甘き夜明けよ、来たれ   作:ノノギギ騎士団

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恐怖
かつて闇の帝王は、恐怖によって人々を支配した。
もっとも簡単で、原始的な手段だった。
それだけで十分だったのだ。



賢者の石

「あら。この匂い、わたし知っているわ」

 

「奇遇だな。俺もだ」

 

「本当に奇遇だよ。僕もだ」

 

「わ、私も……」

 

 胸にむかつく匂いにハリーは「うぇっ」と息を吐き出した。

 下水の汚水を濾して沸かした匂いを漂わせ、横たわっていたのはトロールだった。しかもただのトロールではない。ハロウィーンの夜に見たよりも更に二回り大きいトロールだった。

 

「き、気絶しているみたいね」

 

「いまこんなトロールと戦わなくてよかったよ。行こう」

 

 ハリーはトロールを避けて次の扉の取っ手に手をかけた。

 しかし、ハーマイオニーが来ない。

 振り返ると彼女が「待って」と小さな声で言った。

 

「どうしたの?」

 

 よく見れば、来た扉とこれから開ける扉を背にテルミとクルックスが立ち止まっていた。

 

「む。俺が行きたいところだったが、仕方が無い。先へ進むといい、ポッター」

 

 クルックスが肩越しに振り返った。

 彼の右手にはノコギリと鉈が合体したような歪な武器が握られていた。なぜを聞くより先に、地鳴りのようなブゥーブゥーという低い声が聞こえた。

 

「人の気配が多すぎたみたい。このトロールはもうすぐ目覚めるわ。でもね、そっちに進ませるワケにはいかないし、こっちにも進ませるワケにはいかないでしょう?」

 

 テルミが、いつの間に持っていたのだろうか──銀色に輝く剣を振りかざした。

 

「そういうことだ。コイツを黙らせたら俺も行く。ただ、無理はするな。全ての探求は命あってこそだからな」

 

 トロールがのっそりと動き出す。

 ハリーには、棍棒が床を引きずる音が聞こえていた。

 もう二度とハロウィーンの幸運は望めないことを知っているハリーは、クルックスの背中を見ていた。

 

「でも、二人でなんて無茶よ!」

 

 ハーマイオニーが悲鳴のような声を上げた。

 

「問題無い」

 

「大丈夫、大丈夫。わたし達、とっても強いから」

 

 ハリーとハーマイオニーが何とか彼らから視線を逸らした後で。

 足音だけが石の空間に大きく聞こえた。

 

「あなたは守ると言うから、てっきり彼らについていくのかと思ったのに」

 

 テルミが、ほんのすこし、驚きを帯びた声音で言う。彼女は、もうすっかりロスマリヌス入りの噴射機の調整を終えていた。

 クルックスもまた短銃へ水銀弾の装填を終えていた。

 

「『できる限り』だ。俺がそう面倒見の良い人に見えるか?」

 

「全っ然!」

 

 もそもそした動きのトロールが、テルミとクルックスを交互に見た。

 動きはとろそうだが、棍棒を握る手には確かな力が込められている。 

 

「自由意志あってこその人だ。お父様は、そうおっしゃる。ならば、これでいい。……すこし良くないな。修正する」

 

「あら!」

 

 テルミが、好奇に目を輝かせる。

 そして、クルックスがノコギリ鉈を収め、次に取り出したのが大きな鎌──『葬送の刃』であることに歓喜した。

 

「素敵! わたし、貴方のこと好きになってしまいそう!」

 

「……いちおう聞くが、なぜ?」

 

「お父様が振るう葬送の刃が好きなの! だって、あれは──わたし達を必ず朝日に導いてくれそうだもの!」

 

 テルミは、妙な確信を持っていた。

 葬送の刃と朝日。

 何ら関係の無い単語が、クルックスも不思議と重要な意味を持つように感じられた。

 だが、彼は、今考えるべき話題ではないと断じた。

 

「俺は相変わらず啓蒙が低いので何ともだ。しかし、なるほど。俺は二つ名の重要性を理解したぞ」

 

「ようやく?」

 

「今さらだったな。次回までに考えておこう。だが、今は──我らの狩りを知るがいい」

 

 戦闘の開始を合図するのは、いつだって獣狩りの短銃だった。

 真っ赤な火を噴き水銀弾──決して優れているとは言い難い血質ではあった──がトロールの肩に命中した。

 呻く小山のようなトロールに、テルミが容赦無く『ルドウイークの聖剣』を突き立てた。

 

「医療教会の名の下、穢れを拭い、払い、清め、殺すわ。さぁ、死ね!」

 

 棍棒を振りかざす。テルミは、素早くトロールの腹から剣を引き抜いた。そして、バックステップしながら目くらまし代わりのロスマリヌスを噴射する。棍棒の空ぶった攻撃の隙に、クルックスが両手に持つ葬送の刃がトロールの血肉を削り取っていく。

 トロールの体は分厚い。まずは足、胴体、首。殺しきるには時間がかかりそうだった。──彼らが、ただ戦闘能力があるだけの子であれば。

 

「テルミ!」

 

 トロールが無軌道に棍棒を振り回した。

 クルックスの声に応え、テルミの右手が懐から何かを取り出した。

 

「──星の娘(エーブリエタース)、我らに御手を授けたまえ──」

 

 花が開くように彼女の手の先に現れたのは、青白い上位者の腕だった。一見して軟体生物のように見える、長大なそれはトロールの体躯を軽くよろめかせた。

 その懐でクルックスの右手は、トロールの灰色の分厚い皮膚を突き破った。

 体内をまさぐり、血と共にいくつかの臓器が石床に転がった。

 だが、未だ倒れない。巨体のせいだろう。類稀なる体力を持っているようだった。身を起こしたトロールの目はギラギラと敵意に光っていた。

 

「む。しぶとい……!」

 

「だから技術にも振っておけば、と」

 

「これでいい。お父様は神秘に振れとおっしゃった」

 

「あらそう!」

 

 銀の剣と鞘を一体化させたルドウイークの聖剣を構え、テルミはそれを動きの鈍ったトロールの傷口に刺突した。

 呻くトロールの血肉をさらにクルックスが渾身の力で斬り飛ばす。血の遺志を費やし続けた筋力は、役に立っていた。

 トロールの手から棍棒が滑り落ちる。

 膝をつき、倒れかけたトロールの首をクルックスの刃が捉えた。

 

「──狩りの成就だ。恨みは無いが。アンバサ……!」

 

 雄叫びをあげ、振るう。

 鎌が、分厚い肉を切り裂き、骨を断つ。

 主を失い、永遠に切り離された胴体が音を立てて倒れた。 

 

「…………」

 

 呼吸を整えて、武器を変形した。

 血だまりに立つ。

 やはり虫の気配は無かった。脳裏のカレル文字も蠢きひとつしない。

 

「あなたって……」

 

 テルミが独り言のように言葉を漏らす。

 何か。問うように振り返ると彼女は呆れ顔をしていた。

 

「前々から思っていたのだけど、今日やっと分かったわ! 長柄の仕掛け武器を振るう時の体の動きが、ぜんぶ回転ノコギリなのよね!」

 

 クルックスは、もう二度とテルミの前で葬送の刃を振るうまいと心に決めた。

 

「やはり連盟員が適性を神秘に振るのは間違っている! 俺には似合っていない! 技術も分からん! 筋力だ! もう筋力でいい! 長も絶対、絶っ対! そう言ってくれるだろうさ! くそっこんな屈辱的な罵倒は初めてだ……! 反論が思いつかない……!」

 

 聖杯で筋力補正が高水準な葬送の刃が発見されるまで、彼の鎌貯金は貯金され続けることが決定した。

 わめき続けるクルックスの横顔を見て、テルミはひそかに息を吐く。──彼は敵を殺した後で思い詰めた顔をする。その姿は、父によく似ている。だからこそ、長く見つめていたいものではなかった。

 

「連盟員らしくって良いと思いますけどね。火薬庫武器は品が無くって、わたしは好きではないけれど」

 

「──好みの工房の話はしないと決めているハズだ。行き着く先は戦争だぞ」

 

 バッサリと会話をうち捨てたクルックスは、水銀弾の補充をした。

 

「獣が殺せるのなら、武器は何だっていいですけど」

 

「言ったな?」

 

 ──じゃあ、素手だ、素手!

 論理の飛躍を見せるクルックスは、すっかりいつもの調子が戻ってきたようだ。

 

「あなたが、アンバサなんて……。いつものようにアンバサでごまかすのね」

 

 テルミが、細い剣を振って血を払った。

 

「俺は君のように言葉の扱いが上手ではない。これから死にゆく者に他に何を言えばいい。……俺が殺めたのに」

 

「いつか相応しい言葉が見つかりますように慕いますね。さて」

 

 血に汚れた手袋が濡れて重い。

 クルックスは、テルミの視線の先にある扉を見た。

 しかし。

 

「──テルミ、ウィーズリーを回収して上に戻れ」

 

 クルックスの言葉に、テルミは聞き間違いをしたかのように繰り返した。

 

「回収? その提案は……悪くはないけれど、良くも無いわ。理由を聞かせてもらえるかしら」

 

「時が経ち過ぎた。校長は間もなく戻ってくるだろう。昼間から、もうじき真夜中だ。魔法界が俺達にとってどれほど非常識であっても、その時間まで用事があるということはないだろう。ここに君の姿があるのはよろしくない」

 

「今さらではなくて?」

 

 どこか小馬鹿にしたようにテルミが鼻を鳴らす。

 どうやら久方ぶりの探索が思いがけず楽しくなってきたようだ。血を浴びて、頬はほんのりと紅い。

 だが、クルックスは退かなかった。

 

「今さらであってもそうすべきだ。まだ数人の目にしか触れていないのだから。テルミ、俺は気を遣っているのだ。女子トイレで狩人の業を晒すのを嫌がっただろう? 当分は伏せていろ、と言いたい。魔法界であっても俺達は浮いた存在だ。お父様のためにもそうすべきだと考えているのだが、どうか」

 

「……あなたってわたしに『お父様のためだから』って言えば、たいてい頷くと思ってそうよね。実際、そのとおりなのだけど。ちょっとだけ悔しいわ」

 

 ジトッと湿度の高い瞳がクルックスを見つめた。

 それを呆れて見返す彼は、わずかな汗を逃すように帽子を被り直した。

 

「考えすぎだ。俺がそんな小難しいことを考えていると思うのか?」

 

「んー……全っ然!」

 

「それでいい。行ってくれ」

 

「もう。しくじったら神秘99のガラシャで殴っちゃうんだからね!」

 

「ああ、ああ、好きにさせてやる」

 

 勝手についてきたテルミであったが、引き際はあっさりしている。

 この点、損切りが早いネフライトに似ていた。そんなことを言えば、両者とも怒ってしまうだろうか。

 駆けていくテルミの足音を聞き、クルックスも扉の先に進んだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「君がいなければ、ここで彼は手詰まりだっただろう」

 

 次の試練は、論理の問題だった。

 問題文を読んで、正しい薬を飲めばよい。

 だが、魔法族というものは何事も魔法で解決してしまうせいだろうか。論理思考が弱いとネフライトが言っていた気がする。

 ハーマイオニーは、正しき答えをハリーに渡した。そして、進んだのだろう。

 だが、ハーマイオニーは泣き出しそうだった。

 

「も、も……物音が、しなくなった……」

 

 直前に誰かの怒号と叫び声が聞こえたと彼女は言う。

 クルックスは、扉を見据え進んだ。

 

「俺が行く。どれを飲めばよいか」

 

「黒の瓶よ。でも、待って。何かあったら、どうすれば……」

 

 クルックスが進むと間もなく周囲を炎が包んだ。

 薬は補充されているようだった。

 一口に飲み、手袋の甲で唇を拭った。

 

「テルミがウィーズリーを上に運搬中だ。ハーマイオニーは、ここで待て。すぐに戻る」

 

「き、気を付けて……!」

 

 葬送の刃を持った手を軽く頭上で振った。

 ──そういえば。

 

(狩りを案じられたのは、初めてだな)

 

 悪い気分ではない。

 クルックスは、血除けマスクの下でわずかに微笑むことにした。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「…………」

 

 決着は、すでに果たされていた。

 ハリーは倒れているが、呼吸は安定している。

 

(あれは──)

 

 クリスマス休暇に見た『みぞの鏡』が置かれた広い空間だった。

 彼の手から零れ落ちている、真っ赤な石こそが賢者の石だろうか。

 しかし、今のクルックスにとってそれは路傍の小石と大差が無かった。

 

「あなたであったのか。クィレル先生」

 

 緩い石段に散らばる砂に対し、クルックスは自分でも思いがけない弱々しさで声をかけた。

 身に着けていたであろうターバンやローブ、シャツは砂にまみれていた。

 その衣服は、不思議なことに、外から砂がかけられたものではない。人体が砂に変じたとしか思えないまみれ方をしている。

 クルックスの頭は、ヤーナムの貢献も血の潔白も連盟の使命も、ほんの一時だったが忘れていた。

 死体など飽くほど見てきたと言うのに、知人が変死しただけで心が乱される。心情の変化が存外、衝撃をもたらした。手足が遠くにある感覚がある。体が揺れた。

 

 彼と交わした話ばかりが記憶を繰り返し、過った。思い出す度に心の底の繊細な場所が、無遠慮に触れらたかのように騒ぐ。クルックスは葬送の刃を握る手に力を込めた。

 

「──幸いである。あなたの中から虫は出てこなかった。それは、幸いである。幸いである。ええ。幸い。幸いなのだ。人が人のまま生きて……っ……ああ、幸いだ! クソっ! 幸いだ! そうでしょう!?」

 

 クルックスは天上に向かって吠えた。

 父たる狩人は、果たして、クルックスの心情を解するだろうか。

 敵は、いない。

 葬送の刃を衣嚢にしまい込んだ。

 

「俺は狩人なのだから獣がいなければ、それでよい! 俺は連盟員なのだから虫がいなければ、それでよい! そして、俺は月の狩人の仔なのだから、ヤーナムへの献身を誉としなけばならない──!」

 

 自分に言い聞かせるために、クルックスは大声で、ゆっくりと声を上げる。

 それは拍を刻み、心によく響いた。

 クルックスは、衣嚢から袋を取り出すと石の床に広がるクィリナス・クィレルを構成していた砂とも灰とも言えない物をかき集めた。

 

「クソ……何が、何が、不老不死だ……! そんな幻があるから人が死ぬ……! こんな死に方をして何が……何だと言うんだ……!」

 

 クルックスは、テルミの願いに応えた。

 彼女は、父たる狩人への土産として魔法使いの何かが欲しいと言った。恐らくは、聖杯儀式に使うのだろう。魔法使いの遺骸の成れの果ては、十分な役割を果たすに違いない。その末路についてクルックスはできるだけ考えないようにした。思い出すことができたヤーナムへの献身の心が、辛うじて身を動かしていた。

 荒い息を吐き、手で回収できる限りの粉末を袋に詰め終わる。そして衣嚢に収納した。

 

 一仕事が終わるとようやくクルックスは、外でハーマイオニーを待たせていることを思い出した。──ポッターを連れ帰らなければならない。

 

「──っ!」

 

 人の気配がそばにあった。

 振り返るとそこにはハリーを抱え上げたダンブルドア校長が立っていた。

 クルックスは、素早く後退りした。

 

「これ、は、校長先生。お早い、お着きで」

 

 ──遺骸集めを見られただろうか。

 彼は、クルックスを透き通るような青い瞳で見つめるだけだった。

 

「いや、すこしばかり遅れて、その時間でハリーが全て解決してしまったようじゃ」

 

「……そうですか」

 

 努めて興味が無さそうに聞こえるようにクルックスは言った。

 ウィーズリーに気を遣ってテルミを帰してしまったことが悔やまれた。こういう時にこそ、彼女の機転は発揮されるべきだろうに、またしくじってしまった。

 

「……では、俺は失礼します。解決したのならば、もう用は無いでしょう」

 

 帽子を深く被り、彼の目を見つめないようにした。

 足早に彼の隣を歩き去ろうとした瞬間に声をかけられた。

 

「──待ちなさい。ミスター・ハント。君は、ここに何が隠されていたか。知っているのかね?」

 

「賢者の石と聞きました」

 

「然様。……ヴォルデモートとその信奉者は、それを永遠に失うことになるじゃろう」

 

 クルックスは、このまま立ち去ることもできる。

 そうしなかったのは、好奇が彼の冷えた心に火を灯したからだ。

 

「校長先生……ダンブルドア校長、長い命とは、永遠の存在であることは、魅力的なのですか?」

 

「左様。死を恐れる者には、甘露となるじゃろう」

 

「それは、身を粉にしても惜しくないほどに?」

 

「全てを引き換えにしてもじゃ」

 

「……俺には分かりません」

 

「ああ、分からぬ方が幸いなのじゃよ」

 

 無理解を祝福されることは、耐え難い思いがした。

 クルックスが解し得ない理由でクィレルは死んだ。それをそのままで良いと言われ引き下がれるほど彼は達観していなかった。

 思わず振り返った。

 

「ならば、なぜ賢者の石がこの学校にあった!? たかが石ころのために、要らぬ死者を、望まぬ死者を作ったのではないか!?」

 

「クィレル先生は、心の弱いところがあったのじゃよ。君の心にもある恐れが、他人よりずっと大きく、そして、勇気を持てなかったのじゃ」

 

「俺を語るな、宙の深淵を知らぬ者! 不死など俺は求めない! 人は、人のまま生き、そして死ね! 凶行の病巣を見抜いていたのならば、なぜ、見過ごしたのか。見通していたのならば、救えば良かっただろう。怠惰な賢者など愚者と何の変わりがあろうか!」

 

「世には、真に救い難き者がいる。かのヴォルデモートに憑かれた彼のように。朝陽は、時に……あまねく照らすことができないのじゃよ。そして友誼は何にも優る。わしは賢者の石を託された。あぁ、そう、フラメル、友の頼みを断ることはできんかった……」

 

「と、友……?」

 

 クルックスは、茫然と呟いた。

『友』は、未だよく分からない。理解が及ばない存在だった。だからこそ、その一言の回答を真とも偽とも断じることができなかった。

 喉の奥で曖昧に唸った後で、クルックスは帽子を手でおさえた。

 

「──しかし、要らぬ死者は、望まぬ死者は、君の糧ともなるじゃろうて」

 

 怒りという感情は、ある一定を越えると、凪の海になるらしい。

 クルックスは、今にも叫び出しそうな感情を抱えたまま、声をしぼりだした。

 

「クィレル先生のことは残念ですが、ポッターが無事で安堵しました。俺が言うべきことは以上です」

 

 彼は、今度こそ歩き始めた。外の部屋にハーマイオニーはいなかった。

 もう彼がすべき用事は何も無かった。『狩人の確かな徴』を使い、夢を捉える。

 グリフィンドールの自室のベッドの上で彼は朝日を見た。

 

「朝……」

 

 陽は、白く清らで──わずかに眩しい。

 クルックスは騒ぐ内心ばかりを持て余して外套を脱ぎ、薄着になるとベッドにもぐり込んだ。

 眠れるものならば、今は何も考えずに眠りたかった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 賢者の石騒動は、クィレル先生とハリー・ポッターの不在が証明となり、瞬く間に広がった。

 噂曰く──野心を抱いたクィレルが、校長が隠していた賢者の石を盗もうとしたところ、ポッターとその仲間が阻止した。

 この種の噂にしては、とても珍しいことだろう。概ね正解である。クルックスは断定できた。

 噂の中核であるハリー・ポッターが医務室で休養中のため、ロンとハーマイオニーが代弁者として、噂を確かめようとする生徒達にもみくちゃにされたのが二日前まで。賢者の石防衛戦から数日が経った学年度末パーティーの今夜。好奇の目はあちらこちらで光るものの、生活はひとまずの落ち着きを見せていた。

 

 学年度末パーティーが始まる前。

 すこしばかり早く来たクルックスは、ちょうど同じ頃に大広間に入って来たテルミをつかまえた。

 

「噂とは、まるで野火のようだな。恐ろしい」

 

「あら。ヤーナムでの広がりは、もっと早いわよ。皆が皆、お互いを監視し合っているのだから。予防の狩人は大忙しですもの」

 

「俺は、そういうことを言いたかったワケでは……いや、そうでもあるか……。いえ、俺が話したかった内容は、そうではなく」

 

 クルックスは、テルミを見つめた。

 

「なぁに?」

 

「明日は、列車で帰るつもりか? それとも灯りで帰るのか?」

 

 使者の灯りは、夢と現実の境界だ。

 仔らの寮、それぞれの寝床近くに明かりが生えているとは各々から聞いていた。

 テルミは「んー」と人差し指を唇に当てた。

 

「お父様に、かぼちゃパイを買って行きたいと思っているの。だから、列車で帰る予定ね」

 

「かぼちゃパイを買わなければ、列車で帰る予定ではないのか?」

 

「え? まぁ、そう……あ、でも、友人関係のために列車で帰るべきかしらね。うん。やっぱり列車ね」

 

 クルックスは、優先順位の整理を終えると手帳を出して書きつけた。

 

「かぼちゃパイ購入の任は俺が受けよう。テルミは交友関係の構築に専念してくれ」

 

「よいけれど、どうしたのかしら?」

 

「俺は言葉が……テルミのように上手ではないから、よく景色を見たいと思っているだけだ。車窓からの眺めというものについて。行きは寝てしまったからな」

 

「あら。真面目ね。けれど、良いことだと思うわ。とっても良いことだわ」

 

「であれば幸いだ。では、いずれ」

 

 テルミと別れ、寮の長椅子に座る。

 隣は、ネビル・ロングボトムだった。

 

「年度の振り返りの時期となった。早く感じるものだな」

 

「そうだね。いろいろなことがいっぱいあって……あぁ、明日、試験結果が分かる日だよ。君、自信ある?」

 

 頭を抱えてしまったネビルに対し、クルックスは頭の中で言葉を吟味した。

 

「……うん……? 俺は、そうだな、魔法薬学で薬の順序を間違えたのが気がかりだ」

 

 クルックスは、ネビルへ対する会話について成功よりは失敗を語った方が、相手を安心させることに今学期かけて気付いた。

 

「そっかぁ。僕も……うーん……いろんなことが心配だよ。あんまり成績が悪いとばあちゃんに叱られそうだ……」

 

「夏休みに自分のペースで復習すれば良いことだ。貴公は、決して自堕落な人物ではないのだから、きっとうまくできるようになるだろう。……すこし緊張に弱いだけだ。俺も、言葉が上手ではない。人には向き不向きがある」

 

「でも、一生懸命、励まそうってしてくれるでしょ。それは、何だか嬉しいよ」

 

「…………」

 

 どういたしまして、という言葉は相応しくないだろう。考え込んでいるうちに分からなくなってしまい、彼は口を閉じた。

 ネビルもまた、彼が黙り込むのは考え事をしているからだと分かっているようで何も言わない。ただ、軽く肩を叩いた。

 ちょうどその頃、医務室から戻って来たと思えるハリーが大広間に現れた。

 

 シン、と大広間が静まり返る。

 彼が丸い目を大きく見開くのが見えた。

 

 数秒後には、全員がいっせいに大声で話し始めた。

 長椅子に座るロンとハーマイオニーが、ハリーを手招きしていた。

 彼らが二言、三言話を始める頃。

 ネビルが「はぁ」と大きく溜息を吐いた。

 

「どうした」

 

「すごいよね、あの三人。賢者の石……だっけ、守ったとか、君も噂を聞いたろ?」

 

「ああ、知っている。よく知っているとも。ネビルは、憧れるのか?」

 

 勇敢と無謀は違うものだ。

 そのように諭そうとしたクルックスにとって、意外な言葉が返ってきた。

 

「ううん。ただ、僕は彼らのようにはなれないと思うから、僕のできる限りで頑張らないと……って思うんだ。向き不向きってヤツだね」

 

 ネビルにしては前向きな決心のようだった。

 それに一つ頷いたクルックスは、教員テーブルを見た。

 ダンブルドア校長が現れて、ひとつ手を打ち鳴らすと生徒のガヤガヤとした声が静まった。

 

「また一年が過ぎた!」

 

 彼は、朗らかに言った。そして、年度末の挨拶で前置きした後。

 

「寮対抗杯の表彰を行うことになっとる。……点数は次の通りじゃ」

 

 四位、グリフィンドール。三一二点。

 三位、ハッフルパフ。三五二点。

 二位、レイブンクロー。四二六点。

 一位、スリザリン。四七二点。

 

 寮の名が、読み上げられる度に拍手が起こり、スリザリンの寮名が呼ばれた時には嵐のような歓声と足踏みの音が響いた。

 クルックスは分かりきった結果になぜこう時間がかかってしまうのか分からず、今にも終わらないかと目の前の金の皿を見つめていた。

 

「よしよし、スリザリン。ようやった。しかし、つい最近の出来事も勘定に入れなくてはなるまいて──」

 

 妙な言葉を聞いた気がする。同じ感想を抱いた生徒は多いらしい。

 部屋全体がシーンと静まり返り、スリザリン寮生の笑い声が消えた。

 クルックスは、金色の皿から目を離した。

 

「えへん。まず、駆け込みの点数をいくつか与えよう。ええ、そうそう……まず最初は、ロナルド・ウィーズリー君」

 

 彼は慈善事業をしたのだろうか。

 ぼんやり彼を見ると鼻先から耳先まで真っ赤にしていた。

 

「素晴らしい最高のチェス・ゲームを見せてくれたことを称え、グリフィンドールに五〇点与える」

 

 隣でネビルが、グリフィンドール生が、爆発的な歓声を上げたが、クルックスは言葉の意味を理解することで精一杯だった。

 加点の理屈が分からない。分からない加点を喜んでよいのか。

 寮対抗杯の結果について。

 クルックスは興味の無いことだが競技であれば、それは公平であるべきではないのか。だが、この寮においてそう考えているのはクルックスだけのようだった。

 

「──僕の兄弟さ。一番下の弟だよ。マクゴナガル先生の巨大チェスを破ったんだ!」

 

 監督生のパーシーが他寮の監督生に言うのが聞こえていた。

 再び広間が静寂を取り戻したところで校長は続けた。

 

「次に、ハーマイオニー・グレンジャー嬢。炎に囲まれながら冷静な論理を用いて対処したことを称え、グリフィンドールに、五〇点を」

 

 彼女は、ポッと顔を赤らめて顔を覆った。

 グリフィンドールの寮生が、テーブルのあちこちで我を忘れたように快哉を叫んでいる。

 

「三番目は、ハリー・ポッター君。──強大な悪に立ち向かうには、並々ならぬ勇気が必要じゃ。ゆえに完璧な精神力と勇気を称え、グリフィンドールに六〇点を与える!」

 

 大広間を轟かす、大歓声だった。

 ダンブルドア校長が、手を挙げる。すると広間は静けさを取り戻した。

 その頃、計算を終えたクルックスは、最下位だったグリフィンドールが、一位のスリザリンに並んだことに気付いた。

 

「そして、勇気にもいろいろある。敵に立ち向かっていくにも大いなる勇気がいる。しかし、味方の友人に立ち向かうことにも同じくらい勇気が必要じゃ。そこで、わしは一〇点をネビル・ロングボトムへ」

 

 驚きのあまり頭が真っ白になってしまったのだろうか。隣に座るネビルは声も出ないようだった。グリフィンドールの皆が立ち上がり、喝采を上げた。

 

「──飾りつけを変えねばならんのう」

 

 ダンブルドアが両手を広げると、次の瞬間、蛇色のグリーン垂れ幕が深紅に輝いた。

 ハリー、ロン、ハーマイオニーは皆から握手を求められている。ネビルもまた、もみくちゃにされた。「優勝だ!」と騒ぐ群集の中から、くしゃくしゃにされた髪のハリーが現れた。

 

「君にも加点があっても良かったのに!」

 

 群集の叫びのなかで、ハリーがクルックスに声をかけた。

 嵐のような喝采のなかで取り残されたように、ただ曖昧な表情を浮かべていた彼は、何度かの瞬きの後で言った。

 

「……悪気が無い発言であることを、俺は理解する……」

 

 ハリーは聞こえなかったのかもしれない。

 クルックスは、耐えられない苦痛など無いと思っていたが、世の中には存在に耐えられぬ空間が存在することを知った。

 

(あぁ、茶番ではないか)

 

 教員テーブルを見るとダンブルドア校長は金のグラスを掲げていた。

 優勝杯は、ハリー・ポッターにとってクリスマスプレゼントと大差が無い。

『ハリー・ポッターに栄光を』

 ダンブルドア校長が書いた筋書きの片棒を担いでしまったことだけが、悔やまれた。

 

 

 

■ ■ ■ 

 

 

 

「この先のことは、我々に関係の無いことだ。……物好きなことだな。連盟は暇なのかね」

 

 ネフライトとセラフィは早々に灯りで帰るという。

 実際、セラフィは試験結果を受け取るなり、姿を消した。

 しかし、ネフライトはどういう風の吹きまわしかプラットホームまでクルックスと共に来た。

 やはり情深い奴だ──と感心したのも束の間。

 

「何だ皮肉を言いにわざわざ来たのか? ご苦労なことだな」

 

「貴公は自分に関係の無い出来事を我が事のような考え方をするから、忠告しているんだ」

 

「ああ参考になった。最高に参考になった。ありがとな」

 

 図星を突かれると痛いとはこのことか。

 痛みなど無いハズの腹をさすり、クルックスは足早に列車に乗り込んだ。

 旅行鞄を乗せようと躍起になっている生徒たちの流れに逆らい、ネフライトはどこかへ歩いた。

 

「……君の感情は、多様で鮮やか過ぎる。連盟員のクセに……」

 

 彼の姿は瞬きの間に消えた。

 最初から夢であったように。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 車窓から見える風景を手記に書き留める。

 牛。田園。マグルらしき村の集落をいくつか通り過ぎた。

 テルミの依頼である、魔女のかぼちゃパイを購入することだけは忘れなかった。

 学校へ来た時よりも、帰り道が早いと思えた。距離に違いはないだろうに不思議なことだった。異邦の狩人服を着こみ、サスペンダーを肩にかける頃。列車はキングズ・クロス駅の9と4分の3番線ホームに到着した。

 手記だけ小脇に抱えたまま列車を降りた彼は、テルミと合流した。

 

「クルックス!」

 

 ハーマイオニーの声に呼び止められた。

 

「あら、ハーマイオニー。しばらくのお別れね」

 

「充実した夏休みになることを祈っている」

 

 クルックスは黒フードを外し、テルミは山高帽を取って挨拶をした。

 ハーマイオニーは嬉しそうに握手を求めた。

 

「ありがとう。あのね、お手紙を出すわ。ふくろう郵便を送ってもいいかって聞きたかったんだけど……」

 

 クルックスとテルミは顔を見回せた。

 先走ってしまい「無理じゃないか」と言ったクルックスを制して、テルミが眉を寄せた。

 

「それは、うーん、えぇと、わたし達の故郷は山間にあるんだけど、何と言うか、すごく辺鄙なところで他の魔法族も近寄らない場所だから……ふくろうが届くかどうか」

 

「えっそんなに? で、でも、入学のお知らせは届いたんでしょう?」

 

「そういえば、そうだな。その辺りはどうなんだ、テルミ?」

 

 テルミは、棘のある視線をクルックスに送った。

 

「貴公って結構、他力本願よね。わたしにも分からないことがあるわ。公式文書だけは違うのかもしれない。でも、今は……ごめんなさい、ハーマイオニー。無駄にフクロウを使い潰すことにもなりかねないわ。今年の夏休みで確認してみるわね」

 

「こちらこそ、無理を言ってごめんなさい」

 

「気遣いだけでも嬉しいものだ。ありがとう、ハーマイオニー。夏休み明けに会おう」

 

 彼女は最後に輝くような笑みを見せて去って行った。

 右手をふらふらさせるだけの見送りをした後でテルミが肩を落とした。

 

「実際のところ、まぁ、無理なんじゃないかしら……」

 

「しかし、入学文書が届いたのはどう説明できるだろうか」

 

 考え込むテルミは「うー」と小さな唇を尖らせた。

 

「お父様が一年に一度、お眠りになるでしょう? その隙を突かれたのではないかしら?」

 

「なるほど。お父様の目が届かない日に……」

 

 ビルゲンワースの学徒曰く「ヤーナムを揺籃とする幼年期の上位者にして夢の主たる狩人は、一年に一度しか眠らない」という。その眠りの間にヤーナムのあらゆる不可逆的事象は──夢を見ていたかのように!──無かったことになり、新しい一年が始まるのだ。

 

「この考察は後にしましょう」

 

 ビルゲンワースの学徒達のほうがまだ詳しそうだ、と結論付けてテルミが「帰ろう」と言う。

 クルックスは、手記を抱えたままテルミに衣嚢から取り出した荷物を渡した。

 

「かぼちゃパイだ。先に行ってくれ」

 

「? まだ用事があるのかしら」

 

「ああ、すこし……すこしだけだ」

 

「先に行くわ。あなたも早くにおいでなさいね」

 

 ホームを歩き出したクルックスは、手を挙げて応えた。

 間もなくテルミが音も無く消える。夢の気配がした。

 

「…………」

 

 まるで夢のような風景だ。

 振り返ったクルックスは、列車から降りたばかりの生徒たちが親類と抱擁を交わす様子を見ていた。

 

 彼が望み、やがて父たる狩人が齎すであろう平穏の風景は──あまりに眩しく、遠い。

 

 クルックスは背を背けてホームの先まで歩いた。屋根から先は、眩しく目を細めても物体の形が分からなかった。

 ホームに響く、フクロウの鳴き声も人々の話し声も距離を保てば心地良い雑踏だ。

 いつまでそうしていただろうか。

 呆けたように光を眺めた。絶えることのない思考は、何かを考えていたような気がする。いいや、何も考えられず変わらない風景を眺めていただけかもしれない。

 

「クルックス」

 

「っ!」

 

 この場で聞こえるはずのない声で名を呼ばれて、彼は我に返った。

 大きく目を開いて振り返る。

 

「明るいところね。驚いてしまったわ」

 

 ホームに舞い込む風が、彼女の白い装束と聖布を揺らした。

 口元しか見えない目隠し帽子を被るその人は──ビルゲンワースの最後の学徒、ユリエだった。

 

「ユ、ユ、ユリエ様っ!? な、ど、どうしてここに……」

 

 白昼夢を見ているのではないかとクルックスは辺りを見回した。

 その様子を見守っていたユリエは、明るく言った。

 

「狩人君に無理を言って外の世界を見たいと願ったの。あなたの迎えも兼ねてのことね」

 

「お、お手数をおかけします、しました! か、帰りましょう! 今! 今すぐに!」

 

 ヤーナムの外から帰りたくないから遅れているのだ──などと思われるのは耐えがたいことだった。

 クルックスは、ユリエに駆け寄った。

 しかし。

 

「あら。もうすこしだけ良いでしょう?」

 

 軽やかなステップでクルックスの手を逃れたユリエは、ホームの末端にある柵に寄り掛かった。

 

「意外と空気は良くないのね。機械油を焦がした匂いがするわ。けれど不思議。外は石炭の匂いが無いのね」

 

 列車は、黙々と黒煙を吹かしていたが、外は違う。

 車が排出する揮発油の臭気しかない。

 

「石炭は、石油に代わっているそうです。ユリエ様」

 

「石油? あぁ、あの黒い油ね。とっても不思議。植物油ではないのね。精製に時間がかかりそうなものだけど」

 

「その辺りはネフライトが詳しいところです。俺には、よく……」

 

 ユリエは、振り返って小さく笑った。

 

「いいのよ、クルックス。これから学んでいくことでしょう? ──ああ、思い切って外に出て来て良かったわ」

 

 ドキリと彼の心臓は不整脈を奏でた。

 

「ヤ、ヤーナムよりこちらが良いと……」

 

「ふふふ、そういうことではないわ。『知らないことを知るのは、やはり楽しいことね』って思ったの。外の世界は広いのでしょう? 良い発想が思い浮かぶかもしれないわ」

 

「し、失礼、しました……。俺は、どうも失言が多いようで」

 

 先走るどころではない言葉をかけてしまったことに気付き、クルックスは固く口を閉じた。

 それを見て再びユリエは笑った。

 

「良いのよ、クルックス。月の香りの狩人の仔。私達の可愛い子供。聞きたいことを聞きなさい。知りたいことを学びなさい。全ての探求に無駄は存在しないわ。良いことなのだから」

 

 ユリエは、狩人の一礼をしたクルックスの前に立った。

 

「さて。次は研究旅行で来たいところね。その時は、外を案内してくれるかしら?」

 

「喜んでお供いたします。ユリエ様、お手を……」

 

 クルックスは、手を差し出し、望んで進んだ。

 柔らかな彼女の手をクルックスは、ずっと忘れないだろう。

 一度だけ振り返る。

 ホームの先、光はもう眩しく無かった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「何だい、遅かったじゃないか!」

 

 聖歌隊の白い上衣を腕まくりしたコッペリアは、扉を開けるなりユリエとクルックスに声をかけた。

 

「ユリエ様はビルゲンワースに、俺は狩人の夢に戻るのでは?」

 

「今日だけは特別なのよ。さ、座って」

 

 いつも薄暗いビルゲンワース学舎の一室は、普段より多くの蝋燭が灯されていた。

 その部屋の中央、丸テーブルに着いているのは父たる狩人だった。

 

「久しぶりだな」

 

「お父様まで! これは?」

 

「そう気を張るな。ささやかな歓迎会というものだ」

 

 狩人は、分厚い外套やトリコーン、血除けマスクをどこかに置いてきたようだ。

 軽装だったので、肩をヒョイとすくめたのがよく見えた。

 

「そうそう。『一年間お疲れさま会』だよ。……ところで狩人君、サボってないで配膳手伝ってくれないかな?」

 

「え。俺も手伝うのか?」

 

「今日は、お皿が多いんだよ。ほらほら、行った行った!」

 

「……俺、お皿落としそうで恐いんだが」

 

「じゃあ、鍋をかき混ぜる役をセラフィと交換してくれよ。飽きているみたいだからさ」

 

 そう言うコッペリアは片手で三枚の皿を持ってテーブルに置こうとしたのでクルックスは慌てて手を出した。

 

「おぉ、すまない! ありがとう! お帰り、クルックス! 僕の可愛い子、元気にしていたかい?」

 

「もちろんです、コッペリア様。コッペリア様もお変わりなく?」

 

「あぁ、僕は平気さ。おぉ! やはり、すこし大きくなったようだ!」

 

 コッペリアは長身を折りたたむように身を屈め、クルックスの頬に優しくキスをした。

 クルックスもコッペリアに頬を寄せた。

 

「……ただいま、帰りました……」

 

 彼にだけ伝わる小さな声で言った。

 階下からネフライトの声が聞こえる。帰ってきたらさっさと手伝えと言っているようだ。

 今は、すこしだけ聞こえないフリをしていたかった。

 

 消化しきれなかった感情が、人の温度に触れて消えていく。

 温もりが、怒りも虚無も──全てを溶かしていった。

 




【解説】
「誰かを分かったつもりになることは危ないが、計算には加えられる」
 あなたの恐れていることが起きますよ。──そう言われて心当たりがないと言えるほど素晴らしい人生を送ることは難しいでしょう。ダンブルドア校長の言葉とは、そういう意味を多分に含んでいました。そのため多くの人が思い浮かべる模範解答は「自分の死」ですが、クルックスにとって「自分の死」は日常茶飯事でありふれているので、多分に含んでいたほとんどの意味は的外れになってしまったのですが、日常茶飯事に死んでいる人物だと前提したり見破るほうが「あたおか」なのでダンブルドア校長は正常だということが分かりますね。(ろくろ回しながら)
 ただし、ただの言葉であっても相手より上だと思い込ませるのには、一役買いそうな言葉です。実際に何か恐れたことが起きたとして、その時に、彼の言葉を思い出さずにはいられないでしょうから……ハッ……これがマウント……!? 心的な駆け引きはクルックスの苦手とする分野なので、多少の効果は見込めるかもしれません。
 彼は、いろいろと勘違いしたり未熟な感性をしていますが「やーい、君の動き方、回転ノコギリ~!」でショックを受ける程度には神経質なのです。

【あとがき】
 賢者の石編は、もうちょっとだけ続けて終わりになります。
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