足音
歩く時の足の音
果たして天使の足音とは何であったか。
何も思い出せない忘却は病み人の至福だった。
微睡みの中、彼はそれを聞いた。
朝食時間の大広間は、いつも通りのざわざわとした人の声に加え、今日は浅慮な好奇心がチラついていた。
彼らの向ける視線の先は、教員の長テーブルの空席だ。
「やっぱりルーピン先生、来ないわ」
「本当? お辞めになるのかな」
「狼人間がいられるワケないだろ」
「どうやってダンブルドアを騙していたんだか」
「騙すなんて! ルーピン先生は良い先生だわ。これまでの先生に比べればずっと……」
「そりゃ良い先生だったとも。ふわふわした毛皮を持っていなきゃね!」
擁護する声あり。非難する声あり。差別する声あり。聞こえてくる限りの意見はさまざまだ。
クルックスの気分を最も落ち込ませたのは瞬く間にリーマス・ルーピンの人物評が『素晴らしい先生』から『病を持った男』に変じてしまったことだった。
伝統に根付いた差別とは、それが発覚した瞬間から常識的に振る舞うものだということをクルックスは知らなかった。
昨日まで慕っていた人が、どのような人柄であったかどうかなど彼らには最早関係ないようだ。意識の変わり様は、常識を知らない者から見ると戸惑いを覚えてしまうほどに冷たく、酷薄なものに見えた。
しかし、クルックスに彼らを責めることは出来ない。
ヤーナムで虫を宿した獣や獣となった人々を狩っていた自分も彼らからは同じように見えるのだろう。そう分かったからだ。せめて違うのは、クルックスには連盟の誓いがあり、彼らには無いということだけだ。
──慰めになるのか、ならないのか。
──救いにはなっているが。
クルックスは、味のしないオートミールを食べ終わり、席を立った。
試験が終わった後の緩みきった空気の中では、何をしようという気持ちも起きず、木陰のベンチに座ってゆっくり休んでいたかった。
制服のローブに腕を通すのもあと数回だ。
ふと足下を見ると足首が見えた。この一年間で気付かないうちにまた身長が伸びたようだ。
そんな思いを抱えて大広間を出ようとしているとテルミに出くわした。同じハッフルパフ寮生のハンナ・アボットと一緒に歩いているところだった。
「あ」
口を丸く開けて声を出した後、テルミはクルックスに背を向けて走り去ってしまった。
「おい、待て!」
逃げられると追いたくなってしまうのは狩人の習性だった。
クルックスが全力で追跡したが、テルミはしばしば不必要に角を曲がり、あるいは動く階段を駆使し善戦した。
「追いかけっこか。僕も手伝おうか」
「必要になったら呼ぶ」
道中、現れたセラフィがのんびりと二人を眺めた。
クルックスがテルミに追いついたのは、四階の廊下だった。
かつて賢者の石が隠されていた部屋の近くであり、今は静まりかえって誰もいなかった。並んでいる銀の甲冑だけが二人の登場に驚き、カシャンと音を立てた。
「捕まえたぞ。なぜ逃げるんだ」
「だって……うー……わたしのこと、嫌いになったでしょう……?」
背中を向けているテルミがピクッと肩を動かした。
クルックスは、ネフライトとテルミの共謀の夜以来、顔を合わせて話をしたことがなかった。食事のおりに視線を感じることはあったが、クルックスがテルミを見つめれば、彼女はすぐに誰かと話しているフリをするのだ。
一方のネフライトは事の翌朝に「おはよう。昨日は勉強になった、実に、ねえ?」と含みたっぷりの挨拶をしてきたことに比べれば、主犯格の性格の違いを考えさせられた。
「俺が君を嫌うことはない。ネフにも言えることだが、君なりにヤーナムとお父様を思っての行動だったのだろう。お互い手段を違えただけだ。憎しみも怒りも悲しみも、俺達の間に必要ない」
ゆっくりとテルミは振り返った。
唇をツンと尖らせて曖昧に「うぅ」と呻いていた。
「必要なのは、ほんのちょっぴりの情、なのだろう。親愛なる君」
テルミがほんのりと顔を赤くするのが見えた。
慣れない言葉も使ってみるものだとクルックスは思う。
「わたしの情は、貴方に迷惑をかけてしまうわ」
「君は俺の経験を自戒すべきだったな。俺達は──お父様がそうであるように──どうしても巡り合わせが良くないのだから『よかれ』と思って何かすることは、慎重に、そして、できるだけ控えた方がよいのだと」
「……わかっていました。けれどお父様と貴方がそう言うのは、悲しいことです。だから『それでも』を言いたくなってなってしまったの……。結果はネフと貴方に悪いことをしてしまっただけで終わりましたが……。最初の動機の一つでもあったのですよ」
彼女のささやかな反発は、クルックスにとって驚きで、すこし嬉しいものだった。
父たる狩人と共にやめられない『よかれ』を抱え続けているのは、『きょうだい』では自分だけだと思っていたからだ。
「強くなりたいものだな。『間の悪さ』などという偶然に左右されないように」
「ええ。そうですね。……『君より弱い俺に価値はない』と言った貴方の言葉の意味を……わたしは分かっていたわ」
「俺は、君の心まで守っていたいのだ。──そんなことを言うつもりだった」
「でも、あの時は聞きたくありませんでした」
テルミには次に話すこともきっとお見通しなのだろう。
クルックスは、痒くもない頬を掻いた。
「そうか。では口を慎もう。でも……また俺と話をしてくれないか。君と話せない時間は少々苦痛になりつつある。まさに今日なんだが……」
「考えておきます。心配かけてごめんなさいね。いいえ、こう言うべきなのでしょう。……ありがとうね」
「礼を言うべきはこちらだ。俺はいつも言葉が……むぅ……足りないようだからな。ところで今日の予定は──」
クルックスが目を離した一瞬のことだった。
鼻先を懐かしい月の香りが漂う。
袋小路に追い込んだハズのテルミの姿はどこにも見当たらなかった。
後方から足音が聞こえた。
動く階段を昇ってやった来たのはセラフィだった。
「おや。逃げられたのか」
「いいや、捕まえたが……もうすこしだけ時間が必要だったようだ」
「そう。ところでクルックス、テルミに何か言われなかったかな。顎を壊される前後の話だが」
「特に何ということは……。ああ、恋をしているとか何とか……」
「へぇ。そうか。君はもうすこしだけレオー様と親睦を深めるべきだった」
「何だと」
なぜカインハーストの古狩人であるレオーの話が出てくるのかクルックスには分からなかった。けれどセラフィには確信があるらしい。
確信を得たセラフィの表情は、奇妙にもテルミと似通っていた。彼女達の顔かたちは、整っている以外に共通点らしいものがないというのに。
クルックスは自分の感想を不思議に思い、まじまじとセラフィを見た。自分の顔を見つめられることが嫌いなセラフィはすぐに顔を背けたが、目を見て分かった。テルミがお父様を語る時に浮かべる熱っぽい目だ。カインハーストの先達を語る時、彼女の琥珀色の瞳には同種の苛烈な感情が輝くようだった。
「はぁ。恋がどうとかそういう話か? 俺は『可愛い』だって分からないんだぞ。お父様だって恋は知らないだろう。ならば俺も知らないものだ」
「だから親睦を深めて見聞を広めておくべきだったのだよ。……もっとも聞いたところで分からないだろうがね」
「ほう。君は知っているのか」
セラフィは、クルックスのそばに来てローブの袖をつまんだ。
「こうして引き留めるのが恋で──」
つまんだ袖を手放し、彼女は軽く手を振った。
「──見送るのが愛なのだとレオー様はおっしゃった」
「なるほど。では、俺は見送ったことになるのか?」
セラフィはクルックスの問いについて正誤を答えなかった。答えられなかったのかもしれない。
ただ、彼女には関連する思い出があるのだろう。微かに嬉しそうな気配があった。
■ ■ ■
ここは、ヤーナム。
早朝。
谷間に存在する医療教会の捨てられた古工房には、微かな日差しが差し込んでいた。
「は……?」
屋外に椅子を出し、月光浴をしていた青年が目を覚ました。息苦しさと常に抱える疲労のため、いつの間にか眠ってしまっていた医療教会の黒服、ピグマリオンは朝の光に目を焼かれながら椅子に座り直した。
それから欠伸をして、立ち上がる。
体は夜のうちに冷え切っていたが、それが今日は不思議に心地よかった。
日課となった散歩として箱庭のような古工房の周辺を歩き回っていると軽やかな足取りが聞こえた。
それは誰のものなのか。ピグマリオンはもう知っている。
「おはようございます、月の御使いさま。朝にいらっしゃるとは……。いえ、お目にかかり光栄ですが……」
駆ける足音ならば、その顔は喜色に彩られたものであるだろう。そんな予想は外れた。
テルミに関する全ての予想は外れる傾向にあることをいよいよピグマリオンは認めざるをえない状況だった。
出会ったときと同じように。
テルミはそこにいた。
違うのは、見慣れないローブ──学校とやらの制服なのだろう──と表情だ。ほんのすこし彼女は寂しげだ。
まるで夜に恐い夢を見たかのように所在なさげにうろつく目が、風でそよぐ花々を見ていた。
「おはようございます。テルミさん」
「ん」
「珍しいですね。こんな朝早くに……。何事かあったのですか?」
「ええ。ほんのすこし。わたし……恋をしていると思ったのだけど」
誰かに伝えたいほど価値ある言葉でもないが、独りで呟くには重すぎる価値の言葉がテルミから溢れた。
祈るように体の前に組まれた指は、珍しく手袋を外していて白くなるほど握っているのが見えた。
ピグマリオンはただならぬ雰囲気を察し、彼女の前に跪いた。
「わたしは……ただ……愛していただけみたい」
ピグマリオンが差し出した手にテルミは一瞥もしなかった。
それでも構わなかった。
ピグマリオンはテルミの祈りに手を重ねた。
「貴女のお心が温かいものであれば私も幸せなのです。愛。誰かを心から愛するとは、善い心がけではないでしょうか?」
「……ピグマリオン。わたしはね。恋をね。してみたかったの。でもね。気付かないうちに、もう愛してしまったみたい……」
「恋など、傷は膿んで腐り病むだけです。望むならば、傷を癒やす愛が欲しい。貴女に真実の愛があるならば素晴らしい。太陽が必ず昇ると同じくらいに素晴らしいことです。……それではいけませんか?」
世界で最も美しいものに囁くように彼は訊ねた。
「心を痛くして欲しかったの。心を苦しくして欲しかったの。二度と消えない傷が欲しかったの。体の傷なんて痛みなんて、消えてしまうから。わたしだけの傷が欲しかったの……」
声は、かすれ震え、濡れていた。
ピグマリオンは、彼女の震えを止めることも頬を落ちる雫を拭うことも出来なかった。
「望む傷はいつか見つかるでしょう。この病み人にさえ得たのです。どうして貴女に見つからないことがありましょう。だから月の御使いさま、いつものように笑っていただけませんか」
初めてテルミはピグマリオンを見た。
彼は願った。
「私は貴女の笑みを作ることさえ、他ならぬ貴女に縋らなければ望めないのです。──さぁ、笑って。いつか私が応えられなくなっても、笑っていただけませんか」
「……。ありがとう、ピグマリオン。……貴方はいい子ね。わたしの扱い方をよく知っているわ。いい子、いい子。お父様になれなかったお父様、貴方のことも好きよ」
「お慕いしております。私の月の御使いさま。……いえ、今は『テルミさん』でしょうね」
「ええ。貴方の意志が願う限り、そばにいますよ。さぁ、祈りましょうか」
朝の白い日差しの下、静かな祈祷の時間が訪れる。
テルミは自分のことながらクルックスへの執着が、どこからどこまで本気だったのか分からない。
言葉に惑わされてはいけなかった。なんせ自分は、勝負を有利に進めるためならばどんな心ない言葉でも弄んでしまえるのだ。
だが、この朝を迎えてしまってからというもの、自分が稀な感情を取り落とした感覚に苛まれた。
ベッドに戻ることは考えられず、独りでいることに堪えかねてここに来た。
振り返って考えてみると、ひょっとしたら、あれが噂に聞く「恋」なのかもしれない、と思ってしまっただけ。
自覚のないまま得て、自覚ないまま終わってしまった恋に墓標はなく、傷も、それがあったことを示すものは何もない。
すっかり通り過ぎてしまった人の手を今さら掴めばよかった、と後悔するような情緒だ。
そもそも、これを恋と呼ぶべきだろうか。テルミには分からない。
そのため、ほんのすこし深い思考に沈むと心弱い自分が「気の迷いよ」と囁く。
何も分からない自分が悔しかった。
いつから恋は愛になってしまったのか。
しまいには何に対し、何を祈っているのか分からなくなってしまいテルミは祈る手を解いた。
噛みしめた唇を見て、ピグマリオンは言った。
「……テルミさん。ここでは誰も見咎めません。私も忘れることでしょう。なんせ物覚えがよくありませんので」
「でも」
テルミの蒼い瞳は、空を探した。
彼女がどうして不安に思うのかピグマリオンは知っていた。
だから手を伸ばした。
「ほら、月はお隠れになりましたよ」
ピグマリオンの白い長手袋に包まれた手がテルミの目を覆った。
「月を騙るなんて……いけない人ね……」
「罰ならば後ほど貴女の心のままに。……テルミさん。たとえ私が笑みを願っても貴女が泣きたいときは、どうか泣いてください。貴女が私に全てを許してくださったように。貴女は……貴女は……時に月の御使いさまではないことを、私は分別しています。小さな可愛いテルミさん。たまには、いいえ、しばしば、いいえ、いつでも私は貴女にそう振る舞ってほしいのです。貴女が幸せであれば、私はそれだけで幸せなのですから」
分からないという感情の不明は、ひどく痛くて、苦しくて、心を薄く裂いていくように切ないものだった。
ピグマリオンの冷たい体が、わずかに温まるまでテルミは彼の肩口に頭を寄せて泣いた。
■ ■ ■
テルミが小さな鼻を、くすん、くすん、と鳴らすことをやめるまで、三十分の時間を要した。
ピグマリオンは墓碑に腰掛けて膝の上に乗せたテルミを宥めて過ごした。
彼の腰と首と──あらゆる関節が悲鳴を上げていたが、些細な出来事だった。
「ん、ん、んぅ……。いつまでも……泣いてはいられませんね。貴方の願いと助言は……まぁ……概ね正しいものでした。もうすこし他人に優しくすることを心がけることを頑張りたいと思います」
「もうちょっと積極的に頑張っていただいても構いませんよ。何ですか。『優しくすることを心がけることを頑張る』とは」
「いきなり行動に移すのは難しいので、せめて気持ちだけは頑張ろうと努力しているのですよ。それから『きょうだい』のことも……『きょうだい』だからと甘えてはいけませんね。わたしの欲しいものは誰かを傷つけてしまうと手に入りにくいもののようです。そのことが分かっただけでも収穫としなければ……ああ、そうそう。お父様への釈明をきちんと考えないと……」
「私からも言葉を添えておきましょう。明日、月の香りの狩人様がいらっしゃる予定です。むむむっ」
「本当? しつこくならない程度にしてね。お父様から邪魔な仔扱いされるのは嫌よ」
テルミが赤くなってしまった目でピグマリオンを見上げた。
場違いにニヨニヨした顔になりそうだった彼は、口の中を噛みしめた。
「むぐ、気を付けまふ」
「……また来ますね、ピグマリオン」
「いつまでもお待ちしております。しかし今は、どうぞお戻りください。学校では、まだ学ぶことが多くあるのでしょう」
「わからないわ。どうなのかしら。楽しいけれど……」
「ならば善いことです。生きていることは楽しいことであると貴女が示し続けてください。……私のごとき病み人でも疑いようのないほどに」
テルミは、ピグマリオンの願いを叶えた。
「ありがとう。──今度は『おかえり』って言ってね。わたしの可愛い人」
淡い日差しのなか金色の髪をキラキラと輝かせ、テルミは笑顔のまま姿を消した。
彼女の影が消えた後で。
「それが貴女の願いならば……私は……何でも……何度だって見送りますとも……」
ぜいぜいと細い呼吸を繰り返し、ピグマリオンはそれから数日間、伏せった。
夢が眠り、目覚めるまであと数ヶ月。
彼は、例年のごとく病んだ体を持て余すようになっていた。
失墜
辞書的には『無駄に使い減らすこと』の意があります。クルックスへの挑発程度で「恋をしている」と言ってしまったことをテルミは今さらになって落ち込んでいるようです。ひょっとしたら、本当に、そう感じていたのかもしれない、なんて。
君より弱い俺に何の価値がある
訳:君を守れない俺には価値がない。
テルミには彼の言いたい言葉が分かっていました。そして、その後に続くであろう「君の心まで守っていたい」という言葉もおおよそ察していました。だからこそ、耐えがたくなってしまったようです。
彼女はいつでも彼が守らなければならないと感じる『弱い存在』に甘んじるつもりはないからです。
恋と愛の話
きっと寝物語で聞いたことの受け売りなのでしょう。セラフィにしては、あまりに情緒を解した言動です。どことなく幸せそうな雰囲気はこの話をした彼が幸せな顔をしていたからなのかもしれません。この話をした彼は袖を引く側だったのか見送る側だったのかは気になるところです。
テルミとピグマリオン
ピグマリオンがテルミに優しく親しいのは、愛情ゆえです。彼の人間性の温かさはテルミに意外な効果をもたらしつつあります。テルミはただ従順で幸せな病み人が作れたらそれでよかったのですが、思いがけずそれ以上のものを作り出してしまったことは、彼女が他の『きょうだい』の誰よりも幸運に恵まれているからなのでしょう。
自分でも扱いかねる複雑な心は、学校の友人に対し話すには抵抗があります。彼らには、いつも元気で可愛い自分の姿を見せていたいからです。また自分の心という他人にはどうしようもない問題を相談して「面倒くさい人」と思われたくない気持ちもあります。
テルミを取り巻く複雑な人間関係については4年生の話になりそうです。
残り更新が少なくなって参りました。
もうちょっとだけお付き合いいただければ幸いです。