甘き夜明けよ、来たれ   作:ノノギギ騎士団

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始動
始まり、動くこと
古い街でも新しく始まることがある



始動

 

「どうして、あなたがここにいるんだ?」

 

 この言葉を聞いたとき。

 クィリナス・クィレルの頭に浮かんだことは三つあった。

 ひとつ。

 このリーマス・ルーピンは前々任者クィリナス・クィレルの辿った末路を知っている。

 ふたつ。

 このリーマス・ルーピンは狼男だが、ヤーナムへは治療のためにやって来たのではない。

 みっつ。

 このリーマス・ルーピンは狼男だが、正義漢のようである。

 

「さ、私にもさっぱり──」

 

 一歩一歩、後退る。長い廊下の果ては遠い。クィレルは次第に腰が引けてきた。

 

「ダンブルドアは、あなたが『死んだ』と言った」

 

「ワァ……。私もっ、死んだと思ってましたよ……」

 

「幸いなことにダンブルドアが間違えることは少ない。その彼が死んだと言ったのだから、あなたが死んだとする証拠もたくさんあったのだろう。──もう一度答えて欲しい。どうして、あなたがここにいるんだ?」

 

 四つ目の発見だ。

 このリーマス・ルーピンは、ダンブルドアの手先である。

 この発見は正しいと思われた。

 

 ルーピンがやって来る直前、やけに嬉しそうな狩人がクィレルの前に現れた。

 ──これは先生の手記だろう?

 ──俺が貰ってもいいだろうか?

 ──先生には新しい手記を用意する。

 ──どうだろう。どうだろうか。先生?

 クィレルは狩人が熱心に言い募ることが珍しく見えた。その熱意に応じて手記をそのまま狩人に与えることにした。しかし、どうして彼が自分の手記を、それもヤーナムに初めて来た時に持っていた手記を持っていたのか不思議に思っていたのだ。自分の手記は、ハリー・ポッターに敗れた時と同じ場所、すなわちホグワーツ城の教授室にあったハズだ。そして、自分が死んだ後は『例のあの人』と戦った英雄のひとり、そしてホグワーツ城の主と言える人物が回収したことだろう。

 理由は、こうして現れた。

 人が獣になる奇病が蔓延るヤーナムにとって。狼人間という存在は目新しく身近な存在で魅力的に映ったに違いない。そんな人物が社会的立場として責を負うホグワーツの教師になれるだろうか。通常は否である。だが唯一、その常識をひっくり返せる人物がいる。そして、その人物はクィレルの手記を回収した人物と等しい。

 

「あなたは、ダ、ダンブルドアのためにここに、き、来たのですね……?」

 

 ダンブルドアがどうしてヤーナムにこだわるのか。クィレルは分からない。今世紀屈指の賢人の考えなど『例のあの人』の頭の中と同じくらい分からない方が良いのだ。

 だが、今。

 ヤーナムですっかり慣れきった思考停止に陥るのはマズい事態だということ程度は分かった。

 

「質問しているのは私ですよ。クィリナス・クィレル」

 

 ルーピンは静かだが今にも杖を抜きかねない圧力があった。

 クィレルは両手を振った。

 

「し、知らない。本当に知らないっ。答えられることも何もない! 狩人さんに聞いて、く、くださいっ! い、いいえ、や、やっぱり、き聞かない方がいいでしょうね……」

 

 死んだ人間が歩いていれば──そして、それを知る人間がいれば──こんなことになることをあの狩人は忘れていたのだろう。

 彼とこども達や学徒とのやり取りを傍で聞いたクィレルが、これまで出来る限り考えないようにしていたことをたった今、確信した。

 

(なんて迂闊な人なんだ!)

 

 それから、もうひとつ。何よりも厄介なことは、不可解で底の知れない人物なのにとことん迂遠で注意力が足りない狩人の意向が──クィレルにはまったく不可解なことに──彼を取り巻く人物たちには重要視されていることだ。

 クィレルはルーピンに向き直った。

 

「い、今すぐ帰った方がいい。本当に。こ、これは脅しではない。本当に。一年と言わず今すぐ帰った方がいい」

 

 この時。クィレルの頭には、狩人と交わした言葉が思い出されていた。

 ──ああ、そうそう。

 ──ヤーナムの時間の流れが外と『ちょっと』変わっているという話。

 ──ルーピン先生には伝えて欲しくないものだ。

 ──いやなに。後ろ暗いことなど俺の影ほどしかないが……。

 ──『ちょっと』の感覚は人によるだろう?

 ──だから頼むよ。

 クィレルは、あの時「はい」と即答した。

 

「どうしてなのか聞いても?」

 

「こ、この土地は呪われています……! ダンブルドアは私が死んだと言った。だが私は生きている。ほ、ほら! おかしいことが、わ、わかるでしょう!」

 

 遠くで誰かの足音が聞こえた。クィレルはすぐそばのドアノブに飛びつき、部屋に入った。

 そこは数ある講堂の一つだった。

 ルーピンも講堂に入り、扉を閉めて鍵を掛けた。そして振り返り腕を組んで厳しい顔をした。

 

「何を隠している? まさかヴォルデモートがここにいるのか?」

 

「そ、その名前はやめて下さい……! 私は、私は、もう、ずっと後悔しているんだ……!」

 

「後悔だって?」

 

 クィレルは拳を握り、開いた。あの日、砕けた手はここにあった。

 あの子、ハリー・ポッターに触れることも叶わず、焼け、爛れ、膨れ、砕けていく体を見た時に死ぬほどの後悔をした。

 

「死の間際に『勇気を振り絞って、闇の帝王を、ヴォルデモートを拒むべきだった』と……」

 

「あなたに対し、私が言うべきことではないのかもしれない。言ってよいことでもないかもしれない。だが、敢えて言わせてもらおう。あなたは身勝手だ! ハリーを殺そうとしたのに、あなたが後悔しているのは自分の命だ! もしも、ヴォルデモートが賢者の石を手にしていたら? 闇の時代の到来だ! どれほどの人を危険に晒したと思っている!?」

 

 彼の言葉は、あまりに耳に痛い。

 ハリー・ポッター少年には申し訳ないことをしたと今でも思っている。

 だが、それを彼に咎められるのは、ただの立場の違いだ。自分はヴォルデモートと出会い間違いを犯し、彼の身の上にそれが起きなかっただけだ。クィレルはそう考える。だから声を裏返しながら吠えた。

 

「私を責めることの出来る、あ、あなたは幸運だ! 一度も間違いのない、さぞ素晴らしい人生を歩んできたのだろうな!? つ、ついでに石でも投げるといい!」

 

「この……!」

 

 廊下を走る足音が聞こえて二人は廊下を見た。

 

「せんせー、クィーレルーせんせー、ごはんですよー。歓迎会でもありますけれど。あら? お花を摘みに行っているのかしら?」

 

 二人は息を殺した。そして廊下のテルミが去るまで待った。

 その頃になると二人とも互いに噛みつきそうな雰囲気は霧散し、気分は平静に戻っていた。

 お互いに疲れたように椅子に座った。

 二人分空いた席に座ったルーピンは、クィレルに問いかけた。

 

「あなたは『死んでいた』と語る。ならば……まさか……」

 

 その先の言葉をクィレルは知っている。

 自分自身に何度も問いかけたものだ。

 

「ヤーナムでは、死者が蘇る?」

 

 どんな魔法であっても、それは出来ないとされる。

 それは最早、魔法という技術の領域ではない。正しく『神秘』の領域だ。

 クィレルは頭を横に振った。

 

「そ、そういう生と死の領域の研究は、きっと魔法省の神秘部がかかり切りになっていることでしょう。……ヤーナムのことは、本当に、わ、分からない。私は、か、彼らのことを何も探らないことで生かされているようなものだ。ここで生きるのなら、あなたもそうした方がいい。か、彼らは簡単に我々を殺せる。そうしないのは私達が狩人さんの客だからだ」

 

 事実、ヤーナムを探ろうとした現役ホグワーツの教師は、危うく死にかける目に合ったことをクィレルは学徒の雑談から知っている。

 そのことを聞いたルーピンは納得した。

 

「スネイプは、ヤーナムを『永住を考えるほど刺激的かつ魅力的な街だ』と語った。なるほど。まだまだ私を殺してしまいたいらしい……」

 

「と、とにかく、私はずっと『例のあの人』に与したことを後悔していて……迷惑を掛けた人々には……も、申し訳ないと……思っている……」

 

「ならば、ここに留まる理由は?」

 

「こ、ここにあなたが来て、驚いた理由と同じです。驚くでしょう。死んだと思われていた人間がうろうろしていたら。十年も経てば……皆さんの記憶も薄れて……私はそっくりさん程度で済むでしょう。いいえ、それでも人里に住むつもりはありませんが……。あと七年ほど留まる予定です」

 

「もっと短くて済むように私からダンブルドアに話を付けよう」

 

「そんなっ!」

 

 クィレルは思わず悲鳴を上げた。

 彼が黙っていさえすればヤーナムでの平穏は過ぎていくのだ。平穏を壊さないで欲しい。そう請うたクィレルの隣で彼は立ち上がった。

 

「本当に申し訳ないと思っているのなら、もう二度とヴォルデモートに──しっかりしてくれ!」

 

 反射的に身が震えてしまったクィレルを叱咤したルーピンは目に光があった。

 

「──関わりたくないと思うなら、あなたはヴォルデモートを滅ぼそうとしているダンブルドアの側につくべきではないですか? 知っていることを話すべきだ。それがあなたの責任というものでは?」

 

「せ……責任……?」

 

「死んだのは、あなた個人の失敗でしょう。……けれど生きているのならば、次に誰かが同じ失敗をしないように防ごうとは思わなかったんですか? あなたも『闇の魔術に対する防衛術』の先生だった。マグル学の先生でもあった。教壇に立っていたあなたは若者を教え導く存在だった。あなたも私も、もう二度と教壇には立てない身でしょう。けれど、まだ未来ある人々のために出来ることはある」

 

 彼を直視することが耐えがたくなりクィレルは床に目を落とした。

 

「……私は、あなたとは違う。私は、あ、あなたのように勇敢ではない。責任を取ることも出来ない。生き恥を晒してこうして無害に生きるのが精一杯だ。未来ある人々のために? そ、そのためにヤーナムに来たのなら、あなたはとんだ愚か者だ。こ、ここは、違う。他の土地とはまったく違う。違うのに」

 

「ダンブルドアは、誰も見捨てない」

 

 ──そうだろう。

 クィレルは口の中を血が出るほどに噛んだ。

 ──知っている。知っていた。

 どれだけ知識を食んでも、どれだけ見識を深めようと、遠く及ばないことはヴォルデモートと遭遇する以前、もうとっくの昔に悟っていた。だからこそ自分は、あの賢者の太陽の如き眩しさ、平等さ、そして、偉大さに耐えきれなかったのだ。

 ──ああ。この人は、自分に期待していないのだ。

 彼と対面して、そう感じた日に自分は心のどこかがポッキリと折れたのだ。

 

 ヴォルデモートに唆された。これは事実だ。

 だが、それだけだっただろうか。

 クィレルは自分を振り返る。

 偉大な権威の膝元で宝物をかすめ取ることには緊張感と恐怖があった。けれど、同時にあの賢者を驚かせ、脅かすことに歓喜していた自分もいた。

 ──見よ! お前があの日、歯牙にも掛けなかった凡才が誰にも出来なかったことを果たしてみせたぞ!

 そう言い、誇ることを一度でも思い描かなかったか。そう問われたら、きっと頷くことは出来ない。

 

「彼は私のような狼人間でさえ救ってみせた。あなたは信じるべきだ。そして報いるべきだ。かつて、あなたを信じて生徒を託したダンブルドアのために。あなたを慕った生徒のためにも」

 

「……ダンブルドアが私を任命したのは、他に人がいなかったからだ」

 

「ああ、そうかもしれない」

 

「……誰も私のことを慕う生徒なんていない。マグル学の教授だった時からそうだった」

 

「ああ、そうかもしれない」

 

「そ、それでも報いるべきだろうか……?」

 

「なおさら報いるべきだ。──他の誰でもない。あなた自身のために」

 

 クィレルは黙った。

 やがて。

 

「考える時間を……下さい」

 

「迷う時間ならたっぷりあったでしょう」

 

 クィレルはルーピンを見上げた。驚くべきことに彼の目に蔑みはなかった。

 

「……ダンブルドアへ宛てる言葉まで考えては、いませんでした」

 

 ルーピンは、その言葉を聞いて微笑んだ。

 結果、彼らは『一年間お疲れさま会』に大遅刻した。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「──クルックス、レオー様が学舎の前で待っているよ」

 

 テーブルに全員分のカトラリーを並べていたクルックスは、セラフィにそう言われて仕事から目を離した。

 

「なに?」

 

 クルックスは、レオーが学舎に長居しないだろうと思っていた。彼は女王からの仕事でこの学舎に来たのだと言っていたし、ルーピンを輸送する仕事が終わった今、彼はもうすでに学舎を出てしまったのだと思い込んでいたのだ。

 

「『なに?』も何もないよ。レオー様がクルックスに頼みたいことがあると言っていた。君のために学舎に留まっている。時間がない。早く行ってくれ」

 

「お、おお……?」

 

 クルックスはセラフィに仕事を渡すと安定しない足取りで食堂を出た。

 レオーと言えば。

 三年生までの夏休みでクルックスの首を刎ねたことがある。

 これにはセラフィが先達である彼らに予定を告げず休業していた『うっかり』だとか。レオーが鴉に対する曖昧な命令をしてしまったゆえの誤りだとか。運悪くカインハーストの宿年の敵である処刑隊の狩人に出くわしてしまったとか。さまざまな要因が言い訳として機能する。

 最終的に手を下したのはレオーだが、もとを辿れば連絡を怠ったセラフィが悪く、現場ではどう考えても刺すべき場面ではないのにクルックスに致命傷を与えた鴉も悪い。しかし、クルックスは誰が悪いということを決めないことにしていた。考えると頭がぐちゃぐちゃになるということは大きな要因であるが、何よりクルックスは誰も恨みたくなかったのだ。夏休みに彼と過ごした日々は短いが充実している、温かい時間だった。

 心の整理がつかないまま、学舎の外に出た。

 ツンと煙草の匂いが鼻先をくすぐった。煙の源を探せば、馬車のそばでレオーが紙煙草を吹かしていた。

 

「来たか。──クルックス。元気にしていたか?」

 

「え、ええと、俺は……元気です。ずっと……」

 

「そうか。それは重畳。──来いよ」

 

 会話には気を遣う。

 こちらから『すみません』はないだろうし、向こうも『申し訳ない』とは思っていないような気がしたからだ。

 ぎこちなくクルックスはレオーのそばに立った。

 

「また背が伸びたな。うんうん。成長することはよいことだ。……そうそう。あの時は助かった」

 

「……?」

 

「処刑隊の狩人のことだ。お前の首と俺の左腕と肋骨数本と引き替えに奴の右腕を落とせた。昨年の狩りは例年以上。つまりは『上々』だ」

 

 ヒヤリ。

 全身に冷たい氷を押し当てられたように肌の感覚がおかしくなった。

 クルックスは、レオーを必死に見つめた。薄く笑う彼は本当に感謝をしているようだった。裂傷の少ない左手がクルックスの頭と頬を撫でる。落ち着かない気分になり、声を上げた。

 

「あの……俺は」

 

 自分は果たして何を言おうとしたのか。クルックス自身、よく分からない。

 

「カインハーストの狩りに巻き込んで悪かったな。やはり市街は野蛮でダメだ。──だがお前は大切だ。愛しているぜ」

 

 煙草の煙をフッとクルックスに吹き付けたレオーは気楽そうに笑った。

 

「煙いです。……レオー様、あまり無理をなさらないで下さい」

 

「怪我はとっくに治った。お前達の言う、何だったか、異教の祭日の頃には──」

 

「そうではないです。……貴方は、とても無理をしているように見えます」

 

 クルックスがそう思ったことについて。

 決定的な何かが見えたワケではない。だが彼には以前学舎に訪れた時には無かった、焦りのような感情があった。

 

「正論を言うな。逆上するぞ。前にも言っただろうが」

 

 彼は長々と白い息を吐いた。

 自分を落ち着かせるような呼吸だ。

 

「俺は、これしか生き方を知らないのだ。市街の邪魔者が少ない年は貴重だからな。急ぎもすれば、焦りもする。昨年の夢は再び巡ったが、今は夏。あと四時間で日が暮れる。夜は狩りの時間だ。ただし──」

 

 初めてレオーの薄い青の瞳に、躊躇が浮かんだ。

 その躊躇いは『引け目』のようだった。

 

「今年の夢が巡ったら……お前があんまり俺のことを心配するから、すこし休むとしよう。ひとつ、お前の願いを叶えるのも、まぁ、悪いことではあるまい。……ぐうう」

 

 レオーは短くなった煙草を地面に落としてもみ消した。

 それを眺めていた目がクルックスを向いたとき、彼の方が耐えきれなくなったようだ。

 

「クルックス。もうちょっと何か、こう、あるだろう? 『ある』と言え。『テメー、俺をぶっ殺しやがって!』とか『レオー様、嫌いっ!』とかさァ!」

 

 一度はクルックスも考えたことだ。しかし。

 

「俺はセラフィもレオー様も、ついでに鴉羽の騎士も、恨みたくないのです。貴方が優しい人だということを知っていますから。あの件は不幸な事故ということで俺は納得しているのです。お手紙のとおりに。だからレオー様もあまり気にしないでいただけると嬉しいです。……また一緒に学舎で過ごしたい、ですから」

 

「よし分かった。次の休暇は全部クルックスに使ってやる。お前も連盟活動そっちのけで来るんだ。分かったな?」

 

「は、はい……!」

 

「こんなことで喜ぶな。まったくもう」

 

 無造作にレオーはクルックスの体を引き寄せると抱きしめた。

 突然のことに驚いたが、そういえばこんな人だった。一年ほど前の思い出した記憶がクルックスの胸をじんわり温かくした。

 

「……都合が良いったらありゃしないんだ、若い奴は。だから早死にする。可哀想に……可哀想に、なァ……」

 

「そうならないように導くのも先達の勤めだと思います」

 

「言うねぇ。耳が痛くて心が裂けてしまいそうだ。……いい子だな。さて、これで心置きなく帰れる」

 

「……あ」

 

 クルックスは手紙のことを思い出した。

 レオーに宛てた手紙のことだ。

 お茶会のことも気になっていた。

 しかし、口に出すには場違いな気がして言葉にするのに迷う。そのうち二人は数十秒間見つめ合った。

 

「『あ』って何だ。『あ』って?」

 

「い、いえ。何でも無いです……」

 

 レオーは、うんざりした顔をした。

 

「なぁ……心置きなく帰れなくなるからそういうのやめてほしい。本当に。死に際にそういうの思い出して死ぬとかよくあることだし、お貴族様のプライド的に耐えきれないから。ほらほら、さっさと言え。それともなにか。カインハーストで話を聞いたって構わないんだぜ、俺は」

 

 レオーはそう言って馬車を指した。

 馬車を曳く馬が急かすように前脚で地面を蹴った。

 カインハーストに行きたくない、というより鴉に会いたくないクルックスは、白状することにした。そして「手紙のこと……」と小さい声で伝えた。

 

「手紙? ああ、セラフィが持って来た手紙のことか?」

 

「……今年は……ほんのすこしだけ、お恨み言を言いたい気分になったこともありました。どうして鴉羽に追伸を見せたのですか。お茶会のことです。俺は……レオー様とセラフィだけでよかったのに」

 

「追伸? ん? うん?」

 

「えっ? え? エッ?」

 

 レオーは『何のこと?』とは言わなかったが、その顔には隠しようのない戸惑いがあった。

 クルックスは、まさかのことを思いついた。

 ひょっとして。

 

「レオー様は……追伸を……ご存じない!?」

 

「あの封筒、二通入っていたの? ええぇ……。追伸は、み、見てないぞ。一応、釈明するとだな。処刑隊の狩人とやり合って体ボロボロだったところに持ち込まれた手紙だったから、封筒の内容確認をしっかりしなかった、かも、しれない……。いや、すまん。本当に。それで、追伸には何を書いていたんだ? お茶会がどうとか?」

 

「次回の休暇にレオー様とセラフィと一緒にお茶会をしたいという話です。なぜか鴉羽が内容を知っていましたけど」

 

「鴉めェ。他人の手紙を見るなんて……。お行儀悪いことしちゃダメって言わなかったかな、俺。うん。言ってなかったかもしれない」

 

 レオーは「悪いなァ」と言いながら、クルックスの機嫌を伺うように頬を撫でた。

 気恥ずかしくなり、クルックスは学舎を見た。誰もいない。

 

「ん……。レ、レオー様がご覧になっていないということであれば、それはそれで……。こうして今伝えることが出来ましたからいいんです。この問題はこれからが本題です。セラフィから聞いた話によると、なぜか俺と鴉羽とセラフィでお茶会をすることになっているんですが……その……気まずいというか。はっきり言うと俺の気が進まないというか。対応にすごく困るというか……。なので、と、とにかくレオー様のお力添えで『話をなかった』ことにしていただけないでしょうか?」

 

「うーん? まあ、気まずいという気持ちはよーく分かる。『話をなかった』ことにするのは簡単だが……どうせ鴉は休暇で学舎に来るから、お茶会はここでやってしまった方がいい。彼がセラフィにそのことを話したということは、彼の頭のなかではもう決定事項ということだ。目先のお茶会がなくなってもいつか必ずやるぞ」

 

「ぐ、ぐぅ……」

 

 頭のどこかで想像していた返答にクルックスは唸るしか出来なかった。お茶会をするとして、せめてレオーがいてくれたら安心できるのだが、騎士の二人が同時に休暇を取ることはカインハーストの防衛上の問題があるため出来ないだろう。

 落ち込み続けるクルックスをどう見たのか。彼は励ますように言った。

 

「不安な気持ちもよく分かる。セラフィに学舎待機を命じておこう。学徒も加わるだろう。それにお前から狩人にも参加するように頼めば断りはしないだろう。頭数が揃えられる学舎がよい。下手に予定を変更したら、お前はいつかカインハーストで鴉と一対一でお茶会することになりかねん。それはそれでよい経験になるだろうが……」

 

「学舎で場を整えることにします。ご助言ありがとうございます」

 

 クルックスの言葉は決まった。学舎で鴉を迎え撃とう。──そもそも戦闘ではないのにお茶会には緊張感がある。

 

「ああ、それがよさそうだ。あいや。ホント悪いことをした。俺に宛てた手紙でこんなことになるなんてな。二度とこんなことにならないようにお前も一度カインハーストに来るといい。『使者の灯り』を点しに来てはどうだ? 片道なら送ってやれるぜ」

 

「それは、いずれ、相応しい時に伺います」

 

 先送りの言葉ばかり上手くなっていないだろうか。

 レオーに伝えた言葉に自分自身が不安になる。彼もその不安を見抜いているようだった。

 

「ククク、まぁそれもよいだろう。よかろう、よかろう。よかろうて。カインハーストの納税義務を果たせるよう、せいぜい狩人の尻を叩くことだ。俺としては滞納してもらった方がありがたいがね」

 

「お父様は昨年いたく反省したようなので大丈夫でしょう。たぶん」

 

「そこは大丈夫だって言い切ってほしいぜ。今年の狩人は鴉と何やら取引したみたいだ。さぁて、取引内容はキチンと聞いていたかな? 隣で聞いていた俺は十一とかいう話を聞いた気がするが、気のせいだったかね」

 

「ト、イ、チ? トイチ?」

 

十一(トイチ)。異邦の経済概念でなァ。この仕掛け武器『千景』やセラフィの使う『落葉』と一緒に昔々ヤーナムの外から輸入されたものだ。十日で一割を利息として計上するという内容だったと記憶するが、はてさて?」

 

 レオーは、カラカラと笑った。彼は指摘されるまで契約書の二枚目を見せないというちょっとした悪徳を披露したことがある。そんな彼にとって同僚が法外な利息を吹っかけた話を聞き逃すのは朝飯前だったことだろう。なんせカインハーストの利益になる話だ。

 

「お父様と、か、鴉との取引とは──」

 

「夏休みに馬車を使っただろう? 契約関係の整備は鴉の担当だからな。うんうん。ここだけの話、彼は頭の調子が良いときは意外と書類仕事が出来るスゴいヤツなのだ」

 

「……ま、まさか、いくらなんでもお父様が、そんな法外な取引に手を出すとは、そこまで、あの、アレだとは……」

 

「そうか? あの狩人は日付の感覚がどうにも怪しいからなァ? ほーお? 青ざめてる。……いいよな、若いって。だからこそ愛せる。愛せるなァ……」

 

 さりげなくクルックスの腰に腕を回したレオーは、馬車をチラリと見た。

 

「クルックス、ところで俺の後ろにちょうどいい密室があるんだが……どう思う?」

 

「密室……?」

 

 彼の言う『密室』が、馬車のことを指すと分かったが、それにしても『どう思う』とは何だろうか。クルックスは彼が何を言いたいのか分からなかった。

 

「ええ……その……俺は……」

 

「つまりだ。学校の話が聞きたい。どうだ。俺と二人でお話をするというのは」

 

「ああ、それは……いえ、今日はダメです。学舎にはセラフィが……それに俺は『一年間お疲れさま会』の準備の最中に抜け出してきただけですから──」

 

「それはむしろ燃える展開。俄然やる気が出てきたぜ。……なぁ、堅いこと言わずにさァ。人助けだと思って」

 

 油断した隙に利き手である右手を取られた。指同士が絡み合う。体が密着しているせいでジタバタもできない。

 

「く、くすぐったいです……。レオー様、今日はこれから用事が……平時であれば、人助けするのはやぶさかではありませんが……」

 

「埋め合わせをしたいのだ、俺は。……俺とてお前を傷つけたくはなかった。本当だ。本当のことだぞ?」

 

「それは重々承知しています。俺は全然気にしてませんから……!」

 

 ──重い。

 クルックスは感じた。感情が重い。彼も気に病んでいたんだな、ということはよく分かった。それは言葉ではない。瞳の奥に黒々とある狂気がそう語っていた。

 熱い掌が気になり、クルックスも集中力を乱した。その時だ。

 

「あ」

 

 聞きたくなかった声が聞こえた。クルックスは振り返る。セラフィがいた。

 

「あひっ! ひどいっ!」

 

 クルックスは初めてセラフィが慌てふためく様子を見た。ぎこちなく歩いてやってくる。

 

「セラフィっ!? いや、ちょっと待って、これは、とにかく、違う、違うのだ──」

 

 自分でも何を言い訳しようとしているのかよく分からないクルックスは、とりあえずレオーから離れようと頑張ったが、カインハーストの恵体は動じなかった。

 

「クルックス……君は、ぼ、ぼ、僕がいるのに先達まで……!」

 

「違う違う! えっ何だ!? 何て言った!? 何が起きたんだ!?」

 

「──しらばっくれるのは善くないことだ。鴉羽の騎士様に言いつけてしまおうか。クルックスがよくない目でレオー様を見てる……」

 

「誤解だ! よくない目って何だ!?」

 

「まあまあ、セラフィ。そう逸るな。クルックスはな、こう見えて甘えたい盛りなのだ」

 

 話をややこしくしている張本人であるレオーは、クルックスをつかまえて離さなかった。むしろ引き寄せて抱きしめた。

 

「いつも『きょうだい』のことを考えて頑張っているからな。誰かが労うことを必要だろう。狩人がそれをしては贔屓になる。だから俺がこうして甘やかしているというワケだ。分かったな?」

 

「僕は状況を理解しました。しかし、レオー様のご温情に甘える恥知らずが『きょうだい』にいるとは悲しいです」

 

「恥知らずではない。こどもはこんなものでいいのさ。セラフィ、お前もこうして甘えてもよいのに」

 

 レオーがパッとクルックスを手放した。

 

「んっ。だ、だめです。……鴉羽の騎士様が、ご機嫌を損ねますから」

 

「じゃあアイツの休暇中は俺とカインハーストでゆっくりしような?」

 

「それは……ぁ……お、お望みであれば、僕はいつでもそのように……」

 

「よしよし。可愛がってやろうな。──さァて、名残惜しいが長居し過ぎた。そろそろ行くかね。ああ、狩人によろしく。愛してるぜ」

 

 そう言ってレオーは学舎を去って行った。

 残されて気まずいのはクルックスとセラフィだ。

 

「あの、セラフィ……本当に勘違いしないでほしいんだが……」

 

 セラフィは、照れの残るほんのり赤い顔でクルックスを見つめた。漂う色の気配に彼は、なんと声を掛けるべきか分からなくなった。

 

「レオー様は特別に君を気に入っているんだろう。わかるよ。僕も君のことが、とても大切だからね。僕が君を想うようにレオー様も同じように想って下さるのだ。順位を付けるなんていけないことだと分かっているのだけど……。でも、僕は君のことが好きだよ」

 

「……レオー様を想う気持ちなら俺は君に敵わないだろうな。ありがとう」

 

 クルックスは右手を差し出した。何も諍いなどないことの証明に握手を求めた。

 いつかと同じようにセラフィはクルックスの手を取らなかった。代わりに。

 

「おわっ」

 

 両手を広げてクルックスのことを抱きしめた。

 クルックスより背の高いセラフィは覗き込むようにクルックスを見た。

 

「君のことが大切なのだよ、僕は。……しかし、それとヤーナムに資することが両立できないのは本当に残念なことだ」

 

「それは……そうだな。けれどお父様にもお考えがあるのだろう。君とお父様を信じたい」

 

 セラフィの背中を撫で、安心させるようにポンポンと叩いた。

 

「ねぇ、レオー様に……」

 

「あの方は俺がフラフラしているように見えて心配されたようだ。杞憂にしてみせよう」

 

 早口で告げたことにセラフィは興味を示さなかった。

 代わりに。

 

「僕は君のことを心配していない。君は……最後には自分で自分を救ってしまいそうだから。僕が話したいのは、そのことではなく。昨年の夏休みに君が医療教会の射手の情報を持ち込んだ時のことだ。どうして夜なのに市街を離れたのか不思議に思っていた。君は……」

 

 セラフィの細い指がクルックスの首を撫でた。死が夢となった為、傷跡は存在しないが彼女が言いたいことは察した。彼女はずいぶん前から自分とレオーの会話を聞いていたようだ。

 

「ああ。まあ。不幸な行き違いがあっただけだ」

 

「どうして僕にそう伝えてくれなかったのか。傷ついた君を一人にしたくなかったのに。レオー様には話せて僕に話せないことが?」

 

 怒ったようにセラフィは言う。

 セラフィの手を握り、クルックスは答えた。

 

「君の悩み事とレオー様から依頼されたことに応えたかった。どちらも急ぎの件だったからな。……もう大丈夫だ」

 

「隠さないで。僕も君の秘密を預かりたい」

 

「君に預かって欲しい秘密ができたら話すとしよう」

 

 セラフィはクルックスを見つめ、ゆっくりと体を離した。

 

「……待とう。君のために」

 

「ありがとう。優しい君。俺も君が大切だ」

 

 生きる限り、秘密は生まれる。その秘密こそが、自分と他者を隔てる壁だからだ。

 けれど、その様は秘密を全て身の内に隠してしまった父たる狩人の姿とも重なる。

 心の底に思っていることを洗いざらい話したとして解決に繋がらないならば黙っていよう。無用な心配事を彼女にもたらすだけだから。クルックスは考える。──父も同じことを考えているのだろうか。

 セラフィと並んで歩き、彼は思った。

 ──けれど、まあ。今日だけは。

 

「宴会だ。血酒はないけど乱痴気騒ぎが待っているよ」

 

「素面なのになぁ」

 

 彼は狩人がそうしているように問題を全て先送りにすることを決めた。

 

「でも家族はそういうものなのだと聞いたよ」

 

「そうか。ならいいか」

 

 隣で足取りを弾ませるセラフィを見ているとクルックスも幸せな気分になる。

 

「家族。家族か」

 

 実感の少ない、ふわふわとした頼りない言葉だ。

 セラフィもそう感じているのだろう。

 

「僕らは『きょうだい』で家族だからね」

 

「お父様のことをお父様と呼んでいるのに『家族』とは、何だか遠い言葉に感じる」

 

「僕らとお父様は根本が違うものだから、だろうか? でも温かくて好きだよ。家族。君と僕は家族だ」

 

「そうだな。家族。いい言葉だ」

 

 繋がりを示す言葉ならば、いくらあってもいい。

 それが温かいものであれば、尚更のことだった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ヤーナムの夜。闇にひそむのは獣ばかりではない。

 闇に紛れる暗い狩人装束に身を包み市街を歩くのは隠し街、ヤハグルの狩人だ。

 

「お仕事の一発目が『おつかい』とはな。まったくふざけてやがる。──おい。場所は分かっているんだな?」

 

 乱暴に問いかけたのは、アンタルと呼ばれるヤハグルの古狩人だった。

 

「ああ。診療所だ」

 

「どこのどれだ。診療所なんて市街に星の数ほどあるだろうよ」

 

「そんなにはない。ダミアーンのメモによると、ヨ、ヨゼフ、いや、ヨセフ? ん、あぁ、ヨセフカ、診療所って書いてあるな」

 

「ヨセフカ? ああ、梯子の近くにある診療所だな。なかの医療者には会ったことはないが。男か? 女か?」

 

「いつも出てくるのは男だな。車椅子に乗った血の医療者だ。だがいつも奥に誰かいる気配がするから他にも医者がいるんだろう」

 

「……へぇ。手厚いことで」

 

『教会の杭』と呼ばれる長柄と四角錐を結びつけた仕掛け武器を肩に担ぎ、彼らは夜を駆けた。

 幸い獣には出くわさなかった。それどころか狩人の気配さえ少ない。

 何度か梯子を昇降した先、彼らの目にはヨセフカ診療所が見えていた。

 

「すんなりと、だな。いーや、銃撃戦を期待していたワケじゃあないが、妙だ。拍子抜けだ」

 

「市街の狩人と教会の黒共はカインハーストの血狂い共に狩られたんじゃないか? どうやら今年は相当に跋扈しているらしいからな」

 

 幸いなことに使用場面はなかった仕掛け武器、トニトルスを撫でながら狩人が言った。彼は腰のベルトに銃を差し、周囲を警戒しながら扉を素早く叩いた。

 風が吹いた。不気味なほど静かな夜のせいで診療所の奥に広がる庭にある樹木が、風に負けて軋みを上げる音がいやに大きく聞こえた。

 アンタルだけは、まだ銃を構えていた。

 

「あーあ、うへェ、コワー。市街の狩人なんて辞めて正解さ。カインの狩人どもは隠し街までは来ない。どこから来ているのか知らないが、やっぱ往来が大変だからかなぁ……」

 

「そうかもな。──おい。銃を仕舞うなよ」 

 

「ここまで来れば大丈夫だって。市街のど真ん中でドンパチやるほどあっちもイカれてないだろ」

 

「市街が静まりかえるほど狩人を狩ったのに? 穢れてパッパラパーのイカれ加減なんて分かるものかよ」

 

 二人は額を押し付け合いながらノックを繰り返す。周囲を警戒しつつもグダグダと話した。しばらく経つと診療所の中に灯りが見えた。

 

「おっせーぞ……外で待たせんじゃねえよ。恐いだろうが……」

 

 アンタルは、愚痴をこぼした狩人の肩を叩いた。それは言葉を諫めるためではない。

 

「シッ。……おい、待て。血の医療者って車椅子に乗っているんだよな?」

 

 小さな声でアンタルは訊ねた。

 

「さっきもそう言っただろ。なんだ? 牢屋でボケたか? 介護は先生で間に合っているんだ。ブチ殺すぞ? おぉん?」

 

「口が悪すぎるだろ。違う違う。ほら、灯りを見ろ。……車椅子の動きじゃない」

 

 トニトルスの狩人は、まだ疑わしげにアンタルを睨んでいたが、やがて磨り硝子の向こうでゆらゆら動く灯りを見つけてベルトに挟んだ銃を抜いた。そして、指で耳を差した。続いて金属の兜のなかで伝えて来た。──靴音がする。

 ふたりは音を立てずに扉に嵌められた硝子から身を離した。

 

「──いま開けるわ」

 

 屋内から聞こえたのは、若そうな女の声だ。

 怪訝な顔で二人は見合わせた。その時。ガシャン、と大きな音が聞こえた。扉の鍵が開いたのだ。そしてコツコツという足音が遠ざかっていく。

 これまでの経験と違うことが起きた。そう感じて踏み込むのに躊躇うトニトルスの狩人に「待て」と手振りで示し、アンタルは扉を開き、踏み入った。

 

「私が学派の遣いだ」

 

 アンタルは、後ろ手に銃を握ったまま言った。

 扉と距離を取り立っていたのは白い装束を着た女性医療者だった。

 金色の髪を左目に垂らし、頭の後ろで軽く結っている。薄く引いた紅がゆっくりと弧を描いていた。

 アンタルが記憶する限り。

 ヤーナムの女性は──街がそうであるように──いつもどこか陰鬱として『不満と陰口を活力として何とか生きている』と言える状態の生き物だったが、この女性はそういう種類の女性とは違う雰囲気があった。

 ──雰囲気。そう、雰囲気が違う。

 ぼんやりとした感想の正体を見極めるため、アンタルはさらに一歩進んだ。

 

「手紙を預かっている。内容を読め。そして返信を。受け取ったら帰る」

 

「そちらのテーブルに置いて下さい」

 

 医療者の白手袋に包まれた指がテーブルを差す。

 医療者から目を離さず、アンタルは手紙を置いた。

 彼女はますます笑みを深めた。

 

「何だ」

 

「──待っていたわ。ずっと待っていたわ。『いつも』ではない何かを。『いつも』ではない人を。貴方は狩人? それとも人攫い?」

 

「私はヤハグルの狩人だ。妙なことを言うな。──お前もイカれか?」

 

 アンタルは銃をチラつかせて訊ねる。

 医療者は、気にした素振りなくテーブルから手紙を拾い上げた。

 その目は、まだアンタルを追っていた。

 

「いつもの人攫いは『テーブルに置いて』と言っても私に手渡しをするけれど……貴方は違うのね。いつかこんな夜が来ることを夢に見て待っていたわ。私はヨセフカ。本物のヨセフカよ」

 

「本物? ほう。じゃあ偽物もいるのか?」

 

「それは赤い月の夜までとっておきましょう。──二〇〇年ぶりの初めまして、ご機嫌よう。貴方の名前を聞かせてほしいわ」

 

「アンタルだ。離反者、アンタル。最後にはそう呼ばれた」

 

「離反者? ウフフ、とっても素敵だわ。異端者と離反者。お似合いね」

 

「イカれた女と一緒なんて願い下げだ。……あ? 待て。待てよ……に、二〇〇年? まさか、お前──」

 

 アンタルは鉄兜のなかで目をみはった。

 ──いったい今がいつなのか。

 ずっと気になっていた年数が、それも思いもしなかった年数を聞いてしまったことが彼の動きを止めた。

 医療者の白い両手は、花が咲くように開いた。

 

「ヤーナム市街へようこそ。まるで現実のおかしな悪夢に囚われてから貴方が初めての訪問者よ」

 

 外にトニトルスの狩人を待たせていることも忘れ、アンタルは呟いた。

 

「悪夢……?」

 

 ──世界には、なんと皮肉なことがあるのだろう。

 

「悪夢が……ここが……もう……?」

 

 よろめく。

 アンタルは周囲を見渡した。

 静寂が支配する診療所。

 血の臭い。薬の臭い。

 何もかも記憶にある現実のヤーナムなのに。

 

「まだ……悪夢なのか……?」

 

 悪夢より這い出てきた古狩人は、事実に体の力が奪われ、冷たい床板に膝をついた。

 

 ──学派は何をやっている。

 ──悪夢?

 ──悪夢ならあるじゃないか。

 ──ずっとずっとここにあったじゃあないか。

 ──とびきり奇怪で、とびきり狂ったヤーナムが!

 

 考えてハッとする。

 そして、アンタルはメンシス学派を頼りにする思考をしてしまった自分を恥じた。

 

 彼らは、まだ十分な瞳を得ていないから分からないのだ。

 悪夢は、もう現実の形をしているということに。

 

「──信じる証拠は」

 

 鋭く問いかける。

 医療者、ヨセフカは告げた。

 

「あと二ヶ月以内に悪夢が眠り、そして、目覚めるわ。分かる? 悪夢は死に、悪夢が生まれ変わるの」

 

「分からん。何が起きる?」

 

「不可逆事象が可逆になるわ。狩人なら、そうね、身近な例では死んだことが『なかった』ことになるわ。──まるで夢を見ていたかのように」

 

「…………」

 

 心当たりがある現象だ。ダミアーンと自分の身の上は、これで説明できる。

 

「な、なぜ、こんなことが起きている!?」

 

 一つの疑問の解決は、複数の疑問を引き起こした。思いつく限り、訊ねた。

 

「怒鳴っても意味はないわ。貴方に拷問が無意味なように、私にも脅迫は無意味だもの。だから情報を交換しましょう。その方が建設的だわ。だから答えましょう。──といっても私も大したことは分かっていないのだけど。『なぜ、こんなことが起きている』のか。──それが今回の悪夢の主の趣味なのでしょう」

 

「ふざけてるのか?」

 

「それは悪夢の主に言ってほしいわ。この二〇〇年とすこし。夜が来るわ。けれど同じ数の朝もやって来る。そうしてほとんど変わり映えのしない一年が続いている」

 

「いま『ほとんど』と言ったな? 変わることがあるのか?」

 

「ええ。今日、貴方が訪れた。この悪夢は時間が進むのを嫌がるのに過去の死人が歩くのは気にならないみたい」

 

「古狩人を集めて何をさせようっていうんだ」

 

「ウフフ。狩人がやることは決まっているでしょう?」

 

 愚問に気付き、アンタルは「ああ」と気まずくなって鉄兜の檻を掻いた。

 

 狩人がいるのだ。

 ならば。

 獣狩りの夜は終わらない。

 





残り2話となりました
 最終的にヤーナム編は42話となりました。
 あと、ほんのちょっとだけお楽しみいただければ幸いです。


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