Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】 作:サクライロ
【side Flora】
沼底のような暗闇からふっと意識が浮上する。
堅く冷たい石床の上、灯りは壁に誂えられた幾つかの炎だけ。地下、なんだろうか。ここは暗くて寒くて、今が夜なのか昼なのかも判然としない。
頭がぼうっとする。眠いわけではないのに何故か全身が鉛のように重くて、上体を起こすこともままならない。どうやら首と両手両足を、鎖のついた枷で繋がれている。魔封じの呪が施された枷の感覚に覚えがある。身の内を流れる魔力の奔流を無理矢理堰き止められる、この感じ。
それとは別に、ほんのわずかの身動ぎで下半身……股の中から熱いものが流れ出るのを感じた。薄い寝衣が濡れて太腿に張りついている。ああ、もう綿布が吸えなくなってしまったんだわ。息をするだけで余計に溢れてしまう気がして、できるだけ身を縮めて小さくなった。暖をとれるのは自分の吐息だけ、ほとんど意味などなかったけれど、懸命に胸許を暖める。
「──……、……──……」
うつ伏せで潰れた乳房が痛い。肩で必死に庇っていたら、どこからか唸り声が聞こえた気がした。魔物かもしれない。恐怖で息が詰まったが、音はすれども近づいてくる気配はない。
何とか顔を傾けてそちらを窺い見ると、猪の顔をした厳ついオークと、いつか見送ったメッキーさんに似たキメラが、些か困惑した様子で私を見下ろし何やらぼそぼそ言い合っていた。
魔物特有の言語なのか、会話の内容は全く聞き取れない。
こちらを盗み見しながら小声で言い合ったあと、しぶしぶキメラが去っていった。気怠い溜め息をつき、離れたところにオークがどかりと腰を下ろす。
朦朧とする意識を掻き分けて、記憶を少しずつ手繰り寄せた。真っ先に浮かんだのは遥か遠く、眼下にゆらめく真っ黒な水面と巨大な月の影。
そう、だわ。青い凧の魔物に身体を掴まれて、夜の空を飛んだの。ご寝所にテュールさんの仇の、魔族が現れて……捕まってしまって。あの月影は海か、川かしら。高いところが苦手な私はきっと、運ばれた際に気を失ってしまったのだ。
「……ここは……、魔界、ですか?」
座り込んだオークに恐る恐る問うた。返事は期待していなかったが、彼は私を一瞥すると、さも不愉快そうに人間の言葉で応えてくれた。
「残念だが違う。何故そう思った?」
「魔界に……、夫のお母様が囚われていると聞いたので……」
言葉が通じたことにほっとしつつ、問われるまま答えた。普段の私ならもう少し頭を回せた気がする、けれど、もうこの時は思考を繋ぐので精一杯だった。果たして、返った嘲笑はぼやけた意識を覚醒させるに十分だった。
「囚われてるだと? そんな可愛いもんか。あの女は自ら望んであそこを治めてやがるんだ」
愕然とする私を魔物が鼻で嗤う。一体誰の話をなさっているのかしら。私は夫の母と言っただけ、オークが語るその女性像は、王城の皆様から伺ったお義母様のお人柄とは似ても似つかない。
「後継者が現れたと聞いてはいたが、あの女の息子が生きていたとはな。子を捨てて魔界に安住するなど、慈母が聞いて呆れる」
動揺する私に目もくれず、オークは額面以上に憎しみの篭った皮肉を吐き捨てた。恐らく他のどなたかと勘違いしているんだと思う。真実がどうであれ、夫がこの場にいなくて良かったと心から思ってしまった。
例え誤解であっても、お母様に捨てられたなんて彼に思って欲しくない。
「あんたのその血は何だ。ベホイミでも治せないと仲間がこぼしていた」
「……死産したばかり、なんです。まだ、胎が閉じきっていないだけ、ですわ……」
他に怪我しているところはないはず。下腹部に停滞する鈍い痛みをこらえ、半分真実を織り交ぜた嘘を絞り出した。
これは、悪露だ。産後、子宮から徐々に排出される血や体液をそう呼ぶ。重い月経のようなもので、ひと月は続くと聞かされた。特に産後三日目くらいまでは鮮血が多く出ると。
本来ならこまめに下着の綿布を替えた方が良いけれど、この状況でそんなことができるはずもなく。
「ほっほっほ。なんとも痛ましい姿ですねぇ」
聞き覚えのある笑い声。視線を上げて、思わず目を瞠る。
ついさっき私を連れ去った、テュールさんがゲマと呼んだ青い顔の魔族が長いケープをはためかせ、目を凝らせば確かに宙に浮いていた。その後ろに馬の頭をした魔物と、さっきここを去ったばかりのキメラ、そして人間の殿方が一人付き従っている。どうやら先の足音は、馬頭の魔物の蹄によるもののようだった。
ほとんど本能的に顔を伏せた。従順に、いっそ怯えて見えるよう。必要以上に彼らの興を惹くことがないよう。
子供達はクロエさんが隠してくださった。御守りも使ってもらったもの。気配は完全に消えていた。見つからなかったはず。大丈夫な、はず。
「再会の歓びを分かち合いたいのはやまやまですが、私は一度、魔界へ戻らなくてはなりません」
恐ろしく感情を読めない声で言い放った後、悪魔が口許にうっすらと冷たい笑みを浮かべた。
「あの男……貴女の夫は、マーサ・シエルの息子ですね?」
心臓が、一瞬凍りつく。
平静を装ったが、魔族が見逃すはずもない。濁った血の色にも似た、冷淡な赤い瞳が私を捉えた。
魔界に囚われている人間は複数いるのだと無意識のうちに思い込んでいた。……まさか、本当にお義母様だけなの? 私の失言で確信させてしまった?
知らなかった。知られていなかったんだわ。私が軽率にお義母様のことを口にしたから、もしかしたらお義母様こそ、隠し通すことで必死にテュールさんを守っていらしたのかもしれないのに。
今正に子供達の存在を隠そうとしている自分と、かつてのお義母様の姿が重なった。
「風貌、歳の頃を鑑みてもマーサの置き土産と判じるのが妥当。どうやら類稀なる魔の資質も備えている。しかしまぁ、十余年前屠った戦士がグランバニア王だったとはね。当時気づいておれば、奴隷にするより有益に使えたものを」
思わず瞠目し、事も無げに語る悪魔を見上げる。
間違いない。テュールさんが仰っていたお義父様の仇は、そして幼かった彼を十年、邪教の監獄に閉じ込め使役したのは。
「扉の番人と紫王の仔。そこに天空の血が交わった。さて、ここからどう転ぶのでしょうねぇ」
天空の、血?
呆然とする私を、その場にいた他の魔物達がぎょっとして見つめた。もう必死に首を振るしかできない。愉しげに嗤っているのは青い魔族だけだ。
番人とはお義母様のことでしょうけれど、天空の血って……
恐ろしく誤解されている気がする。確かに私は碧髪だけれど、ただの非力な人間だ。そう思わせる要因があることは否定しないが、私が凡人に過ぎないことは私自身が誰より良くわかっている。
なぜそんな戯言をまことしやかに囁くのか。気になる、けれど今はとにかく何一つ認めるわけにいかない。命を賭けても守ると誓ったあの子達とあの人を、傷つけさせるものですか。
「私が天空人のはず、ないではありませんか。ただの人間です。そも死産だったと申し上げました」
「どうだか。あの女もそんな虚言で我々を惑わしたのでね」
居合わせた面々に聞かせたくて反駁したが、魔族は薄気味悪い笑みを貼りつかせるばかり。
この方は元より、私の言い分など欠片も信じていない。
「紫の血が欲しかったなら、安易に手を下さなければ良かったのです。私にも、先王陛下にも。あなた方の無知と軽率が招いたことだわ」
更に反論を重ねたら、意外にも青い魔族は自嘲するが如く苦い笑みを浮かべた。
「……ええ、ですから大人しくお叱りを戴いてくるのですよ。我らが主にね」
主、とは一体誰のことなの?
魔界に行くと言っていた。悪い想像が頭から離れない。その主とはまさか、魔王と呼ばれる存在に他ならないのではないの。
私は、テュールさんは一体、どれほど恐ろしい、強大な運命に巻き込まれているのだろう。全ては神託が示す通りだというの?
勇者になれなかった私達が、どうして。
「まぁ、話の続きは戻ってからいたしましょう。その頃にはマーサの息子も片づいているでしょうから」
「何をする、つもりなの」
無意味な問いが口をついて出た。憎らしいほど機微を見せない蒼い顔が、唇だけを動かし冷たく答える。
「新たな紫王は我々が飼い殺す。傀儡が最良、意のままにする方法などいくらでもある」
「あなたに夫は御せませんわ」
「御せぬなら挿げ替えるだけのこと。要はあの血が我々の手にあれば良い。貴女の血が入った仔なら尚よろしいが」
動揺、したくないのに。瞳にわずか浮かんだであろう絶望を魔族は見逃さなかった。するりと私に近づき、私にだけ聞こえるようローブを覆い被せて囁く。
「……迎えに来ぬほど薄情な伴侶ですか? せっかく我々が、手の届くところに留まってやっているのに?」
ねっとり纏わりつく愉悦の声に絡め取られる。
何もできない。無力でお荷物になるだけで、だからこそ、足を引っ張りたくなかった。役に立ちたかった、あの人の力になりたかった。弱いからこそ、彼の弱みにだけはどうしてもなりたくなかったのに。
今の私は正しく弱みだ。ここで期待される私の役割は──囮、でしかないのだから。
「いいですねぇ! これは見ものだ。是非とも終幕には立ち会いたいものです。愉しませてくれることを期待していますよ」
焦点が合わない。もはや一言も言い返せない私を高らかに笑って見下ろし、蒼い魔族が踵を返した。「魔封じが解けぬよう厳重になさい。油断すると灼かれますよ」と馬耳の側で囁いて、赤紫のローブが音もなく虚空へ消える。しんと静まり返った冷たい空気の中、胸に立ち込めた暗雲はひたすら重苦しく私の思考を支配する。
駄目です。絶対に来ては駄目。
この者達の第一の目的は、あなた。グランバニアを今度こそ意のままにする為に、あなたを手に入れられなければ、次はきっと、今度こそ子供達が──……
その先に彼らの、何らかの目的があるの。紫の血が必要だと、そう言っているの。
……結局私が、あなたを追い詰めてしまうの?
グランバニアに行こうと言ったのは私。嘘までついて無理矢理同行したのは、私。
これで本当に良かったのでしょうか。リーシャさん。
先読みの不幸を免れたかった。あのひとを絶対一人にしないと誓った。足手まといになりたくなかった、妨げになるくらいなら見捨ててくださっていいと思った。ああ、でも──……
「おい。女」
茫然と石床に伏せていると、頭上に低い、不機嫌な声が落ちてきた。馬頭の魔物が苛立ちも顕に見下ろし、蹄で背を蹴り私を揺さぶる。
「ゲマ様がああ仰ったから、お戻りになるまでは生かしてやる。その鬱陶しい血はどうすれば止まるんだ」
正直、このまま意識を失ってしまいたかった。気怠さを振り切りなんとか顔をそちらに向ける。人間よりずっと大きな体躯の、筋肉質な馬の頭が冷淡にこちらを見ていた。
「……出来れば、綿布と着替えをご用意いただきたい、です。手枷も外していただけると嬉しい、ですけれど……」
思いの外声が掠れる。なんとかそう答えると、魔物はちっと舌打ちし後ろを振り返った。
「おい、すぐにメンプとやらを持ってこい」
「私にその毒婦の世話をせよと?」
──……どなた?
答えたのは手下らしき魔物ではない。彼らの背後にご年配の人間らしき殿方が立っていた。魔物達が大柄で存在感があるから、より小柄な人間は今まで意識の内に入らなかったのかもしれない。
面識のない方だと思う。父より老いた白髪を綺麗に撫でつけたその殿方は、お召し物と立ち居振る舞いから相当高位の方であることが見て取れた。憎悪が滲む低い声に聞き覚えはない。私には一瞥もくれなかったが、隠す気のない敵意は雹の如く全身に突き刺さった。
「そんなことより、先刻の話はどういうことだ。十余年前屠った戦士が先王陛下、だと」
その方がまっすぐ睨み据えているのは私ではなく、馬の魔物の方だった。低く震える声から憤りと悲壮が迸って、さっきの魔族に感じたものとは違う恐怖が私を苛む。翻って、馬の魔物の方は大して意に介した様子はない。鼻を鳴らし、つまらなそうに吐き捨てた。
「宰相殿は耳が遠くなられたようだ。その女を捕らえた意味をお忘れではあるまいな?」
その一言に弾かれたように、男──『宰相殿』の苛烈な瞳が一瞬私を凝視した。
臓腑をわし掴まれる心地がする、強烈な憎悪を肌で感じる。きっと理由なんていくらでもあるのだろう。力なく顔を背けた私と宰相様を見遣り、魔物が淡々と続けた。
「正しい、在るべきグランバニアを取り戻したいのだろう。精々ゲマ様の意を汲んで動くのだな。心配せずともその女を紫王の元へ戻しはしない」
「片付くだの挿げ替えるだの、不愉快極まりない戯言を申していたではないか。斯様な狼藉を許した覚えはない!」
「黙れ。痴れ者が」
殺気じみた鋭い応酬に戦慄が走った。私が伏した石床をびりびり震わせて、馬頭は厳つい声を低く漏らす。
「忌々しいのはこっちだ。ゲマ様が天空の血を疑っていらっしゃる限り、その女を死なせるわけにはいかん」
冷酷な、血も凍りそうな視線が幾つも頭上に降り注いだ。恐ろしくてもう息を殺すしかできない。決して歓迎されても、憐れまれてもいないのに、生きることを望まれない中で私は生かされなくてはならない。
惨めすぎて喉に迫り上がる嗚咽を、唇を噛んで必死に耐えた。
やがて苦々しい溜め息を残し、幾つかの足音が遠ざかっていった。宰相様はどうやらあのオーク達に追い立てられて行かれたらしい。今更だけど、どうしてそんな立派な方がこんなところに。虚な頭でぼんやり考えつつ、ほとんど生き物の気配が失せた冷たい空間で、すぐ側で私を見下ろしている馬頭の魔物が動くのをじっと待った。
「……ゲマ様。何故…………」
ややあってぼそりと落とされたそれはほとんど聞き取れず、彼もまたカツカツと蹄を鳴らして去っていった。
来ないでと願う気持ちと、きっと来てしまうであろう浅ましい期待。私が彼を絶望に突き落とす。嫌。嫌、絶対に嫌。
どうしたらいいの。もう、……何を願えばいいの。
泣く体力も残っていなかった。息苦しい。全身が何かに潰されているみたいに妙に重くて、酷く怠いし肌寒い。張った胸の中身を取り出したいくらい乳房がじんじん痛む。何故か目も開けていられなくて、冷たい床に全てを預けて息を吐き縮こまった。
何も考えたくない。
今はただ、眠りたい。
◇◇◇
【side Tyr】
降り立った先は湖水の畔、やや寂れた教会の前だった。
真っ黒な湖の向こうは木立の影が並ぶばかりだが、ピエールが「あちらが城にござ候」と顎をしゃくった。頷き、年季の入った屋根を振り返る。そこが北の教会なんだろう。
仲魔達には少し離れた木陰に隠れてもらい、重い扉を開けて中を窺うと、エプロンをつけたふくよかな中年女性が「はい、はい」と呟きながらぱたぱた足音を立てて出てきた。なんだろう、室内から独特の匂いがする。見たところ一階は教会ではなく、民家か宿になっているようだ。
「夜分にすみません。王城から来た者です」
軽く頭を下げると、女性が不思議そうにこちらを見上げた。「ああ、もしかして宰相様の遣いの方?」と問われ、思わず目を剥く。
「宰相閣下が……あの、こちらに来ていらっしゃるんですか!?」
丸一日捜索してなんの手掛かりもなかった宰相が。つい大声が出てしまい、びくりと後ずさった女性が「な、なんなのあなた。ちょっとマシュー、来てちょうだい!」と慌てて室内に呼びかけた。すぐにやや年若い男性が出てきて、女性を庇い険しい顔で扉の前に立った。
「突然の訪問、申し訳なく思います。実は、ヴァーミリオン宰相閣下の行方が昨夜からわからず、城の者総出でお探ししているところなんです。何かお心当たりがあればお聞かせいただけませんか」
逸る心を懸命に落ち着け問うと、親子なんだろうか、女性と同じ髪色の青年が猜疑に満ちた目を向ける。
「本当に城からおいでに? 失礼ながら、あなたのような官僚様がこの教会にいらしたことはありません。神職の方でもないですよね」
ああ、と思わず自分の服装を確かめる。今更ながら会議の為に小綺麗な格好をさせられていたんだった。兵士でも神官でもない人間が日が暮れてから訪ねてきたらそりゃ怪しいだろう。船で行き来するのも難しい場所だって言ってたし。
口頭で素性を明かしてもいいが、信じてもらえるだろうか。文官が携帯するような身分証は持ってないし、剣を見せて実は王族ですなんて言ったら萎縮させてしまうだろう。
「……西の大陸の、サラボナから参りました。この国の要職の方とご縁がありまして、色々学ばせていただいてます」
腰の剣帯と鞘をさりげなく左腕で隠し、当たり障りない答えを述べた。少し前までそういう名目だったんだし、全くの嘘じゃない。
「あの、宰相様が行方知れずだなんてことありませんから、帰城してそう報告なさっては如何ですか」
番人の如く立ちはだかり、青年はつっけんどんに言い捨てる。入口で揉めているのに気づいた中の人達が遠巻きに集まってきた。なし崩しに追い払われそうな気がして、目の前の親子に必死に訴えたが。
「でも、現に昨夜から連絡が取れないんです。行き先にお心当たりがあるなら教えていただけませんか?」
「いや、おかしいでしょ。逆に何で連絡が取れないんです? あんた本当にお城の方なんですか。宰相様はお忙しいんです。閣下の信を得てなさそうな方に、容易く内情を教えられませんよ」
失敗した。もう完全に警戒されてる。村が少ない北側は国の直轄地のはずだけど、この教会では宰相がなんらかの権限を持っているんだろうか。いっそ全部話そうかと口を開きかけたが、すんでのところで飲み込んだ。釈明のつもりでこれ以上余計なことを口走ったら。
少なくともこの人達、昨日以降の宰相の動向を何か知ってる。やっと見つけた手がかりなのに。
「……じゃあ、これだけ教えてください。昨日の夜、多分今より遅い時間です。この辺りで、魔物が群れて飛ぶような気配を感じませんでしたか?」
焦りを無理矢理飲み下し、何とか宰相と関係ない問いを絞り出した。僕にとってはこっちが核心だけど。「飛行魔なんて、この辺じゃ珍しくも……」と言葉を濁す青年に被せて声を張る。
「行方不明なのは宰相様だけじゃないんです。……女性が一人、連れ去られてます。出産を終えたばかりの」
この訴えに初めて、数人が息を呑んだ。
最も驚愕を露わにしたのは青年の母親。次いで黙って聞いていた、若いシスターと神父が顔色を変えた。残るは怪訝な表情を崩さない青年や職人らしき男性達、年配のシスターだったけれど、この方々が先の王妃の件を知らないはずがない。城の重鎮達と同じで、母さんの拉致に思うところがある方なのかもしれない。
「母さん、神父様達も、もういいから奥に入ってて」
「けど、マシュー……」
青年が人々を追い遣ろうとするのを見て、慌てて更に声を上げた。
「彼女の部屋に魔族が来たのは間違いありません。無理矢理連れ去ったのも。彼女の世話をしていた人が赤ん坊を隠してくれて、それで一部始終を聞いたって……何かが飛び去る音は僕自身が聞きました。だから、飛行魔が連れ去ったんだろうと思って」
さっきとは違う、揺れる瞳でおかみさんが僕を凝視する。
大いに同情してくれ。些細なことでもいい、思い当たることがあるならどうか、なんでもいいから教えてくれ。
「……あなたが探してるのは、そのひとの方なのね?」
真っ直ぐ問われて即座に頷く。交錯した眼差しに、ああ、と悲嘆が滲むのを見逃さず畳み掛けた。
「状況が状況です。目撃者がいないだけで、宰相閣下も連れ去られたのかもしれませんから……当然、どちらも無事に見つかって欲しいと思ってます、けど」
頼む。どうか。
これで駄目なら大人しく引き下がるしかない。両の拳を握りしめ、唇をぎゅっと噛み締めて、僕を見つめる人々の決意が揺らぐのを静かに待った。……居心地悪い沈黙が続いた後、目の前で、緩く息を吐く気配がした。
「綿布をね。お持ちになったの」
「母さん!」
すかさず息子が制するも、母親はおっとりと首を傾げる。
「これくらい良いじゃないの。昨夜、今くらいの時間だったと思うんだけど、ここに立ち寄られてからどこかにお出かけになって……そうよね、神父様? それから今日の明け方にもう一度いらっしゃって、食べ物と毛布と、綿布をたくさん持って行かれたの」
同意を求められた神父が狼狽えて顔を上げた。一瞬ばちっと目が合ったがすぐに逸らされる。
「はい……、昨夕私が帰還したあとお見えになりました。昨日、私は王城の儀式に参列しておりまして」
丁寧な言葉で答えた神父は目を泳がせている。各地の教会から神父が来ていたのは知っていたが、個別に顔合わせはしていない。見覚えはあるが判断がつきかねているという顔だ。ああそうか、神父様達はあの靴で城から簡単に戻れるのか。
ここの神父様も魔物じゃない確証を持てない以上、あまり手の内を晒したくない。彼はきっと違うと思う、けど。
「昨夜閣下がここを出られてしばらくしてから、上を何かがたくさん飛んでく音がしたの。夜だし、直接見たわけじゃないけど」
やや挙動不審な神父様を気にすることなく、人の良さそうなおかみさんは早口で一生懸命教えてくれる。そういや今夜はやけに静かね、と恐る恐る外の気配に耳を澄まして。
「今朝おいでになった時はひどくご機嫌斜めで、あたし達は何も聞けなかったんだけど……それきり今日はいらしてないの。お兄さん、今夜は泊まっていったら? 明日にはまたお見えになるかも」
「いえ」
おかみさんの気遣いの言葉を遮り、素早く思考を巡らせた。
一緒にいる。そうじゃなくとも彼女の行方に関わってる。包帯じゃなく綿布を持って行ったという話、宰相より産後のフローラが使う方がしっくりくる。昨夜ここに現れたってことは別件で移動なさっていて、その後たまたま巻き込まれただけかもしれない。けれど宰相にはどうやら、ここまで出歩いて物資を補充する程度の自由があるらしい。
ここで待つ余裕はない。今すぐ大量の綿布が必要な状態ってことだろう?
「閣下がどこに向かわれたのか、お心当たりはありませんか?」
当初の質問をもう一度繰り返すと、彼らはそれぞれ顔を見合わせながら首を捻る。いい加減眉間に皺を寄せっぱなしの青年が「城に戻った方がいいと思うけどね……」と溜め息混じりに呟いた。
「言伝っていうか。もし万が一、王太子様がお見えになることがあったら塔には絶対来ないよう伝えろって」
「塔、って」
問い返しかけて気づく。転移する直前、オジロン様も塔の話をしていた。ここにもかつて、神の塔と呼ばれた塔があったって。
「デモンズ・タワーも知らないの? すぐ北の山に建ってるよ」
物知らずの文官もどきに青年がいよいよ呆れ返る。結構近いのだとしたら、ここも危なくないんだろうか。地元民らしい言い回しで塔の名を告げたあと、ややばつが悪そうに青年が目を逸らした。
「……だから、戻って伝えた方がいいよ。王太子ってお孫様の、ドリス姫様のことだろ。多分、宰相様は何かご用事があってすぐ帰れないだけだから」
ドリスの名が出た瞬間、頭を上げた神父が蒼白な顔で何か言おうとしたがすかさず目で制した。「わかりました。教えてくださりありがとうございました」と頭を下げ、尚も不安げな人々に見送られ扉を閉じる。敢えて追ってくる人がいないのを確かめて、待機中の仲魔達の元へ戻った。今聞いた内容を手短に話し、これから北にある塔へ向かう旨を告げる。
「宰相殿の件、城の者に報せずとも宜しいのか」
ピエールに問われ、うん、と歯切れ悪く頷いた。
「……サンチョにも来てもらえば良かったね。飛び靴を持たせてキメラの翼で戻れば、こっちに人を回してもらえたかも」
言いながら、首を振る。全然そんなこと思ってないくせに。本音は寧ろ、無駄だと思ってる。どれだけ人が来たって意味ないって。
どのみち戻るつもりはない。城に戻って、またここに来られる気がしない。正直戻らないくらいの覚悟で振り切ってきたから、またああやって縋られたらと思うと憂鬱なばかりで。
仲魔達に伝言を頼もうにも、魔物を排斥して当然だった人達の元には行かせたくない。ろくに話を聞いてもらえなさそうだし。
……それに、もしこの先、待ち構えているのがゲマだったら。
悪いけど、城の兵士達が戦力になるとは思えない。来ても屍が増えるだけだと思う。僕ならなんとかなるってわけじゃないけど、さっきの城下の戦闘を鑑みても、やっぱり僕と仲魔達の方がまだやりあえると思うから。
そこまで考えて密かに苦笑した。プックルでさえ全く歯が立たなかったのに、無謀すぎるか。
せめて伝説の勇者がいれば互角に戦えたかも。……そういやさっきの、城で天空の剣が現れて光ったやつ。なんで突然あんなことが起こったんだろう?
思索に耽りながら歩く僕に誰も話しかけることなく、静まり返る暗い森を進んだ。まるで招かれるように道は拓け、魔物の気配は薄気味悪いほどしなかった。一刻も歩かぬうちに眼前の漆黒の壁がぐんぐん高く迫ってくる。歪んだ月が重なって見えなくなる頃、ようやく重々しい扉が見えた。
これが、悪魔の塔。
夜の闇に溶ける暗い外壁は、神の塔と呼ばれた頃があるとは思えぬほどどこか禍々しい雰囲気を醸す。正面に大きな扉が鎮座し、少し奥まった左右にも小さめの扉が見える。また聖なる乙女がどうこう言われたらと気鬱だったが、木陰に隠れて辿り着いた右手奥の扉は拍子抜けなくらいあっさり開いた。正面の扉は罠がありそうだし、このまま先を探った方が良さそうだ。
「分かれてお探ししますか」
「いや、連絡できないから……一緒に上がった方がいいと思う」
幸いにもこの右手奥は何もない小部屋らしい。上に向かう階段が一つあるだけだ。すぐ上に敵の気配がないことを確認し、急いでみんなを集め手荷物の確認をした。
坑道での惨事を思うと、まともにやり合うのは危ない。回復手のホイミンが離脱したままだ。この中で治癒魔法を使えるのは僕とピエール、ガンドフ。急いできたから薬の整理もろくにしてない。
「ピエールとマーリンはなるべく魔力を温存して。ガンドフも。マッド、ラゴン、プックルと一緒に前に出てくれる?」
なけなしの魔法聖水をマーリン中心に分配し、声を潜めて指示を出す。魔獣達は自分で薬を使うのが難しいから、補佐できるピエール達に多めに薬草を渡した。
「しびれんは後方援護ね。後ろに流れてくる敵はピエールとガンドフが止めてくれるから。スラりんはプックルに乗せてもらって、使えそうなら光の浄化魔法で敵を減らして欲しい。マーリンは僕と一緒に周辺の警戒を」
やる気に満ちたスライム属達が声を上げる代わりに跳ねた。他の仲魔達もそれぞれ力強く頷く。ガンドフの温かい体毛に包まれながら、きょとんとこちらを仰ぎ見る紫色の小さな悪魔と目が合い、苦笑しつつ腕を伸ばして頬を撫でてやる。
「……それとマーリン、ミニモンも見ててあげてくれる?」
ミニモンがにこっと無邪気に笑い、活躍の場を制限された魔法使いは苦い息と共に「御意」と短く呟いた。
「目的は塔を制圧することじゃない。フローラの奪還を最優先に考えよう。取り戻したらすぐ離脱呪文をかけるから、そのつもりでいて」
……みんな、死ぬなって。
最後、言おうかと思ったけど喉から出なかった。チゾットであんなことがあったから、何が起こってもおかしくない。けどもうそんなの、今更言わなくてもわかりきったことだ。
今ここにいる仲魔達はみんなとっくに承知している。誰一人として死を、自らの消滅を恐れてはいない。
ああ、これが彼らなんだという感覚と、僕の一存でその存在を賭けさせる罪悪感。ほんのわずかなその逡巡を、僕の情けない覚悟で無理矢理呑み込んだ。
躊躇うな。今は、敗けなければそれでいい。
「────行くよ」
◆◆◆
階段を上がると、奥の転移陣から六ツ脚の獅子の魔獣が飛び出してきた。これは難なく倒したが、転移陣の先は小規模な宝物庫になっていて、見張りの魔物達は既に臨戦態勢だった。混戦の末、一帯を無事制圧する。
敵将に報せが行ったかもしれない。チゾット洞穴の奇襲を思い出すとつい警戒してしまう。「どのみち程なく知れよう」とピエールが涼しい顔で剣を納め、他の仲魔達と共に宝箱を検め始めた。
勿論退く気はない、けど。
ここで待ち構えているのが本当にゲマなら、正直僕達でも敵わないだろう。プックルさえ一爪も入れられなかった。いつどこで対峙しても不利、だったらフローラを見つけ次第抱え込んで一息に脱出する外ない。この手で天空の剣を使えたなら、とこれまで何度思ったか知れない。
リレミトは効いたし、キメラの翼もあるだけ分配した。みんなには最悪、塔から飛び降りてでも逃げろと言ってある。
……幼い頃の記憶が、あいつは愉しみを最後にとっておく気質だと警鐘を鳴らす。
昏い記憶が足下から這い上がる。蒼い顔に毒々しい緋色のマント、幼い僕らの攻撃は残像に弄ばれたようだった。ひたりと当てられた凍る鎌の鋭さを忘れはしない。茫然と見つめる先に美しい碧髪がはらりと落ちる、そんな幻覚を視た──瞬間、ぞくりと戦慄が走って、……
「魔に魅入られたか。ご主人」
嗄れた声に意識を引き戻された。いつの間にか隣に立ったマーリンがフードを深く被り、微動だにせず僕の視線を追っていた。
「……魅入られたって?」
「失礼。面様が、我々と見紛うお色で」
意味がわからず瞬いてしまったが、ちょうど戻ってきたピエールが噴き出したのでマーリンなりの冗談だったのかもしれない。目ぼしいものは回収したと報告を受け、次の転移陣に入った。陣が二つ並んでいて悩んだが、移動した先にもどうやら複数の転移陣が設置されている。どこがどう繋がっているんだか、さっきの宝物庫に地図でもあれば良かったのに。くりぬき窓の外を見る限り、まだかなりの低層のようだ。
余計なことを考える間もなく、今度はアームライオンに加えてオークキングも襲いかかってきた。獅子の剛爪が凄まじい速さで乱れ飛び、その僅かな隙を槍が回転し薙ぎ払われる。普段遭う魔物よりずっと連携が取れてて手強い。防戦からなんとか立て直し、数名抉られながら降した。
黴臭い閉じた塔に魔物特有の死臭が篭る。やや大きい傷は手分けして治癒魔法を施し、急所に近い小さめの傷には薬草を塗って対処した。魔力も薬も有限だから、全てを完全に治しきることはできない。
落ち着いたところで、細い通路の先に上がり階段を見つけた。さすがに転移陣で一気に上へとは行かないか。仲魔達と目配せを交わしそちらへ向かう。音もなく宙を漂い、真っ先に上を覗いたしびれんが感嘆の声を上げた。
「わ、ひろーい……っ」
気味が悪いくらい何もない、豪奢な緋色の敷布が引かれた城のような大広間だった。中央に玉座でも置かれていればさぞ荘厳なことだろう。あるべき天井は朽ちたのか、所々崩落して吹き抜けのようになっている。
まだそんなに登ってきてないと思うのだけど、ここは昔、祭儀を行う場所だったのだろうか。
「しびれん、こーゆーときこそゆだんしちゃいけないんだよ! っておぅわー!?」
しびれんを追って勇ましく跳ねたスラりんがぎょっとして退くと同時に、足下からザシュ! と鋭いものが勢いよく生えた。咄嗟に振り返ればその先には鉄槍のような長物が数本、敷布を突き破り生えているではないか。
「あ、あ、ああああああっっぶなー!?」
間一髪、槍を躱し床にぺっとり張りついたスラりんが青い軟肌をぶるぶる震わせる。それ以上に怯えているのは無傷無風のしびれんで、ふらぁと槍の上に落ちかけたのを慌てて掌で受け止めた。そこで失神は洒落にならないよ、しびれん!
今の一歩で槍が出なくて良かった。踏み止まってから改めてぞわぞわ怖気がくる。僕の傍ではマーリンとガンドフが、眼をキラキラさせて槍に突撃しようとするミニモンを力づくで押し留めていた。
「スラりんに串刺し趣味があったとは知らなんだ」
「ちょっとー! ピエールのほーがくしざしにあうよ!? だぶるでささりがいあるじゃーん!」
しみじみ呟くピエールにすかさずスラりんがぷんすか反駁し、各々強張りながらも少しだけ場が和んだ。実に微笑ましいが状況は全く好ましくない。この緋布の下に、恐らく無数の槍山が仕掛けられているのだから。
スラりんの軽さでも作動するなら、とマントの端を掴み床をぺしぺし叩けば即ジャキン!! と貫かれた。こっわ。ぴよよよよよとスライム属二匹がくっついて震え上がる。今更ながらこれ、かなり上等なマントだったね。いつもの襤褸布のノリでやってしまった。
えげつないことにこの大広間は無駄に広く、上階に続く階段はどうやらあちらの壁際にあるのだ。
「剥がしてみる? ……駄目か。ここ一帯に結界魔法がかけられてるっぽいね」
槍に裂かれた破れ目から剝がそうとしたが、何故かびくともしない。マッド達が引っ掻いても無理だった。「焼けますまいか」とのマーリンの言に今度は竜属達が火の息を吐いたが、やはり焦げ目すらつかない。さすがは神魔の塔の名に相応しい厭らしさだ。
「まぁ、こういう状況だから見晴らしがいいんだね。あっちもそうそう暴れられないだろうし……」
不意の襲撃はなさそうだと気を緩めた瞬間、奥の階段二つに影がちらついた。嫌な予感は当たる。顔を出したのは数羽のホークマンとメイジキメラで、すぐさまこちらを視認し向かってくる。苦笑いを噛み殺し、飛び道具を構える。
「んぬぅううぅ、ニっフら────ム!!」
真っ先にスラりんが叫んだが敵は消えない。「なるべく動かないで、床に引きつけるよ。ミニモン、メラミを!」叫ぶと同時にマーリン指揮の下、炎魔法が放たれた。幼い悪魔の焔球が次々魔物の翼を焼く。ふらつく敵魔にプックル達が爪を掛け、力任せに引き摺り下ろして罠の餌食にした。続く援軍も同様に迎撃し、僕らの周りにはあっという間に鉄槍の檻と、それに貫かれる魔物の山が築かれた。
「みんな大丈夫? 怪我してない?」
追撃が止んだところで仲魔達の状態を確認する。盾役のマッドとラゴンがそれぞれ数ヶ所、他のみんなも所々斬られたり罠が掠ったりしていた。手分けして治療を施し、態勢を立て直したところで眼前に積まれた遺骸をまじまじ眺めた。
「……情けってものをいよいよどこかで落としてきた気がする」
「はて面妖な。使えるものは骨の随までお使いになるのが賢しきヒト族の性では」
言ってくれる。皮肉を言う彼に苦笑を返し、床に積んだホークマンから服を数着剥ぎ取った。「これでも罠、出るだろ。使わせてもらおう」とホークマンのベルトを外しながらみんなを振り返ると、今度は仲魔同士で顔を見合わせ「失せ物は懐にでもお忘れのようだ」「アレこそヒト、否、あるじ殿の美徳というもので御座ろうよ」などとひそひそ囁き合っている。聴こえてるっつかそれ、わざと聴かせてるでしょ。大変釈然としない。
駄弁ってる暇もないので、強奪した衣類で床面をべしべしはたきながら先を急いだ。罠を発動させつつ進むと、上り階段に辿り着く頃には立派な槍の大迷路が完成していた。ここまで来るのに気を張りすぎて、実質一匹を除く全員が早くもげっそりしている。槍迷路の大作に手を叩いて喜んでいるのはまだ幼いミニモンだけだ。
実は左手にもう一つ階段が見えているが、こっちの先を確認してからでいいだろう。気力が潰える前に進めるだけ進みたい。
誰かが怪我をしたら嫌だから僕達の言うことを良く聞いてね、とミニモンに改めて言い聞かせ、さっき敵が降りてきた階段に足を掛けた。罠に煩わされた徒労感を、妻を想うことで無理矢理紛らわす。
最後に君に触れたのは、慰霊の儀の直前だっけ。
礼装が崩れるからって軽く額に口づけるしかできなかった。我慢しないで思いきり強く抱きしめれば良かった。
無性に寂しさが込み上げてしまって、空の拳を握り締め、階段を昇る仲魔達に紛れて密かに自嘲を噛み殺した。
悲観するな。取り戻せばいくらだって出来るだろ。
あれを最後になんてさせない。絶対にだ。
◆◆◆
考えてみれば当然なのだが、上がった先は床が大小様々に繰り抜かれた、足場の悪い階層だった。
下から見上げた時は崩落していると思ったんだ。どうやら故意に落とし穴を仕掛けられている。灯りも少なく、落ちたら槍山に貫かれるおまけつき。高所恐怖症の妻なら竦み上がって通れない道だ。
壁に区切られてもう一つの階段の方には行けない。仕方ないので道なりに探索してみたが、何階層か移動しても結局寂れた宝物庫くらいしかなかった。他に繋がる道も部屋も見当たらず、しかしどう見ても塔はもう一つ隣に聳え立っている。あちらに行く道がどこかにあるんだろう、舌打ちしつつ槍の罠広間へ戻った。さっき作った大迷路をうんざりしながら通り抜け、改めて上の階へ出る。壁が隔てたさっきとは反対側に出て、更に危うい通路を渡りきるとまた小部屋がいくつも続く空間に出た。うろうろ探索し、時々魔物を倒しては階段を昇っていく。
めちゃくちゃ雑な括りだけど、多分ここの敵は二つの勢力に分かれてる。前からこの塔に棲みついている魔物と、恐らくゲマが率いる魔物。力量的にはやはり後者が手強いが、先住民である魔物達も棲家を荒らされ気が立っている。故に、小競り合いしている場面にも何度か遭遇した。共倒れすれば良いのに、こっちに気づくと仲良く襲ってくる。鬱陶しい。
「フローラが捕まってるとしたら、どこだと思う?」
暗い足下に注意を払いつつ、すぐ隣を歩くマーリンに問うてみた。暴れ疲れてうとうとするミニモンを抱きかかえ、マーリンは相変わらず足音も立てずに階段を昇っていく。
「牢といえば地下が相場だけど、それっぽい道はなかったよね。もう少し良く見れば良かったかな」
否、そう簡単に見つかるとは思えない。逆に上からしか通じてない秘密通路があるかもしれないし。反芻しつつ己の言を否定していると、すっかり参謀じみた魔法使いが嗄れ声で首を振った。
「目的にもよるでしょうが、こちらに拘置される以上容易く接触できる場所にはおられますまい」
全く同感だ。深く頷くと、ピエールまでこちらを一瞥し感情の乗らない声で呟く。
「懲罰にしろ拷問にしろ、地下に捕らえるより塔の上に吊る方が効果的でござろうしな。奥方殿にはちと効きすぎるか」
「嫌な想像やめてよ……」
ほんと洒落にならない。それフローラだけじゃなくて、僕に対しても言ってるよね? 以前拉致された時はなんとか堪えたものの、高所恐怖症の彼女が今そんな仕打ちを受けていたら正直、平静を保てる自信がない。
話を聞いていたスライム属が涙目で僕にしがみついてきて、その湿った感触で少しだけ、頭が冷える心地がした。
「……何だ、この匂い」
だいぶ見晴らしが良くなった高層階に着いたが、妙な匂いがする。今まで行き合った魔物達とも、その腐臭とも違う。根源を確かめようと壁伝いに行くと、曲がり角を折り返した奥にまだらに発光する床があり、その手前に何か異質なものが散らばっている。
「あるじ殿」
「わかってる」
衝動的に前のめりになった僕をピエールが押し止めた。あの大きさ、形からして人の頭蓋骨が二つ。周りにも大小の骨が無造作に散らばっている。普通は昨日の今日で白骨化しない、わかっていても、魔法や罠でそうならないとは言い切れないから。
他に生き物の気配はない。暴れる心臓を必死に抑え込み、恐る恐る骸骨に近づいた。とにかくあの指輪が見つからないで欲しい。それで頭がいっぱいになっていたから、左右の彫像が赤い目を光らせたことにも気づかなかった。
「ごしゅじんさまあああーっっ!」
唐突にしびれんの金切り声が響いて、ほとんど同時に背中から引き倒された。金色の炎が勢いよく宙をかすめて、髪が焦げる匂いが鼻先に漂う。
「………………っ、り、がと……」
窒息する勢いで外套を引いてくれたのは俊敏なプックルとピエールだった。「ご尊顔が爛れず安堵いたした」とピエールにしては珍しく安堵を滲ませ、僕の無事を確かめて離れていく。勢いついでに下敷きになったプックルは早く退けと言いたげに鼻を鳴らした。
どうやら本当に間一髪だったらしい。視界の両端に鎮座する竜の彫像を見上げ、安堵した心臓が再び早鐘を打ち始める。
「朽ちて数十年、日が経っているものとお見受けする。ご安心なされませ」
どっと出た脂汗が冷えた頃、周辺を調べていたマーリンが淡々と教えてくれた。しびれんの絶叫で飛び起きたミニモンは炎を見て興奮していたが、柔和で体躯の良いガンドフがしっかりと捕まえてくれている。
「ふむ。こちらの罠は稲妻の気を帯びているのか……他に見ない類のものですな。結界魔法で防御可能なものか。人骨の劣化が少なく、また長期間接した部分はこの気が随分と弱まっているのも大変興味深い」
思いの外興を惹かれたらしく、マーリンはぶつぶつ呟きながら異質な光を放つ床を眺めている。これほど饒舌な彼こそ滅多に見られない。稲妻というと昨年の船での戦闘を思い出すが、確かによく耳を澄ますとあの時のようなバチバチ爆ぜる音が聞こえる、気がする。
「探究心旺盛な御仁と思っており申したが、斯様なご趣味をお持ちとは」とピエールも苦笑いしている。
「随分危険な罠だけど……ここ、だけとは限らないよね。落とし穴の先がこれだったらやばいから、気を引き締め直して行こう」
僕の言葉に小柄な仲魔達が青褪めつつ、一同それぞれ同意してみせる。
落ち着いたところで探索を再開した。光る床を離れた途端魔物の群れが襲ってきたあたり、あいつらもあの一帯を避けているのだろう。道理でしびれんが叫んでも襲われなかったわけだ。
上がってきたもの以外に階段は見当たらず、隣の塔への渡り通路だけ見つけたのでそちらに進むことにした。魔物の気配が消えたところで少しだけ休息を取る。勢いで飛び出してきたから剣以外何も持っていなくて、仲魔達が常備していた水と干し肉をちょっとずつ分けてもらった。
今更ながら、一昨日からろくに休息を取れていなかったことを思い出す。衝撃的な出来事が続いて頭と身体が若干噛み合ってない感じがする。というか、頭だけが妙に冴えて身体がややついてきてない感じ。
久々の水を流し込んだら、空腹感と生々しい疲労が腹の底から急速に込み上げた。
ふと塔の外を眺めれば、空の端が漆黒から深藍へと少しずつ染め変わっていく。
もうすぐ夜が明けるんだ。祈りながら払暁を迎えたのはつい数日前のことなのに、今は全てが夢だったみたいだ。
そういやちゃんと報告していなかった。何ぞ? と視線を返してくれるみんなを見渡し、おもむろに口を開く。
「……そういえばさ、無事産まれたよ。男の子と女の子」
おお、とささやかな歓喜が場を揺らした。スライム属以外の仲魔達はあまり面に出さないものの、安堵してくれたのがわかる。しびれんは感激のあまり大きな瞳をぷるぷる震わせ、スラりんは大袈裟なくらい飛び上がって喜んだ。
「はやくみたいねぇ! ホイミンにもあいたーい!」
ねーっ、としびれんの触手とハイタッチするスラりんを見ていたら、僕の凝り固まった表情筋も自然と弛んだ気がした。
「うん、帰ったらきっと目覚めてるよ。子供達も早くみんなに見せたいな。二人とも、フローラ譲りの綺麗な髪色をしてるんだ」
すごいな。子供達の話をしただけで場の緊張がほぐれていく。
今の今まで子のことを失念していたひどく薄情な僕だけど、僕自身がもっとちゃんと父親にならなくてはと思っている。つくづく自覚が間に合ってない。今この時だって、母になったばかりのフローラはきっと子供達の身をひどく案じていることだろう。
とにかく一刻も早く、あの子達の元に母親を返してあげたい。僕みたいな思いをさせちゃいけない。
誰かの為と思うと驚くほどすんなり冷静になるものだ。体力と気力を持ち直したところでいよいよ探索を再開した。渡り廊下の先は変わり映えのない部屋続きだったが、また階段を上がったところで早速、立て直した気力が挫けかける。
背中一面から壁際を埋め尽くす稲妻の床。壁で仕切られた両翼の小部屋は行き止まりで、唯一進める通路に巨大な岩石が一つと、壁にはさっきも見た竜の彫像が四基、互い違いに配置され向かい合っている。
「これ……、絶対出るよね」
「然り。何処かに無効化する仕掛けはないものか」
さすがのピエールも困惑を禁じ得ない。ついさっき前髪を焼かれたばかり、一瞬すぎてどこまで距離を取れるか全く確認できていない。それなりに幅のある通路だが、体格のいい大型魔獣達は火傷なしに通れるものか。
他の道はやはり見つからず、一縷の望みにかけて通路の向こうを調べることにした。浮遊できるしびれんにまず渡ってもらいたかったが怖がりの彼女は単独で飛ぶのを嫌がり、小柄なスラりんとピエールが下から誘導することになった。すっかり襤褸布と化したホークマンの服を千切って投げ込み、概ね通路の中央近くで消し炭になるのを確認する。
「うもー、でっかいいしがじゃまでドラゴンみえないー!」
できるだけ彫像のない壁に寄り進んでもらう手筈だが、度重なるストレスでスラりんの集中力が切れてきている。初めの彫像が二度ほど火を噴いてぎょっとしたものの、幸いにも大岩が遮ってくれて彼らに怪我はなかった。いや、そこは見えたらまずい、スラりん。寧ろ石に感謝するところ。
ギャーギャー文句を言いながらも、スライム属達は通路を渡ることに成功した。早速彫像の罠を無効化する装置を探してもらったが、残念ながらそれらしいものは見つからなかったらしい。
「分断されたところに襲撃があると厄介です。如何しますか」
幸いにもこの場に魔物はいないようだが、いつまた襲われるかわからない。打開策も見つからず、じりじりと焦りばかりが増していく。マーリンの提言に頷き、僕の指示を待ってくれている残りの仲魔達の顔を見渡した。
「ピエール達が渡ったように、互い違いになってるからなんとか躱して進めると思う。見た感じ幅は十分あるし……ここで諦めるわけにも行かないんだし」
最悪僕一人でも進むつもりだけど。そんな自虐を込めて呟いたら、真っ先にプックルが立ち上がり鼻を鳴らした。感謝を込めて鬣を撫で、彼を筆頭に仲魔達を三組に分ける。僕が一旦通路の中程で待ち、プックルとラゴン、ミニモンを抱えたガンドフ、最後にマーリンにマッドを誘導してもらい順番に渡ってもらう算段だ。
「うわ、この岩焼けてやばいことになってる……触らないよう気をつけてね」
スラりんが邪魔と評した大岩はちょうど一基めの竜像の炎を遮る位置に置いてある。ああ、今更だけどこれ、こうやって渡るために敢えて置いてあるんだろうね。初めの炎さえ避ければ彫像の脇道を伝って行くことは難しくない。とはいえ残った仲魔の半数は体格が良いので、恐々移動するのを息を詰めて見守った。
全員が渡りきったらうっかり気が抜けた。はああぁぁと盛大に溜息をついたところで、先んじて偵察してくれていたピエール達が神妙な面持ちで戻ってきた。
「ひと段落したところあいすまぬが、非常に喜ばしからざる報告を致す」などと非常に不穏なことを仰る。「聞かないわけにはいかないね。何か見つけた?」と胸をざわつかせ聞き返すと、彼は軽く笑ってみせてから「階段は二つ見つけ申したが、ご親切にも本命はドラゴンの像に隔てられておるようだ」と吐き捨てた。
果たしてピエールの言の通り、ようやく解放されたと思った竜像地獄はこのフロアの奥にがっつり用意されていた。しかも今度は互い違いにすらなっていない、通れば絶対両脇から焼かれる配置だ。手前はともかく奥の八基はほとんど隙間なく並べられていて、ここを通る冒険者や魔物を必ず仕留めんとする執念を感じる。いくつかの彫像の口を塞ぐ形で大岩が置かれているが、それ以外は崩れた石垣の如く屑石が散乱している。熱を加えすぎて割れてしまったのだろうか。
「ああいう大きな石……いや岩があれば塞いで通れるってことか。運ぶのも容易じゃないけど、ていうかどこから持ってきたんだろうね、あれ」
「恐らくはこの上かと……」
ふぅ、と殊更遠い目をしてピエールが天井を仰ぎ見た。釣られて見上げると、通路手前の広間の上には確かに大きな穴が空いていて、淵には岩らしいシルエットも見え隠れしている。なんだろう、どこかで見た光景だ。よくよく見れば今いる僕達の足元は衝撃を何度も加えたようにぼこぼこ歪んでいて、確かに上から岩石を落下させた形跡にも見える。
「でっかいいしがごろごろあったー。まものもいたー」
「ざっと見た限りだが、他階へ続く道はござらんかった」
スラりんとピエールの報告にしびれんもこくこく頷く。とにかくその石とやらを下に運ばなくてはならないようだ。もう考えるのも億劫で、言われるままに階段を上がり手当たり次第に大岩を転がし落とした。途中魔物が寄ってきたり何度か爆弾岩も混ざっていたりもしたが、自爆される前に総力を上げて叩いた。仲魔達は当然鉱夫の真似事より戦闘を喜んだので、彼らに任せて問題ないと判断できた後は戦いそっちのけで一人黙々と石を転がしていた。
数十個めの岩を転がしている最中にも再び妙な既視感を覚えたが、それもその筈。思い出したくもない、あの神の山の上で散々やらされたことではないか。
適当な数を落としたところでいよいよ階下に降り、彫像の眼前を塞いでいく。まずは左翼手前の竜の前に慎重に岩を近づけ、離れて立つマーリンに見てもらいながら位置を定めた。試しに屑石を像の前に投げ入れ、炎が漏れてこないことを確認する。ほっとしたら次は反対側だ。よくよく見ると対に見えた彫像は少しだけずれた奥に設置されていて、この仕掛けがよく練られたものであることがわかった。
危険なので大型魔獣達には岩を並べて待機してもらって、僕とピエール、スラりんで石をこつこつ動かしていたが、途中ヒヤリとする一幕があった。一生懸命押していたスラりんがバランスを崩し、一瞬岩の斜め前に躍り出てしまったのである。幸いにも小さな彼に炎は当たらなかったが、噴き出した紅焔が頭上をかすめたらしくスラりんはその場で「ふきゅう」と弱々しく叫び固まった。
「串刺しに飽き足らず、自ら石焼きになろうとは……ちと強火が過ぎぬか」
「と、け、る、よ! どろどろだよー! てかじぶんがのってるそのこをみてからいってよね!!」
ピエールが神妙な声音でしみじみと茶化し、頭の尖りを溶かされたスラりんは憤慨していつもの調子を取り戻す。「我が半身を焼く愚は犯さぬ」とピエールが実に男前に言ってのければ、彼を乗せた緑のスライムは心なしか嬉しそうに揺れた。
泡を吹いて倒れたしびれんの隣で縮んだスラりんを待たせ、ピエールと共に石運びを再開した。手前をきっちり塞いでから、奥の詰まった彫像の前に順次墻壁を築いていく。
「先程から拝見していたが、随分と手際が良い」
「うん、まぁ昔嫌ってほどやったから。まさか奴隷時代の経験が活きるとは思わなかった」
こうして過去の一場面として思い出せるようになっただけましなのだろうけど。生きてる間に完成しそうになかったあの神殿では、きっと今もたくさんの人々が働かされているんだろう。
ふと、これはやはりゲマの意趣返しではないかという気がしてきた。奴と絶対に関わりがある光の教団、その大神殿の建設に従事させられた十年間。僕が逃げ出した奴隷であることを把握した上でこんなみみっちい嫌がらせをしているんじゃなかろうか。などと莫迦げたことを考えてしまうくらい、今の僕は頭が回っていないらしい。
「ほんっと、こんなことしてる場合じゃないんだけど……」
ぼやきを聞きつけ笑うピエールを尻目に黙々と往復を続け、陽が高くなった頃ようやく墻壁が完成した。明け方から何時間無駄にしたことやら。いつまた崩れるかわからないので、炎が漏れないことを確認して急いで仲魔達を渡らせる。一基、彫像が首から破損しているものがあり、逆に炎が暴発するのではとひやひやしたが、特に反応はなく心から安堵した。
「全くお眠りになっていないようですが、ご不調はございませぬか」
凡そ労わる声には聞こえないが、マーリンが無表情ながら僕を気遣う言葉をくれる。ピエール以外の仲魔達は僕らの作業中まとまった休息を取れたようだ。逆に僕とピエールはずっと働き詰めなのだけど、やっと先に進めるようになったのに休む選択肢はない。ピエールも黙って先を促してくれたので、厚意に甘えて先に進むことにした。
これだけの仕掛けを超えたのだし、だいぶ登ってきた気もするから、そろそろ何かしら手がかりがあってもいいんじゃないか。
苦労した分そんな期待があったが、次のフロアは特に目ぼしいものもない若干荒れた空間だった。粗雑な壁で区切られた小部屋があるばかり。唯一見つけた階段を更に昇ると、またしても拓けた広間の隅に塔の外へ通じる道を見つけた。残念なことに、その先は上がった状態の跳ね橋があるだけだったが。
つまりどこかに跳ね橋を下ろす装置があるんだろう。奥に階段を見つけて上がると、どうやらお目当ての装置らしきレバーを見つけた。近くの壁にはご丁寧に「渡り廊下のスイッチ その壱」と書かれた貼り紙がある。壱ってことは他にもあるんだろうね。ちょっと罠くさいのが不安だけど。
レバーを引いたら床が開いて下に落ちたりして。緊張しつつ作動させたら、ゴゴゴ……と塔を揺るがす轟音が鳴り響いた。急いで塔の外壁を覗けば、さっき確認した跳ね橋のこちら側だけが下りている。なるほど、その弐で向こうの跳ね橋を下ろすわけね。これ見よがしに敷かれた転移陣に飛び乗り、もう一つの装置も難なく発見する。ついでにそこも小さな宝物庫になっていて、噛みついてきたミミックは全員で返り討ちにした。
そうしてようやく跳ね橋を渡ったわけだが、さすがに高い。窓を数えた感じ現在地は十階くらいか、周辺の木々が嘘のように遠い。フローラが見下ろしたら間違いなく失神する。
渡りながらぼんやり下を眺めていたら、何かが塔の入口付近を横切った気がした。ここに棲みつく魔物かと思ったが、僕よりずっと眼が良いマーリンとピエールは目配せしながら「あれはヒトです。二匹うろついておる」と呟いた。
「人間? もしかして、僕か宰相様を追ってきたのかな」
「さぁて。斯様な軽装でここまで昇るのはなかなか……とはいえあるじ殿がご丁寧に道を築かれたことだし、さほど難なく追いつくやもしれぬな」
ふぅん、と相槌を打ち改めて眼下を眺める。城から来た斥候だろうか。地元の人達はあまりここに近づきたくないみたいだったし、下に何か痕跡でも置いてやれば良かったかもしれない。
迂闊に追ってくると危ないって、せめてあの教会の方に伝えておくべきだっただろうか。
見上げると最上階も間近、もうすぐ塔の内部を全て探索し終わる。期待半分、落胆に備える気持ち半分で隣の塔に入り階段を昇った。そこはこれまで通ったことがない、ぐるりと水を湛えた庭園のような広場になっていて、その片隅を視界に入れた瞬間ひゅっと血が逆立った。
足だ。誰かがうつ伏せに倒れている。フローラじゃない、体格的に人間の男か。恐る恐る近づきその顔を覗き込んで、思わず息を呑む。
「……宰相様!?」
倒れていたその人は、あの晩から探していた宰相だった。抱き起こすと同時に腹部から夥しい血が溢れる。一体何が、治癒魔法をかざそうとしたところで「おやめ、ください」と掠れた囁きが耳を打った。
「……でんか……、か」
「テュールです」冷えた血塗れの掌を握り締め声を上げた。目が見えていないのか、宰相は浅い呼吸を繰り返すだけでこちらを見ない。「しっかりしてください。今治療を」と再びベホマを詠もうとした僕の腕を渾身の力で引き寄せ、彼は小さく首を振った。
「私が、魔族を、招き入れた」
────今度こそ血が凍りついた気がした。
言葉の意味がわからない。頭が理解を拒んでる。問い返そうにも彼はもう息も絶え絶えで、それでも何か訴えかけようとしていたから、せめて耳を澄ますことしかできなかった。
「恐らく既に血が足りぬ」とだけ告げて、ピエールとしびれんがせめてもの止血を試みてくれた。動揺を必死に落ち着け、青白いお顔に耳を近づけて続く言葉を待つ。
「なぜ、……なぜ、紫の、血を、穢そうとなさる」
薄く開いた唇が紡いだのは謝罪でもことの真相でもなく、僕を責めるだけの訴えだった。……否。
「偉大な、王で、あったのに。紅の血を、拒む愚さえ、犯されなければ」
僕だけじゃない。
王だったのは、僕じゃない。
偉大だったのは。彼の主君だったのは、そもそも紅の……ヴァーミリオン家との婚姻を望まず、二十数年前、外の花嫁を連れ帰ったのは──……
じわじわ重みを増していく宰相が突然、く、と呻きとも失笑ともつかない音を漏らした。どうやら後者だったらしく、背中を丸めて縮こまりながらも自嘲に満ちた呟きをこぼす。
「怪物どもの、力を、二度も利用……した、私、こそ──」
二度、って。
「……まさか、母さんが攫われた……時も」
二十年前に似た経緯だと誰もが思った。敢えてそうしたのは、その後貴方が姿を消したのは。
ほとんど虹彩が失われた瞳と初めて目が合った。詫びも媚びもそこにはなかった。最後に見たその眼差しは、母の仇と断じて終わらせられないほどただひたすらに切実で。
殿下、と既に吐息ばかりの囁きを、彼が最期、絞り出す。
「グ…………ラン、バ、ニア……を…………」
ことりと宰相の腕が落ちた。それきり彼の言葉が続くことも、目を開けることもなかった。
人を看取るのは初めてでもないのに、どうしようもなく重苦しい気分だった。
ご遺体をどうにかする暇も場所もない。誰か上がってくるならこの状況も程なく知れるだろう。念のため、彼のカフスを一つ外して懐に入れた。床に寝かせ直して姿勢を整え、せめてもと仲魔達と共に束の間黙祷を捧げた。
もう少し、ちゃんと話をしたかった。結局何があったのか、今回のフローラの件とどう関わりがあるのかもはっきりしてない。魔族の手引きを自供してきたあたり、やはりドリスと僕の婚姻を望んでフローラを排除しようとしたのか。
敬愛する王の死を知らされて、せめて僕という後継にだけは本懐を遂げようと。
……だからって、こんな形で死んでおいて、主君と同じ場所に逝けると思うな。
黒い感情は拳の中に握り潰して、簡素な庭園を後にした。
例の如く階段は一つ。今までとは違う、明らかに異質な魔族の気配がする。「ようやく本命か」とピエールが剣柄に手をかけ、先鋒を譲らぬプックルがいち早く躍り上がった。
「ここまで来たか。大したものだ!」
豪速の突きがプックルの緋色の鬣を散らす。しなやかに躱すと同時に、滑り込んだピエールが槍を弾いて止めた。スラりんも素早くスクルトを詠み、鋼の牙を剥いて威嚇する。
オーク、だと思うが、これまで見たどのオークよりも筋骨隆々としていた。ドラゴンマッド達より頭も腕肩も大きく、立ち上がると首が痛むほど見上げずにいられない。
彼が持つ槍もまた、一般的なものよりずっと太くて長かった。さっきはあれを、あの速さで振るったのか。
剣を構え睨み返すと、オークは不敵に笑いその巨漢で三叉の槍を振りかざす。
「だがしかし、ここから先はこの俺を倒さねば進めぬぞ。残念だったな!」
叫ぶなり他の仲魔を薙ぎ払い、僕の頭めがけてまっすぐ突いて来た。咄嗟に避けたが返す斬撃は届かず、こめかみ後ろの壁を槍の穂先が削り取っただけだった。このリーチと速度を前に、みんな迂闊に近づけない。
じりと膠着した一呼吸後、焔玉がオークの額めがけて飛んだ。
すかさず穂先をかざして直撃を防ぎ、返す長柄でオークが術者を薙ぎ飛ばす。横腹を取られたマーリンが呆気なく吹き飛んだ。その隙にプックルが飛びかかり、他の仲魔達と僕も続け様に斬り込んだが、硬い筋肉と流れる槍技でそのほとんどが阻まれた。
「なるほど、少しは楽しめそうだ」
何筋かは斬りつけた筈なのに、悔しいことに眉一つ歪めてくれない。槍捌きの巧さもさることながら、筋肉の厚さが半端ない。叶うならたった今、フローラのバイキルトが切実に欲しい。
三歩じゃ足りない。四歩欲しいな。
素早く視線を巡らせた。左手の壁に不気味な魔物の彫像、中央に大きな椅子と柱がある。向こうに追い込めば勝機があるかも。その前に、あの硬さをなんとかしたいけど。
「軟化、効くかな」
ぴょぴょぴょん、と側に寄ってきたスラりんに囁く。「やってみる!」とこっそり囁き返したスラりんがするんと離れた。隙がないなら作るまでだ。仲魔達に目配せし、ガンドフに庇われたマーリンがすぅと息を吸った。
瞬間、魔法師を仕留めるべく踏み出したオークの鼻先で小さな爆発が起こった。泡を喰った魔物を更に炎の息が取り囲む。無詠唱で放てる炎の指輪からドラゴンマッド達の息への連携だ。不意を衝かれ呼吸が乱れた隙にマーリンの炎魔法が命中し、更にプックルとピエール、僕と立て続けに連撃を加えたがすぐ薙ぎ払われ距離が空く。
……いや、炎は効いてるか?
プックルが着けているのはチゾット村で勧められた炎の爪だ。炎の魔石をミスリル銀と共に鋳溶かし造られている。極寒に慣れた周辺の敵には特に有効で、新入りのマッドとラゴンにも何か良い武器をと尋ねて勧めてもらった。切れ味も上がったし、マーリンの炎が効く相手には特攻武器みたいになる。お陰で戦闘に関しては、チゾット以降の山下りは体感だいぶ楽になったのだ。
一斉に畳み掛けた隙にスラりんがルカナンを数回唱えていた。それらの甲斐あってか、初めてオークが苦悶の表情を浮かべた。さっきより後退した位置でプックルの爪痕を抑えている。息と魔法で炙った箇所も赤く爛れて見える。
「さすがはあの女の……ヒトとは思えぬ采配だ」
太腕で疵を拭い、巨槍を鮮やかに回転させる。片腕で操った穂先をぴたりと僕の眼前に突きつけ、オークが迷いなく宣告した。
「一対一でやらせろ。魔物の手を借りねば剣も振れないわけではなかろう?」
「その巨体と長物で決闘って、僕が不利すぎると思うんだけど」
オークと僕じゃまるで怪物と童だ。挑発に乗ってやる義理もないが、競り勝てば思ったより早くフローラの居場所に近づけるかもしれない。
「僕が勝ったらここを通してくれる、ってことでいい?」
さりげなく自分に硬化魔法をかけ直し、父さんの剣──祭礼の為研ぎ直されたグラン・ソラスを握り直して問うと、オークもまたにやりと笑い、腰帯の内側から何かを取り出した。
「いいだろう。こいつを賭けよう」
鏡の如く磨かれた、眩い光を放つ金の塊……鍵だった。その持ち手に何かメダルのようなものが彫られている。左手にある悪趣味な壁によく似た意匠のようだ。掌ほどの大きさのそれを高らかにかざし、オークが愉しげに魔物像を指し示した。
「この鍵を魔神に献ずれば扉が開く。俺が勝ったら、そうだな、大将さんの身柄を貰うとするか」
あれがこいつらの神なのか。というかいきなり僕自身を要求され、さすがに顔が引き攣った。何それかなり引く。首を寄越せと言われた方がまだ潔くていい。
「あんたには色々と使い途があるんでな。できるならつがいで生け捕りにしろとさ」
「……絶対碌な使われ方しないよね、それ」
ということは、フローラを連れ去ったのももしや僕が目的だったのか。あの時不在にしなければ拉致事件は起こらなかったかもしれない、そう思うと胸が痛むが、宰相の思惑でもあったことを思えば落ち込むだけ無駄だと切り替えた。
揃って生け捕りってことは、フローラもこの塔のどこかで生かされてるんだ。そこは正直安堵している。勝っても負けても結果は大して変わらなそうだが、黙って勝ちを譲れるほど懐は広くない。
「ニンゲンにしては破格の待遇だと思うぞ。少なくとも宰相の爺よりは、な!」
ブン! と鼻先を槍が掠める。そこから怒涛の乱れ突きを浴びせられ、躱したところからなんとか体勢を立て直した。剣で攻撃を弾くたび、ビリッと重い衝撃が肩まで伝わる。
「どうした、防戦一方か!?」
猪の鼻を鳴らしてオークが嗤う。随分と愉しそうじゃないか。挑発には答えず、頃合いを見て槍を高く跳ね上げた。オークが咄嗟に胸許を庇うと同時に身を屈め、空いた石突めがけて手を伸ばす。一瞬自由を奪われたオークが顔を強張らせ、力任せに僕を払い除けた。──その一呼吸前に手を離したから、均衡を崩したオークは僅かに重心を失った。
踏み留まろうとする鳩尾めがけて、体重ごと肘鉄をかます。
さすがの彼も苦悶しよろめいた。横殴りに胴めがけて長柄を打ち込まれ、ぎりぎり前腕で止めて踏み留まる。まだだ。舌打ちした敵槍の軌道が椅子の背凭れを叩き割った。狭さも厭わず槍を振り被ったオークの顔面を狙い、割れた椅子の木片を思いきり蹴り上げた。
剥き出しの猪鼻に異物が直撃する。悶絶したところに振り抜いた剣がオークの胸板を斬り裂いた。続け様に利き腕にも傷を一閃刻み込む。青緑の血が初めて滴り落ち、オークが忌々しげに僕を睨んだ。
適当でも当たれば重症の僕と魔物のオークじゃ一撃喰らう意味が違う。この後の戦いもある。なるべくなら躱しきって、あまり時間をかけずに勝ちたい。
負傷しても尚、オークは利き手で槍を振り回してくる。制御が少しずつ甘くなってきてるな。剣で防ぎながらじりじり後退し、目的の位置にさりげなく誘導していった。頭に血が昇ったオークは僕の思惑にも気づかず、時折障害物に柄をぶつけながらも激しく槍を繰り出してくる。
いよいよ壁際に追い詰められ、鋭い穂先が額に向けられた。ぴぇ……と力ないしびれんの悲鳴が聞こえる。手出し無用を感じ取った仲魔達は、さっきから息を詰めてこの闘いを見守ってくれている。
いざ槍が貫かんとしたその瞬間、とっておきの一言を放ってやった。
「いいの? 魔神様に手を出して」
は、とオークが瞠目したときには遅い。僕の背後にはあの、魔神を模った壁が控えていたのだ。避けたところをそのまま突けば魔神の顔面、反射的に押し留めたオークの槍柄を掴み、足を掛けて思いきり下に引き倒した。
よろめいたオークがついに膝をつく。下腹を蹴り上げ、ごふッと呻いてうずくまったところを槍を梃子にし無理矢理ひっくり返した。……重ッ!!
音を立てて槍が落ち、オークが仰向けにズシンと倒れた。
苦しげに喘ぐ毛むくじゃらの顎にぴたりと剣先を宛てがって。
「人間は、小賢しい、からね。どう? 首は獲ったよ」
乱れた息を痩せ我慢で整え、平静を装って勝利を告げた。
それを皮切りに、仲魔達がわっと響めき飛び上がった。しびれんの触手に抱きしめられたスラりんが「やったー! ごしゅじんさまやったー!」と歓喜し、ピエールは「さすがは賢しきあるじ殿」と何やら得意げにしている。ごめんね頭使わないと勝てなくて。
顎を取られたオークは悔しそうに舌打ちしたが、ついに手を挙げて降参の意を示した。早く出せとせっつくと、オークが嘆息しながら悪趣味な鍵を取り出す。教えられた通り壁に当てて、ゴゴゴと壁床を揺るがし巨大な扉がゆっくり開かれていった。
「うわわっ! な、なにー!?」
開いた扉の隙間から突如、猛烈な雹嵐が吹き込んできた。
スラりんが素っ頓狂な声をあげ、びしばし身体を打つ氷礫に一同右往左往し身悶える。これは、準高位の氷魔法か。僕も思わず腕で頭を庇ったが、勢いが衰えたと思った瞬間、今度は業火の範囲魔法が僕達を焼いた。
「いたっ、いたいたいたいいたいいたい! ってちょっ、ぎゃーあついとけるー!」
みんな呻いたりのたうったりしているが、僕は直撃を喰らった割に負傷してない。魔法障壁なんてつけてないのに、と今の着衣を見下ろして、はたと気づいた。
フローラが刺繍を施してくれた僕の剣帯。国章の鳥を取り巻く蔓の紋様がほんのりと白い光を帯びていた。今にも消えそうなそれは、きっとたった一回、急激な魔素の変動から僕を護ってくれたんだろう。
「みんな! 大丈夫か!?」
慌てて振り返れば、比較的魔法に強いガンドフが小柄な仲魔達を庇い立ってくれていた。被弾した箇所に自ら治癒を施し、にこりと微笑む。躱せず負傷したドラゴンマッド達とプックルには、ピエールが手早く回復魔法をかけてくれている。
「なァに一人で楽しく遊んでやがるンだ。ジャミ様が待ちくたびれてらっしゃるぞ」
魔法の嵐が収まったそこに居たのは、これまた恐ろしく図体のでかいキメラだった。オークの部屋にもあった大きな椅子に踏ん反り返り、居丈高にこちらを見下ろしている。体格だけならオークの方が少し上回るが、よく見ればキメラの方が一段高い雛壇の上に居て、オークがキメラの叱責を黙って受け入れ跪いたのを見る限り、この二匹の間には明確な上下関係が存在するらしかった。
「一騎打ちを邪魔立てするとは、無粋な」
「はァ? お前らの決め事なんざ知るか。ちんたらしてんじゃねェっつの」
このやさぐれた喋り方はキメラ特有のものなのか、ピエールが抗議するもばっさり斬り捨てる。だが僕らを見渡すと一転眼尻を下げ、気味の悪い笑みを浮かべて蛇の舌でねっとりと嘴を舐めあげた。
「なかなか旨そうな奴らじゃねェか。ニンゲンに飼われているだけあって、どいつもこいつも良く肥えてやがる」
あれだけでかいキメラに言われるとさすがに怖気が走る。
しびれんとスラりんが例の如くぷるると震え上がったが、ガンドフの影に隠れつつ気丈に睨み返した。当のキメラは意に介すことなく、拓いた更に奥にある魔神像の壁をにやにや見遣りながら嘯く。
「あの女は格別に旨そうだったが、ジャミ様に持っていかれちまったからな。血の一滴でいいからご相伴に与りたかったぜ」
フローラ。
あの壁の向こうにフローラがいる。しかも、捕らえているのはジャミだと。
瞬時に沸騰する肚奥の憎悪をどうにか必死に押し込めた。
因縁の相手と、こんな形で再び対峙することになるなんて。
絶対に負けられない。父さんの無念も、フローラも、今度こそお前達に勝ちを譲るものか。
筋肉に血が漲る。剣を構え睨み据える僕をひとつ嘲笑し、キメラがふと厳粛な真顔に表情を変えた。別人に切り替わったかの如くの変貌に僕も仲魔達も一瞬動揺する。そんな僕らを一瞥し、キメラがおもむろに嘴を開いた。
「魔物遣いの王。前グランバニア王の忘れ形見にして、扉の番人の血を継ぐ者よ」
発する声も重々しく、びりびりと緊張が走る。いつの間にそんな大層な身分になってたんだか。プックルとピエールが音もなく僕の脇を守って立ち、キメラはこちらの威嚇をものともせず吟うように宣下してみせた。
「お前のみならばここを通してやっても良い。そう仰せつかっている」
僕も、仲魔達も息を呑んだ。真っ先に気色ばんだピエールが「笑止!」と叫び斬りかかったが、図体に見合わぬ俊敏さで軽やかに躱された。たった今の雰囲気が嘘のように嘲りを取り戻し、キメラは耳障りな声で高らかに嗤う。
「おぉっと! お前らはここで留守番だ。俺達に勝てば大将に加勢させてやるよ。ケケケケ、まぁお前らが片付く頃にはジャミ様がそいつを降しているだろうがな!」
鼓膜に響く金属質な笑い声が室内にこだまする。顔をしかめていると、傍観していたオークが埃を祓い立ち上がった。上役らしいキメラの意向を軽く窺った後、神妙な面持ちでこちらを向く。
「あの女、連れてきた時から妙な出血があった。腹が閉じきらないとか言ってたが、治癒魔法でも止まらなくてな」
まさか同情しているつもりか。警戒を緩めず睨み返すと、オークは破れた懐中を再びまさぐり、何かを取り出してこちらに放った。
「こいつを形見にしたくなければ、大人しく行っておけ」
チャリン、と軽い音を立てて、小さなアクセサリーが床に落ちた。視界に入った瞬間、思わず凝視する。
瑠璃石に金のフリンジが申し訳程度についた、安物の耳飾り。まだ結婚して間もない頃、手持ちの装身具を溶かした妻に初めて買って贈ったものだ。律儀な妻はあれからずっと、寝たきりになっても毎日欠かさずつけてくれていた。
どうしろって言うんだ。こんなの、乗らない方法がない罠だ。僕達に取れる方法は二つ、ここでオークとキメラを倒して全員で進むか、僕だけ先に進むか。どちらにしたって勝ち目は薄い、けど今この瞬間にもフローラの命は削られ続けているかもしれないのだ。
本人が言った通り、出産直後で胎が閉じきってないんだろう。確か産後はひと月くらい月のものが出続けると侍医が言っていたけど、命に関わる出血とそうでないものの判断が僕にはつかない。
最善を考えるなら一刻も早く城に連れ帰って、ネルソン様に診ていただくしかない。
ぐっと拳を握り、心配そうに見守る仲魔達に低く問うた。
「…………、行っていい?」
本当は、みんなで一緒に迎えに行きたい。
思惑通りに単身乗り込んで、足元を掬われない自信がない。
僕一人で何ができる。父さんの二の舞になるんじゃないか。けど、間に合わなかったら。ここで迷って躊躇って、助けられたはずの君を永遠に失うことになったら────
こくん、と力強くスラりんが頷いた。しびれんもガンドフも、寧ろプックルやマーリンに至っては早く行けと言わんばかりに鋭い目つきで僕を促してくれる。素早く僕の足許に跪いたピエールが、恭しい敬礼で応えてくれた。
「なるべく早く馳せ参じ申す」
「うん。頼む」
拾った耳飾りを懐に納め、仲魔達と一度だけ視線を交わした。両陣営が睨み合う中、道を開けられ魔神像の壁の前へと誘導される。通り抜けた途端オークが槍を構えて背後に仁王立ちし、仲魔達の動きを止めた。誰もこちらに寄ってこないことを確かめて、キメラが鍵を取り出した。
像に捧げた瞬間、壁がみるみる床にのまれていく。ごくりと唾を嚥下したところで、背中を強く押されて階段の手前へとまろび出た。
咄嗟に振り返れば、今来た道が早くも塞がれていく。
地面を揺るがす轟音に紛れて、プックルの咆哮とピエールの飄々とした声が聞こえてきた。緊張が張り詰める中、思わず笑ってしまいそうなくらいにいつも通りの。
なんて心強い、君達らしい餞だろう。
「見下すのは結構だが、生憎我があるじも我々も、そう簡単には屈さぬよ。──否」
忠義に篤い僕の騎士は今、その決め台詞を口にしながら、僕が贈ったあの剣を鋭く構えているのだろう。
君達なら負けない。信じている。
「精々気を揉むが良い。汝らの将が我が主たる『魔物遣いのニンゲン』に従う事態にならぬようにな」
◆◆◆
父の剣を握り、暗く広い階段を一人で進んだ。一歩踏み出すたび冷たい靴音が無情に響いて、全く別の世界に放り込まれたような寂寥感が増していく。
みんなと離れたからだろうか。そして、塔のずっと上だからだろうか。木々のざわめきも小鳥の声も、風の音すら聞こえない。
辿り着いた先は窓ひとつない、恐ろしく閉鎖的な広間だった。金糸で縫い取られた神秘的な青の絨毯が敷かれ、その奥に空の玉座が見える。紫の布を貼った座面はグランバニア城の謁見の間を彷彿とさせる。──その、玉座から離れた部屋の隅、絨毯の上ですらない冷たい床石の上に、碧髪の乙女が上半身を縛られ横たわっていた。
「…………、あな、た」
僕の気配に気づいたフローラが苦しげに頭を持ち上げる。
目が合うと、切なく微笑み首を傾げてみせた。
「ああ、あなた。来てくださるって信じていました……」
「当然だろ。ああ、こんなに血が……待って、すぐに解いて」
構えた剣を鞘に戻し、すぐさま駆け寄ろうとしたが、何故か無意識に足が竦んだ。
ばっと広間を見渡して、居るはずの怨敵の姿を捜す。
「……? あなた?」
ようやく会えた妻を放置して何かに気を取られる僕を見上げ、フローラがひどく怪訝そうに眉を顰めた。
「どうなさったの。早くこの縄を解いてくださいまし」
「フローラ、魔族は?」
ジャミが待ち構えているんじゃなかったのか。
父さんを嬲り殺した、ゲマの手下の一人が。この憎しみに翻弄されないよう、フローラの救出という目的を見失わないように、必死に己を律してここに来た。僕一人を招いて、捕らえたフローラをこれ見よがしに囮にしておいて、ジャミが不在だなんてことあるのか?
立ち尽くし感覚を研ぎ澄ます僕を食い入るように見上げて、フローラが焦れったそうに語気を強めた。
「魔族ならついさっき席を外しました。今が好機です。急いでここを離れましょう、あなた」
こんなの、ただの勘でしかないけど。
フローラは、フローラなら、真っ先に僕の身を案じてくれる。次いで子供達が無事なのか、ホイミンは、仲魔達はどうしているかを訊くだろう。目の前で脆く儚く身を横たえた彼女は、その表情も声も髪の碧さも紛れもなくフローラなのだけれど────
花の香りが、しない。
止まらないはずの血の臭いも。
「……リオがさ、乳を飲まないんだって」
考えるより先に呟いていた。最後に出た会合が始まる直前、乳母の一人がひどく困った様子で訴えてきたこと。
何か困ったことがないか、世間話的に振って返ってきた答えだった。訊いたところで僕にはどうしようもなかったのだけど。結局、項垂れる乳母から赤子を抱きとり、私どもがついておりますのでご心配なく、とヘラ女官長が力強く送り出してくれたのだった。
今のフローラにとってきっと一番大事な話のはずなのに、目の前の彼女はやはり、よくわからないというように首を傾げただけだった。
「──……誰だ」
疑念が、確信に変わる。翡翠の瞳を大きく見開き、フローラが驚きを隠さず問い返す。
「あなた、何を……」
「お前は誰だ」
愛らしく狼狽えた女を遮った。眉尻を下げた上目遣いの表情、それ自体はよく見慣れたものだ。僕じゃなかったら騙されただろう、それくらい、そっくり同じだからこそ怖気がする。
君の眼差しに篭る熱が。優しい愛情が、慈しみが。いつだって宝物のように僕を呼んでくれたあの声が。
目に、耳に、鼻に、肌にひりついた記憶のすべてが、一呼吸ごとに微かな違和感を訴える。刮目しろ、『これ』は違う。僕が愛した君じゃないって。
「妻は何処だ。言え!」
迸る憤りに理性を委ね、困惑した様子の『フローラ』を恫喝した。そんな、と彼女は今にも泣き出しそうに目許を潤ませたが、俯いて暫しの後、聞こえてきたのは驚くほど淡々とした呟きだった。
「……それを知って、どうなさるのです」
僕らをよく知る誰かが見たら、痴話喧嘩だと思うだろうか。
ゆらり、立ち上がる。面伏せたままで表情は見えない。胴回りを戒めていた縄がはらりと解けて呆気なく床に落ちた。
これは違うと理性は全力で警鐘を鳴らしているのに、それでも恋しい妻の声で囁かれるたび、本能と情緒を激しく掻き乱されて頭がおかしくなりそうだ。
「知る必要のないことです。だってあなたはこれから、偉大なる我らが主神、ミルドラース様の眷属となるのですから。……テュール・シエル・グランバニア」
憎くて愛しい、鈴の声。
白の寝衣の下半分がまだらな赤黒に染まっている。腰まで伸びた碧髪がさらりとなびいて、形の良い両の耳朶にあの耳飾りが露わになった。──瑠璃石の、双つ揃いの。
片方はさっき僕が拾って、今持っているはずのもの。改めて、剣を握る腕に力を篭める。
ようやく顔を上げた血染めの聖母が、凛として微笑んだ。
「その手で私を殺せますか? ────『あなた』」