Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】 作:サクライロ
暗い、隘路が続いていく。
数日前まで賑やかだったのが嘘みたいだ。人数で言えば、今、馬車の外を歩く仲魔は登っていた時よりずっと多い。静かなのはもちろん、疲労の所為ばかりじゃない。
馬車の中には、傷を負って目覚めぬ者が二人。否、正しくは一人と一匹だ。喉を貫かれた旅の司祭と、妻を庇って昏倒した仲魔のホイミン。どちらもチゾット手前の坑道で倒れたきり、意識が戻らない。
いつものホイミンの、明るい声が聴こえない。たったそれだけで、僕らの士気は信じられないほど落ちていた。いつも煩いほど陽気なスラりんも、親友の負傷は殊更堪えているらしい。敵に遭遇した時以外は、僕の懐深くに潜り込んで出て来なかった。
荷台に乗るのが嫌なんだろう。目覚めないホイミンを見るのが、彼はきっと辛いのだ。
こんな時はきっとフローラに甘えたいだろうに、そのフローラも今は荷台に籠りきりだ。恐ろしくて表に出せない。彼女自身の体調のこともあるが、それ以上に、あの坑道での出来事に対する不安が大きかった。
彼女の輝くような碧髪を。あの『ゲマ』がフローラを探していた張本人であることを、知ってしまったから。
何故退いたのかわからない。わからないけど、知られた以上いつ再び襲われてもおかしくない。神父様を狙った奴らの思惑もある。あとはこの洞窟を抜けるだけだと思っても、何事もなく山を降りられる気がしない。
「ああ、くそ。また行き止まりだ」
わかっていても、普段以上に苛立ちが募る。小さく舌打ちし、プックルの背を一つ撫でて道を戻った。
馬車がやっと通れるほど狭い道では、こうして手分けして道の先を調べる。魔物が溜まっていることも多いし、離れた隙に馬車が襲われることもある。神経を張り詰めすぎて、チゾットを出てから気を緩めた瞬間がほとんどない。
「崩落で道が潰れたようだな。外壁を降りるほかなさそうだが、あるじ殿は如何思われる」
反対側を偵察したピエールが、戻ってくるなりそう告げた。
掘削のしすぎで山が所々崩落しているとは聞いていたが、ここまで酷いなんて。確かに、それしか道はなさそうだ。縄を掛けたままの崩落跡もいくつかあった。
目的以外を度外視するなら、すぐにでも決断すべきだ。僕ら全員が、身一つでも王都へ向かうと言い切れるなら。
「馬車がね……どうしようか。司祭様は僕が運ぶとして」
胸に燻る逡巡を口にした途端、塞ぎ込みっぱなしの仲魔達がいよいよ黙り込んだ。
馬車を買ったあの日から、馬を変えたことはない。ずっとずっと一緒に旅してきたのは仲魔だけじゃない。馬車を、パトリシアを、僕達に捨てて行けるはずがないのだ。
「……縄を掛けて降ろせますまいか。力ある者達で、支えながら降ろせれば」
珍しくマーリンが申し出てくれて、気が進まないのを飲み込み頷いた。
悩んでいる暇はない。一刻も早く、王都に着かなくては。
重さを増すばかりの気鬱を引き摺りながら、僕達は改めて、この洞窟を下る道を探し始めたのだった。
縄がかかっている岩壁を一箇所選び、下方を削る。崖下は幸いにも拓けた岩棚になっていた。先に身軽な仲魔達を降ろし、周辺の瓦礫を退けてもらってから、いよいよ馬車を降ろしていく。
まずはパトリシアの胴に命綱を括りつけた。不快だろうに、パトリシアは僕の言葉がわかると言いたげに大人しくしてくれる。手持ちの丈夫な縄を岩にしっかりと固定してから、そろそろと愛馬を降ろしていった。
暴れることなく着地したパトリシアを、下で待っていたピエール達が受け止めてくれる。
縄が解かれるのを待って、次はマッドとラゴンに荷台を持ってもらった。驚いたことに、ラゴン達の背中の羽がここで良い仕事をしてくれた。彼らの羽はほんのわずか、あの巨体を浮かせることができたのだ。滑空に近いようで高く羽ばたくことは出来ないが、衝撃を和らげられるのは非常に大きい。
重い荷馬車を抱えて、息もぴったりに飛び降りた二匹の竜は、羽をぱたぱた動かして上手に減速しながら無事着地を果たした。
あとは護衛に残しているプックルと、僕が、司祭とフローラを連れて降りるだけ。
「自分で降りてみる?」
先に神父様を背負い、落ちないよう紐で身体に括りつけていたところで、フローラが恐る恐る崖下を覗いているのに気付いて声をかけた。
彼女は高所恐怖症だが、こういう場面で負担になることを良しとしないひとだ。頑張ろうと思ってくれたなら、夫として精一杯支えてやりたい。
それに、護衛にプックルをつけているとはいえ、フローラをここに残して降りるのは正直恐ろしい。先に降りてくれるなら、その方が絶対にいい。
「もちろん無理はしなくていいよ。怖いなら、もう少しだけ待っててくれれば迎えにくるから」
プックルの黄金の毛に寄り添い、強張った彼女が小さく頷く。「が、んばって、みます」と辿々しく答えたフローラを一度だけ、ぎゅっと優しく抱きしめた。
先に妻を下ろす旨を仲魔達に伝え、羽衣の帯を縄に括りつける。マッド達に手伝ってもらいかったけど再び登るのはさすがに難しそうで、縄の下で待っていてもらうことにした。
絶対に縄から手を離さぬよう言い含めて、上から少しずつ縄を手繰り、彼女を降ろしていく。
細心の注意を払ったお陰で、数メートル下の岩棚に無事、フローラを降ろすことに成功した。安堵しつつ縄から帯が解かれるのを待っていたが、緊張の糸が切れたんだろう。ようやく立ちあがろうとしたフローラが、「きゃっ」と短い悲鳴をあげて、尻餅をついてしまった。
「フローラ⁉︎」
思わず身を乗り出し、声を張り上げる。仲魔達が一斉に駆け寄り、話している内容は聞こえなかったが、手早く状況を検めたピエールが苦笑しながら返事を投げてくれた。
「腰が抜けてしまわれたようで。ご安心なされ、あるじ殿」
再びほっと胸を撫で下ろし、僕も急いで縄を伝い降りる。神父様を負ぶったままフローラに駆け寄ると、妻は真っ青な顔を僕に向けて、震えながら小さく詫びた。
「す、すみません。力、入らなくて、お尻をぶつけてしまって」
「ううん、よく頑張ったね。お尻だけ? そういえばフローラ、まだ月のものが終わってないんじゃ」
チゾットを出てやっと二日目。以前、障りは一週間ほど続くと言っていたから、まだ出血は続いているんだろう。せめてぶつけたところを治癒しようと、回復魔法を灯した僕の掌を、フローラの小さな手がすかさずぱしりと弾いた。
────拒絶、された……気が、した。
「じ、自分で、できます……から」
一瞬、翠の瞳を大きく見開いたフローラが息を呑んだが、すぐ気まずそうに視線を逸らし、身体を引く。
それは、手を伸ばさないと触れられない、遠くはないけど決して近くもない距離で。
「……っ、ごめん。そうだよね、下半身は……ほんと、ごめん」
しどろもどろに謝罪を口にしたけれど、フローラは深く俯き、力なく首を振るばかりだった。
黙り込んでしまったフローラをガンドフに任せて、神父様を再び横たえに行った。先に降ろしてあったホイミンと並べて荷台に寝かせたところで、すっかり気落ちした様子のフローラが乗り込んできたが、やはり僕とは目も合わせてくれず、泣きそうな顔で膝を抱いて背を向ける。
僕が悪かった。そう自分に言い聞かせないと、もやもや燻る苛立ちめいたものに、今にも呑まれてしまいそうな気がした。
全然、わからない。どうやって慮るのが正しいのか。
洞の中を軽く偵察して、再び馬車を動かした。崖を降りたのが気分転換になったのか、仲魔達の表情が少しだけ明るくなったのが救いだった。
フローラはあれから塞ぎ込んだままだったが、のちの休憩時に一度だけ、さっきはごめんなさい、と謝られた。それでも尚、こちらを見てくれない哀しい彼女に、僕はぎごちない笑みを繕うことしかできなかった。
◇◇◇
残念ながらあれで終わりとはいかず、その後も度々崩落跡に出くわした。
床が陥没していたり、階段が崩れていたりして、降りるのにかなり難儀したところもあった。
それでも、かつてこの洞窟には何かが祀られていたのだろう。時折、大きな鳥の紋章が描かれた広間に行き当たることがあった。
……これ、グランバニアの国章だ。
何度目かの休憩中、広間の地面に刻まれた紋章をぼんやり眺めた。父さんの剣と同じ意匠。覚悟は十分してきたつもりだけど、どうしても未だ、実感が湧かなかった。
自分が、古い王家の血をひいている、だなんて。
詩吟で好まれそうな題材だ。さすがに、筋金入りの奴隷王子の噺が唄われたことはないだろうけど。
ふと、出奔した国王父子をグランバニアの人々がどう思っているのか、どう思われてしまうのか、以前空恐ろしく感じたことを思い出した。考えれば考えるほど、恨まれこそすれ歓迎されるとは到底思えない。あまつさえ奴隷なんて、王族の品位を地に落としたと糾弾されてもおかしくないんじゃ。
ここまで来たのは軽率だったんじゃないのか。僕のみならいざ知らず、妻や仲魔達にまで累が及んだらどうしたらいい。
祖国を目前にして、今更ながら、冷えた汗が背中をじわりとつたう。
「テュールさん」
思考の泥底に沈み切っていた僕を、荷台にいたフローラが遠慮がちに呼んだ。手招きされて幌幕の中へ入ると、ホイミンと並んでずっと眠ったままだった老司祭が、ごく薄く、瞼を開けているのが見えた。
どこか虚ろな眼差しで、暗い幌の天井をぼんやり眺めているようだった。
「たった今、目を覚まされました。……お声が出ないようで……」
押し殺した声で妻が告げる。黙って頷き、チゾットの教会で聞いた彼の役職を呼んだ。
「ユリウス司教様」
傍らに腰掛け、老司祭のやつれた顔を覗く。
洋燈が照らし出した彼の表情は、何故か、たった今まで虚ろに見えていたそれとは違う、驚愕に満ちたものだった。
微かな違和感を覚えながらも、心を落ち着けて語りかける。
「良かった、お耳は聞こえますね。先日、チゾット近くの坑道でお会いした旅の者です。覚えていらっしゃいますか」
ゆっくり、聞き取りやすいよう単語を丁寧に発したつもりだったが、彼は瞠目したきり反応しなかった。肯定も否定もせず、ただ、こくりと微かに唾を嚥下した気配がした。そうして見つめられる理由は何となく察せられたが、未だ直視することを恐れた僕は、彼の視線に気付かぬふりをして淡々と言葉を続けた。
「あのあと魔物の襲撃があって、勝手ながらお助け致しました。今はグランバニア王都へ向かっています。我々も仲間が負傷したので、叶うなら王都で治療を受けさせたいと思っていて」
骨張った手が、宙を薙いで遮る。
身を起こそうとしたようだった。慌ててその肩を抑え、安静にするよう促したが老人は止めない。上半身を無理矢理持ち上げて、灰色の目を大きく見開き、苦しげに呻いた彼は一度深く、息を吸い込んだ。
音を発せない乾いた唇が、ゆっくりと動く。
──……マーサ様。
そう、薄い唇が紡いだ気がして。
茫然と見つめる僕の代わりに、フローラが身を屈めて彼を支えた。微かな破裂音を頼りに囁きを解読して、妻は少しだけ躊躇を滲ませながら僕へと向き直る。
「お名前を、……と、仰っています」
────今度こそ、心臓が止まるかと思った。
それはもう、ほとんど確信だった。気づかれた。どういうわけか、この方は再会してたったこれだけのやりとりで、僕の素性を見事見抜いてみせたのだ。
王都は目と鼻の先。あと少し、隠しておくべきかもしれない。今の名前は本当の名前じゃないかもしれないのだし、言っても意味はないかもしれない。けど、このひとに知ってほしい、気づいてほしいという、どこか疚しい気持ちが湧いてしまうのも否定できなくて。
ここが、僕の故郷なんだと。
受け入れてほしいのだと。
……重い逡巡を、我欲がついに凌駕した。剣帯を外し、彼の目の前に父の剣を鞘ごと置いた。息を止め、震える手で鳥の紋様をなぞった司祭を見下ろして────
喉につかえた己の名を、密やかに、告げる。
「…………、テュール、と、申します」
彼はもう、何も言わなかった。
ただ静かに、背中を小さく小さく丸め、咽び泣いていた。
こんなにも年配の方が感極まって泣く様を、僕は初めて見たと思う。
傍らでは瞳を潤ませたフローラが、やつれた司祭の肩を支え、時折咳き込む震える背中を、ずっと優しく撫でていた。
ひとしきり嗚咽したあと、ユリウス司教は再び眠りについた。
まだ安心はできないが、意識が戻って本当に良かった。引き続きフローラに世話を頼んで、仲魔達を鼓舞し、先を急いだ。
この洞窟はもともと王国が管理していたのだろうが、妙に変わった魔物達が棲みついている。特に、箱やら壺やらに擬態した魔物が多い。擬態というより、ヤドカリに近い習性なのだろうか? 宝物庫かと言いたくなるほど宝箱を見つけたが、不用意に近づいたスラりんが何度かミミックに喰われかけ、都度しびれんが発狂していた。箱の中身を検知する鑑定魔法、インパスがここまで役立ったことは未だかつてない。
骸達の再襲撃を危惧していたが、チゾット村を離れて程なく、骸骨の魔物を見ることはなくなった。
『王都に着きましたら、是非お会いいただきたい者がおります』
あれから何度目かの覚醒で、しっかりとした顔つきを取り戻した老司教が僕に告げた。
初めて彼が目を覚ましてから三日ほど経った。今は、チゾットを出て一週間くらいだろうか。早く王都に着きたいのに、ままならなくて気ばかり焦る。
あれから彼は時折目を覚ましては、フローラの介助を受けて少しずつ生気を取り戻していた。喉から音を出すことは叶わなかったが、微かな囁きと、体力が戻りつつある今は指で文字を示すなどしながら、ぽつぽつと意思疎通を図ることが増えていた。
未だ目覚めないホイミンも診てくださり、彼を癒すには貴重な薬が必要かもしれないこと、すぐに容体が変わる可能性は低いことを伝えてくださる。その上で、王都に着いたら信のおける方に口添えいただけることもお約束くださった。
老体で、あれだけの傷を負われて、更には国王の喪失を伝えられて。立ち直れぬほど気落ちしてもおかしくない。そうさせない理由は、僕を見つめる気迫に満ちた眼差しの内に十二分に示されていた。
長らく行方不明であった王の嫡子と思しき僕を、間違いなく王都へ辿り着かせる為に。この方は今、精神を奮い立たせていらっしゃるのだ。
もしやサンチョをご存じないか。ふと思いつき問うたが、彼は肯定も否定もしない代わり、とある姓を静かに告げた。
──ヴェントレ、という者にお心当たりは。
まったく覚えがなく首を傾げた僕に、彼はわずかに落胆したようだった。暫し、物思いに耽っていらしたが、やがて何かを呑み込んだ様子で、先述の願いを指文字で伝えてくださったのだった。
──殿下がお戻りあそばされた後、宮中は混沌とするでありましょう。
パパス王が永く御不在となられ、今は王弟であらせられるオジロン様が玉座を守っておいでです。宮中には様々な思惑が交錯しております。畏れながら、殿下のお戻りを歓ぶ者ばかりではないやもしれませぬ。それでも……
言葉を選びながら指文字をゆっくり綴っていた司祭が唐突に顔を上げ、正面からひたりと僕を見据えた。
ゆめお忘れになりますな。貴方様のご帰還を、何より待ち望んでいた者がおりますことを。
御身をお守りすることも、お力になることも、この不具の身では叶わぬかも知れませぬ。ですが、お信じください。私、ユリウス・エベックとヴェントレ卿は、あなたが本物のテュール王太子殿下であらせられます限り、誓って裏切ることは致しませぬ。このことを何卒、お心にお留め置きくださいませ。……
『殿下』なんて呼ばれると、ヘンリーと取り違えられているみたいですごく変な気分になる。
訊きたいことはたくさんあった。父さんのこと、祖国のこと、母マーサのこと。目覚めた時、僕の顔を見て母さんの名を口走ろうとした理由。
声を出せない司教に負担をかけたくなくて、僕は何度も、喉から出そうになる我が儘を無理矢理呑み込んだ。
証明として示せるものは父さんの剣だけだ。どこぞでグランバニアの話を聞きつけなりすましに来た不埒者かもしれないのに、どうしてこの方は、僕をここまで疑わずにいられるのだろう。
……疑われたかったのか。そこまで考えて、あまりの情けなさに乾いた笑いが漏れた。
贖罪かもしれない。いっそ責められた方が楽だと、心のどこかで思っていたのかも知れない。
山を下る長い洞窟の途中、何度か洞の外の道を通った。どうやら下に行けば行くほど、山肌に設けられた山道が整備された状態で残っている。
遠く木々に埋もれるばかりだった青い城影が少しずつ、進むたびに近く、大きくなっていく。
もう少しで洞窟を抜けられるだろうか。期待と畏怖、言い表せない感情が胸に重く渦を巻く。正直、城が近づく毎にどんどん気が滅入ってしまっていたが、目下の目的を思い出すことでなんとか気鬱を振り払った。
司教様を無事送り届けて、ホイミンを診てもらうんだ。僕のことはその後でいい。ユリウス様が勧める、ヴェントレ卿にもお会いしないと。
……心の整理はとっくの昔についたと思っていたのに。どうして今更、恋しいなんて思ってしまうんだろう。
目を閉じて、夢想する。逞しい父が幼い僕を肩車して、ここから城を眺めている。叶わなかった帰還。この虚無だけは、他の誰にも埋められない。
もし今、この瞬間に、父さんが側に居てくれたなら。
僕はこんなにも、寂しい気持ちにならなかっただろうと。
◇◇◇
更に麓が近づいた山道で休息をとった後、洞窟の探索を再開した。
妙なことに、一本道の先はずっと上り傾斜が続いている。
「あれ、また迷った? さっきからずっと登ってるね」
変わり映えしない岩壁を見回し呟いたが、仲魔達は揃って首を捻るばかりで、答えてくれる者はいなかった。早ければ今日にも洞窟を抜けられると思ったのにな。馬車を押してくれる仲魔達も、牽いてくれるパトリシアもさすがの体力だが、次第に空気が薄くなる感覚に些か怖気を覚える。
……まさかこれ、またチゾットに戻って行ってるんじゃ。
あちらこちらをぐるぐる回って、もうどれが正しい道なのかさっぱりわからない。知らないうちにチゾットへの近道に迷い込んでいたりして、引き返してたら嫌だなぁ。そう思った矢先、数歩先を行くプックルが突如グァオ! と鋭く吼えた。
「ガンドフ、ラゴンとマッドも馬車を抑えて! マーリン、ピエール!」
「承知!」
呼びかけと同時にピエールが飛び出した。剣撃がプックルを追い、その背から焔玉が追撃する。刹那、前方からも焔玉が飛んできた。マーリンのメラミと交錯しながら飛来したそれは僕らの頭上をすり抜け、馬車と周囲の仲魔達に降り注ぐ。煙と呻き声がそこかしこから上がり、鬣を燃やされたパトリシアは激昂して前脚を蹴り上げた。
「わーーーっ、だめー! おちついてー!」
スラりんの必死の叫びを聞きつけ、幌から飛び出したフローラが急いで治癒と反射の呪文をかけてくれた。手綱を引いて落ち着かせたはいいが、戦況が芳しくない。どうやらミニデーモンが大挙して暴れ回っているらしく、仲魔達がひどく手を焼いているようなのだ。
子猿の如くキャッキャと駆けずり回り、武器を構えた仲魔達にも怯まず奇声を上げてくる。先ほどのメラミの雨もこいつらが放ったらしい。出会い頭にプックルが威嚇したが、さほど逃げ出してくれなかったようだ。げんなりした様子のピエールが「稚児の相手は出来かねる」とぼやいた。殊更うんざりしているのはマーリンで、彼の熟練のメラミが小悪魔達の琴線に触れたのだろうか。数えきれないほどのミニデーモンが彼を取り囲み、熱い視線を向けている。
いおなじゅ、めらどまー! と口々に叫んでいるのは、魔法を見せろと言っているのか。表情の欠片もないマーリンが首を振った。そうして小悪魔達に淡々とマホトーンを施す魔術師の姿は、申し訳ないがなんともシュールであった。
「なんとか気を逸らせればいいんだけど……困ったな。この道があってるとも限らないんだよね」
以前踊る宝石を狩った時も思ったが、害意のない相手ほどたちの悪いものはない。こんなに居たんじゃ馬車もろくに動かせないし。強行突破してもいいが、道が間違っていて引き返さなくてはならない場合、もう一度小悪魔の大群に揉まれるのはマーリン達も御免だろう。
いっそ一息に蹴散らしてしまいたいだろうに、甘い主人に倣って手を出さずにいてくれるみんなはつくづく根が優しい。
「そこの餓鬼どもを追い払ってくれるなら、道を教えてやらんこともない」
唐突に、雄の声がした。抑揚のない、人ならざる者の声。
振り向いた途端、意図せず心臓が凍りつく。
岩陰に佇んでいたのは、これまでも幾度か遭遇したことがある『メッサーラ』と呼ばれる魔族だった。
羊の角、蝙蝠の翼を備えた、紅い身体を持つ嵌合体の魔物。知性が高く、他種族の魔物をよく統率する様が見られる。マーリンのように魔封じと炎魔法を使いこなし、謎の毒々しい光を放つ。あれが何なのか、何度か浴びせられたが効果がいまひとつわからない。
魔法に特化しているようで、よく締まった筋肉質な身体は鉱夫のようでもある。まるでこの洞窟の主の如く君臨しているが、妙に捉えどころのない、不気味な魔物だ。
何より、あの顔が。
(──……、落ち着け)
まっすぐ視線を交えたまま、ゆっくり息を吐く。落ち着け。この魔族は、違う。
「人間が頭目とはな。それで? 行先は上か、下か」
言葉のわりには無感慨に、眉ひとつ動かさず魔族が問うた。首を振り、麓へ急ぎたい旨を短く告げる。
上半身とその顔が、まるで馬なのだ。面長の赤い顔に、左右を睨む鋭い眼。そういう顔つきに覚えがあって────あまりに鮮烈に、目蓋の裏を過ってしまうものだから。
あいつは、『ジャミ』は、ここまで感情を出さない魔物ではなかった。別人だ。
否、違う意味で警戒は解けない。ゲマの襲撃があった直後だ。このメッサーラだって、光の教団の配下かもしれないのだし。
僕の緊張を気にも留めず、赤い馬面の魔族はつと小悪魔の群れに目を向けた。促された気がしてそちらを向くと、やはり抑揚のない声で魔族が告げる。
「爆弾岩の欠片を持っているか。こいつらはあれを好む。坂の下にでも転がしてやれば、簡単に気をひける」
「爆弾岩の……欠片?」
「知らんのか」
淡々とした声に初めて感情らしい、微かな嘲りが混じった。冷めた目でこちらを一瞥し、やや居丈高に言い放つ。
「以前、人間どもがよくこの辺りで使っていたぞ。煩くて敵わなかった。持ち込んだのはお前達の仲間だと思ったが」
いや、いきなりそんなこと言われても。僕はただの旅人だし、残念ながら仲魔に爆弾岩はいない。使うって、僕みたいな魔物遣いが爆弾岩を使役してたってこと?
意味がわからず問い返そうとしたところで、道具袋をごそごそ漁っていたピエールが、何やら黒い塊を取り出した。
「はて、岩っころというと、こういうものかな」
石炭ほど黒くない、どこにでも転がっていそうな石だ。何の変哲もないそれを見るなり、紅い魔族は「なんだ。持っているならすぐ寄越せ」と不機嫌そうに呟き、ひょいと奪って行ってしまった。小悪魔の群れをずんずん突っ切って行く背中を見送りつつ、なんとなく声量を抑えて、ピエールとこそこそ囁き合った。
「いつ拾ったの? あれ、まったく見覚えなかったけど」
「昨夜、壊れた階段下の洞で見つけた宝箱の中に。ご覧の通り屑石であったが故、報告はせなんだが」
「屑石だったのに、何で道具袋に入れてんの……?」
よくわからないが、あれが爆弾岩の欠片だったのか。がっくりする僕を尻目に、小柄なこの騎士は実に涼しい顔だ。
その辺、わりと普段からなあなあにしちゃってるの、良くないよな。拾い物に関しては僕もみんなも価値がわからないことが多いから、特に宝箱の中身は、とりあえず持ち帰って街で鑑定してもらうのが慣わしになっているのだ。
だからって、みんなの持ち物を僕がまったく把握していないのはまずい。呪われた品物だったら困るし……などと思った瞬間、今来た道の向こうから突如、ドン‼︎ と轟音が鳴り響いた。
は?
一拍、完全に理解が遅れる。あれだけ居たミニデーモン達はいつの間にかいなくなり、坂の下からどこかすっきりした顔つきのメッサーラが歩いてきた。茫然とする僕を一瞥し、「あいつらが戻ってくる前に動け。麓だな」とつまらなそうに言う。
爆弾岩の、欠片。……今の、あの石が爆発した音だったのか⁉︎
「いや、めっっっちゃくちゃ危ないじゃん! 良かったよ、今の今まで爆発しなくて!」
「ほおほお、なるほど。確かに、非力なヒトが採掘するにはうってつけの石でござるなあ」
ピエールはのほほんと頷いているが、僕は落ち着いていられない。メッサーラが石を放った方には今も、馬車が滑落しないよう支えてくれている仲魔達と、不安に耐えて僕を待つフローラがいるのだ。
「フローラ、皆! 大丈夫⁉︎」
最悪の事態が過り、大慌てで駆け戻った。幸い馬車に被害は及ばなかったようで、ガンドフ達が笑って安心させてくれた。幌の中を守るフローラも、司教とホイミンに大事がないことを教えてくれる。
「突然、騒がしくなった後に大きな音が聞こえたので、びっくりしましたわ。あなたがご無事でほっとしました。何があったのですか? もしかして、魔物さんがお仲間に?」
「うん、僕もほっとした。なんかね、道を教えてくれるってさ。メッサーラが」
手短すぎて、なんとも要領を得ない回答になってしまった。司教様とフローラが不思議そうに顔を見合わせる。碧い小さな頭をこてんと傾けた妻が思いがけず可愛くて、つい口許がにやけてしまう。
「フローラ、ユリウス様もこのまま中にいてくださいね。とりあえず着いて行ってみる。多分、大丈夫だと思う」
魔物には鼻がきくからさ。言外にそう伝えて、急いでパトリシアを先導した。気難しいメッサーラの顔色を窺いつつ、結局は登り坂の上に向かって歩き出す。
……ちゃんとさっき、麓って言ったよね。
些か悶々としたが、「城のある方だろう。今、最短距離で向かっている」とぶっきらぼうに言われてしまえば、それ以上訊くに訊けない。
どうやらこのメッサーラは静寂を好むらしい。相変わらずの無表情だが、ミニデーモン達を追い払ったことで満足そうにしているのがうっすらと見てとれる。
とはいえ黙って延々登り続けて、十分近く沈黙を守り続けたところで耐えきれなくなった。僕が、というよりスラりんとしびれんが萎縮してしまっているのだ。ホイミンの件で落ち込んでいるとはいえ、元々お喋り好きな彼らが、息を殺して縮こまっているのを見るのは忍びない。
このメッサーラは仲魔ではない。人懐っこいスラりんだが、さすがに身内とそうでないものとの接し方は弁えている。
「……あのさ、良かったらひとつ訊きたいことが」
「悪いが話は後にしてくれ」
瞬殺された。ガンドフの影に隠れたスラりん達がはわわわと震え上がり、その隣を跳ねるピエールは、場の空気を変え損ねた不甲斐ない主人を、鉄仮面越しの生ぬるい目でじっとりと見つめた。
使えない主で悪かったな。若干不貞腐れつつ、さりげなくメッサーラの斜め後ろに並んだ。こっそり盗み見ると、彼は歩きながらも何やら考え事に没頭しているようだった。
最短距離と言っていたし、この複雑な洞窟の地形を頭の中で洗い出してくれているのかもしれない。
「…………、何だ」
そのまましばらく彼の横顔を眺めていたが、いよいよ視線が気になったのか、若干鼻白んだ様子でメッサーラが視線を寄越した。
「いや、興味があるだけ。メッサーラとちゃんと話すの、これが初めてだから」
探りを入れる腹はないので、思ったまま口にする。考え事を邪魔してたらごめん、と言い添えたら、彼は微かに眼を瞠ったようだった。もしや気に障ったかとひやりとしたが、返る言葉が意外にもやわらかく聴こえて、驚いた。
「俺は、二度目だ」
因縁の魔族、ジャミを思い出させるいかつい馬面だが、気質がまったく違うからか、しばらく共に過ごした今は不快感を感じない。二度目って、人間と話すのがってことだよね。一人目も魔物遣いだったのかな。そういう存在は話に聞く母さんしか知らなくて、僕は何となく首を振り、その思考を追い払った。
浮かれてるんだと思う。名前しか知らなかった母『マーサ』の話を、ここに来て聞かされることが増えたから。
あまり僕から話しかけない方がいい気がして、ふぅん、と小さく相槌だけ打った。そこからまた沈黙が続いて、しばらく道なりに登っていくと、天井の高い拓けた場所に出る。
カンテラでぐるりと辺りを照らすと、傾斜はまだどこかに続いているようだ。ぬるい風が吹き抜けて、どうやらこの階層に、真っ暗な大穴が空いていることがわかった。
がらんどうのその広間に、どこか得意げにも聞こえるメッサーラの声が響き渡る。
「ここを降りればすぐ出口だ。間違いなく最短距離だな」
いやいやいやいやいや‼︎
「待った。ここを飛び降りろって⁉︎」
思いっきり声を荒げたが、腹が立つことにメッサーラはやはり、眉ひとつ動かさない。
「急ぎたいと言ったのはお前だろう。ここから降りれば、百数える間に外に出られる」
「だからって……!」
全力で反論したいが、出来ない理由を並べる前に状況を精査すべきだ。口から飛び出しかけた文句をぐっと飲み込み、風が吹き上げる大穴の淵に膝をついた。
見下ろした深淵はどこまでも暗く、地面がまったく見えない。試しにそこらの石をいくつか放ってみたが、それなりに大きめの石でもほとんど音がしなかった。場所を変えても同じ。恐らく、途中に足場をとれるところもない。
「高さがありすぎる。綱じゃ長さも、強度も無理だ。ラゴンとマッドに馬車を持ってもらうにしても、往復は出来ないし……どうしようか」
ドラゴンマッド達のそれは飛翔ではなく滑空だから、一度降りたら戻ってこられない。畢竟、全員が無事に降りるためには、飛べない面々を一人残らず馬車に押し込めなくてはならない……と思う。パトリシアも含めて。そこまで積んで、荷台が耐えられるだろうか。城が近いから、最悪、食糧などの消耗品はここで捨てても構わないのだけど。
マッド達の羽で多少抵抗を殺せたとして、この高さだ。全員、すべてが無傷ではきっと降りられない。
「君は飛べる? ……といっても、手伝ってはもらえないよね。さすがに」
隣に佇むメッサーラの表情を窺ったが、約束は果たしたということだろう。肯定も否定もせず、僕の問いを受け流した。
考えろ。どうしたら、全員揃って先へ進める?
せっかく連れてきてもらったが、正直、引き返して他の道を探すしかないと思う。くまなく見てきたつもりだけど……今までの道に見落としがあったかもしれないのだし。
いっそ壁に穴を開けて進めないだろうか。この大穴に面する、もっと低い階層には行けないのか。
「他に、この大穴に通じている場所はない? もっと下の方で。多少遠回りになっても構わないんだけど」
「ないな。ここが下に繋がる唯一の結界だ」
あっさり言い放たれ、唇を噛む。この場所しか使えないなら、やっぱり誰一人欠けてほしくない僕は、大穴から降りることを諦めるしかない。
城は目前なのに。あと少しで、外に出られるのに。
────…………、
結界?
ふと、メッサーラの答えが思考の端に引っかかった。
結界。下に繋がる、最短距離。ここだけが、唯一の。
唐突に思い浮かんだのは神の塔だ。目に映らぬ、道なき道。清らかな乙女の祈りがなくては開かない扉。幻の、父と『誰か』を見せられた、神秘に満ちた謎の庭。
まるで人の手が加わっていないように見える、崩れかけた洞窟の所々に刻まれた、鳥の紋章。
あの時感じた奇妙な不快感が蘇る。人智を超えた何者かに試されているような、ひどく居心地の悪い空間。
黙って縄を出し、ある程度の長さで掴んで鞭のようにふるってみた。歩きながら何度か確かめたが、深淵に向かって投げた綱はどこにもぶつかることなく、穴の縁からずるりと垂れ下がる。
「……道なき道はないようだが」
察しのいいピエールが呟いたが、想定の内だ。縄を引き戻してもう一度、今度は予備のランプをゆるく繋いで投げ入れた。灯火が漆黒に細く弧線を描き、闇に飲み込まれる途中、ふっと不自然に消失した。
火が消えただけかもしれない。けど。
「ユリウス様。この洞窟の中に、例えば……特定の場所に転移する魔法陣が、張られていたりしませんか」
目を凝らしても影は見えないし、音もしない。手繰り寄せた綱の先にランプはない。その綱の端も、焼き切れたり引き千切られたりといった様子はなかった。結び目だけが、そもそも何もなかったというように綺麗になくなっている。それらをすべて確認してから、幌の隙間からこちらを見守る司教様に声をかけた。すぐに彼は首を振り、寄り添ったフローラが指文字で彼の言葉を解読してくれる。
「お心当たりはないそうですが……、テュール、さん?」
そりゃそうだ。そんな便利な抜け道をご存知なら、もっと早く僕に伝えてくださったと思うし。
及び腰で馬車を降りて、司祭の言葉を伝えてくれたフローラに向かって頷いた。落胆してない、念のため確認しただけだ。推論を否定する材料は見つからなかった。それでも今、この状況で、この可能性に縋ろうとする莫迦は僕くらいのものだろうけど。
────僕は『魔物遣い』だから。
もう一度、紅い悪魔を正面から見据える。ほとんど確証を得た上だったが、彼もまた、僕の思惑を見透かしたように満足げに目を細めた。
「信じるか否かは貴様次第だ。魔物遣いの人間よ」
信じるさ。
彼にどんな思惑があって、僕達をここへ誘導したのかは知らない。すべては罠かもしれない。行った先に、彼の仲間が待ち構えているかもしれない。そしてそれが光の教団である可能性も、絶対に否定はできない。
それでも、たった今、彼が示唆したそれ自体に『嘘はない』。
それがすべてで、僕が魔物遣いたる所以だ。彼が嘘を織り交ぜたなら、僕にはその真偽だけがわかる。たった今彼が告げた言葉に、一言一句、偽りはなかったと断言できる。
恐らくここは本当に、洞窟の出入口に最も早く辿り着ける場所なのだ。近いとは言ってない。最短だと言っている。ここからは推論だけど、多分この大穴に巨大な魔法陣が張られていて、落ちたものを洞窟の入口付近に送る仕組みになっているのだ。そしてその転移陣は、この場所から大穴を通過する過程でないと発動しない。
但し、僕はそれで納得できるが、みんなは別だ。
失敗できない。僕は良くてもみんなを巻き込むことにまだ抵抗がある。先に僕が降りてもいいが、もしも着地点がばらばらだった場合、みんなと逸れてしまうかもしれない。というか、無事に降りたことをこの場所に知らせられない。やはりみんなを説き伏せて、馬車ごと一斉に身投げするしかなさそうだ。
大博打だな。特にフローラには耐え難い恐怖だろう。
いつだったか、ヘンリーに散々釘を刺されたことを思い出す。お前は良くても奥さんには無理なことがあるだろうがって、かなりきつく咎められたっけ。それを思うと強要はしたくない。やっぱり回り道を探すべきかな。あと少しで出口なら、もう一度外壁を伝って道を探してみるとか。
何はともあれ、一度フローラにこの見解を話してみよう。そう思って彼女を招き寄せた瞬間、どこからか『僕』の声が響き渡った。
「よし、いくぞ! 飛べー!」
妙に間伸びした『僕』の声。当然だが僕は一言も発してない。
「今の、何……ッ、パトリシア⁉︎」
止める間も無くパトリシアが激しくいななき、大穴に向かって飛び出した。馬と荷台ががくりと縁から落下して、取り残されたフローラの絶叫が響き渡る。
釣られて落ちかけた僕を引き戻し「あるじ殿は奥方殿を!」と叫んだピエールとプックルが、後を追って深淵へと飛び込んだ。
闇に吸い込まれたパトリシアの鳴き声がふつりと途絶える。残された全員、思わず身を固くして数拍待ったが、彼らと馬車が地面に叩きつけられる音はいつまで経っても聞こえてこなかった。
「ぴ、ピエール……えっ? どういうことー⁉︎」
「そういうことだよ。この穴はただの吹き抜けじゃない」
僕と、状況を察していたらしいマーリンが深淵を覗き込んだ。スラりんとしびれんは残った仲魔達にしがみつき、すっかり震え上がっている。フローラに至っては、腰を抜かしてその場にへたり込んでしまっていた。
動けない彼女の脇を支えて抱き上げて、その場に残った全員に宣告する。
「僕達も行くよ。これは穴じゃない、旅の扉みたいなものだ。多分、本当に出口近くに転移できるようになってる」
どのみち、こうなっては行かない選択肢がない。
ユリウス様とホイミンを乗せた馬車もそうだし、プックル達だって心配だ。言いたくないけど、あの馬車の中には天空の武具だって置いたままなんだ。
さっきの声は何だったんだろう。気になるけど、のんびり考えている余裕も今はない。
「ガンドフ、スラりん達が飛ばされないようしっかり抱いてあげてくれる? マッドとラゴンも先に行って。僕はフローラを連れて行く。マーリンは一人でも大丈夫?」
線の細い魔法使いが頷いたかと思うと、次の瞬間にはローブをはためかせ、大穴に身を投じていた。気持ちいいほど躊躇がないな。他の仲魔達も僕とメッサーラをちらりと見届けた後、次々穴へと飛び込んでいった。ぴええぇぇ、と重なって響く二匹のスライム属の声もすぐに掻き消える。
多少臆病なところもあるが、仲間達は高いところをそこまで苦手としていない。全員が転移したのを見届けて、ようやく息をつき振り返った。残されたのはフローラと僕、そしてメッサーラと、手に掴んだ縄だけだ。
「え、……あの、テュ、ル、さ」
可哀想に、フローラは暗がりでもわかるほど青褪めている。強張った身体をもう一度強く抱き寄せて、縄で互いの上半身同士をきつく縛り上げた。間違っても離れてしまわないように。
「目を閉じて、僕に掴まっていて。絶対に離さないから」
もう、震えすぎて頷くこともできないようだったが、承諾の代わりにフローラが僕の胸に顔を埋めた。ぎゅう、と懸命にしがみつく彼女を外套の中にしっかりと包み込む。
「下に着くとすぐ、外に通じる崖がある。そちらは大した高さではないから問題ないだろう。地上に降りたら、その脇の洞に入れ。左に歩けば出入口だ」
手短な説明を脳裏に刻みつけて礼を言った。これにも彼は特に反応を返さなかったのだが、ふと、何かを思い出したように虚空を仰いだ。
「ああ、そういえば。訊きたいこととは何だ」
いやそれ、今訊く⁉︎
がちがちに強張ったフローラを抱きしめながらメッサーラを睨みつけたが、相手はやはり魔族。今まさに義理を果たしていると言わんばかりに平然と言ってのける。
「後にしろと言っただろう。だから今答えてやる」
ああ、まったく。君達はほんっと、意地でも自分のペースを崩さないよね!
訊きたいことは他にもあったが、悔し紛れに、最もどうでもいい問いを投げつけた。戦闘のたびもやもやしていた、彼らの妖しい技のこと。
「……メッサーラって時々、変な赤い光を発するじゃん。あれ、何の魔法? 何されてるのかわかんなくて、気味が悪い」
本当は名前を聞きたかったんだけど。半ば悪態じみた僕の問いに、それまで無表情を貫いていたメッサーラがふ、と口許を歪めた。
悪魔そのもの、どこか凄みを帯びた笑み。
正面からその貌を見てしまったフローラが、こくりと息を呑んだのがわかった。
「魔法抵抗力を奪う光だ。次に同胞に遭った時は、魔法に気をつけるんだな」
────なに。
問い返すことは叶わなかった。唐突に、視界を覆い尽くす赤い閃光が眩く走る。咄嗟に目を伏せたところで肩を衝かれた。突き飛ばされ、均衡を崩した身体は抱きしめた妻ごと、漆黒の奈落へと勢いよく落下していった。
────次に遭った時は。
何故か、最後に聞こえたその言葉だけが、鼓膜の奥で何度も奇妙に反響していた。
◆◆◆
衝撃はこない。唐突に重力が消失し浮かび上がって、背中が平らなところに触れた。それだけだった。
柔らかな身体を抱きすくめ、固く閉じた眼を恐る恐る開ける。
「なかなかどうして、刺激的な座興でござったな」
軽快に第一声をくれたのはやはりピエールだ。他の仲魔達、パトリシアも馬車も、目の前にずらりと並んでいた。ユリウス様まで表に出て、心配そうにこちらを見つめていらっしゃる。
見渡すと、どこかの神殿のように見えた。薄暗い空間には立派な柱が四本、この台座を囲むように伸びている。天井は意外にも低く、明らかにそこから落ちてきた感じがしない。
全員、無事だ。……良かった。
「……、フローラ」
上半身を起こし、腕の中の妻を呼んだ。僕にしがみついた状態で、フローラはすっかり気を失ってしまっている。当然だよね。高所恐怖症の妻にひどい負担をかけてしまったことを申し訳なく思いながら綱を解き、軽い身体を横抱きに支え直した。
くたりと脱力した妻の目尻が濡れている。こんな目に遭わせてしまったのに、久々に抱き上げた彼女が愛しくて、離れ難くてたまらない。
「みんな、変わったところはない? そこを出て、洞を左に行くと出口に行けるってさ。行こう」
どさくさに紛れてフローラを抱いたまま、みんなを促した。プックルが冷やかし混じりにこちらを見上げたが、気づかないふりで誤魔化す。パトリシアの手綱をガンドフに預けたところで、スラりんがきょろきょろ辺りを見回した。
「あれー? あのこはー?」
スラりんの言葉に、僕も今更ながらはたと記憶が蘇る。
そうだ、もう一人。さっきおかしな声かけをして、パトリシアを興奮させた張本人は?
その時だった。しびれんのなんとも弱々しい声が、幌の中から漏れ聞こえてきたのは。
「だっ、だめっ! かってにたべちゃ、だめなの……っ!」
両手が塞がった僕の代わりに、ピエールがすぐさま幌幕を開け放つ。果たしてそこには招かれざる第三者……さっき大暴れしていたミニデーモンのうちの一匹が、堂々鎮座していたのだった。どうやらこっそり荷台に忍び込んだらしく、携帯食のスナックをガリガリかじっている。物が散乱しているのはさっきの落下もあるのだろうが、それだけが理由ではないだろう。
ホイミンの安否が気にかかったが、ユリウス様が抱いてくださっていた。ほっとしたところで改めて、この小さな不法侵入者に向き直る。
「さっきの声、もしかして……君が?」
ふつふつ湧く苛立ちをフローラの香りで紛らわせ、努めて優しく声をかけた。食べかすだらけの顔を持ち上げた小悪魔がにかっと笑い、「うん! ぼくがー!」とまったく悪びれず言い放つ。
うわぁ、声だけなら本当に僕にそっくり。ていうかこれ、そういう特技なんだろうね。そういえば何度か戦った時も、こいつらは仲魔達の声真似をして撹乱しようとする向きがあった。
とは言っても、だ。
「とんッでもない悪戯をしてくれたよね……! 転移陣じゃなかったら、みんな揃ってあの世行きだった!」
思いっきり厳めしく叱りつければ、ぴえっ! と泣き声を上げてミニデーモンが飛び退った。これが素の声なんだろう、今の悲鳴は僕とは似ても似つかない。しかもなんだか、ぼそぼそ呟く言葉はどれも舌ったらずだ。声真似すると滑舌も良くなるのかな?
「仲間はどうしたの。着いてきちゃって、心配しない?」
「いおなじゅー、むー」
気を取り直して、フローラごと荷台の縁に腰掛け訊いてみた。通じたのかどうか、小悪魔は指をちゅぱちゅぱ吸いながら辺りを見回している。なんとなく意図が察せられて、ああ、とその返答を噛み砕いた。
「あの石ならもう持ってないよ。そっか、魔法を使いたいの?」
どうやらこの魔物達は、大魔法を使いたがっているように見えたから。戦闘中も不発の大魔法を何度か詠唱していたし、爆弾岩の欠片がお気に入りなのも、爆破魔法を使っている気分を味わえるからじゃないかと思う。随分と危険な玩具だけど。
案の定、魔法という単語に反応したミニデーモンはぱっと顔を輝かせ、「まほ! まほ!」と連呼して飛び上がった。
ちらりとマーリンを盗み見ると、いつにも増して無表情で遠くを見ている。フードを目深に被り顔を逸らしたその姿からは、こちらに話を振ってくれるなという強固な意志が滲み出る。
参ったな。多分だけど、このミニデーモンは仲魔のみんなと同じだ。いつ作用したのか、僕の力が及んだんだと思う。元々凶暴化した印象が薄い魔物だが、今、目の前にいるこの子からは、禍々しい気配をまったくと言っていいほど感じない。
ああいう悪戯は困るけど、悪意のないこの魔物を無碍にする気にはなれない。それに、群れから逸れたこの子を一人置いていくのは、非常に良心が咎める……というか────
「……ぱーぱ!」
うん?
思わず眼を瞬かせたのと、ぶっふぉ! とピエールが噴き出したのがまったく同時だった。
「こ、これは。確かに良く、似ておられる、ふ、はははッ」
「…………ッ、ピエール‼︎」
確かに、確かにね。ミニデーモンの体毛も紫だけど!
思わず叫んでしまったが、当然ピエールはそれで収まる御仁ではない。紫の小悪魔と僕の旅装を見比べては緑のスライムごとぼよんぼよん跳ね回り、腹を抱えて笑い転げる。他の面々は笑って良いものか顔色を窺いあっているが、スラりんは爆笑寸前だ。青い頬をぷるぷる赤らめ、今にも笑い出したいのを必死にこらえている。
「ま、まあ、今更あるじ殿も捨ておけまいて。それにほれ、奥方殿も満更ではなさそうで。ぶっ、くくくく」
失礼なまでに笑いつつ、ピエールが顎をしゃくった。満更も何も、フローラは失神してるじゃん。今だけは気を失っていてくれて良かった……などと不埒なことを思いつつ、何気なく見下ろした瞬間、予期せぬ状況に凍りつく。
いつの間に目覚めたのか、むしろどこから聞いていたのか。気を失っていたはずの妻は今や、真っ赤な顔を懸命に俯かせ、僕の腕の中ですっかり縮こまっていたのだった。
「フ、フローラ……、いつ、から……?」
「え、と……」
しどろもどろに問うと、フローラは恥ずかしそうに視線を泳がせ口籠る。
「つい、さっき……です……」
────いつもだったらすぐ気づくのに‼︎
頭に血が昇って、妻の覚醒に気づけなかった。あまりの失態に目の前が暗くなりつつ「あの……嫌じゃなかった?」と訊くと、フローラはきょとんと目を瞬かせた。次いで真っ赤な顔でこくこくと頷いてくれる。その表情に嫌悪は見えず、ほっとして力が抜けた。
子供の話を振られるのが嫌なのかなって、ここのところずっと不安を拭えずにいたから。時折こうして以前と変わらぬ恥じらいを見せてくれるたび、僕は情けなくも、心底安堵してしまうのだ。
「さっきはごめんね。怖い思いさせちゃって」
きれいな額に軽く口づけて、荷台の床に彼女を下ろした。目を瞬かせつつ、ミニデーモンと僕を心配そうに見比べるフローラに微笑みかけて、改めて、小さな悪魔と相対する。
「……一緒に、来るかい?」
父親じゃないけど。君の父親にはなれないけど。
精一杯の誠意をこめて呼びかける。そういう役割がなくても『家族』になれることを、僕はもう知っている。
「僕は君のパパじゃないから、パパとは呼ばないこと。それと、あんまりひどい悪戯をしたら叱るよ? それでもいいなら一緒においで」
んむ? と不思議そうに僕を見上げるミニデーモンに、そっと手を差し伸べて。
「魔法、覚えたいんだろ? 一緒に覚えようよ。僕もまだまだ勉強中だから。このひと……僕の奥さんも、魔法を勉強している最中なんだ。君と同じ」
言いながら軽く目配せをすれば、フローラは慈愛に満ちた微笑みで頷く。淡く愛らしい、その笑顔に背中を押されて。
「僕は、テュール。君は?」
「……みにもン」
「ミニモン。そっか」
手を差し出したままやわらかく頷いてみせたら、もじもじはにかんだミニモンが、そぅっと手を伸ばしてきた。
無骨な指先を、くすんだ肌色の小さな手がきゅっと掴む。
「ちゅー、る?」
舌ったらずに僕の名を反芻し、えへ、と笑う。
この表情に、魔物も人間も動物も、なんの違いがあるものか。
「うん、よろしく。ミニモン」
馴染み深い紫色の、滑らかな毛を撫でて抱き上げた。ミニモンは少し慌てたようだったが、視界が拓けたことには気を良くして、辺りをきょろきょろ眺めては「ちゅーる、ちゅーる」と嬉しそうにしがみついてくる。
こうなることは予測していたんだろう。マーリンは終始渋い顔だったが、側に連れて行くと諦めたように息を吐いた。やはりというか、ミニモンはこのローブ姿の魔術師に見惚れていたようだ。「まほ! まほー!」と彼に向かって一生懸命手を伸ばすミニモンをなんとか宥め、フローラに預けた。
「あのメッサーラにしてやられた感が無きにしも非ず。そうは思わぬか、マーリン殿」
尚も愉しそうに嘯くピエールに、珍しくマーリンが積極的な同意を見せている。まぁ確かに、メッサーラはミニモンが馬車……恐らく馭者台へ忍び込んでいたことに気づいていたんだろうな。結託していたとまでは思わないが、体よく小悪魔を追い払った今はさぞ気分良くしていることだろう。
一部始終を見届けたユリウス司教は、大層興味深そうに仲魔達を観察していた。ずっと荷台で療養していたから、彼はフローラとホイミン以外の仲間達に馴染みがない。ミニモンを仲間に招き入れた最後は、妙に尊敬のこもった表情で目を細め、じっと僕を見つめていらした。
「み、ミニモン、きになるから……しびれんも、なかにいるっ」
仲魔入りして早くも三つめの季節を迎えた、今やホイミンと同じくらいフローラと仲良しのしびれんが、ずっと避けていた幌の中に自ら進んで入っていった。生真面目なしびれんは、幼いミニモンがフローラを困らせるのではと不安なのだろう。「す、スラりんも……はいるー!」と、これまた気にしていたらしいスラりんが、勢い込んで後に続く。
本当に、目と鼻の先だよ。あと数時間で城に着ける。ホイミンも、助けてやれる。
恐れは、飲み込め。言葉にできない感情がいくつも渦巻いて、踏み出す足を鈍らせる。その全てをなけなしの理性で抑え込み、ついに僕は洞窟を抜ける最後の道を歩き始めたのだった。
◇◇◇
別れ際にメッサーラが教えてくれた通り、ほとんど百も数えないくらいの短時間で呆気なく表に出た。
獅子の彫像が三基ずつ睨み合う石畳を通り抜けてしばらく往くと、目の前に鬱蒼とした森が現れる。この森を二刻ほど、時折魔物を退けながら休まず進んで、日が暮れる前には赤い石造りの堅牢な城壁に辿り着いた。
正門の上に掲げられた鳥の紋章を仰ぎ見る。無意識のうちに剣鞘を外套の内側に隠し、息を深く吐いて緊張を紛らわしながら、城門を守る兵士達に声をかけた。
「恐れ入ります。旅の者ですが、城下の滞在許可をいただくことはできますか」
見慣れぬ馬車に、中に入れない大柄の魔物が数匹。近づく前から思い切り警戒されていたが、愛想笑いを張り付け低姿勢で頭を下げると、槍の穂先をようやく下げてこちらをじろじろ検分してきた。
「魔物遣いか……」
「はい。西の大陸の、サラボナという街から参りました。怪我をしている者がおります。早急に教会へ連れていきたいのですが」
義父からもらったペンダントを身分証代わりにかざし、あとは黙って返答を待った。二人並んだ屈強な兵士達が、こちらをちらちらと盗み見ながら何やら相談事をしている。
実はあの山からここに至る数時間の間に、ユリウス様からもちかけられた話がある。
曰く、自分が帰還したことは城の人間に知られぬようにしたい。そう、司教様がひっそりと僕に伝えて来たのだ。
それでは司教様の治療が出来ない。フローラと思わず顔を見合わせたが、彼は穏やかに頷いて喉に触れた。やはりちゃんとした音にはならなかったが、馬車に居る間に治癒と発語練習を繰り返した彼は、吐息ばかりのかすれた声なら発することができるようになっていた。
これ以上の快癒はありますまい。殿下と奥方様、そしてお仲魔の皆々様のお陰。この歳で喉を突かれて、生き永らえたこと自体が奇跡でございますよ。そう囁いて、彼は初めて会った時のように優しく笑った。
詳しいことはまだ話せないが、と前置きして。
自宅は城下にあるが、今は郊外の別宅で療養していることになっている。教会から籍を外れたことは言ったと思うが、王都の教会には今、自分をよく思わない者が多くいる。チゾットへ赴いたのは身を隠す意味でもあったのだという。
唯一、手放しに信をおけるのがヴェントレ卿である。自分の身も僕達の身柄も、彼ならば決して悪いようにしない。そう、司教様が告げた。
彼にとって、僕がそのヴェントレ卿と会うこと自体に何らかの意味があるのだろう。その理由はなんとなく察せられたが、期待しすぎることは恐ろしい。黙って引き続き、彼の言葉に耳を傾けた。
ヴェントレ卿は城外にお住まいです。正確には、城自体が堅牢な城塞になっておりまして、卿はその外側、城塞と城壁の境目に住まわれておるのです。ですから、訪問は比較的容易だと思われます。但し、検問は免れませんでしょう。
現在、グランバニアは魔物の入城を許しておりませぬ。お仲魔様のみを城壁の外でお待たせするのは現実的でない。恐らくは門前払いとなりましょうが、その際ヴェントレ卿への言付けがあるとお伝えいただきたい。城内に入らぬ前提であれば、馬車の中を検められることもなかろうと思います。あとは氏の邸宅を訪ねていただければ。
ユリウス様の目した通り、兵士はもっともらしく首を振ると、厳かに宣言した。
「こんな奥地までよく来た、と言いたいところだが、残念ながら魔物を城壁の中に入れることは出来ん」
ああ、やっぱり。受け入れてもらえないとわかっていても、気落ちしてしまうのは否めない。俯く僕に、もう一人の人の良さそうな兵士がやや同情を交えて言った。
「数が多いし、でかいな。そいつらはお前さんにしか従わんのだろう?」
首肯すると、溜め息混じりに頭を振られる。
「近くに小さな村がいくつかあるからそっちを頼ってくれ。ま、どの村でも嫌がられるかもしれんがな……待ってろ、今一筆書いてやる」
礼を言うべき、なんだろうな。厄介な訪ね人に対し、彼らはきっと誠実に応対してくれている。けれどやはり、僕にとってかけがえのない仲間達を目の前で忌まれることは、どうしたって抉られるほどに辛い。
それにしても、これほどまでに魔物と、魔物遣いが嫌忌されるなんて。チゾットではそこまで厭われている気はしなかった。
「……グランバニアの王妃様は、魔物遣いでいらしたとお聞きしました。魔物の処置もここなら叶うのではと、一縷の望みを繋いで参ったのですが」
「滅多なことを言うんじゃない」
ついこぼしてしまった恨み節をぴしゃりと遮られ、息を呑む。
さっきより剣呑な表情で、大柄な兵士が僕を睨みつけていた。
「だからこそだ。旅人なら知らんのも無理はないが、ここでその話はしない方がいい。そこの魔物達を咎められたくないなら、余計にな」
有無を言わさぬ物言いを前に、大人しく頷くしかない。こんなところで変に揉めて、騒ぎになるのは御免だ。何か思うところがあったらしいピエールが珍しく僕を振り仰いだが、首を振って誤魔化した。
ややあって、先ほど門の脇の小部屋に入った兵士が戻ってきた。村に便宜を図る手紙と、地図も書いてくれたらしい。徒労に終わるであろう彼の労力に内心詫びつつ、手紙を懐に恭しく収めて見せながら、最後の筋書きを演じるため彼らに向き直った。
「ありがとうございます。あの、もう一つ。移動する前に、ヴェントレ卿の邸宅へ伺いたいのですが」
再び怪訝な顔をした兵士達に問い返される前に、チゾットでお会いした学者様の名を引き合いに出す。ユリウス様の知己であり、僕の目を見てマーサ王妃を思い出すと言ってくださった方だ。
「チゾット村の、クランツ博士よりヴェントレ卿へのお言伝を預かって参りました。直接伝えて欲しいと申しつかっております。王城に入らずとも訪ねられる場所だと聞いていたのですが」
見事な口から出まかせだが、さすが、ユリウス様考案の言い訳には説得力がある。兵士達は再び眉をひそめ顔を見合わせたが、「すぐに済みますので、なんでしたら衛兵の方をつけていただければ」と言い添えたところ、すぐさま一人が城内に駆け込んでもう二人ほど連れてきた。まぁ、ドラゴンマッドが二匹にビックアイ、見慣れぬであろうスライムナイトその他の魔物達が一斉に暴れ出したら、お一人ではさぞ心許ないことだろう。
馬車を衛兵二人に挟まれ、肩身の狭い思いをしながら誘導に従って中庭に入った。高い城壁と外壁の狭間に、冷たい風が勢いよく吹き抜けていく。細まった庭をしばらく行くと、壁伝いに曲がったその先、存外小ぢんまりとした白煉瓦造りの一軒家が見えてきた。
少し離れた木陰に馬車を停めるよう言われ、幌の中に待たせていた妻を呼び出した。白いコートを着込んだ乙女がしゃなりと降りて来るなり、兵士達が目を瞠り頬を赤らめる。気品漂う彼女に愛らしく微笑みかけられ、すっかり鼻の下を伸ばした二人を作り物の笑みで見守ったが、愛想笑いであっても許容しきれないあたり、つくづく僕は狭量な夫である。
「妻です。彼女も仲魔達を見ていてくれますから、ご安心ください」
締まりのない顔で彼女に見惚れる兵士達の前に凍った笑みで立ちはだかり、取り次ぎを促した。僕と目が合うとばつが悪そうに咳払いして、先頭の一人がおもむろに扉を叩く。
「失礼致します。ヴェントレ様、旅の者が貴殿にお目通りを願いたいとのことです」
扉を開けて、初めに顔を覗かせたのは物腰柔らかなシスターだった。「あら、旅の方とは随分とお珍しいこと。それでは、私はこれにてお暇いたしますね」と屋敷の奥を振り返り、僕達にも軽く頭を下げて、彼女が出て行く。
間が悪かったかな。兵士の後ろでシスターを見送った僕の耳に、ひどく懐かしい声が響いた。
「はて? どちら様ですかな」
少し高い、まろい声。
刺々しく怒る彼の声は聞いたことがなかった。いつだって優しくて、陽だまりのように暖かかった。どこまでも深い慈愛で、僕の幼い心を守り、育ててくれた。
──……変わってない。
立ち上がり、こちらに歩み寄ろうとした彼が、視線を縫いとめられたように固まった。
まっすぐ見つめ合う僕達の間で、案内しようとした兵士が立ち尽くし、途方に暮れたように眼を瞬かせている。
「……まさか、…………もしや。いえ、」
かすかに潤んだつぶらな瞳を見開いて、目の前の彼が声を詰まらせる。
感慨か、歓びか。肩を震わせ頬を紅潮させる彼を、切ないような、妙な喪失感を伴って見下ろした。
ああ。会わないうちに、僕はあなたの背をも追い越してしまっていたのか。
「……いいえ。見間違うものですか。…………あなたは、……」
きっともう、確信を持って。彼はあの日と同じ、曇りない優しい微笑みを向けてくれた。
変わらない。……本当に。
まさか、一目でわかってしまう、なんて。
────ラインハット城から遣いがきて、お出かけすることになったんです。すぐ追いかければ間に合いますよ。
さあ、坊っちゃん!
それは、蜂蜜色の、遠い遠い過去の記憶。
春を取り戻したばかりのサンタローズ村で。妖精との冒険から戻ったばかりの僕に洗いたてのターバンを巻いて、慌ただしく送り出してくれた。
父とも、母とも違うけれど、僕にとってかけがえのない『家族』だったひと。
「──……、サンチョ」