セラフィの速達
父たる月の香りの狩人に対し使者を介し送られた手紙。
封蝋の手間も惜しんだらしく、簡易な封筒に包まれている。
血で書かれた文字が狩人を急かした。
……至急開封されたし……
計画は全て頓挫した。
主にセラフィによって瓦解させられたのは非常に腹立たしいことだったが、ネフライトは克服した。
反省すべき点を天上にきらめく星の数ほどに思い浮かべ、次回はもっとうまくやろうと心に誓った。
特に今回の敗因。
その最大の原因はハッキリしている。
「いろいろあったが、まず君と組んだことが間違いだった。はじめの一歩が間違っているのだから、その先も間違えることは当然のことだったな。君との謀は、どうにも失敗する星のようだ」
ネフライトはへし折られた右足の痛みを堪えていた。
骨折した脚の代わりを務めるのはテルミだ。
森を駆け回った頬には傷を作り、黒い法衣は血と土に塗れている。
しかし、そんな厄日と言える今日であっても今の彼女は、笑顔を曇らせることを知らないようだ。
『泣いてスッキリした』と言わんばかりの彼女の顔を見るとネフライトは心配しすぎた自分が損している気分になった。
「同じ日に生まれたクセに貴公ったら失敬なことを言うのね。もう一本の脚も折ってほしいのかしら?」
「勝手にしろ……。それにしてもクルックスが敵に回るとは思わなかった。話せばもっと分かるヤツだと思ったが、獣をかばい立てするなど、あグゥぅ……! 足を踏むんじゃないッ! 折れてるんだぞッ!」
「ごめんなさい。暗くて狭いからぶつかってしまったわ。脚はそのうち治します。クルックスったら強情なのだから困ってしまうわ。でも、そういうところがお父様そっくりね?」
「ああ? ああ……そうだな……」
ネフライトはテルミがどこに向かっているか分からなかったが、知らないと言うのが業腹であり、怪我をした自分を連れて行きたいところがあるようなので好きにさせていた。
「さて。ネフには、もう一仕事してもらいます」
「……内容による。君のすることだ。当然、役に立つが碌でもないことだろうな。念のために言うが……現実問題として私の体力はもう限界だ。計算外のセラフィまで相手にするハメになったのだからね……」
「ちょっとした気分転換です」
テルミが底抜けに明るく言った。
天文台の塔。その周辺には観測用に別塔があった。
屋上にあたる胸壁まで二人は昇ってきた。
不思議なことに森と湖を徘徊していた吸魂鬼の姿は消えている。
見上げれば月は丸く、特別に大きく見える。
視界は良好。
やがて遠くからヒッポグリフの嘶きが聞こえてきた。
「ははぁ」とネフライトは呟いた。
「私に射手を務めろと言いたいらしい。いいだろう。最後の仕事だ。これにて君との協定の一切を終了する。……当分、君の顔は見たくない」
「あら、寂しいことを言わないでくださる? わたしと貴方。聖歌隊とメンシス学派が揃えば最強布陣だと思っていましたのに」
「我々は全ての動機の根本である『ヤーナムのため』でさえ想いと手法が違うのだから、結局のところ、交わることはないのだよ」
「寂しいことを言うのね。悲しいことを言うのね。わたしと貴方、なぜ違うのかしら? どうして違うのかしら?」
「お父様が望んだからだ。我々の夢の主は、今とは違う未来を見ていたいのだろう。悪夢を広げるのも悪夢を深めるのもそのためだ。可能性を宇宙悪夢の数的に描くための試行だ。私は君と違って幸いだ。君とは違うものを見つめることができる。今さらヤーナムで、今頃ホグワーツで、同じモノを作り出して何の利益になるのかね」
「それでも……わたしは寂しくて悲しくて、どうしても寒いのです。ネフライト。わたし達、最初は同じ存在だったのに。貴方の気持ちを分かってしまうことが悲しいわ。人の顔を見れば、心が読めるように見えてしまうの。貴方の感情もそう。貴方の煮える嫉妬、茹だる敵意、ふとした瞬間に息を吹き返す善性に。そして、貴方が本当はわたし達のことを大切に想って……愛していること。わたし、知りたくないの。暴きたくないの。大切にしたいの。見えてしまったら、どうしても欲しくなってしまって、月にだって手を伸ばしてしまうものですから」
自分の心を言い当てられるのは、いつもならば不愉快だ。
それを言ってしまえなかったのは、彼女が自分と等しく果てしない夢を見ていると知ったからだ。
脚代わりに縋っていた手を握り返し、ネフライトはテルミの頬に付いた泥を指で拭った。
「青ざめた月に憧れるといい。手を伸ばし溺れるがいい。月を愛する君。君の人生は、君のものだ。私も私の夢を見る。私達のこれは……今回は失敗したが……いつかきっとヤーナムの役に立つ試行だった。これからも変わらない。私達の人生は、素晴らしい人生となるだろう。一夜の夢のごとくな」
「応援してくれるのね。ありがとう。ネフ。わたし、クルックスほどではないけれどお父様と似て意固地な貴方のこと気に入っていますよ。メンシス学派でなければ『大好き!』と言いたいところなのだけど」
「ではずーっと私は『お気に入り』どまりのワケだ。……それでも微妙な気分だがね。こういうことはクルックスやセラフィと一緒にやればいい」
「喜んでいるのにそんなことを言ってはいけないわ。自分にだけは正直でいてくださいね」
気付けの輸血液を腕に差し込んだ後でネフライトは、注射器を収納した。
そして、衣嚢から弓剣を取り出し変形させた。
「……真面目に狙うし出来れば中てるつもりだが、それにしても的が遠い。きっと、しくじるぞ」
「構いません。私達は清く正しい生徒なのですから」
「ん?」
痛みのせいで普段の思考の速さを失しているネフライトが真意を問いただした。
「この一射で『我々は獣を追っていたのではなく大量殺人犯のシリウス・ブラックを狙っていたのです』と言えるのですから構いませんわ。さぁ、射っちゃってー!」
「さすが聖歌隊。建前だけは立派だな」
弓は半月を描き、金属の弦が軋み、緩んだ。
放たれた銀の矢は流星の輝きを得てヒッポグリフに跨がる人影の頭上を飛び越えていった。
「見えたかな?」
「ええ。きっと。ああ、気分爽快ですね」
声は、きっと届かない。
──けれど、気が済んだから。満足した。
そう言いたげに彼女は振り返り微笑む。
あまりにやり遂げた顔をしているものだから。
「ハァ、頑張ったのは私だぞ。クルックスとセラフィを相手取ったんだ。労ってくれないか」
「エピスキー 癒えよ これでどうかしら」
骨折した脚が発熱したと思いきや、次の瞬間には凍てつくように冷えた。
痛みはない。
つま先で床板を叩くと健全な足音が返ってきた。
「……。これを言ったのがクルックスであったら、君はもうちょっと違う対応をした気がする」
「あら。ギュッとしてほしいのかしら? 一緒のベッドで寝たいの? それとも、その先まで?」
「戯れ言を。突き落とすぞ」
「……貴方ってフクザツよね。特別扱いされたいクセに、いざそう扱うと怒るの。けれど面白いから許してあげます。感謝してくださいね?」
「何をどう感謝せよと言うんだ。まったく……君といると疲れる……。そして組んだのはやはり間違いだった。再確認おわり。帰る」
「そうね。もっと丁寧な根回しをすべきでした。クルックスには嘘でも『お父様の認可を取った』とか言っておかないと連盟の使命を理由に対立してしまうわ。これはちょっぴり反省。次回に活かしましょうね」
「反省会は後日だ。みっちりやろう。帰るぞ。──テルミ」
ネフライトは、階段を一歩降りたところで立ち止まり、振り返って右手を差し出した。
「ありがとう。エスコートしてくれるのかしら?」
「ハァ? どうしてメンシス学派が聖歌隊に親切すると思ったんだ? ……君のさっきの魔法で、骨はだいたい治ったらしい。でも振動が妙に響く。罅があるのかもしれない。だから、その、手を! 貸せと! 言っているんだ!」
「いま言ったことなのに何度も言ったことみたく言うのやめてください。貴方だって、ほら、わたしのご機嫌で突き落とされたくないでしょう──などと普段では言うところですが負け犬同士吼えても仕方がありません。特別に許します。さぁ、行きましょう」
テルミは手だけではなく、肩を貸した。
支えを受けて歩きながら、しみじみとネフライトは言った。
「負け犬……ぐぅぅ、惨めだ……君と一緒なんて、ますます惨めだ……」
「我が身の哀れさを極めたいの? 本当に突き落とすわよ」
「今だってそうだ! もしも、クルックスだったら違うことを言っただろう!」
「本当にフクザツなのね、貴方の精神構造は……。ちょっと可哀想な生き物に見えてきました。とりあえず四方八方を妬まないでください」
歯を食いしばるネフライトを支え、テルミは溜め息を吐いた。
二人は、昇ってきた時と同じように肩を並べて緩い螺旋階段を降っていった。
■ ■ ■
時間を巻き戻す、とは。
マクゴナガルが念を押し、ダンブルドアが諭したように危険を伴うものだった。
しかし、その危険を冒すだけの価値はあり、見返りは大きかった。
なぜならハリーは、いま心から『これでシリウスは助かる』と思えたのだから。
「ハリー、ハーマイオニー!」
彼らが医務室に戻るとロンが驚いた顔で二人を見つめた。
ロンから見れば、たったいま、ダンブルドアから何事かの助言を受けた二人が姿を消したのだ。
それを見届けたダンブルドアが小さく頷いてから医務室の外へ出て行く。ロンが背中に問いかけた「先生、ハリー達に何を……?」という言葉には「彼らがやり遂げたあとで話してくれるじゃろう」と答えてくれた。
それでも意味がサッパリ分からなかったが、さらにワケが分からないことが起きた。
ダンブルドアが鍵をかけ扉を閉めようとした、その時だ。
廊下の向こうから全力で駆けてくる足音が聞こえた。それらはハリーとハーマイオニーだった。
「どういうこと!? 君達、だって、さっきまでそこに……!」
「話せばうんと長くなるよ。それに」
事務所の扉がパッと開き、ご機嫌斜めのマダム・ポンフリーが現れた。
「校長先生がお帰りになった音が聞こえてましたけれど? これで、わたくしの患者さんの面倒を看させていただけるんでしょうね?」
巨大チョコレート板と小さなハンマーを持ったマダム・ポンフリーは目を吊り上げて、ハリーとハーマイオニーにベッドに入るよう指示をした。
ロンは「あとで」と声もなく伝えて、寝返りをうった。
二人が黙々とチョコレートを囓っていると遠くの上階から怒り狂う誰かの唸り声が聞こえた。
「何かしら……?」
ハリーとハーマイオニーだけが、誰の声なのか分かっているようだった。
声の輪郭がハッキリしてきた。いまやすぐそこまで来ている。スネイプのヒステリックな吠え声が、医務室の扉を貫通した。そんな錯覚を得る頃、とうとう医務室の扉が猛烈な勢いで開いた。
「ああ、こら、スネイプ──」
制止を試みるファッジの隣でスネイプは顔を真っ赤にして怒り狂っていた。
「白状しろ、ポッター! いったい何をした!」
「スネイプ先生! 場所をわきまえていただかないと──!」
呆気にとられるロンには、そして呆気にとられたフリをするハリーとハーマイオニーには、スネイプを押しとどめるマダム・ポンフリーが初めて頼もしく見えた。
「こいつらがヤツの逃亡に手を貸した! わかっているぞ! 私には! わかるのだ! 私には特別な知恵が──!」
「スネイプ、まあまあ、無茶を言うな。ドアには鍵がかかっていたじゃあないか。ダンブルドアがかけた鍵だぞ? いまみたとおり……」
「閣下はポッターをご存じない! これまでもそうだ! 問題ばかり起こす! こいつが、やったんだ!」
怒り狂うスネイプを見てショックを受けたファッジは放心してしまい、口をポカンと開いた。
ちょうどその頃、ダンブルドアが静かに前に進み出た。
「もう充分じゃろう、セブルス。自分が何を言っているのか、考えてみるがよい」
「しかし──」
「マダム・ポンフリー、この子達はベッドを離れたかね?」
「もちろん、離れてませんわ」
「校長先生が出てらしてから、わたくし、ずっとこの子達と一緒におりました!」
「ほーれ、セブルス、聞いてのとおりじゃ。この子達が同時に二カ所に存在することができるというのなら別じゃが。……これ以上、二人を煩わすのは、何の意味もないと思うがの」
「…………っ」
小さな歯噛みはいったい誰のものだったか。
スネイプは、その場に棒立ちになり、ファッジとダンブルドアを睨みつける。やがて病室から去って行った。
「──あの男、どうも精神不安定じゃないかね?」
嵐のように去ったスネイプを親指で指し、ファッジはダンブルドアに訊ねた。
「いいや、不安定なのではない。ただ、事実にひどく失望して、打ちのめされておるだけじゃ」
「ああ、打ちのめされたのはあの男だけではない。『日刊予言者新聞』はお祭り騒ぎだろう! ようやくブラックを追いつめたが、ヤツはまたしても指の間からこぼれ落ちていきおった! あとはヒッポグリフの逃亡の話が漏れればネタには事欠かない、いや、十分だ! 私も魔法省も物笑いの種になる! しかし……さてと……もう行かなければ。省のほうにも知らせないと……」
「ほう。吸魂鬼は学校から引き上げてくれるのじゃろうな?」
「ああ、そのとおり。連中は出て行かねばならん。罪のない子供に『キス』を執行しようとするとは、夢にもだ! 今夜にもアズカバンに送り返すよう指示をしよう。……今後の校門は、そうだな、ドラゴンに護らせてはどうかね? ダンブルドア」
「おぉ、ハグリッドが喜ぶ事じゃろう」
ダンブルドアは、チラッとハリーとハーマイオニーを見て笑いかけた。
疲れた顔をしたファッジと機嫌が良さそうなダンブルドアが医務室を出て行くとマダム・ポンフリーが今度こそ鍵をかけた。
「さぁ、もう誰もいませんよ。寝なさい!」
マダム・ポンフリーの号令で三人はベッドで横になった。
できれば、夢を見ないほど深く眠りたかった。
■ ■ ■
ハリー、ロン、ハーマイオニーは翌日の昼には退院した。
入れ違いのようにやって来た人物に真っ先に声をかけたのはハーマイオニーだった。
「あなた──どこか怪我を?」
顔を顰めながら階段を昇ってきたのは、ネフライト・メンシスだ。
三人の姿を認めると彼はますます渋い顔をした。
しかし。
ハーマイオニーの質問に答えず、彼は背筋をスッとただして彼らを見上げた。
「逆転時計。実にうまく使ったじゃないか。ヒッポグリフの奪取とシリウス・ブラックの脱走。見事だ。この私が『もうすこし愚かであったなら』と考えずにはいられない出来事だった」
「どうして、首席のあなたが逆転時計を持っていないのか。私、分かったわ」
「……ほう。何か?」
「あなた達は、手段を選ばなさすぎるから。森で銃撃戦をしていたのを見かけたわ」
「……。失敬なことを言う。君たちの規範が、私達には狭すぎるのだよ」
「だからこそ、逆転時計なんて危険なものや倫理を踏み外しそうなことには、あなたから近付かないようにしているんでしょう?」
「買い被り過ぎだ。君たちの命なんて、ホグワーツの秩序なんて、魔法界の未来なんて、私にはどうだっていいのだから。誤解答。残念だな。的外れだ」
「じゃあ、そういうことでいいわよ」
彼は舌打ちをした。
それから呆れて、忌々しいという顔でハーマイオニーを見た。
おおよそ、見つめた先にいる彼女とは対照的な表情であったことがハリーにとって印象的だった。
「まぁいい。夜が明けてしまえば私も一介の生徒だ。これからも『仲良く』していただけたら幸いだよ。……君たちはいつも問題の渦中にいる。そんな星らしい」
ネフライトは、階段を昇るとそれから一瞥もせずに医務室へ入っていった。
ロンは肩をすくめた。
「ハーマイオニー、よろしく。僕は『仲良く』できそうにないからね」
ハリーも「僕も」と同意した。
「故郷の『病気を治すため』って言っていたでしょう。手段を選ばないだけで、それは、それだけは……悪いものではないと思うんだけど……」
「だからって人狼を捕まえようとするヤツは『まとも』じゃないだろう。いくら勉強ができて」
ハーマイオニーがムッと口を尖らせるのを見たロンは、すこしだけ怯んだがキッパリと「優秀でもさ」と言った。
「……ルーピン先生には悪いけど、本当に良い先生だと思うけど、やっぱり人狼は危険だったよ。それを捕まえようとするあの人達もね」
ハリーは否定ができずにロンを見て、校庭を見た。
夏に向かう風を受けて森は大きな黒い生き物のように靡いていた。
そして、思い出した。
「ルーピン先生! いま、どこにいるだろう!?」
■ ■ ■
ルーピンの部屋に向かったハリーは、部屋の扉が開いているのを見た。
この時点で既に嫌な予感がした。
──先生、お辞めになるなんて。残念ですわ。
──私は辞めた身だ。もう先生ではない。そして君の依頼にも応えられないよ。
──わたしはそう思いません。『先生をお辞めになった今こそ』が好機だと伺ったワケですから。可哀想な先生。どうですか? 日給でも月給でも年給でも望むだけ求めるままに、お約束いたしますわ。ぜひ、我が故郷に。ヤーナムに。
──残念だが、私の返事は変わらないよ。
──そうですか。困りましたね。とっても困りましたが……わたしも反省いたしましたから、手を変えましょう。一辺倒なんて芸のないことはいたしません。先生のご事情もあるのでしょうし、今はお片付けの最中のよう……。ええ。お忙しいところ、失礼いたしました。また、お会い出来る日を楽しみにしていますわ。お困りの時は、ぜひわたくし、テルミへご連絡ください。
声は、すぐそばにあった。
ハリーは、中途半端に開け放たれた扉の裏側に飛び込んだ。
「……」
すっかり聞き慣れてしまったクスクス笑いと共にテルミ・コーラス=Bがルーピンの部屋を出ていった。
そして、ハリーは廊下を曲がるまで見届けた。
「ルーピン先生!」
「やあ、ハリー。君がやってくるのが見えたよ」
「さっき声が……お辞めになるって」
「ああ、事実だよ。本当だ」
ルーピンは、ハリーが思わず開けっ放しにしてしまったドアを閉じた。
それから彼が語ったことは、ほんのすこし考えれば分かることばかりだった。
──ダンブルドアは、昨日の一件について何とか理由を付けてくれた。たとえば『私が君たちの命を救おうとしていたのだ』とかね。ファッジはそれで納得した。けれど、アー、セブルスはそれでプッツンとキレたようでね。思うにシリウスに逃げられて、マーリン勲章をもらい損ねたのが痛手だったのだろう。それで今朝の食事の席で彼は私が狼人間だと『うっかり』漏らしてしまった。
それでもハリーは信じがたいことを受け止められず、叫んだ。
「たったそれだけでお辞めになるなんて! 僕、先生が狼人間でも気にしません……!」
「明日の今頃は親たちからふくろう便が届きはじめるだろう。──ハリー、誰も自分の子供が狼人間に教えを受けることなんて望まないんだよ。昨夜のことがあって、私もその通りだと思う。誰か君たちを噛んでいたかもしれない。……こんなことは二度と起こってはならない」
「先生は、今までで最高の『闇の魔術に対する防衛術』の先生です!」
「……。ハリー、校長先生が今朝、私に話してくれたよ。昨夜、ずいぶん多くの命を救ったそうだね」
請われるままにハリーは話した。
頭の中ではどうやってルーピンを説得しようか、あれこれと考え続けていた。
守護霊の話に至ったとき。
ルーピンは優しく微笑んだ。
「そうだ。君のお父さんはいつも牡鹿に変身した。君の推測どおりだ。だから私達は『プロングズ』と呼んでいたんだよ」
それから「昨夜『叫びの屋敷』から、これを持って来た」と言ったルーピンから透明マントと忍びの地図をハリーは受け取った。
「私はもう、君の先生でもない。だからこれを君に返しても別に後ろめたい気持ちはない。私には何の役に立たないものだ。ジェームズだったら、自分の息子がこの城を抜け出す秘密の通路を一つも知らずに過ごしたなんてことになったら、大いに失望しただろう。これは間違いなく言える」
「先生……」
ハリーは、まだ説得の言葉を続けたかった。
二人の会話の終了が近付いた。誰かが扉をノックしたのだ。
「リーマス、そろそろ馬車が来るじゃろう」
「校長、ありがとうございます」
残り数冊になった本をスーツケースに押し込み、空になった水魔の水槽を取り上げた。
「それじゃ、ハリー。さよなら。短い間だったが、君の先生になれて嬉しかったよ。またいつかきっと会える。……校長、門までお見送りいただかなくて結構です。一人で来たんです。一人で大丈夫ですよ……」
ダンブルドアは青くキラキラ光る眼でルーピンを見つめた。
それから一通の手紙を渡し、握手を交わした。
足早に立ち去る彼の背中を二人は、ただ見送った。
今日のルーピンはいっそうみすぼらしく見えた。
■ ■ ■
ルーピンは、廊下で一度だけ立ち止まった。
校庭の暴れ柳が見える、この場所でかつてダンブルドアと交わした言葉を思い出していた。
ルーピンが在籍していた頃、一年に一度、ダンブルドアは自分の様子を知りたがった。特別な配慮が必要な生徒に対する一種のカウンセリングでもあったのだろう。
一年生の時。
「──リーマス、学校はどうだね?」
これに、ルーピンは「とても楽しいです」と答えた。この時は、まだ誰にも狼人間だと知られていなかった。心から楽しいと思えた。
同じ問いは、二年生の時にも受けた。やはり「とても楽しい」と答えた。だが、親友のジェームズ──ハリーの父親だ──とシリウス、そしてピーターは、もうルーピンが人狼であると知っていた。このことを言うべきかどうかルーピンは迷い、迷い、結局、告げることはしなかった。三年生の時も四年生の時も同じように答えた。
五年生の時にルーピンは再び大いに迷った。
ジェームズ達は、もう『動物もどき』として人間と動物に自由に変身することが出来るようになっていた。しかも、人狼となった自分と一緒に夜の校庭やホグズミードを徘徊して遊んでいるのだ。ダンブルドアが設けた安全対策を自分自身が破っていることを告げるとしたら、もうこの時しかないだろう。
だが、結局、ルーピンは伝えなかった。
理由はいくらでも思いつく。ダンブルドアを裏切っていると自分の口から伝えるのは恐ろしかった。非合法の『動物もどき』となった三人が罰せられるのではないかと恐ろしかった。何より学校に通えなくなり友人達と会えなくなるのが恐ろしかった。両親を失望させるのは恐ろしかった。
自分の心の弱さゆえに、多くの誤りを起こしてしまったものだと思う。
「それでも……とても楽しい時間でした。とても大切な時間でした。……輝くような思い出でした」
消えかけの吐息のような声でルーピンは古き日のダンブルドアがいた場所に伝えた。
正しくなくとも誤っていても、あの時に大切だと思えたことは間違いではなかった。
その思いがルーピンの脚をゆっくりと動かしていた。
■ ■ ■
門を越えると馬車が待っていた。
黒い立派な鬣を持つ馬であり、しかも二頭立てだ。
──ダンブルドアに気を遣われてしまった。
一刻も早く学校を去りたいルーピンの内情を察していたようだ。
急ぎの馬車を用立ててくれるとは思わず、自然とうつむきがちになった。
「よろしくお願いします」
馬の手綱を握る御者は、古風なアルスターを着込み、雨も降っていないのに厚手のケープコートを着込んでいた。
こちらに気付いたのか、彼は先に広がる暗い道を見ていた顔をこちらに向けた。
眼光の鋭い男であり、顔には痛々しい火傷の痕があった。
「──来たな。お前が『先生』か?」
「辞職しましたよ。今朝一番でね」
「かーっ。朝一とは、スキャンダラスなことだぜ。お貴族様でもないのに。方々、世知辛いご時世だな?」
「ええ、まったく……なんとも生きにくいことですよ」
軋みを上げるタラップを上り、トランクを引き上げて客室に詰め込んだ。
御者は手伝う素振りなく独り言を言っていた。
「あれもこれもご時世。ご時世なのかな? ままならない。変わらないな。ククッ。とはいえだ。これも新しい人生の門出というヤツだ。知っているぞ。行き先がどこであれ、その先に幸があることを信じて歩いていきたいものだな?」
「ええ……。よいしょっと……いいですよ、出してください」
「ん。いいだろう。しっかりつかまっていろよ」
ピシリと鞭がしなり、馬体を打った。
ふたつ。嘶きを上げて二頭の馬は歩き出した。
馬車は揺れる。
ガタゴトと通路の歪みの分だけ揺れる馬車のなかでルーピンはダンブルドアから受け取った手紙を開いていた。
内容は、ほとんどが予想どおりのものだ。
教職を引き受けたことについて、あらためての謝辞。
昨夜のことは全てダンブルドアの胸のうちに秘めておくという約束。
それらが書かれたものが一枚目。紙の厚みで二枚目があることに気付いた。
礼儀として一枚目だけで十分であり、他に書くべきことはないだろうと思えた。
不思議に思いながら二枚目を見て、目を疑った。
──ヤーナムについて。
その書き出しから始める文章は。
テルミからヤーナムに請われていることを知っている内容だった。また、結論として『ヤーナムに行ってはどうか』という内容だった。
──無論、強要するものではない。
前置きは、強く大きい文字で書かれていた。
彼の地へ至る道のりは、決して平坦なものではなく、魔法界とは異なる辛苦があるじゃろう。
我々が過去に見た、大いなる闇は失せたように見える。
しかし。
だからこそ、我々は多くのことを知っておく必要がある。
多くの未来へ備えるために。
リーマス・J・ルーピン。君の幸運を祈っておる。
特徴的な細長い文字で綴られた最後は、ダンブルドアの署名で終わっていた。
封筒には、まだ何かが入っていた。
ホグズミードからキングスクロス駅行きの切符だ。
それから、手に触れたものにルーピンは思わず「なぜ」と呟いた。
封筒にあった厚みのほとんどは、クィリナス・クィレルの手記だった。
手記の内容を見ることはできなかった。
手に取った瞬間。馬車が激しい縦揺れをしたからだ。
まるで車輪が外れたかのような衝撃に襲われ、持っていた封筒から切符がこぼれ落ちた。
「何が……!」
馬車が往くのはホグズミード村の端である。久しく雨も降っていない。
鬱蒼とした林の道を歩くのだから、どんな腕の悪い御者であれ、よほどのことがなければ脱輪など起こさないはずだ。
思わず取り付けられた小窓を開けて外を見れば、吹雪が舞い込んだ。
飛び込んできた光景に目を疑った。
季節は夏である。
けれど、頬に触れるこれは、小窓の隙間から入り込むこれは、どう見ても雪だった。
「──切符を落としたようだ」
もっと信じがたいことがあった。
何者かが、馬車のなかにいた。
ルーピンは振り返り、素早く杖を抜いた。
枯れた羽を模したトリコーンを被り、マスクで顔を隠す男は、突きつけられた杖を気に留めることはなかった。
「どうぞ。切符だ」
彼は杖の代わりに拾い上げた切符をルーピンに差し出していた。
「あなたは誰だ? 何者だ」
「申し遅れた。私は狩人。いまや月の香りの狩人と呼ばれている。ヤーナムの狩人だ。テルミがずいぶん貴公のご厄介になってしまったらしい」
狩人。ヤーナム。テルミ。
いくつかの単語でルーピンは、杖をおろしかけたが手放しはしなかった。
「──どうしてここに? この馬車はどこに向かっている?」
「質問に答えよう。まず一つ目の質問の答えは、これは縁あって使わせてもらっている馬車であり、一時的に私の所有物であると言える。そして、二つ目。貴公が望むならば、どこへでも行ける。……切符を、どうぞ」
ルーピンは、切符を受け取った。
対面に座った『月の香りの狩人』と名乗る男は、銀灰色の目を細めた。
「この度はテルミとネフが強硬な手段を取ってしまったらしい。私の監督不行き届き、というモノだ。まずは謝罪を。申し訳ないことをした」
「『なぜ』と質問させてもらえるだろうか。──いったい私に何の用事なのか」
「彼らの故郷、私のヤーナムは病が蔓延している。古い呪いだ。古い報いだ。それらが巡り巡って今を冒し、未来を奪う──そんな状態にある。私達はそれをどうにかしてしまいたいのだ」
「『どうにか』とは? 呪いだと言うのならば、それなりの原因があるハズだ。コーラス=Bにも言ったことだが、私には、関係がないだろう?」
「『関係がない』貴公が、あまりに私達の抱える問題に近しい病を持っているのだから気になって仕方がないのだ。望まない形であれ人と獣を行き来する貴公から、私達が学ぶことは多くあるのではないか。皆、期待している。そして、私はそれに応えずにはいられない性質でもある」
「…………」
彼が次に差し出された手には、何もない。
握手を求められているのだと気付いた。
しかし、濃く漂う血の香りが、ルーピンの行動を阻んだ。
「……あなた方の病とは?」
「人々が獣に変じる風土病だ。ただの獣ではない。人は皆、獣だが……その本性を望まない形で引き出されてしまうとでも言おうか……」
狩人は、さらに手を伸ばした。
「我々と貴公らは本当に違うモノなのか? 我々の神秘の差異は果たしてどこまで存在の『根』を分けるものか? 私は知らなければならない。──ご協力願えないだろうか?」
ルーピンは、手の中でダンブルドアの手紙を握りしめた。
好機だと思った。
──かつて受けた恩を返すとしたら今ではないか。
友人を失いたくないばかりに温情に仇を返し続けた、あの時の報いをするならば、これは相応しいのではないか。
その思いが、ルーピンの手を動かした。
「いくつか条件があるが……それでも、よろしいならば」
握手は交わされた。
そして、手記を渡した。
狩人は、嬉しそうにその手記を眺めた。
「ありがとう。この手記、実はずっと気にかけていた。写しが取られているかもしれないが、まぁ、細かなことは気にすまい」
皮の手袋越しであっても、彼の硬くガッシリとした感触はよく分かった。
握手は、緩く解かれた。それから彼は言った。
「さて、ヤーナムは貴公を歓迎するだろう。貴公も正しく、そして幸運なのだから」
馬車は走る。
吹雪を越えると暗闇になった。
どこまでも、どこまでも。
気の遠くなるほど暗い道を走り続けた。
報い
新しいこと古いこと。善いこと悪いこと。本作で言うところの「天秤が吊り合う」とか「辻褄が合う」というものです。
本作は(ご覧のとおり、というか何というか)かっちりすっきりの勧善懲悪の作品の趣ではありませんが、相応の収束はあります。ヤーナム勢は死による勝ち逃げが滅多なことでは成し遂げられない状態にあるため、特にもです。何はともあれどんな時でも襟は正しておきたいものです。
ルーピン先生の傷
映画だとすっかりカットされている部分ですが「ダンブルドアの信頼がわたしにとってはすべてだったのに(略)」の言葉がある原作からはルーピンからダンブルドアに対する深い感謝と信頼が見て取れます。原作において戦争中は地下で狼人間のコミュニティの調査をしていたらしいルーピンですが、本作時間軸のまだヴォルデモート卿が復活する兆しのない今でも、信頼に応えるために危険と分かっている任務を受託する──そういう道もあるのでしょう。
ヤーナム特急便
そこにあるならば、どこにでもいける馬車。
1年生時のネフの交信のおかげで場所の特定は出来ていました。
了解も得たし──ヨシッ!
ヤーナム目的達成帰還RTAはスネイプ先生でしたが、長期滞在のプロであるクィレル先生もいるので大丈夫でしょう。