Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】   作:サクライロ

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#10. 王城、初日

 両親が昔過ごしたというグランバニア城の御寝所で、泣き濡れるフローラを抱きしめ眠った、その翌朝。

 いつもの時間に目覚めた彼女と、いつもと変わらぬ挨拶を交わした。淡く微笑む妻がひどく愛らしい。すっかり腫れた目許を冷やしがてら撫でていたところに、見計らったかの如く女官長が入室してきた。

 早朝から官服をぴしりと着こなした彼女は、僕達の起床に気づくや否や美しく一礼する。背後に控えたもう一人の女官もそれに倣った。

「おはようございます。昨夜は突然のことにもかかわらず親切にしてくださり、本当にありがとうございました」

 長々と頭を下げるお二人に慌てて声をかければ、ようやく真顔で顔を上げてくださった。これ、僕らが何か言わないとずっとあのまま控えているおつもりだったんだろうか。心臓に悪い。

 後ろの方がどこまでご存知かわからないのでぼかして感謝を告げると、ヘラ女官長がふふ、と気取った笑いを見せた。

「良い朝に口煩いことは申し上げないでおきましょう。おはようございます。ご気分はいかがでございますか」

 優しい視線は僕を通り越して、まっすぐ妻に向けられる。

「おはようございます。大変すっきりとした寝覚めでございました。昨晩から本当に良くしていただき、言葉もございません」

 やわらかく笑んで答える妻の仕草は寝台の上にあっても優美そのもので、僕なんかよりずっと高貴だ。

「大変ようございました。早速ですが若様、お召替えの前に御手水を。御朝食はお二人でおとりになりますか? 陛下よりお好きな場所でお上がりいただくよう申しつかっております。お望みでしたら、若様のお食事は昨夜と同じ広間にご用意することも可能でございますが」

 若様、などと突然呼ばれて思いきり面食らう。いつ息継ぎをしたのかと思うほど能弁に促され、更には上等な着替えにふかふかの浴布を差し出されてますます狼狽えた。若様って僕のことかと納得する頭と受け入れきれない頭が混乱して、思うように言葉を紡げない。

「え、えっと。朝食……そう、ですね。妻と一緒にいただけるなら、お願い、します」

 しどろもどろに、なんとかそれだけ答えた。これだけ世話になっておいて食事まで甘えるのは気が引ける、だがそれを口にするのが愚かなことくらいさすがにわかる。

 わかるからこそ、苦しい。僕はまだ、王族としてここで何も為していない。

「視察も結構ですが、若様はまず、皆様とよくよくお話しあいになられるべきかと」

 今日の予定まで把握しているらしい女官長が、目を細めて悠然と微笑んだ。

 折角用意してくださった衣服だが、ただ街を歩くのにこんな上等な服を着る旅人はいない。なんとか頼み込んで、昨日の謁見の時の服を着させてもらった。といっても、これも他所行きの一張羅なんだけど。サンチョに頼んで早くいつもの旅装に着替えなきゃ、などと思いつつ寝台脇に用意してもらった朝食をいただいた。

 ふかふかのパンに朝から贅沢な卵料理と肉料理、フローラにはきれいに盛り付けられた温野菜のスープ。庶民の粗末な麦粥とは大違いだ。当然ながら、ルドマン邸でいただく食事にも引けを取らない。

 昨夜もそうだったが、相変わらずろくにマナーを知らない僕は緊張して味がわからない。フローラの綺麗な仕草を見慣れたお陰で、カトラリーを多少使えるのが救いだ。

 言葉少なになんとか食べ終え、下に降りる支度をする。実はサンチョがずっと部屋の外に控えていて、僕が出てくるのを待っていてくれたのであった。フローラに気を遣ったらしいが、言ってくれればもっと急いだのに。

「お気をつけて行ってらっしゃいまし。お帰りになりましたら、街の様子をお聞かせくださいね」

 僕に心配をかけまいと、にこやかに送り出してくれる妻の心根がいじらしい。

 今まで片時も離れず過ごしていたから、このあと夜までフローラに会えないかもしれないと思うと離れ難くてたまらない。名残惜しく頬を撫で、踵を返したその直後。

「あ」

 フローラが声を発して、同時に僕の袖を掴んだ。何事かと振り返ると、彼女は思い詰めた様子で視線を彷徨わせる。それだけで察したらしく、女官達がすっと壁際に下がってくれた。

 膝を折り、聞き漏らさぬよう顔を近づければ、フローラが儚く唇を震わせた。

「……大変なことを、伝えそびれていました。ホイミンちゃんのことです」

 動揺しているんだろう。伏せた睫毛の奥、深い翠の虹彩が美しく揺らめく。「ホイミンだったら、今日お城の方に診てもらえるようお願いしてるけど……どうかした?」とそっと問い返すと、少しだけ逡巡したフローラが、遠慮がちに言葉を続けた。

「ユリウス様が、仰っていたのです。ホイミンちゃんの魔力が私のお腹と繋がっているようだと。完全に止まっているように見えて、実はほんの微弱な魔力が、胎児と彼との間で循環しているように見えると……どちらが命綱かわからないから、今は出来るだけホイミンちゃんの側を離れない方が良い、とも」

 それは、ある意味すごくホイミンらしい事象だと思った。

 ゲマと対峙した際にもフローラを庇ってくれたという彼なら。

 まったく予期せぬ内容だったが、妙に冷静に納得してしまう自分がいる。というか、意識はつい明後日の方へ向く。フローラが妊娠していたこと、ユリウス様もお気づきだったんだなって。

 数日馬車で一緒だったとはいえ、僕の方がずっとフローラに近しい人間だというのに。

 昨夜から幾度も突きつけられる己の不甲斐なさに、胸がまたつきりと痛んだ。だが消沈したフローラは僕の落胆に気づくことなく、視線を膝に落として悲痛な声で詫びる。

「本当に申し訳ありません。こんな、大切なことを……お伝えし忘れるなんて」

「仕方ないよ。昨夜は慌ただしかったし」

 ささくれる気持ちを何とか落ち着かせ、春空色の瞳を覗き込んだ。見慣れた綺麗な虹彩が、胸の内に広がるもやもやをゆるやかに解きほぐしてくれる。

 安心したい。安心させたい。目線を合わせて、出来るだけ優しく見上げて。

「なるべく早く引き合わせてもらえるよう頼んでみるね。そういうことなら、ホイミンもこの部屋に連れてきたいな。一緒に過ごせるといいよね」

 密やかに告げて頬を撫でた。滑らかな肌を僕の掌に預けたフローラが、控えめな微笑みを浮かべて頷く。

 緊張していたつもりはなかったけど、いつも通り接することができて、不覚にもほっとしてしまった。

 最後にもう一度、頬に軽く口づけて寝所を出た。名残惜しく僕を見送る彼女の視線が、なぜか背中に焼きつくようだった。

 

◆◆◆

 

 ゆっくり城下を回れると思ったが、この日は思いの外時間をとれなかった。サンチョに連れられまず向かったのは、玉座の間を通り過ぎてその階下にある執務室だ。

 中には早朝にもかかわらず相当前から詰めていらした様子のオジロン王と、昨夜大広間で一瞬だけまみえた宰相様が、巻物と紙束の山に埋もれて座っていらした。

「坊ちゃんがお戻りくださったので、急ぎ内々で話しておきたいことがあったのです。坊ちゃんは長旅でお疲れだったのですから、ゆっくりお休みいただいてよろしかったんですよ」

 縮こまる僕とは対照的にサンチョが朗らかに言ってのけたが、部外者かつ張本人というややこしい立場で最も遅く参じた僕は居た堪れないことこの上ない。

「おお、テュールよ。どうだ、よく眠れたか?」

 僕の入室に気づいたオジロン様が眦を緩ませ、その脇に佇む老人はひどく複雑な表情でこちらを見た。

 なんとも言えない雰囲気を感じ取りながらも、とにかく挨拶をと腰を折る。

「おはようございます。はい、お陰様でゆっくり休ませていただきました。妻も今朝はつつがなく」

「それは何よりだ。ジーヴス、昨日は席を外させてすまなかったな。改めて紹介させてくれ」

 促された方へ視線を向けると、既に話は通っていたのだろう。お顔を見るより早く、老宰相が立派な召し物を床につき首を垂れた。

「テュール、殿下」

 昨日の刺すような視線は一体なんだったのか。

 丁寧に臣下の礼を取る老人に毒気を抜かれた。正直、最底辺を生きてきた自覚がある僕には酷く居心地が悪かったが、僕の動揺を気に留める者はその場になく、誰もが黙って、続く王の言葉に耳を傾けていた。

「我が国の宰相だ。そなたの祖父王の代から勤めてくれておる」

 オジロン様は変わらず穏やかだったが、跪いた御仁から発せられた声は凡そ、感情の篭らない無機質なものだった。

「……お初にお目にかかります。宰相の任を拝命しております、ジーヴス・ヴァーミリオンにございます」

 低くしわがれたその声は緊張を走らせるのに十分で、思わず背筋を伸ばした僕を、姿勢を正した宰相が真っ直ぐ見上げた。

 温度を感じられない鋭い眼差しがどことなくヘビコウモリに似ているなんて言ったら、絶対怒られるだろうな。

「まこと、信じられませぬ。先王がお連れになったあの赤子が、かようにご立派な青年にお育ちとは」

「そうであろう。義姉上に瓜二つではないか」

 僕の失礼な思考など知る由もなく、宰相閣下が当たり障りない感想を淡々と告げた。オジロン様の嬉しそうな賛辞にも黙って頷き、今一度僕をじっくり眺めてから、彼が再び深く腰を折る。

「殿下の無事なるご帰還、心よりお慶び申し上げる」

 妙な温度差は感じるものの、一応は本物として扱ってくれるらしい。僕も頷き、こくりと緊張を呑み下して口を開いた。

「長く所在不明でご心配をおかけしました。テュール・グラン、です。父パパスがグランバニアの出身ではないかと人伝に聞き及び、この度帰郷いたしました」

 名乗りを受けた宰相が、やや訝しげに眉根を寄せる。

 別に含みはない。まだ自分の本名を覚えていないだけだ。昨日一度聞いたきりだし、というか『テュール』が本名であったことに内心驚いているくらいで。

「ああ、そうです、お懐かしい。他国へお出ましの間、パパス様は確かにグラン姓を名乗っておいででしたね」

 僕をフォローすべくサンチョが声を弾ませたが、宰相はそんな彼をぎろりと厳しく睨めつけた。

「お忍び中とはいえ一国の王子殿下に、最低限のご教養をお伝えするのは貴殿の務めではなかったか。変事の頃まで赤子でいらしたわけでもなかろうに」

「陛下の御方針でございましたからね。城を離れる間はせめて、のびのびお育てになりたいと仰せで」

 重鎮を前にサンチョは涼しい顔だが、僕が粗忽すぎて彼の肩身を狭くしていやしないか。「無知な身の上で、まったく面目ありません。正直、ここに居るのも場違いな感が否めなくて……」と縮こまって言うと、宰相は鋭くこちらを一瞥し、これ見よがしな溜め息を深く漏らした。

「ご気性は、先代陛下と大分異なられるようで」

 うっ。なんとなく自覚していたが、父さんに似てないと言われるのは結構ぐさっとくる。まあ、ここに来てから圧倒的に母親に言及されてばかりだし、父さんのような威厳が僕にないのは重々承知の上だけど。

「これテュール、そう落ち込むでない。儂を見よ。あの兄の弟だと言うのに、覇気も威光もありはせん」

「今代は鷹揚が過ぎる。どうやら我が国は、グランソラスの穂先を何処ぞで手折ってしまったようですな」

「不敬が過ぎますぞ、ヴァーミリオン卿」

 初めて、サンチョが怒りも露わに宰相殿を睨みつけた。サンチョの方が随分と若輩に思えるが、この二人は反りが合わないのだろうか。対するオジロン様は苦笑するばかり、老宰相はさも不愉快そうに一瞥するだけだった。

 ああ、それにしても何という居心地の悪さ……早くもフローラの隣が恋しい。

 二言目には意味深な物言いの応酬に辟易してしまう。物知らずの僕には宰相様の皮肉を半分も理解できないし。そんな微妙な空気に一石を投じたのは、オジロン様が何気なく放った一言だった。

「グランソラスならテュールが持ち帰った。案ずるな、損なわれてはおらぬよ。ジーヴス」

 持ち帰ったって父さんの剣のことだよね。そんな立派な銘があったんだ、などと呑気に耳を傾けていたが、宰相様はひどく驚いたご様子だった。勢いよく振り返り、険しいお顔でこちらを凝視する。

「……まさか、陛下の」

「あ、えっと……はい。父が最期に使っていた剣です。僕の仲間の魔物がずっと大切に、守ってくれていて」

 ただならぬ形相に気圧され、口篭りながらも答えると、すぐ隣で見守ってくれていたサンチョが静かに助け舟を出してくれた。

「私もこの目で確認いたしました。宝剣『グランソラス』に相違ないと存じます」

 振り返って目が合うと、サンチョの真剣な眼差しがふわりと緩む。懐かしいサンタローズのあの家で、彼がいつも浮かべていた表情だ。それだけでなんとなくほっとして頷くと、今度はオジロン様が顎髭を摩りつつ興味深げに問うた。

「テュールもあの剣を扱えるのであろう。剣技はどこで?」

「ほとんど我流です。幼い頃少しだけ、父に教わって……オラクルベリーのギルドで半年ほど手習いしまして、あとは実戦で」

 過去の経緯は、昨日ディナーに居合わせた皆様には簡単に説明したのだけど、宰相様はどこまでお聞きになったのだろう。さすがにパパス王の戦死は伝わっただろうが、不審に思われているのが無言の重圧から伝わってくる。情けなくも俯いたところ、オジロン様が「十年ほど、魔族の牢獄に囚われていたのだそうだ」と静かに言い添えてくださった。

 父の剣を扱えるかと問われたことも少し気になった。あの剣も伝説の勇者の武具のように、主を選ぶ性質のものなんだろうか?

 そういやあの剣、このままお返しすることになるのかな。

 国宝なら仕方ないけど、剣がないのはちょっと困る。以前買った破邪の剣は結局ほとんど使っておらず、全然手に馴染んでない。魔法を帯びる為なのか、ちょっと変わった剣先になっているんだよね。鋭い突きが不得手で、僕の剣筋には残念ながら合わないのだ。

 あとでサンチョに武器屋を教えてもらおう。仲魔達の防具も、長旅で大分くたびれてしまっているし……ああ、でも、ここじゃ魔物用には調整してもらえないかもしれない。暇を見てどこかの街に行かないとだめかも。

「して、民への言触れはいつほどに」

「早く報せたいが、テュールは心の用意が伴わぬようだ。ひとまずサラボナの賓客として寝宮に滞在させ、我が国の諸々を学んでもらってはどうだろう」

 半ば現実逃避していた間に、話は今後の処遇にまで及んでいたようだ。呼ばれた気がして顔を上げたが気の所為だったらしく、重苦しい執務の間に宰相の深い嘆息が響いた。

「異国の客人のご身分で、奥の宮をお許しに? ご冗談を。民も納得いたしますまい」

 奥の宮とは、昨夜過ごさせてもらった場所のことだろうか。

 オジロン様さえお使いにならなかった両親の居室。一介の旅人を寝泊まりさせていい場所じゃない。滞在を知る極一部の家臣達は、僕をパパスの息子だと信じてくれたからこんなにも良くしてくれるのだろうけれど。

 つと宰相様から疑いの滲む視線を向けられ、それが当然なのだと感じた。他ならぬ僕がどうしても実感を持てずにいるのに、どうして疑念を張らせるだろう。

「公言しなければ良い話だろう。不当というならヴェントレの邸を仮宿とすれば良い。何にせよ、奥方の御身は当面我々が預からねばならぬ。グランバニアが長年切望した次代が、彼女の身に宿っておるのだから」

 ────それを聞いた瞬間、宰相様が両目を見開き勢い良くこちらを向いた。

 思わずたじろぐほどの威圧感。咽喉元を何故か冷たいものが伝い落ちた。全身からほとばしる憤りに似た彼の気配は、確かに形容し難い動揺に満ちている。

「……はい。実は昨晩、謁見の折に体調を崩しまして。診察いただいた結果、妊娠していると……今、城の一室をお借りして療養しております」

 萎縮する必要はないのに、何故か叱られた子供みたいな気分になってしまう。しどろもどろにお答えして様子を窺った。尚もジーヴス卿は僕を凝視していたが、情けなく見つめ返すとようやく呼吸を正し、改めて深く腰を折った。

「それは、まこと、めでたきことにございます。……差し出がましい進言をいたしました」

 両腕を顔前にかざし、深々と叩頭した宰相の表情は見えない。

「ふむ、テュールよ。そなた、しばらくは王族であることを明かさず城下を巡りたいと申したな」

 確かに昨晩そういう話をした。頷くと、オジロン様は目元の皺をくしゃりと緩ませ、微かに悪戯っぽい笑みを僕に向ける。

「一つ、儂に妙案が有るのだが。試してみぬか?」

 

◆◆◆

 

 重苦しい会合が終わる頃にはすっかり陽が傾いていた。

 あれから昼食を挟んで僕の半生を根掘り葉掘り聞かれ、言い難かったことも全部白状させられた。覚えている限り一番古い頃の記憶から、ラインハットの王子拉致事件のこと、その後魔族に捕まって奴隷として十年ほど働いていたこと。奇跡的に神殿を脱出した後は、共に逃れたヘンリーと共にラインハットの政変に関わったことまで。

 父さんの死を目の当たりにしたことも、この時初めてサンチョに伝えた。両眼を真っ赤に潤ませ、彼はぐずぐず鼻を啜りながら僕の話を聞いていた。

「……その瞬間まで、僕は母さんが生きているって知らなくて。それからはただ、父の悲願を果たしたい、母に会いたいその一心で……辛くも生き永らえてまいりました」

 忘れたことなどない。父の表情も叫びも、今でも鮮明に思い出せる。でもだからこそ、こうして改めて口にすることは覚悟した以上に重い。

 この記憶が、父との誓いに僕の精神を縛り続ける。

 宰相とオジロン様はやはりお忙しいらしく、ちょくちょく席を外されていた。お二人が不在の間は聞き取りを中断し、代わりにサンチョが色々と話してくれるのを聞いていた。サンタローズが焼き討ちされたその後のことや、この国の歴史について。僕が生まれる前、国王であった頃の父さんの話も。

 ようやく解放された頃にはもう夕刻だった。城下はまた明日か、すっかり消沈しつつ城郭の裏手に出た。街の様子を見たかったけれど、ホイミンの診察だけはどうしても今日中に済ませてしまいたい。

 ヴェントレ邸の周辺は相変わらず厳戒態勢といった様子で、昨夜と同じ位置に停まった馬車を四人の衛兵が険しい表情で監視していた。馬車の周りには中に入れない大型魔獣や竜属が居心地悪そうに陣取り、その周りを古参のピエールやスラりん達がうろちょろしては明るく振る舞っている。

 そういえば、恐らく彼らはまる一日食事を摂っていない。

 馬車にスナックが残っているから、最悪それで凌げただろうけど。魔物は空腹の感じ方も人間とは異なるというが、自分は上等な食事にありついた手前、やはりどうしても申し訳なく感じる。フローラが旅に加わってからは、食事の時間を殊更楽しみにしていた彼らだから、尚のこと。

「あ! ごしゅじんさまー! おかえりなさいっっ」

 溌剌とした声が中庭に響いた。びくりと気合を入れ直した兵士を尻目に、ピエールが慇懃なほど丁寧な礼で僕を迎え入れる。

「ごめんね、結局ずっと戻ってこられなくて。みんなは大丈夫だった? 寒かっただろ」

 極端な熱や冷気は忌避しても、通常の外気が彼等に作用することは少ない。とはいえ峡谷奥地に在るこの城を取り巻く寒さは想像を絶する。洞窟の中の方がやや湿っぽい所為か、まだ温かく感じたくらいだ。

 僕なりの労いに、スラりんが元気よく肩に飛びついて応じた。

「たいへんだったんだよー。ミニモンがすーぐどこかいっちゃいそうになるからー!」

「い、いまはおひるねしてるからっ、だいじょうぶっっ!」

 あわあわ報告してくれる二匹の頭を、感謝を込めて代わる代わる撫でた。そうだ、ミニモンはつい昨日仲魔になったばかりだったんだ。まだ幼いあの子を監督し教えるのは僕の役目だっていうのに、のっけから先輩である仲魔達におんぶに抱っことは、申し訳ない限りである。

「本当に、ごめんね……ありがとう。みんなが居てくれて、本当に助かった」

 改めて言葉にすれば、スラりんもしびれんもえへへと得意げに表情を綻ばせた。

 無邪気に笑う彼らを、固唾を呑んで見守るサンチョや兵士達の表情は硬い。否、兵士の中には殺意めいた敵意を滲ませている者もいる。

「サ……ヴェントレ卿。申し訳ないが、もう少しだけ軒先をお借りしても良いだろうか?」

 兵士達の手前、他人行儀に意を計った。僕が乞えばサンチョは無碍に出来ない、わかっていながら酷な問い掛けをしていると思う。案の定、サンチョは馬車をちらりと見遣ると、やや疲れた愛想笑いで頷いた。

 重い溜め息を吐いたところで、重大なニュースを思い出した。そうだ、これだけはみんなに伝えておかないと。

「そうそう、ひとつみんなに良い報せがあるよ。フローラがね、身籠っているんだって」

 努めて明るく告げたものの、スライム属達には意味が良くわからなかったようだ。「みごもってって??」と丸い頭を傾げ合うスラりん達に苦笑しつつ、お腹に赤ちゃんがいるんだと言い直した。途端に軟体二匹の表情がぱぁっと明るくなる。

「えっ⁉︎ ふろーらちゃん、あかちゃんできたのー⁉︎」

 声をひそめた意味がないじゃないか。スラりんの素っ頓狂な叫びに思わず噴き出してしまった。ここに来て、衝動的に笑ったのはこれが初めてかもしれない。

「いっ、いつ? いつ、うまれるのっっ?」

「えっとね、あと四ヶ月くらい……まだまだ先だね。サラボナからここまで来たくらいの時間がかかりそう」

「うわ──っ! あかちゃん、たのしみー!」

 しびれんが声を弾ませ、スラりんは興奮しぴょいぴょい跳ね回る。全身で喜びを表してくれるのが嬉しい。だが、続く言葉にはさすがの彼らも消沈せざるを得なかった。

「ただ、ここまで来るのに無理させちゃったから……生まれるまで身体を休めてないといけないんだって。だから、フローラはしばらくこっちに降りて来られないと思う」

 暗く言ったつもりはなかったけど、スラりんはしゅるると萎みそうなほど一気に消沈し、しびれんは大きな瞳をみるみる潤ませた。

「ふろーらちゃんに、あえないのっ? さみしい……っ」

 裏表のない、純粋な悲しみに胸を締めつけられる。

 僕だって、寂しい。今だって隣にいないのが不思議なくらい。結婚してからずっと、誰より近くで過ごしてきたのに。

「ん。寂しいよね……ごめん。みんなも連れて行ってあげられたらいいんだけど」

「若様」

 すかさずサンチョに諌められた。黙って頷き、一度邸内に入れてもらう。手早く着替えてユリウス司教にも軽く挨拶をし、無事オジロン陛下に御目通りが叶ったことだけ告げて表に出た。

「一度、ホイミンを連れて行くね。魔物に馴染みのある方がいらっしゃるって言うから、診察してもらってくる」

 馬車の中に上がり、寝かせていたホイミンを毛布ごと抱き上げた。魔力を帯びているのか、柔らかい身体は温かくも冷たくもない。すごく不思議な感じだ。

 長居するならここの荷物も運ばないと。天空の剣と盾、いつもの着替えと……彼らも、ずっとこのままにはしておけない。

 ちゃんと決めなくてはならない。僕が、主人なのだから。

 心配そうに見守る仲魔達に微笑みを返したが、監視の兵士達は魔物を抱えた僕を警戒し一斉に気色ばんだ。隣にぴったり付き従ったサンチョが彼らを一瞥し、去り際鋭く言い放つ。

「陛下と宰相閣下もご承知のことでございます。おわかりと思いますが、ここで見聞きすることは他言無用で頼みますぞ」

 サンチョらしからぬ厳しい物言いにこちらまで気圧されてしまった。まあでも、オジロン陛下ご公認の旅人なのだと思っていただけたら少しは気が楽かな。物言いがどうにも、悪党のそれなんだけど。

 冷ややかな視線を浴びつつ、今来た裏手の道を戻った。途中考え事をしていたのか、ぼんやりした様子でサンチョがぽつりと呟いた。

「お心を、許してらっしゃるのですね」

 さっきの仲魔達のことだろう。うん、と深く頷き、外套の下に隠したホイミンをそっと撫でる。

「……そうだね。皆もう長いこと一緒にいるし……信頼してる」

 一番初めに仲魔になったのはスラりんだ。次がピエール。プックルはカボチ村の畑を荒らしていた張本人だったが、それでも幼少時の僕との約束を律儀に守って、人間は絶対に襲わない優しい成獣に成長していた。

 ホイミンは、確かポートセルミの周辺で仲魔になった。鎧の魔物が喚び出したうちの一匹で、鎧が斃れた後、もじもじこちらを見ていたのが彼との出会いだった。

「このホイミスライムもね。フローラを命懸けで守ってくれたんだ。ユリウス様が襲われていた時に」

 懇意の司祭の名を出されたサンチョが、そうですか、と小さく呟き俯いた。

 坑道でゲマに遭ったことは、なんとなく言わなかった。

 この目で見てもいない、心許ない推測だ。向こうも名乗ったわけじゃない。何より、父の仇が近辺に出没しているかもしれないとサンチョが知ってしまったら、なりふり構わず探しに出てしまう気がして。

 並みの人間では敵わない。下っ端の魔族達とは格が違う。

 あの圧倒的な焔を前に、当時の父さんですら互角に渡り合えたかどうか。

 僕を、人質に取られなくとも。

「随分お待たせしちゃったよね。その方、母さんを良くご存じなんだろう? 何かしらお話を聞けたら嬉しいな」

 また沈んでしまった気持ちを誤魔化したくて、明るく言った。ええ、とサンチョが安堵したように微笑む。

 フローラの主治医であるネルソン様にもお願いして、ホイミンの診察に立ち会っていただくことになっている。城の四方を支えるように細い塔がそびえており、その一角にかの人が住んでおられるという。外から入れれば楽なんだけど、そうはいかないのがこのグランバニア城である。

 オジロン様の許可は得てあったし仮死状態ではあるが、やはり衛兵達は魔物を入れることに難色を示した。口々に叱責され、その都度憤るサンチョをなんとか宥めて、ようやく魔物に詳しい方が待つ東の塔を訪問した。

 

◆◆◆

 

 気を張り続けてすっかり疲れ果ててしまった。

 帰郷して一日目、濃い日程を消化し終えて、ようやくフローラの待つ奥の宮の寝所へと戻った。

 遅くなってしまったので、妻には先に食事を済ませてもらうよう途中で言伝を頼んだ。今朝、ヘラ女官長と共に部屋を訪れたクロエという侍女はサンチョの縁者らしく、彼の側仕えとしても働いているという。信頼できる数少ない人物ということで、今後は女官長と共にフローラの世話を引き受けてくださることになっている。

 眠って良かったのに、フローラは寝台に横たわり僕の帰りを待っていてくれた。暇つぶしに借りたのだろうか、見覚えのない小さな本を広げている。遅い帰宅を詫び、いそいそと湯浴みの準備をする僕を、フローラは優しく見守ってくれる。

 昨夜は賓客用の大きな湯場を借りたけれど、なんとこの寝所には備え付けの立派な浴室がある。ここだけで小さな邸宅と遜色ない造りだ。

「お疲れ様でした。いかがでした? 初めてのグランバニアは」

「ん? んー……結局、忙しくて街の方は全然回れなかった。明日はゆっくり行けたらいいんだけどな」

 街を回る前に、グランバニアの皆さんの心証がどん底になりそう。思いっきり愚痴を吐きたくなったがぐっと堪えた。僕を心から案じてくれる妻に、要らぬ気苦労を与えたくない。

「オジロン様達とお話ししたり、宰相様にご挨拶したりね。仲魔達は元気にしてたよ。みんなフローラに会いたいって、寂しそうにしてた」

 他愛無い報告に収め、寂しげに頷くフローラを眺める。ベッドの脇に腰を下ろし、彼女から朝告げられた問題の答えを探した。正直、あまり思わしい結果は得られていない。

「ホイミンのこと、だけど」

 暫し、今日の出来事をぼんやり思い起こしてから、おもむろに切り出した。暗くならないよう気をつけたつもりだったが、思った以上に落ち込んだ声になってしまったらしい。フローラが不安気に僕を仰ぐ。無理矢理に笑みを貼り付け首を振って、努めて明るく言葉を続けた。

「結局、はっきりしたことはわからなくて……この宮には魔物を入れちゃ駄目なんだって。ネルソン様もフローラからホイミンの魔力を感じるって言ってくださってるし、何か良い方法を思いつければいいんだけど」

 こうしている間にも、微弱な魔力はホイミンとフローラを繋いでいるんだろう。何度か離れて過ごしたけれど、今のところ繋がりは切れていないという。僕には全く見えないし、感じられない……だからこそ不安なんだけど。

 ホイミンの魔力がフローラを守っているのか、逆に胎児達の魔力がホイミンの命を繋いでいるのか。

 あまりに微弱でそれすら判然としない。フローラに自覚がないわけだから、ホイミンと胎児間の問題で間違い無いんだろうけど。途絶えたことはないのだし離れても問題ないかもしれない、けど前代未聞のことだからこそ、できる限りの最善策を講じなくては気が済まない。このまま二人を引き離して万が一のことがあったら、僕は絶対に、自分も祖国も許せなくなってしまうだろう。

 夕刻、サンチョと共に訪れた東の塔で聞いた話を思い返す。ホイミンを診てもらったついでに、妻の側にホイミンを連れて行って容態を見守りたいと告げたところ、ネルソン医師をはじめ居合わせた全員が大いに表情を曇らせた。

『奥の宮には人ならざる者を阻む陣を施してございます。マーサ妃の拉致を許して以来、主不在の宮をおよそ二十年守り続けてまいりました』

 魔物を寄せつけない、街や祠を守る聖なる力と同じものだという。僕の仲魔達はどういうわけか、聖なる気配をそこまで厭わない。さほど問題なく入れるのではと思ったが、ネルソン様とサンチョはこの提案に揃って首を振った。

『魔物が侵入した場合、各所へ報せが伝わるようになっております。先王陛下ご夫妻の一件で我らが陛下はお心を深く痛められ、宮の警備を強化するよう再三申し付けられました。御即位の折には、唯一の王女殿下も宮へお入りになられましたので』

 ああ、確かに。オジロン様の御息女が過ごす宮殿に脅威など許されない。ということは、従妹殿も奥の宮の近くに住んでいるんだろうか?

 疑問に思いサンチョに訊くと『当初は奥の宮にお部屋をご用意したのですが、お気に召されなかったご様子で。程なくオジロン様が新宮を誂えられまして、今はそちらでお過ごしになっていらっしゃいます』と教えてくれた。

 何だかんだでまだ従妹姫にはお目にかかれていない。歳の近い近縁者は初めてだから、ちょっとそわそわする。

 それはそうと、先ほどの説明には少し引っかかりを覚えた。

『魔物を入れない結界があるのに、入ったかどうかはわかるんだね。過去に機能した例はあるの?』

『かなり昔、こやつが奥の宮に入り込んだことならあります。あれは先王陛下が旅立たれて間もない頃だったか』

 ここ数年はすっかりこの塔に引き篭っておりますがね。続く言葉を口髭に篭らせ、お爺さんがスライムの頭を撫でた。

 母マーサの馴染みであったというこのスライムは人見知りなのか、お爺さんの陰に引っ込んでなかなかこちらに来ようとしない。さっきから恐る恐る僕とホイミンを見比べては、ぴゃっと隠れる仕草を幾度となく繰り返していた。

『すぐさま兵が駆けつけたもんで、それ以来怯えちまってよう近づかん。昔は随分とマーサ様を恋しがっておったんですが……』

 やるせなく呟き、彼は枯れた瞳に深い憐憫を映す。

 ゼンと名乗ったこの老人は、長くこの城で魔物の生態について研究してこられた方だそうだ。これまで立ち寄った街でも学者肌の方には度々お会いしたが、魔生学と呼ばれる学問が世界的に確立しているというのは初めて知った。魔物遣いと呼ばれる一族とは性質が違うがその知見を活かし、マーサ妃が入内した折、彼女が連れてきたこのスライムの世話を買って出たのだとか。

 そんな彼だから、やはり僕を見て一目で気づいたようだ。

『失礼ながら、貴方様はマーサ様に縁あるお方か』と問われ、僕の代わりにサンチョが手短に説明してくれた。しかしそれ以上言及されることはなく、よくぞお戻りになられた、とだけ静かに告げられた。

 どうやら寡黙な方らしい。母のことを気軽に聞ける雰囲気ではなかったが、これから少しずつ打ち解けることはできるだろうか。わりと純粋に、魔生学っていうのにも興味があるし。

『正直に申し上げますと、奥方様の現象については私にもわかりかねます。下腹部から白い魔力が絶えず細く、漏れ出ているようにお見受けします。安静をお願い申し上げた理由の一つでもありますが……漏れ出ているのではなく何処ぞと繋がっていらっしゃったのであれば、多少得心できます』

 一通りの診察を終えて、ネルソン医師が所見を伝えてくれる。意識のないホイミンを目の当たりにした彼は、魔力の性質が間違いなくフローラの腹に帯びたものと同一であるとはっきり断じた。

『そちらのホイミスライムから滲み出る気配と、確かに同じものです』

 一体それがどう互いに作用しているのか。確かなのは、流れたと思った胎児達が無事だったこと。魔族に抉られたはずのホイミンの命が尽きていないこと。フローラもあの時身体を強く打ったと言っていて、母子共に無事だったのが奇跡で、今も常時安静にしなくてはならない状態だ。──……だとしたら。

『ホイミスライムは癒しの力を持つスライムです。フローラの、胎児達と影響を及ぼしあっているなら余計に、彼女から離さない方がいいと思う。……というより、離したくない』

 やっぱり、そういうことだと思う。少なくともフローラが無事出産を終えるまでは、できるだけ近くで過ごさせた方がいいんじゃないか。

 どうしても譲れないのは、大切な仲魔と子供達の命の問題だから。フローラの身体も関わってくるから、それでもサンチョは返事を濁して頷いてくれなかった。あんなにも僕に甘い彼が一向に理解を示してくれないことに、遣る瀬無い苛立ちを感じてしまったのもあると思う。

『四ヶ月、生まれるまでの話なんだよね。その間だけ結界を緩めることはできない?』

『坊ちゃん!』

 すかさず鋭く諌められ、縋るように残る二人を見渡した。

 ネルソン卿もゼンさんもばつが悪そうに目を背けたが、その横顔に食らいつき言い募る。

『フローラからホイミンを引き離して、もし腹の子達に何かあったら? それともやっぱり、フローラを他の場所に移そうか。とにかく彼女を、しっかり安静にさせられればいいんですよね?』

 必死に訴えたけれど、やはりこの場に僕の望む答えをくれる人は誰一人としていなかった。

 正直、ゲマという気掛かりはある。碧髪の乙女をいつまた狙ってくるかもわからない。ただ、護るだけなら効果のはっきりしない結界に頼る必要はないんじゃないか。僕も仲魔達も腕に覚えがあるし、僕達に防げない脅威を結界が退けられるとも思えない。城ごと巻き込んでしまうことも本意じゃない、それより今は、確実にフローラの腹と繋がっているホイミンの魔力を断たれる方が恐ろしい。

 いっそ妻の故郷であるサラボナで療養させた方がいいんじゃ。思いつきを勢いで口にしかけて、かろうじて押し留めた。

 転移魔法は切り札だ。僕がいつでも、自分の意思で一瞬でこの城から出ていけることを、この人達にはまだ知られたくない。

 どうしてなのか、そんなふうに思ってしまった。そう思う自分を酷くみっともなく、情けなく感じた。僕を心から心配してくれている、あんなに会いたかったサンチョまで欺いているようで。

 結局その場では結論を出せず、馬車よりは宮に近いということで、ホイミンはひとまずゼン爺さんに預かってもらうことになった。明日またしつこく足を運んでみるつもりでいるけれど、これ以上の打開策が見つかるかどうか。

 ……今日はもう、考えても仕方ないか。

「うん。それでさ」

 上質な浴布のお陰で髪の乾きが早い。まだ湿った毛先を拭い、首を振ってフローラを振り返った。不思議そうに僕を見上げる可愛い頬をそっと撫でる。

 サンチョ達には言いづらいけど、フローラには話してもいいよね。他ならぬ僕らのことなんだから。

 どんなに良くしてもらっても、ここは知らない王宮だ。ルーツがある僕でさえ気疲れが絶えないのに、異邦人であるフローラの疎外感は如何ばかりか。

 そういうの、胎教に良くないってヘンリーも言っていた。

庶民、まして一時奴隷の身であったマリアさんを好意的に見ない家臣もいるから、本当はもっと気を休められるよう里帰りみたいなことをさせてやりたい。いっそ修道院で産ませるべきか悩んでるって。

 フローラには故郷がある。裕福な両親が健在で、手放しに僕らの味方になってくれる。これまでだって心強かったけど、義実家の存在を今ほど有難いと思ったことはない。

「いっそのこと、サラボナで産むのはどうだろう。実家の方がフローラも安心できるんじゃないかな? ルーラで移動すれば危険なこともないし」

「それは」

 いい考えだと思ったんだ。僕はともかく、妊娠している君までここで息苦しさに耐える必要はない。

 でも、返ってきたのは予想だにしない声だった。強く遮られ言葉を呑むと、僕を見上げる翡翠の瞳が怯えを宿して揺れていた。

 すぐに口許を抑えた君は、心なしか青褪めているようだった。

「……ごめんなさい。大きな声を出して」

「ううん、全然。僕のことなら気にしなくていいんだよ? それにサラボナの方が、仲魔達も気兼ねなく君の側にいられるしさ」

 ここではひどく疎まれてしまうようだし。喉から零れかけた恨み言を、すんでのところで飲み込んだ。

 この状況を息苦しく感じているのは、僕だ。

 フローラの体調にかこつけて、せめてみんなをもっと気楽なところに移したいと思っている。彼女だって故郷の方が過ごしやすいだろうと決めつけて、フローラに会えなくて寂しいと言ったしびれんの言葉を都合よく曲解している。人間に忌避されることくらい、仲魔になった瞬間から彼らは当然覚悟してくれているのに。

 僕が、受け入れられていないだけ。僕の故郷にまさか、こんなにも拒絶されるなんて思わなくて。

「わたし……、テュールさんのお側に、居たいんです」

 シャツの裾をきゅっと掴んだフローラが、泣きそうな声で訴えた。

「あなたがグランバニアに留まるなら、私も……」

「フローラ」

「ごめんなさい。遠ざけないで」

 必死に縋りつく妻を抱き留めるしかできない。小さな肩が痛々しく震えている。ああ、僕はなんてことを言ったんだろう。

 離さないって昨夜、言ったばかりなのに。

 しつこく繰り返す僕の過ちを、君の潤んだ眼差しが問い質す。

「ここで、ちゃんと大人しくしていますから。もう我儘も言いませんし、絶対に無理、しませんから……サラボナに帰れなんて仰らないで。お側に居させてください、お願い」

 唐突に、だいぶ前の記憶が蘇った。

 あれはテルパドールへ行く前の、ナサカの浜でのこと。僕の所為で君を辛い目に遭わせて、サラボナへ帰そうか思い悩んで、他ならぬ君から強く拒絶された日。

 自分は十分幸せだって。僕が居ないと立ってもいられないって泣き崩れてくれた、あの日。

「ごめん。そういうつもりで言ったんじゃないんだ……サラボナに帰りたいかなんて、もう二度と訊かない。言わないから」

 ああ、本当に。つくづく僕は学習しないな。

 勝手な思い込みで、また君達を振り回すところだった。みんなの為、フローラの為って言い訳して。フローラも仲魔達も、僕と一緒にいたいってこんなにも言ってくれているのに。

「そうだよね。一生懸命ここまできたのに、今更放り出して戻れないよね……軽率だった。ほんとに、ごめん」

 上半身を起こしたフローラをそっと寝台へ押し戻す。まだ不安げな瞳を見下ろし、碧い髪をさらりと掬った。もう絶対に余計なことは言うまいと、固く心に誓って。

「あ。そういえば」

 僕の所為でまた変な空気になってしまった。話題を変えようとして、ふと昼間あった出来事を思い出す。

 朝、オジロン様の執務室でお話をしたあと、昼食に招かれ移動した。その広間に飾られていた、大きな額縁。

「父さんと母さんのね、肖像画を見せてもらったんだ」

 フローラが微かに目を瞠る。高揚が滲むその表情に、昼間感じた歓びが再び胸にじわりと灯る。

「正直、びっくりするくらい似てたよ。ああこれは母親似だなって自分でも思った」

 気恥ずかしくも言い添えると、フローラが益々嬉しそうにふわりと頬を綻ばせた。

 二人とも豊かな黒髪で、父さんは琥珀の虹彩に深い焦茶の瞳。母さんは僕と同じ、黒曜石の瞳を紫紺の虹彩が彩っていた。なんというか、眉と目許のバランスがそっくりだなと思う。

 父さんは、幼い僕から見て巨岩みたいに大きな人だった。逞しい面立ちによく締まった筋肉質な身体。僕は浅黒い肌以外、父に似たところがない。背はあるけどあそこまでがっしりした体躯でもないし、自分でもあまり覇気のない顔つきだなと思ってる。旅の途中、父さんを知る人に何人か会ったけど、似てると言われたことはなかった。こんな僕でももう十数年もすれば、父さんのように威厳ある風貌になれるんだろうか。

 絵の中の父に寄り添う女性はすごく優しげだった。大きな掌に肩を抱かれて、幸せそうに微笑んでいた。今のフローラとそんなに変わらない年齢に見えた。記憶よりずっと若い父さんの傍らに腰掛けて、慈愛に満ちた眼差しでこちらを見ていた。

 あのひとが、僕の母さん。

「それで……トンヌラ、だって」

 ふと頭を抱え苦笑いする僕に、フローラは少し不思議そうに首を傾げてみせる。

「偽名をね。さすがに『テュール』じゃ、すぐお偉方に気付かれてしまうから」

 オジロン様が提案してくださった『妙案』がこれだ。しばらく素性を隠したいなら名を変えておいた方が良いだろうって。

 寧ろどうして偽名にしなかったのか、問えるものなら父に問いたい。息子の僕どころか、国王であった彼さえ本名を隠そうとしなかった。単に無頓着だっただけなのか。

 偽名だが、わかる者にはすぐわかる。というのもこれは僕が生まれた時、父パパスが嬉々として提案した名付けらしいのだ。が、最終的には父が譲り、母の希望した名に決まった。これらは産褥の枕元で交わされた王と王妃の私的なやり取りであり、父の意向を知っていたのは当時、その場に居合わせた信の篤い家臣だけ。否、父が名付けを相談した相手ならば覚えているかもしれないが、だからこそ『トンヌラ』がパパス王の忘れ形見であることを確信できるのは、城内の限られた人間のみと言える。

 ちなみに、父の中では娘だったら『サトチー』なる名が筆頭候補だったらしい。なんとも奇抜なセンスである。父の無骨な面だけは否応なく継いでいる自覚がある僕としては、名付けはやはりフローラに一任したほうが良いような気がしてくる。

 ──……トンヌラ、だってさ。

 かつて父が自分に授けようとした名を、今になって名乗ると思うとひどく面映い。

「ふふ。勇ましいお名前ですけど、私はやっぱり『テュールさん』の方が似合っていらっしゃると思います」

 くすくす。フローラが楽しそうに笑ってくれて、それだけで胸に燻る憂鬱が少し晴れた気がした。

「そう? だから、当分はこの部屋の中だけ。僕が本当の名前をうっかり忘れないように、ちゃんと呼んでね」

「はい。テュール、さん」

 愛らしく微笑み応えるフローラの仕草に、昨日抑えこんだ情欲が肚の内側にふつ、と湧いた。

 ああ、駄目だって。君を今、乱しては絶対にいけない。でもせめて、少し口づけるくらいなら。

「もっと、呼んで」

 頬を掬って密やかにねだれば、君は嬉しそうに瞳を細める。

「……テュールさん」

 そうして、儚く優しい鈴の声で呼んでくれる。

 そういえば初めてサラボナで出会ったあの時、素敵な名前だって褒めてくれたっけ。いつだって僕の名を大切に呼んでくれた。確か初めて呼ばれたのはアンディの見舞いの時で、あんな状況でもものすごくどきどきして、耳も心臓も蕩けてしまいそうだった。

「だいすき……」

 儚い告白にいざなわれ、そっと身を屈めて唇を重ねた。

 初めは軽く、受け入れてくれたことに調子づいて二度目はもっと深く。こうして口づけを交わすのも久しぶりな気がする。甘くとろける唇を食み、いつもの花の香を嗅げば、今日一日の疲労がじわりと癒えていくのがわかる。

 何度も髪を梳いてから、そうっと彼女の輪郭を辿った。華奢な肩、腕をなぞったところで、妻の腰の辺りに畳んだ毛布と枕が敷かれていることに気がついた。

「お尻の位置を高くした方が良いそうなんです。赤ちゃん達が下に降りてこないように」

 名残惜しく唇を離したフローラが教えてくれて、なるほどなぁと相槌を打った。あまり詳しいことはわからないけど、双子だし気を遣うことが多いんだろう。でもこれ、腰痛くならないのかな。寝返りもろくに打てなさそう。ケアしてもらってるんだろうけど、僕としては子供だけじゃなく、フローラの身体も心配なんだ。

 なんだか卵を守る母鳥みたいだ。柔らかくて簡単に潰れてしまいそうな華奢な身体で、その身に宿した小さな命を守っている。それも、ふたつも。

「ごめんなさい、寝づらいですよね」

「そんなことないって。でもそうだな、寝ている間に潰しちゃいそうでそっちの方が怖いかも。あそこのソファ、勝手に動かしたら怒られるかなぁ」

 畳んだ毛布を蹴り飛ばしたら事だし。せめてソファを横につけて寝られないか、顎に手をやり考えていたら、くいくいと背中からシャツの裾を引かれた。

「私は、テュールさんと一緒に眠りたい、……です」

 ちょっと、それは反則すぎる。

 位置関係的に当然なのだが、恥ずかしそうに上目遣いで訴えてくるのが可愛すぎてたまらない。今したばかりなのにまたキスしたくなってしまう。普段フローラの方から甘えてくれることはあまりないから。

「テュールさんが寝相悪かったことなんてありませんから……ですから、あの、ここで」

「……フローラ」

 ああ。どうして君は、こんなにも健気で愛しいのだろう。

 思いきりきつく抱きしめたい、けれどそれだけのことがそら恐ろしい。碧い小さな頭をそっと腕に包めば、鳩尾の奥から愛しさが再び湧き上がった。

「ありがとう……」

 抑えきれない想いは無意識に言葉となって溢れる。

 ランプを消して隣に潜り込み、ぎゅうっと抱き寄せた耳許に吐息だけで囁いた。よく聞こえなかったらしいフローラが、綺麗な瞳を瞬かせ首を傾げた。

「……?」

「ううん。頑張るね」

 日中抱えていた葛藤が、緩やかに解けていく。

 やっぱり我慢できなくて、もう一度だけ唇を啄んだ。重ね合わせた唇の動きで、フローラがふわりと微笑んだのがわかった。

「おやすみなさい、テュールさん」と優しく囁かれ、うん、と額を当てて答える。

 君さえ側に居てくれるなら。君が僕を望んでくれるなら、僕はどんな息苦しさにも負けずにいられるから。

 側に居て。僕の女神。

「赤ちゃん、楽しみ、だね……」

 ずっと怖くて触れられずにいた、妻の腹部を怖々撫でて呟く。

 やっぱり胎動らしきものは感じられなかったけど、フローラが頷いてくれたから。それだけで僕はすっかり安心して、どろりと重く全身を支配する眠気に意識を委ねていったのだった。

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