Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】   作:サクライロ

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#12. 欠けては満ちる

「……マジでか! 双子? つか懐妊⁉︎」

 年の瀬ぶりに再訪したラインハット王城の最上階で、王兄ヘンリーは話し始めて早々、前のめりに肘をつき頓狂な声を上げた。

 王兄夫妻の寝所として使われているこの正殿は陽当たりが特にいい。昨年末、木枯らしを遮り陽光を取り込んでいた大きな窓は、今は薄いカーテンをたなびかせ、適度に日光を遮りながら心地よい風を絶えず取り込んでいる。

「うん……や、ヘンリー、ちょっと大袈裟」

「いや、だって、なぁ。いきなりそんなめでたい報告聞くとか思わねーじゃん。そうかぁ、おめでとうな。なんか信じられないわ、お前が人の親になるなんてさ」

「それ、今ヘンリーが言う? マリアさんだってもうすぐ生まれるっていうのにさ」

 ヘンリーが嬉しそうに隣の細君を振り返り、僕もソファにもたれたマリアさんへ視線を向けた。男二人に見つめられ、マリアさんは臨月の腹を撫でながら「おめでとうございます、テュールさん。この子に歳の近いお友達が出来るなんて本当に嬉しいですわ。しかも、二人も」と朗らかに応える。

「ありがとうございます。順調そうで僕も安心しました。お腹、すごい大きくなりましたね」

 同じく腹の膨らんだ妻を思い出しながら労えば、マリアさんは幸せそうにおっとりと頷く。ヘンリーも嬉しそうに頬を掻いた。

「何にせよ、良い方に向かってるみたいで何よりだ。親父さんとお前の素性もはっきりしたんだろ」

 香り高いカップを揺らし、ヘンリーが静かな安堵を滲ませた。ここでそれを口にすると言うことは、マリアさんも全てを承知しているということだ。

 どうなんだと青い目で問われ、黙って頷き肯定した。僕の父さんが真実、グランバニアの前国王であったことを。

「……さすがに、もう全部伝わってるよな。ラインハットはいつなりとも貴国の申し入れを受け入れる。それだけはわかっていてくれ」

 気丈にしていたヘンリーが深々首を垂れて、その横顔をマリアさんがおろおろ覗き込んだ。僕も、グランバニアで責め立てられたばかりだったからすぐ否定してやれなくて。三者三様に項垂れたあと、申し訳なさそうにヘンリーが顔を上げた。

「ごめんな、俺の一存じゃすぐにどうこうできなくて」

「いいって。十年以上前の話で、今のラインハットを統治してるのは当時のことに直接関わりない方ばかりなんだから。グランバニアも……皆、知らされたばかりだから、頭を冷やす時間が必要だと思うよ」

 言葉を選びつつ今度こそ首を振る。きっと僕が関わり続ける限り、ヘンリーの悔恨が終わる日は来ないんだろう。

 わかっていながら酷だと思う。それでも尚、友として接してくれることを心から有難く感じる。

 素性を公表してから、城内での僕の扱いが少し変わった。

 順次国民に知らせていくという話だったが、結局まだ文官止まりになってる。というのも当然ながら、出自を疑う声が出た。正確には、王家の証による証明を求められたのだ。

 坊ちゃんを疑うとは不敬の極みとサンチョは憤慨していたが、正直僕自身も憶測だけで王族扱いされたくない。証の選定も当然受けるつもりでいた。但し、本来この儀式は新年に行うものだそうだ。さすがにそこまで待てないということで今回は慣例に従わず吉日を選ぶことになって、それが次の満月の日に予定されている。

 しかも、フローラの出産予定日が凡そ二ヶ月後に控えている。僕の誕生日がそのまた一ヶ月後で、慶事続きの流れに立太子の儀をも捩じ込むのであれば先にパパス前国王陛下の慰霊を為すべきとの議論が紛糾し、結果、先の数ヶ月間は甚だ無茶な予定が詰め込まれた。何事もなく済めばいいけど、なんとなく不安ばかり募る。

 ともあれ諸侯の態度は変わり、兵士達も空気を読んでか前より丁寧に接してくるようになった。必然的にこれまで詰め込まれていた予定が緩和され、干渉されない自分の時間を捻出できるようになった。それで何かと理由をつけてはこの半月、あちらこちらを渡り歩いているのである。

「そんで、いつ頃生まれるんだ? 年の瀬かな、いやもう少し先か?」

 話題を変えてくれたのは嬉しいが、その話は正直地雷である。曖昧に相槌を打つと、ヘンリーは得意げに腕と脚を組み、わざとらしく尊大な態度を見せた。

「あん時俺の話聞いといて良かっただろうが。やぁっぱ、持つべきものは頼り甲斐のある親分様だよな」

「あー……うん。そう、だね」

 いつもの軽口に違いないが、本当に洒落にならないんだ。

 思わず目を泳がせたが、頬に頭にヘンリーの視線がちくちく刺さる。ここまで言って誤魔化せるわけもなく。

「……ごめん。本当はあんまり役立てらんなかった。結局妊娠に気づかず山越え、まで……させちゃったし」

 勇気を振り絞り、ついに白状したものの余りに居た堪れずテーブルに着かんばかりに首を垂れてしまった。怖くて、特にマリアさんの顔を見られない。

 今まさに優雅に茶を飲もうとしていたヘンリーは、衝撃のあまりその姿勢のまま固まっていた。危うくこぼれかけた紅茶を、マリアさんが慌ててカップごと支えてくれる。

「って、え、……お前、…………え?」

 あああ。ほんと有り得ないよね。身篭らせておきながら、能天気にも険しい山を登らせただなんて。

「グランバニアに着いたらもう、絶対安静でさ……」

 そろりそろりと言い添えれば、二人とも完全に絶句した。そりゃそうだよ。直前に、妊娠して安静にしていたマリアさんに会ってたっていうのに。我ながら本当に酷い話をしてると思う。

「双子だから早く産まれる可能性が高いそうだけど、それでもその……八月末くらいの予定。こないだ年の瀬に一度来たじゃん、ちょうどあの頃授かってたみたいで」

 はち、がつ。

 最早茫然とヘンリーが呟き、再び居心地悪い沈黙が満ちた。僕だってまさかこんなことになるとは、半年前ヘンリーの説教を聞いた時には想像もしなかった。いや、実感には程遠かったというか……漠然と、僕も欲しいなって思っただけだったんだな、と。無責任にも程がある。

「…………いや、まぁ、男にゃわからんからな……そうか、大事なくて良かったが……いや、なかった……のか……?」

「本人は途中で気づいてたらしいんだけど、途中魔族に襲われたりして、お産まで村に留まれる状況でもなくてさ。村にはお医者様もいなかったし」

 出血しちゃったから、余計に言えなかったみたいだと。躊躇いながら伝えたら、二人とも再び唖然としていた。僕は僕で月のものだと勘違いする愚を犯したし、あの時フローラはもう流れたと思いこんですごく落ち込んでいて、だからこそ侍医に赤ん坊が無事だと伝えられた時には安堵のあまり泣き崩れていた。

「早くグランバニアにって、その一心で……頑張って、くれて」

 そこまで告げたらもう、こみあげるものに耐えきれなくなった。卓に肘つき、額を抑えて重く息を吐く。

「……あー、もう。駄目だね。自分の至らなさがとことん嫌になる……」

 普段余裕がないのもあって考えないようにしていたけど、つくづくとんだ人でなしだ。ヘンリーも何やら「いや、それなんつーか……お前らってほんとさぁ……」とぶつぶつ呟いていたが、それ以上言及することは諦めたらしく、溜め息をついて隣の妻を振り返った。

「なあマリア、何かアドバイスがあったら言ってやってくれよ。妊婦じゃないとわからんこともあるだろう?」

「あ、そう、ですね……」

 急に話を振られた王兄妃が再び狼狽える。昔馴染みとはいえ、臨月の大変な時にこんなろくでなしの相手をさせて誠に申し訳ない。暫し思案していたマリアさんが、では、と遠慮がちに口を開いた。

「双子については知見がないので、大したことは申せませんが……乳母はもうお探しになりましたか?」

「乳母、ですか?」

 存在は知っているけど、なんとなく別世界の人というイメージで考えたこともなかった。思わず復唱すれば、マリアさんは生真面目な表情のままこくりと頷き、続ける。

「私も、私の代わりに授乳……赤ちゃんにお乳をあげられる方を探してもらってあります。一年以内にご出産された方で、お乳の出が良い方に手伝っていただくんです。フローラさんは双子ということなので、乳母がお一人では足りないのではないかなと思いまして」

 ああ、確かに母子像みたいな絵は見たことある。母親が赤子に乳を吸わせているやつ。なんとなく直視し辛かったのだけど、ああいう記憶が恐らく全くない僕は、女性に対する気恥ずかしさと母性に対する羨ましさを拗らせてしまっているのかもしれない。

 指摘してくれたマリアさんの観察眼に心底感謝しつつ、そういう話を何も聞いてないことに落胆した。探してもらってあるかもしれないけど、確かに夫である僕が確認しないといけないことだし、妻子がお世話になるであろう方々のことは寧ろちゃんと知っておきたい。

「双子ということは、お乳も二人分必要になりますでしょう? 私がご心配申し上げることではないと思いますが、念のため、お帰りになりましたら確認してさしあげてくださいまし」

「ありがとう、ございます。そうですよね、全然考えていませんでした……僕の時は赤ん坊の時分に父が旅に連れ出したと聞いていたから、なんというか。そっか、赤ん坊ってお乳が必要なんですよね。なるほどなぁ……」

 うん、本当に勉強になる。これならフローラの役にも立てそうだし。思わず本音を漏らし感慨に浸っていたが、気づけばヘンリーとマリアさんが憐れみに満ちた目で僕を見つめていた。どうやらまた失言していたらしい。

「そういえば、ヘンリー。こんな時に聞くのもあれだけど……光の教団って今、どうなってる?」

 話題転換ついでに、気になっていたことを訊いてみた。今や国防を進んで担っているヘンリーが、瞬時に表情を引き締める。

「うちの領内のってことだよな? いくつかの村に入り込んでたのを潰してやったが。しつこいんだよ、あいつら」

 険しい表情で吐き棄てたヘンリーだったが、心配そうに見上げる奥方の金の髪を優しく撫で、すぐ穏やかに微笑んでみせた。

「うちはまぁ、修道院があるから。南の方は特に信心深いし、心配はいらないさ」

 流れ着いた時は知らなかったが、あの海辺の修道院は世界有数の規模を誇っている。神の塔と呼ばれる建造物然り、ラインハットは今や天空教の中心地と呼んで過言ではなかった。太后に成り代わった魔族が城を掌握しても揺るがなかった神の使徒である。当然、周辺の住民、特にオラクルベリー以南は天空信仰が強い。確かにヘンリーの言う通り、異教が入り込む隙はなかろうと思われる。

 かつて宗教国家として隆盛を誇った聖エルム教国をはじめ、各地に点在していた天空教の聖堂はそのほとんどが魔族によって滅ぼされ、今では祠として慎ましく竜神を祀るばかりとなっているのだった。小さくとも祠は現存する貴重な聖域である。悪しき魔物を近づけないのはさすが、神の力というべきか。

「……まさか、グランバニアでも?」

 やはり彼は鋭い。ずばり核心をついた親友に、何と説明したものか考えあぐねる。僕が一人で怪しんでいるだけで、今のところ何かおかしなことが起こっているわけではないのだけど。

「わからない。光の教団とは聞いてないんだ。ただ……随分前から、天空教じゃない別の宗派が幅を利かせてるらしくて」

 ふむ、とヘンリーが顔を顰め、マリアさんもまた不安そうに肩を震わせる。もしかして、ラインハットをじわじわ侵食している奴らと何かしらの繋がりがあるんじゃ、と思ったんだ。光の教団だって一枚岩じゃないかもしれない。

 できるだけ偏見と憶測で話さないよう、少ない情報を精査しながら伝える。

「国教はもちろん天空教だよ。ただ、天帝よりもっと古い神への信仰を説いている宗派が教会の中にあるんだって。その人達は自分達の教義を『イブール教』って呼んでるらしい」

「イブール……」

「マリア?」

 黙って聞いていたマリアさんが神妙な顔つきで口籠り、ヘンリーがその横顔を覗き込んだ。蜂蜜色の髪を柔らかく揺らし、王兄の寵妃は困ったように眉尻を下げる。

「ええ…….その、どこかで聞いたような気がしたのですが、思い出せなくて」

 ごめんなさい、きっと気のせいですわと言い添えたマリアさんの背中を優しく撫でて、ヘンリーが改めて気鬱な息を吐いた。膝に肘をつき、整った翠の髪を手荒く掻き上げる。

「関係ないことを祈るしかないよなぁ。光の教団だけでも面倒だってのに、なんなんだよ……」

「竜城が地上へ降りられたというお噂はまことなのでしょうか。これももう随分昔のお話ですよね?」

 一時期修道女を務めたマリアさんはフローラに劣らず敬虔だ。不尊な言い回しを避けた妃に、ヘンリーが疲れた相槌を返す。

「それも状況から推察できるってだけだ。まぁ、見た人間がいたとしても、もう百数十年は前の話さ」

 その話、テルパドールでもう少し調べてくれば良かった。

 ラインハット城の学者も長く研究しているが、詳しいことは今もわかっていないらしい。昔、天空城が空から堕ちたという話。といっても落下する城そのものを見たものはおらず、主には大規模な天変地異の口伝が残っているだけなのだが。

 ある時太陽と月が闇に隠れ、嵐が世界を蹂躙した。長きに渡り昼が消え失せ、人々は常夜を怯えて過ごした。やがて地面は激しく震撼し、津波が各地を呑み込んだ。世界を覆った暗雲は徐々に晴れたが、代わりにそれまで見ることのなかった恐ろしい魔物が地上を跋扈するようになったのだそうだ。

 まるで竜の唸り声のようであったと、大災厄を生き延びた方々が伝えている。天空城は天空の血を引く者でなければ入れないという。勇者を見送って千年余、天空城の所在を確かめた者はいない。それでこの不敬な噂がまことしやかに囁かれるようになったのだ。

 天帝神竜は魔族に討たれ、天空城は堕ちたのではないか、と。

「天空に座す竜がこの世を護り、その加護で魔の者が封じられていた。何か起こったが故に世界は一度闇に覆われたわけで、だったら勇者来たらんって予言はどうなんだって話なんだよな……」

「──……本当にね」

 何気なく頷いたつもりが、目の前の二人がぎょっとしてこちらを見た。また怨みがましい感情が滲んでしまったんだろうか。弁解する前に、ヘンリーがすかさず腕を伸ばし僕の肩を叩く。

「ま、そう言うな。これから父親になろうってやつがしていい目じゃねーぞ、それ」

「言ったのはヘンリーだけど」

「うっさいわ。とりあえずこっちは目を光らせとくから、お前も気をつけろよ。なんかあったら遠慮なく俺を頼れ」

 さらりと告げられ虚を衝かれた。瞬きした僕を可笑しそうに見遣り、ヘンリーがまた不敵に笑う。

「一人で抱え込むなっつってんの。親友だろ」

 本当に、ヘンリーは僕に心を砕きすぎだ。胸が熱くなったが、ふと彼の向こうの柱時計が視界に入り、大慌てで立ち上がった。

「ああ、ごめん。もう帰らないと」

 あっという間に小一時間過ぎてしまった。結局転移魔法のことは城の誰にも言っておらず、今日も行き先を告げずに来たのだ。郊外の見廻りと言って誤魔化したけど、いちいち詮索されたら厄介だから。

 サンチョ達の目を盗んで行動することは難しくないが、心労が溜まる。先日もサラボナにほんの短時間、義両親へ懐妊の報告をするため帰郷した。グランバニアでの出来事をひどく掻い摘みながらお話ししたところ、義父はやはり僕の出自に見当をつけていらしたご様子だった。父さんの話もしていたし、会ったことがあるとも言ってらしたから当然かもしれない。

 お二人とも愛娘を直接見舞えないことを残念がっていたが、産後落ち着いたら必ず孫を連れて訪問すると約束した。義母は孫の服を作って待っていると嬉しそうに言ってくださり、こういうところ、血は繋がらなくともやっぱり母娘なんだよなぁなどとしみじみ思ったのだった。

 城を去った仲魔にも、凡そひと月半ぶりに会うことができた。だが再会を歓ぶ暇はなく、密かに頼んであったユリウス司教様の護衛の報告を手短に受け、またこちらの事情を説明するに留めた。ユリウス様はその後、僕の馬車を移動させる名目でご実家のある村へと移送されたが、ゲマと思しき魔族の狙いは彼だったようだから、ピエールをはじめ数匹の仲魔達に可能な範囲で守ってもらうよう指示してあったのだ。

 村に入ったこともあり直接張りついての護衛はできないが、今のところ問題なさそうだと聞いてほっとした。数日毎にマーリンが知人を装い訪ねてくれているそうだ。僕よりよっぽど世慣れた仲魔達の機転に、つくづく感謝の念が絶えない。

 そんなこんなで城の人に気づかれず行動するため、最近は無駄に神経を使っている。変に疑いを持たれて折角の自由時間を削られることは避けたい。

 明らかに挙動不審だっただろうが、二人とも快く見送ってくれた。その場でマリアさんに別れを告げ、ヘンリーはわざわざ城門の外まで付き添ってくれる。

 ここまででいいからと、跳ね橋の袂で振り返ったところで、ヘンリーが衛兵に背を向け声をひそめた。

 

「……参列、させてくれないか。親父さんの慰魂の儀」

 

 これを言いたくてついてきたのか。瞠目した僕を苦笑いで見遣り、ヘンリーはひらりと掌を振ってみせる。

「もちろん一般人としてだよ。俺が、個人的に行きたいだけだ」

 それは、そうだ。今ラインハットから国賓を迎えるなんてことできるはずがないし。いや、庶民に混じるのも厳しいと思う。グランウォールと城郭に護られたグランバニアは、旅人の来訪もほとんどなかった孤立した国だから。

「町人に混じって祈るのも難しいか?」

 顎に手をやり考え込むと、ヘンリーが遠慮がちに覗きこんだ。あまり気負わせないよう言葉を選ぶ。難しいっちゃどう頑張っても難しいんだけど。日程的にも、人員的にも。

「いや……どっちかというと、往復の方が。今日も人目を避けて来たからさ」

「? なんだそりゃ。軟禁状態ってか?」

 ヘンリーは軽く茶化してくれたが、わりと的を射ているのが嫌だ。情けなく笑う僕を見てまた眉尻を落とし、ヘンリーが一歩退いて肩を縮めた。

「悪い。無理ならいいよ。困らせたかったわけじゃないんだ」

「そんなことないって。ヘンリーが来てくれたら、父さんだって絶対喜ぶ」

 あの時、頬を打ってまでして諌めた王子がこんなにも立派に育ったんだ。父さんならめちゃくちゃ喜ぶに決まってる。それだけは、幼い記憶ながらも自信をもって言える。

「……来て欲しいよ。親分が居てくれたら僕も心強い。父さんの祭儀だから、僕が一般の席に行くことはできないけど」

「んなもん当たり前だろ。忙しいのに無理を通して申し訳なく思ってる。……本当に、ありがとうな。テュール」

 慰霊の儀の日取りを告げると、ヘンリーは真顔で深く頷き「前日から空けておく。お前の都合がいい時に迎えに来てくれるか」と答えた。

 城下の人々には訝しまれるかもしれないけど、パパス王の慰霊の儀となれば国全体に言触れがいく。既に報せを各地に出しているはずだ。遠方の村から来たとでも言ってもらえばいいかな、そのように提案すると、ヘンリーは一も二もなく頷いた。村人らしい衣服を用意しておくとまで言ってくれる。

 それ以上のことは、今は何もわからないから。できれば当日、迎えに来る旨を改めて約束して、名残惜しく祖国へと戻ったのだった。

 

 

 

 そういえば、至チゾットの洞窟で遭遇した魔族のことをヘンリーに伝えそびれてしまった。ゲマかもしれない、フローラ達を襲った、強大で凶悪な魔の者。

 フローラのことで頭がいっぱいで、そのことにも一瞬触れたのに抜け落ちてしまったのだ。そう思い至った瞬間、何とも言えない感慨が己の胸を駆け抜けた。長年燻らせ続けた憎悪を失念できるほど、僕は今、フローラのことが大切でたまらないんだって。

 いよいよ選定の儀を間近に控えた六月下旬の午後、城に早馬が届いた。近郊の村で病気療養していたとある司祭の訃報だった。報告書を見た瞬間、顔に出さぬよう衝撃を必死に封じ込めた。その報せには故人として、ユリウス・エベックの名が記されていたから。

 何故? 仲魔達が見張ってくれていたのに。すぐに会って話を聞けないのがもどかしい。サンチョも見舞ってくれていたはず、捕まえたかったが折悪しく彼はしばらくの間不在だった。後で知ったが、お身内の少ないユリウス様の葬儀の世話を一手に引き受けていたのだそうだ。僕も行きたかったけれど、公にユリウス様と面識がない身では参列すら無理だった。

 僕に言わなかったのは負い目を感じたからだろうか。不信感なんて抱きたくないのに、全てが終わるまで教えてくれなかったサンチョに苛立ちを感じてますます自己嫌悪する。

 この訃報があって、元々ぎりぎりで組まれていた予定がさらに変更されることになった。その次の満月、なんと慰霊の儀の前々日に選定の延期日を捩じ込まれたのである。憤懣やるかたないが、教会に突っぱねられてはどうしようもない。

 イブール教とやらがのさばる現教会の重鎮達は、政務から独立した存在として随分な権威を誇っているようだった。

 教会にも何度か足を運んでみたが、天空教を祀る聖堂に堂々、イブール教のものと思しき絵が数枚飾られている。女の絵に見えるがまさか聖霊ルビスだろうか。他所で見たものとは表情も違うし、闇に浮かぶ女性が纏う着衣は黒で塗り潰されていて、今まで見たルビス像に比べひどく重苦しい雰囲気が漂う。修道女に聞いたところ、創世神話が描かれているとのことだった。混沌の闇に満ちた太古に光を生み出した神を描いているそうだ。

 僕の偏見が過ぎるんだろうが、どうしてもイブール教とやらがまともな宗教と思えない。否、宗教というものに対して懐疑が過ぎるのかもしれないけど。そもそもまともな宗教って何だ?

 父が死んだ日も、奴隷として過ごした日々も、サンタローズが焼き討ちされたり船がいくつも沈んだりしたことも、未だ勇者が姿を現さないことも。

 足掻くことでしか越えてこられなかったから、手を差し伸べてくれるのはいつだってヘンリーやフローラ、仲魔達と周りの人々だったから。それは光の教団やイブール教に限った話じゃない。

 ……それでも神に縋らずいられないのは、人間の哀しき業なのか。己の力が及ばぬ領域を前に僕らは無力だ。

 その日は新月の雨の夜だった。全ての政務を終えて寝所へ戻ると、フローラが微妙に浮かない顔をしていた。大きく膨らんだ腹を両手で包み、大丈夫です、と微笑んでいたが、室内の浴室で湯浴みをして戻ると妻が寝台の上で背を丸め、ひどく青褪めていたのだ。

「……少し、張っているのか……痛い気がして……」

 こんな状態で少しの我慢もしないでくれ。大慌てでネルソン様を呼び、その晩は不安でほとんど眠れなかった。原因はわからないが、腹の張りが強く陣痛に繋がってしまいそうだということ。予定日まであと二ヶ月、今産まれてしまうと何らかの異常を来す可能性が高いと言われて、最早神に祈る以外僕に何が出来ただろう。夜間テラスを打ち続けた雨が止み、ひとまず落ち着いたようですと明け方ネルソン様に告げられるまで生きた心地がしなかった。

「ご心配、おかけして申し訳ありません。あなたの大事な時ですのに……」

「フローラより大事なことなんてないから。本当に良かった……今日も絶対に無理しちゃだめだよ。少しでもおかしいと思ったら、気のせいでもいいから先生を呼んで」

 こんな状態の妻を置いて仕事に向かわねばならないなんて。ヘラ女官長とクロエさんにフローラのことをよくよく頼み、執務室へ向かった。寝不足と安堵の緩みもあり、その日は勉強にも執務の補佐にも全く身が入らなかった。

 どこで聞きつけたか、教会の幹部が珍しく声をかけてきた。僕の素性を知るお偉方の一人だが、この人達がフローラの見舞いに来たことはない。早産を懸念するとともに無事なる出産を祈ると語り、商人のように愛想笑いしながら一冊の本を手渡してきた。竜神は我々を見放されたが、我が神は殿下を見守っておられますのでご安心を。あからさまな宗旨替えを促され、思わず笑いそうになってしまう。

 本は気になったので受け取ったが、少し開いたら気分が悪くなったのでそのまま執務室に放置してしまった。光という単語が頻出するあたり光の教団の経典とも取れるし、無関係の創世神話を元にした教義であるとも読める。イブールって神様の名前なのかな。そのうちラインハットに持って行ってヘンリー達にも見てもらおう。

 その三日後、昼間の執務中珍しく奥の宮へと呼ばれた。それとなく聞いておいた、乳母を務めてくださる方々との顔合わせだった。僕の素性はまだお偉い様しかご存知ないので、人選は大変難航したらしい。ただでさえ慌ただしい中、申し訳ない限りである。

 紹介された婦人はお二人、どちらもふっくらした身体つきの、優しそうな方だった。落ち着いた雰囲気のご婦人はある兵士長の奥方だそうで、三月ほど前に出産なさったばかり。歳の離れた二人目で、上に八歳の兄が居るらしい。もうお一人は一人目のお子さんを、半年前にお産みになったそうだ。

 国民の混乱を懸念し、慰霊の儀までは素性を明かせない、恐らくお二人がご想像の通りであるとだけ伝えられている。乳母のお勤めに関しても他言無用という極めて不誠実な依頼……実質は王家命令で断れなかっただけかもしれないが、お二人とも快く引き受けてくれた。寝台からひたすら申し訳なさそうにしているフローラを、ご婦人らが口々に元気づけてくださる。

 ただ、双子である旨を告げた瞬間、婦人方の顔が一瞬翳った。

 その表情の意味はわからなかったが、フローラの手前もあり、明言を避けた彼女達に訊く勇気はなかった。その意図をはっきりと知らされたのは、以降グランバニア史に長く伝えられることになる忌まわしい事件が起きた、その翌日のことである。

 

◇◇◇

 

 その日のグランバニアは怖いほどの快晴だった。昼過ぎの太陽は心なしかいつもより近く、緑繁る山腹の城を容赦なく照りつける。

 いよいよ今夜は満月、仕切り直しとなった選定の日である。ここ数代は洞窟内にも供を連れてゆくのが慣わしだったが、元々は候補者が一人で受ける王位継承の試練であると教えられた。祭礼を控えて人員も割けないし、パパス王も一人でこなしたと言われれば単独で挑まぬ道理はない。サンチョ他数人の家臣に見送られ、見届け役の神官と兵士を二人だけ連れて、人目の少ない城の裏手から出立することになった。

「前例がないという意味ではございますが、魔物の使役は禁じられておりませぬ。手が必要ならば、お好きに」

 含みある言い方で宰相に告げられたが、変に手を借りて不正を疑われたくない。一人で大丈夫ですと答えた。ここで僕が資格を示せなければ、慰霊の儀はともかくその後の立太子の儀はお流れになる。王位なんてどうでもいいけど、父さんの子と認めてもらえなかったらやはり虚しい。

「証の間までの道にはますます魔物が増えていると聞いた。気をつけて行くのだぞ、テュール」

 剣を扱えないオジロン様は護衛に守られながら何度か選定の儀を行なっている。ドリスも一度連れて行ったそうだ。実は一度、下見に行かせてもらったので中の様子は把握している。あの程度の魔物なら僕一人でなんとかなるだろう。

 出立直前に一度、フローラに会いたくて奥の宮へ戻った。

 明後日は慰霊の儀だが、身重のフローラは引き続き寝所で安静にしてもらうことになっている。

 これについても重鎮達があれやこれやと苦言を呈して、ヘラ様やネルソン様と共に説得するのが大変だった。曰く、もうすぐ臨月にもなるのであれば少しくらい動けるのではないか、先王陛下の葬儀に後継者の伴侶が列席されないのはいかがなものかと。未だ姿を見せぬ妻を公の場に引っ張り出したいのが見え見えだ。立太子の儀には必ず顔見せすると言って納得させたが、そもそもなんでここまで言わないとわかってもらえないのか。その人達は見舞いに来たこともないのだ。

「どうかお気をつけくださいね。あなたに何かあったら、私も、この子達も……」

 また不安になっているのか、部屋を出る直前フローラがか細い声で訴えた。きゅっと腹を抱えたフローラに寄り添い、白い額を優しく撫でる。

「君の夫は結構強い方だと思うよ。忘れた?」

 こう見えて、城の兵士達との打ち合いでは負け知らずなんだ。皆まだ僕の素性を知らないから、気を遣われていることもないはず。寧ろ余所者なので、手加減無用でかかってこられてすごくいい鍛錬になってる。まぁ、さすがに兵士長クラスとやりあったことはないけど。

 人と打ち合いをすること自体、昔オラクルベリーでヘンリーと稽古していた頃以来で、ピエールと研磨しあった日々が効いているのかなと思う。

「ちゃんと帰ってくるから安心して。フローラこそ、本当に気をつけるんだよ。子供達をよろしくね」

 腹の子達にも行ってきますと告げて、桜貝の唇に一度だけ軽く口づける。涙混じりの祈りを受け取り寝所を出た。これだけで力が湧いてくるんだから、我ながら単純だ。

 試練の洞窟は城の東、森の中。

 預かった地図を頼りに借りた馬を走らせた。森には魔物がよく棲みつくが、日中はあまり表に出てこないし、馬で駆け抜ける分には追い縋られることも少ない。予定通り、日没間際に到着できた。洞窟には陽が完全に落ちてから入るよう言われていたので、ここまで走り通した馬を労ったり、付き人達が待つ場所を整えたり、繋いだ木の周辺に聖水を撒くなどして暫し時間を潰した。

 この神官と兵士、職務柄仕方ないのかもしれないが、どこか温度を感じないと言うか……終始淡々としていて、申し訳ないが薄気味悪いものを感じる。

 持参のスナックで腹拵えした後、神官から聖水の禊を受けて、いよいよ洞窟に入った。

 胞子の光がちらつく洞に足を踏み入れると、時の感覚が狂ったような不思議な感じがした。なんだろう、旅の扉を潜った時に似た、重力がおぼつかない感じ。

 この前下見に来たときは、こんな雰囲気じゃなかった気がするけど。

 あまり整備されてないようで、巨大な木の根が左右の壁を突き破り伸びている。その表面に光るキノコがびっしりと生えていた。樹根を踏み越え奥へ進むと、すぐに古い石板の台座が見えてきた。持ってきたランプをかざして石板を照らし、掘られた文字を指で辿る。

 ──王たるべき者、決して争いを許すべからず。

 互いに背を向ける者あらば、王自ら出向きて正しく向かい合わせるべし。

「すべては紋章の導くままに、か……」

 のっけから気鬱な内容に思わず溜め息が漏れた。何も知らない石板にいきなり諌められた気がしたからだ。なんだこれ、仲違いしてる人がいたら仲裁しろってこと?

 僕はそこまで人格者じゃない。争い……ぱっと思いつくのは仲魔達を頑として認めない城の人達だ。別に仲魔達が嫌厭しているわけではないのだから、互いにというのは正しくない。

 それはともかく、石板の奥に四つの扉が放射状に並んでいる。次の道はこの扉のどれかなんだろうか。

 石板の周りを調べたが他に変わったところはなく、とりあえず一番近い真ん中の扉を開けてみた。中は小部屋になっていて、額に赤い石を嵌め込んだ鳥の像が二つ、鋭い眼と嘴をこちらに向けて佇んでいる。彫像に仕掛けがあるのかと思ったが特にめぼしいものはない。首を捻りつつ小部屋を出たところで、ふと床に何か描かれていることに気がついた。

 ──国章の、鳥の紋様だ。それも、かなり精巧な。

 僕が立っているところから斜向かい、一番左側の扉の前に大きなレリーフが埋まっている。足元は暗いし、石板の影になっていて気づかなかった。ランプで照らしてみたが、他の扉前に鳥の紋様は見当たらない。

 紋章の導くままに。さっき読んだ一節が頭をよぎる。まさかなと思いつつ、その紋章のある扉に入ってみた。中にはやはり二つの鳥の彫像が、今度はそれぞれ全く別の方を向いて鎮座していた。念のためまた小部屋の中をぐるぐる歩いていたら、その最奥の床に外の地面とは違うレリーフを見つけた。

 四角い装飾の中心に小さな青い石が埋まっている。フローラの瞳のようなその石に引き寄せられ触れた瞬間、ゴゴ、と重い石が擦れる音がした。すわ魔物かと構えたが、石から手を離した瞬間振動は消える。

 顔を上げた先に魔物の影はなく、ただ中央に鎮座した鳥の双像が──たった今まで互い違いの方向を向いていた鳥達が、綺麗に背中合わせで並んでいたのだった。また石板の一節が意識の淵をかすめて、無意識にこくりと喉が鳴る。

 互いに背を向ける者あらば、王自ら出向きて正しく向かい合わせるべし……

 もう、鳥像から目を離さず青石に再び触れた。ゴゴゴと台座が地響きを鳴らし、ゆっくり回転を始める。程なく台座は半周ずつ回りきり、額の赤石を互いに正面から見据える格好になった。

 こういうこと、か?

 訝しみつつ小部屋を出ようとして、気づいた。地面の鳥のレリーフがなくなってる。

 ぞ、と初めて戦慄めいたものが背筋を走った。石板はある、文字もさっきと変わらない。でも何だろう、さっきまでとは空気が違う。来た道を振り返りランプで照らすと、越えてきたはずの樹根がどこにもなかった。奥は外につながっているはずなのに、淡く差し込む太陽の光も胞子もいつの間にか見えない。

 そういえば今まで、一度も魔物に遭遇していない。

 気を落ち着けて再度、石板の周辺を眺めると、さっき入って何もなかった扉の前に国章のレリーフが出現していた。

 もうなるようになれだ。中に入り、最奥の壁際にやはり青い石を見つける。同じように石に触れ、二羽の鳥像を向き合わせた。再び小部屋を出て────言葉を失った。たった今まで存在していた石板と扉は消え失せ、中央に四本の柱と、あの鳥のレリーフが地面に大きく掘られただけの空間に変貌していたのだ。

 入口へ続いていた樹根だらけの道は石造りの暗い通路に変わっている。こくりと喉を鳴らし、一切の気配がしない暗闇に足を踏み入れた。ランプの灯火を頼りに進むと、やがて下へ続く階段が現れた。他に道がないことを確認し、慎重に階下へ降りる。

 まるで結界を抜けたかのように、さっきまで感じていた不思議な感覚が消失した。代わりに視界が拓けて、石壁がほんのり青白く発光しているように見える。入ったばかりのところで見たような、石壁を侵食する樹根や茸、雑草がところどころに伸びている。上では感じなかったが、ここには微かに風が流れているようだ。

 辺りを見回しながら数歩行くと、自分のものではない足音と息遣いがひたひた近づいてくる気配がした。咄嗟に息を殺し、背の剣柄を握る。父さんの剣は祭礼に備えて預けたままだから、今持っているのは城下で買った代用の剣だ。

 現れたのはぶよぶよと白い身体を弛ませた魔物だった。そちらも驚いたらしく出会い頭に瘴気を噴き出したが跳び退いて躱し、体勢を崩したそいつの足元を斬り払う。ぼよんと地面に倒れ込み、ぶあぁん! と喚いた魔物を放置し駆け出した。以前似た魔物と戦ったことがあって、下手に懐に入ると毒か痺れか、とにかく瘴気にやられる可能性が高いと思ったから。

 悲鳴に呼ばれて魔物が集まってくる。踊り子の魔物達は踊る前に斬りかかり、呪いの仮面を体当たりで押し退け口を貫いて、倒れた魔物達で道を塞ぎ先へ進んだ。再び動くか灰燼に帰すか、無力化できればそれでいい。今更だけど、フローラみたいに誘眠魔法を覚えておいたほうが楽かも。

 幸いそんなに入り組んでおらず、来た道を戻ることなく拓けた空間に辿り着いた。

 石段の下は横に広がる砂地に、大きな岩とさっきも見た地面の青い石がひとつ。右手には鋼鉄製の巨大な壁があって、左手には崩落したのか、大きな穴が空いている。青石ということはまた何か仕掛けがあるんだろうが、先ほどの鳥像のような怪しい物は見当たらない。

 岩の下に何かあるのかと思ったけど、押してずらせど残念ながら何もなかった。

 とすると、そこの青石に触れてみるしかないわけだけど……

 何となく嫌な予感がして辺りを見回し、細い通路に気づいたがその先にも特に気になるものはなかった。階段と、その先に水場があったくらいだ。首を捻りつつ上に戻り、壁手前の床の青石に触れた、瞬間。

 叫ぶ暇もなかった。青石のすぐそばの壁が音を立てて下がり、屈んだ僕の頭上に大量の水の塊が降ってきたのだ。凄まじい水圧で一気に流され、慌てて何かに捕まろうとしたが無理だった。濁流に呑まれ、水の悪夢が走馬灯の如く過っていく。臭い樽に入って神殿から逃れた時、船上で大鮹と戦った時。水のリングを取りに行った時の壮大な滝壺。

 もがいた腕の先で、炎の指輪がじわりと熱をもつ。

 流されたのは一瞬で、地面にどさりと投げ出された衝撃で我に返った。気管に入った水をげほげほ吐いてようやく理解する。さっきの、細い通路の階下にあった水場だ。どこに繋がっているのか、大量の水はそこの水路にうまいこと流れたらしかった。

 水を吸った外套を固く絞り、軽くはたいて上に上がった。もう全身びしょ濡れだしどうだっていいや。つまりは水門であった、鉄壁だった部分がぽっかり開いて、その先に階段と扉、手前には妙に大きな宝箱が仰々しく置かれている。いかにも罠くさいし、こんなところに証があるとも思えず無視して通り過ぎようとしたが、突如背後から聞き覚えのある声がした。

「取らんのか。いいものが入っているかもしれんぞ」

 勢いよく振り向くと、さっき来た方の通路に馬面の魔物が佇んでいる。馬面と言っても憎い父の仇ではない。数ヶ月前、王都を目指してグランウォールを彷徨っていたとき、反則級の近道を教えてくれたのがこの紅いメッサーラだった。

「え……君、どうして」

「こちらの台詞だが。碧髪のつがいと手下共はどうした。ついに見放されたか?」

 薄く笑ったメッサーラにむっとして「そんなんじゃないよ。一人で来るものだって言うから来ただけ」と言い返し、扉を開けた。しかし、言葉を交わしてしまうと放って行くのはなんとなくきまりが悪い。しかも彼は何故かさっきから、僕とそこの宝箱をじっと凝視している。

 何か意味があるのかな。そもそも彼はどうして試練の洞窟の、こんな深部にいるんだろう。

 溜め息をつき、水が滴る宝箱に向き直る。身を屈めて判定魔法をかけ、魔物ではないことを確認して手をかけた。

「ずいぶん立派な……鎧? だよね、これ」

 中には一見武器と見紛う、大きな刃を肩に誂えた装備品が格納されていた。左右に切先を向けた刃と、胸元や肩当てに埋め込まれた棘が触れることを躊躇させる。よく見れば胸当てに鳥の紋章が刻まれている辺り、王家に伝わる宝物の一つなのかもしれない。

「刃の鎧と呼ばれるものだ。なかなか年季が入っているな」

 いつの間にか近づいてきたメッサーラが、興味深げに脇から覗き込んだ。ふむ、と鼻を鳴らす横顔に凡そ悪意は感じられない。

「見ての通り、肉弾戦に於いて敵に相応の傷を負わせる。見ろ、硬度も耐久も一級品だ。数百年使われていなかったようだが、刃毀れも見られん」

「詳しいんだね。鎧に興味がある?」

 大して意味のない問いだったが、彼は気を悪くした様子もなく「元々宝物庫番をしていた」とだけ静かに答えた。

 メッサーラと呼ばれる紅い悪魔は、忠誠心が非常に高い種族なのだと魔生学の本で読んだ。かつて世界を脅かした魔王に忠実に仕えた彼らは、魔王亡き今も唯一の主人を死ぬまで信奉しているのだと。

 だから、彼が僕に従属することはないんだろうと、漠然と思っていた。

「……扱えるなら、持って行く?」

 ふと思いついて口にする。こんな大きいもの持っては行けないしどうせならと思っただけだが、メッサーラは珍しくも酷く驚いた様子で僕を見た。

「これは、下賜か?」

「いや、そんな大層なものじゃないけど……君に似合いそうじゃない?」

 僕もまた、彼の表情に驚きつつ答えた。金の肩当てに鋭い刃、深緑の革帯は彼の紅く逞しい肉体によく映えそうじゃないか。胸元の金の鳥はやや主張が強い気もするが、これまた下地が彼の翼の藍色と同じで悪くないと思う。棘に触れないよう持って彼に合わせてみた。うん、大きさも良さそう。

 うずうず鎧を見つめる彼に着用を勧め、装着を手伝った。思った通り大きさも色味もしっくり合う。肩の刃が顔に当たらないか心配だったが、首周りのふかふかな毛がちょうど良い緩衝材になってる。山羊のような大きな双角と相まって、鎧を身につけた姿はさながら威厳ある将軍のようだ。

「案内の対価としては割りに合わんな。借りが出来すぎだ」

 どうやら満更でもないらしいメッサーラが、纏った鎧を見下ろし呟いた。対価は一応、あの時ミニデーモン達を追い払ったことで済んでなかったっけ。冗談めかして「これだと迂闊に肩や背中を叩けないけどね」と言ったら、彼はまた変な顔をして僕を見る。

「あ。じゃあ、名前を教えてくれない? この前聞きそびれたから気になってて」

 あの時は飄々といなすこの寡黙な悪魔に半ば言い返しただけの形になってしまったから、やっぱり名前を聞いておけばよかったと後で後悔したんだ。ものすごく世話になったのは事実だし。

 少しだけ逡巡して、メッサーラがぽつりと低く呟いた。

 まだ証を手に入れたわけではないけど、彼が言い添えたそれはきっと、グランバニアの後継者という意味なんだろう。

「……『サーラ』だ。新たなる若き王よ」

 

 

 そろそろ行くね、と声をかけその場を後にしたが、何故かサーラが澄まし顔でついてきた。数歩後ろから階段を降りてくる彼は相変わらず寡黙で、一緒に行くとも仲魔になるとも言わない。

 邪魔する意図はないようだから、僕もそれ以上何も言わず放っておいた。

 なんとなく、キメラのメッキーを思い出す。折角心が通ったと思ったのに、明確な返事はついにもらえなかった。口の悪い、しかし身体を張って僕らを助けてくれた、敵であった魔物。

 階段を降りた先は閉塞的な小部屋で、扉は見当たらない。提燈で照らすと床に青石が二つある。ここで水攻めは怖いなと身構えたが「ただの隠し通路だ」と背後でサーラが呟いた。苦笑で誤魔化し、青石を順番に作動させる。部屋の両端の壁がそれぞれゴゴゴと音を立てて遠ざかった。

 何故サーラはこんなに詳しいんだろう。不思議に思いつつ、拡張した壁下から現れた階段へ進んだ。降り立ったそこは重厚な柱がそびえ立ち、さっきも見た鳥の彫像が正面に置かれた、ここまでで最も神聖な気配が漂う遺跡めいた場所だった。

 よく見れば鳥像前の床にはまたもや青石が二つ。ということは、これに触れて像を動かせということなんだろう。念の為ぐるりと歩いてみると、広間の両翼にも二つずつ青石が配置されている。

「誰が作ったんだろうね。これ、随分と大層な仕掛けだと思わない?」

 試しに左の青石に触れると、彫像が左に滑って奥に通路が現れた。右の石に触れると触れただけ右に動くから、つまり石の並びと同じ方向に動くんだろう。通路の奥にも鳥の像が鎮座していて、どうやらそれを退かさないと進めそうにない。

「成り立ちまでは知らんが、その青石は満月の日、紫の血の者でなければ動かせん。水門までなら誰でも来られようが、この祭壇には近づくこともできんさ」

「紫の血って……グランバニア王家のことだよね?」

 広間の両翼にあった石で動かせるかも。引き返す僕に、入り口の階段近くで待っているサーラが淡々と返答を投げて寄越した。

 紫の血という言い回し自体は座学で習ったので間違いなく、ということは、少なくとも僕の血筋についてはここまでの道のりで証明されてるってことだ。

「誰でもって、途中の変な石板のところも王族じゃないと越えられないんじゃないの? あの鳥の像、結構ややこしかったよ」

 ひとまず左端に行ってみて、石に触れたがどうやら彫像は動かない。右翼の石を見てみると、配置が他と微妙に違う。他は左右に並んでいるが、ここだけ前後に置かれているんだ。ということは、こっちは手前と奥に向かって動くのかも。試しに一度、奥の石に触れて通路に戻ってみると、思った通り彫像は柱一本分向こうへ動いていた。あと少しずらせば通れそうだ。

 この謎解きの間もサーラは特に手助けせず見ているだけだったが、先程の僕の愚問には律儀に返事をくれた。

「この祭壇が異界にでも存在すると思ったか? ヒントをやろうか。水はどこを流れた?」

 ああ、なるほど。的確な指摘に思わず唸った。溜まらず流れ去ったということは、水路が外に通じているということだ。なんなら、水門に溜まるほどの水の在処も。

 つまりあの石板はほとんど意味がなかったわけだが、だからこそここが『試練の洞窟』と呼ばれる所以なんだろう。

「……そして、最後の試練は真の王でなくば顕現しない」

 すっと鋭さを増した彼の言に、思わずこくりと喉が鳴る。

 通路の先の鳥像の陰から赤い光が漏れている。巨大な燭台に反射する、緋色の敷物と灯火の色だった。彫像を動かしてできた隙間から奥へ通ると、燭台が並ぶ長い緋色の絨毯の先に立派な祭壇が建っていた。壇上には手鏡大の、グランバニア王家の鳥の紋章が刻まれた丸い金牌が安置され、中心に埋め込まれた翠の宝石が重々しい光を放っている。

 意外にもサーラはついてこなかった。祭壇の前に一人、ほとんど無意識に片膝をつき頭を垂れる。教わった作法ではなく身体が自然に動いてそうした。暫し、まるで王に服する忠臣の如く敬意を払ってから、厳かに階段を登った。

 祭壇中央に祀られた金牌に一礼し、指をかけた瞬間。

 意識が、飛んだ。触れたところから強烈な何かが流れ込んだ。僕の中で氾濫し、そして僕の中の何かを根こそぎ吸い取ろうとする。抗えない力の狭間で何かを見た。ここに、この祭壇のずっとずっとずっと下に、得体の知れない何かが眠っているのを。

 あれは、何だ?

 言葉では形容し難い、超然とした何かだ。神なのか、果たして魔王と呼ばれる類のものなのか。ものすごく太い、最早樹と呼んでいいのかもわからないものに包まれて、それすらも今や枯れようとしている。これがグランバニアなのか、と意味もわからず直感した。まるでエストアの大地そのものが、不可思議で超然たる生き物の背であるかのような。

 ────のしるしを継ぐ者よ。

 唐突に語りかけられ、瞬間意識がこの場に戻った。静寂の中ちりちりと灯火が燃える音だけが微かに響く。たった今、何者かに低く呼びかけられたのが幻覚のようだ。ここは試練の洞窟の祭壇の前、手の中には国章の金牌。何気なく見下ろして、今度こそ固まった。

 テュール、シエル、グランバニア。

 さっきまで鳥の紋章しかなかったはず。その円い金枠の縁に、古い綴りで僕の正式な名がはっきりと刻まれていたのである。座学で習った、今ではほぼ使われることのない古語の綴りで。

 ……これが証の選定か。

 金牌を握り直し、のろのろと祭壇を降りた。

 間違いなく、僕が後継者だった。グランバニアの奥深くに息づく何者かの意思に触れた。僕はこれから改めて、父さんの跡を継ぐことになる。母さんを魔界から救い出しグランバニアへ連れ帰る、その目的と王冠、どちらを優先すべきなのか──……

「選ばれたか。王よ」

 通路を出た正面で待っていたサーラが身を起こした。うん、と頷き手に入れたばかりの金牌を見せる。「真理、真実の王か。悪くない」と彫られた名を読み上げられて、今更ながら凄まじい気恥ずかしさに襲われた。

「ところで、サーラはなんでこんなにここのこと詳しいわけ? お城の文官よりよく知ってる気がするよ」

 熱くなった頬を落ち着け、さっきから気になっていた話を振ってみると、サーラはあの小憎らしいほどの真顔で首を捻り、しれっと答えた。

「宝物庫番だと言っただろう。お前達が通ってきたあの山は元々、王家直轄の宝物庫でもあった」

「もしかして、ここに繋がってる?」

 どうやら沈黙は彼にとっての肯定らしい。済ました横顔から察したが、そもそも何故魔物が王家の宝物庫番をしてるんだ?

 そう言えば前、人と話すのは二度目だって言ってなかったか。

 そわりと好奇心が頭をもたげる。ここまで詳細に知っているからには、彼は王家の人間と関わりがあったんだろう。けど、二度目ってことはそんなに接点もなかったはず。一体何があったんだろう。聞いてみようと口を開きかけた、その時だった。

 

「悪いが、そいつを持って行かせるわけにはいかねえなぁ」

 

 野太い男の声が響いて、入り口を凝視する。

 階段から降りてきたのは身の丈に合わぬ巨大な斧を持った筋肉質の男と、頑丈そうな盾を二つ構えたカバの頭の魔物。

 男の方はグランバニアの兵士が身につける鎧を着ている。但しそんな大斧は見たことがなく、眉を顰めると、鎧男の後ろに付き従ったカバ頭が目敏く見咎め「あんたが王になるのを嫌がる者もいるってことよ」とせせら嗤った。すぐさま前の男に脇腹を突かれ呻くことになったが。

「莫迦が、余計なことを言うな」

 手下らしきカバ頭を鋭く制した男が、懐から円いものを取り出した。少しくすんだ金色の、中央に緑色の石。鳥の紋章を模して彫られたそれは、どうみても僕が持つ王家の証のレプリカだ。

「安心しな、手土産は持たせてやるさ。……それとも、あんたもここで死んでいくか? 曾祖父さんみてぇによぉ」

 何故それを。サーラですら知らないはずの機密事項を仄めかされ一斉に血の気が引いた。知っているのは本当に数人の重鎮だけのはずだ。

「ま、殺してもいいって言われてるし、なぁ」

 カバ頭と額をつきあい、男がにやにやとこちらを眺める。明らかに舐められている。どうやら勝った気でいるように見えるのは、こいつが王宮にいて僕の実力を見知っているということか。

 黙って剣を構えた僕の背後で、サーラが何か囁いた気がした。瞬間、空気がざわりと不穏に揺らぐ。咄嗟に神経を研ぎ澄ましたのと、目の前のカバ頭が突如泡を吹いて倒れたのはほぼ同時のことだった。

 

「な、おい……ヒッポ⁉︎ てめえら、何しやがった‼︎」

 

 割れるような地響きと共に盾とカバの巨体が崩れ落ちた。

 何って、僕にもわからない。瞠目し言葉を失う僕を尻目に、刃に包まれた山羊角の悪魔が一歩、前に進み出る。

「この程度の死術に耐えられんとはな。人間の真似事もいいが、鍛錬が足りていないのではないか」

 死術、────……

 それは、禁術と言われる死の魔法だった。生命活動の一切を強制的に停止する、ザキと呼ばれる恐ろしい魔法。

 実際に見るのは初めてだ。彼に対して感じたことのない畏怖が急速に湧き起こる。なんの躊躇もなく、サーラは言霊ひとつであのカバ頭を死に至らしめたのだ。

「貴ッ……様ぁ……!」

 ぶるぶる震える男の肩がむくりと膨らんだ。両腕、胸とぐんぐん厚みを増した肉体は金属製の鎧を弾き飛ばし、その肌は泥のような茶色に変わっていく。改めて仁王立ちしたそいつは体格も背も僕よりずっと大きかった。やはりこいつも魔物だったのか。

「まとめてあの世へ送ってやる。覚悟、しろッ‼︎」

 片手で振り上げた大斧が一瞬で下ろされる。すんでのところで躱したが、更に刃を返され外套が巻き込まれた。しまったと思った時には遅く、バランスを崩した頭上に再び斧が迫った。咄嗟に太腕を蹴り上げ、がら空きの腹部に斬撃を加える。だが見た目通り硬いこの斧男には、そう易々とダメージが通らない。舌打ちした瞬間、斧男の顔に火球が直撃した。死角からサーラが放った炎魔法、メラミだ。

「てンめぇ……熱いだろうがァ……ッ!」

 怒りのあまり、焼け焦げた片眼をぎょろりと光らせて斧男がサーラに狙いを定めた。尚も冷静にサーラが魔法を撃つが、奴は火球をものともせず斧を片手に近づいていく。三、二、一。間合いが詰まって大斧を振り上げた、その隙を狙って後ろから首目掛けて斬りかかった。苛立ち振り向いた斧男の頭にブーメランが直撃する。こっそり仕込んで投げた、よく研いだ刃つきのブーメランだ。

「雑魚どもが、ふざけやがって……」

 サーラもうまく躱してくれたが、斧男が腕を振り回す方が早かった。刃が山羊角に掠めて欠け飛び、剛斧が周りの壁を抉る。こちらに意識を向けたいが、怒り心頭の斧男は猛獣の如く手当たり次第に柱を砕いていく。僕の斬撃も中々致命傷を与えるまで至らず、終いには斧を受け流した剣も砕けて折れた。

「邪魔だぁッ!」

「サーラ‼︎」

 怒号と悲鳴が交錯した。サーラの頭上を大斧が勢いよく薙ぎ払う。ごきりと嫌な音がしたが、ぐぁ、と呻いたのは斧男の方だ。

 こともあろうか、角を斬らせて懐に潜り込んだサーラがその筋肉質な腕を斧男の胴体に巻き付かせたのだ。装着したばかりの鎧の刃がみしみしと喰い込み、斧男がついに斧を取り落として苦悶の声を上げる。

「一度刺さるとなかなか抜けんぞ。早く離れろ」

 角から青い血を流し、わずかに顔をしかめるも薄く笑ったサーラが捕えた腕に更に力を篭める。なんという捨て身の攻撃か。

 振り払おうとしたが叶わず、斧男がサーラを蹴り飛ばそうとした。その隙にもう一度、太い首の付け根に折れた剣を捩じ込む。緑の血が飛沫をあげ、よろめいた斧男が尻餅をついて、やっとサーラが離れたところにブーメランの刃を直接、見えている片眼に突き立てた。いよいよふらついた魔物が取り落とした斧を拾い、獣の咆哮を上げて僕らに掴みかかる。

 腕を振り上げたその瞬間にサーラと共に飛びかかった。僕の思考を読んだような鮮やかな共闘だった。勢いで頭の上に乗り上げ、そのまま腕ごと全体重で魔物を押し倒す。斧の刃が頭を割るよう、全力で下へと押し込めて。

 そうしてやっと、この祭壇前の死闘が終わった。

 床に広がっていく緑色の血溜まりを見届け、ようやく息を吐いた。そこかしこに青緑の血が飛散し、僕もいつの間にか数箇所抉られている。あの猛攻をよく躱せたと思う。

 斧男が斃れてすぐ、サーラに駆け寄り全快魔法を施した。欠けた部分までは無理だったが、青い血を流していた山羊角は幸い完全に折れてはいなかったようで、無事魔法でくっついた。

「もう良い。王よ、そろそろ行った方がいい」

 手持ちの水で顔の血を拭ってやり、他の創傷も大方治癒したところで、サーラの方から施術を止めた。

「あの城には数代前から、ヒトに変幻して惑わす魔物が入り込んでいるぞ。いや、正しくは秘宝を使われていると言うべきか」

「秘宝?」

 問い返すと、彼は神妙な顔つきで頷く。

「変幻の杖だ。解呪の鏡があれば術を解けるが、生憎あれはこの大陸にない」

 鏡ってまさか。思いきり心当たりがあるのだが、聞き返す間もなく再度サーラに背を押された。誰もいない進路を尚も警戒しつつ、彼が口早に告げる。

「早く戻れと言いたいところだが、念の為この辺りの青石の護りは全て元に戻していけ。入り込むこと自体が容易なのはよく解っただろう」

「……サーラは、一緒に来ないのか?」

 祭壇周りの彫像を動かし、階段を上がって小部屋の壁も元の位置に戻した。水門を閉じたところで地上に戻るようサーラに急かされる。石板の間は、上から入れば全てがまた元の位置から始まるので大丈夫なんだそうだ。

「俺の手が必要なようには見えんが、使いたければ喚べ。今しばらくは祭壇の護りを引き受けてやる」

 それってもう、仲魔になってくれてるってことかな。

 さっきの共闘も然り、ちゃんと訊きたかったけれどそれも野暮な気がして、また本当に急いだ方が良いらしいこともわかったから、もう一度だけ礼を言ってその場で脱出魔法を唱えた。今度、落ち着いたらちゃんと迎えに来よう。そう心の中で誓いながら。

 洞窟の外はとっぷり暗く、満月が煌々と森を照らしていた。月の高さからして日付を回ったあたりだろうか。何故かひどい死臭がして、ぼんやり抱いていた疑念が真実に近いものであると知る。繋いでいた馬はその場で惨殺されていた。魔物に食い荒らされたのか、ほとんど原型を留めていない。表で待っているはずの神官も兵士もどこにも見当たらない。

 さっきの斧男とカバ頭が、城から同伴してきた二人だったんじゃないか。

 それが意味するところに少しだけ思いを馳せたあと首を振り、王家の証をもう一度確かめてからルーラを唱えた。

 酷く不穏なことが起こっている。正統な王が王位に就くことを阻もうとする者がいる。早く戻らなくては、足元を掬われる前に。帰ったらすぐ叔父上とサンチョに話そう、そう思った僕を待っていたのは、寝静まった城の奥深く、激しく騒然とする奥の宮の面々だった。

 

◇◇◇

 

「……夜は城に入れない? 僕の顔、わかりますよね?」

 ルーラで飛んで戻って十数分。何故か僕は城門で延々押し問答をしていた。鉄壁のガードで夜明けを待てと主張するのは顔見知りの衛兵達だ。

「あー、だから、宰相様のお達しなんだ。最近夜は物騒だから、日が暮れたら絶対に門を開けるなって」

「でも、急ぎの遣いだったんです。早く報告しなくちゃいけないんで、せめて取り次いでもらえませんか?」

「そうは言っても……もう夜中の二時だぞ。今夜はヴェントレ卿のお屋敷に泊めてもらいな。あんたお知り合いなんだろう?」

 一般の兵達は僕の素性も選定の儀のことも知らないので説明のしようもないが、そのサンチョ宅を訪ねても留守だったのだ。とにかくごね倒して城内までサンチョを呼びに行ってもらった。降りてきたサンチョは凄まじく憤慨していて、罪のない衛兵達に怒鳴りかけたところを慌てて抑えた。中に入るなり手首を掴まれぐいぐいと上に連行される。

「ああ良かった、坊ちゃんがお戻りくださって……大変なんです、坊ちゃん。あああ、その前によくぞご無事で! 選定の儀はつつがなくお済みになりましたか?」

「うん、ちゃんと証も取ってきたよ。それより、大変って何があった?」

 懐に忍ばせた金牌をちらりと見せると、サンチョは小さな瞳をみるみる潤ませた。だがすぐ表情を引き締め直し、湿った目許もそのままに声をひそめる。

「ご就寝前に、フローラさんが破水して……ああ、えっと破水というのは、お子様方を包む膜が破れてしまったそうなんです。なので今急いでお産の準備をしていて、もう、大変なんですよ!」

 想像以上に最悪な事態で一気に血の気が引いた。大急ぎでオジロン陛下に帰還の報告をして、魔物の返り血に驚かれるのも構わず奥の宮の寝所に駆けつけた。もう、試練の洞窟の中で起こった一部始終も、同伴していった神官達が行方不明であることも頭から吹っ飛んでしまっていた。すぐさま寝所に飛び込みたかったが、帰還の報せを受けて待ち構えていたネルソン様が扉の前で僕を止めた。今正にお産が始まっているから、入室は控えてほしいというのだ。

 どうやらかなり良くない状態らしい。場合によっては、腹を切り開いて赤子を取り出す必要さえあるという。

「元々早くお生まれになるだろうとは申し上げておりましたが、正直に申しますと想定よりだいぶお小さくていらっしゃいます。本来ならもう少し長く、お腹に留まってくださるのが望ましかったのですが……」

 半月前にも聞いた説明が現実感を伴って耳を通り抜けていく。そんな、あの時はなんとか収まってくれたのに。けれど侍医の話では、一度破水してしまったらもう産む以外に方法がないという。破れた孔から悪い病が入り込んでしまうと、母体も、赤児も救えない可能性が高まると。

「とにかく、産声を聴けるかどうかが分かれ目になるかと」

「産声、…………」

 まだそうなったわけではないのに、絶望感で目の前が真っ暗になる。

 どうして。あんなにも安静にして、自分の自由は全て封じて、子供の為に頑張ってくれていたのに。

 これも僕の所為なんじゃないか。押し込めていた後悔が僕の思考を支配しぐるぐる回りだす。僕が気づかず、妊娠初期に無理をさせてしまったから。山歩きをさせて、出血にも気づかなかったから。凄まじい力を持つ魔族と対峙させたから、排他的な祖国で要らぬ心労までかけたりしたから。

「呼吸を司る器官が未熟ですと、お生まれになってすぐ……」

 ネルソン様が言葉を尽くしてくださる説明も、うまく頭に入ってこない。

 きっと僕は酷く情けなく項垂れていたに違いない。辛うじて頷くと、ネルソン様が深い息をつき一礼した。これ以上話せることもないということだろう。

「最善を尽くします。殿下はどうか、皆様と共に本殿にてお待ちください」

「外、で」

 扉の中に戻ろうとした侍医を呼び止めたのは、もう本当に、本能的な衝動だった。

「あの……せめてここで、この、部屋の外で待っていてはいけませんか」

 思わず腕を掴んでしまい、ネルソン様が目を円くする。サンチョも驚いたようで、ぼっちゃん、と僕を嗜めてくれた。

 わかってる、今彼を引き止めることはお産の妨げにしかならない。説明は聞いたのだからあとは指示通り待った方がいいって。

 でも。

「すみません、やっぱり、落ち着いていられなくて……」

 ああ、くそ。今は全く自分を律することができない。

 本当は。本当は、すぐ側で手を握っていてやりたい。出血したなら精一杯治癒魔法をかけて、痛むなら共に耐えたい。

 けど何の知識もない、素人の僕が中にいても邪魔なだけだって、必要な処置がそれで遅れたら大変だって、それくらいのことはわかるから。

 君の一番近くで、祈ることだけ許してほしい。お願いだから。

「……ほんの少しでよろしければ、お会いになられますか」

 凛とした婦人の声が僕の背を押した。顔をあげると、ヘラ女官長が静かに寝所から出て来られたところだった。入れ替わりにネルソン様が頭を下げ、中へ入っていく。お帰りなさいまし、と一度綺麗な礼を見せた後、彼女は僕の返事など聞かずともわかるというようにきびきびと指示をくれた。

「少し落ち着かれて、その次の陣痛が強まるまでですよ。さ、そちらの服はお着替えなさって、御身も清めていらっしゃいまし。我々には何ともなくとも、御子様方には少しの病も毒なのです」

 

 

 それから近くの客間で急ぎ湯を使い、清潔な服を用意してもらって、再び寝所へと戻った。

 口許に人差し指を当て、女官長が静かにと目配せする。頷き、開けてもらった扉の隙間に滑り込んだ。いつもの広い寝台の上、微かに呻きながらフローラが横たわり懸命に息を吐いている。その傍らに産婆を勤めてくださる高齢の修道女と、クロエさんが居て何やらぼそぼそ声を掛け合っていた。全員がほぼ同時にこちらに気づき、修道女とクロエさんが頭を下げてくれた。フローラは腹を抱えた体勢のまま、懸命に頭を持ち上げほっと表情を緩ませる。

「……ああ、テュール、さん……良かった……」

 あんなにも苦悶していたというのに、僕の顔を見た瞬間安堵の涙を浮かべた妻に、他に何を感じられるというんだろう。

 愛しいよ。愛しい気持ちが溢れてどうしようもない。何もしてあげられない自分が情けなくて、歯痒くて仕方ない。

「ど、どこも、怪我してません、か」

「僕のことなんていいんだよ。フローラ……頑張って。これしか言えないけど、頑張って……!」

 精一杯頑張ってくれてる妻にこれしか言えないなんて。思わず駆け寄り手を取って、縋りついてくる華奢な君に頬擦りした。一瞬だけぎゅうっと抱きしめてすぐ放す。腕の中、額に脂汗を滲ませた君が、あまりにも健気に微笑んだ。

「は、い」

 やわらかく花開く微笑みが眩し過ぎて、言葉を失う。

 この一瞬、まるでその儚い命を燃やし、しなやかに咲き誇っているようで。

「もうすぐ、あえ、ますね。待っていて、ください、ね……」

 気丈にそこまで囁いて、フローラがふっと息を詰め背中を丸めた。微かに震える腰をクロエさんが摩り、女官長はいつの間にか側に立って「そう、お上手ですよ。ゆっくり息を吐いて、力を抜いて……」と優しく声をかけている。ふー、ふー……と細い息が静かに響き渡って、その間僕は完全に邪魔者でしかなかった。

 これから産道の開き具合を見るからと、表で待つよう修道女に促された。「まだ三割ほどしか開いていませんので、数時間はかかると思われます」とのことだった。あとはもう僕に出来ることなどなく、フローラを囲む皆様に黙って頭を下げ、静かに部屋の外に出た。

 僕が出ていくのを見計らっての会話だったので、そのやりとりが耳に入ることはなかったのだけど。

「……証はテュール様を認められたとのことです。お一人で、ご立派に為されましたよ」

 じわじわ強まる陣痛の波に耐えたフローラに女官長がかけた一言が、彼女を奮い立たせたことを僕は知らない。

「でしたら、今度は私が頑張る番……、ですね」

 

◆◆◆

 

 それから何時間が経っただろう。

 城に着いた時はまだ深夜だった。寝所の中は何度か騒然とし、その度腰を浮かせて扉の外から聞き耳を立てることの繰り返しだった。やがて空が白らみ、静まり返る廊下に朝の訪れを告げる鳥の声が遠く響く。

 途中サンチョが軽食を持ってきてくれたり、隣で風を扇いでくれたり、僕の気を紛らわそうと話しかけてくれたりしたけど、あまりよく覚えていない。ただひたすら、神なのか精霊なのか、人ならざる何かに縋り祈りを捧げ続けた気がする。

 明日が父の慰霊の儀なので何かと呼ばれていたようだが、今は大事だからとサンチョとオジロン様が止めてくれていたらしい。合間に少しでも寝るよう勧められ、実際座っているとうとうとすることもあったがその度眠気を振り払った。フローラだってきっと眠れていないのに、たった今も頑張ってくれているのに、僕一人休めるわけがない。

 守ってくれよ。頼むから一度くらい、僕の大切なもの達をどうか慈しんでくれ。

 見ず知らずの薄情な神に何百回目かの祈りを捧げたところで、一際高い音が扉の内側から響いてきた。

 ……ぁ、ああああん、あ──、あ────……

 初めは微かだったそれが、次第に大きく強くなっていく。込み上げる熱いものを必死に飲み下し、指を組んで祈り続けた。産声が聞けるかどうかが分かれ目だって言ってたけど、まだ一人目なんだろうから。

 どうか、どうか、どうか二人とも無事で……!

 それからの十数分、僕にとっては永遠の如く長い時間だった。ようやく寝所の扉が開いて、衝動的に立ち上がり現れる人を待つ。果たして顔を覗かせたのは、すっかりくたびれた様子の、しかしその顔は大変晴れやかなネルソン侍医だった。

「奇跡です。殿下、あのホイミスライムが、奇跡を……!」

 感極まった様子のネルソン様が、血のついた白衣もそのままに叫んだ。部屋の中からは絞り出すような赤児の泣き声に重なってもう一つ、ふぎゃふぎゃとか弱い音が聴こえてくる。もう、促されるまま茫然と中に入った。寝台の上、掛布をかけられ脱力していたフローラが僕に気づいて優しく笑った。

 

「……テュール、さん」

 

 愛しい、愛しい鈴の声。

 たった一言呼ばれただけで、ずっと落ち着かなかった胸の奥が不思議なほど凪いでいく。

 敷布には長い碧髪が海のように広がる。彼女の傍らには産まれたばかりの命がふたつ、そして、チェストに隠していたホイミンも何故か一緒に寝かされていた。僕の目にもはっきりわかる。眠るホイミンから放たれる癒しの光が、双子達をほんのり包んで繋がっているのが。

「おめでとうございます。大変お健やかな、男女の双子のご兄妹であらせられます」

 ヘラ女官長が恭しく礼をとり、寝台に寝かされた双子を示してくれる。真っ赤な顔にちぎったパンのような小さな手。ほとんど同じ大きさで双方そっくりだけど、髪の色だけが微妙に違った。片方は僕とフローラの髪を混ぜたような少し暗めの蒼色で、もう片方は母親譲りの明るい碧色だ。

「先にお生まれのお子様が、王子殿下でございます。次にお生まれになったのが王女殿下でございますね。お二人ともお小さくていらっしゃいますが、大変健やかでございますよ」

 上機嫌なヘラ様が満面の笑みで説明してくださり、その傍から覗いたネルソン様は珍しく早口で捲し立てた。

「ご覧の通り、ホイミスライムの魔力が今もお子様方を守っておられます。早産でございましたので、お身体の発達が間に合わなかった部分を補っているものかと。お出ましの当初はお泣きにならず、我々も覚悟したのですがその瞬間、部屋に光が満ちました。チェストの中にいたホイミスライムから癒しの光が発せられましたのです。慌てて表に出し隣に寝かせましたところ、王子殿下がついに大きな産声をあげられたのでございます。まこと奇跡の瞬間でございました……!」

 息継ぎもせず大声で語る侍医の興奮が伝わったのか、赤子達がふぁあん、あ──! と揃って身震いし泣き出した。ヘラ様がネルソン卿をやんわりたしなめたが、いいえ奇跡なのです、このような御業をこの目で見届ける栄に浴するとは! と彼は尚も言い募る。いよいよ強制的に侍医を黙らせたヘラ女官長が、美しく腰を折った。

「フローラ様もお子様方も、またホイミスライム殿も、誠によくお努めになられました。大変ご立派なお産でございました」

 ホイミン。本当に、ずっと守ってくれていたんだ。

 長いこと停滞していたホイミンの魔力が巡っている。子供達がお腹の中にいた時より、あの懐かしい生命力をはっきり感じる。ただ、なんとも言えない違和感がぼんやりあった。首を振り、思考を振り切る。今は考えない、きっとホイミンは、赤子達が十分に育てば目を覚ますだろうから。

 ありがとう。君と話したいことがたくさんあるよ。

 女官長の脇にクロエさんと修道女が控え、それぞれ深いお辞儀と祝辞を述べてくれた。胸がいっぱいの僕は言葉にならず、黙って深く頭を下げるしかできなかった。ようやく頭を上げると、皆様一様に弱りきったお顔をなさっている。そうしてぎごちなく愛想笑いを浮かべては、各々残った処置や片付けへと戻っていった。

 改めて妻の方を向き、緊張と共に彼女を呼んだ。

「……、フローラ」

 声に出して初めて、自分が泣いていたことに気づく。

 なんだ、ちゃんと泣けるじゃないか。父さんを喪ってからほとんど枯れたきりだった涙が幾筋も頬をつたっていく。喉を灼く熱い感情の塊に翻弄され、跪いて妻の手を握った。フローラも目尻に涙を滲ませ、慈しみ深く僕を見上げる。

「私、あなたにふさわしい女に……なれましたでしょうか」

 そんなの、僕には勿体ないひとだって何度も言ってるのに。

 答える代わりに身を屈める。そっと額に掌を戴き「僕の方が不安で仕方ないよ。君に相応しい男になんて、王冠くらいじゃ全然足りる気がしない」と囁くとフローラが困ったように微笑んだ。その表情があまりにいじらしくて、華奢な手の甲と、我慢できず身を乗り出して唇にも深く口づける。

 淡くさざめく蒼の指輪が、清らかな光を仄かに灯らせた。

「さ、お父様。少し抱いてご覧になりませんこと?」

 人目も憚らず睦み合う僕らに苦笑をこぼし、女官長がそっと息子を抱き上げた。頭をしっかり支えるよう教えられ、その通りに腕を形作って、ヘラ様から恐る恐る息子を預かる。

 小さい。ものすごく、小さい。フローラが手ずから縫った産衣が大きすぎるくらいだ。スラりんと同じくらい小さくて軽くて、うっかり強風に煽られたら飛ばされそう。

「……こんなに小さいんですか……」

「ええ、早くお生まれになりましたから。ですが、あっという間に大きくなられますとも」

 女官長は当たり前のように笑って言うが、この子達が僕らみたいに大きくなる姿が全く想像つかない。それでも、腕の中の息子は小さな体をこれでもかと脈動させ、確かな鼓動と温もりを伝えてくる。

 今度は娘を抱いたクロエさんに促され、息子をそっとフローラの胸に乗せた。うつ伏せで抱かれた彼はふぎゃあと一声強く泣いたが、母に撫でられると大きく口を開け、ふわぁあと気持ちよさそうに欠伸した。その一部始終を見てしまい、フローラと共に思わず噴き出す。

「なんか、大物になりそう」

 呟くと、フローラも心から幸せそうに頷いた。

「お名前はもうお決まりですか?」

 空いた腕に今度は娘を抱かせてもらって、赤いほっぺを優しく撫でていたら、女官長が名付けを問うてくれた。

「……はい」

 フローラと僕、どちらからともなく微笑みを交わし、以前出し合ったあの名前を迷いなく口にする。

「テュールさんの温かさと優しさ、強さ、そして導きの光を太陽神になぞらえて、男の子には『リオ』と」

「彼女が教えてくれた、絶望の暗闇でも決して消えない希望を月神になぞらえて、女の子には『ルナ』と」

 練習したわけじゃないのに口上がぴったり嵌った。また朗らかに笑い合った僕らを見つめて、女官長がしみじみと目許を拭う。

「……今のこの瞬間を、パパス様とマーサ様のお目にかけとうございました……」

 いつの間にか部屋の隅に居たサンチョも、ハンカチをびしょびしょに濡らしながら激しく頷いている。

 どうやら無事産まれた報せを受けて駆けつけてくれたらしい。オジロン様にご報告だけ致しましょう、そしたら少しお休みになって構いませんからねと、なんとか涙を拭ったサンチョが僕を謁見の間に引きずっていく。待ち構えていたオジロン様に無事出産を終えた旨を報告し、慶びのお言葉と労いをいただいて、少しだけ明日のことを打ち合わせたあと寝所へ戻った。詳しいことはこのあとネルソン様と女官長がお話しくださるそうだ。ありがたい。

 部屋の中には新たに赤子用のベッドが設えられ、そちらに双子とホイミンが寝かされていた。フローラもやっと立ち上がれるようになったらしく、ベッドの柵にもたれて幸せそうに眺めている。その背を後ろからそっと包み込み、二人で歓びを噛み締めながら子供達の寝顔を見守った。

 ホイミンの柔らかい触手を左右から赤子が握っている。生まれたばかりなのにこうやって握れるんだな。小さい指にちょんと触れるとぴくっと震えて握り直したりして、なんとも可愛く稚い。

「本当にありがとう。お疲れ様」

 抱きしめて頬擦りしたら、至近距離の君が腕の中から僕を振り仰いだ。「さっき、ルナが少し目を開けたんです。あなたにそっくりな、深い黒と紫紺の瞳で……嬉しくなってしまいました」と、少しはにかみながら伝えてくれるフローラが本当に愛しくてたまらない。

「ずっとご覧になっていたいお気持ちはわかりますが、少しでもお休みいただきませんと。殿下からも勧めて差し上げてくださいまし。産後の母親はこれからが大変なのですから」

 それもそうだ、これからいくらでも見られるんだから。今は出産という大仕事を終えたばかりの妻を労らないと。今更ながら妻をふわりと横抱きにし、寝台へ向かった。驚いたフローラが咄嗟に僕の首に抱きつく。ああ、幸せ過ぎる。

「実は僕も寝てないから、フローラと一緒に夕方まで休んでいいって」

 ついさっきまでお産が行われていたベッドで眠るのも変な気がするけど、フローラと寝られるなら場所なんてどこだっていい。報告に降りている間に全部入れ替えてくれたらしく、寝台には洗いたてのシーツと掛布が引かれている。そこに再び妻を横たえ、自分もちゃっかり隣に潜り込んだ。

 思いがけないご褒美と言わんばかりにフローラは目を見開き、次いで喜び溢れる鮮やかな笑顔を見せてくれた。

「わたくしとクロエのどちらかが常におりますので、お二方とも安心してごゆっくりお休みくださいまし。特に殿下は、明日慰霊の儀を控えていらっしゃいますから」

 女官長のお言葉にありがたく甘え、愛しい妻を腕に閉じ込め目を瞑る。

 思った以上に疲れていたらしく、その直後の記憶はない。

 ただ、その日の彼女は懐かしくも優しい花の香に少しだけ独特な母親の香りが混ざって、深い眠りの中、まるで赤子に還って揺蕩うような安らぎを僕に与えてくれたのだった。

 

 グランバニア暦七一五年七月廿五日、午下。

 運命の双子が、グランバニア王城にて産声を上げた。

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