岩より小さく、砂よりも大きい、鉱物質の塊。
永遠に近しい存在より溢れた水を飲むことは、即ち境界を越え、不変を得るための儀式だったのだ。
『みぞの鏡』と呼ばれる特別な不思議な魔法道具によって、もたらされた異変は長く続かなかった。
クルックスもセラフィも不愉快な感情ばかり引き起こすそれの行方を探そうとはせず、また彼らは知らないことだったが──唯一、鏡を求めていたハリーもダンブルドア校長の説得により、透明マントと共に忘れることにした。
クルックスは、狩人の夢で父たる狩人が寛ぐように日がな一日、寮の暖炉のそばでうとうとしていた。
生まれて初めて貪る惰眠だった。これは人を堕落させる味わいがある。
思考が鈍り、意識が溶ける。忘我は獣性が高まる感覚にも似て、抗い難い。
意識の深いところで聞く、暖炉の火音は心地が良い。
飽きるほど眠った後は、宿題を抱えて図書館に行ったり、テルミのお茶会に誘われたりして休暇は終わった。
振り返れば、安定し充実した休暇となったと評価できるだろう。その点、クルックスは父の理想に叶う時間を過ごしたと思う。
■ ■ ■
クリスマス休暇が明けた。城へ戻ってきた生徒を見れば、まだ休暇が名残惜しそうな顔が見える。久しぶりに両親に会い嬉し気な顔もあった。多くの一年生の生徒は、親元を長く離れた初めての期間となったことだろう。
「浮かない顔をしているな。ロングボトム。楽しい休暇にはならなかったと見える」
「えっ。そ、そんなことはないよ……」
寮に戻って来た生徒は、誰であれ多少は浮かれた雰囲気をまとわせているというのにネビル・ロングボトムだけは沈んでいた。
否定されては仕方がない。
「そうか。そう。そうか」
クルックスは、それ以上の語る言葉を持たなかった。休暇前の彼であれば。
今は、気まずい空気それきりで会話を終わらせる心算はなかった。
「俺に……他人より優れていて胸を張れることがあるとすれば口が堅いということだ。秘匿を暴く者は、より多くの秘密を持つ者にほかならない。……話すことで心が楽になるのならば俺が君の秘密をすこしばかり預かろう。いつか考えてくれないか」
「……あ、ありがとう」
「俺ができることは少ないかもしれないが、頼るべき時は頼ってくれ」
クルックスは、ビルゲンワースの賢人を思い出す。
コッペリアの言う慈悲とは、このような行いだと思いたい。
ここで彼はニコリとでも笑えば良かったのかもしれない。ネビルは困った顔をした。
「そ、そこまで深刻なことじゃないんだ。まあ、深刻ではあるんだけど、その、家族のことだから……」
「……そうか」
家庭の事情は難しい。
ネビルは手を振った。
「でも、気持ちはありがとう……」
彼は授業に向かって早足で去って行った。
ふむ。クルックスは考える。
善意とは空回りしてしまうものらしい。けれど、そういうものだと彼は知っていた。
父たる狩人も「良かれと思ったことがトドメになることは、よくあるからな。ああ、実に、よくあることだ」と言っていた。
休暇明け初日の授業が終わった放課後。
宿題を済ませネフライトから依頼された文章に赤を入れていると談話室にネビルが倒れ込んできた。足でも怪我をしたのだろうか。頭を巡らせると『足縛りの呪い』をかけられたことがすぐに分かった。両脚は縛られたようにぴたりとくっついている。彼はうさぎ跳びで図書館から談話室までやって来たのだと言う。ハーマイオニーが立ち上がり、呪いを解いた。
漏れ聞こえる事の顛末は、実に、大したことがない。
スリザリンのドラコ・マルフォイに呪いをかけられ、やり返すこともできず逃げ帰って来たようだ。
ロンが「やり返してやればいい」と言う。いつもの三人組のなかでハリーだけは、ネビルにすこしだけ同情的だ。彼が争い事に疎い性質であることは皆知っているところだ。
クルックスは口にしないものの今回はロンに同調した。
(ああいう輩は一度くらい痛い目に合わないと考えを改めることはしないだろう)
指先で羽根ペンの筋をつまみながらクルックスは考える。ところで廊下で呪文を使ってはいけないという校則があったような気がする。クルックスの記憶違いだろうか。ひょっとして誰も真面目に守っていないのだろうか。
ウンウンと考えていると顛末を最後まで聞いたハーマイオニーがネビルの手を引いた。
「マクゴナガル先生のところに行きましょう。マルフォイがやったって報告するのよ!」
「い、いいよ! これ以上の面倒はいやなんだ」
ネビルの顔は、彼の言う『面倒』より羞恥が勝っているように見えた。女の子に助けられたことが恥ずかしいのだろうか。
「でも、何もしないとマルフォイがつけあがるぞ」
「だって、でも、僕に勇気がないのは、そんなの言われなくたってわかってるよ……」
──マルフォイだって同じことを言ったからさ。
ネビルは声を詰まらせた。慰めるようにハリーが蛙チョコレートを渡した。
「君は、組分け帽子に選ばれてグリフィンドールに入ったんだろう? 自分を信じないと。マルフォイなんかどうだい、腐れスリザリンに入っているじゃないか」
──そこまで言うか。
クルックスは、組み分けのことをまだ色分けだと考えているので強い語彙が聞こえ、少々怯む。しかし、一般的なグリフィンドールの生徒にとって常識的な感覚のようだ。周りの同級生の何人かは頷きを見せている。
「ありがと……ハリー。僕、もう寝るよ……ああ、これ、カードあげるね。集めているんだろう?」
ネビルが寝室に向かう。
クルックスは片手を軽く挙げて、おやすみの挨拶をした。
もうすこし気の利いた言葉が出ないものかと考えるが、妙案が浮かぶことは無かった。
しかし。
「見つけた……っ!」
小さく、けれどハッキリと輪郭のある声が聞こえた。ハリーだった。
「ニコラス・フラメルだよ。どこかで見たことがあると思ったんだ……!」
やや興奮した声にロンとハーマイオニーが頭を寄せ合う。
羊皮紙を執拗にテーブルに叩きつけ、角合せ続けていると言葉が聞こえていた。
蛙チョコレートのダンブルドアのカードにはフラメルの記述があった。そして、ハーマイオニーが図書館から借りてきた本の記述を併せると以下のようなことが分かる。
『ニコラス・フラメルはフランス出身の魔法使い。伝説の物質「賢者の石」の創造に成功した唯一の者として知られる有名な錬金術師。ホグワーツ魔法魔術学校の校長アルバス・ダンブルドアと親しく、錬金術の共同研究も行った。ダンブルドア校長の蛙チョコレートに名が載っているのもこの共同研究に由来する。フラメルと妻のペレネレは、賢者の石を用いて作られる「命の水」を飲み、昨年六六五歳の誕生日を迎え、デボン州で静かに暮らしている』
クルックスは、なぜ彼らがニコラス・フラメルのことを調べていたのか分からない。しかし、彼らは三頭犬が守っている物は、この『賢者の石』であると確信しているようだった。
(『なぜそんなものがホグワーツに』という疑問は、もはや意味がない。考えるのであれば校長はハリー・ポッターに『なぜそれを見せたいのか』だ。そこから考えるべきだ……)
クルックスは、羊皮紙を小脇に抱え談話室を出て行こうとした。
「──ハント、もう遅い時間だぞ。どこに行くんだ」
監督生のパーシーに声をかけられて、クルックスは脚を止めた。
「すこし分からないことがあったので、きょ、誰かに聞いて来ようと……」
考え事に夢中で、あまりに苦しい言い訳だった。
手招きされて仕方なく、彼の隣に座った。
「どこだい、見てあげよう。なになに。『人体の苗床化と血の女王の受胎成否の関連性について』──は? なんだって?」
パーシーは目に飛び込んできた言葉が理解できても意味ができなかったのだろう。見間違えを疑うように目を瞬かせた。
クルックスは、見せるつもりがなかった。羊皮紙を外から見えないように裏返すと全て抱えて立ち上がった。
「んんんッ何でもありませんッ! 寝ます! おやすみなさい!」
クルックスは寝所への階段を駆け上った。
(まずはネフに相談してから、と思ったが……)
阻止されてしまったので仕方がない。今日は諦めよう。
クルックスは狩人の外套に羊皮紙を収めた。
「…………」
窓を見つめ、彼は考える。
もしも、本当に賢者の石があるとすれば、本の記述が正しいとすれば、長命を保証するものだ。『デボン州で静かに暮らしている』という事実が真実であれば、彼らは病とは無縁だ。
ヤーナムの住民は、病み、救いを求めて血の医療に辿り着いた者だ。
治療に使われる血が、別の物に代わったとしたらどうだろう。
命の水は、輸血液の代わりにならないだろうか。
(賢者の石で獣の病を克服することができる? ……無理だ。長命になったとして、そもそもの原因である上位者はどうなる? それに医療教会の立場など形無しだ)
ヤーナムが壊滅しない理由は夢の主たる狩人の意向も多分にあるが、ビルゲンワースの蜘蛛が未だあらゆる真実を秘匿し続けているからだ。だから高い啓蒙を保持していなければ、アメンドーズが見えない。そして市街の狩人達が夜明けまでに狩り切れる程度の獣しか出没しない。
賢者の石を持ち帰ることは、ヤーナムに新たな刺激物を持ち込むのに等しい。同じ一年間が二〇〇年以上続いている現状にとって毒になるかも薬になるかも分からない。
クルックスは自らの思い付きを改めた。
(──ダメだ。血で起きたものは、血で解決しなければ……別の因果を絡ませるべきではない)
父たる狩人は、外の神秘に対して貪欲な好奇心を見せたことがない。
彼は、ヤーナムのことはヤーナムの内側で解決したがっているように見える。
だから、クルックスは自分の領分を超過する判断をすべきではなかった。
(俺は踏みとどまれる……だが、他の『きょうだい』はどうだろうか?)
クルックスは、この知り得た秘密を誰にも言ってはいけないと思えた。
テルミ。セラフィ。ネフライト。
彼らは、彼ら思い思いの方法で夜明けを求めている。
『賢者の石』のことを知れば彼らは別の価値を見出すかもしれない。
「…………」
かつて。
誰かを救える『かも』しれない手段を持ったお父様は、迷ったのだろうか。
クルックスは、細い月を見上げてそんなことを考えた。
■ ■ ■
クルックスは、クィディッチという競技に興味がない。
そもそも多くの娯楽に興味がない性質だ。そのことはヤーナムにいた頃から分かりきっていた。
唯一、トランプはいくつかのゲームについてルールを知っていたが、知識として覚えているだけで遊戯自体は興味を惹かれるものではなかった。狩人の仕事で命を賭け過ぎているせいだろう。取り返しのつく何かを失ったとして彼の心は、幼く湧きたちはしないのだ。
ゆえに、スネイプ先生が審判を務めるというグリフィンドール対ハッフルパフの試合にも興味がない。しけた面をしている観客がいては観客も競技者もつまらないだろう。そんな思惑で、彼は寮で唯一、競技場に行かずに学舎にとどまっていた。
そして今は陽光を謳歌するため中庭のベンチにいて、足元の蟻を眺めていた。
「フフ、ずいぶんと悩み深そうな顔をしているね」
編み上げブーツに気付き、見上げる。そこにはいつぞやのようにセラフィがいた。
何だか『わるーい』顔をしている。
「いろいろあってな……いろいろな……」
ここに現れたのがセラフィで幸いだった。
テルミならば、クルックスの抱える秘密を読まれていたかもしれない。
彼女はベンチの隣に座るとふたりの間に菓子を置いた。
「なんだこれは」
「同じ寮生から受け取ったクリスマス・プレゼントだ。僕には多すぎたから。ちょうどいいだろう」
クリスマス休暇の間に開かれたテルミのお茶会においても、彼女は菓子を持ってきた。珍しいと思っていたが、貰い物だったとは。綺麗な包装を開くとクッキーが入っていた。サクサクと食べる。細かな粒を地面にこぼして蟻を観察した。
「人間関係について悩むのは無益だ。所詮、我々は一時の宿としてここにいるに過ぎない」
「え。ああ、そうだな」
クルックスの悩みとは、賢者の石について知ってしまったことであるが彼女は都合の良い勘違いをしてくれたようだ。
「──ところで。君、森に行ったか?」
「三頭犬についてかかりきりで後回しになっている」
彼女は「そうか」と言ってクッキーを齧った。
話を促すとテルミの話題になった。
「そのうち『きょうだい会議』でも話題になるだろう話だが、最近、彼女は森に行ったそうなのだ。そこでユニコーンが死んでいたらしい」
「ユニコーン? ああ、杖芯に使われる馬みたいな生き物だったか」
それがどうして報告対象になるのか。彼は分からなかった。
セラフィ曰く、ユニコーンとは希少な魔法生物であり、捕まえることは難しく、殺して血を飲めば呪われる。
へえ。クルックスは相槌をうった。森に行く用事は今のところない。興味が惹かれなかったのだ。
「ピンと来ていないな、クルックス。問題は血の効果だ。ユニコーンの血は『死にかけた命さえ蘇らせる』という。いったい誰が何のために必要としているか? 実に気になるだろう。ホグワーツは平和だ。何も不自由がなく、病み人もいない」
「……たしかに」
最近、それと似た効果を持つ──しかも『呪われない』点で上位互換といえる──の代物の存在を知っているクルックスには胃が痛くなる話だった。彼女は実のところ賢者の石の存在を知っていて、かまをかけようとこの話をしているのではないか。そんな疑いがちらりと過る。
「……それで? 俺になぜその話を?」
「深い理由などないよ。下手人がどんな奴か。テルミが気にしていた。──血について教会の人間が興味を惹かれることは分かるだろう? 呪いがどのようなものかも」
「呪いか……」
ヤーナムに起こる呪いの全ては、上位者の怒りに触れた証である。
では、ユニコーンを殺し死血を飲むことで起こる呪いは、ユニコーンの持つ神秘性によるものだろうか。それとも別種の統括的な生物、たとえば彼らは眷属であり、連なる上位者がいて、呪いとして干渉を起こすのか。
ユニコーンの生態について調べる必要があるだろう。
クッキーを食べ終えるとセラフィに別れを告げて図書館に向かった。
奥まったいつもの席に向かう途中、テルミと出くわした。
「はぁい。クルックス。お元気かしら?」
「まぁまぁだが。ネフと話していたのか? 珍しいな」
ネフライトがテルミのことを苦手に思っているのは最近に始まったことではない。
一方、テルミはネフライトのことを便利な情報屋として使っている節があった。
「ウフフ、ちょっとした頼み事をしていました。そういえば、そろそろ試験ですね。 頑張りましょうね?」
「まだ一か月先だ」
試験の足音は、宿題が増えつつあることで自覚している。
しかし、今日、今ここで彼女に出会うとは思わなかった。
「今はクィディッチの試合だろう。俺は興味がないから行かないが、君は観なくてよいのか?」
「んー、気になることができちゃったから仕方ないことで妥協してしまったの。あぁ、もしよかったらネフを手伝ってあげてくださいね。あの人、森を歩き慣れていないでしょう? だからね。ウフフ」
テルミは甘い声でクルックスの耳元で囁く。そして、去って行った。
頼み事とは何だろうか。珍しいこともあるものだ。
いくつかの書架を越えた先でネフライトは苦々しい顔をしていた。
「ネフ。そこでテルミと会ったが、何か頼まれ事をしたらしいな」
「あぁ──」
手伝おうか、と言いかけたが彼は話題にしたくなさそうに顔を背けた。
そのうち、羊皮紙の束の端をそろえようとしてテーブルに叩きつけはじめた。
「私のことは気にしなくていい。用事があるのだろう? 聞こうか」
「ユニコーンについて知りたいのだが」
再び彼は「む」と声を漏らし、作業していた手を止めた。
この時になり、クルックスはテルミがネフライトに頼んだ用事とはユニコーンにまつわることだったのではないかと思いついた。
「ネフ?」
「向こうの本棚だ」
ポケットからメモ帳を取り出すと彼は本の場所についてサラサラと書きつけた。
やはり手伝った方が良いのではないか。
クルックスが言葉を選んでいる間に、ネフライトはメンシスの檻の中で目を細めた。
「君やセラフィには劣るが、私とて学徒である以前に狩人だ。手助け無用。君は君の探求に邁進するといい。……我々は、常にそうすべきなのだから」
「情報、感謝する」
クリスマス休暇に入ったばかりの頃を思い出し、それ以上の言葉はかけなかった。
メモを受け取るとクルックスは、本を探し始めた。
(ネフはテルミと取引をしたのか? あの反応を見るにユニコーンの血か? けれど、何のために……?)
彼が自分に不利な条件を簡単に呑むとは思えない。
クルックスの知らないところで彼らの思惑が動いていることだけは、多少の理解が追い付いた。
【解説】
ハリポタ原作的には、ようやくフラメルまでたどり着いて賢者の石の名前が出てきたところです。すなわち終盤ですね。
さて、筆者は賢者の石は『命の水を生み出すための触媒なのだ』という認識で書いています。保持者が不死になる、というものではないんですよね。ということは、これ、水を出す方法を知らなかったらただの綺麗な石なのでは……?
ネフライトはテルミの言葉をいつも半分くらい聞き流してますが、聞き逃せない言葉があった様子。またセラフィはしばし傍観することを決めたようです。セラフィは不死の女王を頂いているせいか、すこし時間感覚がフワフワしています。今が騎士にとって最も幸いな時間であるという自覚もあるのですが、それにしてもフワフワです。どうしてネフライトがいつも不摂生しているのか彼女は不思議に思っています。
【あとがき】
書き溜めている間は「淡々と投稿していけばいいかぁ。賢者の石分はできているのだし」と単純に予定を立てていたのですが、皆さんからいただいた感想により、投稿前に内容を一部修正したり、加筆したりと充実した日々を送っています。ありがとうございます。