Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】 作:サクライロ
グランバニアに着いて数日が過ぎた。
宰相様にお会いした翌日から、あれよと言う間に僕の予定が分刻みで埋められていた。午前中は基礎的な学問から王族の心得、大陸の歴史に政務、マナー講義その他諸々の学習にみっちり充てられている。こういうの、ちゃんと学んだことがないから初めはわくわくしたけど、数日も経つと頭が疲れてついていけなくなった。出来の悪い生徒で、貴重な時間を割かせている文官のデッセル卿には申し訳なく思う。
午後は多少自由時間を得られたが、サンチョ同伴で街を少しずつ周るくらいしかできていない。散策が終わればまた勉強か、家臣の方について郭内を視察するか、時々兵士に混ざって郭外の見廻りに加わるなどした。
オジロン様は訓練場で鍛錬する程度を想定していらしたようだが、蓋を開ければ宰相様の采配で主に外回りを任されることになっていた。わざわざ坊ちゃんに押しつけずとも、とサンチョはいたく憤慨している。やっぱりお二人は仲が悪いみたいだ。得意分野だし、身体を動かしていた方が気が紛れるから僕は一向に構わないんだけど。
異国から突然遊学の体で転がり込んできた怪しい若造を、兵士達はやや遠巻きにしている。
噂話が広がっているのか、街に降りてもやや奇異の目で見られる。そも旅人の往来がほぼない国で、見慣れぬ人間が魔物遣いであることは着いた翌日には街中に広まってしまっていた。気さくなサンチョは元々城下の人々に慕われていたのだが、至る処で僕の世話を焼いたが為にあらぬ憶測を招いてしまったようだ。中でも面白かったのはサンチョの隠し子疑惑で、こないだ一人でこっそり酒場を訪ねたら、サンチョの息子さん設定でないことないこと噂されていた。なんでも僕はサンチョと流浪の踊り子との間に授かった子で、パパス王に付き従っていたサンチョは所帯を持つことができず、踊り子が女手一つで僕を育てたが過日流行病で亡くなったので、実の父が置いていったグランバニアの国章を頼りに訪ねてきた、らしいよ。仲魔達は母の形見なんだって。絶妙に間違っていて面白い。
そんな感じで城下ではやや煙たがられていたが、城に上がると雰囲気は一変した。二十年も経てば王妃と直接面識ない人の方が多いわけだが、彼女の肖像画は政務に関わる人間なら必ず目にしている。故にか、僕の顔を見て固まる方が少なからずいた。偽名を用いたお陰か、もしくはオジロン様直々に身元を保証してくださったからか、はてまたサンチョが盾になってくれていたからか、ひとまず面と向かって出自を問うてくる人はいなかったけど。大変気まずそうに「トンヌラ殿は……」と話しかけてくる年嵩の文官達に、申し訳ない気持ちを抑え愛想笑いで応対した。
そうしてなし崩しに故郷での生活が始まっている。重々しい城門をくぐるまで当たり前だった放浪生活は、慌ただしい日々に押し流されあっという間に過去の一篇へと塗り替えられていく。変わりたいわけではないのに、否応なしに変化を求められる毎、それらは次第に苦い諦めに変わる。
城に上がって三日目の夕刻、サンチョ邸前の馬車を訪ねた。相変わらず放ったらかしの仲魔達に詫びる為だったが、僕の顔を見るなりピエールは厳かに膝をつき、限りなく声をひそめて囁いた。
「……拙者らは一度、この城を離れようと思う」
考えるのが怖くて、ずっと曖昧にしていた。
このままではいられない。わかっていたのに、その最善を彼らに提示することがつらくて。
「────っ、ごめ」
「あるじ殿」
僕の謝罪を素早く制して、ピエールの鉄仮面が真っ直ぐにこちらを向いた。
「我々魔物にヒトの如きココロの機微はない。気に病まれるな」
隣に並んだマーリンとガンドフが深く頷いたが、嘘つけ。
だったらなんでみんな、そんな寂しそうに笑ってるんだよ。
「あるじ殿のお立場、よく心得ているつもりでござる」
言葉が出ない。僕より僕をわかっている顔のみんなを前にして。しばらく身を隠してくれって、本当は僕が頭を下げなくちゃいけなかった。この庭先でどんなに粘ったところで国の方針は変わらない。大切な仲魔達の心証を悪くするばかりで、それならば尚のこと。
今、この国にとって、僕は異物に他ならない。
何も出来ない。オジロン様が仰る通りに王位を継いだところで、今の僕には何の力もない。彼らの為に強権を振りかざすこともできないし、するつもりもない。精々逃げ出すことしかできない、けれどここには何より大事な、僕の子達を宿してくれているフローラが居て。
幾度となく感じる息苦しさが、首を絞めるように僕をがんじがらめにしていく。
「ご案じ召さるな。あるじ殿が必要となさる時、我々は必ずお側に馳せ参じる。真なるあるじとの従属の絆は魂にも等しいもの」
「側にって……どうやってさ。伝える術もないのに」
心底申し訳ないと思うのに、苛立ちを抑えられない。情けなく唇を尖らせれば、ピエールがくつ、と可笑しげに喉を鳴らした。
「これまでの道中、拙者らがあるじ殿を見失ったことがあり申したか?」
不敵に言い切られ、再び言葉を失う。
そりゃ、君達と完全にはぐれたことは今までなかったと思うけど。咄嗟に旅の記憶を探り始めた僕に、今度はマーリンが嗄れた声で告げた。
「ご主人はただお望みになれば良い。真実契りを交わした者であれば、あなた様の喚びかけに必ず気づきます」
一人では何もできないヒトの仔でもあるまいし。
いつだったか、マーリンにさらりと皮肉られた言葉が蘇った。気を遣いすぎだと諭してくれた、僕は契約者であり庇護者ではないのだと気づかせてくれた、あの言葉。
そういや彼らは普段から、空いた時間を思い思いに過ごしていたんだった。旅先でも、露営の時も、サラボナの別宅でも。ここグランバニアでは行動を制限されていたから、僕の立場を慮り従っていたに過ぎない。
依存しているのは僕の方。君達に頼ることがいつの間にか当たり前になっていた。フローラと居るのとはまた違う、ただ信じられる仲間達と心を許して過ごせることを、いつからこんなにも心強く感じるようになっていたんだろう。
それに、とピエールが揶揄い交じりに首をすくめる。
「奥方殿が身動きとれぬのであれば、当面は旨い飯もお預けであろうしな。こればかりはやや惜しい」
「……悪かったな。すっかり舌が肥えちゃってさ、まったく」
「いやいや。食を楽しむことはあるじ殿の供にて初めて知り申したが、なかなかどうして、悪くない」
サラボナ以前はそんなこと言わなかったくせに。いつの間にやら妻にすっかり胃袋を掴まれたこの魔物達は、ほくほくと食の楽しみとやらを語ってくれる。空気を読んで数歩下がり待っていたサンチョが、にわかに盛り上がった僕らを見て訝しげに眉をひそめた。
「スラりん、こんどぴくにっくしたーい! ふろーらちゃんげんきになったらおべんとつくってもらいたーい!」
「しっ、しびれんも、いきたい……っ!」
明るく飛びつき甘えてきたスライム属二匹の頭を代わる代わる撫でる。「わかった。伝えとく」と応えれば、二匹ともすぐはにかみあって僕から離れた。兵士達の目を気にしたのかもしれないが、殊更寂しく感じてしまうのは僕ばかりではないと思いたい。
あらかじめまとめてあったのか、少しの荷物を手に仲魔達がぞろぞろと馬車を出て行く。ミニモン達新入りも、古参のみんなが行動を共にしてくれるらしい。魔物達が城を離れる旨を説明すると、兵士達は顔を見合わせた後、どこか安堵した様子で城門を開けた。
去り際、丁寧に礼を取ったピエールの真摯な声が、見送る僕の胸を穿つように深く響いた。
「……ホイミンを、よろしくお頼み申す」
◇◇◇
何とかしなくちゃ。
仲魔達を見送った後、どこかやり切れない顔で僕を見つめるサンチョをそのまま家に入らせ、一人で東の塔に向かった。妻が待つ寝所へ早く帰りたかったけど、その前にどうしてもホイミンの様子を確かめたくて。
前日にも同じ時間に訪ったので、ゼンさんはさほど驚くことなく僕を迎え入れてくれた。ホイミンに変化がないことを言葉少なに告げ、しばらく文献をあたるから用があれば書庫に来るよう言い置いて老人が階段を降りていく。薄暗い客間には、僕から数歩距離を置いた一匹のスライムと僕だけが取り残された。
昨日教えてもらった、このスライムの名はスーラ。人を怖がる性分らしく、なかなか僕に近寄ろうとしない。正気の魔物にここまで怯えられたのは初めてだが、この城に長く住んでいれば無理もない気がした。一昨日の話からしても、ゼンさん以外に彼を受け入れる人間はほとんどいなかったのだろうから。
怖がらせたいわけじゃない。距離を保ったまま立ち上がった。ホイミンの顔を見ようと踵を返しかけたところで、おずおずと気弱な声が足元から聞こえてきた。
「きみ、マーサのこども……? なの?」
────びっくりした。
母の友だというこのスライムに、僕はずっと避けられているのだと感じていたから。
「……うん、そうだと思う。どうしてそう思ったの?」
膝をつき、身体を屈めて優しく問いかける。スラりんよりやや小ぶりなそのスライムが、くすぐったそうに身体を震わせた。
「だって、きみ、マーサとおんなじいろ」
ああ、そっか。髪と瞳が同じだから。
昨日肖像画で見た母さんの姿を思い浮かべた。スライムから見ても母さんに似ているのかなと思うと、つい頰が緩むのを抑えられない。
「怖がられてるのかと思ってた」
「……みたことないニンゲン、だったから」
ずっとゼンさんの影に隠れてたもんね。自嘲気味に呟くと、スーラはばつが悪そうに身体をくねらせる。
「こわいかもっておもったけど、こわくない。みたい」
一生懸命言葉を返してくれるスライムに、ふと、あの肖像画の中の母親が優しく語りかけている情景を垣間見た気がした。
きっとこんなふうにお喋りを楽しんでいたんだろう。互いに名前で呼び合っていたのかな。僕の仲魔達はみんなご主人様って呼んでくれるけど、そういうのもいいなと思う。
「撫でてもいい?」
答える代わりにスーラがぷるんと頬を震わせた。スライム属が了承の意を示す時の仕草だ。そうっと手を伸ばし冷たい肌に触れると、スーラは嬉しそうに青い身体を揺らしてみせた。
「ねー、マーサは? まだかえってこないの?」
ひとしきり撫でさせてもらった後、いっそ無邪気にスーラが問いを発した。他意のない問いであるのはわかったが、それ故に、心臓を鋭く突かれた心地がした。
「……うん。ごめんね。本当は連れて帰りたかった、けど」
想定内の答えだったのだろう、哀しく納得した表情を見せる。当たり前だ。母さんが帰ってきたなら、親しい君に会いに来ないはずがない。
「もう少し待ってて。ちゃんと、探しているからね」
もう一度頭を撫でると、ぷるんと寂しげに身体を震わせ頷いてくれた。
「ホイミンは、どーしてずうっとねてるの?」
満足したらしいスーラが、今度はホイミンの居る籠を仰ぎ見た。この一画にゼンさん以外立ち入る人間はいないが、スーラ以外の魔物が居ると知れたら騒ぎになりかねない。今は深い籠に毛布をかけて隠し、高い棚の上に置いてもらっている。
せめてできるだけ、奥の宮近くに居られるようにと。
「僕の、奥さんがね。お腹に赤ちゃんがいるんだけど、その子達とホイミンが魔力で繋がっているらしくて。生まれるまでこのままかもしれないんだって……本当は彼女の側に連れていきたいけど、魔物は宮の中に入れちゃ駄目だって言うから、どうするのが一番いいのか考えているところ」
扉から見えないよう、身体で隠しながら籠を下ろした。スーラも一緒になって中を覗き込む。相変わらず微動だにしないホイミスライムが、人形の如く横たわっている。
もう二週間以上、あの朗らかな笑い声を聴いていない。
何もできないからこそ、やれることは何だってしてやりたいのに。
「……死んだら駄目だよ。ホイミン」
多分、ホイミンが倒れてから初めて、弱音交じりの独り言を零してしまった。
聞こえているかな。わからないや。君達は時々、僕の想像なんか易々と超えていってしまうから。
どっちでもいい。なんだっていいよ。君も胎児達も命が尽きていない、それだけでいい。そのまま何とかしがみついていて。僕に出来ること、助ける方法を一刻も早く探すから。
ゼン老師にお願いして、僕もここの書物を見せてもらおうか。棚に籠を戻し、書庫の奥へ向かうべく立ち上がった。しかしドアノブに手をかけた瞬間、細くて高い、しかしこれまでとは明確に違う呼びかけが僕の足を止めた。
「スーラ、いったげる」
振り向けば先ほどまでの怯えた様子は見る影もなく、小さなスライムの強い眼差しがまっすぐ僕を射抜いていた。意図を測りかね思わず怪訝に見つめ返す。仲魔になってくれるってこと? いや、そういうニュアンスではない気がする。
「行くって? どこへ……」
「マーサのおへや」
間髪入れずにスーラが答えた。ぴょいんと棚から飛び降り、虚を衝かれた僕を見上げて「でしょ?」と迷いなく問い返す。
でも、魔物が入ったらすぐわかってしまうんだろう? 以前も君は兵士に追い立てられて、怖い思いを────
そこまで考えて、鈍い僕はようやく、スーラの言わんとしているところを悟ったのだった。
「……スーラがホイミン、いれてあげる」
広い回廊に、僕の硬い足音だけが冷たく響く。
この階段を使う人間はほとんどいない。謁見の間の幕裏に隠された通路を通り抜ければ、その先の階段はオジロン様が信を置く家臣のみが護る奥の宮へと続く。
その信頼を、僕は今から裏切ろうとしている。
「わるいまものはここ、はいったらいたいとおもう」
「……そうなんだ」
「ホイミンはいいスライムでしょ? だったらだいじょぶ」
謁見の間を通り過ぎて、懐に隠れた青い軟体をそっと撫でた。こくりと唾を飲んだ僕を励ますようにスーラが揺れる。
作戦は、正面突破だ。スーラを外套に隠して奥の宮に入る。気づかれたらスーラに出てきてもらい、母に縁あるこのスライムをこの宮に連れてきてやりたかったのだとしらを切り通す。ホイミンは懐のもっと奥深くに隠したまま。
報せがいくとは言ったが、何が何匹侵入したかまではわからないだろう。スーラも以前入った時、結界自体は特に彼を拒まなかったと言っている。実際感知されたかどうかもよくわからなかったそうだが、兵士に見つかり追い出されたのは事実。
どこからが結界なんだろう。もう陣の中に入っているかも。緊張で足取りが乱れそうになる。落ち着け、せっかくスーラが体を張ってくれているのに、僕がホイミンを取り落としたら洒落にならない。
いよいよ奥の宮が近づいてきた。いつも通りの顔を装い、顔見知りの衛兵達に目礼する。二人とも黙って綺麗な敬礼を返して、それっきり、特に何か言われることもなく素通りして宮中の広い廊下に出た。
────気づかれてない?
いや、報せが行くのは別の場所なのかも。兵舎か執務エリアの可能性が高いかな。だったら今は急いで寝所に行かなくては。兵士が駆けつけてくる前に、ホイミンを隠した方がいい。
宮を護る近衛兵は十人程度。グランバニア城の最上階に位置する王の奥宮は広いが、住人が長く不在だったが故に人員を大幅に割かれている。今は、僕の素性を最低限の人にだけ知っておいてもらう為にも更に数を減らしていた。僕以外にここに出入りするのは基本的に女官長と専属の侍女が一人、サンチョと侍医、そして交代で警護してくれる衛兵達だけだ。
廊下に並ぶ衛兵に会釈し、豪奢な扉を押し開く。間の悪いことに、ちょうどフローラが夕食前の診察を受けている最中だった。「殿下。ご入室の際はノックをお忘れなく」目ざとく女官長に注意されたが、僕は内心それどころじゃない。ばくばくする心臓を何とか抑えて平静を装った。
「申し訳ありません、早く妻に会いたくて気が急きました」
なんとか答えると女官長は苦笑いで頷いたが、その奥のネルソン医師はひどく複雑な表情で僕を凝視していた。
一度ホイミンを診て下さった彼だから、魔力の流れから何か勘づかれたのかもしれない。
背筋を冷たいものが伝う。「すぐお夕食を用意致します。今夜は殿下もご一緒に召し上がれるようで、ようございましたわね」女官長がフローラと朗らかに言葉を交わし、立ち尽くす僕の脇を侍女が一礼して出て行った。ネルソン卿は尚も黙って僕を見つめている。「あなた、お帰りなさいまし」と寝台からフローラが優しく呼びかけてくれて、ようやく僕自身の呼吸が戻ってきた心地がした。
「……うん。ただいま、フローラ」
「大丈夫ですか……? お疲れでいらっしゃいますのね」
やっぱり君にはわかってしまうんだ。心配そうに見上げる妻にぎごちなく笑みを返しかけた瞬間、遮るように背後から「失礼致します!」と太い声が響き渡った。びくりと心臓が跳ね、同じく僕を見上げていたフローラも身体をすくませる。
「なんです、騒々しい。貴い方の御前で」
ヘラ女官長が入口に凛として立ちはだかり、叱責を受けた若い近衛兵はしどろもどろに答えた。
「いえ、あの……申し訳ございません。こちらの宮殿にて微弱な魔物の感知があったようで、念の為確認に参りました。これより表を検めますので、皆様は暫しこちらでお待ち頂けますでしょうか」
────来た!
結界はちゃんと機能していたらしい。にわかに這い上がる緊張を拳を握って抑えた。スーラが不興を買わないよう、うまく説得しなくては。ひっそりと息を吐き、吸い込んだその瞬間。
何故か足元、それも僕の後方から。
懐にいたはずのスライムの、怯えた声がか細く聞こえた。
「あ、あの、ね」
思わず、振り向く。その名が口から出そうになったが、重ねて響いたスライムのか細い声が愚かな衝動を押し留めた。
「ごめんね。スーラがかってに、ついてきちゃったの……」
僕が説明するよって言って、頷いてくれたじゃないか。
驚愕した僕はさぞ間抜け面だったろう。申し訳なさげに口端を緩めてみせてから、スーラはまっすぐ女官長を見上げた。僕と同じく、驚きで言葉を失っている様子の老女を。
「……あなた、……」
ヘラ女官長の表情は、ただ魔物を目にしたというそれではなかった。感慨か、哀惜か。スーラも今は怯えた様子はなく、円い目をヘラ様に向けて逸らさない。
僕が生まれた時、ヘラ様は母さんに仕えていたと言ってらしたから、きっとお互い面識があっての反応なんだろう、けど。
「このこといっしょなら、マーサのおへやにはいってもだいじょぶかなって……ごめんなさい」
意外にもしっかりした口調でスーラが詫びた。警戒した兵士が数歩、スーラに向かって踏み出したが女官長が制止する。だがそれ以上動くことも言葉を発することもなく、寝所にはずしりと重苦しい空気が満ちた。
「テュ……トンヌラ、さん。あの、その子は……?」
「あ……えっと、王妃様の友達のスライム、らしくって」
奥の宮と言えどどこまで僕の素性が伝わっているかわからない。こっそり袖を引いたフローラが、しかし兵士達の手前、覚束なげに名を言い換えてくれた。僕もなんとか無難に返事したが、頭の中は罪悪感やら後ろ暗い心地でいっぱいだった。
このままじゃ、スーラだけが悪者になる。
身代わりを申し出てもらって、軽率に甘えた僕が悪い。せめて何か言おうとしたけど、察したスーラに遮られる方が早かった。
「ごめんね、どーしてもここにきたくって。びっくりした? やっぱよくないみたいだから、スーラ、もーかえる」
「っ……待って。一人じゃ戻れないだろ? 僕が連れて行くよ」
ぴょいんと跳ねたスライムを思わず呼びとめ、息を呑んだ。今、外に出てしまったら懐のホイミンはどうなる?
僕は莫迦か。ここまできたのに、せっかくスーラが身体を張ってくれたのに、僕が台無しにしてしまう。スーラのお陰でネルソン様以外には疑われていないみたいだけど、このままじゃホイミンまであの塔に逆戻りだし、最悪身体を検められればホイミンを無断で連れ込んだことがこの場で露見してしまう。
どうすれば。どうしたらいい。
思考が奔流して、嫌な汗が全身から噴き出した。スーラとネルソン様は何か言いたげにこちらを見上げ、ヘラ女官長と若い兵士は邪気のないスライムの横顔を食い入るように見つめている。
誰も何も言い出せない、気まずい膠着状態をそっとほぐしてくれたのは、何も知らない妻の一言だった。
「……あの、スーラちゃん、でしたか? 今夜一晩、ここで過ごしてもらうことはできませんか。トンヌラ、様も魔物遣いですから皆様もご安心でしょうし、王妃様のお友達でしたら、滅多なことは起こらないと思うのです」
────ああ、フローラ。君ってひとは……!
何かを勘付いたとは思わない。助け舟を出したつもりもなかっただろうけど、彼女の提案は正に神が差し伸べたる救済の御手だった。感極まる僕の内心など露知らず、彼女はいつもと同じ穏やかな声で更なる駄目押しをくれる。
「もちろん、ずっと話し相手になってもらえたら嬉しいですけれど。それは難しいのでしょうから、せめて今夜だけでも……スーラちゃんに、王妃様のお話を聞かせてもらいたいのです。だめ、ですか?」
居合わせた面々が困惑も露わに顔を見合わせた。思わぬ展開にスーラは目を大きく見開き、不思議そうにぷるぷる揺れながらフローラを見上げている。
「このこもなんとなくにてるねえ」
「え?」
「マーサに。うん、マーサににてるの!」
ぷるんとひときわ嬉しそうにスーラが声を上げて、フローラが一瞬目を瞠った。同じく目を見開いた女官長が再び言葉を失う。暫し、神妙な顔つきで何かを考え込んだあと、ひっそりと息を吐いた彼女が近衛兵に向き直った。
「陛下と宰相閣下のご裁可を頂いていらっしゃい。マーサ様のスライムと言えばおわかりになります」
しかし、と狼狽える近衛兵に「後ほどわたくしも説明に参ります」と言い添え問答無用で追い出す。呆気に取られた僕らを一瞥し、ヘラ女官長が綺麗な角度で腰を折った。
「小皿の用意を申しつけて参ります。……マーサ様はいつも、その子を交えたお食事を楽しみになさっておいででした」
兵士と女官長が立ち去り、ネルソン卿も黙って会釈し退室していった。彼らが戻る前にと、急いでホイミンを手近なチェストに隠す。瞬時に状況を理解したフローラが動揺を見せたが、あとでちゃんと説明すると言ってひとまず聞かないでいてもらった。
程なく、夕餉と共に侍女と女官長が戻ってきて、スーラの滞在について許しを得たと伝えてくれた。意外とあっさり認められて拍子抜けする。次いで豪華な食材を惜しみなく使った料理が、ベッドの脇につけられたテーブルに所狭しと並べられていった。
侍女のクロエ嬢は毎回必ず毒見をしてくれる。有難いが、フローラ一人の時ならともかく、解毒魔法を使える僕がいる時はそこまで気を遣わなくて良いのに、と思う。
配膳と毒味が終わると、女官達はすぐ退出した。さっき女官長が仄めかした母マーサとスーラのエピソードをお聞きすることは叶わなかったが、恐る恐る料理を口にしたスーラは黒い瞳をみるみる潤ませた。
「スーラちゃん? 大丈夫ですか。熱かったですか?」
ヘッドボードに体重を預けたフローラがおろおろ声をあげる。食事時ですら彼女は身体を垂直に起こすことを許されていない。もきゅもきゅ咀嚼し、息を吐いたスーラがへにゃと表情を緩ませた。
「だ、いじょぶ。えへ、ひさしぶりのあじ」
凡そ二十年前と全く同じということはないと思うが、この部屋で食事するシチュエーションが故だろうか。ずっと塔に篭っていたのだろうし、あまりよい食べ物は与えられていなかったのかもしれない。
もっとこの部屋にいられるよう頼んでみようか? と問うと、スーラは少し考えたあと、ぷるぷると身体を振った。
「ゼンがさみしくなっちゃうでしょ。あした、かえる」
物問いたげなフローラに、スーラを保護してくれている魔生学者である旨を伝える。魔物に厳しい姿勢のこの城で、二十年もの間この子を匿うことは簡単ではなかっただろう。ふと疑念が湧いて尋ねると、スーラは再び遠い記憶に思いを馳せた後、おもむろに答えた。
「マーサがいなくなってから、ちょっとだけひとりでいて、それからはずーっとゼンがいっしょ」
そっか、と相槌を打った。決して愛想の良い方ではないけど、長く苦楽を共にしたスーラだからこそ感じることもあるんだろう。「ゼン、もーおじいちゃんだから、スーラがそばにいたげないと」とスーラがどこか達観した様子で呟いて、思わず笑いそうになったがふと不謹慎に思えて飲み込んだ。
魔物の寿命は僕達とは全然違う。このスライムからしてみれば、ゼンさんも母さんも僕も等しく稚い命に過ぎないのかもしれない。
「ねー。そいえばきみ、トンヌラっていうの?」
他愛無い会話と食事を楽しむ中、唐突にスーラが問うた。
言ってなかったっけ? ああ、今日までのスーラは怯えて隠れていたし、自己紹介もろくに出来てなかったかも。
「実はそれ、本当の名前じゃないんだ。ちょっと事情があって……本当は、テュールっていうんだよ」
パンをちぎって身を屈め、ふるふる揺れる軟体の口許に差し出した。こうして食べ物を口に運んでやっていると、ほんの少し前のことなのに、仲魔達と旅をしていた頃がひどく懐かしく思い出される。
そうだ、ついさっきみんな城を出ていってしまったんだ。そのこともフローラに言わないと。
「だよね。そーだよねえ」
どうしようもない喪失感に一瞬、つきりと胸が痛んだ。そんな僕と相反するように、何も知らないスーラはぱっと嬉しそうに顔をあげる。
「ふふ。やっぱり、『テュール』」
とろける笑顔で僕の名を反芻した。そんな顔で呼ばれるとなんだかこっちが気恥ずかしい。フローラと首を捻りあったところで、尚もくふくふ笑うスーラが嬉しそうに告げた。
「それねえ、マーサがかんがえたんだよ。エルヘブンのふるういことばでね、ほんとうのこと、っていみなの」
◇◇◇
グランバニアは建国七百年余の大国だ。
世間から忘れ去られた国だが、数代前はそれなりに名の知れた大国だった。当時の主だった国々は魔族との戦乱の最中にそのいくつもが滅んでしまった。グランバニアと勢力を二分した西の宗教国家聖エルム教国、千年もの長きに渡り交易の中心地であったエンドール連邦国群。レヌール王国も数十年前、一夜にして廃城と化した。隆盛を誇った魔王軍……便宜上そう呼ぶが、その攻勢が落ち着いているように見えるのは、今や滅びた国や異界の人々が力を合わせ、魔界の扉を封じた結果だと言われている。
セントベレス山を逃れ放浪するようになってから、伝聞とはいえ人々から話を集めてそこそこ情報通になったつもりだったけど、世代が変わるほど昔の話にはまだまだ知識が及ばないのだと知った。というか、どの国にも表に出せない歴史の一つや二つあるってことかもしれない。ラインハットの偽太后の一件は当事者にとって葬りたい過去だろうし、グランバニアだって、凶王の治世については未だ口を閉ざされることばかりなんだ。
僕の祖父や曽祖父にあたる方の頃の話だそうだ。曽祖父、つまり父さんとオジロン様の祖父は王族ではなかった。北の辺境を守っていたパンクラーツ家の当主だったが、ある時王家の証が彼を示した。……こと自体が不出の出来事だと言う。
曽祖父の名は歴代王に連ねられていない。なんならその実父も王ではなかった。成人を待たず夭逝した第一王子にまさか落胤が存在したなど誰も想像しなかったのである。相手は世話役の侍女と推察されているが、それも曽祖父の件があって初めて知れたことだ。何某かの縁あって、生まれた男児はパンクラーツ家の嫡男として育った。高祖父母にあたるご夫妻はほとんど何も遺さず亡くなられたから、その辺の仔細は今も何も判明していない。
王位は歳の離れた弟王子が継いでいたが、この頃から証による選定が止まっていた。弟君が仮王──証に選ばれぬ王であったことは未だ公にされていない。この弟王こそ『凶王』ギルヴィである。今判明している事実は、民の目を盗みひっそり試されてきた選定の儀に曽祖父が護衛として同行したこと、その場で証が彼を王と示したらしいこと、ギルヴィ王が凶王と化しグランバニアを滅ぼそうとしたこと。それだけなのだ。
何があったか知ろうにも当事者が軒並み他界しており、そも大っぴらにできる事情じゃなかった。曽祖父自身も己の真の素性は知らなかったらしい。曽祖父はその場で捕まり殺害されたが、息子は何とか追手を逃れた。父さんの父親であり、僕の祖父であるルイジ様だ。その後王統狩りの内乱が勃発し、ルイジ様は命を狙われながらもレジスタンスを結成して、数年かけて父の仇、ギルヴィ王を討ったのだった。
詳細な理由はわからないが、ラインハットと国交を断絶したのもこの一連の時系列のことなんだろう。
裏で色々と帳尻を合わせ、ルイジ様は王籍となった。ようやく正統な王を戴いたグランバニアだったが、内乱で負った傷が元でルイジ王も早々にこの世を去った。そうして若くして次代に選ばれたのが僕の父、パパス王だ。
己の出自に関することだからと教えられたこれらの情報をうまく咀嚼しきれず、僕は数日密かに唸り続けることになった。だって、誰にも言っちゃいけないってめちゃくちゃ念を押されて。フローラにまで隠す気はなかったけど、内容があまりにショッキングすぎた。ようやく安定した妊娠中の妻にこんなこと話せないよ。
オジロン様がなんとなく腫れ物に触るように扱われていることにも合点がいった。よくも悪くも凡庸、宰相の傀儡と囁かれる叔父王であったが、ことの次第を把握している重鎮達には叔父上の立ち位置が凶王と重なるんだ。勿論、父さんから直々に王位を預かったオジロン様がギルヴィ王と同じはずがないんだけど。
仮王であったギルヴィが本物の主君を弑したことは、城下の民達には知られていない。子宝に恵まれなかったギルヴィ王が正統な後継を得られず、他家に証が現れたが故に狂乱したのだろうと伝えられている。まぁ、……うん、明らかにできない理由があるんだろう。ギルヴィ王には娘が一人いたが、戦乱の最中に行方知れずとなっている。
証があってもそれだけ揉めるんなら、いっそ選定の制度自体を辞めたらいいのに。そう教師に問うたことがあるが、優れた師であるデッセル卿は無表情の眉を微かに動かしただけでごく言葉少なに告げた。
──……遠からずご説明申し上げます。次代の選定が正しく為された暁に。
ふと、父さんは全てを知っていただろうことに思い至った。やはり証は王の嫡子を示すことが多いのだそうだ。後継である可能性が高かった僕をああして外の世界で育ててくれたことが、不思議な感慨となって自分の中に満ちてくる。
結果だけ見れば、王子だけは城に残して欲しいと懇願した皆様の主張が正しかったわけだけど。
こういう事情を知らされて、いざ証に選ばれたら辞退できる気がしない。流されるまま忙殺されて、気づけばグランバニアに着いて凡そひと月が経過していた。最近は出仕のたびに譲位の話を振られる。蒙昧な僕を慮り民への告下を送らせてくださっているが、今もパパス王の身を案じる国民に真実を伝えることは本来急務だし、僕の素性もいつまでも偽っておけない。
三、四ヶ月後には子供も生まれる。その前に、どう転んでも覚悟を決めなくてはならない。母さんを諦めるつもりはないが、再び旅立つにしたってちゃんと一度けじめをつけたいとは思ってる。
仲魔達には、結局あれから全く会っていない。ほとんど毎日城外を回ってはいるけど、数人の兵と隊列を組んで歩くので呼び出すこともままならない。僕も、彼らを召喚する理由を頭の中で色々考えていたものの、寂寥如きで呼ぶのは違う気がして、結局現状に甘んじるしか出来なかった。
縋るように、就寝前にはチェストに隠したホイミンを覗き込むのが日課になっていた。せめて彼の存在を確かめないと、魔物遣いとして過ごした日々こそ夢だったのではないかと錯覚しそうになるから。
ここに来れば自分に関わる色々なことが明瞭になると思った。知る機会は少しずつ得られても、本当に知りたかったことはまだほとんど聞けてない。僕が生まれた頃のこと、父さんのこと、母さんのこと。サンチョに聞いても何やかやはぐらかされるばかりで、あまり詳細なことは話してもらえなかった。叔父上か宰相から止められているのかもしれない。
「戻られたばかりで申し訳ないが、トンヌラ殿。陛下が白竜の間でお待ちです」
グランバニアの山々にようやく新緑が芽吹いた五月の終わり、出会い頭デッセル卿に淡々と告げられた。反射的に愛想笑いを繕う表情筋が恨めしい。
季節柄なのか、ここ数日は魔物がちらほら出没していて、昨夜も近郊の村で一悶着あったらしい。さすがにここでは夜中に呼び出されることはないが、代わりに朝から事後処理へと駆り出された。主に城から派遣される神官たちの護衛だとか、薬や生活必需品を運んだりとか、ゼンさんの報告書に従って魔物の動向を探るなどする。
昼もだいぶ過ぎ、一緒に戻った兵士達はぞろぞろと飯屋に移動していく。あちらに混ざりたい気持ちを抑え、大急ぎで着衣を着替えてオジロン様の元へ向かった。午後から重鎮らとの会議が予定されているから昼食抜きを覚悟して行ったが、呼ばれた先には幸いにも食事の用意があった。
「おお、間に合ったな。どうだった? ヒース村は」
「はい。警備範囲を広げていたお陰で、これといった損害はなかったようです。ご用意いただいたのに、到着が遅れまして申し訳ございません」
真っ先にオジロン様が労ってくださり、その向こうに座る少女が不機嫌そうに会釈した。この一ヶ月間、何度か食事を共にしている僕の従妹、ドリス姫だ。
既に終盤といった様相だが、彼らの向かいの席には冷めかけの料理がきっちり並べられている。がっつきたいのを堪えて大人しくカトラリーを持った。緊張しつつ食事を始めた僕をオジロン様はにこにこ嬉しそうに眺め、その隣のドリスはうんざりといった様子で顔を背ける。
六歳下のこの従妹殿は、どうにも僕に対して敬遠というか、警戒を隠さない。リーシャのように慕ってくれたらまだ話しやすいのだけど。いやでも、あの時みたいに要らぬ誤解を招きたくはない。互いに距離をとるくらいでちょうどいいのだろう。
会議までもう半刻もない。オジロン様のお喋りを相槌と愛想笑いで受け流しつつ、急いで食べきった。大きな粗相もなく食事を終えナプキンを置いたタイミングで、計ったように宰相閣下が入室して来た。今日の会議に参加する諸侯が概ね集まったことを、宰相自ら報せに来たのだ。
「ドリス姫はおいでにならないので?」
入れ違いに席を立ち、ぞんざいな膝折礼ひとつで去ろうとした孫娘を宰相が呼び止めた。祖父と孫と呼ぶには些か他人行儀なお二人だが、聞けば、早世なさったオジロン様の奥方が宰相閣下の娘御だったのだそうだ。
「私が居る必要なんてないでしょ? その人がパパス前王陛下のご嫡男だって報告するだけなんだから」
つっけんどんに言い捨てると、ドリスは宰相が言い連ねるより早く出ていってしまった。呆気に取られたオジロン様と、とってつけたように苦い笑いを交わし合う。
「思春期だからな。難しい年頃だ」
ふぅ、とくたびれた息を吐きオジロン様が立ち上がった。慌てて追従し広間を出る。王の脇を護って歩く宰相が、叔父上の呟きを受けて満足げに薄く笑った。
「これほどご立派な御方が突然従兄としてまみえられたのですから、姫君はさぞ気もそぞろなことでございましょう」
「ええ、いや、嫌われているようにしか思えませんけど……」
もう何度も仄めかされているので意味はわかるが、いくらなんでも好意的に解釈しすぎだ。週に一、二回は食事に呼ばれて彼女とも同席しているが、親しく言葉を交わしたことも、友好的な笑みを向けられたためしもない。
寧ろ、僕何かしました? ってくらい冷たくあしらわれてる。本当に何かしたかな、父さんにも叔父上にもあまり似てないから、実は従兄なんて嘘だろって嫌悪感を持たれているとか?
「年頃の御令嬢が、憧れの殿方を前に口重になるのはよくあることです。こと殿下はなかなか美丈夫であらせられる」
「テュールよ、本当に誤解しないでおくれ。ドリスは間違ってもそなたを嫌ってなどおらぬから」
方や含み笑いで封殺、方や有無を言わせぬ勢いでお二人同時に詰め寄られれば、気の小さい新参の若人にはそれ以上何も言えない。
そりゃ、歳の近い身内なのだから、仲良くできるならその方がいい。けど、叔父上や宰相が望む方面の期待に応えられる日は来ない。きっと。
「陛下、坊ちゃん。お待ち申し上げておりました」
玉座の間の真下に誂えられた一際大きな広間で、がやがやと年配の方々が歓談する中、入り口で僕らを出迎えたサンチョはにこやかに敬礼する。オジロン様の後ろに噂の客人が付き従うのを見て、扉付近にいた数名の殿方がざわついた。「オジロン陛下、ご入場!」との掛け声に場内は一度静まり返ったが、上座に設えた玉座の脇、宰相より高いところに僕が座るよう促され、背中に視線がちくちく刺さるのをひどく居心地悪く感じながら席に着いた。
──この会議を境に、僕は『トンヌラ』ではなくなるのだ。
「皆、多忙な中よくぞ集まってくれた。今日はグランバニアの新たなる未来について語りたいと思っておる。その前に、先んじて伝えることが二つほどある。まずは、皆も長らく気にしていたであろう。そこな黒髪の若者について、紹介させてもらおうか」
◇◇◇
「……お疲れですか? テュールさん」
その夜、いつものようにホイミンを覗いていたが、気づくとまたぼんやりしてしまっていた。フローラと過ごせるのは朝と、すべての課業を終えた夜だけだっていうのに。慌てて笑みを繕い、チェストを戻して彼女が横たわる寝台に腰掛けた。安心させたくて、心配そうに見上げる可愛い額を撫でる。
「ううん、大丈夫だよ。フローラは体調どう? 今日は何をして過ごしたの?」
「今日も縫い物をして、それから、また新しい本を……お借りしました。たくさんお昼寝しましたから、元気ですよ」
にこやかに頷き、フローラが寝台の傍に置いた白い布地を見せてくれる。診察とマッサージは毎日受けているものの、ずっと寝たきりだからどうしたって心配になってしまう。最近はお腹も少し大きくなってきて、時々足を攣るらしく、黙ってふくらはぎをさすっていることもある。
裁縫は、半月ほど前から始めた。赤子達の肌着を作ってあげたいんだって。横になって縫い物をするって、色々危なっかしい気がしてすごく不安だったのだけど、絶対に女官がいる時だけやること、また針の管理は侍女がするという条件で容認することになった。読書以外出来ることがなかったから、少しでも手を動かせることは良い気分転換になっているようだ。
と、フローラがふと慈しみ深く腹に触れた。
僕もつられて手を伸ばす。横になっているからそこまで目立たないけど、相変わらず華奢な体つきの中、腹部だけが少し盛り上がっている。
「今日はまた、すごい動いてない?」
「ふふ。あなたの声が聞こえると喜ぶんですよ、この子達」
腹を撫でたらフローラが声を弾ませた。このひとときが癒しだなぁとしみじみ思う。花咲く笑顔が眩しくて、つい身を乗り出し頬に軽く口づけた。唐突なスキンシップにフローラは目許を赤らめ、恥ずかしそうに微笑む。
お腹の中で暴れられるのってどんな感じなんだろう。しかも二人分。
今動いたかもしれません、初めてそう言われた時は触っても全然わからなかった。この部屋にスーラが泊まった、あの夜だ。夕食を終えてのんびりくつろいでいたらフローラが急にそわそわし出して、ん? と覗き込んだ僕らに高揚した様子で教えてくれたのだ。あんなに嬉しそうなフローラを見たのはすごく久しぶりだった。
中から蹴られて痛くないのか不安になるけど、幸せそうにお腹を撫でる妻を眺めていると余計な心配かなと思う。
「……お義父様の件、近々公表されるそうですね」
ふと目許に影を落とし、フローラが呟いた。女官達から何か聞いたんだろう。ん、と頷き、小さな碧い頭をそっと撫でた。
「いつまでも黙ってるわけにはいかないしね。……今日、重鎮の皆様には打ち明けたよ。父さんの最期と、僕のこと」
そう、午後の会議の内容がこれだ。叔父上達の説得についに根負けし、今日から順次公表していくことに決めた。まずは諸侯らを集めて伝えて、次に文官、兵士、最後に国全体への告示を行う手筈になっている。
尤も、一ヶ月も素性を誤魔化した結果がこれかと余計に顰蹙を買ったかもしれないけど。
「今更だけど今度、父さんの慰魂の儀をやるって。それでようやく国務に携わる方々からお伝えしたんだけど、大変だった」
怒号の嵐だった。僕は気後れするばかりだった。
非難は主にサンチョに集中した。数年前の帰国時、彼が伝えた以上にパパス王の最期が凄惨だったからだ。生死不明で遺体も残らなかったのだから仕方ない、そう訴える僕の言葉など誰の耳にも届かなかった気がする。
ラインハットを弾劾せよと主張する声もあった。咽び泣く老人達の声が室内に木霊した。国を捨てるように出奔した父はもっと恨まれていてもおかしくないと思っていた。こんなにも家臣達に慕われていたなんて、思いもしなかった。
「そう、それでね。次の僕の誕生日は、大々的に祝ってくれるって」
首を振って気を取り直し、これまた先ほど得たばかりの情報を披露した。不安げだった妻の瞳がとくりと綺麗に揺らめく。
「びっくりだよね。誕生日を知らなかったって言ったら、サンチョも驚いてた。実際は幼すぎて覚えてなかったんだけど……九月のね、二十七日なんだって」
六歳では覚えてなくても無理はない。二歳年上のヘンリーはさすがに自分の生まれた日を覚えていたようだったが、僕を気遣ってかその話題は一切出さなかった。何かの折に問われても「さぁ? 覚えてないよな。歳は今年で十二だっけ?」などと惚けてばかりいた。
だから、記憶に残る範囲で誕生日を祝った覚えがないのだ。六歳……のときも、恐らく父との旅の中でその日を迎えたのだろう。あまりに朧げな記憶だけれど、確かラインハットを訪ったのは初夏だった気がする。春を取り戻すための冒険をしたすぐ後の出来事だったから、サンタローズの小さな家に戻ったのがその少し前、多分六歳の春だ。
「誕生日なんて知らなかったから、年が明けるごとに数えていたんだ。本当は、次の誕生日で二十歳になるんだってさ」
自分の生まれた日を今更知るとはなんとも面映い。しみじみと感慨に耽っていたら、ふと、横たわった妻が神妙な顔つきで天井を見つめていることに気がついた。
「……あ! うわ、今更すぎるな。僕、フローラの誕生日も聞いてなかったよね?」
唐突に思い至り、無意識に腰を浮かせその手を握る。なんてことだ。自分にその習慣がなかったからって、最愛のひとが生まれた大切な日を、今の今まで失念していたなんて。
「あ、いえ、……その」
いきなり手をとられ、フローラは弱りきった声を出した。
もしかして、今までずっと僕の境遇を慮ってその話はしないでいてくれたのだろうか。思慮深い彼女を思えばそれが正解のように思えて、ますます自分の至らなさが情けなくなる。
「本当にごめん。誓ってどうでも良かったわけじゃないから……ああもう、知ってたら今までもちゃんとお祝いできたのに。ごめんね、無神経な男で」
「ち、違うんです。そうじゃなくて」
平謝りする僕を、真剣な声が遮った。
目を円くして見下ろすと、フローラは妙な緊張で身を固くし、まだ迷いを見せながらも懸命に独白を試みている。
「……わ……私、……私も、あなたにお話ししなくてはならないことが……あるんです」
「──天空の、盾のこと?」
思わず口にしてしまって、妻が殊の外動揺した様子を見せた。あれ、違うのかな。結婚してからずっと密かに気にしていたことだったから、気が逸ってしまった。
「前に、お義父さんが言っていたから……いつかフローラから話してくれるって」
起き上がりかけた細い肩を抑えて寝台へ押し戻す。無意識だったんだろう、微かに驚いた妻に首を振ってみせると、彼女は少し戸惑った様子で視線を泳がせた。
「そう、ですね。──はい、……そのことも」
かそけく呟き、君は一度言葉を切った。室内に束の間静謐が戻る。何から話そうか考えているんだろう。思索に耽る君の手に触れたら、何故だかいつもよりずっとひんやりしているように感じた。
「ずっと、いつお話しようかと考えていたんですけど、すっかりタイミングを失ってしまって。でも、あなたの出自がはっきりしたなら、今度こそちゃんとお話しなくてはって……」
そこまで言って、フローラは姿勢を正す代わりに、華奢な両手を腹の上にきちんと揃えて重ねる。
数回息を吐いて整え、目を閉じて……シーツをきゅっと握りしめた君が、僕を見ないまま、意を決して唇を開いた。
「私、…………ルドマンの、本当の娘ではない……の、です」
────さすがに、全く予想もしなかった内容で。
瞠目した僕を見向きもせず、深く俯いたフローラはぽつ、ぽつりと密やかに言葉を紡ぐ。独り言を呟くみたいに。
「捨て子、なのです。あの盾の内側に入れられて、森の中で一人泣いていた赤ん坊を父と母が見つけたのだそうです。旅先のことで、母は子を望めない身体でした。お二人はそのまま私を、実の子として育ててくださいました」
本当に君の話か。他の誰かと違えてはいないか。
感情を交えず淡々と語る、その姿がどこか、ルドマン邸で見たかつての君と重なった。
街中でビアンカと鉢合わせてしまった時。そして、僕らを自宅へ連れて行った時の。
「書類の上では実子です。出生証明もあります。……ルドマン家ならば証明書くらい、どうとでもなりますもの。当時サラボナでもいくらか噂になったようでしたが、このことを事実としてご存知なのは両親と我が家の家令、修道院のマザーと、数年前亡くなられた前マザーのみです」
まるで他人事の如くそこまで告げたフローラが、ようやく僕の方を見た。じっと手元を見つめていた瞳は、今、恐れとも悔恨ともつかない暗い色を漂わせている。
「こんな、すごく大事なことを、ずっと黙っていて……本当に、ごめんなさい……」
項垂れたフローラの掌を包み、顔を傾けて瞳を覗くと、君は今にも泣き出しそうに翠の虹彩を揺らしていた。
仕方のないことだ。サラボナ公の娘が養女、しかも伝説の盾に護られた孤児だったなんて。
公にしない方が良いことくらい、僕にだってわかる。彼女の言う通り、あれだけ馴染みの深い船長達ですらご存知ないことだ。ルドマン家の船の上で軽率にできる話ではなかったし、砂漠に入ってからは何かとトラブル続きだった。
やっと辿り着いたテルパドール城では僕自身の出自について匂わされて、その時告げられてもきっと混乱するばかりでよくよく咀嚼できなかっただろう。
もしかしたら君は、この事実がどこからか漏れて、義父や僕の立場が危うくなることまで心配してくれていたのかもしれない。
フローラと結婚して、それまで身寄りのない一介の旅人に過ぎなかった僕は、ルドマン家という大きな後ろ盾を得た。もちろんフローラが側にいてくれたことが一番の支えだったけれど、時折フローラがルドマン家息女として進んで振る舞ってくれたこと。豪華客船をお借りして、頼もしい船員たちの信頼をいただけたこと。宿に困らなくなったこと、言ってしまえば商人のギルドや銀行ですら僕への態度が変わったこと。その名が負う権威の凄まじさを実感しないわけがない。
驕らぬようにと努めても、テュール・グランは婚礼を挙げたあの日から、ただの根無し草ではなくなった。
それだけの力を持つルドマン家が、拾った赤子の出自を詳細に調べないはずがあるだろうか。当然周辺の村々と噂は全て確認しただろうし、盾についても同様だ。結果不明であったのか、本人にだけ告げられていないのかはわからないが、大富豪ルドマン卿の一人娘が実は孤児だと知れれば、少し知恵のついた物乞いたちがこぞって名乗りをあげることだって考えられる。
確かに、ルドマン卿は一人娘であるフローラに手厳しかったが、その真意は限りなく深い男親の愛情だ。盃をいただき、指輪を献じた時の卿を見た僕だから言いきれる。大切な愛娘を一人前に育て上げ、彼女に相応しい伴侶を選び添わせたい。その想いに嘘はなかったはずだ。そしてフローラは万人にそう思わせるに足る資質を持った、どこに出しても恥ずかしくない立派な大公令嬢なのだ。
ふと、ビアンカをもらってくれないかと言った時のダンカンさんを思い出した。そう言えば、ビアンカとダンカンさんも本当は血が繋がってないんだっけ……
やっぱり、血の繋がりなんて関係ない。義父もダンカンさんも、娘を思いやる時は同じ瞳をしていた。──それでも、勝手な憶測で好き放題囃し立てる人間や、偽りや騙すことを恥じず陥れようとする輩は少なからずいるから。
「お義父さん、言ってたね。天空の盾は元々フローラのものだって」
以前義父から告げられた言葉を反芻すると、フローラも頷き、憂いを帯びた瞳を遠く逸らした。
「どうして盾が私と共にあったのか、なのに私自身に扱うことが出来ないのか……今も何もわかりません。拾われたのはラインハット城とサンタローズ村の狭間の森林地帯だったといいます。風変わりな意匠の盾は、持ち手に触れれば鉛よりも重くなり、共にいた赤子は盾から離すと酷く泣いたので、そのまま盾を寝床代わりにするしかなかったそうです。……物心ついた頃、父が懇意にしていた占者様の勧めで、盾を持って修道院に入りました」
唐突に懐かしい村の名を聞き、再び言葉を失った。
今から凡そ十六、七年前? その頃の僕はサンタローズにいたんだろうか。もしかして、赤ん坊の君とすれ違ったこともあったんだろうか。
そんなにも近くに天空の盾が出現していたこと、勇者の武具を探していた父さんが知ったらどんな顔をしただろう。
長年の執心の所為か、ついそんなことを考えてしまったところで、目の前で項垂れるフローラに意識を引き戻された。否、彼女が続けて呟いた言葉が、あまりにも聞き捨てならなかったから。
「あなたが真実、グランバニア前国王の血を継ぐ御方だと判った今……私のような、どこの血の者ともわからぬ女は枷にしかなりません」
「なんで、そんな……! ならないよ、君は歴としたルドマン大公の」
思わず大声で遮った僕に、フローラは哀しげな瞳を向けると力なく首を振ってみせる。
「少し調べればわかることです。両親とは似ても似つかぬ風貌に髪の色、しかも旅行中だったとはいえ十八年前、ルドマン夫人が身篭った姿を見た者はいないのですから。重鎮の皆様はきっと、身元不詳の……拾われ子の私を妃とすることに反対なさるでしょう。いいえ、もう既に、他のご令嬢との婚姻を打診されていらっしゃるのではありませんか」
最後の問いかけにぎくりと心臓が鳴った。瞳を持ち上げた君と目が合ってしまって、確信してしまったのだろう。君はまた悲しげに吐息を漏らし、俯いてしまう。
即位の暁にはドリスを王妃に。城に上がって顔合わせをさせられてから、実はもう幾度となく提案されている話だ。勧めてくるのは宰相だが叔父上もどうやら乗り気で、なんならサンチョも賛成しているらしい。さっきの会議でも外堀を埋めるが如くさらりとそこに触れられた。
妻が不安定な状態なので赤子のことは言えなかったが、他国から妻を連れ帰っていることはその場で伝えた。結果は再び凍りついた場の空気と、しかし従兄妹同士であるドリスなら血筋も身分も十分釣り合いが取れるという謎の訴え、その奥方とやらは妾妃にでもなさればよろしいという胸糞悪い提案を異口同音に聞かされる、という最悪の顛末だった。
減った王族を増やしたいなら、僕とドリスは別々に家を立てた方がいいじゃないか。大体、血が近すぎるのは良くないって聞いたことがある。
そう主張するも、こちらにはより位の高い姫君がいらっしゃるのに道理が通らぬと譲らない。何だよその道理って。ではせめてご正妃には我が国の令嬢をお召しに、と重鎮達に詰め寄られたところを今日はサンチョが散らしてくれたが、そんな変な話のお陰で会議の後も次々見合いの話を持って来られて大変だったのだ。
当然だけど、僕自身にそんなつもりは毛頭ない。
君と一緒に生きていけないなら、祖国なんて必要ない。
「……フローラを妻として認めないって言うなら、すぐにだってここを出ていくけど。僕は」
できるだけ落ち着いて告げたかったけれど、どうしても棘を孕んでしまう。驚き、翡翠の虹彩を大きく揺らめかせた君が窘めるように僕を呼んだ。
「テュールさん」
「当然だろ。なんでそこまで干渉されなきゃいけない? 王位を継ぎたくてこの国に来たわけじゃない。両親のことを少しでも知ることができれば、そう思っただけだ。大体、フローラは僕の子を身篭ってくれているのに……だったらもう、みんなに言うよ。血筋がそこまで大事だっていうなら、今まさに直系の赤子を授かっているフローラの方が僕よりずっと大事だって。違う?」
「それでも、皆様から見ればあなたとの血縁を証明できるものは何一つありませんもの。ましてや私は本来、親を知らずに育つはずだった捨て子。ことは一国の存続に関わること、要らぬ火種を避けたとして、どなたをも責められることではありません」
僕の憤りを鎮めるべく、フローラはゆっくり、誠実に言葉を選ぶ。だからってそんな、悲しいことを君の口から聞きたくない。言わせたくない。
君の言うことはある意味、恐ろしく正しい。さっきの老人達にこのことが知れたら、フローラがどう処断されるか本当にわからない。今更ながら肝がぞっと冷えた。僕の意思なんて関係なく、サラボナ公がグランバニア王室を欺いたなどと叫び出すかもしれない。さっき父のことで、ラインハット王国をあんなにも激しく責め立てたように。
「あなたの身上はサンチョさんがはっきりと判じてくださいました。王位継承の試練も、あなたなら難なくこなされるでしょう。けれど、私が産む子がグランバニア王家に正しく連なるかどうかは、成長して同じ試練を受けてみないと確たるものとはならないのです」
「身に覚えがあるの? 僕の子じゃないって」
「そんなこと!」
静かに問いかけた僕に、妻が珍しく声を荒げた。間髪入れず否定してくれたことが嬉しくて、僕を見上げた君の頬を掬いとる。
「……それで、いいんじゃない」
翡翠の瞳が、綺麗に見開かれて僕を映す。
陶器のような白磁の頬が、触れたところから紅を灯して。
「僕が君を信じる。それだけじゃ足りない?」
その滑らかな肌を今一度、愛しく撫でる。震える翡翠を彩る睫毛に、指先だけで優しく触れた。
「誰に何を言われても関係ない。君はフローラ・グランで、誰よりも大切な、たった一人の僕の妻だ。お腹の子だって、間違いなく僕の子だよ。……あれ、正しくはフローラ・ルドマン・グランバニア、になるのかな? なんか締まらないね、正式な名前って慣れなくて」
くすりと小さく笑みを零したら、答える代わりに、頬を包んだ掌に温かなものが伝い落ちた。
濡れた睫毛をぎゅっと瞑って懸命にこらえようとする彼女に、その耳朶を食むように顔を近づけて。
「僕の妻は君だけだって、ずっと前にも言っただろ」
囁けば、フローラはこくこくと必死に頷いてくれる。
僕のためにって。いつだって何より僕を優先して、僕に必要なことを精一杯考えてくれる君だけど、僕が一番必要としているのは君そのものなんだって、いつになったら本当の意味でわかってもらえるだろうか。
「フローラはしっかり者だけど、僕の前でだけ泣き虫だよね」
「……っごめ、な……さ……」
「いいんだよ。寧ろ、嬉しい」
ぽろぽろと泣き崩れた妻に覆い被さり、そっと背中をさする。指を噛んで嗚咽を堪えるフローラがいたわしくて、愛おしくて。甘い香りの髪を梳きながら「ほら、そんなふうに泣いたらお腹の子たちが心配するよ。お母さんどうしちゃったんだろうねって」と声をかけた。頷き、涙を拭おうとする歯形のついた君の指を掴み取り、治癒魔法を唱えながら第二関節に口づける。
「そういえば、名前って考えてる? 最近、暇があるとつい考えちゃうんだけどさ。双子なら男女二つずつ、用意しておいた方がいいのかなって」
何度も背中をさすってようやく落ち着いた頃、このところ思案していた名付けの話を振ってみた。やはり考えていたものがあるらしく、すぐ頷いたフローラはやわらかな笑みと共にひとつの案を披露する。
「……そう、ですね。男の子でしたら、リオ、なんてどうかしらって。旧い神話の、太陽の神様の愛称なんです」
まだ睫毛を濡らしたまま微笑んだ彼女は、幸せそうに「あなたみたいに、太陽のようなあたたかい光で、誰かを導く存在になってくれたら」と付け足してくれた。
僕には勿体無い由来に胸が熱くなる。「太陽、かぁ……」と恥ずかしさを紛らわせて呟いたら、ふともう一つ、対になる名前を閃いた。
「じゃあ、女の子だったらルナがいいな。確か月神だよね。どんな暗闇からも、月が完全に消えることはない。呑まれたと思っても必ずまた蘇る。そんな希望を、思い出させてくれるから」
リオ。ルナ。
まだ性別もわからないのに、何故かひどくしっくりきた。
妻も同じだったようで、二人で出し合ったそのふたつの名前を大切そうに呟くと、優しい手つきでまたお腹を撫でていた。
「────やっぱり、天女なんじゃないかなぁ」
母性溢れる微笑みと仕草を眺めていたら、ふとそんな独り言が喉からこぼれた。
「……、え?」
「ううん。もしかしたら、フローラの本当のご両親は天空人だったんじゃないかな、って思っただけ」
寧ろ、何で今までそう思わなかったんだろう。
不思議そうに見上げる可愛い君を見下ろして、その繊細な碧髪を一房、左手に掬った。なめらかな髪が水のように指の間をさらさら流れ落ちていく。ルドマン卿の実の娘だと思っていたのだから当然だけど、彼女の口から真実を聞いたあと閃いたイメージは何故だか妙に腑に落ちた。
「こんなきれいな空色の髪、フローラ以外に見たことないし」
いつだったか、やっぱりこんなことを君に言った気がする。遮るもののない真っ青な空の下で。
君が話してくれた、幼い頃から君を苦しめてきた悪夢が……まるで翼を失い堕ちてくる天女みたいな彼女の幻が、いつかの虚空の果てに視えた気がした。
「ああ。でも、嫌だな。空に連れて帰るなんて言われても、僕は絶対君を手放せない。雷に打たれたって離すもんか」
今だって側にいるくせに。どうしようもなく寂しくなってしまって、思わずフローラに寄り添い抱きしめた。半ば潰される形だったが彼女は押し返すことはせず、代わりに細い両腕を硬い背にそっと這わせてくれた。
「離さないで、くださいね……」
暫し、無言で抱きしめあって。胸許から届いたのは、ひどく儚い、切実な声だった。
「ごめんなさい。最近なんだか、怖いの。何か良くないことが起こってしまいそうで」
身を起こして覗き込むと、彼女は不安に瞳を揺らしながらも力無く笑う。
「きっと、身篭っているからですね。妊娠中は良くないことばかり考えてしまうものだと、女官長様も仰っていましたもの」
「楽しいことをたくさん考えよう? 無事に生まれて少し落ち着いたら、ピクニックなんてどうかな。みんなもフローラに会えなくて、すごく寂しそうにしてたんだ」
仲魔達のことを口にした瞬間、ずっとわだかまってるあの寂寥が胸を抉った気がした。城を離れたことは伝えたけれど、その後彼らに全く会えていないことはフローラに言えていない。
何気なく腹に触れれば、ととんと応えるように胎動が返った。子供達も行きたいって言ってるのかな。仲魔達と家族みんなでピクニック、うん、すごく楽しそうだ。
君もまた、ここに来る前と少しも変わらぬ親しみを滲ませて微笑み、頷く。
「私も、会いたいです。とても」
そうやって君が彼らに変わらぬ親愛を傾けてくれることが、どれほど今、僕の心を支えてくれているか。
彼らと行動を共にするようになった当初から、彼女が仲魔達を疎んじたことは一度もない。
そうだよ、わかってくれる人はいる。フローラだけじゃない、この一年で僕自身が経験してきたことじゃないか。
「……うん。やっぱり、諦めちゃいけないよね。みんなを受け入れてもらえるようもっと考えないと。何か、この国の役に立てるようなことがあれば、皆さんの魔物を見る目も変わると思うんだけどな」
ストレンジャー号の船員達だって、初めはあんなに警戒してたんだ。そわそわ考え始めた僕をフローラが微笑ましげに見つめる。何も聞かずに見守っていてくれた君は、実は全部お見通しだったのかもしれない。
何かヒントがないか、顎に手をやりこれまでの旅路をつらつら思い返していたが、ふと引っかかりを覚えてフローラの方を向き直った。
「もしかして、テルパドールでグランバニアの話を聞いた時から……ずっと悩ませてた?」
生い立ちのこと、盾のこと。妊娠のことだってそうだ。生真面目な君はいつ話そうか相当悩んでくれただろうに、いきなり降って湧いた僕の出自、故郷を優先させて、そのタイミングを失わせて。
挙句、さっきもあんなに緊張しながら告白させてしまった。
「ごめん。何もかも、僕が不甲斐ないのがいけなかった。フローラ一人に悩ませて、相談もさせてやれないで……とことん駄目な夫だな、僕は」
「違うんです。違うの……」
独り善がりな謝罪を聞いても、君は微塵も僕を責めない。
ふるふると哀しげに首を振り、フローラが僕の厳つい掌をきゅっと握った。
つられて再び抱き寄せれば、彼女は懸命に胸板へと頰を擦り寄せる。
「不安でも、大丈夫だったんです。だって……いつだって、あなたがたくさん愛してくださったから」
微かに揺れる細い声。触れた指輪から滲む清涼な気配は、君の真摯な想いを何よりまっすぐに伝えてくれる。
「愛しています。テュールさんを、誰よりも。私に守れるものなら何だって守ります。だから……だから、今は何も聞かず、お側にいさせてください」
黙って聞いていた僕の肩に、小さな額がとん、と触れた。
「今は、なんて言わないで。僕はずっと君の側に居るよ」
できるだけ優しく、碧い髪を撫でてそう囁いたけれど。フローラは黙って一つ小さく頷くと、苦しげな……ひどく痛々しい独白を、誓いを、吐息に溶かして胸に落とした。
「あなたを一人にしません。……絶対に、ひとりにはしませんから────」
折れそうな腕を僕に縋りつかせて、彼女は嗚咽を押し殺し、静かに、静かに泣いていた。
その時の彼女の言葉の意味は、僕には良くわからなかった。
けれど、消えそうな囁きがあまりにも切実で、僕はもう黙って抱きしめ返すことしかできなかった。
その誓いにこめられた本当の意味を理解したのは、
……本当に、情けないことに、
それから八年も、時が経ってからのことだった。
㊗️DQⅤ31th‼︎
あまり動きのない回で申し訳ない。次の次くらいでデモタワ回突入します。嫁ロスに耐えられるのか…今から不安…