Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】 作:サクライロ
王家の証を持ち帰るなり妻の早産を言い渡され、緊迫した中で迎えた慰霊の儀前日。
無事出産を終えた最愛の妻と抱き合い、日中は陽が傾くまでぐっすり寝かせてもらった。夕刻、目覚めた僕を待っていたのは保留していた祭儀の前日確認と打ち合わせの数々。生まれたばかりの我が子らを愛でる暇も妻を労う間もなく、泣く泣くサンチョに連行され、日付が変わるまで拘束された。
城下も寝静まる夜更けに寝所へ戻り、当然眠っているものと思って静かに扉を開けたが、予想に反しフローラは女官長と共に起きていた。というか扉の前に珍しく衝立が置かれていて、不思議に思いながら退けたところ、フローラが今まさに胸部を曝け出したところだったのである。
「あ、お、おかえりなさいまし、テュールさん」
慌てて胸を隠したフローラが呼びかけてくれたが、この状況を飲み込めない僕はうん、と作り笑いで固まってしまう。彼女の前に跪いた女官長が肩越しに振り向き、冷ややかに黙礼した。
「あ、あの……ここで授乳しても大丈夫でしょうか?」
「え、もちろん。ごめん、僕も何か手伝えることある?」
寧ろこちらが狼狽えてしまったが、フローラは久々に真っ赤な顔でぶんぶん首を振る。可愛い。ついでにヘラ様の目が据わっている。怖い。
「フローラ様がお気になさらないのでしたら……」
ゆらりと立ち上がった女官長は腕に赤子を抱いている。もしやと思うより早く一際鋭く睨まれた。あ、これは久々のお叱りだ。
「こちらの御寝所はお二人でお使いいただいております。奥様は常日頃こちらでお召替えなどなさっておいでですから、以前からご入室の際はノックを戴けるよう重々お願い申し上げております。それとも殿下は、フローラ様に別室にてせよと仰せでございますか」
ここぞとばかりに懇切丁寧、慇懃に諭される。寝所の扉には真鍮製のノッカーがちゃんとついているのだが、どうにもそっちを鳴らす習慣がなく……つい手の甲で軽くココンと叩いて開けてしまうのだ。城の扉はどれも分厚く、手でノックしたくらいじゃ音が死んで聞こえない。返事も当然聞こえない。つまり、まずノッカーで都合を窺い、中から開けてもらうのを待つのがこの場合の正解なのである。
いや、寝てると思ったんだ……などという言い訳がこの場で通用するはずもなく。
「申し訳ありません。以後本当に気をつけます」
「まず衝立をお戻しいただいて」
「あっはい」
なるほど授乳の為だったのか。確かに乳を出している状態でいきなり開けたらまずいよね……というか、僕の無神経は織り込み済みだったんですね。ノックなしで入って更には衝立まで退かすとか、どこまでも要らんことしかしない夫である。不甲斐ない。
「何度も吸っていただくことで、少しずつ母乳が出るようになってまいります。お母様もお子様も初めてでいらっしゃるのですから、まずは気負わず、お互い存分に練習をなさいませ」
夫は空気と言わんばかりに目もくれず、女官長がフローラに授乳指南している。どきどきしながらつい盗み見てしまうが、妻公認のお陰かそれ以上叱られることはなさそうだ。どうやらうまく飲ませられないらしく、フローラが自らの乳を持ってリオの唇にちょんちょん当てている。口に入れてもすぐ離れてしまい、仕舞いにはほぎゃあ、ほぎゃあと大声で泣き始めた。釣られてルナまで泣き出して、ぎゃんぎゃんこだまする赤児達の叫びを聞きながら、フローラは肩を落とし自信なさげに呟く。
「私のは小さいですし、ほとんど表に出ていませんから、この子達もうまく吸えないのではないでしょうか」
「これからでございますよ。お早く産まれた分、体力がついていらっしゃらないのかもしれませんね。初めからたっぷり飲めるお子様はおられません。お乳の方も、しばらくすればびっくりするほど吸いやすい形になってまいりますから、ご覚悟なさいまし」
ちょっとそれは聞き捨てならない。いや興奮してる場合じゃないけど……真剣な女性陣を前に何を考えてるんだ僕は。しかも、フローラは思いっきり項垂れてるというのに。
罪悪感からそそくさと背を向けた僕に、女官長が目敏く声をかけてくる。
「テュール様もお早く寝衣にお着替えあそばして。先におやすみくださって構いませんが、いかがなさいます?」
この二重唱を聴きながら寝ろと仰る。それはそうと、初めから戦力外通告されるのもなんだか悔しい。「何か手伝えること、あります?」と問うと少し驚いた顔をされたが「おいおいお願いすることに致しましょう。明日に備えて、今宵は早くおやすみなさいまし」と逆に就寝を促されてしまった。
フローラも、今度はルナに一生懸命乳を咥えさせていたが、あとは任せて寝るよう諭され、申し訳なさそうに頷いた。
赤児の育て方については事前に聞いていたけど、本当に時間を問わず授乳するんだな。この後も二、三時間ごとに乳をやらなくてはならないらしい。産後の母親は大変だと言った女官長の言葉が、重く意味を持ってのしかかってくる。
「以前お話ししました通り、お乳が落ち着かれるまではお子様方もこちらでおやすみいただきます。夜半たびたび泣かれるかと思いますが、フローラ様はご無理のないようお付き合いくださいまし。別室に乳母も待機しておりますのでご安心を。とにかくこまめに授乳することが、お乳をよく出す秘訣でございますから」
どんな神業か、女官長は説明しながら鮮やかに双子を寝かしつけている。頼もしすぎる。僕も抱っこしたかったけど、寝た子を起こすなと睨まれたので大人しく寝る。明日の朝、少しだけ抱かせてもらおう。
昼と同じく、女官長はこのままずっとついていてくださるという。一体いつ寝ていらっしゃるんだろう……とふと不安になったが、クロエさんやサンチョとも交代しながら休息をとられると聞き安堵した。乳母だけでなく、この部屋に入れる女官を数人増やす予定だとも。
産まれたら終わりじゃない。まだちょっと実感が薄いけど、もう子育ては始まってるんだ。僕ももう『父親』なんだよね。
なんだか変な感じがする。ふわふわ覚束ないというか、夢見心地というか。これまでの人生が一区切りして、何かが大きく書き換わっていく感じ。僕自身の血に連なる存在を得て、僕が僕だけの主であった日々は真実終わりを告げたのだ。
フローラと結婚した時感じた、自分一人ではなくなる実感。初めてサラボナの別宅で目覚めた夕刻、左手に指輪を見つけた瞬間湧き上がった感慨はきっと一生忘れない。
部屋の隅に陣取ったヘラ様はすっかり気配を消していらして、僕も疲れがとりきれてなかったから、フローラと寝台に潜り込んだらすぐ眠りに落ちてしまった。その後、夜中に数回双子が泣いて都度フローラは起き出していたそうだが、大変情けないことに、僕は一切気づくことなく朝まで爆睡してしまったのだった。
◆◆◆
生まれたばかりの我が子達と初めて眠った夜が明けて、いよいよ今日は父さんの慰霊の儀が行われる。
城下にある教会の聖堂に、今日は父の肖像画が飾られている。僕が見たことのない、王家の礼装に星形の王冠を身につけた威厳ある国王の姿だ。今日の為に新たに描かれたものだというが、彼は僕が一歳にもならない頃出奔してしまったから、この絵の父さんは記憶より随分若々しい。
赤ん坊の僕を連れて旅歩いて、さぞ苦労したことだろう。
その立派な絵の前に祭壇が設けられ、今日は城の外から集まった人々が朝から続々と献花に訪れている。
前王パパスの戦死が伝えられ、国民は一様に喪に服した。
国中に掲示されていた、父さんと僕の安否を求める貼り紙も撤去された。城下の道具屋前の壁には王妃に関する貼り紙だけが虚しく残されている。魔界に連れ去られたという父の遺言を信じるなら、彼の消息より母さんの手がかりを得ることの方が雲を掴むような話だろうが。
儀式は午後、夜の入り頃から執り行われる。その為に昼過ぎから身繕いを……数時間かけて……行わねばならないらしい。入浴の手伝いやら全身の手入れやら、全力で固辞したのだけど今日ばかりは見逃してもらえなかった。王族として初めてまともに国民の前に立つのだ。わかっちゃいるけど気が重い。
祭儀を控え午前中は忙しかったが、昼食は妻と一緒に摂って良いとのお許しが出た。そのわずかな隙間時間を縫って、ヘンリーの迎えの為こっそりラインハットへ飛んだ。城門の兵士に教えられて宿屋へ向かうと、既にくたびれた旅装にひっつめ髪のヘンリーが待ち構えていた。
「あんま時間ないって言ってただろ。上はさ、今赤ん坊の世話で慌ただしいから」
「ああ、そうだよね。おめでとう、どっちだった?」
拙い祝辞にヘンリーははにかみ、男だったと教えてくれた。うちの双子より十日ほど早く生まれたそうだ。こっちも昨日生まれたばかりだと伝えたらさすがに目を剥いたが、フローラは儀式に参加せず休ませると説明してようやく安堵したようだった。
「ほんっとお前も落ち着かねーな。なんつーか、大変なことって立て続けにくるよな」
「そうそう。一昨日もひとつ課題をやったばかりなんだよ。いろいろあって、その日しかできないって言われてさ」
何の気なしに頷いたところ、呆れ半分哀れみ半分のぬるい視線を返された。言いたいことはわかるけど、こればかりは僕がどうにかできるものでもない。
「あ、そうだ。ちょっと訊いてもいい? ラーの鏡ってもう神の塔に戻したよね」
忘れないうちに聞いておかないと。いきなりの不躾な問いにもヘンリーは嫌な顔ひとつせず「そりゃまぁ。お前が発ってすぐ、マリアを城に迎える前に塔に奉納したけど」と答えたが、すぐに険しく表情を引き締め声をひそめた。
「入り用なのか? まさか、グランバニアにも変幻する魔物が」
「そうみたいで……出来たら今度貸してもらえないかな。何度も塔を開けさせるの、申し訳ないんだけど」
一昨日サーラが言っていた「解呪の鏡」はきっとラーの鏡のことだ。ここラインハット王国に伝わる、まやかしを破り真実を映す秘宝。普段は清らなる乙女にしか開けられない『神の塔』に祀られていて、三年ほど前、この城で王太后に成り代わっていた魔族の正体を暴く為に僕達が持ち出した。
試練の洞窟に現れた斧男とカバ頭が、お目付け役として城から同行してきた兵士と神官の正体だったのではないか。現状遺体がなく行方不明というだけで確証にはならないが、サーラの言葉に偽りがあったとも思わない。二人の身元は確認してもらっているが、奇妙なことにどちらも身寄りがないとのことだった。
「やっぱ持たせてやれば良かったよな。どうしたって必要な場面はお前の方が多いだろうに」
「ただの旅人がおいそれと国宝を預かれないよ。今日は本当に時間がないから、今度借りに来るね。できたら、修道院に話だけ通しておいてもらえたら」
ヘンリーも真顔で言うから怖い。国の窮地を救った宝を、どこで野垂れ死ぬかもわからない旅人に容易く貸しちゃ駄目だろ。多忙な彼の手を煩わせたくないのでそう願い出たのだが、世話焼きの親分はさも当然とばかりに首を振った。
「俺が取りに行くよ。来週あたり、城に来てもらえれば渡せるようにしておく」
それはさすがに申し訳ない。来週ってことは、ヘンリーはグランバニアから戻り次第塔に向かうつもりなのだ。
「お前さ、わかってるか? 今はお前の方がよっぽど多忙なんだぞ」
「……子供が生まれたばかりなのはそっちも同じじゃん」
「立太子の儀もあんだろ。ついでにこっちは一人だが、そっちは二人だからな。俺はいいの、役立たずな親父が毎日追い出されてるだけだし」
その物言いには身に覚えがあって、二人で顔を見合わせ情けなく笑い合った。「こっちは乳母達がコリンズを引っ張りだこさ。朝晩にちょろっと抱くしかできん。ま、親父の本分は国を育てることだからな、大人しく役割を全うするさ」とヘンリーが大人びた目で呟いて、それがなんとなく胸に刺さって、足早に街を出ていく彼を横から覗き込んだ。ルーラはキメラの翼と違う挙動をするから、騒ぎにならないよう人目のないところに出てから使うようにしているのだ。
「……マリアが身篭って、父親になるんだと思ったら。俺はこいつに何を見せてやれるだろうって思った」
やっと街の外、街道からもだいぶ外れたところまで来て、ヘンリーは目を細め自らの国土を見つめた。昔父と越えた関所、その上を流れる川面が遠く煌めく。彼の背に負う王城ではなく、青い山が聳え、緑の木々が続いてゆく豊かな大地を。
「子供に胸張って見せられない国にはしたくないよな。デールはいずれコリンズに王位を継がせると言ってる。自分の子は持ちたくないんだと。……んなもん、コリンズにまで納得させちまったら嫌じゃん」
ヘンリーが語ったそれは、僕が今正に立っている岐路の、一つの回答になり得る気がした。
正直ずっと悩んでいる。父さんの悲願を諦めたくなくて、でも腰を落ち着けてほしがるサンチョやオジロン様の気持ちも痛いほどわかって。フローラとの子を授かったことはすごく嬉しい、けど同時に枷のようにも感じていた。父さんみたいに赤子の二人を連れ歩くことはきっと出来ない。まだ身体機能も覚束ない双子を安全な場所で無事に育てあげることは、親である僕らの責務だ。
まだまだ未熟な僕だけど、胸を張れない父親にはなりたくないな。
「コリンズか。洒落た名前だね」
「勝利の子って意味な。ま、あいつは俺達が祖国を取り戻した、勝利の証みたいなもんだからさ。そっちの名付けは?」
促されて、リオとルナの名を告げれば意外とまともじゃんと笑う。わざとらしく鼻根に皺寄せたあと、親友の肩に手を置き転移魔法を唱えた。光の粒子が僕達を包み、次の瞬間、ヘンリーと僕はグランバニアの城門から少し離れた木立の中に佇んでいた。うん、位置調整にもかなり慣れたかも。
さすがに、いつになく人の出入りが多い。恐らく宿をとれなかった人々が城から離れたところに露営地を設えている。サンチョ邸がある中庭も開放すると聞いた。近隣の村々から人が集まる故、今日は衛兵を総動員して警備に当たらなくてはならない。ああ、だから一昨夜、中に入れてもらえなかったのか。
城塞に囲まれた王城を興味深げに眺めたあと、ヘンリーは僕に早く戻るよう言ってくれた。自分は人の流れに乗じて入城するし、グランバニアの城下をのんびり見て周りたいからって。
器用な彼ならうまいこと村人を装って入るだろう。有難く承諾し、あとで迎えにくる旨を約束してその場で別れた。急いで城内に戻り、顔見知りの衛兵達に挨拶しながら上へ向かう。彼らはまだ僕の正体を知らされていない。
こうして気安く挨拶できるのも、今日が最後かもしれないな。
根無し草が板につきすぎてるから、これからを思うとどうにも憂鬱になる。首を振って重い懸念を振り払った。
証に選ばれた。子供達も無事産まれた。何も知らない流浪の民であった僕は、それでも父から受け継いだ国宝の剣にずっと助けられてきた。グランバニア王家の末裔として、今、その在り方を問われているのだ。
◆◆◆
奥の宮に戻り、今度はちゃんとノックをしてしばらく待つと、クロエさんが内側から開けてくれた。珍しくまともに入室した僕を不思議そうに迎え入れる。ちょうど授乳を終えたばかりだったらしく、少しずつ飲んでもらえるようになってきたとフローラが教えてくれた。まだ小さいから本当にちょっとで大丈夫なんだって。お腹いっぱいで眠る我が子達を眺めながら、妻と二人でゆっくり昼食を愉しんだ。
昼食が終わると、ネルソン様が回診にいらっしゃった。
曰く、双子は腹の中で育ちきる前に生まれたので、未だ身体が完成していない。普通なら昨日、腹の外に出た時点で天に召されておかしくない状態だったそうだ。改めて聞かされると本当にぞっとする。
現状もホイミンが命綱であることに変わりはなく、離してしまうと何が起こるかわからない。但しホイミンが側にいて魔力が繋がっている限り、命に関わる症状が出ることはないだろうと言ってくださった。
僕がホイミンを連れ込んだことは、この実績を以て不問としてくださっているらしい。深く突っ込まれないのは正直有り難い。妻も産後の戻りは順調ということで、大きな問題はなさそうで心から安堵する。
お話を聞き終わったタイミングでクロエさんに促され、式典の支度にかかった。城に着いた日に一度だけ入った大浴場へ連行され、女官……だけはどうにかと懇願した結果、サンチョが代わりに湯殿まで入ってきて、たっぷりの泡で隅々まで丁寧に磨き上げてくれた。……恥ずかしい……‼︎ いい大人が他人の手で洗ってもらうとか‼︎ やっぱり今後は何がなんでも断ろうと固く誓った僕であった。
湯浴みの後はいつもと違う部屋に連れて行かれ、精油やら何やらを頭から爪先まで塗り込まれた。時間がなかったとは言え結婚式でもここまでしなかったぞ。その間にもサンチョは、身体中の傷痕を見咎めてはぐずぐずと涙ぐんでいた。幼い頃ホイミで治しきれなかった古い傷は皮膚の一部として身体が覚えてしまっている。背中は特に鞭の痕だらけだろうから、今更ながら女官ではなくサンチョが世話してくれて良かったと思う。こんなのフローラやサンチョ以外に見せたくない。
本当に自分の肌かと思うほど全身つやつやに仕上げてもらい、僕の一張羅の何倍も値が張りそうな上等な下着を身につけたところで、女官達が入室してきた。高地にあるグランバニアはそこまで暑くないとはいえ、きっちりした長袖揃いの衣服に若干の戦慄が走る。シャツにベスト、紐飾りやら帯やらを幾つも重ねられ、動くに動けず緊張したまま棒立ちで完成を待った。最早気分はカボチ村の案山子である。髪もまた、これでもかと丁寧に梳られ、いつもより上品にまとめられていく。
「本当に殿下はマーサ様によく似ておいでですこと。紫紺の被布が大変お似合いです」
途中から入ってこられたヘラ女官長が満足げに呟き、反対に出たり入ったりを忙しなく繰り返しているサンチョがその一言を偶々耳にしては感極まり頷きまくっていた。
なんだか恥ずかしいな。こんな凝った格好したことない。
いつもの襤褸布とは違う上質な外套、被布というのが正しいみたいだけど、これは恐らく特殊な糸で織られたものだ。しっかりしているのにすごく軽い。黒に近い深い紫地に銀糸で控えめな刺繍が施されている。これを肩に巻いて金細工のフィブラで留める。国章の鳥を模った立派なものだ。
被布の下は、国葬なので黒の礼装だ。これほどしっかり染め上げられた黒い生地は見たことない、鴉みたいな漆黒で上下を整え、ジャケットから覗く真っ白なシャツの袖には剣モチーフの銀のカフスを添える。腰には光沢が美しい黒革の剣帯を着け、被布のフィブラと剣帯、胸許にも黒と銀、紫の紐飾りがかけられた。同じ組紐で髪も結われているようだ。
ものすごく重ね着してるんだけど、不思議と暑くはない。軽いし、風を通す素材なんだろう。シャツがひんやりしているあたり、雨露の糸みたいなものを使っているのかも。
着付けが終わり、促されてぎくしゃくと姿見の前に立てば、そこには普段ヘンリーが着ているような服を身に纏った黒髪の男が、ひどく固い表情でこちらを見ていたのだった。
いやもう別人なんだけど。何これ? 王城の人達すごくない⁉︎
緊張を落ち着けながらいざ出陣直前、めかしこんだ自分を妻にも見てもらおうと寝所を訪った。先導するヘラ様がノックをし、内側からクロエさんが開ける。得意げなサンチョ叔父と、その後ろに立つ僕を見上げて微かに瞠目したクロエさんは、粛々と道を開けて会釈してくれた。
その向こう、赤子を抱いて寝台に腰掛けていたフローラは、息をするのも忘れて茫然と僕を見つめている。
「……どう? すごいよね、自分じゃないみたい」
気恥ずかしくて思わず頬を掻くと、フローラもかぁっと恥じらい俯いた。碧髪が肩からこぼれ落ちて白いうなじが露わになる。薄絹の白いネグリジェが映えるほど、これだけ磨いてもらった自分の姿容すら霞むほど、自らの薄紅を顔と首筋に鮮やかに咲かせて。
「とっても、素敵です。……びっくりしました。本当に、昔吟遊詩人の方が吟じていた、物語の王子様みたいで」
なんて勿体無い褒め言葉だろう。お世辞には慣れてるけど、彼女のそれは不思議と心からの賛辞だと思える。いつだって君の心を欲する僕の願望がそうさせるんだろうか。
子を産んだからか、彼女の芳香がいつも以上に瑞々しく芳る。まるで熟れた桃の実のよう、入口に佇む僕までその香りで虜にする。
「いいえ、本物の王子様なんですよね。もう十分わかっておりますのに、不思議な心地で。初めてサラボナで出逢ったあの日からずっと、あなたは私の王子様、でしたから……」
そんな、自分の方こそ、御伽噺の姫君みたいなひとなのに。
長い睫毛を伏せた君が切なく儚げで、抱きしめたくてたまらなくなった。君のいい香りに全身を投じて、その柔らかさを肌で感じたい。甘い情動を、手間暇かけられた装いと家臣達の視線がかろうじて踏み留まらせる。そんな邪念をつゆ知らず、健気な妻は尚も誠実に、僕を悦ばせる言葉を紡ぐのだ。
「もう、私だけの王子様ではないのだと……少しだけ……その」
「待って。今聞いたら我慢できなくなりそう」
ああ、最早これは新手の拷問だ。
足早に寄って身を屈め、淡い唇に指を押し当て遮って、翡翠の瞳を瞬かせたフローラの額に素早く口づけを落とした。
ぼっ、と更に顔を赤らめたフローラに反して背後の空気は一瞬で凍りつく。背筋が寒い。
「続きは帰ってから聞かせて? 今のこの格好じゃ思いっきり抱きしめられなくて、却って辛い」
苦笑しつつ立ち上がると、真っ赤なフローラが額を抑えてこくこくこくと頷いた。息を詰めた女官達もほっと胸を撫で下ろす。信用ないなぁ。サンチョだけがうるうると瞳に水をたたえ「まこと深き、麗しきご寵愛! パパス様とマーサ様を思い出しますぞ!」などと声を躍らせているが、ヘラ様は真反対の低い声で「殿下、フローラ様のお身体のことで後ほどお話ししたいことがございます」と僕に釘を刺した。
そんな、心配しなくても無体な真似はしません。閨事は床上げまで駄目だってちゃんとネルソン様から聞かされてるから! そのくらい弁えてますから!
名残惜しいが儀式の時間が迫っている。残ってくださるクロエさんに妻と子供達をお任せし、オジロン様のもとへ急いだ。果たして玉座では普段よりもっと威厳ある装いのオジロン王が待ち構えていた。緋色の被布の下には僕が着せてもらったのと同じような黒の礼装を纏い、星形の王冠を頭に冠している。気難しい顔つきで頬杖をつき遠くを眺めていらしたが、僕を見るなり表情を綻ばせた。
サンチョが厳かに「テュール・シエル・グランバニア王子殿下、御成り!」と声を張り、広間を護る衛兵達が一斉に敬礼する。さすがにもう奥の宮ばかりでなく、この場を護る兵士達にも全ての事情が伝わっているようだ。
「テュールよ、見違えたな。義姉上によく似ておると思ったが、こうして見ると兄の凛々しさも継いでいるようではあるまいか」
左様でございましょう! とサンチョも嬉しそうに頷いた。にこにこと僕を見つめていた叔父が、次いで申し訳なさそうに眉根を下げる。
「すまなんだな、この冠も玉座も、本来そなたのものだと言うのに」
「何を仰るのですか。父が国を空けていた間、お護りくださったのは叔父上です。叔父上こそ王に相応しいと思う僕の考えは今も変わりません」
白々しく思われようと、これが僕の本心だ。もう何度目かの主張をきっぱり告げると、叔父は力無く微笑み首を振った。
少し遅れて、ドリス王女が広間に入場してきた。真っ黒なレースのドレスに小粒の真珠をあしらったシックな装いだ。十四歳の彼女に似合う、ふわりと広がった形が可愛らしい。いつもながら無愛想ではあったが、僕と目が合うと珍しくドリスの方から頭を下げた。
「お子様方のご誕生、誠におめでとうございます」
「あ、うん。ありがとう」
普段が普段だから、話しかけられたことに驚いてしまった。というか僕に構ってくることはなかろうと思い込み、不躾にドレスを眺めてしまっていた。いや、フローラだったらもっとしっとりした雰囲気がいいかなぁなんて思ってしまって。裾を広げず、身体のラインに沿って流して……元修道女の彼女だから、落ち着いたデザインの黒いドレスはさぞ似合うことだろう。
「……今度、お顔を見に行ってもいいですか」
えっと、子供のってことかな? ドリスなら血縁なんだし、僕に気兼ねなく見にきてくれたら嬉しい。だが、恐らく宰相をはじめ彼女を取り巻く勢力がそれを許さないのだろう。
実は僕が不在の時に一度、叔父上と共に妊娠中のフローラを見舞ってくれたらしい。後でフローラとヘラ様から聞いた。とても可愛らしいお姫様が会いに来てくださったのだと、フローラが嬉しそうにしていたっけ。
「もちろん。双子達も、フローラも喜ぶよ」
同じく小声で囁くと、ドリスが初めて、微かな歓びを目許に浮かべた。
もしかしたらドリスと僕は、わりと気質が似てるのかもしれない。従兄妹だし。言葉がやや足りないとことか、面倒ごとを敬遠するところとか。
それで話は終わるかと思ったが、一同揃って教会へ移動する途中、ドリスが再びこっそり話しかけてきた。
「奥様のお加減は?」
「元気にしてるよ。双子だから世話が大変みたい」
序列の順で、オジロン様を先頭に僕とドリスが続く。前後左右をサンチョと兵士達が護って、宰相閣下は一番前を先導している。その誰にも聞き取れないほど、僕にしか聞こえないくらい微かな声でドリスが囁いた。
「……よく見てあげてください。産後は色々大変らしいから」
言うだけ言って彼女はさっさと後方へ離れてしまったが、一方的に届けられたその囁きは、何故か胸の奥の方に、棘のように深く刺さった。
そういえばドリスの母君は、彼女を産んだ後体調が戻らず亡くなられてしまったんだっけ。
彼女は六歳年下だから、ちょうど僕達親子がラインハットの事件に巻き込まれた頃の話だ。そう思うと、今日の慰霊の儀は父さんだけのものではないような気がした。
形は違えど愛する妻を失った王弟が、それでも兄王の留守を預かり国を護ってくださった。きっと彼の支えであった見ず知らずの王弟夫人にも、心からの祈りを捧げたいと思ったのだ。
西の山並みが緋色に燃える夕刻、城下の奥に開かれた教会で、先王パパス・パンクラーツ・グランバニアの慰霊の儀がしめやかに執り行われた。
朝から続いていた献花で、肖像画を掲げた祭壇前には白い花が咲き乱れている。僕が持ち帰った宝剣グランソラスは長く国王代理を務めた王弟オジロン公が遺品として供え、大司教が王の御霊を慰める長い経典を滔々と読み上げた。先王の治世はもう二十年も前のことだと言うのに、祭儀の間中、城下の民達からは啜り泣く音が絶えず聞こえていた。
骨の一片、髪の一房すら還らなかった武勇の王は、凡そ十四年の時を経て、その最期を国民に伝えられることとなった。
◆◆◆
厳粛な儀礼式典のあとは、国を挙げての追悼宴だ。
以前ポートセルミの酒場でやった賑やかな酒宴とは違い、故人を偲び、昔語りをしながら盃を酌み交わす。
聖堂の祭壇にグラスが捧げられたあと、王家が供する弔い酒が王宮内と城下に振る舞われていった。二階の大広間には城の料理人が腕をふるったご馳走が並べられ、城下では町民達が各家庭でこしらえた料理を外に持ち寄り分け合っている。子供の無邪気な声も微かに聞こえて、楽しそうなんて思うのは不謹慎なのだけど、なんとなくそわそわする。
当然のように大人達は酒を注ぎあっているが、重度の下戸である僕はうっかり呑まないよう水の入ったグラスを握りしめていた。ごめん父さん、空気の読めない息子で。こういうきちんとした場で、しかも父さんの為の宴で酔って倒れるなんて絶対に嫌だ。
オジロン様は盃を片手に重鎮に囲まれ難しい話をしていたが、僕が居心地悪そうにしていたので気を遣って下さったようだ。早めに着替えて、何なら先に休んでも良いとの有り難い言葉を賜り、逃げるように場を辞してきた。そういえばドリスは祭儀が終わってから姿を見ていない。早々に切り上げて新宮に戻ったのかもしれない。
サンチョに手伝ってもらい急いで普段着に着替えたあと、少しだけ城下を見て周りたいからと強引に別れた。彼は僕専属の侍従みたいなものだけど、実際はパパス王の腹心だったひとだから、さすがに慰霊の儀ともなると色々引き受けることがあって忙しそうだった。僕を連れ出す直前にも、弔い酒が足りないとかでばたばたしていたし。
途中、顔見知りの兵士達に何度か仰々しく挨拶されながら街に降りてヘンリーを探すと、彼は酒場の奥でちびちびグラスを舐めながら人々を眺めていた。目立たないカウンターの隅に陣取り、時折マスターに話しかけられては卒なく応じている。王族のくせに、彼はこういう退廃的な雰囲気がやけに似合う。
「今日はありがとうな。宴の真っ只中に送らせちまってすまん」
心底申し訳なさそうに繰り返す彼を裏庭へ連れて行き、急いでルーラを唱えた。人々は酔って話し込んでいたし、衛兵も偶々外してくれていて助かった。
見違えるほど磨いてもらっていたお陰か、どうやら街の人々にはまだ、紫の外套の男が王子だと認識されていないらしい。ヘンリーにも「あの人達、お前がさっきの王子だってわかってなかったみたいだな。まぁこれと同一人物とは普通思わないか、なかなか様になってたぜ」などと茶化された。
父の子だと知ってもらえることは嬉しいけど、今後は軽率に街に降りられなくなると思うと憂鬱だ。
と、ヘンリーが珍しく、大きな欠伸を噛み殺した。
「……緊張が切れたかな。急に眠気が……悪い」
「ずっと気を張ってただろ。もう夜も遅いし、当然だよ」
今更ながら、彼も父親になったばかりだ。環境の変化による疲労も当然あるだろう。気遣うつもりで親友を振り返れば、存外にも険しい表情をしていた。
父さんの逝去についてオジロン様から話があった時、死没地としてラインハットの名ももちろん出た。それは仕方ないことだけど、どうしたってヘンリーにはきつかったと思う。
自分の所為だと思わないで欲しい。あくまで事実を、国民に伝えただけのことだから。
そう言おうと思ったのに、彼が次に口にしたのはいつもの詫びの文句ではなく、僕の祖国に対する思いもよらない苦言だった。
「こんなこと言いたかないけど……久々に吐き気がしたよ。なんだ、あの空気────」
瞠目する僕から苦々しげに顔を伏せ、重く息を吐く。
単なる国の雰囲気ではないだろう。黙って汲むことを是とされていた、国王代理のオジロン様にこれまで無遠慮に向けられていたものだ。同時に、数十年停滞し続けた王政への失望か、諦めか。
祭礼の中でオジロン王が先代パパス王逝去の詳細を告げたあと、前王の息子として国民に僕をお披露目くださった。選定の儀もつつがなく終え、ゆくゆく譲位に向けて王太子と定める旨を伝えられたが、僕に向けられた目は凡そ王子の帰還を歓ぶものではなかった。
父に似ていないからか、それとも長く国を空けた不義理な王族への不信感か。
既に事情を知る重鎮達は些か軽んじた表情を隠さず、今日初めて聞かされた兵士や神官達の間からは、値踏みする視線やどこか白けた空気、投げやりな溜め息があちらこちらから上がって諌める声もなかった。覚悟はしていたが息が詰まった。かつてユリウス司教が泣いて歓迎してくださったのが夢ではなかったかと思うほど。
救いと思えるのは、父さんを悼んでいらっしゃる方が本当に多かったことだ。城下でそれとなく話を聞いた時もそうだったけど、多くの敬愛を集めた王だったことがわかる。尤もそれ故かオジロン様への評価は極めて厳しく、それは今日、僕に注がれた視線にも通じると思っている。
「お前、よくあんなところで……」言いかけて、すぐヘンリーが口籠る。「いや。わかるよ、故郷って……そういうもんだよな」
ん、と控えめに頷いた。グランバニアに着いてからの三ヶ月、正直言って気が休まる日はほとんどなかった。僕なりに精一杯向き合ってきたつもりだけれど、国民からしてみれば数ヶ月前に帰還していた王子がここまで存在を秘匿された意味もわからないだろうし、不審に思われて当然だと思う。
国政なんて何もわからない。国を継げと言われても何もできる気がしない。せめてこれから誕生日までの二ヶ月、立太子の儀までに最低限のことを学ばないと。
せっかく産まれた子供達も、お披露目はもう少し育ってからと言われてる。そりゃこの国の体質を思えば、ホイミスライムから離れられない赤児なんて絶対見せられないよね。
ヘンリーも僕が知らないところで色々あったんだろう。尤も彼の場合、拉致される前の方が居心地悪かったかもしれないけど。
「……デール様はもっとお辛かったんだろうな」
思わず呟いてしまって、ヘンリーがまた痛々しく顔を歪めた。改めて考えるととんでもないことだ。僕より歳下のデール王は幼少にして父王と異母兄を突然失った後、十年もの間荒んだラインハットを直視せざるを得なかったのだから。
「僕は大丈夫。サンチョも……いるから。フローラだって、無事にお産が終わったんだし」
「産後の肥立ってのもあるんだよ。……いや、でも良かった。とにかく無事に生まれたみたいで」
赤ん坊達を見られなかったのは残念だが、とヘンリーがようやく少し表情を和らげた。だがすぐにまた目を伏せ、酷く苦しげに絞り出す。
「……はっきり言って、あんなとこに帰したくないくらいだ」
「ヘンリー」
僕の心中を読んだように、そう言ってくれたことが嬉しくて。少しだけ胸がすく思いで微笑んだ。
生まれながらに国を背負い、その立場が煌びやかなものだけではないと良く知っている君だから。
君もここで戦っている。こうして共感し、心配してくれるだけで、僕ももう少し頑張ろうと思える。
「今日は本当にありがとう。……鏡の件も、無理言ってごめん。次はコリンズにも会えるかな? 落ち着いたら、今度は双子の顔も見に来てやって」
「ああ、もちろん」
さっきよりだいぶほぐれた笑顔に、心からほっとする。
生い立ちも性格も環境も、真逆なほど違う僕らだったのに。苦節の十年を共に過ごして、気づけば共に父となり、一国を背負う立場になってる。
他ならぬ君が変わらず親友でいてくれることを、こんなにも嬉しく、心強く思う。
「潰れる前に、愚痴くらいいつでも吐きに来いよ」
「うん。ありがとう」
どこまでも心を砕いてくれるヘンリーに、もう何度目かの謝辞を伝えて。ラインハット王城の堀に架けられた跳ね橋は夜間は通れぬよう上げられているが、王兄殿下の帰還を受けて静かに戻されていった。慣れているのか、町民姿の王兄にも衛兵は動じない。跳ね橋が下がっていくのを彼と並んで待ち、渡れるようになったところで名残惜しく数歩退がった。
「じゃあ、また」
お互いいつも通りに手を振り、翠の髪が橋を渡りきるのを見届ける。人目がない場所まで小走りで移動して、急いでルーラを唱えた。祖国のあれこれを思うとどうしたって気は重かったけど、いつの間に芽生えていた郷愁が気鬱を押し退けた。
帰らなきゃと思えるのはフローラと、今は子供達も居てくれるから、かもしれない。
ヘンリーだってここに残ることを決めた時、きっと温かく迎えられるばかりじゃなかったはずだ。けれど彼自身の努力や働きかけの結果、今では家臣達の確固たる信頼を勝ち得ている。
僕もそう在りたいと思う。潰れぬ気概を持ちたいと思う。
国民や重鎮達の顔色を窺うのではなく、僕が帰るべき場所であるグランバニアを真実愛せるように。母からもらった『テュール』の名に、恥じることがないように。
駆け去る僕を見送ったヘンリーが最後に呟いたそれは、誰の耳にも留まることはなかった。
「……負けんなよ。親友」
僕も、ヘンリーも、この別れの直後あんなことが起こるなんてゆめ思わなかったのだ。
この時の「また」が、紆余曲折を経て遥か数年後になってしまうことも。
◆◆◆
ほんの二、三十分、話をして戻ってきただけのはずなんだ。
ついさっきまで追悼の宴をしていた城下が静まり返っている。元々賑やかではなかったしもう深夜に近い時間だが、この静けさには違和感がありすぎた。外に立っているはずの衛兵は見当たらず、訝しみつつ城内へ戻るといきなり衛兵が二人、扉の前に転がっていてぎょっとした。息はある。警戒しつつ見渡せば、教会へ続く街路と広場にも人が累々と倒れている。
毒かと思い咄嗟に袖口で鼻を抑えたが、あちこちからいびきと寝息が聞こえてくる。ということは皆、気絶というより眠っている状態なのか。そろりと腕を下ろし匂いを嗅ぐと、妙に甘ったるい酒臭さが充満していた。
起きている者の気配はない。換気と退路確保の為に正面の扉を開け放った後、倒れた人々を確かめて回った。全員生きてる。ほっとしたけど、こんな寝方明らかに尋常じゃない。酒場を覗くと、さっきまでパパス王を偲び泣いていた人々がその姿のまま眠っていた。ヘンリーと話していた酒場のマスターも、ひと休みの体勢で椅子に座って脱力している。
一体、何が起きてるんだ。
ざっと城下を見て回ったあと二階へ上がった。床に転がる杯と瓶、むわりと立ち込める濃い酒の香り。匂いだけで酔いそうだ。
その広い空間に屈強な兵士達と、政務官も貴族達も神官も、テーブルに床にと突っ伏し熟睡していた。大広間の奥にオジロン様達がいるはず、大急ぎでそちらに向かう。果たしてそこにはサンチョにオジロン様、重鎮の皆様まで、先ほどややこしい話をしていた顔触れが円卓に突っ伏し、深い眠りに落ちていたのであった。
「サンチョ! 起きて、何があった?」
軽く頬を叩くも「ううん、ぼっちゃ……よかったですねぇ。むにゃむにゃ」と幸せそうに寝言を言うばかりで埒があかない。叔父王も強めに揺すってみたが、酩酊状態でやはり起きない。
酒だけでこんなになるか? 誘眠魔法ならかなり厄介だ。それにしても、これだけの人が全員一斉に眠ってしまうなんて。
誰が、いったい何のために、────……
瞬間、唐突に何かが思考を突き抜けた。考える前に駆け出す、警鐘、これは砂漠でフローラを連れ去られたあの時に似ている。燃えるような指輪の熱はないけれど。
気のせいであってほしい。大丈夫だと笑ってほしい。なんならここにいる皆のように、眠っていてくれて構わない。
玉座の間へ続く外廊に駆け上がった瞬間、何かが飛び去る羽音がした。見渡すもちょうど月が翳って辺りがよく見えない。舌打ちし、再び全力で石床を蹴った。
杞憂であってくれ。無事でいてくれ、どうか!
王の間を護る衛兵達すらその場に昏倒していた。この周辺にも甘い匂いが立ち込めている。鼻口を塞ぎつつ階段を駆け上がり、音のしない廊下を一心不乱に走った。奥の宮を守る衛兵達が立っていた場所そのままに崩れ落ちている。嫌な予感がどくどく全身を蹂躙していく。
勢いよく開け放った扉の先に、妻の姿はなかった。
「……っ、フローラ……?」
どく、どくん。
己の鼓動が直接耳に響く。割れそうな脈動を無意識に抑えつけて室内に踏み入った。南側のテラスの扉が開いて、ぬるい夜風がゆるく吹き込んでいる。他に荒らされた形跡はないが、寝台の掛布がやや床にずり落ちていた。
シーツに触れれば、まだほんのりと温かい。
ずっと寝たきりで、昨日双子の出産を終えたばかりの君が一人で出歩くだろうか。赤ん坊達は? 慰霊の儀の前はここでホイミンと一緒に寝かされていたはず。小さな、横に広い赤子用の寝台にも影はない。
「────フローラ!」
「でん、か」
テラスに駆け寄り思わず声を張り上げた、その瞬間後方からか細い声がした。咄嗟に寝台の敷布をたくし上げれば、その下のわずかな空間にうずくまる人影が。
「……クロエ、さん⁉︎」
「申し訳、ありません。……申し訳……ッ」
それは、この三ヶ月間献身的に仕えてくれていたサンチョの縁戚の令嬢だった。身動ぎひとつせず寝台下に隠れていた彼女は、僕が覗き込んだ瞬間堰を切ったように悲愴な悔恨を溢れさせた。どうやら身体が強張って出られないらしい。両肘をつき丸まったその背の内側を、クロエ女史が震えながら必死に示し懇願した。
「おた、すけ、ください。こちらに……わたくし、お二人を、お守りする、しか……」
そこまで言われてようやく気づいた。彼女の身体の下に、生まれたばかりの赤子達とホイミンが隠されていたのだ。急いで一人ずつ抱き上げ、ふにゃあと泣き出した双子達を寝台に横たえた。今までよくぞ泣かなかったと思う。ホイミンも双子の間に寝かせ、最後にがくがく震えるクロエさんを引き出して、尚も平伏しようとするのを止めて問うた。
「フローラは。いつ頃、どこへ行ったかわかりますか?」
とても平常心ではないところ申し訳ないが、ご存じなのはこの人しかいない。真っ青な顔を覗き込むと、クロエさんは尚もかたかた口許を震わせながら辿々しく呟いた。
「……、魔族、で、ございます。そうだと、思います」
恐怖にすくみあがるクロエさんの背を不躾にさすった。驚き、彼女が焦茶の瞳を大きく見開いたが、その視線を捉えて強く頷く。却って萎縮させてしまったかもしれない。僕の虹彩をまっすぐ見つめ返したクロエさんが、回らぬ舌を懸命に動かし語り始めた。
──いち早く、フローラ様が異変にお気づきになりました。
今、部屋を出るのは危ないと、お子様方を託され、すぐ隠れるようお命じになられました。訳もわからずこちらに潜って、その直後のことでございます。酷く禍々しい気配の魔族が──……
私はもう、震えながら耳を澄ましておりました。フローラ様は気丈にその者らと対峙なさり、お話しぶりからは既知の相手のようにも感じられました。お子様を迎えに来たとその者が申して、……フローラ様は、あなたの所為で死産したのだと。初めて聴く厳しいお声で、きっぱりとそう言い切られました。
それから、フローラ様の、お身体を、調べると言って。揉み合う気配がした後、すぐにテラスの方から音がいたしました。……それからどれくらい経ったかわかりません。数分か、十数分か、もっと長いことこうしていたのか……
クロエ女史の話を聞きながら思わず唇をきつく噛む。さっきここへ来る途中、確かに何かの羽音を聞いた。あれこそフローラが連れ去られたその時だったのでは。それなら時間も概ね、彼女の説明と合致する。
あと少し、あとほんの数分早く帰って駆け上がっていれば。
「申し訳ございません。申し訳ございません……フローラ様にこそお隠れいただくべきでしたのに、私、如きが」
「そんなこと、ないですから」
もう真っ青な顔で僕と目を合わせず呟くクロエさんの両肩を抑え、強い口調で言いきった。
「貴女は彼女の頼みを聞いて、子供達を守ってくれた。今は是非を問うても詮無いことです。ここからは僕が。必ず、妻を取り戻してきますから」
半ば自分に言い聞かせたい言葉だった。ふつふつ湧き上がる憤りを懸命に鎮める。まさか堂々母の拉致を再現してくるとは、二十年前の事件にも関わっていると自供したようなものじゃないか?
お前らなのか。母さんを攫い、父さんを殺し、それに飽き足らずフローラまで連れ去ったのは。
「……それは?」
ふと、クロエさんが震えながらも何かを握りしめていることに気がついた。指差し示すと、クロエさんはぎごちなく掌を広げて見せてくれる。
「フローラ様からお預かりした、ものです。身を隠す御守りだから、握って、集中しているようにと」
ただの黒い石に見える、けど独特な魔力を含んでいる。それも強烈に圧縮されていて、ものすごい密度だ。よく見ると石の表面には何らかの紋が刻まれている。御守りと言っても気休めじゃない、れっきとした魔道具と言っていいだろう。ぱっと見じゃわからないけどこの魔力、どこかで触れたことがある。
こんなもの、いつ手に入れたんだろう?
「確かに、効き目があるかもしれない。僕も全然気づかなかったし……人を呼んでくるから、念のためこのまま持っていてくれますか。子供達をお願いします」
御守りを返すとクロエさんがあからさまに震え上がった。一人で待つのは心許ないだろう。半開きだったテラスの扉を閉めながら、できるだけ優しく、安心させるようゆっくり告げる。
「さっきここにくる途中、何かが飛び立つ音を聞きました。ここはもう、多分……大丈夫、だから」
それ即ち、手遅れだということ。恐らくフローラは既にここにはいないということ。
全然大丈夫じゃない。怒りでどうにかなりそうだ、それでも、子供達を守ってくれたこの人が今、少しでも安心できるなら。
「魔法か何かで、城中の人が眠らされたみたいなんです。まずはそこの衛兵を起こしてきます。それから、サンチョを連れてきますね」
尚も怯えながら頷くクロエさんを残し一度出て、寝所の前の衛兵達を起こした。よほど深く眠りに落ちているのか中々意識が戻らなかったが、厨房から持ってきた濡れ布巾を何度か顔に当てて目覚めてもらった。幸い症状は誘眠だけのようでほっとする。解毒魔法があるとはいえ、撒かれたのが毒だったら僕一人じゃ間に合わなかったかもしれない。
ふらつく彼らに手短に事情を話し、一人を寝所に引き入れ内外から守ってもらう。僕は引き続き水桶と手拭い片手に廊下の窓を次々開け放ち、王の間に倒れている兵士達を順番に起こしていった。甘ったるい匂いが薄れた頃、サンチョがよろめきながら上がってきた。ふと目が覚めたら皆眠っていて、どうにも嫌な予感がして僕を探しにきたのだと。少し遅かったみたいだよと思わず皮肉を言うと、一気に青褪め寝所へ駆け込んでいった。
サンチョが起きてきたなら、僕はもうあとのことは彼に全部任せてフローラを探すつもりでいた。とにかく一刻も早く手掛かりが欲しかった、けどこんな時に坊ちゃんお一人で行かせられましょうか‼︎ と激しく止められ結局その晩は王宮に留め置かれることとなった。苛立ちを無心で誤魔化し、その夜は目覚めた人々と共に未だ眠る人々をひたすら介抱して回った。少し休めと言われても全く眠れる気がしなかった。
もう、生まれたばかりの子供達のことも頭からほとんど抜け落ちてしまっていた。
朝になったら何がなんでもフローラを探しに出よう。そう自分に言い聞かせてなんとか仮眠をとったのに、夜が明けても僕は解放してもらえなかった。いつから不在なのか、フローラだけでなく宰相の姿が王城のどこにも見当たらない。彼を探し求める人々の声に僕の訴えは黙殺され、しかし黙って抜け出そうにもサンチョやオジロン様達にがっちり捕まえられて叶わなかった。
味のしない朝食を流し込んだあと、行方不明の宰相とフローラの捜索に向けて対策会議が開かれた。その話し合いの中で僕は、人生で最も憤ろしい、不快な場面に直面することになる。
◆◆◆
近隣を捜索中の兵達から頻繁に連絡が入る。もう夕刻になろうというのに何の手がかりも得られていない。ヴァーミリオン一族が治める領地にも彼が戻った形跡はなく、宰相の行方不明を伝えられた家人が急ぎこちらに向かっているそうだ。
いつものお偉方が大広間に集い、円卓を前に踏ん反り返って大して意味のない議論を交わしている。違うのは、主導権を握っているのが宰相ではないこと。だが今、音頭をとっているのは王でもない。傀儡と呼ばれた仮王は上座にこそ座っていたが妙に縮こまり、何故か教会の老いた大司教が宰相に代わってこの座を取り仕切っていた。
今まででわかったことは、昨夜振る舞われた弔い酒に眠り薬が仕込まれていたらしいことくらいだ。でも、あの眠り方は薬だけのそれじゃない。絶対に魔法も使われていると思うのだけど、実際侵入者があったかどうか定かではないとされ、今のところそれ以上の調査は見込めていなかった。誰がどうやって混入させたのかも何故か議題に上がらない。人員を割けないのもあるし、目撃者がどうしても出てこないのだと言う。
寝所への侵入者に関してはサンチョの縁戚であるクロエさんがあんなに生々しく証言してくれたのに、この重鎮方はとりつくしまもない。
「魔族に連れ去られたとの証言も、女官一人のものに過ぎませぬゆえ」
そう言ってフローラより宰相の捜索を優先しようとする。聞こえてくるのも宰相が主体の報告ばかり、僕一人が行くより大人数で探した方が良いと言うからぐっと堪えてお任せしているのに、顔馴染みの兵士長まで「畏れながら、我々は奥様のご尊顔を存じ上げませんので……」と言葉を濁す始末だ。
「ですから、僕が行きます。皆さんは引き続きヴァーミリオン宰相閣下の捜索と、周辺の調査を」
「なりませぬ。殿下は何卒城内でお待ちを」
朝からもう何度も何度も繰り返されたやりとりである。司祭の一人にぴしりと突っぱねられ、今にも爆発しそうな憤りを必死に鎮めた。か弱い赤子達も城にいる今、下手にこの人達を刺激したくない。
「……ヴェントレ卿よ。マーサ妃のこと、殿下に何もお伝えしておらぬのか?」
はぁ、と気怠い溜め息を漏らし、大司教に侍るまた違う司教がサンチョをじろりと睨めつけた。何のことだろう。隣に座るサンチョを振り返ると、彼は酷くばつが悪そうに俯く。
「前王妃殿下は魔物遣いでいらっしゃいました。テュール殿下」
答えないサンチョの代わりに話し始めたのは、ユリウス様と同じ司祭服を纏った司教の一人。
澄ました顔で肘をつき聴き入る老大司教をちらりと見遣り、どこか緩んだ顔つきで──壮年の司祭が、告げた。
「お聞き及びではございませんか。二十年前、あなた様がお生まれになった直後起こりましたあの出来事は、王妃殿下がご自身で城に魔物を招き入れたものではなかったかと」
────……、は?
突拍子もない戯言を聞かされ、頭が全くついていかない。
知らないけど。僕が生まれた直後に魔物に攫われたとしか。今のフローラと同じ状況だってことしか聞いてない。
「パパス様が発たれた後、何度も検証いたしましてその可能性が最も高いとの結論に至りました。我々の警備に何ら問題はなく、魔物が現れたのは御寝所のみ。そしてあの日、姿を消されたのもまたマーサ妃のみでございます」
確信した様子で淡々と告げる司祭が憎らしい。連れ去られた本人がなんで、諸悪の根源みたいに言われてるんだ。
「……母は魔界へ連れ去られたと、父が言っていましたが。だったら誰がそれを父に伝えたと言うんです?」
「さて、妃が直々に言伝を残されたのではないですか。我々には妃のお心など知る由もございません」
「ここで僕を産んで、その直後に魔物を招いて? 意図した失踪であったなら、産んだ子供をわざわざ残していった理由がわかりません。子供が魔族に狙われていたという話なら聞いたことがありますけど……」
「魔物遣いの血を王家に入れる為、やもしれませんぞ。もしくはグランバニア王家の血を得る為か。……ですから我々は反対申し上げたのです。エルヘブンの巫女は元々魔界の扉の番人。それを妃に据えるなどおやめくださいと」
魔界の扉の、……番人⁉︎
どうしてそんな大事なことを、今まで誰も教えてくれなかったんだ。僕の母親の話だぞ。父さんもサンチョも知らないはずがない、というか母さんが攫われた原因なんてほとんどそれなんじゃないのか⁉︎
「大事なのは当時、マーサ妃だけが難なく魔物を招き入れられたと言うことです。王太子殿下」
否、それすら彼女の罪の名分にすり替える。そんな言い分に納得できるか。全てを母さんの所為にして終わらせる為だけの、辻褄合わせの勝手な憶測に。
子供を、探していたはずだ。高貴な子供、或いは変わった身体的特徴のある子供を。だから僕を攫いにきたと言うならわかる、レヌール城だって確かそんな理由で滅ぼされたのだし、幼いヘンリーが狙われたのも元は同じ理由からだった。そこにラインハット王妃の思惑が嵌っただけのこと。
そのことと、母さんが魔界に囚われていることは全く別の話なんじゃないのか。
「殿下も、奥の宮に魔物を連れ込んでいらしたとか」
じりじり昂る憤りを、不意に振られた話で折られる。連れ込むなど人聞きの悪い、と悪態を吐きたくなるがそこは正直探られると痛い腹でしかない。必死に心を落ち着け、面に虚勢を貼りつける。
「あのホイミスライムは腹の子供の生命線でした。咎められることをしたとは思っていません」
「此度、奥の宮に魔物の侵入を許したという話でございますが、結界は一切作動していなかったと報告を受けております。こちらについて、殿下は如何お考えでございますか?」
開き直るも立て続けに問われ、必死に頭を回転させた。言った通りそこまで悪いことをしたとは思っていないが、僕が先にルールを破ったことは事実。
「結界の仕組みには触れていません。それについては、僕は何も知りません」
後ろめたさを必死に誤魔化し答えた。スーラに助けてもらってホイミンを連れ込んだのは僕だから、そこを突かれると何も言えない。でも、ホイミンを入れたあの日は間違いなく、結界は機能していたはずなんだ。
「元より女官の虚言とするなら、結界が動作するはずもないわけでございますが……」
白々しく顎髭を撫で、薄く笑って司祭が嘯く。後見人であるサンチョがこの場にいるというのに、クロエさんの意見は聞く値もないと言う。ひいては、疑っている。フローラが連れ去られたと言う証言そのものを。
「畏れながら、殿下は一度スライムを寝宮へお連れになられたとも聞いております」
「それはわしが許可したものだ。義姉上のスライムがテュールに懐いたと聞いたのでな」
肘をついた手で額を支え、疲れた様子でオジロン様が呟いた。すかさず頷き、叔父に同意する形で弁明したが。
「はい、僕に懐いてくれて……その時は衛兵が駆けつけたので僕も気づいたんです。あの日、結界はちゃんと動いていたと思います。何か細工されたのならその後かと」
「結界の精度を探る意図で、弱い魔物を潜らせるくらいは誰でも思いつきましょうぞ」
まるで僕が何か仕掛けたとでも言いたげだ。結界の管理方法なんて全く知らない、けどホイミンの件を説明するのは藪蛇でしかない気がして黙り込むと、思わぬ角度から更なる追及を浴びせられた。
「先日訃報があったエベック元司教についても、疑わしい報告が上がっております。何でも元司教の家を、怪しい人物が度々訪ねていたと」
僕に全く関係ないはずのユリウス様の話を挙げてきたのは揺さぶりのつもりか。変に気取られたくないから隣のサンチョに目配せもできない。今は素知らぬ顔で頷くしか。
「近隣で見慣れぬ魔物を見たとの報告もありました。あれは、殿下が以前中庭にお連れになっていた魔物だったのでは?」
「どういうことです。殿下が元司教とご面識があったとは思えませんが」
「エベックという司教様とはお会いしたこともなかったので……すみません、何の話か」
なんだかもう、狐の化かし合いみたいだよ。どこまで本物の報告なんだか、よくこれだけ挙げ連ねられるなと感心する。実際神職の方とは城にいる方でさえほとんど話したことがないから、しらを切ればそれ以上追及されなかった。ほっとしたのも束の間、材料はまだまだ尽きないらしい。
「昨夜は民の末端に至るまで皆眠っておったようですが、殿下は魔法を使われたとお考えのようだ。どうやってその襲撃とやらを免れたのですかな。その場に居合わせたのであれば、凶徒についても何かご覧になっていらしたのでは。重要な参考情報にございます、是非お聞かせいただきたいのですが」
「あの」
ちくちく続く詰問を遮り手を挙げた。ざっと集まる剣呑な視線に負けじと、腹に力を篭め強く声を出す。
「僕をお疑いなのはよくわかりますが、今は一刻も早く妻を取り戻したいんです。もう一日近く経過しています。これ以上時間を無駄にしたくない」
「何故、奥方を取り戻す必要が?」
……何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
頭から血の気が引いていく。気持ち悪い、視界が暗く澱む心地がする。頬杖をつき僕を見つめる人々の表情はひどく冷たく、人でないみたいに味気ない。
僕の動揺に気づいてか、オジロン様が「口を慎め。サラボナ公よりお預かりしたご令嬢であるぞ」と不快げに諌めたが、司祭はやれやれと溜め息をついただけだった。
「畏れながら。奥方様は王太子妃として入内されたわけではございませぬ、殿下」
聞き分けのない子供に言い聞かせるように、ねっとりと囁かれるそれは、僕にとってただただ不快なものでしかなかった。
「異国の、得体の知れない碧髪の。ご帰国早々お子を授かられていたとは結構なことですが、お生まれになったのはこれまた碧髪の、男女の双子であらせられたそうで」
「双子……なんということだ。しかも男女とは、紛れもなく忌み子ではございませんか!」
芝居がかった悲痛な叫び、非難の声がそこかしこから上がる。何だ、男女の双子だと何か都合が悪いのか?
眉をひそめ人々を見回したが、哀れみと蔑みの視線が綯交ぜになって広間中から刺さるだけだった。──唐突に、記憶の淵をある場面が過った。乳母と初めて顔合わせした日、彼女達が一瞬見せたあの表情。
「男女の双子は忌むべき魂と言われております、王太子殿下。前世で赦されざる罪を犯した者達に神が与えられた、この世で最も罪深き器にございますぞ」
尤もらしい説明の中身もふざけたもので、そんな世迷言をいい大人が信じ込んでいるのかと眩暈すら覚える。
双子だと判じてくれたネルソン医師にだってそんなこと、一度も言われたことないよ。
「しかも、かなりの早産でいらしたそうではないか。お二人とも本来なら死産であったところ、魔物の魔力で辛くも生き存えていらっしゃるとお聞き申した」
「なんと忌まわしい……これを禍つものとせず何とする⁉︎」
「言い伝えの真を証明したも同義。斯様に不吉な赤子もその母君も、民の前には到底出せますまい」
僕が応えないのをいいことに、重鎮達は言いたい放題だ。余程根強い迷信なのか、オジロン様もサンチョもそれ以上何も言ってくれない。だが次いで聴こえた「幸い一方は王子であられたようですから、姫の方はこのまま死産となさるのがよろしかろう」との物言いにはさすがに黙っていられなかった。一言言い返そうと立ち上がりかけた、その時。
指を組み、白熱する詰問を黙って聞いていた大司教が、一際豪奢な司祭服を揺すり、口を開いた。
「我が国にはドリス様がおられる。元よりご正妃にはドリス様をとお勧めしておりました。何の支障がございますか。それより、宰相閣下はご無事なのかどうか……ヴァーミリオン卿がいらっしゃらねば、グランバニアは数日回りますまいて」
────もう、いいだろう。
僕の求める答えは得られない。この人達もまた僕自身を必要としているわけじゃない。僕が持つ、王座に最も近い血統が、あるに越したことはないというだけ。
妻も、子供も尊重する気がないなら、初めから引き留めなければよかったのに。
「……坊ちゃん?」
浮かせた腰をそのまま持ち上げる。目の前の卓に手をつき立ち上がった僕を、サンチョが心配そうに見上げた。首を深く落としたまま「少し、出てくる」とだけ告げて席を離れた。
「お早くお願いいたします。お話は終わっておりませぬぞ」と背に投げかけられる司祭らの叱責を無視して広間を出る。
入口に立つ衛兵が不思議そうに僕を見たが、そちらに構わず階段を降りて、街路を奥へとまっすぐ向かった。昨日の謎の睡眠事件を受けてか、城下はいつもより静まり返っている。近隣の村から集まった人々は早々に帰路につき、城内に住まう人々も民家の扉を固く閉めて、中から恐る恐る衛兵達の様子を窺っている。
そりゃ怯えるよね。安全を考えて城壁の内側に街が作られたのに、その街まるごと眠らされたんだ。
昨日からの騒動で放ったらかしの教会に入り、祭壇に奉じた父さんの剣を鞘ごと掴んだ。警備の神官達に咎められたがそれも無視した。断りなく国宝の剣を持ち出した僕を神官と衛兵達が止めようとしたが、ぽっと出とはいえ面と向かって王族に楯突く気概はないみたいだ。狼狽え人を呼びにいく彼らに構わず、足早に出口へと向かう。
もっと早く、朝起きたときにこうすれば良かった。
「坊ちゃん!」
いざ扉に手をかけたその瞬間、懐かしい呼びかけが僕の動きを遮った。
十四年前、僕を送り出した時と同じ、慈しみに満ちた声。
けれどその主は、今、どこか怯えた目をして懸命に僕を引き留めようとしている。
「どこへ、行かれるんですか。まさか……フローラ様を、探しに行かれるおつもりじゃあ」
上にあがった兵士達と入れ替わりに降りてきたサンチョが、階段途中で足を止め、食い入るように僕を見る。
「なりません! お気持ちはわかりますが、ここは堪えて兵士達にお任せください。どうか」
町民にも馴染み深いサンチョが必死に声を上げている。家の中から様子を窺っていた人々がそろそろと表に顔を出した。彼らはただ眠らされたというだけで、まだこの国で何が起こっているのか知らされていないのだ。
「生まれたばかりのお子様方もいらっしゃるではありませんか。この上お父上まで離れられては、お子様方があまりに不憫です。……どうか、お願いです。どうか……」
「フローラの側には、誰もいないよ。サンチョ」
覇気のない返答が、続く訴えを呑み込ませた。
サンチョと僕以外、きっとこの場の誰も知らない赤子の存在を示唆されて、遠巻きに見守る兵士と街の人達がそれぞれにざわめいた。そのいずれもが今、僕とサンチョの会話に耳をそばだてている。
「僕からも、生まれたばかりのリオ達からも引き離されて。フローラ、苦しい時はいつも一人で泣くんだ」
気づかれないよう。息を殺して。
僕がすぐ隣にいるときでさえ、敷布に涙と嗚咽を吸わせて。
半分くださいなんて言いながら、僕にはいつだって幸せしかくれなかった。狡いひとだ。離さないでって、置いていかないでってあんなに何度も言ってくれたのに。
手放す気なんかなかったのに、…………
「……もう、一人で泣かせるのは、嫌だよ……」
それだけ絞り出し、重い扉をついに押した。ギ、と鈍い音を立てて城門へ続く扉が開く。外に立つ衛兵達が困惑して振り返ったが、彼らに目もくれず城門へと向かう。
宵闇に沈むグランバニア城を、冷ややかな霧が取り巻く。
サンチョも、僕の言葉を聞いた兵士も、街の人々も、開いた扉の内外で固唾を呑んで僕の背を見守っていた。
階段の上からさっき聴こえなかった喧騒が届く。そろそろ重鎮達が追いかけてくるかもしれない。城門から数歩遠ざかったところで、湿った夜風に煽られ、おもむろに喉を開いた。
「──……ピエール」
静かに、呼ぶ。ここで見送ってから数ヶ月、呼ぶのを躊躇し続けた仲魔の名を。自分達のうち誰かが呼ばれたと思ったのか、追ってきた重鎮と兵士達が足を止め顔を見合わせた。
伝播する戸惑いに構わず、闇に向かって呼びかけを繰り返す。
「スラりん。マーリン、ガンドフ、しびれん」
もう数年のつきあいになる。僕を信じ、支えてくれる仲魔達。
十七夜の歪んだ月に雲がかかって、辺りがよく見えない。
不穏な気配を感じとった聴衆がざわめき始めた。魔物の名であることに気づいたのか、背後でサンチョが力なく、坊ちゃん、と呟いた。
必ず来ると言った。僕が喚んだらすぐに気づくと。
「マッド、ラゴン。ミニモン」
グランウォールを越える途中で仲魔になった三匹。共に過ごした時間は短いが、通わせた絆は他の仲魔達と何ら変わりない。
「…………、プックル」
────オオオオオォォォォン!
そうして最後、無二の親友の名を呼んだ瞬間、大地を揺るがす咆哮がどこからともなく響き渡った。
恐れ、どよめく人々が後退りながらも宵闇に目を凝らす。
次第に晴れゆく月の下、異形達の影がぼんやり浮かび上がる。それがなんなのか、悟った人々が次々悲鳴を上げ逃げ出した。阿鼻叫喚、恐怖がその場を支配する。城内へ駆け込む人々、震えながらも場を守ろうと剣を構える人々。そのいずれにも構わず、影に向かって踏み出した。
「フローラが連れ去られた」
緋色の鬣が夜風に揺れる。プックルを筆頭に、その場に現れた仲魔達と視線を交わした。別れたあの日と全く変わらない風貌の彼らは、何が起こったか大体把握しているというように動じることなく各々が頷く。
「助けに行く。力を貸してくれないか」
「なりませぬ!」
まっすぐ乞うた僕を遮ったのは、背後の群衆からまろび出た老候の一人だった。憤りに唇をわななかせ、僕と魔物達を睨みつけて彼が叫ぶ。
「あ、あなた様が真実、王家の証の主だと仰るなら。この上過ちを繰り返すことはおやめくだされ。グランバニアをお見捨てになられますな!」
「僕の妻は、見捨ててもいいのか」
間髪入れずに言葉を返す。居丈高だった重鎮達が息を呑みたじろいだ。
さっき言われっぱなしだったからって、オジロン様が反論しないからって。僕も簡単に言い包められると思ったか。
「僕の母は。父以外の誰が当時、探したのですか」
重ねて問えば、彼らは苦々しく顔を突き合わせ口籠る。
「……お探し、しました、とも」
「それで自作自演だと? 母が自ら仕組んだ茶番劇だと。父に、その父の遺志を継ぎ母を探し続けてきた僕に、あなた方はさっきなんと仰いましたか」
「殿下こそ最もよくご存知ではないのですか!」
俯いた老人を庇い進み出た鎧姿の逞しい御仁が、苛立ちも露わに声を上げた。
「王妃もまた魔物遣いだったのですぞ! そして王妃が去って以来、魔物如きに我が国が脅かされた例はございませぬ!」
「その言葉の通りだとすれば、妻を攫わせたのは僕、ということになりますね」
もはや憤りを隠さず押し殺した声で問い質せば、お偉方は酷く青褪め後ずさる。
マーサ妃の血を引く魔物遣いは僕であって、妻じゃない。
僕が、自分の妻を利用して、母親の拉致を再現したって?
「──……ッ、ふざけるな」
握りしめた拳の内側に爪が食い込む。炎の指輪がちり、と燃えるように熱を帯びた。もっと、もっと強い痛みで自分を抑えないと、腹の底でふつふつ沸る怒りに焼き尽くされそうで。
何の意味がある。そもそも母が父さんを欺き、自ら身を隠しただけだと? 妻を隠したのも妻か、僕の仕業だと? 悪意でグランバニアを陥れる為に? 一連の事件は全て、マーサ王妃が主導し裏で密かに通じた僕らが共謀した結果だって?
一体どの口で父の帰りを待っていたというのか。僕の帰還を真実喜んでくれたのはサンチョとユリウス様、ヘラ女官長様と、オジロン王だけだろう。僕や父さんの不在より、お前達にとってはヴァーミリオン宰相閣下の不在の穴の方がずっとずっと大きいのだから。
これは、呪詛だ。
言うべきではない。父もきっと耐えたのだから。言えば、この人達に大義を与えることになる。
それでも。
「僕が、父が居ないだけで滅びるというなら、滅びてしまえ。こんな国」
吐き棄てた瞬間、居合わせた全員が呼吸を止めた。
沈黙の水面がざわつく。無数の憤りが昂まり、膨張していく。
「……なんと、いうことを……!」
わなわな震える家臣達を、冷めきった目で流し見た。
ぽっと出の若造に許される放言ではない、だが撤回する気もない。唯々諾々と従うつもりも、そもそも滅私奉公で国に仕えるつもりも僕にはなかった。
これ以上耐えられるものか。全ての罪を、原因をマーサ王妃になすりつけて二十年間変わらなかった。この人達にこの上、何を理解せよと言えるのか。
父さんが僕に一切祖国のことを話さなかったのも、もしかしたらそういうことなのかもしれない。
ちらりとサンチョを見遣れば、彼は顔をくしゃくしゃにし、丸い瞳を真っ赤に潤ませて僕を見つめていた。
皆と同じく僕に失望しているのか、それとも何かを悔いているのか、一瞥しただけではわからなかった。
「主の御乱心をお諌めするのは家臣の務め。お止めせよ! これ以上の暴挙を見過ごすわけにはゆかぬ」
「何と無礼な……大司教‼︎」
叫んだのはサンチョだ。たった今まで気落ちしていた彼とは思えない、腹に響く怒りの声。だが大司教は全く意に介さず、その場にいる人々すべてに高らかに言い渡す。
「第二の凶王となられるやもしれぬ。先程のお言葉、皆もしかと聞いたであろう」
さながら王の如く振り撒かれる呼び掛けに人々がざわつく。怯えた目で僕と仲魔達をちらちら盗み見て。
「魔物を率いる王など言語道断! オジロン陛下。今すぐこの方の過ちを糺されませ!」
「黙れ、痴れ者が! 正統なる王太子殿下への暴言、誰が許してもこのヴェントレが許さぬぞ‼︎」
怒りで顔を真っ赤に茹で上げたサンチョが荒々しく叫び、僕を庇って立ちはだかった。その背を無感動に見下ろす。どうでもいい。怒りも、正論もどうでもいい。
「糺したければ糺せばいい。元より王位に興味はない」
他の家臣ばかりでなく、サンチョも真っ青になり振り返った。殿下、と弱々しく囁く彼にも構わず、膝下に集った仲魔達だけをまっすぐに見つめて告げる。
「こうしている間に一日無駄にした。行こう。フローラはまだ出産したばかりなんだ」
誰より忠実な魔物達が一も二もなく頷いて、サンチョがますます言葉を失くした。代わりに投げかけられたのは、ひどくしわがれた低い声。
「この期に及んで身勝手なことを仰る。王太子殿下は暫し、頭を冷やされた方がよろしいようですな」
何故か薄く笑った大司教の指揮の下、槍を構えた神官達が一斉に僕らを取り囲んだ。聖職者のわりに統率されてる。グルルと唸るプックルの首を軽く叩いて宥めながら、そんな冷めたことをぼんやり考えていた。
ああ。もう、面倒だな。
一切をかなぐり捨てて、ここで神官達を斬って逃げたら、僕も今度こそ凶王と並ぶ愚王として語られるだろうか。
「殿下が向かわれたところで、魔物の手中で産褥の娘御がいつまで生き存えるとお思いか。全く無駄な労力というもの」
「貴様ら……不敬にも程があろうが……!」
怒りにぶるぶる震えるサンチョが頭に血を昇らせ、出産の事実を知らされていない兵士達はどういうことかと更にざわめく。この大司教にもオジロン様は何も言えないご様子だ。だったら自分でどうにかするしかない。強行突破か、そう思った瞬間だった。
突如、深い闇を切り裂き辺りに真っ白な光が満ちた。
丸い顔を目一杯上向け、サンチョが茫然と呟く。
「あれは……、パパス様がお求めになられていた……!」
どうして、ここに。
「──……天空の、剣」
父さんが僕に託した伝説の剣。何度もその力を求めたが、希みが叶ったことは一度もなかった。
勇者一行の絵画は教会に飾られていることが多いから、見知った者は多いだろう。神竜の鱗と翼を模った荘厳な剣、それが今、グランバニア城上空に音もなく浮遊していた。さながら審判者の如く、眩い光を振り撒きこの場に集う人々を見下ろして。
何故、と思った矢先、ある可能性が脳裏を過ぎった。まさか、この場に勇者がいるのか⁉︎
「……莫迦な! 貴様にそれを扱えるわけ、が……ぐぁあッ‼︎」
無我夢中で群衆に視線を走らせた瞬間、大司教と彼に従う数名の司教、神官達が奇声を上げてもんどりうった。凡そ半数以上の神官に変化はなく、突然苦しみ出した同僚達と天空の武具を狼狽えつつ見比べている。介抱しようと身を屈めた神官が、ひっ! と悲鳴をあげ後ずさった。
「な、なっ……」
「うわあぁっ! 大司教様⁉︎」
いびつな魔力が満ちる。さっきまで人の顔があったそこには仄暗い深淵が揺らめく。老いた大司教が、敬虔なる神官達が僧服の袖で深淵を掻きむしると、やがて光の見えないそこにぼんやり何かが浮かび上がった。
骨だ。ずっと昔に朽ちた者の、肉を失った白い骸。
「────落ち着いて」
尻をつき逃げ惑う神官の首が鷲掴まれた、その骨の腕にプックルが噛みつき力任せに砕いた。よろめいた骸の首を、懐に飛び込んだピエールが一閃する。電光石火の鮮やかな攻勢だった。呼吸ひとつで主人の意のまま動いてくれた彼らに感謝しつつ、僕も鋭く剣を薙ぐ。
「それらはもう、あなた方が知る相手じゃない。喉を狙って。魔法を使える方は後方から援護を!」
声をかけつつ襲いくる骸を斬撃で退け、続け様に喉を割った。よろめいた骸骨の喉骨をすかさずマーリンの炎が焼ききる。「どなたか、オジロン様を頼みます!」と振り返り叫べば、家臣達は顔を強張らせながらも槍を握り直し頷いた。腰を抜かしたオジロン様がサンチョと兵士達に支えられ城門まで後退する。それでいい、だいぶ暴れやすくなった。
たった今まで彼らの同僚だったものを次々斬り捨て捩じ伏せる。ピエールの剣にプックルの牙、スライム属の援護とマッド達の怪力。マーリンにくっついて炎を撒き散らす幼いミニモンの手綱はガンドフが握っているようだ。
傍目には同士討ちにしか見えないかもしれない。そんなことを思い、ふと失笑する。
冷淡、残酷な後継だと、失望するならすればいい。僕にとってのあなた方こそ、今はこの魔の骸も人も大差ない。
『……ゲマ様もお人が悪い。お知らせくださればもっと早く献上できたものを』
骨が擦れる音を立てて、先刻まで大司教だったものが不気味に笑った。吸い込まれそうな漆黒の眼窩を怯むことなく睨み返す。
「こんなところで答え合わせをくれるとはね」
握り慣れた父さんの剣を改めて構え、戦意高揚する仲魔達を背後に従えて、骸の魔物達と相対する。
久々だ。この感覚。
戦いを前にこれほど高揚を覚えるとは、僕も大概、神経が鈍っていたみたいだ。
「足止めを喰らってる暇はない。……すぐ終わらせるよ」
夜半の戦闘は意外と呆気なく決着がついた。骸達が迷いなく僕を狙ってくれたお陰で逆に仕留め易かった。兵士達は及び腰だったが、それでも民や、戦えない人々に被害が及ばないよう奮闘してくれた。
正直、ユリウス様のお姿がこの骸達の中に見当たらなくてほっとした。訃報があった直後なのだからここに居なくて当然だが、せめて彼の御霊が安らかであることを願ってやまない。
何故天空の剣が現れたのか、大司教達の変幻が解けたのか……何もわからない。わからないが、あの光がラーの鏡と同じように魔物達の術を無効化したのだと思う。これで全部片付いたと思いたいけど。
空に浮かんだ天空の剣はいつの間にか消えていた。
人々は気づいているだろうか。さっき天空の武具が放った光で悪しき魔物達は本来の姿を露わにした。同時に居合わせた僕の仲魔達が、一匹たりとも苦しまずこの場に立っていることに。
「坊ちゃん」
鞘に父さんの剣を納め辺りを見回したところで、サンチョがじっとこちらを見つめていることに気がついた。小さな丸い目をめいっぱい見開いたサンチョは、やがてしおしおと瞼を伏せ首を垂れる。
「大変、ご立派な戦いぶりでございました。これほどまでにお強く……修練を、積んでいらしたとは……」
「サンチョ」
口籠る彼を遮って、ただ一つ、今託したい願いを口にした。
「子供達を頼む。ホイミンも……きっともうすぐ、目覚めると思う」
また泣きそうな顔で見上げたサンチョと視線を交わらせ、静かに頷いてみせる。
わかるよ。サンチョが真実僕を慮って、母さんの話をしなかったこと。
ドリスとの婚姻を勧めた理由も、今だって僕を第一に考えてくれていることも、わかってる。
そんなサンチョだからこそ。僕が今、何を譲れないのかもわかってくれているんだろう?
神官達に代わり、何度も共に見廻りに出た兵士達が周囲にざっと跪いた。つい先日まで同僚として接していた彼らが、慇懃なまでの敬意を露わにする。
「王太子殿下への度重なるご無礼、我々一同、心より深くお詫び申し上げます」
誰一人顔を上げぬ中、野太い声を響かせたのは兵士長だった。その妻は乳母として、フローラ不在の今も子供達の世話をしてくれているお一人でもある。
「我々はグランバニア王家にお仕えする者! 何卒、今一度王太子妃殿下の救出をお命じ下さい!」
先ほどまでの狼狽が嘘のように、城前の道を埋め尽くす人数の兵士が一様に膝をついている。同じ角度で顔を伏せた彼らの表情は全く見えない。その陰にあるのは畏れか、それとも胸に潜めた嘲りか。
手放しに信じられない自分が嫌になる、けど。
「……皆さんがご覧になった通り、この国にも魔族の手が及んでいます」
燻る内心を落ち着かせ、無難に言葉を選ぶ。どんなに思うところがあっても、今は反発すべきじゃない。
ここにもまだ、護って欲しいものがあるから。
「天空の武具の加護で、教会内部にとり憑いた魔物が炙り出されました。でも多分、これだけじゃない。……かつて、父が落命したラインハット王国でも、魔族が当時の王妃殿下に成り代わっていたんです」
王妃殿下と言った瞬間聴衆が再びざわめいた。自国の……マーサ妃と重ねたのだろうが、長年の刷り込みは簡単に覆らないのだといっそ虚しくなる。
僕を産んだ直後に姿を消したんだろう? なんで、それでマーサ妃も魔物だったのではなんて思えるんだ。……ああ、でも、そうかもしれない。この人達から見れば魔物遣いなんて異質な存在、そう思って当然なのかもしれない。
僕もまた、魔物の子に見えると。そういうことなんだ。
「民を、守ってください。あなた方も生きてください。父が皆さんに託したのは……そういうことなんだと思います」
精一杯の理性で抑えた綺麗事を口にし、顔を背ける。
だって、今ここでフローラを救いたいのは、本当に助けたいと思っているのは僕だけじゃないか。僕以外の誰が彼女を救えるというのか。あなた方はグランバニアを守るためにここに居るのであって、本当に守るべき相手は僕らではないのだ。
「失礼ながら、先ほどの……神器が顕現されましたのは」
恐る恐る尋ねられて、憂鬱に拍車がかかる。畏怖の奥に垣間見える期待がひどく重苦しい。
もう何度落胆し、絶望し、己に失望しただろう。
「……僕じゃありません。僕は、勇者じゃありません」
先王パパスが真実求めた存在は僕じゃない。
またそんな目で見られるのが嫌で、彼らを見ずに背を向けた。仲魔達へ向かって一歩踏み出したその時、人だかりを掻き分けまろび出た者がある。
「……王太子、殿下。テュール様!」
その場にいた誰とも違う、僕を知る人の呼びかけに思わず振り返った。王太子妃の拉致を証言しながら冷遇されていたサンチョの縁戚、寝宮従き筆頭女官のクロエさんが、乱れた呼吸で何かを握り締め佇んでいた。どよめく兵士達に構わず進み出て、冷えた地面に跪く。
「こちらを、どうか。お召しください。残るはお仕上げのみでございます」
立ち上がるよう促そうとしたが、強く遮り彼女が両手を差し出した。黒っぽいそれは月明かりのみではなんなのかよくわからない。ようやく息を整えたクロエ女史が、苦しげに声を震わせて告げる。
「フローラ様が、この一ヶ月半……お床にて手がけていらした、テュール様の為の剣帯でございます。来たる立太子の儀に間に合いますよう、少しでも御身をお守りすることが叶えばと、毎日懸命に針を刺しておいででした」
────フローラが。
綺麗に巻かれた革帯を受け取り、表面を指でなぞる。見覚えのある繊細な縫い目は以前妻がホイミスライムを模ったのれんを修復していた、あの時と同じもの。まるで元々描かれていたかのように、国章の意匠が硬い革面に見事縫い上げられていた。両の翼を雄々しく広げた漆黒の鳥は金糸で縁取られ、傍らに僕の正式な名が美しく刻まれている。それらを紫の蔓の刺繍が上品に彩っていて、連綿と続いてきたグランバニア王家の歴史を記しているようにも見える。
……何、やってるのさ。こんな硬くて細いもの、さぞ大変だっただろう。子供達の産着を作ってあげたいって、それだけだと思ってたのに。
初めて君が贈ってくれたものを、こんな形で受け取るなんて。
「待って!」
熱くなった目頭を抑え、剣鞘に革帯を手早く繋いだところで一際高い声がした。場に似合わぬ幼い声の主を振り返れば、彼女はドレスの裾を汚し、息を切らしてこちらを見ている。
……、ドリス?
またもや意外な人物の登場に思考が止まった。つかつか歩み寄った少女は初めて見る真摯な顔をして、臆さずまっすぐ僕を見上げる。
「お祖父様が、飛んでいったわ。昨夜のことよ。ううん、昨夜だけじゃない。前にもこの城から飛び立つのを見たもの」
宰相が?
妻と同じく昨晩から行方知れずの重鎮の目撃証言に、固唾を飲んで見守っていた家臣達が再びざわめき始めた。
「ド、ドリスや? 一体何を言い出すん」
「この靴を履いてたの!」
ずい、と突如鼻先に押しつけられたのは、羽飾りがついた不思議な形状の、一足の靴だ。
「お祖父様の部屋で見つけたの。手掛かりになるかもしれないでしょ? ……奥様を助けに行くんでしょ、違うの⁉︎」
そのまま少女から靴を受け取り、謝辞の代わりに深く頷いた。爪先はオレンジに塗られ、それが鼻というように目玉の装飾を両脇につけている。一見するとそういう魔物だと見紛いそうだ。踵の左右にキメラの翼の装飾があり、どうやらルーラと同じ、風の魔力を帯びている。靴の内側に何か記されているが、古語なのか僕には全く読めない。
造りからして、座標を指定して飛ぶ類の魔道具に違いなさそうだが。
「司教らの飛び靴ではないか。何故宰相が持っておる?」
ついさっきまで狼狽えていたオジロン様が、怪訝なお顔で靴を見ている。どういうことかと目で問うと、彼はうむ、と口髭を摩り説明してくれた。
「国内各地の教会へ飛ぶ為の魔道具だと聞いた。靴底に転移点を刻み、内側にその行き先が書かれておるそうだ。……大司教をはじめ教会の限られた役職の者だけが使うものと聞いておったが、……その者らの正体がまさか、あれとは……」
そんな便利な魔道具を、この物言いだと教会が独占していたというようにとれる。だから早々判別できないよう古語で書かれているのか。
いったいいつから、この国の教会は魔物の手に堕ちていたのだろう。
仲魔達に目配せすると、マーリンが音もなく進み出た。月明かりも碌にないこの闇の中、僕の手元を覗き込んだマーリンの眼はそこに記された文字を的確に読み取る。
「北、と書いてございます。ご主人」
オジロン様だけでなく、兵士達も皆一様に動きを止めた。
本来下級の魔物に数えられるマーリンが人語を、しかも敬意に満ちた言葉を自然に扱ったことが衝撃だったらしい。そんなことに驚くくらい、ここの人達は魔物と触れ合うことがなかったんだな。
人間が区分した等級に何の意味がある。人だろうが魔物だろうが、触れてみなくてはその本質を知りようもないのに。
「宰相が飛んだ先がその靴と同じとは限らぬが……」と尚も及び腰ながら前置きした上で、叔父上はこの靴が行き着く先について話してくれた。「北とはこの城の北西にある、小さな教会だ。橋を架け難い立地ゆえ、船でゆくのだがこの時期は流れが悪い。そこから北に進むと、塔がある」
「塔?」
この周辺は視察で随分周ったが、船に乗ったことはない。問い返すとオジロン様はうむ、と唸り、髭を弄りつつ答えた。
「かつては神の塔と呼ばれておった。凶王が最期、御籠りになった地でな……以来魔物が増えて、今では悪魔の塔と呼ばれておるよ。北の教会はそちらの管理も兼ねておるのだ」
神の塔、だって?
単なる偶然だろうか。ラインハットの南にも同じく神の塔と呼ばれる建造物がある。まさか、海を超えてあの塔のことを指していたりしないだろうか。実は地続きだとか、思った以上に近いとか?
僕の動揺をよそに、オジロン様は不思議そうに首をひねる。
「だが、何故宰相が教会に……? 今宵は兄上の慰霊の席であったというのに」
その呟きがどこか呑気に聞こえてしまうのは、僕の気がひどく急いている所為だろう。
「いいや、行こう。違ったら戻ってくればいい」
僕の呟きを聞いた仲魔達が各々頷き、オジロン様とサンチョは青褪めた。地面に雑な魔法陣を描き、仲魔達と共に輪の中に収まる。慌てたオジロン様が待て、と制したが「北の教会には僕達が行きます。皆さんは他の教会を当たってください」とだけ告げて迷わず靴に足を差し入れた。
両足に履いた瞬間、思念を挟む間もなく転移魔法が発動する。
坊ちゃん、と。
遠ざかる空間の向こう、サンチョの悲痛な呼びかけが聴こえた気がした。