月への嘆願
秘儀と呼ぶべくもない、ヤーナムを揺籃とする月の上位者への叫び。
人は、自らを救えない。
骨身に沁みるほどに悟った人々は、やがて憐れみを懇望する。
もはや祈る余蘊さえない。
「なんてことなの! 先生は、先生は──その人とグルなんだわ!」
「グルではないよ。ハーマイオニー、落ち着いて」
「私、誰にも言わなかったのに! 先生のために、私、隠していたのに! 先生は狼人間なのよ! だから満月の時は授業を休んでいたの! ブラックが城に入る手引きをしていたのよ! この人もあなたの死を願っているんだわ!」
ハーマイオニーが叫んだ。
「いつもの君らしくないね、ハーマイオニー。三問中一問しか合っていない。私はシリウスが城に入る手引きはしていないし、もちろんハリーの死を願ってなんかいない……。しかし、私が狼人間であることは否定しない」
ハリーの頭は怒りと憎悪で焼き付きそうだったが、ハーマイオニーほどショックで精神を打ちのめされていなかったし、ロンほど嫌悪で顔を歪ませていなかった。
「いつ頃から気付いていたのかね?」
「ずーっと前から。スネイプ先生のレポートを書いた時から」
「スネイプ先生がお喜びだろう。私の症状が何を意味するのか、誰かに気付いて欲しいと思って、あの宿題を出したんだ。月の満ち欠け図を見て、私の病気と一致することに気付いたんだね? それとも『まね妖怪』が私の前で月に変身するのを見て気付いたのかね?」
「両方よ」
「ハーマイオニー、君は私が今までに出会った、君と同年齢の魔女の誰よりも賢いね」
「違うわ。私がもう少し賢かったらみんなにあなたのことを話していたわ!」
「しかし、もうみんな知っていることだ。少なくとも先生方は知っている」
「ダンブルドアは狼人間と知っていて雇ったっていうのか? 正気かよ」
「先生のなかにもそういう意見があった。ダンブルドアは私が信用できる者だと何人かの先生を説得するのにずいぶんご苦労なさった」
「そして、ダンブルドアは間違っていたんだ!」
ハリーは爆発したように叫んだ。
「先生はずっとこいつの手引きをしていたんだ!」
ハリーはブラックを指差した。
ルーピン先生は辛抱強く、繰り返した。
「私はシリウスの手引きはしていない。ワケを話させてくれれば、説明するよ。ほら」
ルーピン先生はそう言って取り上げていた杖を三人のそれぞれの持ち主に放り投げた。
それから、彼は自分の杖をベルトに挟み込んだ。
「君達には武器がある。そして私は丸腰だ。聞いてくれるかい?」
三人は顔を見合わせた。それぞれが「罠だろうか?」と思っているのが分かった。
「先生がブラックの助けをしていないのなら、どうしてこいつがここにいるってわかったんだ?」
「地図だよ。『忍びの地図』だ。事務所で調べていたんだ」
「使い方を知っているの? あなたが?」
ハリーが疑わしげにたずねた。『忍びの地図』は「われ、ここに誓う。われ、よからぬことを企む者なり」という言葉を伝えなくては、ただの古びた大きな羊皮紙に過ぎない。そして、これは口伝だ。『闇の魔術に対する防衛術』は、羊皮紙にかけた魔法を破れるのだろうか。
「もちろん、使い方は知っているよ。私もそれを書いた一人だ。名前はムーニーだよ。──学生時代、友人は私のことをそういう名で呼んだ。そんなことより、私は今日の夕方、『忍びの地図』をしっかり見張っていたんだ。三人が城をこっそり抜け出して、ヒッポグリフの処刑前にハグリッドを訪ねるのではないかと思ったからだ。思ったとおりだった。そうだね?」
三人から否定の声はあがらない。事実だったからだ。
話を急ぐようにルーピンは手を振った
「私は君たちが校庭を横切り、ハグリッドの小屋に入るのを見ていた。二〇分後、君達はハグリッドのところを離れ、城に戻り始めた。しかし、今度は君達のほかに誰かが一緒だった」
「え? 違う、僕たちだけだった」
二人も「そうだ」と言った。
しかし、ルーピンは「四人だ」と言った。
「『忍びの地図』がおかしくなったかと思った。──あいつがどうして君達と一緒なんだ?」
「誰も一緒じゃなかった。地図が間違っているんだ!」
「地図に間違いはない。間違えないんだよ、ハリー。地図を誤魔化すことはできない。たとえ君が透明マントを被っていても『忍びの地図』には君の名前が現れる」
「でも……」
呟いたハーマイオニーの目が、ロンの握るスキャバーズに移った。ハリーも見た。ハグリッドの小屋から加わったものと言えば、それは──。
「ネズミを見せてくれないか?」
「なんだよ? スキャバーズに何の関係が……」
「大ありだ。頼む。見せてくれないか?」
「僕のネズミがいったい何の関係があるって言うんだ?」
「それはネズミじゃない」
突然、シリウス・ブラックの声が割り込んだ。
彼はネズミから目を離さず、クルックシャンクスも毛を逆立てた。
「どういうこと──こいつはもちろんネズミだよ──」
「いや、ネズミじゃない。こいつは魔法使いだ」
ルーピン先生が言った。
「『動物もどき』だ」
ブラックが言った。
「名前は、ピーター・ペティグリュー」
直後のことだ。
執拗にネズミを殺そうとするブラックを制止して、ルーピン先生は声を張り上げた。
「待ってくれ! そういうやり方をしてはダメだ──みんなに分かってもらわねば、説明しなければいけない!」
「あとで説明すればいい!」
「みんな──すべてを──知る──権利が、あるんだ! ロンはあいつをペットにしていたんだ! 私にもまだわかっていない部分がある! それにハリーだ! シリウス、君はハリーに真実を話す義務がある!」
「わたしは待った! 十二年も! アズカバンで!」
悲痛な叫びが、ハリーの頭を冷やした。
誰も何も言わなかった。
「せ、せ、先生」
沈黙を破ったのはハーマイオニーだった。
授業中にするように挙手をしてルーピン先生が顔を向けるのを待っていた。彼は促した。
ハーマイオニーは、最大限の論理的な思考を用いてルーピン先生に回答を求めた。
たとえば。
「ピーター・ペティグリューが『動物もどき』のハズがありません」
マクゴナガル先生の授業で『動物もどき』の勉強をした。
『動物もどき』は、調べられる。なぜならば、『動物もどき』は魔法省が厳密に管理しているからだ。
たとえば今世紀の『動物もどき』は七人しか存在しない。そして、彼らが何の動物に変身するのか、その身体的な特徴が細かに記録されている登録簿が存在する。
「登録簿にはマクゴナガル先生の名前が書いてありました。でもそこにピーター・ペティグリューの名前は、ありませんでした」
ハリーは、まじまじとハーマイオニーを見た。彼女より真面目に真摯に宿題に取り組んでいる生徒はいないだろう。ルーピン先生の言葉は正しい。ハーマイオニーはハリーとしても今までに出会った同年齢の魔女の誰よりも賢い人だと心の底から尊敬した。
「またしても正解だ。ハーマイオニー。でも、魔法省は、ダンブルドア校長は、未登録の『動物もどき』が三匹、ホグワーツを徘徊していることを知らなかったのだ」
「未登録……!?」
「話をしよう。さほど昔のことではない話だ。シリウス、君も手伝ってくれ。……長い話にはしない。だが、みんなに必要な──」
ルーピン先生の言葉が途切れた。
彼の背後、ベッドルームのドアが独りでに開いた。五人が一斉にドアを見つめ、最も近くにいたルーピンがドアのほうに進み、階段の踊り場を見た。
「誰もいない」
「ここは呪われているんだ!」
ロンがヒステリックに大声をあげた。
「いいや、違う。『叫びの屋敷』は決して呪われてはいなかった。けれど『呪われている』とか『世界一怖い幽霊屋敷である』とか、そういった噂は都合が良かった。だから煽られた。もしかしたら、君達はホグズミードの住人から『実際に叫びを聞いたことがある』と聞いたことがあるかもしれないね。……村人がかつて聞いた叫びや吠え声は、私の出した声だ」
ルーピン先生は、話しはじめた。
全ては彼の幼少の頃から始まる。
「無慈悲で、邪悪で、殺されて当然の存在」だと魔法界の誰もが心の底で思っていることを人狼の前で訴えた魔法使いの父は、報復を受けた。しかし、傷ついたのは彼ではなかった。報復の牙は、彼が愛する唯一の息子に向けられた。
彼を噛んだのはフェンリール・グレイバックという人狼だ。人狼に噛まれた者は、人狼となる。そうして幼少の頃、ルーピンは人狼になったのだ。魔法使いの父とマグルの母と共に転々と暮らしを変え、すこしでも噂が立つとすぐさま次の場所へ引っ越した。それを何度も繰り返し、父母も子も疲弊した。
学校に入ることなど到底認められないと誰もが思い、ルーピンでさえ諦めていた。
だが、彼だけは違った。
「リーマスに何があったかは知っている。フェンリール・グレイバックは、そのことを得意げに言いふらしておるのでな」
ホグワーツの校長となっていたダンブルドア。
変身の時期に人狼を置いておくために必要な対策は全て講じているとも言った。
そして彼は、ルーピンが十一歳の誕生日を迎えた日、ホグワーツへの入学許可証を渡したのだ。
「この叫びの屋敷までのトンネルは、私が使うために作られた。一ヶ月に一度、私は城からこっそり連れ出され変身するためにここに連れてこられた。『暴れ柳』は知っているね。あれは、このトンネルを生徒の好奇から守るために植えられた。私が入学したから植えられた、と言った方が正しいね」
そして、満月の日。ここで変身した。苦痛に満ちたことだ。
獲物の人間から引き離され、代わりに自分を噛み、引っ掻き、吠えた。
ホグズミードの村人は、それはそれは荒々しい霊だと恐れた。ダンブルドア校長は、その噂を煽った。
時が経て、もうずいぶん前からこの屋敷は静かになったというのに村人は近付かない。
変身することだけを除けば、人生であんなに幸せだった時期はない。
やがて、友ができた。
「君のお父さんだよ、ハリー。ジェームズだ。そして、シリウス。それから……ピーター・ペティグリュー」
──最後は友と『思っていた』だが……。
小さく言葉を添え、ルーピンは鼻の上を掻いた。
それから。
「だが月に一度、私が姿を消すことに気付かないハズはない。私の正体を知ったら、途端に見捨てるのではないかと、それが怖かったんだ。だから、いろいろと言い訳をしたものだ。母親が病気で見舞いに帰らなければならなかった、とか。だが、やがて彼らは、ハーマイオニー、君と同じ……本当のことに辿り着いた」
ルーピンの予想を裏切り、三人は見捨てはしなかった。
「それどころか、私のためにあることをしてくれた。おかげで変身は辛いものでなくなったばかりではなく、生涯で最高の時になった。三人とも『動物もどき』になってくれたんだ」
ジェームズも、そうだ。
ハリーが訊ねたそうにしている顔を見て、ルーピン先生は告げた。
「どうすれば『動物もどき』になれるのか。三人はほぼ三年の時間を費やしてやっとやり方が分かった。君のお父さんもシリウスも学校一賢い学生だった。それが幸いした。──なにしろ、『動物もどき』変身はまかり間違うと、とんでもないことになる。当時も今も、もし露呈すればアズカバンの禁錮刑は免れないだろう」
とにかく『動物もどき』は危険なのだ。
飛ぶことを好み、人であった記憶を忘れて本当の動物になってしまった魔法使いや魔女のなんと多いことか。
一般的な人間の寿命より短命になった、なんて失敗は幸運なものだ。悲惨な失敗事例には事欠かない魔法だ。目も当てられない半人半獣のおぞましい姿になって生きるしかなくなった人は大勢いる。
それだけ魅力的なのだ。
なぜかって? 『動物もどき』が犯罪に関わると、きわめて有利なことは想像ができるだろう。
ハリーは、そう言ったルーピンの目がロンの握るスキャバーズに移ったことを見た。
「ピーターだけはさんざん手伝ってもらわなければならなかったが……五年生になって、やっと、三人はやり遂げた。それぞれが意のままに特定の動物に変身できるようになった」
「でも……それがどうしてあなたを救うことになったの?」
ハーマイオニーが不思議そうに訊ねた。
「人間だと私と一緒にいられない。だから動物として私に付き合ってくれた。狼人間は人間にとって危険なだけだからね。動物に対する攻撃性は、人間ほど高くない。……先生にここに連れてこられた私を追って、三人はやって来た。ピーターは一番小さかったから『暴れ柳』の攻撃をかいくぐって木を硬直させる節に触ってね。そして、私と一緒になった。友達の影響で、私は以前ほど危険ではなくなった。」
三人が変身できるようになったことでワクワクする可能性が開けた。
『叫びの屋敷』を抜け出して校庭やホグズミードを歩き回るようになった。
「私達ほど校庭やホグズミードの隅々まで詳しく知っていた学生はいないだろうね。こうして私達が『忍びの地図』を作り上げ、それぞれのニックネームで『忍びの地図』にサインした。シリウスはパッドフッド、ピーターはワームテール、ジェームズはプロングズ」
「とっても危険だわ! 暗い中を狼人間と走り回るなんて! もし狼人間がみんなをうまく撒いて、誰かに噛みついていたらどうなったの?」
「それを思うと今でもぞっとする。あわや、ということがあった。何回もね。……あとになってみんなで笑い話にしたものだ。若かったし、浅はかだった。自分たちの才能に酔っていたんだ」
ハリーは、ルーピンの気持ちが何となく分かるような気がした。
他の人が持っていない変身能力を持ち、他の生徒が知らない秘密の抜け道を全て知っていて、学校での成績も優秀な生徒。
もしも、自分がそんな立場だったとしたら自分の才能に自惚れないワケがないと思ったからだ。
「ダンブルドアの信頼を裏切っているという罪悪感を、私はときおり感じていた。……もし、他の校長であったのなら私が入学することは許さなかっただろう。私と周囲の人々の両方の安全のためにダンブルドアが定めたルールを、まさか私が破っているとは夢にも思わなかっただろう。加えて三人の学友を非合法の『動物もどき』にしてしまったこともダンブルドアは知らない……。この一年、私はシリウスが『動物もどき』だとダンブルドアに告げるべきかどうか迷い、結局、告げはしなかった。……私が臆病者だからだ。学生時代に、ダンブルドアの信頼を裏切っていたと認めることになる。……ダンブルドアの信頼が、私にはすべてだったのに」
ルーピン先生の声は、悲痛で自己嫌悪の響きがあった。
ハリーには、まだ分からない。
彼の語り始めた話が、どこに辿り着くのか。その好奇に負けて、怒りや憎悪が色褪せていくことを惜しいとは思わなかった。
誰もが彼の話を聞き入っていた。
だからこそ。
何も存在しない場所で物音が鳴ったことに気付かなかった。
■ ■ ■
クルックスは、樹木に吊り下がっていた。完全に太陽は地平線の向こう側に沈み、周囲は完全な闇が支配している。
もし、月の香りの狩人が彼の姿を見る機会があれば「最も狩人らしい姿だ」と皮肉げに笑っていたかもしれない。
吊り下げている足の縄に手が届けば、綱が切れるだろう。そう思い、腹に力を入れて体を曲げ続けているが、手は届かず、力尽きてぶら下がることを三十回繰り返した。お腹の奥がシクシクと痛い。『筋肉痛』というものをクルックスは生まれて初めて感じていた。
(ダメだ。届かん。腹筋、鍛えるか。血の遺志を筋力に費やせば増えるのか……)
痛みのせいで思考が散漫になりつつある。
触れる空気は夏が近く寒いほどだというのに汗が止まらない。
──独りでは無理だ。
独力での脱出は無理だと悟るのに三十分もかかってしまった。
(誰か……誰か、誰でもいい、誰か来てくれ。狼人間だからという理由で、意志を無視されることは善い行いではないのに……ネフもテルミも何を焦っているんだ……?)
自らを戒める縄を軋ませることだけが今の彼に許されていた。
遠くから獣の吠え声が聞こえる。狼だろうか。それとも犬だろうか。あるいは人狼だろうか。
ネフライトやテルミと関わりのないことだけを祈った。
(何も出来ない……ああ、ああ、俺は、ここでいったい何をしているんだ……)
何が間違っていたのか。
クルックスには、どこから正すべきなのか分からなかった。
狼人間だと知ってしまった時点でヤーナムの月の香りの狩人の仔としての接触は免れなかった。
(かつてのお父様も無力に苛まれていたのだろうか。誰か誰か、と祈ることがあったのだろうか。それから、どうしたのだろうか。……狼人間はヤーナムでは手に入らない。これが獣の病を解明する糸口の一つになるのならば、俺が悪なのか? ダメだ……やめよう……善悪など、俺には分からない。分かる者など本当にいるのだろうか。誰がどうやって判断するのだろうか……)
無力感が、体の力を奪っていくようだった。
涙が出る。痛みによるものなのか、心の問題なのか分からなかった。
頭に血が上るせいで時間が分からなくなってきた。時間はいやに長く感じられた。
やがて。
微かに。
枯れ葉が踏みつけられる音が聞こえた。
求めて止まない心が聞かせる幻だろうか。
赤く暗い視界に月光に輝くものを見つめた。
結わえた長い髪を銀の翼のように靡かせ、現れた狩人がいる。
カインハーストのマントを翻したセラフィだった。
「お父様によく似た君。僕に親しい枝の君。香しい月の血に誘われて獣が集まってしまうよ。君は知らないだろうか。君の血は、お父様の匂いがするのだ。僕でさえ胸ときめく、不思議な香りなのだよ」
セラフィは、クルックスを見上げた。
待ち焦がれた助けが来たというのにクルックスは、なぜか声ひとつ上げられなくなっていた。
「夕食の席に君達がいなかったからね。僕はまた出遅れたのかな。君が罠に引っかかるとは……足下の注意が疎かになっているのではないかな。……。クルックス? 出遅れたことに怒っているのか? 何か話してくれ」
「え……あ、い……」
喉から声を出し、クルックスは顎が壊れていることを伝えようとした。そして、ネフライトとテルミのことも。
だが、多くは伝わらなかった。
「何を言っているか分からないな。でも、動かないでくれ。縄を切るよ」
セラフィはカインハーストの長銃、エヴェリンをクルックスを縛る縄に向けた。間もなく甲高い特徴的な銃声が響き、幹とクルックスを結ぶ縄は衝撃で焼き切れた。
一時間ぶりに地面に落ちたクルックスは、ひどい頭痛にしばらく動けなかった。その間、セラフィはクルックスを抱き起こし、手を戒めていた縄を解いた。
「しかし、君が遅れを取るとは。連盟員も不意を突く攻撃には弱いらしい。……ん? 君、顎を壊されたのか。どうりで叫べないハズだ」
クルックスに念のための輸血液を差し込んだ後でセラフィは、瞳を覗き込んだ。
「それで……敵は誰?」
■ ■ ■
過去の真実を証明する方法は、少ない。
たとえ証明が出来たとして、納得が出来ることは稀だ。
スネイプの乱入をハリーとロン、ハーマイオニーが退けた後。
先生を攻撃したことでいっそう怯えた顔をしたハーマイオニーの隣で、ロンが痛みに顔を顰めた。
「……話は、わかったよ。スキャバーズなんかに手を下すために、わざわざアズカバンを脱獄したって。でも、でも、おかしいだろ? ペティグリューがネズミに変身できたとしても、ネズミなんて何百万といるだろう? どうしてアズカバンに閉じこめられていたのに、このスキャバーズが自分の探しているネズミかどうか、わかるって言うんだい」
「そうだともシリウス。まともな疑問だよ」
ルーピンは、不可解そうに眉根を寄せた。
「ファッジだ」
コーネリウス・ファッジ。
現在の魔法大臣の名前に全員がブラックを見た。
そして彼は骨とシミの浮いた手をローブに突っ込み、クシャクシャになった日刊予言者新聞を取り出した。
ハリーも知っている記事だった。
一年前の夏に新聞に載ったウィーズリー一家の写真だ。
「去年、アズカバンの視察に来た時、ファッジがくれた新聞だ」
温かい茶の匂いを漂わせ、小脇に新聞を挟み、ファッジは守護霊に守られてアズカバンの視察に訪れた。
「一目見てわかった。……ピーターが映っている。あいつが変身するのを何度見たと思う? そして写真の説明には、ホグワーツに戻ると書いてあった。ハリーのいるホグワーツへと」
ルーピンの目が、ブラックとスキャバーズを交互に見た。そして。
「何たることだ。こいつの前脚……」
「それがどうしたって言うんだい?」
「指が一本ない」
ルーピンの言葉を聞いたハリーは、頭の中で誰かが電球にスイッチを入れたかのように閃いた。
『三本の箒』でファッジとマクゴナガル先生達の話を盗み聞いた時のことだ。
──マーリン勲章、勲一等。それに箱に入った──。
「指一本が母親に贈られた」
彼らは言った。
──それが残った体の欠けらのなかで一番大きいものだった。
けれど、ペティグリューは爆殺されたという。指一本が残るにはどうすればよいか。
その答えはルーピンが言った。
「なんと単純明快……なんと小賢しい……あいつは自分で切ったのか?」
そしてピーター・ペティグリューは実行した。
道行く衆目に向かってブラックこそがポッター夫妻を裏切ったと叫んだ。そして変身する直前に、指を切り落とし、周囲を吹き飛ばし皆殺しにした。
ブラックの話したことを真実だとすれば、ネズミが弱っていることも説明できそうな気がした。
ロンはまだハーマイオニーの愛猫のクルックシャンクスが恐いから弱っているのだと強硬に主張していたが、ハリーもハーマイオニーもそれは事実ではないことを知っていた。
去年、ロンと再会して三人でペットショップに行く以前からスキャバーズは弱っていた。あの時は、「エジプトの水があわなかった」というロンの言葉を気に留めることもなかったが、体調が悪いのはエジプトから帰ってきて以来ずっとだ。シリウス・ブラック脱獄の報道を聞いてから、ずっとだ。
「なぜピーターは自分が死んだと見せかけたんだ? おまえが僕の両親を殺したように、自分も殺そうとしていると気付いたからじゃないのか!?」
「ハリー、わからないのか? 私達はずっとシリウスが君のご両親を裏切ったと思っていた。ピーターがシリウスを追いつめたと思っていた。しかし、真実は逆だった。ピーターが君のご両親を裏切ったんだ!」
「ああ、わたしが殺したも同然だ。最後の最後になって、ジェームズとリリーに、ピーターを守人にするよう勧めたのはわたしだ。ピーターに代えるように勧めた。あいつらはわたしを追うだろう。時間が稼げるハズだった。……二人が死んだ夜、わたしはピーターが無事かどうか確かめに行くことにしていた。ところが、ピーターの隠れ家はもぬけの殻だ。不吉な予感がして、すぐに二人の所へ向かった。そして、家が壊され、二人が死んでいるのを見た時、わたしは悟った。……ピーターが何をしたのかを。わたしが何をしてしまったのかを」
後悔と失意に打ちのめされた顔でブラックは顔を両手で覆った。
ルーピンが毅然と言った。
「話はもう十分だ。これから何が起こったのか完全に証明する。──もし本当のネズミだったら、これで傷つくことはない」
「ロン、お願いだ。スキャバーズを渡して」
ハリーの懇願と何を言っても手を引きそうにない大人二人の話、そして彼自身、真実を知りたい気持ちがスキャバーズをルーピンに手渡した。
ブラックは床に落ちていたスネイプの杖を拾い上げた。
「一緒にやるか?」
「ああ、友よ」
過去の真実を証明する方法は、少ない。
しかし、時に。
証明できた真実は、どんな言葉よりも速やかに、他者に真実を悟らせるものだった。
叫びの屋敷の一室を青白い光が満たした。
スキャバーズが宙に浮き、一瞬だけ静止した。
ネズミの身がよじれ、人間の手足が生えてきた。毛は落ち、尻尾がみるみるうちに体に吸い込まれていった。
次の瞬間、一人の小柄な男が──ネズミらしい仕草で──両手を体の前でそろえて立っていた。
元は明るい茶色であったであろう髪はまばらに色褪せ、頭頂に大きな禿げがあった。もとの体型からして、やや小太りであったのかもしれない。やけにダボついた服が、男のみすぼらしさに拍車をかけている。尖った鼻や小さな目には、スキャバーズの面影があった。
呆気にとられる三人とかつて見慣れた変身を久しぶりに見た二人に向かい、男はハァハァと浅く息をして、小刻みに震える右手を挙げて挨拶した。
「や、やぁ……友よ……なつかしの友よ……」
■ ■ ■
「こんばんは」
もしも、ここが学校の廊下であったのならば相応しい挨拶だったかもしれない。
だが、暴れ柳を出た先、夜の校庭で聞こえてよい挨拶ではなかった。
声に頼る必要なく、彼を知る人は挨拶の主が誰なのか分かった。
六角形の檻だと見分けるためには、ほんのすこし降り注ぐ学校からの光があれば、それだけで十分だった。闇のなかにその特徴的なシルエットが浮かび上がる。檻の頂点は鈍く錆色に光っていた。
「挨拶は良い。──実に人間らしい礼節の現れ方だと感じる」
この言葉を、かつてハリーは聞いたことがある。
夏休みのはじまり。同級生によく似た、彼の父親が話していた言葉だ。
あの時、大人の奇妙なこだわりに感じた言葉が、今は嘲りの色を乗せていた。
ネフライト・メンシス。
緑色の瞳が夜闇に光って見えるのはおかしな檻を被っているせいだろう。
「どうして君がここにいるんだ」
ハリーは、シリウスを庇って前に出た。
ネフライトは興味なさげにハリーの背後を見た。痛みに悲鳴を上げているロン、そして小男のピーター、その彼に杖を向けているのはルーピン、そしてハーマイオニーは小刻みに震えていた。
ハーマイオニーの猫、クルックシャンクスに「シャー」と足下で鳴かれたネフライトは、灯りのともる杖先で学校を指した。
「君はさっさと寮に帰るといい。私はルーピン先生と『お話』をしたいだけだ」
ネフライトは、意外なことにシリウスがいることを認めながらも頓着しなかった。
魔法界のごく普通の人々ならば、金切り声で「シリウス・ブラック!」と叫んだことだろう。なんせ彼はここ一年ですっかり名の知れた極悪犯罪者で『お尋ね者』なのだ。
脅威を認識していないことが、ハリーには何より恐ろしく感じられた。だが、納得もいく。怪しげな所帯に向かって第一声に「こんばんは」と挨拶する人物だったからだ。
「君は……。どうして……?」
ハリーは言うべきことを迷った。どうしてここにいるのか分からないが、彼には是非とも何も見なかったことにして黙っていてほしい。
宙に浮かび、だらんと力の入らない体のスネイプを見た時にようやくネフライトは、顔を顰めたようだった。
「ハリー・ポッター」
おおよそ蔑む以外の感情らしきものが窺えない声に、初めて温度が感じられた。
「シリウス・ブラックに関する出来事とは、世間一般で話されている以上に複雑で、けれど君にとって悪いものばかりではなかったらしい。これは幸いなことなのだろうな」
ネフライトは、杖を持っていた。
その杖先を誰もが緊張して追った。ゼイゼイと喘ぐピーターの息づかいだけが後方でうるさかった。
幸い。──そうだ。
ハリーは『叫びの屋敷』から暴れ柳までの道中、シリウスと話したことを思い出した。
シリウスとルーピンは、スキャバーズことピーターをさっさと殺そうと主張した。もしも、両親の仇討ちだけが目的であればハリーも賛成したことだろう。だが、問題があった。ピーターが裏切りを証言しない限り、シリウスの罪とされている──実際には冤罪なのだが──それが晴れないのだ。親友であったハリーの父、ジェームズならば謂れなき罪の不名誉を受けたシリウスの汚名を晴らそうとするだろう。ハリーは、そう考えた。
また、ピーターを生かすことで、ハリーにとって思わぬ可能性が拓けた。
──もし、君が新しい家族が欲しいと言うのなら……。いいや、言ってみただけだ。おじさんやおばさんが大切だろう。家族だ。その気持ちは、よくわかるつもりだ。しかし……まあ……考えてくれないか……別の家族がほしいと思うなら……。むろん、君はそんなことは望まないだろうと思うが……。
遠慮がちなシリウスの提案をハリーは喜んで受け入れた。
ダーズリーの家を離れることができるのなら、ハリーは大賛成だった。
「この先の幸福まで祈りたいものだ。……君を憂う彼のためにも」
やがて、光の灯るネフライトの杖先は校庭の向こう、きびきびした動作でホグワーツ城を差した。
「シリウス・ブラックを連れて行くのなら道中はくれぐれも気を付けることだ。吸魂鬼がうろうろしている。誰かタレコミをしたのだろうかね。そこで寝ている先生か……? いいや、私にはどうでもいいことだが」
三度「君は」と言いかけたハリーの言葉をルーピン先生が止めた。
「君は私と話したいんだろう。だが、後にしてくれないか。今夜、十二年前の誤りが正されようとしているんだ。一人だけではない。失われた人生を、ふたつ取り戻すことが出来る」
「待てない。私の都合がある。そして、あなたの都合も。──だって先生は今日、薬をお飲みではないでしょう?」
ハリーは、ルーピン先生の顔が白くなったのを見た。そして、ハーマイオニーが苦しげに息を詰まらせた声を聞いた。
ルーピン先生の顔は、血の気が引いた白ではない。
横顔が薄く光を帯びる。
誰もがルーピン先生を見た。そして、彼の背後を見た。雲が切れている。まるでスポットライトに照らし出されたようだ。一行に月光が降り注いだ。
「──正直なところ私は驚いた。まだ、あなたが人間の姿であることに。時間? 月の満ち欠け? あるいは体温? 厳密な条件があるのか? 要調査。だからこそ私は『さっさと寮に帰るといい』と言ったのだ、ハリー・ポッター」
月の光を浴びた途端、ルーピン先生は硬直し手が震え、杖を草むらに取り落とした。
監視役がいなくなったのを見逃さず、ワームテールがルーピン先生の杖に飛びついた。
「エクスペリアームス! 武器よ去れ」
ハリーの呪文は、ワームテールが持ち上げた杖を吹き飛ばした。だが、もはやワームテールは何も恐れていないようだった。
ニヤニヤと嬉しそうに笑い、小男の体はみるみるうちに小さく萎んだ。服が重力に逆らわず地面に崩れ落ちていく。
ハリーの父親と同じく、この男は『動物もどき』であり──ネズミに変身したのだ。目をこらすと毛の禿げた尻尾が草むらに隠れるところだった。尻尾が草に擦れるシュルシュルという音が微かに聞こえる。
「待て……!」
ハリーの両親を裏切り、真の『秘密の守人』である役目を放棄したのはワームテールだ。
その事実さえ明るみになれば、シリウスの冤罪も晴れる。
──彼は、自分の人生を取り戻すのだ!
ハーマイオニが、ワームテールを追いかけようとするハリーの腕を掴んだ。
「あいつが……! 離して! 両親の仇なんだ! ハーマイオニー!」
「ダメよ! 先生が今夜薬を飲んでいないのなら、危険よ!」
ほんの一時。
人狼であるルーピン先生が、薬を飲んでいない事実を忘れてしまったのは、未だハリーが人狼の何たるかを知らないからだった。
恐ろしい唸り声が聞こえた。誰の何の声なのか。月明かりは残酷に照らし出した。ルーピン先生の背が丸まり、そして盛り上がる。彼の着ていた、みすぼらしいローブは、ついに役目を終えた。毛むくじゃらの腕が振るわれると、かぎ爪が体にまとわりつく服を裂いた。ルーピン先生は、人狼に変身したのだ。
「ハリー、友達を連れて逃げろ! 早く!」
シリウスが片手を上げて、ハリーとハーマイオニーに指示した。
──助けを呼ばなければ。
頭の中はそれでいっぱいだった。歩けないロンの両腕を抱え、二人は立ち上がった。
ルーピン先生がこの様子では話がままならない。それに、使える手は一本だって欲しかった。ハリーがネフライトの姿を見ると彼は緩やかな口調で人狼に歩み寄っていた。
「ルーピン先生、おはようございます。こんにちは。こんばんは。ご機嫌よう。よいお天気ですね?」
「あいつ、頭がおかしいんじゃないか……!」
ロンが痛みで涙しながら言った言葉は、この場のほとんどの人の心情を代弁した。
いつ襲ってくるかも分からない人狼に向かって彼は、ほんの二メートルのところで足を止めた。
「おおよそ日常生活で交わされる言葉は、最も記憶に残る言葉でもある。顕著な反応は見られない。クルックスは残念に思うだろう。つまり『知性を感じられない』という意味だが。──インセンディオ! 燃えよ」
ネフライトの杖から人狼に対し、視界が真っ赤に染まるほどの炎が放たれた。
シリウスの姿が見えない。
炎から逃れようと地面を転がる人狼に大きな黒い塊が飛びかかっていった。ハリーの父親と同じく、彼は『動物もどき』であり犬に変身したのだ。
人狼はむちゃくちゃにかぎ爪を振り回し、小さくなった炎をまといながらネフライトに突っ込んだ。噛みつかれると思い、ハリーは咄嗟に「アッ」と声を上げた。ネフライトは細長い棒を取り出していた。長柄の先には、四角錐が結びつけてある。形状的にはツルハシのようだった。
長い柄に組み付いた人狼の脇腹を黒い犬が思い切り齧り付いた。人狼は炎と犬の猛攻に耐えかねてとび退り、真夜中の校庭を走り出した。
「獣の相手は狩人の役目だ。早く城へ戻りたまえよ、君達」
そう言い残してネフライトの姿も暗闇に消えていった。
「──シリウス、あいつが逃げた。ペティグリューが変身した!」
言ってしまってから、ハリーは黒い犬の歩き方がおかしいことに気付いた。怪我をしているのだ。だが彼は止まらず、足音を響かせて校庭を走り去った。間もなく、足音も消えた。
ハリーは、辺りを見回した。ハーマイオニーは必死で現状をすこしでも良い方向へ変えようと知恵を絞っているようだった。骨折しているロンは、痛みと驚きでショック状態だ。そしてスネイプは、相変わらず気を失ったまま宙に浮いている。ハリーは、膝を折ってロンを地面に下ろした。
「ロン、スネイプを起こして、学校に行くんだ。そして、誰か話の分かる人に──ダンブルドアに伝えて。メンシスがルーピンを追っている。人狼はここには来ないだろう。……たぶん」
「君はどうするのさ」
「僕はペティグリューを──」
その時、キャンキャンと苦痛を訴える犬の鳴き声が聞こえてきた。遠くない。
ハリーは、ロンと見つめ合った。自分の顔がひどく強ばっていると分かっていた。
「あー、僕は大丈夫……たぶん……」
ロンが気弱な顔で呟き、頷いた。ハリーの背を押すように。
「ロン、城で会おう。──シリウス!」
ハリーは、駆け出した。ハーマイオニーも続いた。
甲高い鳴き声を追いかけた。
全力で走りながら、ひやりと肌に感じる寒気の意味をハリーは忘れていた。
かつてあれほど恐怖したものを、なぜ忘れることが出来たのだろう。
真っ黒な原因を目にした瞬間に遅れてやって来た疑問は、いつまでも渦巻いていた。
■ ■ ■
狩人は、どんな深い森のなかであろうと獣の匂いを追うことが出来る。
それは普段、獣を追う狩人ではないネフライトであっても可能だった。
(火傷を負わせた。……弱らせてから捕獲を)
今は獣の匂いに加え、獣の毛皮が焦げた匂いを追うことが出来る。
狼人間の存在は貴重だ。
ビルゲンワースの学徒に「ヤーナムの外で遊んでいる」と小言を言われずに済む。そして、メンシス学派に提供すれば学派が躍進する多少の手がかりになるだろう。
人狼に対する魔法界の差別は知っている。
殺したとしても重い罪にはならないだろう。ならば、彼が行方知れずとなったとして構う者が、いるものか。
それに露見させるつもりもない。
「唯一偉大なる彼方のお父様、このネフライト・メンシスにご期待あれっ!」
月に手を伸ばし、笑う。
体はどこまでも軽かった。
「フッフッフ、誰にも私を止められないっ! 止められはしないのだ!」
ネフライトの言葉は上ずって途切れた。
樹木で遮られていた視界が切れた窪地に現れた魔法生物にネフライトは思考が停止した。
もしも、クルックスならば「なんだ通りすがりのヒッポグリフか」と素通りしたかもしれない。
だが、ネフライトは抱いた疑問を解消せずにはいられない性質だった。
「──ヒッポグリフ! クルックスはたしか処刑されると言っていた。別のヒッポグリフか……いいや、あの毛並みには見覚えがある……逃げ出したのか」
ならば、次の疑問が現れる。
(虜囚として鎖に繋がれているヒッポグリフがどうやって逃げ出すというのだ。ハグリッドの管理不十分か。いいや、そんなことをすればダンブルドア校長の責任も問われる。裁判に関わりのない別の誰か──関わりのない生徒──!)
ネフライトは、この暗い校庭の森にハリー達とは別の人物がいることを確信した。
「飛ばして逃がすでもなく、まだ手元に置いている──と見るべきか。利があるのは誰? テルミの手記にあったシリウス・ブラック? まさか……」
ヒッポグリフはネフライトを見つめ、尊大そうな目で見つめた。お辞儀をするのを待っているような目つきだった。
ここで争いになるのは避けたい。ネフライトは、全力で走り抜けた。ヒッポグリフ──バックビークは前脚で踏みつけていた蝙蝠をバリバリと食べているため追ってこなかった。
臭いを辿る、道なき道の先。
彼の視界に現れた人物を、ほんの一瞬、父たる狩人の姿に見間違えた。
「お、と……!」
頭の奥がガンガンと痛みを訴えている。
額が熱い。ありえないことが起きた現実に頭の中身が茹だった。
「──ッ! クルックス!? なぜ!? ここに……! どうして……!」
言葉を紡ぐ間、ネフライトは吊したハズのクルックスが現れた理由に思い至った。
「あ……? ああっ? ああああああぁッ!? セラフィっ!? セラフィがいるな! セラフィが来たんだな!?」
「…………」
「あ、あ、あ、あの気狂い女ぁぁあっ! ろくなことをしない! どうでもいいとのたまうなら、すっこんでいろ、血狂い! すっとこどっこいが! あぁ、どこ、どこだ……どこに……っ! どこにいる……!?」
ネフライトは、周囲を見渡し吠えた。
彼が獣を追うために臭いに強く頼る理由。
四仔のうち最も父を恐れ、けれど祈る理由のひとつ。
彼は、四仔のなかで。
最も夜目が利かないのだ。
ネフライトは自分は変えようのないほどに、どうしようもなく、夜が恐ろしかった。何も見えず、触れることの出来ない暗闇が恐ろしかった。
夢に生まれ、夜に生きるべき狩人が闇を恐れ、取り乱すなど滑稽だ。
最も『きょうだい』に見せたくない姿を晒してしまっていることが、何より彼の心を追い詰めた。
「どこだ! どこに──!? 君に阻まれてなるものかっ! お前に阻まれてなるものかっ! テルミは何をやっている! ちゃんと私を助けろテルミ! ……いや、忘れろ! テルミに援助を請うなど私は混乱している! 私は混乱している!? 冷静になるんだネフライト!」
もしもクルックスの口がきけたのならば「落ち着け、ネフ。君は数で俺に勝った。今度は俺が数で勝る。負けを認めて引き下がれ、俺にしたことはちょっとした喧嘩の範疇で済ませるとして、どうか」とでも言っただろうが、現在、すこしの動きで激痛がはしる状態のため何も言えなかった。
ネフライトは、頭の中で彼我の戦力差を計算した。
もしも、事情が許せば退くだろう。
クルックスでさえ力押しをされたら、かなり苦戦するというのに加えてセラフィを相手取るなど思考を放棄したくなる状況だ。
日頃、狩人の狩人である血の狩人を相手にするのは、まともであればしない。……そう、まともであれば。
「だが、なんとくだらないことかっ!」
ネフライトは吐き捨てて、教会の杭を握りしめた。
「構わない! どこからでもかかってこい! お父様への忠誠を今ここに示してみせよう! ──月よ、私にご期待あれっ!」
彼は、月へ祈った。
「──フフッ、お父様は僕らに特別甘くていらっしゃる。果たして何の諍いか、きっとご存じではないのに。君が力を欲するので、ほんの一時、こうして微笑を傾けてくださるのだ」
「そこかっ!」
ネフライトの連装銃が火を噴いた。
それはセラフィの緋色のマントをチラと掠めたが、緋色のマントは、夜の暗がりに容易く溶けてしまう。ネフライトは再び見失った。
「ああ、今のは惜しかった。射程を過信してはいけないよ。一歩踏み込んで撃つことを意識しないといけない。そして威嚇射撃は有効ではない。なぜなら装填の時間は殺し合いにおいて無駄であるから」
背後に聞こえた声にネフライトは全ての行動が一拍遅れ、袖に仕込んだ毒メスは宙を斬った。
「後ろにいた、真後ろにいたのに──!」
緋色のマントの赤い残像だけが焼き付くようだった。
だが、セラフィの言ったとおり、かの月は祈りを聞き届けた。
今は『月への嘆願』と呼ばれる。
秘儀とも呼ぶべくもない、ただの祈りだ。しかし、応える上位者はいる。そして、使用者は一時、カレル文字を刻まなくとも力を得るのだ。
闇の中から刺すようなセラフィの視線と射線を感じる。
それでもネフライトは仕掛け武器を取った。
成すならば、全力で。
何も惜しむつもりはなかったからだ。
■ ■ ■
トリコーンで遮られることないクルックスの顔が、月の光で照らされた。
(君は……知っているだろうか)
彼の銀灰の瞳は、闇夜に微かに光ることを。
父たる狩人に似た、あの──ネフライトにとっては──恐ろしい瞳と等しく。
けれど狩人のものとは異なり、彼のそれは他者を見て優しく細められることを、ネフライトはずっと前から知っていた。
至近距離。
互いに攻撃はできるが、回避はできない距離。
「君は、なぜ、私を理解してくれない」
何を問いかけようとネフライトが欲しい言葉は、彼から出てこない。
槌を構え、そこに踏み入ったクルックスに向かい、ネフライトは引き金を引いた。
連装銃の発砲音は、静かな夜空に空しく響く。
それから間もなく、残響は二刀により切り裂かれた。
通りすがりのヒッポグリフ
処刑された獣が、なんでここにいるんですかね(すっとぼけ)
ネフライトは城への出入りが制限されている生徒よりシリウス・ブラックの仕業だと考えたようです。
ネフライトとセラフィ
彼女について、つい本音が溢れたネフライト。思わずテルミに助けを求めてしまうほどの混乱に陥りました。どうでもいいと言うくせに最悪な時ばかり、しゃしゃり出てくる。無視できるほど弱くないのが何より目障りで厄介で……憧れるのでしょう。それはそうとお父様に一番期待を寄せられていると思っているネフライトはキレました──血狂い! すっとこどっこい!
暗闇で目が利かない
ネフライトは暗闇での視力が他の『きょうだい』に比べて著しく低く、それは初めてホグワーツに来た時に舟から陸に上がるのにクルックスの手を借りる程でした。(あの時は重心が違うからだと言い訳をしましたが)彼のヤーナムでの休日や楽しみが『燭台を綺麗に磨くこと』であるのは他者から「ささやかも過ぎる」と言われますが、彼にとって数少ない、心からの安心に繋がる趣味です。
恐怖が存在しないため誰よりも暗闇に親しんでいるセラフィに比べるとどうしても動きが何拍も遅く、併せて射撃の精度が低いことは夜の地上でも地底でも致命を招きかねない短所です。
四仔のうち最も弱いのはテルミ。最も狩人に向いていないのはネフライト。狩人しか出来ないのはクルックス。狩人しか出来ないと思い込んでいるのはセラフィ。四仔の今後の活躍に期待です。
月への嘆願
「助けてお父様」と叫ぶと時差のない月が微笑みかけてくれます。テルミの血ィかわクッキーよりちょっぴり弱い程度のステータス向上が望めますが、後ほど狩人に対し説明と反省会する必要(テルミを特例とする)があり、何より彼との信用関係に罅を入れかねない行為なので仔らは知識はあっても使いません。ネフライトが今回、奥の手に使用を踏み切ったのは二対一の状況をひっくり返す魂胆であること、そして、自分の行いに絶対的な自信があるためです。
嘆願の台詞は個人それぞれ異なり、状況によって言葉に多少の差異があります。気が向けば四仔以外でも微笑んでくれるかもしれません。
テルミ「月へ祈りなさい」
ネフライト「月よ、このネフライトにご期待あれ」
セラフィ「女王様の月、僕に微笑んで」
クルックス「ヤーナムの月、陰ることなし」