Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】   作:サクライロ

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#9. 真理と真実

【side Flora】

 

 ────ご懐妊なさっておいでですか。

 唐突に問われて、びくりと肩が跳ねた。司祭様が目覚めて数日経った馬車の中。怖々顔を上げると、老いた司祭様が優しく微笑んでくださる。

『不躾に、失礼致しました』

 続けて指文字を刻まれ、動悸を必死に落ち着けた。

「……は、い。まだ、きちんと診断をいただいたことはないのですけれど」

 覚束ない答えだったが、ユリウス様は全て見透かしたように優しく頷く。目尻の下がった表情は未だ目覚めないホイミンちゃんの、とろんとした笑顔を不思議と想起させる。

 そう、きっと聖魔法に精通された方だからこそお気づきになったのだわ。授かってまだ間もなかった頃、ホイミンちゃんが施術の際、私の中のもう一つの命に気付いてくれたように。

 ……ということは、もしかして……赤ちゃんは────

『彼の方は、ご存じないのですね』

 ふと思いついた可能性に一瞬舞い上がってしまったが、続く問いかけが私を現実へと引き戻した。真剣なお顔で私を見上げる彼に、贖いを込めて深く、頷く。

「気付いたのが、こちらに向かっている途中でしたので……彼の足を止めさせたくなかったのです。甘い考えだということは、重々承知しておりました」

 殊勝な言葉を口にしながら、罪悪感に押し潰される。

 私のために帰郷を諦めてしまうかも、なんて嘘。彼だけ帰ってくる方がきっと容易かった。その方がこの国の皆様にとっても、きっと望ましいことだった。

 ──……一緒に、来てくれる?

 長く影を落としたテルパドール城の図書館で、密やかに請うてくれた彼をふと思い出す。

 私に勇気をくれるのはいつも、彼の深い、純粋な愛情。あのまっすぐな想いに恥じない自分でありたいと思うと、自然、背筋がしゃんと伸びる。

「あの……もしや、司教様には、胎児の状態がお分かりになりますか?」

 だから、まだ、諦めちゃだめ。

 思いきって声をひそめ、ユリウス様に尋ねた。微かに目を瞠る司教様をまっすぐ覗き込み、馬車の外に漏れ聞こえぬよう、細心の注意を払う。

「出血が、止まらないのです。あの時……チゾットで、魔族に襲われた日から────」

 訴えながら、下腹部を撫でた。喉の奥からまた、じわりと苦しいものが込み上げる。

 ごく、微量の出血なのだ。これだけで流産の判断は出来ない。胎児らしき血塊は出ていない、けれど、決して楽観視できる状態でもない。

 毎朝、目覚めた時。用を足す時。綿布を汚す血痕に何度も何度も落胆しながら、それでも、淡い期待を捨てきれずにいる。

『……残念ながら、状態までは判りかねます』

 だいぶ逡巡してから伝えられた指文字に、そうなのですね、と力なく返す。仕方ないことだわ。『胎動を感じられたことは?』と問われ、これにもすぐ首を振った。

 馬車に揺られ続けているせいかもしれないけれど、それらしい変化はない。

 普通は何ヶ月くらいから動くものなのかしら。昔……修道院でお世話した妊婦さん達がいつ頃から胎動を喜んでいらしたか、いまひとつ記憶にない。ええと、確か、つわりが落ち着いてしばらくしてからの方が多かったような。ならそろそろ、動く頃ではないかと思う、の、だけど……

 再び消沈してしまった私を、司教様がそっと慰めてくださる。

『お信じになってください。きっと、御子は今も貴女様の中で、精一杯頑張っておいでです』

 はい、と笑みを繕い頷いた。司教様の仰る通りだわ。どんなに思い悩んだところで、今は信じる以外何も出来ないのだから。

 長くお話しさせてしまった。身体を拭き清め、床ずれしないよう治癒魔法とマッサージを施す。お世話している間、彼は何かを堪えるように、宙の低いところをじっと見つめていた。

 一通り終わって再び毛布をかけようとしたところで、司教様が躊躇いがちに手招きした。

 不思議に思いながら掌を差し出すと、彼は私とは反対側、小さなホイミスライムが横たえられた敷布を目で示す。

『……こちらのホイミスライム殿の、魔力は』

 ホイミンちゃん?

 思わず身を乗り出した。彼を救う手立てなら、どんな小さな可能性でも知りたい。隣で数日過ごすうちに、何かおわかりになったのだろうか。

 果たして、彼が指文字で語ったのは、これまでまったく考えもしなかった内容だった。

『貴女様の胎児と、繋がっているようにお見受けします』

 

 ──……え?

 

 思わず、ホイミンちゃんと老司教様を見比べた。落ち着いた灰色の瞳が、私の腹部をまっすぐに見つめている。

『大変細く、余人の目には見えんでしょうが。ホイミスライム殿と御子達の間で、ほんのわずかに力が循環しておるようです。まるで子宮の働きを補っておるような。このような症例は他に存じません。目覚める保証は出来かねます、が』

 ゆっくり、ゆっくり綴られるそれを、瞬きもできず咀嚼した。

 ホイミンちゃんの、魔力が。

 私のお腹と……赤ちゃんと、繋がっている。循環、している?

 あれからずっと出血してる。止まらないそれは、本当はホイミンちゃんが抑えてくれていたの? だから、ほんのわずかな出血で済んでいるの? これ以上悪化しないよう、赤ちゃんが流れてしまわないように。だとしたら。

 熱いものが込み上げて、胸の内側を埋め尽くしていく。

 あの日、身を挺して守ってくれたホイミンちゃんが、今も。

『御出産がきっかけとなられるやもしれませぬ。逆に申し上げれば、胎児と繋がっている限り変化は起こらぬ可能性も。……いずれにせよ、今は奥方様からできるだけ離さぬことです。どちらがどちらの命綱となっておられるのか、これだけでは判別できかねます』

 こぼれかけた涙をぐっとこらえて頷いた。そう思うと今、私がホイミンちゃんと共にこうして身を隠すことになった顛末も、不幸中の幸いだった気がしてくる。

 チゾットでは一晩離れて休んだけど、繋がりは切れていない。そうなったきっかけはきっと、あの時。ホイミンちゃんが庇ってくれて、私の中の何かが光を放った。あの時、お腹が不思議と温かくなった気がした。

『正直に申し上げますと、目覚めてからというもの、目がよう見えんのです』

 さらりと綴られた内容に、一瞬、思考がついていかなかった。

 そんな、と悲愴な声を上げてしまった私に、司教様は深い皺を刻んで苦く笑う。

『元々歳で衰えておりましたから、ご心配には及びません。見え難いだけで、完全にめくらというわけでもございませんし。ただ、魔力の巡りを感じ取ることはできますが、身の内には未だ、あの澱んだ魔力が残っているようで……思うように、力を使うことができませなんだ』

 骨張った手を握りしめて、彼の灰色の瞳は何を映しているのだろう。黙り込んだ彼はいつしか、ぼんやりと光が差し込む幌の向こうを眺めていた。

『なぜ坑道でお会いした時気づけなかったのか。見え難くなって初めて、彼の方がまとわれる気配が、マーサ様……行方不明になられた王妃殿下に、極めて似ていらっしゃることに気がつきました』

 馬車の外から数人が微かに話し合う声がする。テュールさんの穏やかな問いかけに、ピエールさん達がいつも通り応じている。

 時折談笑を交えた、人間同士と変わらぬ他愛ないやりとりに暫し、耳を傾けて。

『あのお色は、マーサ様の紫紺の虹彩と同じ。お声は、若かりし頃のパパス王に似ておられましょうか。いえ、同じ頃のお父上は更に豪気であらせられましたが』

 テュールさんが聞いたらはにかんでしまいそう。そんな彼を思うと心がほわりと温かくなる。懐かしく、想いを馳せる目をして、司教様はゆっくり綴ってくださった。

 きっとこの方は、両陛下……テュールさんのご両親のことをよくご存知で、また、心から慕っていらしたに違いない。

『あの日、陛下がお連れになった赤児が、まことご立派にお育ちになられた。パパス様の剛勇と、マーサ様の慈愛を受け継がれた王子殿下が御自ら、この地へとお戻りくださったのです。……私めはただ、望外の歓びに震えるばかりでございます。本当に、早う皆に知らせてやりたい……』

 そこまで綴ると彼は皺だらけの手で顔を覆い、ずっ、と音を立てて鼻を啜った。

 それほどにも、彼の帰還はこの国の人々にとって、大きな希望なのだと知らされる。

 だからこそ、思う。何とか足を引っ張ることなく、ここまで来られて本当に良かったと。

 あと少し。きっと、あと数日で着きますから。

 胸いっぱいの感慨を噛み締めたあと、司教様の向こうに眠る、ホイミンちゃんの枕元に近づいた。

 ────ホイミンも、まもってあげる〜〜!

 耳に還るのは、いつだって屈託なく響く明るい声。

 たしなめてくれた。私の愚かな選択を、みんなで気をつけるべきだって。それでも私の我が儘を汲んで、身勝手すぎる隠し事にも黙って協力してくれた。

 あんなことになったのに、命懸けで守ってくれた。今も。

「…………っ、りが、と……」

 堪えていた涙が、ついにぼろりと溢れて落ちた。

 司教様がそっと面伏せ、気づかないふりをしてくださる。

 その優しさに声もなく感謝して、幌幕に背を向け、ホイミンちゃんのやわらかなお顔を繰り返し撫でた。

 もう、信じる以外にないの。不安も絶望も黙って耐えるしかない。そうすることを選んだのは、望んだのは、紛れもなく私自身なのだから。

 頑張って。どうか、負けないで。きっと目覚めて、あの優しい笑顔をまた、たくさん見せてください。

 ──……あなたも。

 お腹を撫でて、祈る。

 元気で、いてね。身勝手な願いを許して。

 無事でいて。どうか、流れてしまわないで。小さく稚いあなたを、この手に抱いて確かめたいの。私の生きた証であるあなたを、愛しいあのひとと血を合わせて授かったあなたを、私と同じく肉親との縁を断たれて生きてきた、あなたのお父さんと一緒に。

 

 

◇◇◇

 

 

「サンチョ、本当にサンチョなんだね。生きていてくれて良かった……!」

「それは私の台詞でございますよ。ああ、坊ちゃん、テュール坊ちゃん。どうかサンチョめにもう一度、ようくお顔を見せてくださいまし。まことご立派になられて……!」

 付き添いの兵士さん達に退出してもらい、邸内に屋敷の主とテュールさん、私の三人だけになったところで、夫が自らの名を告げた。それだけでもうお二人は感極まって、どちらからともなく手を取り合い、再会を喜び合った。

 サンチョさんは昔、テュールさんがサンタローズ村にお住まいだった頃、お屋敷を守られていた方だったと聞いている。

 お母様を知らない彼にとって、男性ながらに母親代わりとなってくださった方でもあったと。

 本当に良かったわ。ご無事で、こうして再び巡り逢うことが叶って。

 きっと、お会いしたことのないお義父様とお義母様、そして聖霊ルビス様がお導きくださった気がして、私はいつしか自然と指を組み、深く首を垂れて感謝の祈りを捧げていた。

「坊ちゃん、あのぅ、こちらのお方は……?」

 グスンと目許を潤ませて、サンチョさんの円い瞳がこちらを向いた。慌てて姿勢を正し、彼の背後に控える。愛しげに私を振り返ったテュールさんが、どこか照れ臭そうに答えた。

「うん、僕の……奥さん。昨年結婚して、一緒に来てくれたんだ。フローラ、前に話したよね? サンタローズの家で……えっと、使用人をしてくれてた、サンチョ」

「使用人、ですか。ふふ、左様でございますねえ」

 良い言い方を思いつかなかったのだろう。わずかに言い淀んだテュールさんを見て、サンチョさんが微笑ましげにお顔を綻ばせた。まるで、孫か幼子を眺めるお爺さまのような、温かい眼差しで。

 家族にも等しい方だと、いつか恋しげに聞かせてくださったテュールさんの横顔が眼裏に浮かぶ。

「仕方ないじゃん、あの頃のサンチョは『いつでも家に居てくれるひと』だったんだから。サンチョが居てくれたから、僕は母親を知らなくても寂しくなかったんだ」

 想い出を噛みしめていらっしゃるのか、くすぐったそうにテュールさんが微笑んだ。けれど、それを聞いたサンチョさんのお顔には、ひどくやるせない哀愁がちらりと過った。

「初めてお目にかかります、サンチョさん。フローラ・グランと申します」

 羽衣の、水煙の裾を摘んで膝を折る。感じ入ったように目を細め、サンチョさんは私に合わせるように流麗に腰を折ってくださった。

 この所作ひとつで、彼が真実育ちの良い方であることが察せられる。

「サンチョ・ヴェントレでございます。ああ、今宵はなんという夜なのでしょう。あんなにお小さかったテュール坊ちゃんが、こんなに愛らしい奥様を連れてお戻りになるなんて」

 感極まった様子のサンチョさんが、潤んだ目許を綺麗なハンカチで抑える。月並みな社交辞令だと思ったけど、隣で見守っていたテュールさんがひどく嬉しそうにはにかむのが見えてしまった。瞬間、首から上がぼっと火照る。彼が大切に扱ってくださる、それ以上に幸せなことはない。

「失礼ながら、奥様はどちらのご出身で?」

「サラボナだよ。あの辺り一帯を治めていらっしゃる、ロドリーゴ・ルドマン卿の御令嬢だ」

 正直に伝えてしまって良いものかしら。熱い頬を抑えつつちらりとテュールさんを見上げると、彼は得たりと頷き、私の代わりに説明してくださった。父の名を告げられ、サンチョさんは円い目をいよいよまるくして私達の顔を見比べる。

「ルドマン殿の? なんと奇遇な、昔ルドマン殿ご所有の客船に乗せていただいたことがあったんですよ。そうそう、赤児だった坊ちゃんもご一緒でした。まことお懐かしい、縁とは不思議なものでございますねぇ」

「ああ、やっぱりそれ、サンチョ達だったんだね。その時の船長がよく覚えてらして、父さんの話を聞かせてくださったんだ」

 そうでした。お義父様達が昔、窮地に陥っていたストレンジャー号をお援けくださったのです。フォスター船長をはじめとした船員の皆様がお義父様の武勇譚を繰り返し語ってくださって、テュールさんはそのたび、瞳を少年のように輝かせて聴き入っていらした。

 そのご縁のお陰で、幼い私もまた、臆病に打ち克つおまじないをいただいたの。他ならぬ、小さなテュールさんから。

 私と同じく、お二人もそれぞれ懐かしい記憶に思いを馳せていらっしゃったのだろう。暫しの沈黙のあと、居住まいを正したサンチョさんがおもむろに口を開いた。

「既にご存知のことと思いますが、坊ちゃん……いえ、テュール様のお父上は、このグランバニアの国主でいらっしゃいました」

 ──……パパス・パンクラーツ・グランバニア国王陛下。

 初めてその名を耳にしたテルパドールで、彼はひどく動揺していた。思考の海深くに意識を落として、アイシス様のお言葉を何度も何度も反芻して。

 今、彼は、時折見せる凪のような濃藍の眼差しで、サンチョさんの言葉を正面から受け止めている。

「うん。……と言いたいところだけど、正直、全然実感ない」

「殿下」

 咎めるように敬称で呼ばれ、テュールさんが苦く笑った。

「実感ないけど、そうなんだろうと思ってるよ。……父さんと母さんのこと、ちゃんと知りたいと思ったからここに来たんだ。あの頃の僕は幼すぎて、本当に何も知らなかったから」

 自戒のような、淡々と零される独白。

 目の前でお義父様を亡くされた後、彼がもし自身の手がかりを欠片でも記憶していたら。ここに至るまでの道筋も彼自身の生き方も、きっと今とはまったく違うものになったのだろう。

 私達がお互い知り合うことも、なかったかもしれない。自由を得たその足で、彼は迷わず故郷に戻れたかもしれなくて。

 痛々しげに見つめるサンチョさんに視線を向けて、彼はもう一度、自嘲気味に笑ってみせた。

「この間、テルパドールの女王陛下にお目通りして……グランバニアのお話を伺ってきた。僕の、本当の故郷ではないかって」

 突然の異国の話題に、サンチョさんは少し驚いたようだった。静かに頷くテュールさんを見つめ、哀しげに息を吐く。

「パパス様は、やはり……」

「うん。ヘンリー……ラインハットの王太子が攫われてね」

 俯いたサンチョさんが、今度はこめかみをぴくりと震わせた。

 丸めた肩から一瞬、酷く剣呑なものを感じた気がしたけれど、テュールさんは特に気に留めた様子もなく「長い話だから、後でちゃんと話すよ」と告げるに留めた。

「サンチョは知ってたんだよね? 父さんの旅の目的。伝説の勇者に会うために、天空の装備品を集めていたって」

 今度は夫が疑問を口にして、サンチョさんが深く頷いた。優しい瞳をそっと伏せ、古い記憶を噛み締めるように訥々と語る。

「勇者様に助力を請うべく、我が君はエストア大陸をお出になられました。すべてはマーサ妃殿下……魔物に攫われた、坊ちゃんの実のお母様をお救いするため。それが叶うのは天空神の加護を戴く勇者様だけであると、判ぜられたのでございます」

 そこまで告げると、サンチョさんは恐いほど真剣な面持ちで私達を見つめた。

「テュール殿下がお戻りになった今、一刻も早く現王にことの次第を奏上せねばなりませぬ。お二方とも、この後わたくしめにお時間をくださいませんか。オジロン様……パパス陛下の弟君であり、坊ちゃんの叔父上様にあたるお方でございますね。その方にお会いいただきたい。今すぐにでも」

 有無を言わせぬ要請に、私も、テュールさんも思わず顔を見合わせた。

 謁見の覚悟はしていたが、これほどすぐにとは思っていなかったのだ。ついさっき城門に着いて、門前払いされたばかり。急なことで、どうにも思考が追いつかない。

「……え、今から? 汗と埃まみれだよ。湯もずっと使ってないし、この格好じゃさすがに……せめて一度宿を取らせてもらってから、あ、でもそもそも僕らは中に入れてもらえないんじゃないかな」

 くん、と自らのシャツを嗅ぎテュールさんが顔をしかめたが、サンチョさんはむしろ最後の呟きを聞き咎めたようで「坊ちゃんが中に入れない、ですって? 誰がそんなことを」と気色ばんだ。当て擦るつもりはなかったのだろう、テュールさんが慌ててかぶりを振る。

「いや、僕が魔物遣いだから。この城に魔物は入れないんじゃなかった? 理由は聞いてないけど」

 小さな両目が思いきり見開かれる。ぱちぱちと瞬いた後、サンチョさんが躊躇いがちに反芻した。

「魔物、遣い……で、ございますか? 坊ちゃんが?」

「うん、そう。今も仲魔達をこの家の外に待たせてる。大丈夫だよ、皆すごくいい魔物だから。僕に断りなく誰かを襲うことは絶対にない」

 尚も一生懸命言い募る夫に気圧され、サンチョさんが恐る恐る頷いた。お義母様と同じ魔物遣いと聞いて驚かれたのかもしれない。この機にと、テュールさんがもう一歩身を乗り出した。

「もう一つ、先に話しておきたいことがある。ユリウス・エベックという司祭様を知ってる?」

 矢継ぎ早に問われ、サンチョさんがまたも眼をくりくりと瞬かせた。

「ユリウス司教様でしたら、先日暇を得て城を出られたと伺っておりますが……坊ちゃん、いったいどちらで」

「今、表の馬車の中にいらっしゃる。サンチョに保護してもらいたいんだ。チゾットの坑道で、魔物に襲われていたのをお助けした。一命は取り留めたけれど、今はほとんどお声が出ない」

 ほとんど被せて伝えられた情報に、サンチョさんのお顔が再び険しくなった。円い焦茶の虹彩をじっと見つめて、テュールさんは密やかに声を低める。

「お城の人には、ここにいることを知られたくないそうなんだ。理由は知らない。僕が見張りの兵士に警戒されてるから難しいかもしれないけど、彼らの目をうまく躱して中に入れてもらえないか」

 暫し、サンチョさんは黙って瞳を伏せていた。深く思索していらっしゃるのか、どこか焦点の合わない彼をテュールさんも黙って見つめている。

 数分そうして沈黙を保った後、私達に視線を戻した彼は、覇気にも似た強い意志を全身に漲らせていた。

「……わかりました。私がすべて、お引き受けいたしましょう」

 

 

 それからのサンチョさんの行動は迅速だった。私達に屋敷の湯を使うよう勧めてくださり、身支度を整える間にぱたぱたとご用事をこなしていく。表に出ると、遠巻きにこちらを見張っていた兵士さんが姿勢を正した。何故城壁の外にお住まいなのかわからないけれど、ヴェントレ卿という方は一介の兵から見てもやはり、貴いご身分の方なのだろう。

「訳あって、この方々の身柄を数日、このヴェントレめが預かることになりました。このあと陛下に急ぎ奏上したい儀がございます故、この文を先触れとして届けてもらえますまいか」

「は、あの……しかし、魔物が」

 冷たい鎧を着込んだ生真面目そうな兵士さんが、大柄の魔物達に囲まれた馬車へちらりと視線をやり、弱りきった声を溢す。

 いつの間にかすっかり陽が落ちて、城の裏庭は真冬の如く冷え込みを増している。山の中ももちろん寒かったけれど、強風に煽られることは不思議と少なかった。城壁の間を寒風が吹き抜けるたび、身体の芯がきゅうっと叫び声を上げる。

「あの魔物らでしたら、そなたが戻るまで客人と共に見ております。全ての責は私が負いましょう。よろしくお頼み申しますぞ」

 朗らかながらも強く言いきられてしまえば、兵士さんに拒む権利はないらしい。

 小走りに去る背中を見送って幌を開ける。暗い荷台の奥、ありったけの毛布にくるまった司教様を見つけた瞬間、サンチョさんが困惑と安堵の息を吐いた。きっと兵士さんは詰所で交代して戻って来られるからと、体格の良いガンドフさんにも手伝ってもらって、大急ぎで屋敷の中に運び込んだ。

 そこからのお世話は任せてもらい、テュールさんとサンチョさんが再び外に赴く。声がかかるまでの束の間、屋敷の奥に用意された部屋でユリウス様の身の回りを整えた。

「この後、国王様への謁見を申し入れていただいたそうです。しばらく留守にいたしますが、司教様はこちらで自由にお過ごしいただくようサンチョさんから申しつかっております。屋敷の外に兵士さんが立たれていますので、窓から見えないようお気をつけくださいね」

 ふかふかの寝台に彼を座らせ、これまたサンチョさんが用意してくださった温かいスープを脇のテーブルに置いて、手短に説明をした。

 胸がざわめく。これから私達の処遇がどうなるかわからないから、かもしれない。サンチョさんにお会いした限り、テュールさんに無体をなさる王様ではないように思う。……けれど。

 サンチョさんはテュールさんの身上について告げるだろう。その為にお城へ上がるのだもの。けれど、パパス王の忘れ形見である彼に、その後どれだけの自由が許されるだろうか。

 一緒に来てほしいと彼に請われたから、私も王様の御前に上がる。でも本当は、必要とされているのは彼だけ。

 引き離されてしまったらどうしよう。私も、そして明らかに歓迎されていない仲魔の皆さんも。

 不安のあまり黙り込んでしまったところで、司教様が枕元に置かれたペンに手を伸ばした。

 さらさらと書きつけられた紙を差し出され、覗き込む。

 

『グランバニアを、何卒よろしくお願い申し上げます。

 御二方に幸多からんことを』

 

 目を瞠った私とは対照的に、老司教様の表情は穏やかだった。

 流麗な文字はどこか物悲しく、まるでこの別離が永遠のものとなることを示唆しているよう。

 明るい場所で見た司教様のお顔が急に老いたように感じられて、思わず、骨張った手を紙ごと握った。

「サンチョさんの処にいらっしゃれば、必ずまたお会いできますわ。ユリウス様も、どうぞご自愛くださいまし」

 奥方様こそ、御身を大切に。

 ユリウス様が囁いたところで、こつこつと扉が叩かれた。「フローラ。そろそろ行こうか」と、すぐにテュールさんがお顔を覗かせる。

 登城のため、彼はいつかラインハット王国を訪問した際に着た他所行きの服を纏っている。改めて彼を眺めた司教様が、ほう、と感嘆の息を吐いた。

 歩み寄って膝をつき、私の手に逞しい掌を重ね合わせて。夫が司祭様を見上げ、語りかける。

「お一人にしてしまって申し訳ありません。外は衛兵が見張っていますが、仲魔達にもこの館を守ってもらっています。サンチョ以外の誰かが訪ねてきたら目を逸らさせるよう、人語を扱える者達に伝えておきました。ひとまず、サンチョが戻るまではここでお休みになっていてください」

 ユリウス様が目を細め、満足げに頷いた。握り合った手に額をそっと寄せ、声にならない謝辞と祈りを伝えてくださる。その仕草をすべて見届けたテュールさんが、ふわりと優しく相好を崩した。

「ありがとうございます。あなたのお陰で、ずっと探していた大切な『家族』に……会えました」

 どうにも、サンチョ殿が羨ましくてなりません。

 そう吐息だけで呟いて、司教様もまた微笑む。

 ほんのひと時、閉じられた小さな部屋の片隅で。お二人の温もりに触れながら、私は何故か、泣きたいほどの優しさを胸いっぱいに噛み締めていた。

 もう、悲しいことが起こりませんように。

 ただ、希う。テルパドールを出てから幾度となく願ってしまう切実な想い。大切な人達が手を取り合い、労わり合い、微笑みあっていられる。それだけでいい。望むのは、守りたいのはいつだってそれだけなの。

 

 

 

 テュールさんに連れられ外へ出ると、ピエールさんがさも親しげに見張りの方とお話しをしていた。

「騎士の誇りにかけて、剣をお渡しすることは出来ぬ。この一振りは拙者の命にも等しいもの。だが無用に騒ぎたてるつもりもござらぬのでな、ひと勝負して拙者を負かしたなら、暫し馬車に剣を納めるとしよう。それで手打ちにしてくださらんか」

「いや、そんなこと言われても……困るよ、王城のお膝元で魔物に武器を持たせておくわけにはいかないんだって」

 やけに朗らかな雰囲気で戸惑ってしまったが、どうやら衛兵さんが仲魔の皆さんに武器を渡すよう要求したらしい。古めかしい言葉遣いで流暢に話すスライムナイトを前にして、兵士さんはすっかり面喰らっているご様子だ。

 おろおろ見守るサンチョさんの前に進み出たテュールさんが、溜め息混じりに声をかけた。

「ピエール。『真剣』勝負は駄目だよ」

「心得ておる。魔法も禁止、加勢も禁止。獲物はスラりんが拾ってくれたこやつで十分よ」

 ピエールさんがかざして見せたのは、どうやら太めの木枝だ。木剣として使うということなのだろうが、テュールさんはやれやれと言いたげに息を吐く。「目とか、急所を狙うのも禁止だよ。わかってるだろうけど、怪我させるようなことはしないでね」と念押ししてから、及び腰の兵士さんに向き直った。

「スライムナイトは俊敏なので、脇を取られないようお気をつけください。まあ、腕慣らしのつもりでお相手いただければ。彼なら全快魔法も習得していますし、大事に至ることはないかと存じます。僕の許しなく、本気で危害を加えることは有りません」

 兵士さんがますますひきつったが、目配せされたピエールさんは無論とばかりに頷く。相変わらず飄々としている腹心を見遣って、テュールさんがやわらかく微笑んだ。

 その、鮮烈なほどの信頼に、嫉妬してしまいそうになる。

「ご理解ください。彼にとって、その剣は本当に命そのものなのです」

 ああ、なんて眩しいのだろう。

 主人から贈られた剣を己が命と呼ぶピエールさんも、その想いを黙って汲むテュールさんも。

 種族の違いなんて本当に些末なことなのだと思う。この揺るぎない絆の前には、妻である私でさえ立ち入れない。

 だからこそ、そんなお二人を前にしてのその提案が、殊更無粋に感じられてしまうのだろう。

「なぁ、あんたから武器を渡すよう言うことはできんか? 主なんだろう」

「ご容赦ください。代わりにヴェントレ殿の御前で、彼らが僕の指示なくグランバニアに剣を向けることは絶対にないとお約束します」

 一切の敵意は見せず、しかし最悪の場合抵抗も辞さないと暗に含めて、彼が静かに告げた。

 意図は正しく伝わったようで、兵士さんがサンチョさんに縋るような眼差しを向ける。あくまで一介の旅人である以上仕方ないとはいえ、兵士さんのやや横柄な態度に顔をしかめていらしたサンチョさんだったが、唐突に名を出され、慌てて表情を取り繕った。

「もちろんです。私の名に於いてこちらの客人を含め、その魔物達に叛意がないことを認めます」

 頼みの綱であるサンチョさんに駄目押しされて、ついに兵士さんが口をつぐんだ。

 悔しげに引いた彼に「おや、手合わせはもう良いので?」とピエールさんが笑い含みに揶揄する。「ピエールも茶化さないで。僕らが戻るまでは大人しくしててよ」とたしなめ、もう一度テュールさんが兵士さんに頭を下げた。サンチョさんを先頭に、私達はいよいよ王城へと歩き出した。

 テュールさんの背中を追いながらなんとなく、ちらりと背後を振り返った。温かな明かりを灯すサンチョさんのお邸の傍らで、仲魔の皆さんがひらひらと羽や触手を振り、穏やかに微笑んで見送ってくださっている。

 この時を最後に、私は長らく皆さんと離れてしまうことになった。再びお目にかかれるのは今から凡そ十年後、けれどこの時の私達には、そんな運命が待つことなどどうしたって知る由もなかったのだ。

 

◆◆◆

 

 重厚な扉の向こうは、意外にも活気に満ちていた。

 街がある。天井がある、作りものの空がある。テルパドールの星屑のような天井とも、あの王城地下に広がる美しい庭園とも違う。これだけの喧騒を、どうやって壁の中に押し込めていたのだろう。

 入ってすぐのところに大きな階段があり、ぐるりと壁に囲まれたそこは小さな広間になっている。喧騒は壁の向こうから聞こえる。すぐそこに食堂があるのか、威勢よい客引きの声と共に何やらよい香りが漂ってくる。覗いてみたかったけど、勝手に動ける雰囲気でもなく大人しく殿方に付き従う。

 階段の脇に立っていた衛兵さんが、サンチョさんを見るなり綺麗に敬礼してみせた。

「緊張してる?」

 立ち止まったサンチョさんが衛兵と話し始めた。背筋を伸ばして立つ私の耳許に、テュールさんがこそりと囁く。

「……はい。テュールさんはそこまで緊張なさっていませんか? いつもとお変わりないように見えます」

「はったりだよ。本当は心臓がばくばくいってる」

 そう言って微笑むテュールさんは大人びて、台詞に反してとても落ち着いて見える。

 まだ、この場ではサンチョさんしか知らない。この方がグランバニア王家の、正当なお血筋の方であることを。

 髪を梳り、特注の一張羅に身を包んだ彼は、威厳とはまた違う、どこか高貴で厳粛な雰囲気を漂わせている。

 私も、精一杯品良くありたい。この方の隣に立つにふさわしい女だと、どなたにも思っていただけるように。

「私、あなたに恥をかかせないよう、頑張りますね」

「恥なんてかくもんか。いつだってフローラは完璧なのに」

 湧き上がる決意を鼓舞したくてそう呟いたら、テュールさんが照れ臭そうに微笑んだ。

 程なくサンチョさんのお話が終わり、武器の有無を確認された後、階段の先へと通された。長い階段を登ると、さっきとはまた違った雄々しい喧騒が溢れる。「一階が城下街になっておりまして、こちらは兵士達の詰所や、政務に携わる者達の執務室がございます。後ほどご案内致しましょうね」とにこやかにサンチョさんが説明してくださったが、二階の階段口を守る兵士さんはひどく怪訝な目を私達に向けた。

 そちらに構わず、今度は左右に伸びた階段の一方を登っていく。薄暗い、やや拓けた踊り場から外へ出ると、冷たい夜風が鋭く肌を刺した。

 どうやらここは、外に面したテラスのような回廊らしい。もう夜だから地面を見なくて済むのは良いけれど、逆に足元も暗くてよく見えない。吊り橋になっているわけでもないのに、少し前に渡ったチゾットの橋を思い出して、勝手に足がすくんでしまう。

「ちゃんと壁があるから大丈夫だよ。僕に捕まって」

 強張った私をテュールさんが支えてくださった。恐怖と気恥ずかしさでいっぱいいっぱいになりながら、彼の手を握りなんとか足を踏み出す。

「おや、フローラさん? 大丈夫ですか」

「フローラ、高いところが苦手なんだ。ゆっくり行くね」

 ああ、嫌だわ。情けない。

 何度も何度も克服しようと思っているのに、どうしてこれだけはいつまで経っても治せないのだろう。いつ足下がなくなるかわからない、体重まるごと落下してしまいそうな恐怖はどうしたって拭えない。

 歩調を合わせてくださるテュールさんにしがみつき、長い回廊を渡り終えるとサンチョさんが何やら揉めていた。衛兵さんが数人、大きな扉の前に仁王立ちしている。

「……ですから、夕刻到着した魔物遣いだと報告が上がっております! サンチョ殿のご申告といえ、得体の知れない者を陛下の御前に上げるわけにはゆきませぬ。しかも人払いを、などと」

「なんと不遜な……この方々は、サラボナ地方を治めるルドマン家に縁の皆様です。ルドマン公はかつて海上で立ち往生したパパス様と私をお助けくださった、大恩ある方ですぞ。この方々を愚弄することは、パパス陛下を愚弄するも同じことです」

 助けてくださったのは寧ろ、お義父様の方だったと思うのだけど。不思議に思ったものの、サンチョさんとテュールさんの間で示し合わせたことがあるのかもしれない。そう思い黙って控えていると、サンチョさんが険しい顔つきでこちらを振り返った。

「若旦那様。御印をお持ちでしたらお見せいただけますか」

 頷き、テュールさんが首から下げたペンダントを取り出した。出立の日に父が彼に渡した、大振りの象牙石にルドマン家の紋章を彫り込んだペンダントだ。

 家紋を示し、サンチョさんが高らかに叫ぶ。

「サラボナ大公、ルドマン卿が御息女夫妻でいらっしゃいます。先触れはお通ししたはず、すぐにここを通されたい!」

 強いお声が薄暗い回廊に響き渡って。衛兵さん達は尚も逡巡していたが、大きな扉が内側から開いた。同じく困惑顔の兵士さんが中から顔を覗かせ「お通しせよ、とのことです」と告げる。軽く会釈をして、サンチョさんが堂々と入って行く。その背に従うテュールさんを慌てて追いかけた。

 何かしら。少し、胃の辺りが気持ち悪いような。ゆるく息を吐いて不快感を落ち着かせた。大丈夫、大丈夫。

 不意に振り返ったテュールさんと目があった、瞬間、彼が大きく瞠目した。

「……サンチョ、待っ──……」

 彼の声が届くより早く、サンチョさんが迷いなく広間に歩み出た。赤い絨毯が広々と敷かれたそこに膝をつき、中央の玉座に向かって恭しく声を上げる。

「サンチョ・ヴェントレが参上仕りました。陛下に至急、ご奏上申し上げたき儀がございます!」

 テュールさんと私もすかさず叩頭する。低く控えた私達の頭上に、幾分覇気の感じられないお声が響いた。

「楽に致せ。そなたらがサラボナの客人か」

 テュールさんと二人、その場でより深く頭を下げる。ほとんど床近くに額づいていたため様子はわからなかったが、サンチョさんが訝しげに問うのが聞こえた。

「陛下、恐れながら……御人払いをとお願いいたしました」

 どなたに向けられたものか、やや離れたところからほほ、と雅な笑い声がする。

「宰相であるわたくしにも席を外せと仰る。異国の客人をお招きなさるとあれば、わたくしめも是非ご紹介いただきたいものですな。サンチョ殿」

 宰相様。お声だけ胸に刻んで、やりとりに耳を澄ませる。

 私の前で跪くテュールさんは、やはり身を起こさない。

 わざわざ御人払いを願い出ていらっしゃるし、ユリウス様にも素性を悟られてしまった彼だから、今はなるべくお顔を見られないようなさっているのかもしれない。

「すまぬ、宰相よ。やはり一時外してもらえぬか。そなたには後日改めて紹介してつかわそう」

 ひどく申し訳なさそうな王様のお声が聞こえてから暫しの沈黙の後、かつん、かつんと足音が近づいてきた。慇懃なほど値踏みする視線を投げかけ、誰かが傍らをゆっくり通り過ぎてゆく。緊張でじわりと寒気すら覚えた。その足音に続いて数人が、規則正しい足音を立てて扉へと向かう。人の気配が消失した頃、「待たせたな。面を上げよ」と壇上から優しく呼びかけられた。

 テュールさんが背筋を伸ばした気配を感じ取り、私も顔を上げる。

 美しい緋色の絨毯が続く先、息を呑むほど重厚な細工に彩られた玉座がある。その中央に、やや小柄な中年の男性が深々と腰掛けていらした。テュールさんより明るい黒髪に焦茶の瞳、どちらかと言うと色白な方で、浅黒い肌つきのテュールさんとはあまり似ていらっしゃらない。星形に輝く王冠はテルパドールの図書館で見た挿絵のものとよく似ていて、しかしあの絵よりずっと大きく見える。

 この方が、グランバニア王国の現国王様。

「そなたは……いや、まさか」

 顔を上げた彼を、王様が食い入るように見つめた。その深い森のような瞳に、目の前の青年はどう映っているのだろう。

「さ、坊ちゃん」とサンチョさんに優しく促されてテュールさんが立ちあがり、恭しく礼をとった。

「拝謁をお許しいただき、心より感謝いたします。テュール・グランと申します。ノルトルース大陸ラインハット領、サンタローズ村にて幼少時、父と、家人のサンチョと共に過ごしておりました。父の名は、パパス・グランと申します」

 

 穏やかな声が、静まり返った玉座の間に吸い込まれていく。

 

 三、四呼吸の後、空気を震わせたのは、歓喜に満ちた陛下のお声だった。

「……まことか。そなた、テュールであると申すか!」

 興奮したご様子の陛下が腰を浮かせた。わずかにたじろぐテュールさんに構わず、手招きして壇上へと彼を誘う。

「良い、近う寄れ。立派に育ったそなたの顔をよぅく見せておくれ。……なんと深い紫紺の瞳か。お懐かしい、義姉上によう似ておるではないか。のう、サンチョよ」

「左様でございましょう。この瞳に泣かれてしまっては、旦那様が坊ちゃんを置いてゆけなかったのも深く頷けるというものです」

 王様のみならず、サンチョさんもしみじみと頷いた。鼻頭を真っ赤にして、嬉しそうに彼を見守っている。困惑したテュールさんがサンチョさんを振り返ったが、双方から手招きされ押し出され、おずおずと玉座に歩み寄った。

 王様のお側にテュールさんが並ぶと、彼の体格の良さがますます浮き彫りになる。

「既に聞き及んでおろうが、儂はそなたの叔父にあたる。パパスは儂の実兄だ。あまり似ておらん兄弟で、落胆させたやもしれんな」

 目元を潤ませ、くしゃりと微笑み彼を見上げる王様は、本当にお優しそうな方で。

 突然現れた王族を疎んずる方ではなさそうなことに、身勝手にも安堵した。

「お信じ、くださるのですか。僕は何一つ、この国の……グランバニアのことを知りません。覚えているのは自分のことと父のこと、あとはサンチョのことだけなんです」

 尚も心許なげにテュールさんが問うたが、王様は鷹揚に笑う。

「その瞳を見て疑うものがあろうか。そうか、そなたは義姉上のお顔を知らなんだな。まことよく似ておるぞ。後ほど姿絵を見せてやろう」

 嬉しそうに目を細め、王様がテュールさんの肩を叩いた。きっと今、彼は照れ臭い気持ちを懸命に抑えていらっしゃることだろう。普段あまり口になさらないけれど、彼が母親という存在に無比の憧れを抱いていることは言わずとも伝わってくる。だが続けて「して、兄上の消息は……覚えておることがあるなら何なりと申せ、テュール」と問われると、ぐっと唇を噛んで辛いものを呑み下した。

「……父は、魔族との戦いで命を落としました。今から十四年前、僕が、六歳の時です」

 瞳を伏せ、テュールさんが苦しげに絞り出す。当然覚悟なさっていたのだろうが、うむ、と王様も重い相槌を打つ。

「詳しいことは、後ほどお話しいたします。……サンチョ」

 テュールさんが目配せし、頷いたサンチョさんが彼に剣鞘を手渡した。客分のテュールさんが剣を持ち込むことはできないから、代わりにサンチョさんにお義父様の剣を帯剣してもらってこの場に臨んだのだ。

 あの剣を衛兵に検められたら、恐らくその場で騒ぎになる。

 サンチョさんがついているとはいえ、盗品扱いされる可能性もあった。無用の混乱は避けるに越したことはない。

 その、お義父様の形見の剣を、彼は両腕で掲げて王様に差し出した。「父が最後に使っていた剣です。昔馴染みの魔物……僕の親友が、預かっていてくれました」と頭を低める。

 魔物と聞いて、王様は一瞬躊躇した様子だった。まっすぐ献上されたそれを恐る恐る手に取り、剣柄を引き抜いてその意匠を確かめる。続けて剣身までじっくり見つめた後、深い溜め息を吐いて、再び剣を鞘に収めた。

「間違いなく、我が国の宝剣である。よくぞ持ち帰ってくれた」

 低く呟き、王様がまた目頭を押さえた。サンチョさんも、顔を真っ赤にして涙をこらえていらっしゃる。

「ともあれ、よくぞ戻った。そなたさえ良ければこの後、上に夕食を用意させよう。ゆっくり話を聞かせてくれ。サンチョ、そなたも参るがよい。積もる話があろう」

「ええ、もちろんです。お言葉に甘えてわたくしもご一緒させてくださいましね。ああ、それと陛下、ご報告が遅れました。坊ちゃんはご結婚なさっているそうで、今日は大変愛らしい奥方もご一緒にお連れくださっているのですよ」

「奥方、だと? ……なんと」

 ずっと優しげに話されていたのに、サンチョさんの報告を聞き咎めたそのお声だけが、すっと冷えた硬い音だった。

 咄嗟に、床につくほど深く叩頭する。お叱りがあったわけでもないのに、心臓が壊れそうなほどどくどくいってる。やはり外から連れてきた女など、ご不興でしかないのだろうか。

 必死に思考を逸らそうとして、ふと、鼻先を埋め尽くす敷布の緋色に気を取られた。

 ……赤。どこかで、こんな一面の赤を見た、ような。

「あいすまぬ、甥の帰還にすっかり浮かれてしまったな。テュールよ、儂にそなたの大切な奥方を紹介してもらえぬか」

「あ、はい。もちろんです」

 ややぎごちない王様とは対照的に、テュールさんの声がわずかに弾んだ。緊張しすぎているのか、さっきから自分の動悸がうるさくて皆様の声がよく聴こえない。朦朧とした違和感の中、テュールさんの声だけがやけに鮮明に響く。

「妻の、フローラです。西の旧セントエルム大陸、サラボナ地方を治めるルドマン公が息女にございます」

 ほう、と王様の感嘆が遠く聴こえる。ご挨拶しなくちゃ。そう思うのに、立ちあがろうとした身体はろくに力が入らなかった。

「…………、フローラ?」

 怪訝そうに名を呼ばれ、焦りが脂汗となって大量に噴き出す。腕も、膝も、自分のものではないみたいにがくがく震えて。

 この感じ、覚えがある。チゾットに着いた時と同じ。

 大事な時なの。こんな時に、倒れるわけにはいかないの。

「……お初に、お目もじ仕り、ます、陛下。……フローラ、グラン、と──……」

 なんとか奮い立たせて跪礼した、瞬間、全身から一斉に血が抜け落ちた。

 

 寒い。

 

 わかったのはそれだけ。氷の室に突然落とされたような極寒。真っ暗、ひどく遠いところから誰かに呼ばれた気がした、けれどそれもすぐに聞こえなくなった。唐突に閉ざされた常闇の中、身じろぎも出来ずうずくまる。

 ああ、私、ちゃんとしなくてはならないのに。

 彼の隣で、きちんとできるところをお見せしたい。あなたの妻に相応しい女だと認めていただきたい、そう、思ってここまできたのに。

 

 お願いです。

 お側に居させて。

 私から、この子から、このひとを────

 

 テュールさんを、

 奪わないで、ください。

 


 

【side Tyr】

 

 どうしてここまで悪くなるまで気づけなかったんだろう。

 抱き起こしたフローラの顔色は酷いものだった。痛々しいほど真っ青で、額には脂汗が滲む。桜貝の唇は青白く変色し、わずかに開いた隙間から浅く息が零れていた。

 チゾットの時と同じだ。僕が村人と話をしていたわずかな間に倒れてしまった。ああして高地で人が倒れるのはよくあることだと言われ、また魔族の襲撃の直後だったから、そこまで深く考えなかった。ホイミンのこと、ゲマのことで頭がいっぱいだったのもあると思う。

 何かの発作なのか。悪い病気ではないのか。

 思えば砂漠を旅したあの時、熱砂病で倒れた時にもこんな兆候があったかもしれない。あの頃には既に何らかの病魔を抱えていたのかもしれない。船上での体調不良だってそうだ。もっと早い段階で診てもらっていれば、グランバニアに向かう前に気づけたかもしれないのに。

 僕が、自分のことしか考えてなかったから。

 僕の為なら、君は多少の不調なんて覆い隠してしまう。わかっていたんだ。よく、わかっていたつもりだったのに。

 忙しなく誘導されて、どこをどう歩いたかも覚えていない。一等立派な扉の前で、気づけば僕はサンチョに寄り添われ茫然と座り込んでいた。フローラを中に運び込んだところで、診察するからとサンチョ共々追い出されたのだ。退出間際に色々訊かれた気がするが、情けないことに僕にはほとんど何も答えられなかったと思う。

 とにかく血が足りていない、いつから貧血気味だったのかなんて、こっちが聞きたい。

「……坊ちゃん」

 衛兵に聞こえないくらい密やかに、サンチョが僕を呼んだ。昔してくれたように僕の前に跪き、目の高さから労しげに覗き込んでくれる。

「大丈夫ですよ、すぐに侍医が診ましたからね。グランウォールを越えて来られたのでしょう? きっと疲労が祟られたんです。ゆっくりお休みになれば、すぐお元気になりますとも」

 項垂れた僕の耳に、懐かしい声が降る。

 善意で言ってくれてるのはわかる。それでも。

「……でも、これで三度め……なんだよ」

 やっと絞り出した返答は、サンチョを絶句させることにしかならなかった。どんな表情で見つめられているのか、確かめるのも怖くてますます深く俯く。

 結婚してもうすぐ一年。その間、今日を含めてフローラが倒れたのは三度だ。持病があるとは聞いていない。昨年末サラボナに帰った時も、義両親が特段フローラを心配する様子はなかったと思う。

 チゾットで同じように倒れたことは言ったけれど、そういえばアルディラ大陸でも高熱で臥せったことを侍医に伝えそびれた。あの熱砂病は、今回の症状と関係あるんだろうか。

 今すぐテルパドールへ飛んでいきたい。マイヤ様を訪ねて、彼女の病状をもう一度詳しく聞きたい。特効薬、あの時処方してもらったパデキアの薬湯は今のフローラには効かないだろうか。僕が無理させた所為で悪化したのかもしれない、だとしたら。

 ……万が一、手の施しようがない病、だったら────

 

 唐突に、

 黒い孔が身体の中央に開いた気がした。

 

 途方もない喪失感。思い出したくもない。ほとんど本能でその感覚を拒絶する。

 炎の中で苦悶する父さんの姿が、閉じた瞼の闇に浮かんだ。その灼熱の奥に何故か、碧い髪がちらつく。

「坊ちゃん。……入って良いようですよ」

 恐ろしい、昏い幻影に呑まれかけたところで、サンチョに優しく促された。

 消沈したまま部屋に入ると、大きな寝台に青白い肌のフローラが横たえられていた。傍には老年の侍医と年嵩の女官が立ち並び、それぞれ妻を見守っている。椅子が一脚、寝台の脇に置かれており、そこに腰掛けるよう促された。遠慮がちに座ったところで苦い表情の女官が深々と溜め息をつき、険しい目つきで僕を見る。

「まったく……こんなお身体で、よくあの山を越えてこられたものです。聞けばチゾット村でも一度、お倒れになったそうじゃありませんか」

 言葉もない。弁解の余地もなく、苦しい心地のままそっと視線を落とした。広い寝台の上、死んだように眠る最愛の妻は吐息の気配すらあまりに微かだ。精巧な蝋人形だと言われれば、信じてしまいそうなほど。

「ヘラ女官長、ぼ……こちらの旦那様は十分、ご自身を責めておいでです。どうかこれ以上のお叱りは」

「サンチョ殿はお黙りください。わたくしはこの方にお話ししているのです」

 ぴしゃりと言い糺され、さすがのサンチョも口を噤んだ。憐れみをこめて振り返った彼に、緩く首を振って応える。

 当然、夫である僕の咎だ。それにもう、僕はサンチョに庇ってもらうような子供じゃない。

 情けなく俯く僕を睨めつけ、彼女は語気も荒く叱責する。

「もしものことがあったらどうなさるおつもりだったのです。あなた様お一人の旅路ではなかったのですよ。ましてここまで血の足りない状態の奥様をお連れで、長旅の間全くお気づきにならなかったなんて」

 この方の言う通りだ。

 洞窟が暗かった。ずっと馬車に閉じ込めていた。顔を合わせる機会自体減っていて、その上司祭様とホイミンの世話を彼女にすべて任せっきりにしていた。彼女自身のことは二の次で。

 チゾットに村医者がいなかったこともそうだけど、そもそもグランウォールを登り始める前にもっと彼女を慮れば良かった。船上でもあんなに具合悪そうにしていたのだから。転移魔法で街に戻ることも、僕なら時を選ばず出来たのだ。

 思えば、だからこそ麓の宿屋のお婆さんは、宿を発つ時、キメラの翼を譲ってくださったのかもしれない。

「……仰る通りです。僕が甘えてしまった。妻は、僕の為に……今はグランバニアに行くことが一番、大事だからって……」

 そうだよ。何度も言ってくれたのに。

 膝上の拳を痛いほど握り直して顔を上げる。厳しい視線を正面から受け止め、胸に燻る重い懸念を思いきって口にした。

「教えてください。妻は、重い病に冒されているのですか? チゾットだけじゃない、半年ほど前に砂漠を旅した時にも一度高熱で倒れました。その直後、巨大な蟲の魔物に下腹を貫かれる大怪我もしています。そうだ、あの時かなり血を吸われて……今の症状に関係あると思われますか。まだ、まだ間に合うなら、どんなことでもします。彼女を助けてください。お願いします……!」

 一度、口にしたら止まらなかった。次々顕になるとんでもない既往歴に一同は絶句し、僕と妻を代わる代わる凝視する。言い募るうちに声量を抑えられなくなり、耳元で騒がれたフローラがひゅ、と大きく身じろぎして息を吸った。

「…………、な、……た……」

「ごめん。フローラ、本当に……ごめん……!」

 意識を取り戻したばかりの儚い手のひらを、分厚い両手でぎゅっと握る。喉が詰まって、熱いものが今にも溢れそうだ。うっすら瞼を開けたフローラが、碧い髪をそっと揺らして首を振ってみせた。何故かひどく悲しげに、翡翠の目許を歪ませて。

「今は、急な貧血でお倒れになっただけでございます。安静になさっていれば、当面命に別状はございません」

「当面、って……!」

 そんな、一時凌ぎの安心に何の意味がある。彼女を失ってしまうかもしれない、そう思うだけで心が壊れそうなのに。

「どう、したらいいですか? 血を増やす薬が必要なら、何としてでも探します。テルパドール、オラクルベリーとポートセルミ、あとルラフェンにも伝手があります。薬師の方も何人か知り合いが……必要なものがあるなら教えてください、どうか」

「落ち着いてくださいませ。まったく、これだから殿方は」

 昏い絶望が再びざわりとまとわりつく。訴えていないと、何かしないと今にもこの恐怖にすべてを掬われてしまいそうで。取り乱した僕を女官長様が再び強く叱責する。言葉を呑めば、彼女は意外にも穏やかに微笑んだ。

 

「おめでたで、ございます」

 

 …………今、なんて。

 言われた言葉が全然頭に入ってこなくて、必死にそれを反芻した。おめでた。おめでたって、数ヶ月前フローラがヘンリー夫妻に言ってた、あの。

 子供が。彼女の腹に、赤児が、────

 ふと気づけば、たった今まであれほど苛烈に僕を責めていた女官が、母親の如く慈愛に満ちた目でこちらを見つめていた。

「おめでとうございます。あなた様はもうご父君でいらっしゃるのですよ。──テュール・シエル・グランバニア第一王子殿下」

 厳かに跪いた彼女に続いて、医師もまた静かに叩頭する。

 まるで臣下の礼をとる二人を前にして、虚ろな思考の片隅で間抜けなことを思う。

 ……そんな名前だったんだ、って。

 祝辞も妙に大仰な名前も、どこか他人事のよう。黙りこんだ僕に構わず緋色の床に額づき、年嵩の女官が淡々と続けた。

「お戻りを、心よりお待ち申し上げておりました」

『お帰り』と、言ってもらいたかったはずなのに。

 何も言えない。何も答えられなかった。覚悟と自覚は全く別物だったらしい。サンチョにもユリウス様にも、先程はオジロン王にまで認めてもらったというのに、僕という容れ物がたった今この瞬間、違うものになった心地さえする。

 僕ではない『僕』を、求められている気がして身がすくむ。

 サンチョも驚いた様子で彼らを見ていた。僕らの顔を何度も見比べた後、おずおずと口を開く。

「……ヘラ女官長。お気づき、でしたか……」

「当然でございます」跪いたまま、女官長と呼ばれた女性が凛とした声を発する。「サンチョ殿も同じでございましょう。見間違えるはずがございません。お生まれになったばかりの殿下に産湯を差し上げたのは、このわたくしなのですから」

 どきりと心臓が跳ねた。自分が生まれた日のことを、こうして聞くのは初めてだった。

 そっと顔を上げた女官長様が、僕の瞳をまっすぐ見上げて感慨深く目を細める。

「マーサ様に、本当に良く……似ておいでですわ」

 ────もう何回も言ってもらった。オジロン様にもサンチョにも、ユリウス様からも。なのに、その言葉に性懲りも無く、じわりと歓びを覚えてしまうのは。

 母さんの子なんだって。

 父さんが愛したひとの、二人の子供なんだって。僕は。

 氾濫する情緒に嬲られながらようやく頷くと、女官長は僕からフローラへと視線を移した。寝台の脇に跪き、目の高さを合わせて、驚くほど優しい声音で問いかける。

「奥様。……最後に月の障りがあったのは、いつ頃でいらっしゃいましたか」

 全員の視線が集中し、フローラが苦しげに目を伏せた。

 暫し、僕らの表情を窺いながら躊躇っていたが、女官長に促され、ついに辿々しく、桜貝の唇を開く。

 

「……昨年……、十二の月の、はじめ、です……」

 

 ────昨年?

 だって、船の上で訊いた。あれは今年の二、三月頃だったと思う。船長に懐妊を示唆されて、でもフローラは、変わらず月のものが来ているって。

 昨年の十二月といえば、テルパドールの王都に着いた頃。確かに障りが来たと話していた。元々彼女はそういうデリケートな話をしない。あれだって僕が夜、彼女を求めたから教えてくれたまでだ。それ以降については把握してない。故郷へ向かう船上で問い質した、一度きり。

 あの時から? あの時にはもう、彼女は自覚していて──……

 

「……待って。フローラ、そういえば出血して……⁉︎」

 

 はたと思い至り、一気に血の気が引いた。

 そうだ。チゾットで、シーツに血痕を見つけたんだ。ちょうど下半身の、彼女の股のあたり。

 あの時も彼女は黙って青褪めていたが、宿のシーツを汚してしまった罪悪感からだと思っていた。月のものだろうと勝手に納得して、それ以上話を聞きもしないで。

 障りじゃない。妊娠して、既に数ヶ月経っていたのなら。

「ごめ、なさ」

 弱々しく呟いて、フローラが手で顔を覆い僕から背けた。

 その細腕を退けようと思わず腕を伸ばしたが、ほとんど同時に身体を割り込ませた女官長とサンチョに止められる。

「とにかく、落ち着きなさいませ! そのことについても侍医からご説明申し上げますから」

「坊ちゃん、大丈夫ですから。まずはネルソン様……お医者様の話を聞きましょう、ね?」

 左右から口々に宥められ、なんとか興奮を抑え込む。サンチョの肩越しに見下ろしたフローラは碧い頭頂を僕に向け、細い肩を抱いて俯いている。

 震える様子から嫌と言うほど怯えが伝わって、愚かにもようやく、彼女を威圧してしまったことに気がついた。

 ────何、やってるんだよ、本当に……!

 怖がらせたかったわけじゃない。心を解いて、安心してほしかっただけだ。そこに思考が至った瞬間、どす黒いものが胸の内に渦を巻いて噴き出した。

 なんで、言ってくれなかったの。

 教えてくれるって言った。そうだよ。何か変わったことがあったら、真っ先に僕に言うって言ってくれたのに。

 ……違う。あの時には彼女は、もう────

 止まらない。思い出したくないのに。心当たりがありすぎて、怒りと憤りで目の前が真っ暗だ。フローラにぶつけてしまいそうなそれを、己の中に必死に押し留めた。落ち着け。落ち着け。

 僕が悪い。僕に言えないと、君に思わせた自分が悪い。憎いのは彼女じゃない、絶対に違う。こんな感情向けたくない。何も知らず、何も慮れずに彼女を追い詰めて、こんなになるまで追い込んだくせに。

 結局、僕は何一つ、成長しちゃいなかった。

 食いちぎるほど唇を噛み、再び腰を下ろす。なんとか激昂を落ち着けようとする僕と裏腹に、目の前の医師は淡々とそれを口にした。

 頭は勝手に最悪の事態を想定していたし、医師も女官長もずっと深妙な顔つきでいらしたから、彼が告げた内容をまたもや理解しそびれた。

 

「女官長が検められた際、御出血が認められましたので軽く処置いたしました。胎児に対して子宮がまだ狭く、圧迫されて出血が起こっているようにお見受けします。現状、他に流産に繋がる兆候は見られませんが、張りが続いていらっしゃいますので、やはり楽観視せず、極力安静にお過ごしいただくのがよろしいかと存じます」

 

 静まり返った空気をそっと波打たせたのは、愛しい妻の、硝子のような澄んだ声。

「…………、あの」

 侍医様が視線を持ち上げる。翡翠の瞳をこぼしそうなほど見開いて、フローラが辿々しく言葉を紡いだ。

「赤ちゃん……、は、…………生きて……」

「はい。順調でいらっしゃいます」

 ひどく心許ない問いかけだったが、侍医ははっきりとそう断じた。息を呑んだフローラを見つめ返し、ふと表情を和らげる。

「恐らく、この所見も間違いないかと思いますのでお伝えいたします。……お二人、授かっておいでですよ。胎内の圧迫は、双生児故に起こっているものでございましょう」

 食い入るように医師を見つめていたフローラの横顔が、その長い睫毛が揺らめいた。

 薄く開いた唇から吐息を零して、もはや茫然と見つめるばかりの妻に、……侍医様が、ひどくあたたかな微笑みを向けた。

 

「どちらも、大変健やかにお育ちです」

 

 初めてじゃない。彼女が、泣くのは。

 どんな時も、声を殺して泣くばかりだった。初めて気持ちをぶつけてくれた時。僕の為に海中に飛び込んでくれた時。サラボナに帰るか訊いた時。折られた指を治癒した時、義父に優しく労われた時も。

 ナサカの悲劇を聞かされた夜でさえ、僕にも気付かれないように、嗚咽をすべて枕に吸わせてひっそりと泣いていた。

 その、君が。

 今、細い声を上げて泣いている。

 言葉にならない、押し込めても溢れる彼女の感情が痛いほど室内に満ちてゆく。砂のように崩れてなくなりそうな、小さな肩を今度こそ優しく抱き寄せた。しゃくり上げつつも、君は素直に体重を預けてくれる。泣き声に混じって微かに、ごめんなさい、ありがとうと繰り返す声が聞こえた。……気がした。

 なんで、君が謝るの。

「──……り、がと……」

 何も気づけなかった。ずっと、守ってもらうばかりで。

「……ありがとう。フローラ……!」

 それしか言えない。腕の中に閉じ込めたフローラを強く、固く抱きしめた。女官長ももう、僕を止めることはしなかった。

 フローラの小さな手が僕の首にしがみつく。離れまい、放すまいと懸命に襟を掴む君が愛しくて、本当にどうしようもなくて、もう一度だけ腕に力を篭めた。

 好きだ。フローラ。

 ありがとう。フローラ。

 君と僕の子が、ずっとずっと欲しくてたまらなかった。

 切なく泣き続けるフローラを、そうしてしばらく抱きしめていた。そんな僕達を、皆さんも黙って見守ってくれていた。優しさが満ちるこの部屋に、フローラの安堵の涙が漣のように染みていた。

 

 

 

 妻が落ち着くのを待って、改めて侍医の話を聞いた。取り乱してしまい申し訳ありません、と頭を下げようとしたフローラに首を振り、侍医と女官長がそっと彼女を寝台へと押し戻す。

「お子様を想うなら、どうぞ第一に安静になさってくださいまし。わたくしどもにわざわざ腰を折る必要などございません」

 女官長に優しく諭され、フローラはやや狼狽えたようだったが、すぐに納得したらしく、遠慮がちに謝意を伝えていた。

「城の階段は長うございますから、お上がりになったことで早産の傾向が強まったのでございましょう。今もお腹が張っていらっしゃいますが、最善を尽くします。つきましては、奥様にはこれ以降ご出産まで極力出歩かず、安静にしていただきたく存じます」

 何とも心強いが、同時に不安に駆られる。完全に安心できる状態ではなく、またこの状況は子を宿している限り続くということか。確かヘンリーが出産に要する日数は十月十日だと言っていたが、昨年の十二月を起点とするなら、フローラのそれはまだ折り返しにも満たないのでは。

「あの……産まれるのはいつ頃になるのでしょうか。それまでずっと安静にしていた方が良いということですよね?」

「さようでございますね。双生児ですので、通常より早めのお産になるかと思われます。八月の末頃ほどにもなれば十分お育ちになるかと」

 八月。覚悟はしていたが、やはりそれなりに長くかかるものなのだ。「因みに、今日って何日?」とこっそりサンチョに訊くと「四月の二十日でございます。あと四ヶ月でございますか、楽しみですねぇ」と丸い頬を綻ばせた。

「先ほど殿下が仰った下腹のお怪我の件、古傷の位置は確認いたしましたが、念の為、後ほど詳しくお聞かせください。今夜はこのままお休みいただいて、明日改めて診察致しましょう」

 殿下って僕のことだよね。慣れない敬称になんとか頷き、ふと気になったことをそのまま口にした。

「安静にということでしたが、湯を使うのも無理、ですか? お恥ずかしながら、チゾットを出てからろくに身体を洗えていないんです。特に、頭髪が」

 今更ながら、なんと不衛生な状態で謁見に望んだやら。フローラも申し訳なさげに首をすくめる。さっきサンチョの屋敷で湯を借りたけれど、時間がなくしっかり洗う余裕はなかった。お互い軽く汗を流し、濡れた浴布で髪を拭ったくらいで。

「わたくしが御身を清めましょう。すぐにご用意いたします。殿方はご退出くださいまし」

 頷いた女官長に追い立てられ、男三人はあっという間に部屋を追い出された。「坊ちゃんも湯殿に参りましょうか。城内の湯殿はどれも広うございますから、ゆっくりお疲れをとっていただけますよ」と、先程の修羅場はどこへやら。サンチョがにこにこと満面の笑みをたたえて言ってくれる。

「そういえば……フローラは今夜このまま、さっきの部屋をお借りしていいんだよね。僕はどこに泊まったらいいんだろう。今からでも宿をとった方がいい? それとも、サンチョの家に泊めてもらえる?」

 今一つ自分の立ち位置がわからない。表向きサラボナの客人として扱ってもらったようだし、僕も正直その方が気が楽だな。なんて思いながら訊くと、サンチョとお医者様が顔を見合わせ、くつくつ笑った。

「なんとも気安いお方ですね、ヴェントレ殿」

「ええ、そりゃもう。お小さい頃から屈託なくいらして、私もパパス様も坊ちゃんに癒されてばかりでございました」

 懐かしげに見つめられると、幼子に戻ったみたいで気恥ずかしい。でも同時にくすぐったいような、決して不快ではないものも込み上げた。じわりと熱を持つ頬を押さえて視線を逃せば、サンチョはまた好々爺の如く目許を緩ませる。

 こうやって僕に甘いところ、サンチョだなぁとしみじみ思う。

「もちろん坊ちゃんも、同じお部屋でおやすみになれますとも。後ほどヘラ様に確認しましょうね」

 良かった、フローラと一緒に眠れるんだ。胸を撫で下ろしていると、サンチョの隣のお医者様も深々と頷き同意を示した。

「先ほどのお部屋は、パパス国王陛下とマーサ妃殿下が使われていたご寝所でございます。王子殿下がお生まれになったお部屋もご寝所でございました」

 ……そうなんだ。

 瞠目すれば、彼もまた表情を和らげ続けてくれた。

「両陛下、王子殿下がご不在の間、オジロン様は決してこの部屋をお使いになりませんでした」

 すっかり言葉を失い立ち止まった僕の背をくいっと押して、サンチョが僕の分まで明るく声を上げる。

「さぁ、今のうちにお身体を磨いて、オジロン様の元へ参りましょうか。お話も途中でしたし、何より、めでたい報告を致しませんと」

 

◆◆◆

 

 それから数刻後、大きな湯殿をお借りしたあとオジロン様達との会食を終えて、フローラが眠る部屋に戻った。

 湯浴みの際女官は必要かと問われ、意味がわからず首を傾げたら笑われてしまった。まさか入浴を手伝ってくれるつもりだったとか、冗談じゃない。偉い人にはそういうお世話をする人がいるものだと何となく聞いてはいたが、正直作り話だと思ってた。

 だだっ広い浴槽には贅沢に湯が張られており、恐縮しながらゆったりと使わせてもらった。

 結局その後は城の外に出る機会を得られず、サンチョに仲魔達への言伝を頼んだ。みんな寒さに強いからそこまで心配はしてないけど、ここでは決して歓迎されない魔物達である。今は、事情を知らない兵士から無体を働かれないことを祈るばかりだ。

 改めてお話しした実の叔父は、あまり父に似ていない、物腰の柔らかな方だった。否、そう感じるのは体格が違うせいかもしれない。父さんはいかにも屈強な戦士といった人だったが、実弟のオジロン様は剣より魔法が似合いそうな、どちらかというと文官や学者に近い印象の方だ。だが、瞳は似ている。彼が僕を見つめて微笑むたび、懐かしさに胸がぎゅっとなった。

 会食は僕の帰還と、妻の懐妊を慶ぶオジロン様の言葉で始まった。成り行きで僕の素性を知った侍医のネルソン卿と、サンチョもずっと同席してくれた。さすがにこの状況で過去のあれこれをまったく話さないわけにはいかず、せめてもとラインハットでの経緯は極力かいつまんで話し、奴隷として過ごした十年間については思いきりぼかしておいた。サンチョの反応が特に、思い詰めたようで怖いほどだったのだ。

 詳しい話は後日、ゆっくり時間をとっていただくことにして、暗い話は手短に切り上げた。

 ひとしきり歓談した後、オジロン様が若干そわそわしながら切り出した。

「それで、今後のことだが……テュール、そなたはこれから如何するつもりか?」

 それは僕も気になっていた。結局僕はどういう立ち位置でここに居ればいいのだろう。成り行きでフローラを看護してもらって、それは心から感謝しているが、このまま産まれるまで甘えてしまうのはどうなんだろう。見た限りオジロン様はよく国を治めていらっしゃるようだし、そもそも僕はグランバニアに忌避される魔物遣いなのだ。王族だからって、仲魔達を城に招き入れて良いものか。

「そう……、ですね。とりあえず、妻が無事に子を産んで落ち着くまでは、ここに留まりたいと思っています。できれば、郊外に家を借りられるのが一番いいんじゃないかと思うんですが」

 素直に答えたところ、何故だか全員から変な顔をされた。え、そういうことじゃなかった?

「坊ちゃん、まさかまた旅立たれるおつもりなんですか。ようやくグランバニアにお戻りくださったというのに」

 真っ先に悲痛な声を上げたのはサンチョだ。高級な食器を割らん勢いで立ち上がり、僕の肩を掴んで揺さぶる。こちらもまた、慌ててカトラリーを置いて彼を宥めたが。

「そりゃ、まだ何も目的を果たせてないし。故郷を知りたいと思ったのは本当だけど、旅をやめるつもりは端からないよ。父さんにだって顔向けできない」

「で、でも、フローラさんとお子様方はどうなさるんです。お連れになるんですか? 大体家を借りると仰いますが、坊ちゃんは紛れもなく王家の御方なんですよ。王宮にお住みになればよろしいじゃありませんか。ねえ、オジロン様」

 話を振られたオジロン様が無論とばかりに強く頷く。王を味方につけて、サンチョがますます勢い込んだ。

「パパス様が坊ちゃんをお連れになった時だって、本当は、みんな反対したんです。せめて王子殿下だけは、と……その坊ちゃんがようやく、お戻りくださいましたのに……」

 最後はしょんぼり、肩を落としてサンチョが呟く。

 サンチョの気持ちがわからないわけじゃない。でも、僕はこれまで父さんの悲願を第一に生きてきた。今も、否、フローラと一緒になった今だからこそ、僕自身の意志でこれだけは成し遂げたいと思っている。父が何が何でも守りたかったものを知りたくて、父の代わりに取り返したくて。彼の願いを、僕がこの手で果たしたい一心でここまできた。

 それに、これまで培ってきた『僕』の矜持があるからこそ、譲れないものもある。

「でも、仲魔……魔物達もいるから。みんなを放っておけないし、とりあえず安静にするだけならここじゃなくても出来るかなって。魔物が近くにいたら皆さんの気も休まらないだろ? そもそも魔物を城に入れないのには理由がある……ん、ですよね?」

 尻すぼみに皆様の顔を見渡したが、どなたも歯切れ悪く視線を外すばかりだった。そんなにも都合が悪いことなのか、魔物遣いである僕には余程言いづらい理由があるのか。

「……医師としては、奥方様のお住まいを移すこと自体賛同できかねます。安静とは文字通り、最低限の生活行動以外は何もせずお身体を休めていただくという意味です。王宮でしたら女官が常時ついておりますし、何かあれば私がすぐ診察することもできます、が……」

 ネルソン卿が静かに告げて、また居心地悪い沈黙が場を支配した。食器の触れ合う音だけが静かに響く中、僕も何となく味がわからないまま料理を口に運ぶ。やがてゆるく息を吐いたサンチョがカトラリーを置き、改めて僕へと向き直った。

「坊ちゃん、何も遠慮なさることはないんですよ。坊ちゃんは紛れもなく、パパス様の血を引く唯一の御方です。そしてフローラさんが身籠られたお子様方もまた、大切な次代の王位継承候補者様なのです。我々にとってかけがえのない御方に、どうして郊外など勧められましょうか」

「……だからって、この城に魔物を滞在させられる? 例えば、さっきの部屋に、とかさ」

 優しいサンチョに告げるのは良心が痛む。けれどこれだけは譲れないから、思ったままに答えればサンチョもそれ以上何も言えず、気まずそうに口籠った。

 多分、多分だけど。オジロン様やサンチョは、僕が仲魔達と縁を切ることを望んでいる。正統な王の息子が、国が禁じた魔物を連れているのは相当外聞が悪いのだろう。王宮に留まるとは、つまりそういうことだ。少なくとも主である僕の目が常に届くところでなければ、仲魔達の居場所は確保できない。そしてそれは恐らく、この城内に於いて絶対に叶わないといえる。

 せめて、産まれるまでサラボナに滞在してはどうだろうか。義父に頼んで、別宅を半年ほどお借りするとか。サンチョ達には申し訳ないがあそこならきっと安全だし、仲魔達も護衛がてら庭で過ごさせてやれる。フローラも実家なら安心だろう。だが、恐らくこの方々には許容できない。やっと戻った王の嫡子が、母国を選ばず他国の有力者を頼るなど。

 パパスの息子であり、魔物遣いでもある。

 その二つは当たり前に両立できることのはずなのに、そもそも秤にかけたこともないのに。サンチョが仲魔達への言及を避けて王族としての正統性を優しく説くたび、今までの僕が否定され、削られていく心地がする。

 優先すべきはどちらの僕か。無言で、承諾を迫られているような。

 母さんはどうだったんだろう。この城に輿入れして、どんなふうに過ごしていたのだろう。そんな疑問がふと、湧いた。

「そなたには受け入れ難いやもしれぬが、恐らく、王家の証はそなたを示すことになる」

 いつの間にか食事を終えていたオジロン様が、グラスに注がれた食後酒を揺らしながらおもむろに呟いた。僕も勧められたが酒は丁寧に辞退して、姿勢を正し言葉を待つ。

「グランバニア王を選ぶのは民でも、王家でもない。証による選定のみで七百年存続してきた。随分と特異なならわしだがな」

 義父から借りた本に書いてあった内容だ。思い出しながら頷くと、叔父は不思議そうに僕を見つめたあと説明を続けてくれた。

「これまで証に選ばれた者は全員、王家の血族に相違なかった。選定の条件は諸説あってな、例外もあるで一概には言えぬのだが、基本的には王の長子が継承することが多い。……そなたら親子の消息が絶えたのち、やむを得ず選定の儀を数度おこなったが、証が儂を選ぶことはなかったよ」

 落胆も露わな目許には深い皺が刻まれている。父さんの弟ということはそこまでのお年ではないはずだけれど、恐らく年齢よりずっと老けて見える叔父の長年の心労を考えると、ひどく胸が痛む心地がした。

 父さんが国を出てから、ずっと玉座を預かって下さった。証を持たない彼が十数年、国を支え続けるにはどれだけの労苦があったことだろう。

「儂には娘が一人おる。そなたより六歳下だ。慣例より早く選定の儀に同席させたが、証は娘にも王位を示さなかった」

 これにも驚いて目を瞠る。娘ということは、僕に従妹がいるんだ。実の娘が選ばれなかったことはさぞや無念だったのではと思ったが、意外にもオジロン様は力の抜けた、柔らかな微笑みを浮かべていらした。

 古から続くグランバニアの慣習。これまで先王パパスに最も近しかったオジロン様とそのご令嬢に天啓は無かった。神託を得る可能性はパパスの実子である僕が最も高い、それはわかる。でも。

「……王家の血を引いていたとしても、僕はとても王族とは呼べない人間です。魔物遣い、ですし。何より、二十年も祖国を顧みなかった僕ら親子より、実際に国を守ってこられた叔父上の方がずっと王に相応しいと、僕は思う。……思います」

「それを決めるのは我々ではないのだ。テュールよ」

 宥めるように遮られ、いよいよ言葉を失う。俯き拳を握りしめた僕に、オジロン様が優しく語りかけた。

「まだ出産まで日がある。そなたは祖国と、母君のことを知る為に戻ってくれたのだろう。ならばじっくり見て学び、知ってくれれば良い。そなたの祖父と父が救い建て直した、グランバニアという国を」

 

 

 第一王子の生存をすぐ国民に知らせるべきか。オジロン様は明日にでも告示をと仰ったが、許されるなら数日待ってほしいと伝えた。王族としてではなく、まずはただの旅人の、平民の男としてグランバニアを歩いてみたいのだと。幸いにもサンチョとネルソン卿の賛同を得ることができ、ひとまず明日はサンチョと一緒なら城内を自由に歩いて良いとのお許しをいただけた。

 今後はそうそう身軽に動けないのかと思うと、根無草の身分が早くも恋しくなってくる。というか、否応なしに『王族』以外の何者でもなくなってゆく自分に恐怖を覚えてしまっているのか。

 そういえば、ホイミンを早く診てもらいたかったのだ。いつ核に戻ってしまうかもわからない小さな友人を診ることが可能かどうか、ネルソン様に問うたが色よい返答はもらえなかった。しかし、母マーサの昔馴染みで魔物に詳しい方が今も城にいると教えていただいた。高齢だが、その方なら魔物を診ることもできるだろうということで、明日引き合わせていただく約束をした。

 結局チゾットで倒れてから、ホイミンが目覚めることはついぞなかった。この件については、明日の診察で良い方向に向かうことを祈るしかない。

 

 

 妻が眠る寝台の端に腰を下ろし、今日あったことをつらつらと思い返していたら、思わず重すぎる溜め息が漏れた。

 ようやく山を越えて、城に着いて。サンチョとの再会を喜んだのも束の間、異様なほど魔物に排他的な祖国に驚かされた。叔父王との謁見、自身の素性、フローラの懐妊。考えたいことがたくさんありすぎて、何一つ思考がまとまらない。

 何をどうするべきなんだろうね。フローラ。

 ぴくりとも動かない、美しい寝顔をぼんやり眺めた。鳩尾に置かれた手の甲をなぞり、ちゃんと眠っていることに安堵する。さっきから妙な既視感を覚えていた理由がやっとわかった。ああ、そうだ、初めて彼女の自室に入ったあの夜。

 さっき真っ白だった頬はほんのり赤みを帯びているが、消えそうな儚さは変わらない。

 無性に切なくなって、そっと顔を近づけた。長い睫毛を、整った白い鼻筋を触れそうなほど近くで見つめる。いつもとは少しだけ違う、甘くて優しい花の香りが鼻腔をくすぐった。

 前に香油だって言っていたけど、やっぱりこれ、フローラ自身の香りなんじゃないかな。髪だけじゃなくうなじとか、肌そのものから薫ってる気がする。すごく心地良い、心をほぐしてくれる香り。

「あ、……ごめん。起こしちゃった」

 嗅ぐだけでは飽き足らずつい額に口づけてしまったところで、フローラがぼんやり目を開けた。まだとろんと夢心地の、可愛い妻の頬をそうっと撫でる。

「僕ももう寝るから、眠っていていいよ。何か要る? 水とか。あ、お腹は空いてない?」

 いつもと変わらず優しく呼びかけたつもりだったが、翡翠の瞳はみるみる悲哀に染まっていった。せっかく薄れかけたさっきの憤りが、鳩尾のあたりで鈍く疼く。

 そんな瞳で見ないで。もういい。いいから。

「……めん、なさい……」

 僕の本心など知りもしない君は、力なく、けれど心からの謝罪を口にする。

「ずっと……、黙って、いて……」

 いいよ。もう。

 そうやって謝られたら思い出してしまう。こんな澱んだ感情、君にぶつけたくなんかないのに。

 いっそ聞こえないふりをしたかったけど、ここで誤魔化したらずっと消えないわだかまりが残ってしまいそうで。

「いつから、気づいてたの」

 不要な感情はできる限り排したつもりだったが、フローラの緊張は縮こまった全身から嫌というほど伝わった。少しだけ間を置いてから、フローラが消えそうな小声で答える。

「初めは、遅れているだけだと……思ったんです。周期の乱れ自体はさほど珍しいことではありませんから。……でも、ホイミンちゃん、が」

「ホイミン?」

 まったく予期せぬ名前が飛び出して、思わず聞き返した。

 それが僕の気に障ったと思ったのか、フローラは勢いよく顔を上げると、泣きそうな顔で一息に言い募る。

「私が、お願いしたんです。誰にも言わないでほしいって。ホイミンちゃんは、あなたにちゃんと伝えたほうがいいって言ってくれました。みんなで大事にしようって。でも、今授かったと知ったらきっとあなたはグランバニアへ行くのを辞めてしまう、もしくは身重の私だけ、置いていかれてしまうかも、って……そんな、身勝手なことを思った、ら、……」

 失速する弁解の言葉を、どこか冷めた心地で聞いていた。

 ホイミンは知っていた。その事実が、惨めな気持ちにますます拍車をかけていく。

 ああ、駄目だ。こんなんじゃまた、君を萎縮させてしまうってわかってるのに。

「僕が訊いたあの時には、もう、気づいてた?」

 上半身を起こしかけた彼女を寝台へ押し戻し、そのまま脇に手をつき見下ろした。閉じ込め押し倒す格好になった僕を彼女は息を呑んで見上げ、すぐに顔を横に背ける。

 耳まで赤くしているくせに、頑なに僕を見ようとしない彼女に苛ついたのもあったかもしれない。

「……嘘、ついたの?」

 喉から零れたそれは、凡そ妻に向けたことがない冷えた音で。

 フローラは微動だにしなかった。ただ逸らした顔に手を被せ、僕に見せまいとしていた。肯定せずとも、せめて否定しないことが彼女の精一杯の誠意であるかのように。

 怖がらないで。

 ぎし、と体重をかけてシーツを軋ませる。顔を背けた君が肩をびくりと強張らせた。いつも以上に小さく感じるその身体を、包み込むように己が身を覆い被せて。

「ごめん。少しだけ、こうさせて」

 赤らんだ耳許に囁きを落とせば、は、と押し殺した吐息の淡い気配がする。ぞくりと恍惚を覚えつつ細い手首を掴んで退かし、頰を擦りつけた。うっすら肌が濡れた感触と、そこにぬるい雫がとめどなく滲みてきて、ああ、また泣かせてしまっていたのだと今更悟った。

 きっと必死に嗚咽をこらえていたフローラが、深く息を吸い込んだ。喉に詰まった苦しいそれを、恐る恐る解き放って。

「わ……たし……っ、まだ、あなたのお側に、居て……いい、ですか……」

「────当たり前だろ!」

 もう、優しくなんて考える余裕もなくて。

 彼女の容体にも構わず、包み込んだ腕に思いきり力を篭めた。んぅ、と儚く呻いたフローラをきつくきつく抱きしめる。胎の中の赤児ごと抱き潰してしまう、そう思っても緩めることなどできなかった。

「離れるなんて、許さない」

 ……僕に嘘、ついたことも。

 みっともない。何をここまで落ち込んで、勝手に傷ついて不貞腐れたりして。でも、自分じゃどうしようもないんだ。彼女が僕に嘘をつくはずないって、心のどこかで思い込んでた。

 どこまでお気楽野郎だったんだろう。僕は。

 今だって自分のことばかりじゃないか。フローラだって不安だった。きっと、一人でずっと、ものすごく苦しんでいたのに。

「一生、赦さないから。……僕の側に居なきゃ、だめだよ」

 何より、こんな勝手な物言いしかできない自分に腹が立つ。

 濡れた顔を僕の胸深く埋めた君が、辿々しく何度も頷いた。

「……わたし、もう、我が儘は言いません。からだ、気をつけ、ます。……産みたい、の。あなたの、赤ちゃ…………!」

 

 ああ。

 知るたびに胸を灼く衝動。

 切なさ、深く刺し貫く痛みすら、狂おしいほど愛おしい。

 

 きっと君は解ってない。僕がどんなに君に執着しているか。

 どんなことがあっても、もう手放せるわけないってことも。

 何度も泣かせて、それでも僕は君じゃなきゃ駄目で。この空虚だけはどうしても、君以外の誰にも埋められなくて。

「……うん。産んでよ。僕も、フローラじゃなきゃ……嫌だよ」

 低い囁きが、君をますます震わせていく。激しくしゃくりあげるフローラを抱きしめて、碧髪を何度も何度も梳いた。

 愛しい温もりが溶けあって、尖っていた心が少しずつ安らいでいく。癒されていく。

 これが愛じゃないというなら、僕は一生そんなもの知らなくていい。

 この想いだけが、僕の真実であればいい。

 必死に頷くフローラの頬を口づけで拭う。溢れてくる涙を繰り返し啄んで、腫れた目許を指でなぞった。どうしようもなく迫り上がる甘い疼きを噛み締め、吐息を塞いで呑み込む。

 たった今、君を抱きたい。君の一番深いところで、その温もりを感じたい。

 昂る劣情を、理性で必死に押しとどめた。代わりにもう一度、腕の中に彼女を優しく閉じ込める。

 上質すぎるベッドに揃って身を沈めれば、穏やかな安息が僕達をじわりと包んでいく。

 ……二人だけじゃない。今、ここに、新しい命がふたつ、宿っている。

 彼女が守り通した、僕とフローラの命の連なりが。

 初めて、それをちゃんと実感できた気がした。まだ幸せとは呼べない曖昧な感慨に満たされて、縋るように瞼を閉じた。




この場をお借りして、ご報告させてください。

5/26主フロの日に、Bright Azureサラボナ篇の本を発行しました!
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