時の流れのある一点を切り取ったもの。
だが、 前後関係を明示するための変数に過ぎない。
ビルゲンワースの教室の一室。
午前十時。
珍しく晴れた空から、燦燦とした夏らしい日差しが差し込んでいる。
そんな屋内で。
「──というワケで、死に戻り、久しぶりにヤーナムに来たクィリナス・クィレル先生だ。みんな、イジめてやるなよ」
「はーい」
「分かったわ」
一通りの経歴と事情を話し終えた後、教壇に立つ狩人の発言に対し、素直に返事をしたのはテルミとユリエだけだった。
死んだ人物が存在している現象をすんなり受け入れる方が、どうかしているのだ。
だが、教会の黒服に身を包む人物は、紛れもなくクィリナス・クィレル当人だ。
クルックスは、驚きのあまり固まって声も出ない。
ネフライトは、品定めするように瞬きもせず眼鏡の向こうで見つめている。
セラフィは、すでにカインハーストに旅立った後だ。
そして、コッペリアはブルブルと身を震わせ、とうとう肘掛を腕で叩き、学生席から立ち上がった。
「狩人君ッ! 君ってヤツは! 君ってヤツはーっ! クルックスが、ようやく悲しみを乗り越えて強くなったのに! 台無しに! 台無しにしてーっ! もーっ! 人の心が分からんヤツだな! さすがは上位者なので当然なのかね!?」
地団太を踏む一九〇センチ成人男性を前に、既に怯えていたクィレルは「ヒッ」と声を上げ、泣き出しそうな顔をした。
「コ、コッペリア様! や、やめてください……! 俺は別に」
「──ねえ、クルックス。何の話かしら? わたし、とっても気になってしまったわ」
「テルミは黙っていろ! お、俺は気にしてませんから……本当に……!」
クルックスの不安とは、狩人とコッペリアが自分のせいで不仲になることだった。
その事態が避けられるのであれば何でも構わない。
クルックスは素早く立ち上がると今にも狩人に飛びかかってしまいそうなコッペリアをドゥドゥと押さえた。
「んん……? そう? 君が気にしないのであれば、僕も、まあ──やっぱり、よくないな! 後でじっくり教育方針について話し合おうじゃあないか、狩人君!」
「なぜ怒るのか分からないな。経緯はどうあれ生きているんだぞ? 青キノコでもない。何よりギィギィ鳴いたりしないんだ。頭だって、たぶん正常だし、聖堂街上層から禁域の森の奥地のここ、ビルゲンワースまで歩いてくることができる健脚でもある」
ほらほら、と狩人はクィレルを指差した。
「でも、僕は死んでいてほしかったな!」
「コッペリア様! 本当に! 俺は! 気にしていませんので! いませんので! あなたが思うより大丈夫なので!」
まだまだ何か言いたげなコッペリアを座らせたクルックスは自席に着いた。隣に座るネフライトが「聖歌隊が熱く語るものだ」と鼻で笑った。もう少しクルックスに心の余裕があれば、コッペリアを侮辱した彼の鼻柱をへし折るところだったが、今は父たる狩人がいる場であり、何より心の余裕がなかった。
「まあ、このような意見もあるワケだが。他はどうか?」
狩人は、三人を見た。
「役に立つでしょう。私は問題に感じません」
ネフライトは狩人の問いに胸に手を当てて軽く頭を下げた。
「わたし達が持ち込む知識より手早く確実にヤーナム外の神秘について知見を得られそうです。お父様、きっと良い試みですわ」
「私もテルミと同じ意見よ。……けれど、狩人君。事前に話してくれても良かったと思うわ。昨日、ほとんどの食料を調理してしまったから歓迎会ができないのに」
「思い付きで行動したのは悪いと思っている。あと食料は後で俺が調達する。心配しなくていい。では、先生、挨拶を」
狩人が教壇を譲るとクィレルはヨロヨロと教卓の前に立った。
死刑囚さながらの顔は酷いものだった。
ビルゲンワースの溶けた学徒並に突然嘔吐するのではないか。狩人が憂うほどだった。
「み、皆さん、こ、ここ、こんにちは……わ、私は……クィリナス・クィレル。ホッホホ、オ、ホグワーツの先生……でした。何が、どういうワケか……わわ、私にも、分かりませんが、今、私はヤーナムにいます……わ、わた、しにできることは、な、な、何でもしますので──」
「じゃ、背骨出しなよ。あと血。バケツ三杯は覚悟しておくんだね」
「コッペリア様っ!」
クルックスは、悲鳴のような声を上げた。
言い募ろうとしたクルックスを制した狩人が、静かに言った。
「うーん。聖歌隊の黒服イジメの実態を見てしまったような気がする。……だが、コッペリア、言葉に気を付けてくれ。それ以上の言葉は連盟的に『頭のイカれた医療者』と見なさなければならない」
「しかしだね、狩人君。彼は、貴重な外来の神秘の被験者だ。ヤーナムの血は、もう入れたのだろう? ならば手術台の栄誉を賜すことだって悪くは無い将来だと思うのだよ」
「『我々に』とって悪くないだけで、彼にとっては好ましい事態ではないだろう。そもそも血は入れていない。視点を外しているな、コッペリア」
「えっ!? 血は入れていないのか? ということは純粋な外来の神秘じゃないか! おぉ、異邦人が手術台の栄誉を賜れるなんてかつてない幸運だというのに!」
話にならん、とばかりに狩人は顔を顰めた。
「コッペリアをはじめ皆にハッキリ言っておく。クィレル先生は五〇年ほどヤーナムに滞在して、それから外の世界に帰る予定だ。もちろん。その間、手術台に用事は一切ない」
いくつかの口が「えっ」という言葉を漏らした。
そのうちのひとつは話題のクィレルだったので狩人は首を傾げた。
「ん? 『しばらく』滞在するという話だったろう?」
「ししし、『しばらく』とは、せいぜい数か月のは、話では……?」
「だが、先生が生きていると都合が悪い人がいるのだろう? それが何歳か知らないが、五〇年もあればたいていの知人は死ぬだろう」
「五〇年! わ、私も死んでしまいます……!」
狩人が「あー」と小さな呻きをこぼし、ユリエに助けを求める視線を送った。
それに答えたユリエが咳払いをした。
「寿命については、あまり問題はないでしょう。現在、ヤーナムの時空間は激しく歪んでいます。具体的に言えば、ある例外を除いて一年間が二〇〇年以上繰り返されていますから」
「街に訪れた時、や、やけに、古いと思いました。じ、時間が止まっている?」
「それは異なる考え方ね。時間は緩やかに進み、戻り、重なり合って、縒り合い──」
「ユリエ、話し過ぎだ。彼は、僕らに従わない自由がある。だから、僕らにもヤーナムの血を受け入れていない者に『語らない自由』だってあるハズさ。そうだろう? 狩人君」
コッペリアがクィレルに圧をかけるように歯を見せて笑う。狩人は、コッペリアの言葉に一理を認めるように頷いた。
「なるほど。それも対等というものだ。まあ、つまりだ、先生。寿命はあまり心配しなくていい。それで五〇年でいいか? やっぱり念入りに百年くらいにしておくか?」
「ふ、増えてるっ! 十年くらいで……」
「ああ、そう。控えめなんだな」
話の先を促されたクィレルは、挙動不審だったが、しかし、覚悟を決めたように顔を上げた。
「あ、あの、私は、ひとつ、み、皆さんに、謝らなければ、な、ならないことが……」
「生きていることを苦にして欲しくはないのだが、その件ならば──」
狩人の言葉に、クィレルは首を横に振った。
「いえ、ま、まったくの、別件です……。闇の帝王のことです」
「誰かしら?」
クィレルは深刻な顔をしているが、ホグワーツに通っていた三人を除く大人たちは首を傾げる事態だった。
ユリエのもっともな疑問に答えたのはテルミだった。
「約十一年、イギリス魔法界で暴れまわっていた魔法使いの犯罪者のことですよ、ユリエお姉様」
「そう。ずいぶん仰々しい名を呼ぶのね。本名が知られていないのかしら?」
「通名は、ヴォルデモートだそうです。本名は辿れませんでした」
──ふぅん。誰かが鼻を鳴らした。
三人の大人達は「それで?」と無言のうちに話を促す。
憐れなほど震えるクィレルは血の気が引いているようだった。
「わ、わたしは、旅行中に手記を書いていて、そ、そのため、ヤヤ、ヤーナムのことが……その闇の、て、帝王に、し、知られてしまったのです……」
核心を話したところでヤーナムの民は、荒れた感情を見せることはなかった。
誰も何も言わないので狩人が代表して彼らの内心を代弁した。
「ふむ。それの何が問題なんだ?」
「や、闇の帝王ですよ……! お、恐ろしい! あれが、ヤーナムに、く、来るかもしれないと──あぁ!」
可能性さえ考えたくないらしい。
クィレルが顔を覆った。
「来る? それはなぜ? 観光? 見てのとおりヤーナムは日常的に何の変哲もない異常が起きているだけで、実のところ、ただの病の街なんだが……」
「ヤーナムが秘匿された、か、隠れ家に、なりうるからです……」
隠れ家。
言葉を繰り返した狩人は「ふむ」と顎に手を置いた。
何事か計算を終えたユリエが彼に尋ねた。
「狩人君、ヤーナムの外から来る異邦人についてどれほど把握できているのかしら?」
「俺は獣だって取りこぼしたことがない。目覚めている間に入って来た者には目が届く」
「では、厳戒態勢は一日でよいとしよう」
コッペリアが話をまとめ、狩人が頷く。
対策は決まった。
「クィレル先生。あなたの危惧に対し我々は『問題にあたらない』を現在の認識とした」
「……っ……」
彼は、歯がゆい思いをしているのかもしれない。だが、言葉が足りなかった。
ユリエが彼を落ち着かせるように語りかけた。
「あなたの死因になった恐怖を、理由を、我々は未だ解さない。再び議論を必要とする場合は、あなたが我々に理解できる言葉を用意してから話し合いましょう。ヤーナムの安寧を脅かす存在について今回は『問題にあたらない』とはしましたが、これは永劫に問題として取り扱わないという意味ではありません。子供とヤーナムの外との交流実験は、もうしばらく続きます。本件に関わらず、この類の議論は我々にとっても続けられるべきなのです」
「…………」
狩人が軽く手を挙げてユリエを肯定する。
彼女の言葉を最終結論として、クィレルの告白は終わった。彼の横顔には、わずかに安堵の色が見える。
おぼつかない足取りで教壇を降りた彼にユリエとコッペリアが歩み寄った。
「月の香りの狩人が招いた客人、歓迎しましょう。私はビルゲンワースの学徒、聖歌隊のユリエ。月の香りの狩人の協力者よ」
「同じく僕はビルゲンワースの学徒、聖歌隊のコッペリア。いまや月の香りの狩人の協力者さ。よろしく。我欲に溺れて悪人に魂を売った挙句、年端もいかない少年にブチ殺された青年教授のクィレル先生」
「てて、敵意がスゴい! スゴいですよ!」
握手しながらクィレルが助けを求めるように狩人を見た。
ひとつ。欠伸をした狩人は、肘掛に腕を預けた。
「彼は初対面に噛みつかずにはいられないヤツなんだ。俺だって三階から背負い投げされたし」
狩人は、クルックスにとってお腹がキリキリと痛くなる話題を軽く言った。
その視線の先では。
「仲良くしようじゃあないか、異邦人。ぼかぁ、死んでも苦情が来ない人が三度の飯より大好きでね。君とは親友になれそうな気がするんだよ……」
馴れ馴れしくクィレルの肩に腕を回したコッペリアが邪悪に笑った。
──うまくやっていけるだろうか。
クィレルの顔は青ざめていたが、クルックスも憂鬱な気分だった。
■ ■ ■
教壇には、ネフライトが立っていた。
もともと狩人が皆をビルゲンワースの教室に集めたのは、彼が一年で集めたヤーナム外の神秘──すなわち魔法について知識の共有を行うための勉強会であったのだ。
狩人とネフライトの間で行われる予定であったものを『一年間お疲れさま会』のおり「どうせなら僕らも聞きたい」とコッペリアが言ったことでこのような場が設けられた。
ついでのついでとして、クルックスとテルミ、そしてクィレルが学生席に座っている。言葉を操るのが上手くないクルックスが補足説明をすることはないと思われたが、テルミは必要とあれば口を挟むだろう。
最初の十分程度。
クルックスは理解に努めたが、健闘虚しく気付けば寝ていた。
ヤーナムで父と学徒達に囲まれる安心感は、ヤーナムの外のどこにもない、とても得難い感覚であったのだ。
頭がカクリと揺れて目が覚める。
ネフライトの説明は終わりが近づいているようだった。
すでに議論の段階に移行し、質問と回答の応酬が繰り広げられている。隣に座るテルミが目を輝かせて楽し気にしていた。どうやらロクでもないことが起きているらしい。
三方向から挙手が見える。
「素人質問で申し訳ないけれど──」
「ユリエ様……」
「聞き逃したのかもしれないがね──」
「……コッペリア様」
「えー、俺の知識不足が原因だが──」
「お父様まで! あなたが知識不足なら誰が博識だと言うのですか! くっ……!」
普段は不気味なほど静かにしているネフライトが語気を荒げる。
彼の頭のなかにどれほどの知恵が渦巻き、単語を整列させているのか。クルックスには見当がつかない。しかし、彼が現状、不利な状況にあることは理解が及んだ。
「劣勢だな、手伝おうか」
「口出し無用! メンシス学派は! 聖歌隊に! 負けないのだから!」
追加資料を提示したネフライトは、活力が漲っている。
いつもホグワーツの図書館で眠たげにしていたのが見間違いだったようだ。どうやら彼に真に必要なものは張り合いのある知識人であったらしい。
「いいね。メンシス学派が檻臭い学徒くずれではないことを証明しておくれ。彼らの賢い子」
試すようにコッペリアが笑いかける。
狩人が懐から羊皮紙を取り出した。
それに何事か書きつけた後で、ひとつ手を叩いて議論をまとめた。
「メンシス学派。そういえば今頃どうしているのやら。まあ、いい。──ネフ、面白かった。ありがとう。参考にもなりそうだ。外来の神秘──」
「狩人君、魔法ね」
「そう、魔法。杖はアレだ。つまり、ヤーナムで言うところの神秘の『先触れ』の存在なのだな。全てそれを触媒にして魔法という神秘を起こす……と。ふむ」
「引き続き調査を進めます」
「無理をしなくていい。勉強の片手間で十分だよ」
──こちらも君の資料を読み込むのに時間がかかって大変だった。
そう言った狩人に、ネフライトは珍しく力強く首を横に振った。
「いいえ。私は、獣の病に対する一つの解答を魔法界で作り出しましょう。メンシスに所属する者として、雲に紛れようと確かに月は解として正なのだと示してみたいのです。また、たとえ正しく発芽することのない苗床ができたとしても……それは確かな前進であると信じていたいのですから」
ユリエが何か言いかけるように薄く口を開いたが、しかし、言葉は出てこなかった。
その代わりのように狩人が笑った。
「いいだろう。面白い。良いセンスだ、ネフ。セラフィは俺に人間の証明を見せてくれるらしいが、君にも期待しようか。とはいえ、何より自分自身を大切にな」
「ご理解に感謝いたします。……私はこのままヤハグルに行きますが、ご用あれば鐘を鳴らしください。すぐに参りますので」
「分かった。エドガール君によろしく」
ネフライトは『狩人の確かな徴』を使い、姿を消した。
小さく控えめな笑い声が聞こえてクルックスは、テルミを見た。
「あーぁ、面白かったわ。悔しがるネフの顔を思い出すだけで、あと半年は飽きませんね」
学生席を立ったテルミは、狩人達を見た。
「おや、テルミも孤児院に戻るのかい」
「ええ。そろそろ行きませんとね。名残惜しいですわ、コッペリアお兄様」
「僕もだよ。僕らの妹」
コッペリアは、狩人に連なる四仔をそれぞれの変わった名で呼ぶことがある。
テルミのことは『僕らの妹』と呼んでいた。
彼女が聖歌隊に連なる点で所属の関係上、同じ存在であるからだろう。
「もうすこしゆっくりしていけばいいのに……とも思うけれど。あちらをあまり不在にしてもね。テルミ、次にホグワーツに旅立つ前に、あなたへ拝領の儀を行います。新しい聖布を用意しておくわね」
「もう? よいのですか?」
意外な提案だったのか、テルミが目を丸くした。
「孤児院では十歳に済ませるんだ。君は、ようやく一歳と半年だが、利口な君は特別だよ。何より、君のお父様から許可をいただいたし」
「まぁ、ありがとう、お父様」
「おぉ、ぉう」
ひどく動揺している狩人は決してテルミを見まいとしているようだった。
微妙な空気になった。
次に誰が何を話すのか。誰もが待っているようだった。
隣に座るコッペリアが狩人のブーツを小突いた。
「……ちょっと。狩人君、練習したじゃないか……」
「……いざとなると緊張するんだよ……。あー、んんー、テルミ、その、無理は、しないように、ね」
辛うじて聞こえる程度の声で言いきった狩人へテルミは輝いた顔を向けた。
「なーんにも! 無理で無茶で無謀なことはありませんわ! フフ、ウフフ、お父様に心配されちゃった……! それでは、お父様、お兄様、お姉様、クルックス、先生、ご機嫌よう!」
黒い教会服をひらりと揺らしてテルミの姿も消えた。
『きょうだい』で残ったのは、クルックスのみだった。
「俺は、夕まで学舎にいる予定ですが……。お父様は?」
「市街でギルバートさんの様子を見て来る。ユリエ、輸血液を用意してほしい」
「一時間で用意しましょう。──では、コッペリア、クィレルさんに学舎の案内をしてあげて」
コッペリアは不承不承であったが、ひとまず頷いた。
■ ■ ■
廊下は、教室と同じくらい燦燦と陽が差していた。
ヤーナムにしては珍しい晴れた天気だったので、クルックスはホグワーツと錯覚しそうになっていた。幻を振り払うように彼は頭を振った。
待ち時間は、一時間だった。
どこかへ暇つぶしに行こうとする狩人の背に声をかけた。
「クルックス、何か?」
言いたいことは山ほどあるはずなのに今日も口が重い。
クルックスは、伸ばしかけた手を無意味に握ったり開いたりした。
「……疑問は、解決しましたか?」
絞り出すように言った。
狩人は、昨夜のことを思い出したのだろう。
「ああ。とても有意なものだった」
「お父様は、どうして、クィレル先生を……聞いてもよいでしょうか?」
「それを説明するには、まず最も新しい獣狩りの夜について話をしなければならない。つまりは最後の周回についてだが、一時間では足りないな」
──説明は、後で。
そう言う狩人の姿は珍しいものではなかった。
クルックスの質問の半分は、このような形で彼は答えてくれない。話したくないのか、それとも本当に時間を気がかりにしているのか、彼には今でも判断ができなかった。
しかし。
「時計塔のマリア」
背中を向けた狩人が、ピタリと動きを止めた。
「──とは、どなたのことですか」
狩人は、ヒョイと肩を竦めて振り返った。
「まず誤解してほしくないのだが……俺は何も説明を渋っているワケではない。誤解無く情報を伝えるためには口達では不完全だと思っている。特別な『機会』が必要だと思っているんだ」
「狩人の夢であれば」
「口達では不完全だと言っただろう? 固まらない血のように、記憶を保ち、遺志を伝える──ああ、やはり特別な物が必要だ」
「特別な?」
「だが、なかなか適切な素材が見つからなくてな。俺も少々困っている。質問に答えてくれない苛立ちというものは、痛いほど分かる。時間はかかるかもしれないが、いずれ用意する予定だ。クルックスに限らず皆にだが」
「い、いえ、別にイラついているワケでは……すみません。でも、ありがとうございます」
「二〇〇年以上のあれこれを一年で理解しろとは暴論だからな。分かっている。気にするな。……夜は市街だ。君も来るか?」
「は、はいっ! 俺を誘うのは、初めてで……珍しいですね……」
狩人が誰かを狩りに誘うのは、本当に珍しいこと──稀だった。
彼は、困ったように頬を掻いた。
「少しくらい俺も気をつかうさ。クルックスは、久しぶりの獣狩りだ。うっかり獣の餌になったら俺だって寝覚めが悪い」
「…………」
本音は『大丈夫です』と言ってみたい。
けれど、狩人から誘われたことが嬉しかったのでクルックスは、一礼した。
「……最後にひとつだけ。ホグワーツに旅立つ前、ネフへ『神秘に振れ』と伝言をしたでしょう。その真意とは?」
「『どうせ回転ノコギリでギャリギャリするんだろうから水銀弾も余るだろうし、怨霊と一緒に突っ込めば強いかなぁ』と」
「そ、そ、そ、それだけ?」
「──図体のデカいヤツには試してみる価値アリだろう?」
狩人は目を細めた。それが不慣れな父親を演じる、彼の見せる微笑みだとクルックスは知っていた。
何もかも彼にはお見通しだったような心地になり──すこしだけ、くすぐったい。
「俺は湖を見てくる。ユリエの準備ができたら呼んでくれ」
「はい!」
ひらり。彼は、右手を挙げた。
■ ■ ■
ユリエの準備が整う間、ビルゲンワースの棟内を巡回にでかけたクルックスは、最上階の廊下の窓越しから湖の畔で佇む父たる狩人を遠くから見ていた。
宙に何かを探すように彼は空を仰いでいる。
(何が視えるのだろうか)
同じように空を見上げても、薄曇りの明るい空しか見えない。
だが、ヤーナムの宙にあるものは、知っている。
一年を二〇〇年以上繰り返しているヤーナムには、古い遺志の漂いが大気に満ちているのだ。
だが、クルックスは、それらを知覚できたことがほとんどなかった。
狩人のような経験が足りないからだろう。
彼は、階段を昇り、狩人に背を向けた。
いまや血に依って作られる歴史の渦中。
夜ごと悪夢から還る人がいるのも珍しいことではない。
宙を眺める月の香りの狩人であれば、気付いていたかもしれない。
それは、狩人の古い罪に近い。
今日の風には、微かに、深い沖からの匂いが漂っていた。
【解説】
古い遺志の漂い。
海の香り。
狩人の古い罪。
血によって作られる歴史は、意志の歴史でもある。
夜、悪夢に去った狩人がいるのならば。
朝、狩人が悪夢から戻ってくることもあるだろう。
仮初であれヤーナムの獣狩り夜は終わったのだから。
【解説2】
ビルゲンワースの閉じた瞳、コッペリアは仔らを愛称で呼んでいます。
下記は、その一覧です。
僕の可愛い子:クルックス
僕らの妹 :テルミ
彼らの賢い子:ネフライト
貴い御方の剣:セラフィ
テルミが聖歌隊(の孤児院)所属になった時は、僕らは、とても嬉しくて泣きながら晩酌した。最後にして最新のヤーナム史において迎えた『獣狩り夜』に、僕ら聖歌隊は間に合わなかった。ついに僕らの瞳は、星の徴を見つけることはできなかった。それが時間の問題なのか。手法の問題であったのか。僕らは今なお理解が及ばない。また、あの悲惨な夜において月の香りの狩人が聖堂街上層で得た成果はほとんど無かったと言える。それは聖歌隊が、後世に遺せるものがほとんど何も無かったことも意味した。誰の記憶にも遺らないことは、遺志を託せず消えていくことと同じだ。……テルミは、僕らがようやく見出した、最初で最後の、最高の、全てを知った聖歌隊の後継になれる器なのだ。もっとも。あの子に、そのつもりは無いようだけど。【コッペリアの手記】
【あとがき】
聖歌隊+狩人の質問の仕方は、絶対に聞きたくない言葉ですね。聖歌隊、たとえ相手が子供であってもメンシス学派には思うところがあるようです。
根も葉もないけど聖歌隊って黒服イジメてそう。高飛車な聖歌隊しか得られない成分があります。素早く心に届くタイプの成分です。
次話の番外を挿入話として、賢者の石編が終了となります。
もうちょっとだけお楽しみいただければ幸いです。
ご感想のご返信が遅れていますが、募集していますのでよろしくお願いします。
指摘についていろいろと考えるのが楽しくなりすぎてきました。皆さまのロマ考察がとても興味深いのです。(もちろん、考察でなくとも大歓迎です)