上位者が聖歌隊、コッペリアの願いに応え、与えた瞳。
瞳は脈打ち、けれど閉じられている。
さして問題は無い。
目隠し帽子が頭蓋に替わっただけだから。
ハッと我に返る。
クルックスは、狩人の夢のなかにいた。
再び父たる狩人が呼んだのだろうか。
クルックスが辺りを見回しながら馴染みのある階段を昇り、古工房の扉へ手をかけかけた。
その時だ。
弾かれるように扉が開き、銃口が突きつけられた。
クルックスは、この頃、すっかり忘れていたのだが、もともと狩人は動くもの全てを狩り尽くすことで安心していた人物なので物音には敏感だったのだ。足音で気付かれたのだろう。
狩人が相手を認めるなり、銃口を下げ、ついでに肩を落とした。
「なんだ、クルックスか……」
「お、お久しぶりです、あの、お父様」
工房の中を覗くと人形と、なぜか乳母車が置いてある。人形が「おかえりなさいませ」と挨拶した後、ガラガラと音の鳴る玩具──ラトルと呼ばれるそれ──を小さな木箱に片付けていた。
狩人は、彼が室内を見ていることに気付き、肩を掴んだ。
「な、なななな、なぁ? 見た? のか? ひょっとして、乳母車プレイを──」
「プレイ? 何のことですか?」
狩人に揺すられて頭がガクガク揺れた。
実際、何も見ていないのでクルックスは彼の動揺が分からなかった。
「何でもない! 何でもないぞ! 忘れろ! 忘れたな!?」
「はいッ! お久しぶりです、お父様!」
「おう! 元気だったか!」
お互いに、背中を叩き合いながら異様に元気の良い挨拶を交わし、ふたりは室内に入る。
クルックスは、人形が乳母車を部屋の奥へ収納しに行く光景をできるだけ視界に入れないようにした。
「しかし、どうした? 何か問題でもあったか?」
「あれ。お父様が呼んだのではないですか?」
てっきり、呼ばれたのだと思っていたクルックスは椅子に座りかけた中途半端な格好で固まった。
狩人は、帽子を脱ぎ血除けマスクを外すと戻って来た人形に預けた。
「いいや、呼んでないが……そのマフラー」
狩人が目にとめたのは、マフラーの狩人の象徴である吊り下げられた逆さまのルーンだった。
「無意識にこれを思い浮かべたんじゃないか? ほら、集中してこれを思い浮かべると血の遺志は失うが、戻って来られるだろう?」
「あぁ、そうか……。俺は、オルゴールのことを考えていたんです。すこしだけ、あの音が聞きたいと思って……」
ここに来る直前の出来事を思い出せたクルックスは、納得を得た。
すぐに戻らなければならない、と思う。
だが、気分が進まず、体は勝手に椅子に座った。
「人形ちゃん、マフラーありがとう」
「初めて作ったので……ほつれたら持ってきてください。お体ご自愛下さいね」
人形は、目を伏せた。
『照れてるんだ』と狩人が声を消して言う。彼は、とても嬉しそうだった。
「さて。良いものを見られたところで、オルゴールを鳴らしても構わないが、なんだか、やつれているな」
いつぞやのキャンディーが、ひとつテーブルの上に置かれた。
狩人は、ネフライトから届けられたのだろう、テーブルの上に広がる羊皮紙を片付けて収納した。
「学校生活……ハッキリ言うと……俺には、とても難しいです……」
「そうなのか。勉強? 人間関係?」
「に、人間関係……」
弱音を吐くつもりではなかったが、良い助言をもらえるかもしれない。
そんな思いで口にした言葉には、狩人の同感が返って来た。
「人間関係か。難しいな。狩人みたく皆が同じような境遇なら、話す内容も限られているし、わざわざ突っ込んだ話をする必要も無いから、ぼろも出ないが……。学校では、集団生活なのだろう?」
「はい。……一口で説明できないくらい、いろいろ、本当にいろいろありまして、もうすこし時間があれば、慣れる……とは思うんですが……はい……」
本当にいろいろあった。
学校まで。組分け。授業。ハロウィーン。トロール。箒。そして、今日のクリスマス。
独りで抱える秘密が多いことは、少々辛い。
これまでクルックスは、獣を狩って虫を潰すという──できるかどうかは、能力次第として──明確な目標しか持っていなかったのだ。
「俺も、お世辞にも『人間関係は良好です』なんてことはない。連盟に入ったのも、血族になったのも、とりあえず『まともそうな人』と繋がりを保っていたかった、という理由がはじまりだ。相手はそれを見抜いた上で、それなりの対応されただけだから特段、努力したワケでは……うーん。シモンはちょっと違うが、四六時中一緒だったワケではないから……すまん、やはり碌なことが言えないな」
「いえ、お父様が気にされることではありません。ただ、俺の素養の問題なんでしょう。テルミやセラフィは十分に、ネフライトは没交渉ですが、それはそれとしてうまくやっていますし……」
「狩人が平時で暇なのは良いことだが、それだけ頼りにしていた俺達にとっては、やや辛い世界でもありそうだ」
「授業は楽しくためになりそうなので、これからも学校生活は続けたいと思うのです。ただ、それ以外の学校生活がうまくいかず、恥ずかしいのですが……」
クルックスは、何となく頭を掻いた。
狩人が、彼によく似た顔で笑った。
眉はやや下がり気味で、降参という風である。
「俺だって、突然十歳だか十一歳だかの集団に投げ込まれたら上手くやっていく自信なんて無いから咎めはしないさ。連盟の長と一緒に生活したほうがずっと気楽だと思うだろう。これからのことは、そうだな、時間が解決してくれるのなら良い。どうしても無理なら授業以外は夢に戻って来てもいいだろう」
「そ、それは……」
「最終手段だ。逃げ道というものは、いつでもどこだって必要なものだからな。聖杯……ウッ……頭が」
「はは……は……」
クルックスは、肩の力を抜いて笑った。ずいぶん久しぶりに、心から自然体で笑った。
それから、彼とはたくさん話をした。気付けば三か月以上経っている。──学校のこと。不思議な組分けのこと。魔法を使う授業のこと。
学校のことを話していると、ふと思いついた。
「お父様、ビルゲンワースの学舎……あの、ユリエ様はお元気ですか?」
「先週、輸血液をもらいに行ったが元気だった。もう一人もな」
狩人の言うもう一人とは、ビルゲンワースの学舎に住まうもう一人の学徒のことだ。
名を、コッペリアという。
『最後の周回』時、獣狩りの夜が始まる前に姿を消し、そして生死・行方とも不明になっていた学徒は、古都ヤーナムが夢を見始めて間もなく、学舎へ舞い戻って来た。
彼は、最後の周回となった獣狩りの夜を認識せず、また自分が行方不明になっていたことも知らなかった。生きているのか、死んでいるのかも自認しない彼は、ユリエに食料を持ってきた狩人を『いつも通り』強襲した。
侵入者を殺すことが学舎の最後の学徒であり、守り手である彼の役割であったからだ。
不意打ちを喰らい、三階相当にあたる高さから頭をグネりながら着地した狩人は普通に死んだ。しかし、夢の如く、死体は消えたという。
再びビルゲンワースにやって来た狩人は、そこでようやく自分を襲った犯人を見つけた。
『──月の花の香り! 貴公、やはり夢を見る狩人だな! さあ、剣を握りたまえ。我、聖歌隊のコッペリア! そして、ビルゲンワースの名の下、僕は負けないぜ!』
その後。
彼の背後から毒メスを放ったユリエと協力し、縛り上げた。
説得の甲斐あり、今では彼も良き協力者だ。狩人もクルックスも、夢の中で使者達から買う以外に輸血液を調達する手段とは、彼らから施してもらうしかない。ゆえに、とてもありがたいものだった。そして見返りに、狩人は彼らのいるビルゲンワースを全力で守護している。
「──あ。クルックス、そうだ。ユリエやコッペリアに話を聞いてきたらどうだ。集団生活のコツってヤツを」
狩人の提案は、クルックスも良案に思えた。
聖歌隊出身の彼らは、長い期間を孤児院で生活していたという。密室的な人間関係を円滑にする方法を知っているかもしれない。
「行ってきます。でも、ホグワーツに戻って、何かお土産のお菓子を持ってきてからのほうが」
「女性ウケがいいだろうな。あぁ、それにしても。誰かを羨ましく思うなんて、久しぶりかもしれない。聞くなり愉しそうじゃあないか。俺も外に行ってみようかなぁ……」
狩人が、ふと虚空を見上げて目を細めた。
隣に寄り添う人形が「ええ」と同調するように微笑んだ。
「俺に分かる範囲なら道案内もできます。きっと、お父様も知るべきです。外の世界は、本当に、いろいろなものがあって……悪いことばかりじゃないと思うんです」
「……人形ちゃん。そのうち、すこしヤーナムを留守にしてもいいかな?」
「ええ。狩人様。きっと、その目覚めは有意なものになります」
すこし考えてみるかな……。
狩人が思索に旅立ちかける。
クルックスは立ち上がり、声をかけた。
「お父様、俺が戻ってきても、まだここにいらっしゃいますか? ユリエ様達にも会いたいんですが、お父様ともっと話をしたいです」
「ああ、見ての通りだ。急ぎの用もない。ここにいるさ」
クルックスは、急いで碑石に手をかざしホグワーツの自室に戻るとハリーからもらった蛙チョコレートをつかみ、狩人の夢を経由してビルゲンワースに飛んだ。
■ ■ ■
かつて歴史と考古学を専攻するための学舎であったという、ビルゲンワース。
だが、その学舎に遺るものは少ない。
四階建てである学舎は、悪夢の干渉を受け内部構造が歪んでいる。また学徒と学舎の一部は、今も悪夢空間を漂っていた。
クルックスは狩人の服に身を包み、ビルゲンワースの学舎の扉を開いた。
そして。
入るなり、そばの書架に寄る。そして本に隠された鐘を手に取った。
小さなそれを七度鳴らす。これが狩人が来訪した時の合図だ。
彼らは学舎の守り手であるが、常に出入口を見守っているほど暇ではない。普段は、とある一室で研究を続けているのだ。
やがて、どこかで扉が開く音が聞こえた。
ギィ、と錆びた蝶番が鳴る音も聞こえる。
油を差さなければならないな、とクルックスは夏休みの予定に加えることにした。
「──どなたかな?」
やがて、右手に槌、左手に短銃を持つ聖歌隊の白装束を着た男性が現れた。
敵意が無いことを示すため、両手を挙げた。
目隠し帽子の下、彼はフッと笑って警戒を解いたようだった。
「おぉ、クルックスじゃないか!」
一九〇センチ近くある長身をかがめ、彼はクルックスの肩を叩いた。
「コッペリア様、お久しぶりです。ご無沙汰しております。……出発の前、ご挨拶ができず申し訳ありませんでした」
「構わないさ!」
聖歌隊装束を揺らし、彼は小さく笑う。
「今は、頭痛は平気ですか? 他に痛いところは……」
「大丈夫! 快調さ! ああ、君、大きくなったなぁ。背が伸びたんじゃないか?」
コッペリアは、武器を腰に下げるとクルックスを抱え上げた。
床から足が離れてしまったクルックスは、あわあわと腕を彼の首に腕を回した。
「おぉっ! 成長が感じられるぞ!」
「……学校で、その、結構食べているので」
「君は食べ盛りだ。食べられる時に食べるべきだぞ。さぁ、来たまえ! 今日はどんなご用かな?」
「ご相談があってですね。ああ、お土産もあります」
コッペリアは、クルックスを床に下ろすと手を引いた。
ズンズンと進んでいくが彼は歩調を合わせてくれる人ではない。クルックスは早足でついていった。
「ありがとう! やや、これはヤーナムの外のお菓子だね? 実に興味深い!」
クルックスは、何も言わずとも察してくれる彼のことが、実のところ好ましいと思っている。
多弁ではないクルックスは、こうした察し良い人物に甘えてしまうのだ。
しかし。
「蛙の形をして、しかも、動いている!? 神秘的な仕掛けだ。どういう仕組みなのだろう。んん~、実に気になる!」
茶化すように彼は言う。明るい声だった。
けれど。
菓子の箱は、まだクルックスの手の中にある。
コッペリアが彼のお土産を見破ることができるのには理由がある。
ある時。
コッペリアは、狩人に瞳を願ったのだと言う。
そして。
狩人は、コッペリアに瞳を与えたのだと言う。
ゆえに。
コッペリアは、時おり、目に見えない物を見、見えていないハズの物を感じ、見るべきではないものを直視する。
神秘の探求者である彼は、常人とは異なる視座を欲した。
『そう悲しい顔をしないでおくれ。クルックス、最も狩人に似ている仔。何も遺すことができない僕は、神秘に見えることができなければ生きている価値が無いのだよ』
初めて出会った時、クルックスは彼を哀れに思ってしまったらしい。
自分では気付かなかったが、悲しい顔をしたようだ。
「──コッペリア様、本当に、体は大丈夫? 無理していないですか?」
「大丈夫だとも。過ぎた心配をしないでおくれ、僕らの可愛い子」
彼の大きな手の平が、クルックスの黒い髪を撫でる。
コッペリアは自分のことを大きな猫だと思っている節があった。
「あなたの大丈夫は、すこしだけ信用ならないのです。前だって鼻血が出るまで我慢していたではないですか」
コッペリアは瞳を得ると同時に頭痛を患うようになった。
クルックスが旅立つことを彼に告げられなかったのは、それが原因で臥せっていたからだ。
突かれると痛いところであったらしい。彼は笑って逃げた。
「はっはっは。そういうこともあった気がするね! けれど、今は本当に大丈夫なのだよ。他人の心配ばかりしていないで自分の心配をなさい。君は、まだまだ子供なのだからね」
黒手袋に包まれた大きな手が、クルックスの頬を撫でた。
学舎の螺旋階段を昇り、隠し廊下を渡る。
ノックを三回。コッペリアは扉を開いた。
「ただいま、ユリエ」
「おかえりなさい。あら。クルックス? ……あれ、学校では? えっ、もしかして、また一年経過しちゃったかしら?」
慌てて壁に吊るしているカレンダーを見つめたユリエ。クルックスは両手を振った。
「い、いいえ、ユリエ様、現在は正しく十二月です。俺が休暇なんです。戻ってまいりましたのは、ええと、ちょっと、学校の人間関係について、ご、ご相談を、と思いまして……はぃ……」
話しながら『あぁ、俺は賢人に向かってなんて思考の次元の低いことを話題にしようとしているのだろう?』という自己嫌悪に苛まれた。
しかし、口に出てしまったものは仕方が無い。
クルックスにソファーを薦めたユリエは、ポットの茶葉を確認する。
コッペリアが隣に座り、クルックスの頬を突いた。
「ああ、相談ってそういうことかい。なぁんだ。年相応に青春しちゃって可愛いなぁ。このこの~」
「こら、茶化すのはおやめなさいな、コッペリア。小さな悩み事が、いずれ大きな苦悩の種になることがよくあるのだから。けれど、意外だわ。あなたは誰とでもうまくやるタイプだと思っていたから……」
「表立って喧嘩するワケではありません。ただ、同じ年頃の子供と接する機会がありませんでしたから、何というか、浮いてしまうのです」
コッペリアとユリエは目隠し帽子の下で視線を合わせたようだった。
やがて彼らは、声を揃えて「あぁ」と息をもらす。
「ヤーナムは、子供が少ないからねえ」
「私達もつい大人の目線で考えてしまうけれど、そうよね、ヤーナムのまともが『まとも』のハズが無かったのよね。……たしかに」
「クルックスは、かなり『まとも』だから──いいや、『まとも』だからお悩みなのだね」
「ご、ご助言をいただければ幸いです」
「そうね……」
ユリエは、クルックスの前に茶のカップを置いた。
「相手の話をよく聞くことかしら。言いなりになるのではないわ。ただ、聞くだけよ。それだけで相手が感じる安心は大きなものになるでしょう。意見は……ふむ、クルックスの場合、あなたは言葉が足りなくて正論を言い過ぎるから、相手にはぶっきらぼうな物言いに聞こえてしまうのでしょうね」
「ぐぅっ」
心当たりのあることを指摘されて、クルックスは呻いた。
「僕の可愛い子、そんなに思い当たる節があるのかい?」
「たとえば『今日はいい天気だね』という言葉に『そうだな。だから何だ』と返すのは適切ではないでしょう。でも、ものすごく重大なことを話す先触れなのかと思って、問い詰めたくなります」
「あぁ、君ってそういうトコあるよね」
「相手の出方をうかがってから行動しても遅くないと思うわ。戦闘ではないのだから」
「……たしかに、そうですね」
クルックスは、頷いて頭の手帳に書き加えた。ぜひ試してみよう。
「あぁ、大事なことだね。本当に大事なことさ! それ、ヤーナムの民にも説法しておくれよ。……こちらの住民は、あまり人の話を聞かないからなぁ。つくづく疑問なのだがね。どうして武器を持っている狩人に罵倒なんて恐ろしい真似をするのか」
コッペリアも同調した。
前向きに考えられそうな気分になり、彼はお茶を飲んだ。
それから穏やかな会話が続いた。クルックスは、それを聞いていた。
彼らの会話を聞いているのが、彼は好きだった。
それから再びクルックスが話す話題になったのは、三十分程度経った頃だった。
「外の世界はどんな様子なのかしら? ヤーナムとは、二〇〇年以上の隔絶がある。神秘に見えた民族とはいえ、きっと何もかも進歩しているのでしょう。あなた達の気苦労も多かったでしょうね」
ユリエの言葉。コトリ、置かれたカップは小さな音を立てた。
クルックスは、肩を落とす。
そして、祈るように両手を合せ、目を閉じた。
「はい。外の世界は、ヤーナムとは全く違いました。魔法という神秘にまみえた彼らは知らない。己が変態する恐怖も隣人が獣になる恐怖も、罪の潮騒も知らないのです。何も誰も知らないのです」
「…………」
コッペリアが、ごく自然な手つきで目隠し帽子に触れた。
目を見開いたクルックスは、顔を上げる。思わず、声が上ずった。
「彼らは魔法という神秘を大した対価なく使用している。どうしてヤーナムだけが、病んでいるのでしょうか? ここに生きている人々は、ここにいるというだけで苦しまなければならない。なぜ。俺には、分からない。きっと同じ神秘であるハズなのに、こうも違う、違いが過ぎるのです」
うつむく顔に、優し気な手が添えられた。聖歌隊の黒手袋は、ユリエの手の柔らかさを損ないはしなかった。
目隠し帽子で見えない彼女の瞳は、きっと美しいのだろう。
真実のみを見つめる目は、クルックスにとって眩しすぎる。だから目隠し帽子はありがたいものだった。
「比べてはいけないのよ。クルックス。辿った歴史が違うのだから、何もかもが違ってしまう。ヤーナムの苦しみは、ヤーナムが積み上げた成果であり、罪であり、今では祝福でもあるのだから」
「古くはトゥメル、遠くはローランから続くものだと? ええ、それはそうだと分かっています。理解もしています。けれど、考えて……しまうんです。どうしてヤーナムだけが、と」
ヤーナムの外は、あまりにあっけなく平和だ。
危険なものはあるのだろう。けれど、その辺に転がっているものではない。
子供は保護者と学校に守られて生活している。
啓蒙を得た瞳で見た景色が、啓蒙を失った瞳で見る景色と違わないのであれば、多くの人々にとって幸いだ。
「あまりに憐れではないですか、ユリエ様。狩人だけではない。民も学徒も医療者も全て。血から離れられない、ヤーナムの民に救いは無いのでしょうか」
「…………」
賢人は、賢人であるがゆえに答えなかった。
その代わりに、優しく頬を撫でてくれた。
「……それを考え続けることに罪は無いわ。けれど、それが羨みになり恨みになってしまわないようにね。あなたの心の法則は、万人が解するものではないのだから」
「はい」
答える。
ふわりと目の前が白く塞がれた。
抱きしめられているのだと気付いて、クルックスは身を固くした。
「外の世界を知っても、あなたはヤーナムを惜しんでくれるのね。優しい子。そういえば、月の狩人とすこしだけ話していたことがあるの」
何をでしょうか。
問いかけは、吐息に消えた。
「ヤーナムの外のことを知って『彼らが向こうで生きることを選んだら背中を押そう』とね」
クルックスは、おずおずとユリエの背に手を回した。少しだけ震えた。
彼に似ない、柔らかい身体に驚いたからだ。
「ご不要です、ユリエ様。もしも、選ぶことが叶うならば、ここが俺の故郷です。ビルゲンワースを、お父様が頼りにする貴女を、俺も大切に思いたいのです」
ギュッと抱きしめられる。やがて、離れた。
「んんッ」と大きな咳払いが聞こえた。何かと思って顔を上げれば、コッペリアが両手を広げて待っていた。
「もちろん、コッペリア様も大切ですよ」
「お気遣いありがとうね! さて、僕が授ける言葉は、ほとんどユリエ先輩が言ってしまったが、強いて言うならば、他者に寛容でありなさい。不寛容が疑心を呼び、狭心が狂気を招く。その果てのありさまを、君は狩人から聞いたハズだ。よいかね、クルックス。月の狩人の仔。僕らの可愛い子」
「はい。コッペリア様」
自然に抱きしめられた。鍛えられた厚い体を全身で感じる。
他人の温度は馴染みがないハズだが、不思議と安心を誘うものだった。
父たる狩人の愛とは、鼠の骨を手渡す行為に代表される分かりにくいものだが、こうした直接的な表現も好ましいものだと思う。
(温かい……)
寛容であれ、という意味はクルックスにとって重い意味を持つようになった。
いま心に染み入るように感じる、この感情を慈しみとするならば、この十分の一程度は他者に抱かなければならないのだろう。
「ユリエ様、コッペリア様、ありがとうございます」
「うまくやっていけそう?」
もちろん、何も解決していない。
それでも気持ちが楽になった。
独りで塞がり込み、小さな路地に追い詰められた感情は、湖に打ち寄せる波程度に穏やかになりつつあった。
「きっと。でも、もし、ダメだったら戻って来ても良いですか」
「もちろんだよ」
ユリエとコッペリアは、穏やかに微笑んだ。
それを見届けて『狩人の確かな徴』を使うと、クルックスは姿を消した。
■ ■ ■
彼が、去ってしまった後で。
コッペリアが目隠し帽子に手を触れて、その内の目を閉じた。
「あの子は、素晴らしいね! 上位者から分かたれた枝葉なのに人間よりも純粋だ! おお、素晴らしい! 患っていない純粋な人間とは、あのようなものなのだろうか? 連盟員で虫が見えるというのに世の中が綺麗になると信じて、しかも諦めてもいないのだ!」
純粋であるということは、時に単純であり、強い可能性を秘めるものだ。
コッペリアの憂いを、ユリエは静かに肯定した。
「だから、あの子は連盟が相応しいのでしょう。望めば、尽きぬ使命を与えるのだから。……月の狩人は、適性を見抜き、正しい差配をしたわ」
「血に酔った狩人でも狩人には違いないって? 睨むなよ。そういうことだろう? しかし、そうだとしても、あぁ、クルックス! 僕の可愛い子! ……テルミ、ネフライト、セラフィ。四者四様で素晴らしいと思うけれど。僕はね、あの子が一等お気に入りだ」
ソファーに深く腰掛け、脚を組んだコッペリアは唇に薄い笑みを浮かべていた。
ユリエは、余ってしまったお茶を飲んでいた。
「そう。それはあなたの感性? それとも内なる瞳が囁くのかしら?」
「僕の意志だよ、ユリエ。この先。幸せになる未来があると良い。……あぁ、見えない。見えないんだ。僕の閉じた瞳には何も。何も」
「──それは幸いなことよ」
ユリエは、ぴしゃりと言葉を叩きつけた。
コッペリアは、ユリエの不機嫌の理由をもちろん知っている。
とある学徒が『情けない進化』と呼んだ方法で瞳を得たコッペリアを、ユリエは軽蔑し、そして案じているのだ。
ふぅ、と嘆息を吐いた後で彼はクルックスの置いていった土産を思い出した。
「チョコレートを食べよう、ユリエ。クルックスのお土産だ。僕らは、気の利いた感想を考えておかなくちゃあいけないだろう」
■ ■ ■
「なんか、癒された~って顔をしているよ」
「そ、そうですか。たしかに……癒されました。こう、ギュッとされて……」
「……ふーん」
クルックスは、再び狩人の夢に戻って来ていた。
父たる狩人は、ネフライトの報告書を読んでいたらしい。
クルックスを認めると書類をわきに押しやった。
何でもない様子を取り繕っているが、拗ねたように唇が尖っている。
「良いアドバイスをもらったみたいだな」
「はい。気分がすこし楽になりました」
「気負い過ぎるな、といっても真面目な君には無駄か。まぁ、気楽な学生気分を満喫してくれ。その時間は、ヤーナムのどこにも無いものだからな」
「……はい」
「学校のこと、聞かせてくれるか。……二〇〇年以上閉じこもっていたが、そろそろ、というか、いい加減に、外のことを知っておくべきだろうな。話を聞けば聞くほど、出遅れが痛く感じられる気がしてきた」
狩人が片付けた書類には、細やかな文字が加えられていた。狩人のメモだ。
熱心に読んでいることの証左だった。
クルックスは、訊ねた。
「……あの、どうして外と接触することが、今なんですか。俺達が偶然、生まれたから……?」
「それも原因のひとつ。──俺には、いつだって新しい試みが必要なのさ」
「なぜ、ですか」
この問いは、答えを得られぬだろう。
しかし。
クルックスの予想は、裏切られた。
「俺は、穏やかなヤーナムを見たい。獣も病も無い。頭のイカレた医療者もいない。大迷惑な上位者を一掃した後のヤーナムを見たいんだ。……君もそうだろう?」
狩人は、ゆるりと思考に沈み込むように目を伏せた。
彼から初めて零れた、ヤーナムに対する本音だった。
大きく目を見開いて、クルックスは胸に手を当てた。
「はい! そうです、そうです! 俺は……いえ、俺も、綺麗で清潔で清浄なヤーナムを見たいんです。そこに暮らす人々を見たい。そして、願えるならば、そこで、ゆっくり眠りたいんです」
今日の狩人は、わずかに疲れた顔をしていた。
こめかみに指をあてて、見間違えのように笑いかけた。
「あぁ、そうだよな。分かるよ。皆ちょっと感覚がイカレているが、普通、夜という時間は眠る時間なんだ。いつか……そう、いつか……夜にゆっくり眠りたいな。狩人だけではない。ヤーナムの民、全てが眠れるように」
「そうですね。いつか……ええ、いつか……。そのためならば、俺は、何でも、何でもしますから」
「できることなら頼むさ。とりあえず『平和的学習』とかな」
「はいぃぃ……」
目に見えて肩を落としたクルックスに、狩人は声をかけた。
「そう気落ちするな。俺にもいろいろと都合があってな。いや、俺が赤ちゃんだからかもしれないけど。ともかく、この二〇〇年は試行錯誤の連続だ。新しい思索の先触れだと思って、よく学びたまえ。きっと、お前自身の役に立つ。ひいてはヤーナムのためにもなる。ヤーナムには無い平穏を知るといい」
狩人は。
その平穏に自分の居場所が無いことを知っているのかもしれない。
不意にクルックスは、そんなことを考えた。
それは狩人の生業ゆえか。それとも上位者としての在り方が、そうさせるのか。どちらの理由か。それともまったく別の理由なのか。彼には、まだ分からない。
それでも。
手を伸ばさずにはいられなかった。
「お父様も。来年でも、再来年でも、何年後でも構いません。……でも、いつか一緒にダイアゴン横丁に行きましょう。そして、食事をしましょう」
「ああ、悪くない。そういう試行も必要かもしれない」
「きっと、有意です」
クルックスと狩人は、握手した。
この時、初めてクルックスは狩人の肌に触れた。
温かな、ごく普通の体温だった。
「お父様、それから──」
たくさんの話をした。
他愛の無い話。
興味深い話。
知人の話。
ビルゲンワースの学徒達と交わした話。
クルックスのたどたどしい話題の連なりを、狩人は静かに聞いていた。
狩人の贈り物には、形が無い。
それが何よりの贈り物であり、狩人の夢を去る時にはマフラーと同じくらいに嬉しいものだった。
乳母車
乳幼児用の小さな四輪車。
肉体を箱に入れることは、仄かに死を連想させる。
だが生者であれ死者であれ、
揺籃を必要とする赤子に相応しい物だろう。
【解説A】
狩人「だから問題無い。そして、君は何も見なかった。いいな?」
【解説B】
閉じた瞳のコッペリア
『綺麗なお姉さんがいるのならば、怪しいお兄さんもいるべきだ』という筆者の性癖上の理由で真面目に作成された、本作のオリジナルの登場人物です。 しかし、まったくのオリジナルではなく、発想の苗床は没NPC台詞である『君は偉大な宇宙を知っているか? 知っているのか?』を参考にしました。これ、たぶん、上層で生き残りの聖歌隊に会ったら言う台詞だったんじゃないかなと筆者は勝手に思っています。
……製品版にならなかった没ネタからの考察など考察者の堕落だ、とメモに怒られちゃいそうですね。
【あとがき】
クルックスが狩人達のなかで比較的『まとも』なのは、守るべき人がいて、大事に思っているし、思われている感覚があるためです。しかし、「愛じゃよ」と言われたら否定します。――これは賢人が俺に下す恩寵なのだ。愛などという血と肉で繋がった薄っぺらで信用ならない情感などではない。
【ビルゲンワースの走り書き】
ヤーナムが一年を繰り返し二〇〇年以上、狩人が知らない過去で生死不明になった人物でも『戻って来る』ことが確認された。
【登場人物紹介】
今さらですが、描いてみました。
筆者は小説系二次創作には作者が描いたイラストがあると最高に二次創作っぽいと信じているので頑張って描きました!(古の個人サイトではそうだったんだよ……)
【挿絵表示】