。
地獄の殺し屋と謳われるキラーパンサーのプックルちゃんでさえ、まったく歯が立たなかった相手。
今回、テュールさんがあの魔族と直接対峙せずに済んで、私、すごくほっとしている。きっと彼にとっては不本意でしかなく、そのことを今、ひどく悔やんでいらっしゃるだろうとも思うけれど。
頬を包む、テュールさんの手に自らのそれを重ねた。
力強い、大きな手。……生きていることを確かめられる、やさしい温もり。
この掌に、どれだけ守られてきたのかと思うと。
「……やっぱり、無理させてばかりだ。本当にごめん……」
「違います」
それだけは。
即座に否定して、大きく見開かれたあなたの瞳を覗き込んだ。
そんな顔をさせたいわけじゃない。言えない私のわがままに、あなたを付き合わせているだけなのに。
「私が、お側にいたくて……それだけ、なの……」
辿々しく伝えているうちに、泣きたい気持ちでいっぱいになってしまって。無性に縋りつきたかったけれど、困らせてしまう気がして目を逸らした。その視線を追うように伸ばされた大きな手が、伏せた私の額にかかった碧髪をさらりと梳く。
「抱きしめても、いい?」
……心を読まれたのかと、思った。
「ちょっとだけ、肌に触れたい」と遠慮がちに言い添えたテュールさんに、少しだけ躊躇ったあと、小さく頷いた。「他には何もしないから」と言ってくださったのもあるけど、何よりも私が、彼と肌を重ねたかったから。
それでもここは寒いから、表面に水煙を湛えた羽衣は脱いで、借り物の少し暖かい寝衣に着替える。その胸元を少しだけはだけて、肌着を脱いで前開きのシャツを羽織ったテュールさんと、正面から抱き合った。
こんなふうに直接肌を触れ合わせるのは、サラボナで過ごした年の瀬以来かもしれない。
「あたたかいね。やっぱり、フローラとこうしてるとすごく、安心する」
肩まで深く毛布をかけてくださったテュールさんが、ひどく愛しげに髪を梳いた。
久しぶりだからかしら。肌を触れ合わせているだけなのに温かくて、ものすごくどきどきする。
だいすきな、テュールさんの体温と、匂い。
後頭部を何度も撫でてもらっているうちに、とろりとした眠気が喚び起こされて、次第にうとうとし始めた。
「またうなされたら、起こしてあげる」
優しくて穏やかな、低い声が心地いい。
「……テュール、さんも、眠って……ください、ね……」
「もちろん。フローラがいてくれたら僕は眠れるから、大丈夫」
そう、かしら。
微睡んだ頭では思考が形にならない。けど、前にも辛い夢を見なくなったって言ってらしたもの。きっと、大丈夫……
わたしも。あなたがこうして、守ってくださるのだから。
もう、あんな夢は見ないわ。
逞しい背中に腕を回して、黙ってぎゅっと抱きついた。微かに驚きを見せたテュールさんが、すぐに力強く抱きしめ返してくれる。
お腹の底から、ぬるい眠気が波紋のように広がっていく。
まるでやわらかなお湯の中にいるみたいに、彼の腕に捕まえられる安心感を噛みしめて。
ようやく私は、再び、深い深い眠りの底へと意識を委ねていったのだった。
◆◆◆
────……ふわりと、
頬を撫でられた気がした。
温かい、優しい手つきにほっとして、未だ抜け出し難い微睡みの中、小さく身動ぎをする。
もっと、いつまでも眠っていたい。そんな甘い誘惑に必死に抗い、重たい瞼を懸命に持ち上げた。
朝の光をとりこんだ眩しい視界に、艶やかな黒髪と、宵闇色の瞳が映り込む。
「おはよ。フローラ」
腕をつき、至近距離で見下ろす彼は胸を思いきりはだけたままで。逞しい胸筋を目にした瞬間、昨夜の記憶が一気に蘇る。
「お、はよう……ございます」
かぁっと頰に熱が走った。開いた襟を両手で抑えて、何とか朝の挨拶を絞り出す。
「あの、お、お寒く、ありませんか」
「うん、僕は全然大丈夫。気分はどう?」
もしかして、ずっと見られていたのかしら。
昨夜と変わらぬ優しい眼差しに、ふと不安になった。結局あの後、休んでいらっしゃらないのではと思ってしまって。
恐る恐る、上目遣いに彼を見た。視線を交えると、彼はきょとりと不思議そうに首を傾げる。
「ほ、本当に……眠られ、ました?」
「寝たよ。大丈夫、フローラのお陰ですごく元気になった」
さも当然のように仰るけれど、昨夜だって、意識のない私をずっと見守っていてくださったのに。思わず口籠もった私に、彼は少し気恥ずかしそうに、小さく肩をすくめて言い添えた。
「フローラ、温かかったし。フローラの……その、いい香りもすごく久々だったから。びっくりするほど今、元気」
照れ臭そうに微笑まれると、恥ずかしいのと同じくらい舞い上がってしまって、それ以上何も言えなくなる。
また迷惑をかけてしまった私だけど、昨夜も、抱き合って眠らせてもらっただけなのだけど。
少しでも、あなたの力になれたなら、すごく、嬉しい。
「朝食の前に着替えて、みんなに顔を見せに行こうか? 昨晩はすっかりピエールに任せっきりにしちゃった、から」
立ち上がりかけて、何気なく振り返ったテュールさんが、何故か一瞬、ひどく険しいお顔になった。
え、と怯んだ私に、彼は鋭く問いかける。
「フローラ、どこか怪我してない?」
意味がわからず、ぱちぱちと瞬いて彼を見上げた。
突然走った緊張感が心許なくて、思わず肩を抱く。
「腰の、あたり……? それ、血痕じゃない?」
……、血痕?
うそ。
弾かれたように立ち上がり、たった今まで寝ていた寝台を振り返った。
うっすら滲んだ色に息が止まる。
しわが残る白いシーツに、微かに赤い、染みが……
息すら忘れて固まった私を覗き込み、彼もまた小さく息を呑んだ。ちらりと私の下半身を見て、何故かばつが悪そうに目を逸らす。
「あ、……そっか、月のあれか。寝ている間に始まっちゃったのかな。ごめん、もう、つくづく無神経で」
長い指で顔を覆い嘆息する彼の言葉が……何も、ひとつも頭に入ってこない。
月の、障り?
ちがう。昨年末、サラボナに帰る前にあった障りが最後。今年は一度もきていないの。もう四ヶ月、一度も出血はなかった。遅れていただけ、妊娠を知ってからは順調なんだって安心していて。
助けて。
ホイミンちゃん、お腹を、お腹を診て。お願い──……
「本当に血が出るんだ。痛くない? 宿の人に言って薬もらってこようか。あ、その前に着替えなくちゃだよね」
茫然とする私の分まで、彼はあわあわと動こうとしてくれる。けれど一向に反応しない妻を怪訝に思ったのか、テュールさんが正面からこちらを覗き込んだ。
「……フローラ?」
返事、しなきゃ。
凍りついた指先に力を込めて、こくりと動揺を嚥下する。
黒曜石の瞳にほとんど惹き寄せられるように、固まりきった瞳孔を動かした。
まだ、溢れ、ないで。
「…………あ、の、ごめん、なさい。汚して、しまって」
「そんなの、僕が洗っておくから気にしないで。何したらいい? お湯借りる?」
「は、はい。いえ、まずは、お手洗い、に」
「あ、ああ、そっか。ごめん、なんか気が動転して」
だめ。だめ、これ以上動揺を見せては。
必要なものを聞かれて、経血止めの綿布を少しだけ、宿の方に分けていただきたい旨をテュールさんにお願いした。待つ間、血が流れ出る感覚はなかった。見間違いじゃないかと思うほど。これは血痕じゃなくて、元々シーツについていたただの染みなんじゃないかと思うほど。
それでも、まだ鮮やかに近い赤褐色の染みは、ついてからさほど時間が経っていないことを、その色が示していて。
悪い想像が、頭から離れない。
程なく、持ってきていただいた布と替えの下着を抱え、寝衣の上に長めのカーディガンを羽織って部屋を出た。
顔色良くない、一人で本当に大丈夫? とテュールさんはひどく心配そうに訊いてくださったけれど、厠だからと付き添いは辞退して、精一杯、いつもの顔を装って頷いた。
どうして。……どう、して。
よろめきながら廊下を渡り、教えてもらった厠に飛び込む。暦の上では春なのに、宿の水場は霜が降りたように冷えていた。
確かめなくてはと、思うのに、
手が、……震えて──……
力が入らない両手で寝衣をたくしあげ、懸命に下着を下ろす。気のせいであってほしい。知らないうちに服に血がついていただけ、どこかに小さな傷があって、少し擦れてしまっただけ。
────果たしてそこには、下着と、寝衣の裾にぽつりと落ちた赤い汚れが、ただ無情に残されていた。
まるであの、夢のような。
……夢。どんな夢だったのか。何も思い出せない。
思い出せない、のに。
そう、ね。わたし、きっとまだ夢を見ているんだわ。
怖い夢。取り返しがつかない、夢。
恐る恐る、股を拭う。微かだけれど赤いものが指についた。そこから流れたものだと、もう疑いようがなかった。
妊娠、していたことが、夢だったのかもしれない。
恐ろしいのは、今までが幸せだったから。幸せな夢を見た分、辛い気がしているだけ。そう、思えばいいだけかもしれない。
私と、ホイミンちゃん、マーリン様しか知らないことだもの。
全部、幻。今は、皆さんが助かることの方がずっと大事。
そう、誰も知らない、この子のことなんて────
「………………っ、……、ぅ」
熱い、涙が。
頬を伝って、伝って、止まらない。
「ご、め…………ッ、嫌、……ぁぁ……‼︎」
守れなかった。
命に変えても守りたかった。
あの時、……あの時、私が、
あの不思議な力を、ちゃんと使いこなせていたなら。
あんなふうに、手を、押し当てられたりしなければ。
失神なんか、しなければ。
その場にうずくまり、腕をきつく、きつく噛んで、嗚咽をひたすら飲み込んだ。
テュールさんが様子を窺いに来たら、絶対に気づかれる。
泣きやめ。泣くな、止めなさい、フローラ・グラン!
まだ、まだわからないわ。出血しただけ、流産と決まったわけじゃないから。
それでも、どんなに言い聞かせても、着衣を汚した赤はどこまでも残酷に私の罪をなじる。
どうして、もっともっと気を配らなかったの。
今思えば、過剰なほど気にしなくてはならなかった。赤ちゃんがいるのに。ここに、いたのに。自覚がなくても、まだ何も感じられなくても、ちゃんとここで、この子は生きて、頑張ってくれていたのに。
ごめんなさい。
あなたの存在に甘えていた。精一杯頑張れば何とかなる、なんて甘え以外の何者でもない。それでも、奇跡が起こるような気がしていたの。根拠も何もなく、一生懸命、誠実に生きていれば絶対、悪いことにはならないって。
……碧髪の私が狙われていることなんて、ずっと前から、何度も何度も言われていたのに。
テュールさん達はずっと気遣ってくださっていたのに、幸いにも何とかなってしまっていたから。ここに来て、気の緩みがなかったといえば嘘になる。
私が悪い。私の所為、私の甘さ、愚かさがこうやって、取り返しのつかない事態を招いてしまった────
それでも。
テュールさんには、言えない。
この期に及んで、真っ先に保身を考えた自分に吐き気がする。
伝えなくてはいけないと、本当はわかってる。いつまでも隠し通せることじゃない。彼の子供を、授かっていたことを、知らせなければ苦しめることもないと思ったのに。
今になって、自分の醜さを思い知る。
わたし、……私。
我が子を悼む権利すら奪っている。彼から。
父親に見送ってすらもらえない、この子は、……
言うのが、怖い。
未来視なんて関係なく、言いたくない。幻滅されたくない、そんなつまらない矜持と罪悪感がせめぎ合う。でも、でも。
耐えられない。これ以上、自分の狡さを思い知ることに。
嘘を重ねることに。
私達の元に来てくれたこの子に、まっすぐ顔向けできないような母親でいることにも。
……今、もう、何もかもが手遅れであっても。
雫を、頬を濡らす涙をようやく拭う。のろのろと下着を処置して、手を洗って……冷たい水を、思いきり顔に打ちつけた。
あなたの『母親』で在りたいの。
あの人の妻に相応しい自分で在りたいと、いつか、強く願ったのと同じように。
きっと、ここでは何もできない。恐らくどなたか、倒れた私を診てくださった方がいたのだろう。その上で、テュールさんが今も妊娠に気づかれてないということは……この村にそういうことがわかるお医者様はきっといらっしゃらない。
一刻も早く、王都に入るしかないのだ。ホイミンちゃんが助かる可能性はそれしかないって。
今にも消えてしまいそうな、小さな、灯火めいた決意を奮い立たせる。
ホイミンちゃんを助けたい。助けなくちゃ。
今はそのために、出来ることだけ考えよう。
私に尽くせる力を、精一杯尽くしていこう。
王都に着いて、ホイミンちゃん達の容体が落ち着いたら。
私も今度こそ、お医者様に診てもらおう。
そして、テュールさんにすべてを打ち明けよう。
落胆されるだろう。見放されてしまうかもしれない。こんな大事なことを、私の独断で隠し通したこと。許してもらえなくて当然だと思う。
離縁、されるかもしれない。けど。
どのみち、このことをずっと黙ったまま、夫婦関係を続けることはきっともう、無理だから。
私がもう、限界、だから。
「……う、少しだけ……、ゆるして」
誰にともなく、贖罪を繰り返した。
お腹の中の大事な子に。そして、誰より愛しいあのひとに。
私なりに今度こそ、出来る限りの誠意を尽くすから。
たとえ赦されなくても、その時にはすべてを受け入れる。
どんなに悲しい結末でも、誰も恨んだりしない。だから。
だから、お願い。
今だけ、もう少しだけ、このまま……
黙ってあなたの側に、居させて、ください。
◆◆◆
お腹に力を入れるのが何となく怖くて、転ばないよう細心の注意を払いながら厠を出た。
部屋に辿り着く前に、廊下を通りかかった女性が、私を目に留めるなり足早に駆け寄って来る。
「大変だったわね。だめよ、障りがあるのに無理をしちゃ」
宿の方なのか、私より少し年上に見えるその女性は、どこか懐かしい朗らかさで、気安く話しかけてくださった。
「でも良かったわ、起き上がる元気があって。旦那さん、今シーツを洗ってくれてるから、今のうちに湯浴みしちゃいましょ! 着替え、用意できる?」
きびきびと促されるものの、どうにも状況がよくわからない。「あ、あの、出血が……あるので、お湯は」とおずおず言うと、女性は明るく微笑み、首を傾げた。
「浸かるのは無理でも、汗は流しましょうよ。ずっと野宿だったんでしょ。ああ、それとも先に食事の方が良いかしら? 浴場で倒れたら大変だものね」
言われてみれば、大樹の宿を発ってから一度も湯を使っていない。こんな不衛生な状態で彼と抱き合ったなんて。急に恥ずかしさが込み上げてしまい、勧められるまま湯をお借りすることにした。
この方がいてくださって良かった。一人でいたら、余計なことばかり考えてしまうもの。
湯浴み場へ案内してもらう途中で、宿の主である年配のご夫婦にご挨拶をした。お世話になったことの謝辞と、シーツを汚してしまったことを詫びると、二人とも首を振り、口々に励ましの言葉をくださった。
「湯浴み場で気分が悪くなったら鈴を鳴らすんだよ。すぐ見に行くからね」と女将さんに優しく言われて、弱った心がまた嗚咽しそうになる。
貸切の浴場で手早く湯を使い、身体と髪を洗った。ランプをつけなくても十分明るい朝の湯浴み場は清々しい心地がする。
洗っている最中、床にひとすじの血が流れていくのを、重苦しい心地で見送った。
……もう、どうしようもないのかしら。私にできることは何もないのかしら……
妊娠症状に魔法は効かない。原因を探ることがまず難しく、相当の使い手でないと意味のある施術は出来ない。分かっていても、無意識に手を当ててしまう。あたたかい魔法の波動が指輪に共鳴して、お腹にじわりと染み渡った。
まだ、奇跡に縋ってしまう。きっと無理だと思っても、手遅れかもしれなくても。
苦しい溜息を飲み下し、最後に寝衣を洗って浴場を出た。
冷えた廊下を通って部屋に戻ると、テュールさんが室内の小さなテーブルに食事の用意をして待っていてくださった。
今までゆっくり話す暇がなかったから、食事がてら、昨日のことを話したいということだろう。頭の中を整理しつつ、御礼を言って席に着いた。
テュールさん達はあの時、火球の衝撃は免れたものの、天井が崩落し吊り橋が燃え落ちてしまったのだそうだ。足元も崩れて、テュールさんをはじめ何匹かの仲魔の皆さんが崖下に落ちた。幸い大きな怪我をした方はおらず、試行錯誤の末崩れた岩棚をなんとか登ったが、駆けつけた時には全てが終わった後だった。
私が聴いた彼の声は、崖下から必死にあげた叫びだった。
私も、皆さんの様子をよくよく思い起こしながら話をした。神父様を治療していた最中に突然、あの魔族が介入してきたこと。神父様を渡すよう言われて、阻もうとしたプックルちゃんが弾き飛ばされたこと。私の碧髪に気づかれたこと、魔族が私を探させていたらしいこと。連れて行かれずに済んだのは、不思議な白い光のお陰かもしれないこと。
魔族が私に手を伸ばした時、ホイミンちゃんが庇って間に立ちはだかってくれた。その際魔族の爪に抉られて、彼は未だに目を覚まさない────
「白い、光……」
最後に伝えたそれを、テュールさんが静かに反芻した。
瞼を伏せ、記憶の中の情景を探る彼を黙って見守る。
崖下に落ちた彼の元にも、あの光は届いただろうか。
「ナサカの浜に戻った時、船の方で強く光ったのが見えた。その時のことはマーリンに聞いたけど……同じものなのかな」
「だと、思います。私自身、何故そんな光を発したのか、まったくわからなくて……ただ、あの魔族の力は一時的に削がれたようでした」
ふぅん、と彼は微かに唸って眉を寄せる。私も説明しながらあの時の感覚を思い出そうとしたけれど、視たと思った情景は、今ではやっぱり朧げで。
何かが見えた気がするの。以前も、妙に懐かしい誰かが。
覚えていないのに、知っている気がするのは、どうして。
「聖魔法……スラりんのニフラムに似てるね。でも、ナサカのときのはベホイミだったって」
「ええ、あの日詠唱したのは、いつもと同じベホイミです。他に聖魔法は習得していないはずなのですが……昨日は、ただ、ホイミンちゃんを失いたくない一心で……」
頭を振り、それ以外のことはよく覚えていませんと申し訳程度に言い添えると、テュールさんは神妙な面持ちで指を組み、口許を抑えて考え込んだ。
思考の邪魔をしないよう、私は私で食事に集中することにした。冷めかけたスープに固いパンを浸し、ゆっくりと咀嚼する。
懐かしい気配が、自分の中にあった気がする。けど、それがなんなのか、時間が経ってしまった今はまったく思い出せない。それが人なのか、場所なのか、夢なのかも。
あの、白い光を放つ直前……何かを視た気がするのに。
空っぽのお腹が少しずつ満たされてきた頃、ずっと思索に耽っていたテュールさんが、ぽつりと低く、呟いた。
「多分ね。フローラが会った奴、父さんの仇だと思う」
思わず、固まる。
息も忘れて視線を返すと、テュールさんはひどく苦々しい感情で口許を歪ませて……微かに、笑った。
もう、そんな顔しかできないのだと、わかってしまう表情で。
「プックルも覚えてたから、多分。……あの日、プックルも一緒だったんだ」
きっと何気なく発されたその一言で、私の知り得ない、私には共有できないものがあるのだと思い知る。
あなたとプックルちゃんにとって、あの魔族との邂逅がどんな意味を持っていたのか。
彼は昨日、あの魔族を見ていない。けれど、確信しているのだろう。もう十数年、彼の内に燻り続けた凄惨な記憶が、彼にあの魔族の正体を知らしめている。
見なくともわかる。あの気配を、間違えはしないと。
「……間に合わなくて、ごめん……」
だからこそ、あなたはそうしてご自身を追い詰める。項垂れた首の奥に、重すぎる感情を沈めて。
そんなこと、言わなくていい。何一つ謝る必要はないの。
対面したのが私で良かった。あなたが会わずに済んで、本当に良かったの。心からそう思うのに、『私にそう思われる』ことがもう、あなたにとってどれほど残酷か────
「あと、あいつら……神父様を襲った奴らね。骸骨の大群だったんだけど、手応えが少しおかしかった」
それでも、あなたの中に渦巻く苛立ちのすべてを飲み込んで。テュールさんはやはり理性的に、物静かに伝えてくれる。
「再生、したんだ。斃しても斃しても。まるで前にやり合った蟲とか、鮹……マザーみたいな感じ」
もう一度、小さく息を呑んだ私を見つめて、テュールさんはさっきより少しだけ、やわらかく微笑んだ。
「あそこまで強敵ではなかったんだよ。今回は核も、割と簡単に抜けたし」
頭を振った彼はもう、いつもの彼に見えた。けれど深い紺の虹彩の奥に、ちらりと澱んだものが揺れた気がして。
浅はかな考えがふと、思考の端をよぎる。
彼の測り知れない情念は、いつか彼自身を押し潰してしまうのではないか。
抑えても抑えても滲み出る、憎悪の炎。目の前で最愛の父を燃やした猛火は今も彼の中、その火勢を衰えさせない。
目の前の穏やかな青年に、唐突に、六歳の心許ない幼な子の姿が重なった。
私には何も出来ないのかしら。彼のその苦しみを、彼を焼き尽くしそうな艱難を、私も負うことが出来ればいいのに。
組んだ左手の薬指、紅い石が、彼の強い意志を象徴して燃えるようにじんわり灯る。
でも、とほんの微かな吐息に織り交ぜて、彼が本当に小さく、呟いた。
その名を低く、彼が口にした瞬間、ぞくりと背筋が凍りつく。
「……でも、そうか。『ゲマ』が、繋がっているんだね」
◆◆◆
それ以上は何も話せることがなくて、黙々と食事を終えた。
食器をお返しした後、テュールさんに連れられて仲魔の皆さんに会いに行った。ホイミンちゃんはやはり目覚めていなかったけれど、プックルちゃんは歩き回れるほどに快復していて、本当にほっとした。
私の姿を見たしびれんちゃんが泣きながら真っ先に飛びついてきて、思わずじわりと目頭が熱くなる。他の皆さんも、口々に心配し、労ってくださった。
昼過ぎを目処に支度を整え出発する旨を告げて、テュールさんに促され表に出た。
「少しは落ち着いた?」
納屋を出たところで、背後から声をかけられる。振り返ると、先ほど宿でお話しした女性が佇んでいた。傍らには小さな男の子がいて、見ず知らずの旅人を警戒しているのか、女性の陰に隠れてじっとこちらを見ている。
「フローラ。この方、ネッドさんのお孫さんなんだって」
ご挨拶する前にテュールさんが紹介してくださって、思わず目を瞠る。釣られて母親を見上げた坊やの頭を撫でて、女性がにこやかに会釈した。
「改めまして、ティナです。こっちは息子のニール。うちの実家がお世話になったみたいで、あら、お世話した方かしら? 手紙ありがとう、さっき旦那さんが渡してくれたわ」
宿の方かと勘違いしてしまったが、珍しく宿泊客が多かったので手伝いをしていただけなのだそうだ。物怖じしない気質はお婆さま譲りだろうか。お顔は、ネッドのお宿の女将さんに似ているかも。私も丁寧に挨拶を返すと、ティナさんはほっとしたように目許を細めた。
「そうそう、綿布、良かったらもっと持っていってね。旅が長いと足りなくなっちゃうでしょう?」
それは、ご好意に甘えすぎなのでは。確かに船旅の途中で妊娠に気づいたから、サラボナから持ってきた綿布は大部分を船に置いてきてしまった。いただけるのはありがたいけれど……とまごまごしていたら、テュールさんが気まずそうに口を挟んだ。
「やっぱりそれ……、女性は辛いものなんですか。妻は我慢強いから、なかなか泣き言を言ってくれなくて」
「そりゃあ、血が出るんだもの。人によるけど、こうやって貧血になったりもするし。奥さんの場合、慣れない山歩きで無理が祟ったのもあるんじゃないかしら」
小気味良く返されて、テュールさんが言葉に詰まった。慌てて彼を仰ぎ見れば、叱られた仔犬の如く、すっかり消沈してしまっている。
テルパドールで月経について知ってから、デリケートなこの話題について、彼は過剰なほど気を遣ってくださっている。だからこそ、船で問われたあの時、答えを嘘に変えたのだ。
「テュールさんはいつだって、十分すぎるほど私を慮ってくださっていますよ……?」
「いや。身につまされる……本当にごめん、フローラ」
落ち込まなくていい、彼は何も悪くないのに。項垂れた彼をはらはらと見上げていたら、ティナさんが朗らかに言葉を重ねた。
「旦那さん、グランバニア人なんですって? 奥さんを連れて帰ってきたはいいけど、こんな険しい山を越えることになるとは思わなかったんじゃない?」
それは一応、覚悟してきたつもりだった、けれど……
目が合うと、不意に慈しむような眼差しを投げられる。
「こんな育ちの良さそうなひと、見たことないもの。絵本に出てくるお嬢様みたい。もしかして、駆け落ち?」
母親の言葉に反応したのか、傍らの息子さんが大きな瞳を煌めかせた。かたや私はテュールさんと顔を見合わせ、同時にぶんぶん首を振る。
きっと揃って真っ赤になってしまった私達を見て、ティナさんが可笑しそうにくすくす笑った。坊やが不思議そうに首を傾げ、「ママ?」と問いかける。「何でもないよ」とまた頭を撫でて、彼女は再び私達の方に向き直った。
「やっぱり、環境を大きく変える側の方が大変だと思うのよ、結婚って。旦那さんがどうかはわからないけど、主導権を持つ方は基本的に、相手が誰でもそんなに大きく人生変わらないと思うし」
黙ってティナさんの言葉を聞いていた、テュールさんのお顔がどんどん翳っていく。
着いて行きたいと言ったのは私なんです。私が、あなたの側にいたかった。離れて待つなんて、もう二度としたくないって思ったから、だから。
「あなた。そんなお顔なさらないで」
思わず、その逞しい肩に縋りついた。項垂れたあなたが、悲しげに視線を持ち上げる。
私のわがままが今になって、あなたをそんなにも曇らせてしまうなんて思いもしなかった。
微笑って欲しいの。あなたを誰より幸せにしたい。誰よりも、私と一緒になって良かったと思って欲しい。
「私は、あなたと結ばれて、本当に幸せだと思っていますわ。……これからも、一緒よ。あなた」
一生懸命、もう無我夢中で伝えた言葉に、彼が軽く瞠目した。
せめてもと手を握れば、ぎゅっと握り返してくれる。ありがとう、と耳許に切なく囁かれた瞬間、身体の奥に燃えるような痺れを感じた。
「私も麓から嫁いだ身だもの。奥さんの気持ちはわかるわ。いっぱい大切にしてあげてよね、旅人さん」
綿布はあとで部屋に届けるわね、と言い添えて、ティナさんは手を繋いだ息子さんと共に去って行った。お子さんと並んで歩く姿を微笑ましく思う反面、失ったかもしれない生命を思ってずきりと胸が痛む。
私が諦めちゃ駄目だと、何度思っても絶望を拭えない。
その後、未だ意識の戻らない神父様を見舞いに教会を訪れた。怪我は治癒できたが、流し込まれた魔力の所為か、神父様はあれからずっと目を覚まされないのだと言う。
元々チゾットの洞窟が目的だったようだから、体調が落ち着かれたならこのまま療養していただいても良いかもしれない。けれど、あの魔族達の狙いが神父様だったことを踏まえると、彼の立場がどうであれ、王都へお連れした方が良いのではとの結論になった。
村のすぐ側で起こった襲撃事件に、村民の皆さんもぴりぴりしていらっしゃるのがわかる。この村が狙われないとは言いきれない。私達が神父様をお連れすることが決まると、皆さんばつが悪そうなお顔で、ひっそりと安堵の息を漏らしていらした。
出立の準備のため戻ろうとしたところで、同じく神父様を見舞っていた学者様に呼びとめられた。神父様のご友人らしく、救命についての謝辞を告げられる。
「不思議と、気持ちが和らぐ瞳をなさっている。懐かしい方を思い出したな」
テュールさんと視線を交わした学者様が、まじまじと彼を見上げた。夫が首を傾げると、学者様は目を逸らして俯き、自戒じみた溜息を深々と吐き出す。
「いや。魔物遣いだと仰ったか、その所為かもしれん。畏れ多くも我が国の王妃殿下、マーサ様がそなたと良く似た瞳をお持ちであったことを思い出してしまってな。王妃殿下も大変美しい、宵闇色の瞳をお持ちであらせられた」
「そう、……なんですか」
応えた彼の声が、ほんの少しだけ震えた。
学者様は気づかなかったらしく、一瞬遠い記憶に想いを馳せていらしたようだったが、軽く首を振ると、改めてテュールさんに掌を差し出した。
「……ユリウスをお頼み申す。生真面目だけが取り柄の爺だが、逝かせるにはまだ早い」
今更ながら、それが神父様のお名前であることを知る。深く頷き、テュールさんが学者様の骨張った手を力強く握り返した。
「最善を尽くします。皆様にも、何事もありませんように」
後ほど神父様を迎えにくる旨を告げて、教会を退出した。
扉を後ろ手に閉めたところで、はぁ、とテュールさんが重く白い息を吐く。
「剣、ばれてないよね?」
「ええ、多分」
声を潜め、そろりと背中の剣を確かめてから、もう一度彼が息をついた。思いがけずお義母様の話が出て緊張したのだろう。先ほど学者様がしていたように、彼を見上げた。深い、夜空のような濃紺の虹彩がわずかにたじろいだ。
「あなたのそのお優しい瞳は、お母様からいただいたものだったのですね……」
「フローラ」
気恥ずかしいのか、ほんのり耳を赤くして彼が狼狽える。
そんな様子もお可愛らしくて、思わずくすくす笑みが零れた。
ああ、でも。
「私にも、そんな瞳があれば……あなたを和ませて差し上げられるのに────」
ふと、そんな情けない独白が口を突いて出た。聞こえてしまったかしら。急に恥ずかしくなり、慌てて宿へと踏み出した私を、テュールさんの腕が引き留めた。
「……何言ってるの。フローラにしか出来ないよ」
ふわり、
背中から、やわらかく抱きしめられて。
均衡を崩した身体を、テュールさんの広い胸が受け止めてくれる。ぬるい吐息が髪にかかって、どきりと心臓が跳ね上がった。
「君がいなかったら、こんな、落ち着いてられないよ……」
羽で包み込むような優しすぎる抱擁に、何故か、痛いほど胸が締めつけられてゆく。
ああ────
このひとが、好き。
泣きたいほど、愛しい。あなたのすべてを護りたい。いつ終わるともわからないその苦しみを、少しでも、私に和らげて差し上げることができるなら。
もう、何も怖いことはないのに。
「ありがとう。側に、居てくれて」
耳に流れ込む低い声が心地いい。とくとく、重なって響く心音を聴きながら、触れる二の腕に頬をそっと擦りつけた。
私も、同じ。あなたが居るから越えていけるの。
凍てついた風が頬を刺す。村の方の好奇の視線を浴びながら、私達は暫し、教会の前で寄り添いあい、お互いを労りあっていたのだった。
王都方面への出入り口には、立派な吊り橋が横たわっていた。神父様が教えてくださった橋だ。想像以上に大きく長いその橋を前に、高所恐怖症の私はすっかりすくみ上がってしまった。「フローラ一人くらい、対して重さは変わらないんだから。気にせず乗って」と苦笑するテュールさんに促され、恐る恐る、荷台に乗せてもらうことになった。
馬車に乗り込む直前、ほんの一瞬、吊り橋の袂から王城を見下ろした。
荘厳な、青い城影が遥か下に映し出される。峡谷の木立に潜んで聳え立つ城は、その周りを重厚な城塞に護られていた。
街が見えないせいか、どこか寒々しく、寂しい感じがする。
あれが、彼の故郷。私達を待つ運命の都。
微かな胸騒ぎを振り払い、もう何も振り返らず幌に乗った。荷物を整理し場所を作ったそこにはあの神父様と、ホイミンちゃんが横たえられている。碧髪のことも知られてしまったから、ここから先は私も極力表に出ない。王都に着くまで、この荷台の中でお二人の容態を見守ることになる。
どうかこれ以上、何も起きませんように。
消しきれないざわめきを祈りで必死に落ち着ける。パトリシアちゃんの元気ないななきが幌越しに届いた。それを合図に、私達を乗せた馬車が、長い吊り橋をゆっくりと渡り始めた。
◇◇◇
びっくりして、飛び起きた。
酷い汗だった。水でも浴びせられたみたいに頭から背中まで、寝衣とシーツがじっとり濡れている。
耳の奥を打つ激しい動悸を聞きながら、息を吐いて必死に己を静めた。
これはただの、夢。未来視じゃないわ。
繰り返し自分に言い聞かせ、やっと実感が湧いてくる。
夢、だから。こんなの、予知夢でもなんでもない。
……いつか見てしまった、未来視のひとつだ。幾筋もの未来があって、そのうちのひとつ。最も残虐で、信じたくない、どうしてもまぬがれてほしいと願った未来。
禁忌を犯すとわかっていても、伝えずにいられなかった。
月のない、夜のようだった。それがどこなのか、誰が、何人いたのかもわからない。人集りの中央に、碧髪の乙女が座り込んでいた。彼女の腹部は臨月ほどに大きく、真っ暗な中、まるで月のように白く浮かび上がっていた。
その腹が、無情にも暴かれた。
助け出そうとして間に合わず、最後こときれていく妻子を見てしまったテュールが。その後憎悪に狂い堕ちていく様は、ただの未来視だとわかっていてもあまりにつらくて、リーシャにはその先すべてを見届ける事ができなかった。
あの助言だけで何とかなる確証はなかった、けれど、藁にもすがる思いで彼女に伝えた。それからこの情景を視ることはなくなっていた。────たった、今まで。
もう、回避できていると思いたいけど。あの人に直接伝えて、ここに及ぶ可能性はすごく下がったはずだけど。
なんでかな。胸騒ぎが、消えない。
「無事で、いてね。……フローラさん」
深く指を組み、リーシャは窓の外の月に向かってそっと祈る。
二人を見送ってそろそろ五ヶ月。テルパドールにはあれから、普段と全く変わらぬ日常が流れている。
結局、ユノ女官長がどうなったのか、誰も知らない。
……もう、子供は授かっただろうか。
今も二人は、ちゃんと一緒にいるだろうか。
恐ろしい未来視はこれだけじゃない。一歩踏み外せば奈落に落ちるように、彼らの運命は常に混沌としている。……それでも。
あの二人なら。手を離さなければ、越えていけるから。
「────とりに、しないで……」
彼をどうか、ひとりにしないで。
そして、出来るならどうか、ひとりで苦しまないで。
二人で、居てね。
あなた達同士でなければ、
叶わない未来なのだから。