止まり木
鳥が羽を休めるために備えられたもの。
いかな鳥も飛び続けてはいられない。
休息を得、羽根を休める場所は必要だった。
どんなに血に塗れていようとも。
獣の声が少なくなった市街では風の音ばかりがうるさい。
ヤーナム市街で果たすことはもう数える程しかなかった。
ヤーナムのほぼ中央に位置する大聖堂。階段を登った先では狩人狩りの鴉羽が装束を自らの血で汚していた。
この先の大聖堂に誰がいるか。狩人は繰り返す夜で知っていた。
「──俺がやります。アイリーンさんは休んでいて下さい」
両手で輸血液を握らせると狩人は大聖堂へ向かった。
大聖堂。
血を滴らせた千景を構え、銃を握る敵対者がいた。
「鴉羽は死んだか?」
「まだ生きている。腕の悪い鴉だな」
狩人狩りの狩人、アイリーンは重傷だが輸血液があれば死にはしないだろう。そして、彼に目立った外傷はない。手加減する余裕があったようだ。
敵対者、遙か先の過去において『カインハーストの流血鴉』と呼ばれ、市街の狩人の死の原因となる狩人は千景を持ち上げ、月の光に照らした。
「なぜ鴉羽が来ない?」
まったく滑稽な想像で、記憶も定かではない自分が考えるのは不思議なことに思えることだったが──彼の平坦な声音は、まるで拗ねた子供のように聞こえた。
「ひょっとしたらお前が体を削いだから動けないのかもしれないな」
「ああ。あの鴉羽はいつもそう。脆い。老いた鴉はあのように醜いのだ。実に救い難いな?」
「囀るなよ。あの人はこの夜にあって正しいのだろう。慈悲の心をお前は知らないらしい」
鴉は嗤った。見下し、蔑み、呪っても余りある悪意が刃を濡らした。
「慈悲とは、雨の如く平等に降り注ぐものであるハズだ。だが、あの女は救う者を選ぶ。屍肉喰らいのカラスと同じ。傲慢で卑しい女だ……」
「お前は慈悲が欲しかったのか? アイリーンがお前を殺さなかった理由はひとつ。単純なことだ。──お前は慈悲を施すに値しなかったのだろう」
互いに同時に発砲した銃弾は命中した。
狩人の深く被ったトリコーンは弾け飛び、流血鴉の兜の曲面が甲高い金属音を立てて裂けた。
流血鴉と月の香りの狩人の闘争は、数十分近くの間続いた。互いの肉を削ぎ、骨を砕き、輸血液の生きる力を頼りに殺し合う。それは凄惨極まる狩人の狩りだった。だが、いかなる争いにおいてもいつか決着が着く。
勝敗がついたのは一瞬の出来事だった。
流血鴉の千景が狩人の額を浅く斬りつけた。時を同じく狩人の左手に握られた銃が外套越しに流血鴉の左腕を抉る。体勢を崩した一瞬を逃さず、狩人の手刀がすでに切り裂かれていた流血鴉の腹部に潜り込む、一瞬の出来事で内臓を引き出した。そして体当たりで床に押し倒し、二人は浅い血の池を転がった。
「──お前は誰だ?」
まだ抵抗を試みる流血鴉の右手をしっかりと押さえ、狩人は問いかけた。割れた兜から薄青の鋭い眼光が見つめ返していた。その瞳孔は驚くほど──そして、もうこの街では稀な『正常』を保っていた。流血鴉──彼は血に酔っていないのだ。
「お前は誰だ? クク、フフフ……。お前は誰だ?」
悪戯好きな子供のように鸚鵡返しに訊ねる鴉の声は血で湿り、かすれていた。
「聞いているのは俺だ。お前は、誰だ?」
絶命間近の呼吸が流血鴉の胸を上下させていた。微かな身動き。その呼吸さえ彼の命を縮めている。折れた骨が肺を貫き、腹部の出血は留まるところを知らず、冷ややかな石床に温い血を広げていた。
──もしも、彼にとって死が慈悲だとするのなら。
今まさに死に見えんとするまでの短い時間が彼を変えたのだろうか。
鴉が小さくかすれた声で答えた。
「止まる枝から堕ち、もはや巣に帰ることもない。……私は鴉。今の私は……ただの鴉なのだ」
途切れそうになる呼吸を見守る狩人は、彼がいつの間にか千景を手放していることに気付いた。
「お前は何だ?」
鴉が訊ねた。
いつか見た時と同じカインハーストの湖と同じ青が見つめ返していた。
「俺は……」
狩人は自分の名前を知っている。招待状に書いてあったから知っている。
だが、書かれた名前をヤーナムに来てから一度も舌に乗せたことがなかった。馴染まないのだ。
だからこそ、他者に呼ばれる名を答えた。
「俺は狩人。今の俺は……ただの狩人だ」
「狩人……夢の……新しい、月の香りの、狩人……お前は……私の枝ではない……慈悲ではない……アイリーン、あぁ、アイリーン……どこだ、どこだ……なぜ来ない……?」
──アイリーンが来ないのは、お前が殺し損ねたからだろう。
そんなことを言っても何もかもが手遅れで、もう彼には聞こえていない。
「……あぁ……どこに……どこに……私の、止り木……」
薄い手甲に包まれた指が床に五本の赤い線を引く。
それきり彼は動かなくなった。
■ ■ ■
陰惨な狩りの末。
遙か湖を越え、凍てつく玉座に辿り着いた狩人は、鉄仮面の女性の姿を見据えた。
カインハーストの女王、アンナリーゼ。
処刑隊の長、ローゲリウスにより幽閉の憂き目──当然とも言える──にある彼女は一対の玉座の片方に大儀そうに腰掛け、手すりに腕を預けていた。
「跪きたまえ」
「ご機嫌麗しゅう。血の女王。──以前、女王様は俺に『血族は二人』とおっしゃった気がするが、本当のところ血族は三人だったのでは? あの鴉は血族ではないのですか?」
狩人はそう言って白銀の髪束を女王に差し出した。
「……それは」
「覚えがありますか?」
女王は両手を伸ばし、跪く狩人から銀糸を受け取った。
「ああ、貴公。鴉を狩ったのか」
「お咎め、えーと、さ、され……? さ、され、なさる?」
適切な言葉遣いが分からず、狩人は首を傾げた。
「……。いいや、咎めまい。貴公の質問に答えよう。あれは血族だった。そして去った。『私はもう戻らぬ』と言い遺してな。あの男は夜に心を落としてきたのだろう。私に跪いた後もずっと自らの止り木を探していたが……私は応えることはできなかった。ゆえに血族は今や二人ばかりだ。虜囚の私。狩人の貴公。そう。二人。何も間違えてはいないな」
「ああ、それならば納得だ。女王様が数を間違えたのかと思っていたが……そういうことならば。その遺髪は女王様のお好きなように。不要であれば俺が処分しますが」
「よい。手慰みにしよう」
「…………」
女王はたおやかな指使いで遺髪をくるくると指に巻き付けて遊んでいた。鴉の髪は長かった。首から切っても優に三〇センチはあるのだから長い夜の暇潰しにはよいのかもしれない。
狩人は咳払いをした。
「ああ、貴公、ひょっとして『穢れ』を?」
「いいえ、違います。女王様に俺は結婚の申し込みをしたいのです」
「……! 驚いた。貴公、まさかそのために鴉を……?」
鉄仮面に包まれたアンナリーゼの顔色は分からない。だが声色は、いつもの無気力的な静けさを失っていた。
「いいえ、違います。鴉を殺したのは狩人狩りへの義理のためです。申し訳ない。まったく別件の話だと先に前置きすべきでした。ご容赦を。我が女王」
狩人は懐から小さな箱に収められた指輪を差し出した。
「では仕切り直して。話は変わりますが、女王様。俺と婚約しませんか? 俺と血の誓約を交わし、血の赤子をその手に──」
「貴公は、私を愛してはいないだろう?」
切れ味のよいナイフが飛んできたかのかと思うほどに鋭い言葉だった。
女王の反応はあまりにも『まとも』だ。そのため狩人はまったく想定していなかった。
息が喉に詰まり、指輪を持ったまま固まった。
「お、俺は女王様のことが好きだと思います。きっと愛せると思っています。それではいけませんか?」
「貴公の『まとも』は、程度が低すぎる。会話が出来る女性としばらく話していないから私を求めているのではないか? もう市街には赤い月が昇ったことだろう。正気の者が少ないと以前話していたな?」
「い、いいえ! 決して、そんなことは……! 女王様は、お日柄もよく……いやこれ何か違う、ええと、ええと……あ! 血も魅力的です!」
「フフ、体が目当てなのか? 貴公」
月に照らされ白く輝いて見えるなだらかな肩が、妙に艶めかしい。
狩人は狼狽した。
「おおうっ!? 何を言っているんだ、俺は……! そうではなく、そうではなくて……女王様、どうか意地悪しないで下さい……。貴女はもう十分に待った。もうそろそろ自ら動いてもよい頃合いではありませんか。俺と共に永い夜を一緒に歩き出しませんか?」
「……ほう」
アンナリーゼは興味深そうに言って続きを促した。
「好意はいずれ愛になるでしょう。……それに今宵、計画通りに処刑隊の彼へ招待状を渡します。計画に参加して下さる貴女のご温情に対し、俺は形あるもので報いたいのです」
「貴公、月の香りの狩人。……全ては永い夜のこと。そして古くからの因習による害なのだ。貴公が何もかもに報いる必要はないのだよ」
呼吸の度に肺に突き刺さる冷たい空気が、ほんのわずか和らぐ。そう錯覚するほどに柔らかくアンナリーゼは告げた。
「そもそも処刑隊とカインハーストの縁は我々の問題だ。貴公が招待状を渡したとしてもそれは変わらない。いつか起こりうることを貴公が起こすだけなのだ。……全てに責を負うことはない。報いるための婚姻ならば、私はそれを受け取れない」
──余計なことを言ってしまった。
狩人は、そんな感情をおくびにも出さないように「アンナリーゼ様、アンナリーゼ様」と縋ってみた。どんな獣も神秘の人々も最後には下してきた自分が、ただ一人の女性にたじたじしている状況はもどかしい。そして傍目があれば滑稽だと嗤うことだろう。
「きっと未来で俺は女王様を愛せると思います。永い夜で共に歩める者にこそ特別な証を送りたいのです。そ、それでも……?」
「特別な証などなくとも私は貴公に穢れた血を与えた。……これ以上の首輪が必要かな、貴公?」
「お、お、ぉ……」
殺し文句に戸惑う。言葉に困ってしまい、笑った。どうしようもなく困ると笑ってしまうのは彼の癖だ。
──敗北だ。
狩人は深々と頭を下げて婚姻の指輪を懐にしまいこんだ。
「で、でもアンナリーゼ様、どうか気が変わりましたら──」
「考えておくとしよう」
見苦しく言い募った結果、気のない返事をいただいた。
女王の間の寒さが骨身に沁みる。
最も新しき獣狩りの夜は、最後の周回でもある。
誰を狩ろうと──たとえ赤い月が昇っていたとしても──夜は、まだ終わっていなかった。
流血鴉
本作の鴉羽の騎士様こと流血鴉は、生前に女王様と(少なくとも一度は)面会した経緯があります。彼らの会話もいつか書きたいものです。
ローゲリウス師
Q 鴉が面会する際に女王様の間の前にいるローゲリウスがいると思いますが、それはどうしたんですか?
A 鴉が倒しました。本作のローゲリウス師は周回時にリポップする仕様です。
手慰み
遺髪は現代非魔法族の間では、すっかり絶えそうな文化ですが、カインハーストにはまだあるのでしょう。消費してしまう血よりも永く遺る髪は贈り物として栄えました。
残り1話となりました
明日の更新で3年生分の投稿を完了いたします。※完結ではありません。