甘き夜明けよ、来たれ   作:ノノギギ騎士団

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自らの姿形などを映すもの。
ひとまず前に立つといい。
まずは、己を見ることだ。
それは古くより見つめられることでもある。



みぞの鏡

 ──むしゃくしゃする。

 興奮状態をクルックスは『怒り』なのだと学習した。

 冷静な頭は、どろりと赤く濁る鎮静剤を飲めと主張したが、彼は身を焼く感情に身を委ねて城内を歩き続けていた。

 

 不思議なことにクルックスは、これまで『怒り』という感情を知らなかった。

 

『苛立ち』は『煩わしい』であり、決して『怒り』の領分と接したことが無かった。理不尽がまかり通るヤーナムにおいて培われた彼の精神は、一般に言うところ沸点が高い。これは、彼としばしば接する人物が、特に物分かりが良いか、精神的に成熟あるいは老成した人物である環境の影響が大きかった。

 

『理不尽とは飲み込むべきものであり、逆らうべきはなく、まして理由など探してはいけないのだ』──これを信じることができるのは数刻前までのクルックスであり、彼はついさっき死んだ。

 

 我が身に起きる理不尽ならば、いくらでも許容できる。

 しかし、他者に降りかかる理不尽は許しがたい。許したくない。

 

 クルックスは、ハリー・ポッターの経歴を知っている。

 同級生を知らないのは問題であろうとハーマイオニーに訊ねて『近代魔法史』を読んだから知っているのだ。

 

 彼の両親は、狂人の手にかかり死んだ。

 両親の記憶は薄いだろう。しかし、記憶が無かろうと一生分の辛苦を味わったとして、だから、もう十分ではないか。そんな彼に探索をそそのかすのは、なぜだ。どうしても彼が負わねばならない責なのか。だいたい、何のために? それはどうして?

 

(『特別な生まれ』というものか。くだらん)

 

 犯罪に巻き込まれただけの少年に何の価値があるのか。

 ダンブルドア校長には、彼が特別なものに見えているのだろうか。

 痩せた丸眼鏡の少年の顔を思い出す。クルックスには、やはり分からなかった。

 

(彼には特別な血が流れているとでも? ヤーナムではあるまいに)

 

 無邪気に喜んでいる彼を見ていられず、クルックスは寮を飛び出した。

 大人の作為的な罠に飛び込む彼を説得できるほど、信用されていなければ信頼も無い。

 何より言葉が拙い自分にできるとは思えなかった。

 

「ぐぅ……」

 

 願えば視界のあちこちに虫が見える陰鬱な気分になり、クルックスは廊下の窓から空を見上げた。

 雪空を明るく照らす太陽がある。小さな救いだった。

 

「…………っ」

 

 行儀の悪い舌打ちをした後で、彼はガリガリと頭を掻く。

 今は怒っても仕方が無い。

 ようやく諦めに似た境地に辿り着いた。

 

 クルックスの帯びる使命とは、父の言葉に従い見聞を広めることであり、連盟の同士に報いるため虫を見出して潰すことである。

 それ以外のことに目移りする必要は無いのだ。無いハズなのだ。

 自分に言い聞かせるように、彼は無理やり自分を納得させた。

 学生の身分で校長に楯突くには準備が足りない。客観に立ち返り、認めざるを得ない事実もあった。

 

 その時。

 木製の扉が、キィと鳴る音が聞こえた。

 怒りのまま通り過ぎた扉が開いて、中からクィリナス・クィレル先生が出てきた。彼は『誰か部屋の前を通っただろうか』という顔をしていた。

 カツン、と踵を鳴らし振り返る。それからクルックスは狩人の一礼をした。

 

「クィレル先生、おはようございます」

 

「あっ、ああ、おおお、おはよう、ミスター・ハント」

 

「今朝は晴れましたね。冬とは、雪ばかり降るのかと案じておりましたが、時おり、晴れることもあるのですね」

 

「ええ、きょ今日は、さ散歩には良い日だ。ああ、あ朝から散歩かね?」

 

 いつもよりも激しい吃音に聞こえた。

 しかし、誰も廊下にいない休日では彼の声に集中しやすく、聞き取れた。

 

「はい。俺は常々、廊下の真ん中を歩いてみたいと思っていたのです」

 

「あ、あぁ、も、もし、そそれに飽きていたら、ど、どうかな、お茶など」

 

「……お言葉に甘えさせていただきます」

 

 独りで心を腐らせていても仕方が無い。

 しかも、相手は父たる狩人の頼みを聞き届けた恩人だ。

 クルックスは礼を欠くまいと誘いに乗った。

 

「失礼いたします」

 

 教室に入るとニンニクの強烈な匂いがプンプンと漂っていた。

 授業日でなくとも常にこのような状態だとは思わなかった。

 

「先生、お茶とは香りを楽しむものだと学びました。しばし換気してはいかがでしょう」

 

「あ、ああ、っそそうだね、そう」

 

 クィレル先生が杖を一振りする。

 部屋に数枚ある窓がパッと開いた。

 

 クルックスは勧められるまま席に着いた。

 このまま彼が教壇に立てば、いつもの授業風景になる。

 クィレル先生は、クルックスの隣の席を一席空けて座った。

 

 宙をゆっくり飛ぶティーポットが、やがてクルックスの前のティーカップに紅茶を注いだ。

 

「先生、ありがとうございます。……しかし、俺と話すのは、きっとつまらないし『ため』にならないでしょう」

 

 紅茶の香りは、部屋に染み付いたニンニクの匂いが混ざり異様なものだった。

 だが、カップの温かさがクルックスの心を和らげた。先ほどまで、怒りでささくれた心だった。

 

「ななぜ、きみは、そそ、そんなことを言うのかな」

 

「俺は、あまり人付合いが上手くできないんです。グリフィンドールの生徒はみな優しいので俺に声をかけてくれるだけで、俺から声をかけることは、ほとんどありません。人と話をするためには、まず互いに一定の知識が必要です。俺は、魔法族出身が持つ常識も非魔法族出身が持つ常識も欠けているのです。だから、うまく会話ができません」

 

「きき君は明晰に、はは話すこともできるのに」

 

 クルックスは、困ってしまい、ただ笑った。

 つられたようにクィレル先生も笑った。口の端がぴくぴくと動くことを笑いと呼ぶならば、だが。

 

「……質問してもよろしいですか。先生は、どうしてヤーナムに来たのですか?」

 

「わ私は、昔本を、よ読んでいつか来てみたいと思ったんです」

 

「どんな本だったか覚えていますか? ヤーナムは……先生もお分かりでしょう。人から遠ざけられた街です。そんなところに先生のような、立場のある立派な方が来たのが、本当に意外だと思っていたんです」

 

「さ、さあもうずっと古い、む、昔の本だったので……」

 

「思い出したら教えてください。お父様もきっと気がかりにしています。ヤーナムの存在が外に知られることを好ましいとは思いません。あそこは本来、閉ざされているべき場所なのです。しかし……永遠にあのままでは立ち行かないでしょう」

 

 クルックスにとってはあたりまえのことだが、父たる狩人は、上位者だ。

 彼は、一年を二〇〇年以上続けることに、いったい何の意味を見出しているのか。クルックスはじめ、仔らには分からない。彼は、ヤーナムの人間社会に積極的に介入していないようなのだ。現在、実生活における狩人は『狩人』の思考範囲で動いているように見えるが、これさえ上位者の『気まぐれ』かもしれない。

 いずれは外と交わる機会がやってくるだろう。これが何百年先か、千年先か。誰にも分からない。

 

「けれど、先生、マグル学の教授でもあった先生ならば……これからの魔法族の行く末も見通せるのでしょうか?」

 

「ま、魔法族の安泰は、こ、こ、今後とて、ゆ、揺るがないでしょう」

 

 彼はそう言うが、不思議なことに彼自身がそれを信じていないような口ぶりだった。

 だから、さらに問いかけた。

 

「蒸気機関、ガソリン──俺は、詳しくありませんが、エネルギー分野の非魔法族の進歩は著しいものです。『世界大戦』でしたか。たった半世紀前であっても、多くの屍を築いたそうですね。それでも、なのですか?」

 

「融和的交渉は、まま、『魔法族が』できないでしょう」

 

 ひたり。事実は体の温度を下げた。声音が冷たい。

 しかし、これまで彼が発した言葉のなかで最も信用に値する言葉のように聞こえた。

 

「なる、ほど。魔法族の構造的あるいは伝統的に難しいという意味ですね? 我々は、やはりもっと学ばなければならないのですね。先生」

 

「え、ええ、ええ」

 

「取るべき手段が多ければ多いほど良い。理解できた者ができなかった者を滅ぼす。よくあることです」

 

 獣と対峙する場合もそうだ。肉体の可動範囲と瞬発力を読み切り、先手を封じた者が勝つ。

 それが族の規模で行われていると考えれば、群体であろうとも理屈は成り立ちそうだ。

 

「ヤーナムの、おおお、君のお父様は、お、お元気、ですか」

 

「はい。元気です。今朝、クリスマス・プレゼントにマフラーを……何も返せないのが、心苦しいです」

 

「き、君が風邪をひ、ひかずにいれば、そ、それだけで、きっと、いいと、か、考えたほうがよいのではないかな?」

 

 彼の言葉は後半になるにしたがって早口言葉のように絡まった。

 けれど、彼の言う考えはこれまでクルックスには無かったものだ。

 

「それは、きっと、良い考えですね……」

 

 その一言は、クルックスの荒んだ心を大いに和らげるものだった。

 仔の身を案じる一般的な父親像が、彼にはとても尊いものに思えたのだ。

 お茶はいつの間にか空になっていた。

 

「……ミ、ミス・コーラス=Bへ、チョコの礼を伝えていただけませんか。わ、わたしは彼女からプレゼントをもらって、しまって」

 

「テルミが? それは、あ、いいえ、受け取っていただきありがとうございます。こちらから礼をすべきことです。彼女には俺から伝えておきます。紅茶、美味しかったです。いつかまた──」

 

 お話をしたいです。

 思わず願いそうになるクルックスは、引き攣る彼の顔を見て考えを改めた。

 今日のこの出来事も彼は無理をしているように見えたのだ。

 

「そ、そろそろ、朝食っの、じじ、時間だ、よ、呼び止めて、すすまなかったねね」

 

「いいえ、お気遣いありがとうございました。ご用があればいつでもお呼びください。クィレル先生。……礼を忘れはしませんので」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 大広間に向かった。

 いつも生徒が多く滞在しているそこに日頃の雰囲気は無い。まばらに座る人がいるのみで寮の長テーブルが、やけに広く長く感じられた。

 しかし、風景は豪華絢爛だ。どうやって維持しているのか見当もつかない霜に輝くクリスマス・ツリーが何本も立ち並び、ヒイラギとヤドリギの小枝が天井を縫うように飾られ、天井から暖かく乾いた雪がふっていた。

 

 教員テーブルを見ると、すでにマクゴナガル先生は椅子に座っていた。そっと目礼したところ、彼女は美しい微笑をたたえ、ひらひらと指を振った。クリスマスというものは厳粛な女性の心さえ柔らかにするものらしい。

 

 席に座ると間もなく、入り口にセラフィが現れた。

 ブラウスにベスト、首には白いジャボ。瞳の色と同じ琥珀色の小さなを飾りを襟首に巻いている。ストライプズボンに編み上げブーツを履いた、彼女にしてはラフな格好だ。

 彼女は大広間に入るなり、クルックスがそうしたように、足を止めて辺りを見回した。何も言わずとも彼女の言いたいことは分かる。生徒の数が少ないな、と思っているに違いない。そして、呆れてもいるはずだ。

 

 そのうちハリーやロン、ウィーズリー兄弟がやってきた。一団はお揃いのセーターを着ている。

 

(お揃いの物。装束は所属を現わす。ならば、それを着るのは家系の誇示……いや、そこまで考えて無さそうである)

 

 貰ったプレゼントの話に耳を傾けていると、教員テーブルでダンブルドア校長が隣のマクゴナガル先生へ話しかけた。それにひとつ頷く女史がグラスを鳴らした。

 

「──生徒の皆さん。先生も。おはようございます。さっそくですが、皆さん立って、中央のテーブルに移動してください。生徒も先生も数が少ないですからね。寮テーブルを使うまでも無いでしょう」

 

 それはそうだな、とハッフルパフの生徒二人やスリザリンのセラフィが立ち上がる。レイブンクローの生徒で着席している者は誰もいなかった。

 皆が腰を上げると、ダンブルドア校長が杖を振った。教員と三寮のテーブルは大広間の壁に立てかけられ、代わりに中央に近いグリフィンドールのテーブルが中央におかれた。

 

 皆が思い思いのところに座ったが、セラフィは皆が着席するのを待っていた。グリフィンドールの生徒は皆スリザリンを嫌っていることを彼女はもちろん知っているのだ。

 

「レディ、俺の隣に座ってくれないか。今日は、慈しみに溢れた美しい日だという。望める限りの美しいものを見ていたい」

 

「おや。僕を佳き日の添え物にするつもりかな」

 

 だが、セラフィは素直に誘いに乗ってくれた。

 今日が祭日であるのならば『望める限り』気心の知れた人々と過ごしたい。クルックスの小さな願いを彼女は叶えてくれるようだった。 

 

「そうすべき日だという。異郷の異教者でさえ慣習に従うべきなのだ。君はグラスに映る己の顔を眺めていれば良い」

 

「まぁ。対面のわたしでは足りないのね」

 

 ウィーズリー家の双子のどちらかの隣に座った──クルックスの対面にいるテルミは口を尖らせた。もちろん、これが冗談の類だと知っている。

 

「貴公と愉しむために必要なものは目ではなく、よく動く舌だろう」

 

「それもそうね。良いことを言うわ」

 

「──ハッフルパフの話好きカナリアだろう、君」

 

 ジョージが、ニヤッとしてテルミに話しかけた。

 

「あら。そういうあなたは、悪戯好きの双子さん、の、どちらかしら? あぁ、四人きょうだいは見慣れているけれど、双子を初めてみたの。お許しなさって?」

 

「僕がグレッド」

 

「僕がフォージさ」

 

 二人が代わる代わる言う。

 正直なところ、クルックスは双子のどちらがフレッドとジョージなのか分からない。

 しかし、テルミは違ったようだ。

 

「こちらの精悍なお顔がジョージ、そちらの鼻筋立ったお顔がフレッドかしら」

 

 フレッドかジョージのどちらかがヒューッと口笛を吹いて、手を叩いた。どうやら正解したらしい。彼らの歓談は続く。

 

「ねぇ、クルックス。君は、ナイトとはどんな関係なの? ほら、オリバンダーの店でも一緒だっただろう?」

 

「……と、遠い親戚だ」

 

 そういえば、オリバンダーへ杖を購入しに行った際に彼と出会っている。

 偶然出会ったという言い訳は、できそうにない雰囲気だった。そして思う。遠い親戚とは便利な言葉だ。真実ではないが、嘘でもない。隠すほどのことではあるまい。

 

「コーラスも?」

 

 ハーマイオニーから聞いたのだろうか。

 ハリーが訊ねるとテルミは頷いた。

 

「ええ。そうよ。似ていないでしょう?」

 

 ハリーが頷いた。彼が再び問いかけようとしたその時。

 最後の在校生が、大広間に入るなり足を止めた。

 

 学徒の正装に身を包み、メンシスの檻を被っているネフライトは、教員も生徒もひとつのテーブルに集っていること、そして自分が最後に着席する事態であることに気付き、今から引き返そうかどうか無言のうちに考えているようであった。

 彼の足がピクリと動く前に、フィリウス・フリットウィック先生が高い声を上げて手を振った。

 

「ミスター・メンシス! 待っていましたよ。さあ、こちらの席へ」

 

「……ありがとう、ございます」

 

 彼は、ちっとも嬉しくなさそうに言った。

 帰る機会を逸してしまったネフライトは、渋々というように檻を頭から外すと杖で叩いた。それは、パッと消えた。マクゴナガル先生がハッと息を呑む音が聞こえた。

 

「見事な消失呪文ですよ、ミスター・メンシス。……。上級生から教わったのですか?」

 

 マクゴナガル先生にしては珍しいことに問いかけには、わずかな沈黙があった。その後の訊ねた内容は、彼女も愚問であると分かっているのだろう。

 ネフライトは授業で指名された時分以外は、ほとんど誰とも話さず、没交渉な生活を送っているのは教員の間でも知られた話だ。

 ネフライトは教員と生徒の席の狭間に座った。

 

「いいえ。マクゴナガル先生。図書館にある呪文集を読んでいました。呪文とは、現象を固定化する針であり鍵です。解が明確である以上、呪文を唱える過程は必要では無い、という理解をいたしました」

 

「ええ。そうです。無言呪文は六年生で学ぶ内容ですが。それは、あらゆる呪文の基本となる、良い理解です」

 

 ネフライトは、彼なりの愛想笑いであろう、薄く口を開き頭を小さく傾けるように揺らした。

 

「ありがとうございます。──先生、変身術の本を読んでいて、いくつか疑問がありました。変態する体内は、どのような処理が行われているのでしょうか。例えば、先生は『動物もどき』でいらっしゃるが、その間、人間から猫へ至る、また逆の過程において人間から猫への変質は生体内の形成が──」

 

 彼は、席に座ると周囲の先生へ疑問のことを話し始めた。それは単純な興味であったり、魔法族そのものの思考を問うような内容であったりした。ロンをはじめウィーズリー兄弟は、ガリ勉であるパーシーを除いて、その話をうんざりとした顔で聞いていた。

 

「僕、アイツがまともな言葉を話しているの初めて見たよ」

 

 まるで不吉な黒猫が喋った様子を見てしまった、とでも言いたげにロンが言う。

 そのヒソヒソ声を聞いたハリーが慌てて、唇に指をあてる。そして、クルックスを見た。

 

「ロン、ちょっと……!」

 

「気にしなくていい。彼が変わり者であることは俺も認めるところだ。見ての通り、悪いヤツではない。そう邪見にして欲しくはないが、まぁ、奇妙だと思う気持ちは分かる。分かるぞ」

 

 全員が席に着いたところで目の前に金色の皿が現れた。

 間もなく、食事は始まった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「……!」

 

 ハリーにとってこれまでのクリスマスは、苦い思い出しかなかった。

 たくさんの大きなクリスマスプレゼントをもらうダドリーを「羨ましい」とも言えずに見ていた。本当は、プレゼントが欲しかったし、美味しい物をお腹いっぱいに食べてみたかった。

 

 今日は、その夢がいっぺんに叶ったような気分だった。

 

 誰が贈って来たのか分からないが、ロンが羨むほどの価値があるマント。

 そして、目の前には素晴らしいクリスマスのごちそうだ。

 隣に座るロンも驚いている。

 さっそく大皿に乗ったチポラータ・ソーセージを取りよせた。

 

 斜め向かいに座るテルミが食器に手を伸ばさない。食べないのだろうか。見やると両手を合せて祈りを捧げていた。同じように祈りを捧げている者はもうひとりいた。ネフライトだ。

 

「──異教の祭日が、我らの血の糧とならんことを」

 

 テルミが両手を合せて祈りを捧げている。

 最後の句を終えたのだろうか。彼女はようやくナイフとフォークを持った。

 

「敬虔なことだ。感心しているのだよ、俺はな」

 

 七面鳥を解体しながらクルックスは言う。

 食欲より好奇心が勝っているらしい。ナイフをまるでメスのように使って肉と骨を分けている。フフッと鼻で笑う様子は、彼にしては楽し気だった。

 

「わたしが聖職者だということ忘れがちよね、貴公。さ、食べちゃうぞー! クルックス、そのローストポテト取ってちょうだいっ」

 

「うむ。うまいぞ」

 

 彼は手を拭うとローストポテトを山盛りにした皿をテルミの前に置いた。

 

「……え。こんなに要らない」

 

「半分、僕によこしたまえ。クルックス、加減しろ」

 

「はあ? 小食なのだな。祭日だというのに」

 

 クルックスが選り分けた肉ではなく骨から食べ始めたのには驚いた。バリバリと食べている。

 ハリーが、かぼちゃジュースを飲んでいるとふと気になったのか。彼はテーブルを見回した。

 

「葡萄酒は無いのか。クリスマスには付き物なのだろう?」

 

「驚くべきことに、どうやら子供は酒を飲んではいけないらしいぞ」

 

「そんな決まりごとがあるのか。それは校則か?」

 

「魔法使いもマグルでも同じだよ! つまり、法律って意味だけど」

 

 聞いていられなくなり、ハリーは口をはさんだ。

 ハリーでさえ知る常識を彼は知らなかった。

 それどころか。

 

「法律……?」

 

「だから国で定めた法だよ」

 

「国……?」

 

 ハリーは、隣に座る彼がいよいよ心配になってきてしまった。

 彼は何を見て育ったのだろうか。

 ンン、とテルミが頬を染めて咳払いをした。

 

「クルックス、わたし達まで世間知らずだと思われるから質問は後にしてちょうだい」

 

「分かった。しかし、つまらんな。味見してみたかったのだが」

 

 かぼちゃジュースを面白味が無いと一息に飲み干した。

 バター煮豆を掬っていたセラフィが、彼のために追加のかぼちゃジュースをグラスに注いだ。

 

「どうせ酔えないだろう」

 

「好奇心の問題だ。そうだ、セラフィは飲んだことあるか?」

 

「ある。特筆すべきことは無かったような。葡萄を潰した匂いと皮の酸味、それからアルコール。あとは、腹が熱くなるくらいだった」

 

「……お貴族様の御用達とあれば、さぞ美味だったろうな。ククッ」

 

 クルックスが、喉を鳴らして笑った。

 小さく呟いたことは隣のセラフィ、そして思いがけず聞いてしまったハリーにしか聞こえなかったことだろう。

 

「ハリー! 引いてみなよ!」

 

 ニコニコしたロンにズイと差し出しされたのは、クラッカーだ。

 フレッドと一緒にクラッカーの紐を引っ張った。

 

 大砲のような音が響き、青い煙がもくもくと周りに立ち込め、中からは海軍少将の帽子と生きた二十日鼠が数匹飛び出した。なかでも小さな鼠はテーブルを駆けていった。

 

「あら」

 

 煙に紛れて、テーブルを叩く音が聞こえた。

 ケホケホと咳き込みながら煙を掻き分けると険しい顔をしたクルックスがこちらを見ていた。

 

「大きな音を出すなら先に言ってくれ」

 

「ごめんごめん。こんな音がするとは、思わなくて!」

 

 ただし、フレッドは分かっていた風である。帽子を被り、カラカラと笑っていた。

 

「カトラリーが汚れてしまったな」

 

 テーブルを見るとナイフやフォークに刺された鼠が転がっていた。クルックスだけではない。テルミやセラフィの周りにもそれらはあった。魔法で造られたそれはフッと眩暈のように消えてしまったが、ハリーはその姿にドキリとして顔を強張らせた。

 

「いけない、いけない。爆発音もそうだが、鼠を見ると反射的に体が動く」

 

「食事くらい落ち着いて食べたいところだ」

 

「祭日の戯れなのでしょう。そう深刻な顔しないでね? ほら、七面鳥が冷めちゃうわ。クルックス、食べてしまって」

 

「む……」

 

 テルミが甘くクルックスに促す。彼は、黙々と食べ始めた。

 テルミだけが平然と隣のジョージと話を続けていた。

 教員が多く座る側でクラッカーの音が鳴る度に彼がナイフを握りしめる様子が見えた。

 

「……やっぱり、変なヤツだよな」

 

 ロンがこっそり、ハリーの耳元で言う。ハリーもそう思った。

 

 それからは、できるだけ彼のことを忘れてハリーは食事を楽しんだ。七面鳥を食べ終えたらブランデーでフランベしたプディングが出てきた。その一切れにシックル銀貨が入っていたので、歯が折れそうになったこともいつか愉快な思い出になるだろう。

 ハリーが席を立つ頃、クラッカーのおまけを腕いっぱいに抱えていた。

 

「クルックス、どれか欲しいのある? 置いていくけど」

 

「いいや、結構だ……悪いが」

 

 いちおう聞いたが、結果は分かりきっていた。

 彼も問われた以上は、おまけに目を留めたが、ほとんど用途が分からなかったのだろう。困ったように言った。 

 ハリーは、葡萄酒で顔を赤くしているハグリッドといつもより柔らかな顔をしているマクゴナガル先生に挨拶するとテーブルを離れた。

 

「じゃあ、お先に」

 

 クルックスは、ひらりと右手を挙げた。彼は、テーブルの上にある物をまだ食べ続けていた。

 テルミだけは、ジョージとフレッドと話しながら先にどこかへ行ってしまった。

 

「よっぽど貧乏なんだろうな。もうテーブルだって食べちゃう勢いだよ」

 

「育ちは悪くなさそうだけどね」

 

 クルックスが礼儀正しい人物であることは、知っている。

 けれど礼儀正しい貧乏が存在するのだろうか。ハリーは不思議に思った。

 だが、すぐに忘れることになる。最高のクリスマスを同級生の些細な謎に邪魔をされたくなかったのだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「苦労するな」

 

「あ? なんだ、バカにして」

 

「バカになどしていない。努力のあとは見えるからな」

 

 バタービールを傾けながら、セラフィが言った。

 クルックスは、ようやくハリーやロン、そしてウィーズリー兄弟がいなくなったことにホッとしていた。短時間ならばともかく、長い時間彼らと一緒にいると馴染めないことが気になって、自分の口数は普段より少なくなってしまうらしい。

 

 広間は、いよいよ閑散とし始めた。

 まず酒の入ったハグリッドが帰り、それから同じくシェリー酒などが入った教員の何名かも帰ったようだ。

 生徒はクルックスとセラフィ、そしてネフライトしかいない。

 

「ミスター・ハント、ミス・ナイト。まだ食べるのであれば、こちらにおいでなさい」

 

 すこし離れた席からマクゴナガル先生が呼んだ。酒を飲みつつ食べていた教員席の周辺では、未だ手つかずの料理があるようだ。

 セラフィと共にネフライトに近い席に座る。

 

「ありがとうございます。──ネフ、食べているか?」

 

「見ての通りだ」

 

 彼も──彼にしては──かなり食べたのだろう。

 いくつかの深皿が空になっていた。

 

「おや、七面鳥がまだある」

 

「百羽用意したのでな。厨房で渋滞をおこしているじゃろう」

 

「百……」

 

 時間さえあれば十羽食べられるクルックスにとって、なぜか婦人用の帽子を被っているが──校長のひとことは良い報告だった。

 

「僕は、煮豆がいい。手軽で美味しい」

 

「バターがしつこくないか? まあ、旨いが」

 

「貴公ら、バタービールを拝領したまえよ」

 

 ドンッとおかれたバタービールをセラフィが一本取った。

 そういえば。

 ネフライトの周りにはバタービールの空き瓶がダースで置いてあった。彼は、よほど気に入ったらしい。

 

「──ネフ、ひょっとして酔えるのか?」

 

「酔えないが美味しいと思う。つい飲んでしまう。……私達には、やはりアルコールは効かないようだよ」

 

「そうか。まあ、そういうこともあるか」

 

 クルックスは、七面鳥の解体に勤しんだ。

 セラフィがレンズ豆をスプーンの裏で潰しながら聞いた。

 

「ネフ、寮に帰らないのか?」

 

「なんだ帰ってほしいのか?」

 

 ムッとした顔でセラフィを見つめた彼は、バタービールを一口で半グラス飲んだ。

 

「珍しいと思っただけだ。我らには、団欒の時間が必要だ。研究成果も聞きたい」

 

「意外だな。貴公、興味が無いのだと思っていた」

 

『きょうだい会議』において、ネフライトの報告をいつも眠たげに聞いているセラフィが「研究成果を聞きたい」と言うのは、彼の言う通り意外だ。意表を突かれた顔をしている。

 

「ああ、興味など無いとも。だが、貴人には娯楽が必要だ。享楽を独占するのは貴族の嗜みらしいのでね。僕には、よく分からないことだが知っておくべきだろう」

 

「そういうことか。まったく……。知識の結実を娯楽で消費するんじゃない。だが、共通認識は大事だとも」

 

 ネフライトは食事を終えたようだが、クルックスやセラフィがいるためこの広間に留まるようだ。

 彼は、杖を振る。メンシスの檻が現れた。

 

「被るのか」

 

「当たり前だろう」

 

「ふむ」

 

 彼は重々しい檻を被り、持ち込んだ羊皮紙を広げた。

 レイブンクローの寮監であるフリットウィック先生が、ネフライトの名前を呼んだ。

 

「ミスター・メンシス、以前より気になっていたのだが、その檻は何なのかね?」

 

 彼の疑問は、多くの教員の疑問でもあったようだ。

 耳目がネフライトの次の言葉に集中するのが分かった。

 彼は六角柱の檻に触れて説明した。

 

「これはメンシスの檻。我ら、メンシス学派の信徒が意志を律し、また俗世に対する客観を得る装置です。……皆さまの感覚で言うところの制服、その帽子です」

 

「君は、そこの生徒なのかね?」

 

「いいえ。メンシス学派は研究機関であり、教育機関ではありません。師弟関係はありますが、それは一個人の私的感情の枠を越えないものです。私は、学派の構成員であり学派付の使用人……のようなものです。私の姓がメンシスであるのも、メンシス学派に由来する者であるからそのように名乗っているだけです。ヤーナムの地において、私の姓はありません」

 

 ネフライトの説明に、興味を惹かれた顔をしているのは三人に馴染みのない先生だった。

 チャリティ・バーベッジ。三年次からの選択科目であるマグル学の教授だ。

 

「研究機関とは何の?」

 

「ヤーナムの風土病です。古くからの民間療法の弊害でヤーナムには奇病が蔓延しています。その解決のため尽力しています」

 

 クルックスは無心に七面鳥を解体し、セラフィは豆を食べていた。

 ネフライトの言葉は、嘘ではない。真実のごく一部ではある。

 

 古くからの民間療法。──つまり、血の医療。

 その弊害と奇病。──つまり、獣に変態してしまうこと。

 解決。──つまり、上位者に瞳を願い、高次元的視座を手に入れることで自らを客観視し獣性を抑えること。あるいは、獣となっても思考を維持するため上位者と首を挿げ替えること。

 

 メンシス学派の方針は、父たる狩人曰く「方向性は悪くない。むしろヤーナム広し深しといえど、前向きで評価できると思う。学長、ウィレームは嘆くだろうが。犠牲が大きすぎるのが残念だ」というものらしい。

 ネフライトが省略した説明は、どれもこれも彼らには理解されないだろう。

 ならば最初から奇病と紹介してしまうほうが良い。病の地だと知れば、近づく者はいないだろうから。

 

「──風土病と言っても、私達から皆さまに感染する類ではありませんからご心配なく。また、私達の故郷はヤーナムの地ですが、そのヤーナムにとって私達は異邦者です。私は学派の下働きであり、古い内実を知るほど馴染んではいないので詳しいことは分かりません」

 

 普通の先生ならば、説明はこれで終わった。

 現にバーベッジ先生は感心したように頷き、興味をひっこめた。

 だが、ほんのすこし論理的思考を持ってネフライトの説明を並べれば、納得できない者もいるだろう。

 例えば、顰め面でずっと食事をしていたセブルス・スネイプ先生などは、その典型だった。

 

「──客観性を得る檻と病。そこにどんな関係があるのかね?」

 

「ヤーナムの伝統として、探求と医療、哲学の三位は同一のものなのです。ゆえに、この檻は学派の理念を表現します。常に己を律し、客観する……という。皆さまが祭典の時に被る帽子にも、恐らく意味があるのですよね。それと同じです」

 

 スネイプ先生は、まだ何か言いたげにしていたが、ひとまず意見の収まりどころを得たらしい。

 ひとつ。

 呼吸を置いた後で、婦人帽をかぶるダンブルドア校長が訊ねた。

 

「ヤーナムが、秘匿されていることを君達は知っているのかね?」

 

「いいえ。私達は、ヤーナムの外に出たことがありませんから。知りませんでしたね」

 

 フリットフィック先生が不思議そうに言った。

 

「クィレル先生から聞いた時は、本当に驚いた! なんせ魔法省は魔法使いと魔女の登録を行い、大まかだが、居場所の把握ができる。だから古い街とはいえ『見落とす』なんてことは、ありえないハズなのだ。誰か魔法使いがいるのかね? 秘匿している魔法使いが……」

 

「魔法使いですか。いるのかもしれません。いないのかもしれません。少なくとも私は存じません。学派には存在しないことでしょう。けれど、秘匿など……先生は、大袈裟なことをおっしゃる」

 

 ネフライトは面白い冗談を聞いた、というように笑いかけた。

 やはり、薄く口を開けるだけの所作が彼の笑みだと知っていれば、だが。

 

「ヤーナムは、今、この現在において隠されてなどいません。辿り着ける者だけが、辿り着けるだけなのです。魔法族も非魔法族も、かつてはヤーナムへ至れる瞳を持っていたでしょうに、いつの間にか失ってしまった」

 

「では。なぜ、そんな仕組みになっているのかね?」

 

「……。分かりかねます。ご質問に答えられず、心苦しいところですが」

 

 議論の終わりが見えた。

 シェリー酒を傾けたダンブルドア校長が、問いかけた。

 

「ヤーナムは、現在、誰が統治しているのかね?」

 

「神です」

 

 クルックスは、相変わらず七面鳥をバラしていたが彼がどのような表情でそれを言ったか気になったので顔を上げた。

 いつものように事実を告げる、静かな顔をしていた。

 

「──そうなのかね?」

 

「え。うーむ……?」

 

 ダンブルドア校長の言葉に、クルックスはわずかに言葉を詰まらせた。

 考えたこともなかったからだ。

 唸っているとセラフィがサラリと議論を持っていった。

 

「いいえ、女王です。本来は領主である王が統治すべきところを教会が地権を巡り紛糾し、結果、簒奪しました。ゆえに本来の統治者は女王です」

 

「セ、セラフィ! 何百年前の話をしている──」

 

 そう言いながら、クルックスは時系列の整理ができなくなっていた。

 

(待てよ? 処刑隊がカインハーストに踏み入ったのは何年前なのだろう? お父様の時代には既にカインハーストは廃城であったと言う。ならば『獣狩りの夜』を起点に考えて数年から半世紀前? 一世紀前まで遡るか? しかし、処刑隊のアルフレートさんは、まるで見ていたように語ったと言う。ならば数十年前? しかし、地権で争ったならば遺跡の発掘調査に関わることだろう。ならばビルゲンワースが栄えていた、もっと古い時代で……?)

 

 ハッとしてクルックスは、セラフィへ向き直った。

 

「待て待て、現在の話をしているのだろう」

 

「だから現在の話をしているのだ。何百年前であろうと正統性が変わるものか。正統性とは、それだけが正統であるから、正統性と呼ぶのだ」

 

 その理論は一見したところ、それこそ『正統性』を持つように感じられた。

 振り返ることができないが、ダンブルドア校長がじっと見つめているような感覚があり、クルックスはセラフィを急かした。

 

「現状に則したことを話せ。この辺りは歴史を繙くと、何というか、ややこしい話だろう」

 

「その論ならば、教区長となる。ひいては、やはり神だ。……ああ、そうとも。実態がどうであれ、な」

 

 渋々といった顔でセラフィは、引き下がった。

 ネフライトも訂正しないところをみるとこれが正答で良いとしているようだ。

 

「無遠慮にも、繊細な問題を聞いてしまったようじゃの。失礼した」

 

 クルックスは、政治と宗教の話は歓談の場に適さないことを学習した。

 そして、同時に。それを口に出した彼の意図を理解した。

 興味に任せてヤーナムの内情を知りたかったのだろう。探りを入れられたのだ。

 

「いいえ、校長先生。事物の明確さを注視せず、時代錯誤な王に仕えている者がどうかしているのです」

 

「黙りたまえよ、ネフライト・メンシス。貴様の失言の数だけ、学派の首を減らす。夜闇に怯えたくないだろう」

 

「セラフィ、やめろ。ネフ、挑発するな。せめて場を弁えてくれ。ヤーナムが文化的に遅れていることを俺は認めたくないんだから」

 

「──さっさと食べ終われよ、クルックス」

 

 セラフィを諫めるつもりが手痛い反撃を食らい、クルックスは唸った。

 たった今、三羽目の解体を始めたところだったのだ。

 

「ど、どれだけ食べても、いいだろ、祭日なんだから……」

 

 校長が、ひとつ手を叩いて陰鬱なヤーナムに関わる話題を終わらせた。

 それから、一年分の七面鳥を食べたクルックスは談話室へ戻る予定だったが、どうしてもセラフィが気にかかり、姿を探した。

 

 外で雪合戦をするウィーズリー兄弟とハリーの遥か後方、禁じられた森の端を散歩しているところを見かけたクルックスは、談話室に置いたマフラーを巻いて外へ飛び出した。

 

「セラフィ、先ほどのことは──」

 

「芝居だ。うまくやっただろう。僕達は」

 

「は、は。え?」

 

 声をかけるなり、彼女は白い息を吐いた。

 クルックスは、緊張を解いてもよいものかどうか迷い、手を伸ばしたまま動きを止めた。

 

「校長はヤーナムのことを知りたいのだろう。なぜかは知らんが。だから、お望み通り真実らしき、分かりやすい対立構造を説明した。教会と地元貴族の確執。時代遅れの呪われた、しかも病んだ土地だと。それ以上の説明が必要かね」

 

「いいや……十分だ……なんだ。ああ、良かった。本気ではなかったのだな……」

 

 クルックスは、心底安心した。

 セラフィは、再び歩き出した。

 だが血の通わない冷たい顔をしている。

 これがカインハーストに仕える者の顔だとクルックスは感じた。

 

「それはそれとして、ネフに伝えよ。打合せよりも一言多かった。学派の腐れ脳みそを守りたくば言葉に気を付けろ。僕をこの学校で女王の名誉のために働かせるな」

 

「伝える。しっかりと伝える。約束しよう。だが、その、彼の名誉のために……。彼は心配症だ。話題の展開をみて、念には念を押したかったのだろう。どうか俺に免じて許してほしい。俺だって、知らされていなかったナリに良い反応をしただろう?」

 

 引き下がらず言ってみるもので、セラフィは緑色の色違いのマフラー、狩人の徴を撫でると森の端を道なりに去った。

 彼女は、何も言わない。これは不問にしたと受け取った。

 

 ふぅ、と溜息を吐く。

 

 空を見上げれば青い空はどこにも見えなかった。ただ、真っ白な雪雲が空をどこまでも覆っていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 遭遇と邂逅はよく似た言葉である。

 クルックスの頭は、まったく明後日のことを考えていた。

 どちらも思いがけず出会ってしまうことならば『遭遇』を不幸、『邂逅』を幸福と呼びたい。

 四階の廊下ばかりにこだわらず、城内を探索しなければならないと思い立ち、彼は歩いていた。

 

 その部屋を見つけたのは──無機物に対して言うには不適切かもしれない──遭遇だった。

 そして鏡を見つけたのは──これも無機物に対しては不適切かもしれない──邂逅だった。

 

 最初は、ただの姿見だと思った。

 狩人の夢に安置されている鏡は、くすんでいる。しかも顔が見える場所が割れているから役に立たない。けれど、それが姿見という名前の鏡台の一種であると知っていたクルックスは、この鏡も同じような代物だと思ったのだ。

 だが、認識は誤りだった。

 

「は?」

 

 鏡に映ったのは、自分──だけではなかった。

 背中合わせに父たる狩人が立っている。右手にはノコギリ鉈を持ち、左手には獣狩りの散弾銃を握っている。

 

 クルックスは、慌てて振り返る。誰もいない。

 しかし。再び鏡を見つめる。そこには、狩人の姿がある。

 

「……?」

 

 鏡に触れてみる。硬質な鏡面に指先が当たった。

 金の装飾豊かな枠──その上部に文字が彫ってある。鏡文字で書かれたそれによるとこれは『かお ではなく こころを うつす』とある。

 

「心……? 俺の、望み……?」

 

 これが、俺の望みなのか。

 ──ああ、そうだ。彼の相棒になりたいと望んだではないか。

 理解した時、クルックスは鏡に映る自分の顔がひどく強張り、そして怒りに歪んだのを見た。

 

「違う。違う違う。違う。違うだろう。違う。別のものを見せろ。俺は、俺の望みはこれだけではないだろう。清潔なヤーナムを! 虫のいない世界を見せろ!」

 

 果たして。

 鏡は、クルックスの次の望みを見せることはなかった。

 

 役立たずを一思いに割ってしまおうと破壊的な衝動に駆られたが、下手人の特定が容易であることに気付き、諦めた。

 彼はこの出会いを不運なものだったと決めつけて、忘れることにした。

 

 怒りに任せて談話室に戻り、暖炉のそばに置かれた上等なソファーに寝転ぶと目を閉じた。

 耳を澄ませば、乾いた薪が爆ぜる音と訪れたことのない海の波音が聞こえた。

 

(ままならない……どこもかしこも、誰も彼もが、ままならないことばかりだ……。俺が愚かだから、こうも手詰まりを感じてしまうのか? それとも、この状況が最初から……)

 

 考えることも嫌になり、溜息を吐いた。首に巻いたままだったマフラーに鼻先を埋める。

 今は狩人の持つオルゴールの音が無性に聞きたかった。

 狩人が大切にしている、誰かの思い出の品だというオルゴール。

 

 その音楽は、子守唄であるという。

 眠らない狩人に、わずかの間、微睡を与える。

 あの音が聞こえている間は、工房に近寄らず、工房にいても仕事をしないことが暗黙の了解となっていた。

 

 目を閉じて、脳を揺らす音に耳を傾ける。

 それでも、さまざまな人間の思惑が音に混ざり、頭の中がうるさい。

 

『淀み』の意味を持つカレルは、ホグワーツに来てから蠢くことはなかった。そのこともクルックスを憂鬱にさせた。ヤーナムにいた頃は、止まることなく虫を見せていたというのに、今では虫の気配が感じられない。これはヤーナムが魔法界より、遥かに汚れていることを意味する。

 それでも。

 クルックスは、認めたくないのだ。

 

 ──お父様が、ビルゲンワースの学徒達が、ヤーナムの狩人が、外の神秘に見えた人々より、淀んでいるなどと。

 

 獣を狩る。虫を潰す。

 単純で明確な目標がある、あの時間が恋しかった。

 




【解説】
 豚は食べませんが鶏は大丈夫です。いえ、ヤーナムのカラスは食べませんが。
 日本において政治と宗教と野球の話はタブーとされていますが、イギリス魔法界ではジャンジャンされていそうな気がします。どうなんでしょうね(歴史的なお国柄的に)もちろん、闇の時代はお口にチャックでしたでしょうけれど、平和になった今ならばタブーなんてそれこそ♰闇の帝王♰くらいなのではないでしょうか。古い時代では、グリンデルバルトでしょうか。しかし、彼の活動地は欧州一体のようなので、イギリスでの爪痕は、やはり♰闇の帝王♰が深いのか……その辺どうなんでしょうね。闇の魔術に頭からどっぷりだったスネイプ先生、ひょっとして♰闇の帝王♰について何かご存じなのでは?

 お悩みのクルックス。それでも、ほかのきょうだいに話すのは憚られます。
 人の多種多様な思惑というものは、彼にとって慣れないものです。大人の思惑など特に分かりません。彼の身の回りの大人は、祝福こそすれ呪いのような期待をかけることはしない人々なので。
 そんなことよりも。
 地底活動だ、血の医療だ、獣の病だ、神秘の探求だ、虫潰しだ、等の理由で忙しくしているので構いきれないという事情もあります。二〇〇年以上、休みなく活動し続けている人々の好奇心・探求心・使命感には某時計塔の麗人もうんざりしていることでしょう。

【あとがき】
 賢者の石のハリーは、純粋すぎて最終巻まで見てから見返すと眩しいですよね……ああ、こういう時代もあったね……
 最近、ブラボに関係する世間のネタがあって嬉しいと感じている筆者です。
 特にも弓に関わる話題!
 これは、アレでしょう!
 古狩人パイセンがまたシモンパイセンを「弓wwwwでwwww獣にwwww挑むwwwwなどwwwプフォwww(略」と言っているんだろうなぁと思っていたのですが、全然違う話題でした。いえ、実際のところ、流れ弾でシモンを思い出したハンターも多いようなので、あながち外れでもなかったのですが。
 弓剣は血晶石次第では大砲以上に火力が出るらしいですね。安定からか、愛用者も多いと聞きます。

 シモンを笑った古狩人パイセンらはもれなく血に飲まれたか獣にやられたかしたのでしょう。
 シモン「(あらゆる状況で矢をつがえ、急所を狙い撃つことができれば、人だろうが獣だろうが狩れるので)大丈夫だ、問題無い」
 それを言えて、できたのはシモンだけだったんだろうなぁ、とか。思いを馳せています。そもそも特注品ですしね。まあ、何を言っても予防の狩人の凄腕なんて皮肉にしかならないのでしょうけれど。

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