甘き夜明けよ、来たれ   作:ノノギギ騎士団

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聖血の拝領証
医療教会が与える病み人の証
全ての病み人にとって、血の救いは命を救われる事と同義である。
すなわち、神の御業だ。
ゆえに拝領は、教会の慈悲の証となったのだ。



鴉呼びの警笛

 市街には「ピィー……ピィー……」という高音が、響き渡っていた。

 耳鳴りのようなそれが聞えた時、クルックスは父たる狩人と共に市街を哨戒していた。

 今日のクルックスは獣狩りの斧を負い、左手には松明を掲げている。

 隣では頭上を見上げ、立ち止まった狩人が「やれやれ」と呟いた。

 

「笛の音……ただの笛ではない。教会の警笛ですね?」

 

「そうだ。今では『鴉呼びの警笛』なんて呼ばれているな」

 

「鴉呼び?」

 

「獣の、あるいはカインの騎士の危険を知らせるための警笛だが、笛の音を聞いて駆けつけた頃には笛の主はとっくに殺されて、後には血塗れの鴉が立っているんだ。そんなことが何十回も続けば、それを見た狩人はこう思うわけだ。──『笛を吹いたから流血鴉がやって来たのだ』とな。原因と結果が逆転してしまったのだよ」

 

「因果が逆とは、そういう意味……。……。……ええと、人気者ですね、鴉」

 

 警笛は、鳴り止むことがない。

 そして、音は絶えず移動を続けている。

 彼は誰かの首を刎ねたのだろうか。断末魔らしき「ピュヨッ」という笛音も聞こえた。

 

「真面目なヤツではあるのだろう。隠れるのが苦手のようだが」

 

 狩人が、ややうんざりしたように言った。

 ピーピーと聞こえる笛が煩わしいのだ。

 

「……セラフィのことを考えています。大丈夫だろうか」

 

「大丈夫だろう。彼女は、頑張っている」

 

「頑張っている」

 

「自分が死ぬときは誰かを道連れにするタイプの狩人だ。つまり、しぶとい」

 

 クルックスには、どこがどのように大丈夫か分からなかったが狩人が「頑張っている」と言うので、そうなのだと信じることにした。

 再び歩き出した狩人の後をついて歩く。

 

 広い街路に出るとたき火を囲んでいる狩人達がいた。

 そのうちの一人、枯れ木を足している狩人は覚えがある。連盟の同士、ヤマムラだった。 

 もう一人は、教会の狩人だ。白く厚い教会服を着込んでいる。しかし教会の白服ではない。見慣れない装束だった。

 

「おや。珍しい組み合わせ。アルフレートさん、ヤマムラさん」

 

「あぁ、狩人さん。こんばんは」

 

 白い装束の彼が振り返って丁寧な教会式の挨拶をした。

 狩人はトリコーンをヒョイと上げて、それに応える。彼の後ろでクルックスは軽く頭を下げた。

 

「珍しいですね、誰かと一緒なんて」

 

 彼の足下に置いてある金色の車輪には見覚えがある。──ローゲリウスの車輪と呼ばれる処刑隊が持つ武器だ。

 すると彼は、処刑隊なのだろうか。

 何度か狩人から話を聞いたことがある。白い装束の彼こそ血族狩りの狩人、アルフレートだろう。

 

「私はこう見えて成長期なのでね。こちら、息子だ」

 

 むっ!

 アルフレートが大きく目を見開いた。

 クルックスは、狩人にハッキリと「息子」と言われたことがなかったので新鮮な気持ちになった。

 

「息子っ!? か、狩人さんにもいい人がいたんですね! おぉ、めでたい! あとでお祝いの品を持って行きますよ。お家はどこに?」

 

「え。いやいやいや、お、お気遣いはありがたいけども。誰かと結婚したワケでもなし、まあ、成り行きで出来たというか、回転ノコギリの事故というか──」

 

「子供の前で言うことではありませんよ!」

 

 アルフレートは、素早く狩人の首根っこを掴むと二人で路地へ入っていった。

 追いかける雰囲気ではなかった。

 彼らを見守っていたヤマムラと目が合った。

 

「あー、すぐに戻ってくるさ」

 

「そうですね。あの狩人の方は、医療教会の……親しいのですか?」

 

「そういうワケではないんだが、私も『成り行き』ってヤツだよ。最近、巷の噂になっている流血鴉のことは知っているだろう?」

 

「はい。この警笛の音を辿ると会えるらしいですね」

 

 夜に響き渡る警笛は、鳴り止むことがない。

 ヤマムラも帽子のつばを押さえ、空を見上げていた。

 

「彼、アルフレートと言うのだが……鴉が素早く、独りだと追いつけないらしい。耳目が多ければ有利だろう。そこで知人である私に声がかかったんだ」

 

「なるほど。一時的な協力というワケですね。……いえ、教会の人間にしては、良い人のようですが」

 

 クルックスは声を低めた。

 ヤマムラも「ああ」と答える。

 周囲に人の気配は無い。それにしても監視社会のヤーナムにおいて教会の悪口を言うのは憚られた。

 

「ところでヤマムラさんは鴉と会ったことがあるのですか?」

 

「あるけれど彼は私に興味が無いらしい。一礼して去って行った。一合くらい打ち合ってみたかったが」

 

「…………」

 

 クルックスは、ヤマムラが腰に帯びた刀を見た。

 カインの騎士達が使うという千景という武器。彼もまたそれを持っていた。彼が見逃された理由の一端かもしれないと思えた。またカインハーストを誅する命を担った処刑隊、その系譜を持つアルフレートが彼に声をかけた理由も。

 クルックスが千景を見つめていることに気づき、ヤマムラはたき火から離れると柄に手を置いた。

 

「カインの騎士とやらには、何か目的があるのだろうね。むやみに殺し回っているようであり、しかし、獣に襲われていた教会の狩人を助けるなんて気まぐれを起こすこともある」

 

「…………」

 

「市街は広い。だが、万一のために父君と離れぬことだ」

 

「……どうでしょう。あの方、長く独りで狩りを続けていたせいで周りに人がいると落ち着かないようですから」

 

「そうでもないさ。年長者というものは、後輩がいればそれなりの気を配るものだ。彼は、彼自身が思うよりずっと器用な性質のようだからね」

 

 気を遣われていると感じることは無かったのだが、けれど思い返せば、今日の彼に追いつくのは容易いことだったような気がする。彼がクルックスを意識していたかはどうか定かではないが、歩幅は普段より小さかった。

 

「ああ、きっと、そうでした」

 

 年かさの東洋人は、血生臭い夜に似合わぬ笑みを浮かべた。

 そして。

 

「息子の君に言うのは、自分でもどうかと思うのだがね……。もうすこし殊勝な態度だったら長も認めると思うよ。根は、とても真面目なのだし……」

 

 ヤマムラは、残念な生き物を見るような目で狩人が姿を消した路地を見やった。

 彼が心を痛めているのは、狩人が連盟の長に出会う度にチクチクと小言を受けていることだった。

 

「長って同士を大切にしているだろう。しかし、彼には妙にアタリがキツい。私が聞いても答えてくれないのだが……君は、何か知っているかい?」

 

「期待の裏返しということで俺は納得しています」

 

「だといいな……うん……だといいけどなぁ……」

 

 ヤマムラは、しみじみと言う。

 クルックスは突然不安になった。自分の不在の間に狩人は何かとんでもないことをしでかしたのだろうか。連盟の集会場所になっている禁域の森の風車小屋を聖杯チックに改造するとか……。

 問いかけようとした、そのときだ。

 隣の通りから、鋭い警笛が聞こえた。

 細い路地から、広い肩をぶつけながら、アルフレートが飛び出し、素早く車輪を拾い上げ、長銃を構えた。

 

「ヤマムラさん、行きますよ!」

 

「ああ。いつでもいい。……クルックス、狩人の指示で動け」

 

「了解。ご武運を」

 

「応っ!」

 

 ヤマムラの言葉を合図に二人は夜に駆けだしていく。

 足音が聞こえた。

 ようやくアルフレートから解放された狩人が、ヘロヘロになって出てきた。

 

「お父さ──狩人さん、加勢されますか?」

 

「したいところだがな。流血鴉とは、市街では『やむを得ない交戦』以外は、しないということで誓約を結んでいる。それにアルフレートがいるからな。そっとしておきたい。俺は遠慮する」

 

「では、俺も待機します。かの騎士は、積極的に敵に回したい人物ではない。それにセラフィの恨みも買いたくない。けれど、笛の音が……。狩人達は獣どころではないな。人狩りに夢中だ。はぁ……」

 

「賢い選択だ。もし、俺が君なら頭を突っ込んだことだろう」

 

 狩人の言葉に、クルックスは彼を振り返った。

 それを期待されているのだろうか、とクルックスは思ってしまったのだ。

 彼は否定するために右手を振った。

 

「『そうしろ』という意味ではない。俺の悪い癖なんだ。だから誓約を結び、できる限りそうした事態が起きないようにしている。……俺は、自分で何でも解決できると思い上がっていた。今でもそんな節があるが、まぁ、それはそれとして──驕りに気付かずに『良かれ』と謀って、結局、失敗した。最後の周回に、最悪の醜態を晒した」

 

「…………」

 

 狩人は、アルフレートの去った後を見つめていた。

 

「彼は処刑隊の亡霊に憑かれていて、俺は心底『かわいそうだ』と思ったよ。あんな夜に、もう『終わった』ことに固執して……。だから楽にしてやろうと思って女王様と一計を案じて、最悪を招いた。最後の最後で彼の何もかもを読み間違えたのさ。……俺は『よかれ』と何かをしようとする度にアルフレートの死に顔が過ぎる」

 

「でも、それは……間が悪かっただけでしょう……。誰かのためを思う気持ちは、決して、悪いものだとは思いません」

 

「そのとおり。悪くはない。あの時、ユリエは『地獄への道は善意で舗装されている』と言った。そのとおりだったさ。俺は悪化させる心算が無かったが、善意がトドメになったんだ」

 

 彼は、夏の夜に長く続く息を吐いた。

 

「──しかし、それだけだっただろうか。カインの女王と彼を引き合わせるために、招待状を渡した俺は……ほんのすこし、欠片ほどの好奇がなかったと言えるだろうか……?」

 

 狩人は何かを探すように宙を見上げる。

 答えは見つからなかったようだ。

 首を振るとクルックスに向き直った。

 

「ところで『間が悪い』って考えは良いな。その気持ちになるまでずいぶん時間がかかったものだ」

 

「…………」

 

「上位者の権能を使えば、彼の末路を変えられたのかもな。……だが、俺はそうしたくはなかったんだ」

 

 ──どうしてだろうな。

 狩人は、ひとつ息を吐いた。

 問いかけた彼は、すでに答えを得ているのだろう。

 だからこそ、彼はここにいる。

 何も言わずクルックスは彼の隣に立っていた。

 

 ふと、どうしてこの人は上位者なのだろう、と考えた。

 クルックスの見るところ。

 今日の夜のように、彼は本当にただの人間で、ただの狩人に見える時がある。

 

「いつか、いつかと……夢を見るだけならば、やはり罪はないでしょう」

 

「それは良い考えだな。願うだけならば人は自由だ。……そうだ。そうだとも。人間は自由だ。だから、上位者の思惑を越えていける」

 

 笛は鳴り止まない。

 短い言葉と火で充足を得た狩人は目を閉じた。

 だが、もうすこしだけ五感を研ぎ澄ませば、彼にも鳴らぬ鐘の音が聞こえたかもしれなかった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 松明を持たない狩人達が決して足を踏み入れようとしない細い路地裏にて。

 自分の荒い息使いばかりがうるさい。

 セラフィは、熱い息を吐いた。

 

 血の女王がそうであるように優れた血質は、体内に過度の血と熱を生んだ。

 高い技量があれどその血質のため、セラフィは長時間戦闘し続けることができない。カインハーストに連なる騎士達の狩りの時間が定められている理由の一端でもあった。

 

 武器に血をまとわせる千景。

 水銀と共に血を消費するレイテルパラッシュ。

 

 これらが好まれた理由も活動時間と無関係では無いだろう。

 彼らにとって血は誇りだが、同時に軛ともなり、今は障害となっていた。

 

(からだが熱い……)

 

 決してレイテルパラッシュを手放すことはなかったが、無意識に指は引き金から浮いていた。

 セラフィと同じ境遇にある他の三人の『きょうだい』にとって何の問題も無い全力疾走は、彼女の体を徐々に蝕んでいた。

 

「レオー様? ……反応がない。ダメか」

 

 それでも彼が頭を撃たれた後、多少でも会話ができたことは本当に幸運なことだった。

 そのおかげでセラフィは彼を負う覚悟ができた。

 

「もうすこしだ。市街を抜けたら、ゆっくり行こう……」

 

 市街の外は深い森だ。禁域の森の端を進み、ヘムウィックまで歩く予定だ。

 すでに走ることは難しい。

 辛うじて早足と呼べる速さで彼女は進んでいた。

 

(それにしても教会の射手)

 

 今の季節は夏。

 森まで行けば追手の目も木々で遮られることだろう。いくら彼が敏腕であろうと撒けるハズだ。

 

(先達の騎士様から聞いたことはなかったが)

 

 父たる狩人が願った、何かしらの成果なのだろうか。

 悪夢より人が戻ることは、現在のヤーナムにおいて珍しいことではない。

 鴉もレオーもその経緯を辿ったと聞く。またビルゲンワースの学徒、コッペリアもそうだ。例は、あるのだ。知識として覚えてもいる。

 だが、間が悪い。しかも相手も悪い。よりにもよって遠的可能な射手が這い出てくるとは。

 

(っ。速いな……!)

 

 セラフィをして知覚可能な足音を立てずに近付いてくる射手だが、屋根を飛び越えた時──受け身をとった際の鈍い音が聞こえる。

 距離は近い。すでに彼の射程内だ。

 息を整えて再び走り出そうとした、その先で闇が揺らいだ。

 一瞬、疲れた目の見せる幻かに思えたそれは、セラフィがわずかに落胆を覚えるほど現実の産物だった。

 

「新手か」

 

 今宵の月は高い。

 路地に差し込む一条の月光が、異形を照らした。

 最初に現れたのは、棘の生えた長柄の槌だった。それもただの棘ではない。

 

(獣と血の臭い。あれは瀉血の槌……?)

 

 セラフィは使用経験の無い仕掛け武器を思い出す。

 父たる狩人が四人を集めて仕掛け武器の説明を行ったことがある。初めて聖杯に挑む前に武器を選んだ際のことだ。

 そのなかで最も悍ましい変形をした武器だったので、よく覚えていた。

 

 ──瀉血の槌。

 ──とある男は、ひどく瀉血に固執したそうだ。心の底に溜まった悪い血を出せば……とね。

 

 狩人の言葉が蘇る。

 使用者には、ついぞお目にかかったことが無い。

 だが、それが教会の武器であることは知っていた。

 

「教会の者か」

 

「……教会『側』の人間ではある」

 

 持ち主の男は、闇の中でほんのすこし考えてから言葉を発したようだった。

 なるほど。

 セラフィはレイテルパラッシュの撃鉄を起こした。

 

「どちらであれ同じもの。名乗るがいい。──その首、刎ねてしんぜよう」

 

 本当は名乗らせるのも時が惜しいのだが、儀礼を忘れてはいけない。

 まるでセラフィの焦燥を見透かしたように男は名乗らなかった。

 ただ、コツリと革靴が汚れた石畳を踏む音が届いた。

 

「近付くな。次は撃つ」

 

「その顔の女ならば、すでに撃っていた。……ほう。お主は、違うのだな?」

 

 セラフィは、目の前の状況を忘れた。

 彼が、何を言っているのか分かってしまったからだ。

 それはセラフィがカインハーストに与した時から現在まで続く疑問であったからだ。

 

 星幽、時計塔の貴婦人マリア。

 

 周囲の大人は皆、セラフィを見て時計塔の主に「似ている」と言う。だが、それだけだ。

 セラフィにも似て、狩人の夢にいる人形にも似る彼女はいったい誰で、何なのか。何をして、どうなったのか。末路は。誰も教えてはくれない。それが彼女の心の内に巣くう、根深い疑問になるのに長い時間はかからなかった。

 

 異常な武器を持つその男は、姿容も異常だった。

 捻れた角が生える獣の皮をまとい、血に汚れた異邦の服に身を包んでいる。

 セラフィには顔が見えなかったが、声質からレオーと同じ程度であるとは予想がついた。つまりは壮年だ。

 

「……知って、いるのか……?」

 

 剣先が逸れた。

 冷静な知性は、狂人の戯言であり耳を貸すべきでは無いと告げる。

 けれど狂人の知性がマリアを仄めかす言葉を持ち得るだろうか。

 

「今、鐘の音が聞こえているかね?」

 

「鐘……? 聖堂街の鐘のことか? あれは、あと二〇分は鳴らないだろう」

 

「そうか」

 

 どうやら違う鐘のことについて聞きたかったらしい。

 では、旧市街の鐘のことだろうか。問う機会はなかった。

 

「先へ進むがいい。私は、お主の敵ではないようだ」

 

「たしかに。僕は強いので貴方など敵ではないが」

 

「そういう意味ではない。どうでもよいが、そうではない」

 

「あ、あの、獣の皮をまとう御仁、貴方はどこでその女性のことを」

 

 彼は、わずかに頭を上げた。

 屋根の上、人の気配が近い。

 

「こんな時にっ! 教会の射手、忌まわしいな──」

 

「射手……? ……先へ」

 

 男は身を壁に寄せ、静かに促した。

 二の足を踏んだのはセラフィだった。

 

 教会『側』の人間が、教会の者と争うのだろうか。

 それともこちらを騙す心算なのだろうか。

 

 暗闇のなかで、黒い瞳と目が合った。

 それは、深く昏い。引きずり込まれる夜の色だった。やがてその瞳は、逸らされ天上を睨む。謀る意図は、無いように見えた。

 

「行け」

 

「っ……ひとつ借りとさせていただく。失敬!」

 

 獣の匂いがした。

 彼の前を通り過ぎ、セラフィは細く長い路地を抜けた。

 

 その路地は、あまりに細かったので。

 ──お主、まだ聞こえているな? ならば生かすことあたわず。終わりなき死を。何度でも。鐘の音に、怯えるがよい。

 獣の皮をまとう男が囁くのが聞こえた。

 

 路地を抜けた先で、セラフィは森の端に辿りつく。

 視界の端にきらめくものが見えて振り返る。反射的にレイテルパラッシュの銃口を向けた。

 その射線上、やはり屋根の上には弓を構える男がいた。最大まで引かれた弓矢は、彼の指先の緊張が解けた途端、セラフィの頭蓋を貫いて余りある威力を発揮するだろう。

 セラフィの指先も引き金を引き……やめた。

 射手が未だ気付かぬ後方で、刺々しい血肉がぬらりと月光を弾いたからだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 森は近い。

 彼女の足は鈍っている。

 幸いなことに教会の狩人もそれ以外の狩人も誰もいない地区のようだ。目撃者がいないのであれば、口止めの対処も必要ない。

 シモンの遙か後方では、今でも鴉呼びの笛がピィピィとやかましい。だが、皆が彼にかかりきりになっているのだろう。

 

 珍しいほどの幸運だ。

 

 路地から出てきた瞬間を狙い撃つ。

 森まで逃げれば大丈夫だと思っているのだろう。

 普通はそう考える。

 そして大抵の場合、正しい。シモンもそう思う。

 

(だが、運がなかったな)

 

 手負いの騎士を担いだ身で予防の狩人から逃げられる者は、ヤーナム広しといえど滅多に存在しないだろう。彼女も数多のうちの一人だったというだけだ。深手を負っているか死んでいるか分からないが、同胞を負って逃げること事態は勇敢な判断であり、気高い精神を持ち合わせている証左でもある。しかし、結果は命取りの愚行であると断じなければならない。

 

「あとで血を入れるから許してくれたまえよ……!」

 

 これまでの速度から考える。彼女は、もうすぐ姿を現すはずだ。

 限界まで弦を張る。チラとでも見えたら指先の緊張は解けるだろう。

 だが、シモンを襲ったのは総身に漲らせる緊張とは、まったく別種の恐怖だった。

 

 知覚に訪れた其れは、不吉を識らせる鐘の音。

 かつて狩人の悪夢を満たしていた鐘は、今、現実のヤーナムの虚空に響き渡った。

 

「バカな──! どこに!?」

 

 シモンは、辺りを見回した。

 市街の屋根の上は誰もいない──ように見える。だが、あの鐘の音が鳴ったということは、思いがけないほど近くに教会の暗殺者が存在することを経験上、知っていた。

 あの禍々しい槌が、今にも闇の中から振るわれるかもしれない。

 恐怖が足を竦ませた。

 

「ええい、くそっ……こんなところで!」

 

 それでも。

 得物を握る握力は弱ることなく、瞳も恐れに曇りはしなかった。

 シモンは、騎士を狙うことは止めない。

 騎士を逃せば、彼らは市街に再び現れることだろう。だが、意表を突けたのは、今日の一度きりだ。二度目は、こうも易々といかないだろう。

 また、周囲に耳目があれば、彼らを殺すことを強いられるかもしれない。

 

(こんな幸運が二度あるものか!)

 

 手がかりをみすみす逃すワケにはいかなかった。

『またしても』自分の知り得ないところで何者かによる思惑が、ヤーナムを犯しているとしか思えない。

 路地から騎士が、現れた。

 結わえた銀の長髪が翻り、レイテルパラッシュが光を反射する。

 マリアの顔をした少女は屋上の射手を認めながら、しかし、水銀弾を放つこと無く剣を納め、背を向けた。

 まるで背中を撃ってくれ、と言わんばかりの逃走だ。思わぬ好機に矢を抓む指先が緩みかける。

 

(待て。あの女騎士は、なぜ撃たなかった?)

 

 女だから撃たないと思っているのか。否。牽制の矢は、確かに彼女を襲っていたハズだ。楽観的な性格だとしても、今さら誤解などしようがない。

 

 彼女が撃たなかった理由。

 鳴り止まない鐘の音。

 そこから導き出された結果を打倒するため、シモンは振り返り、的も見ずに矢を放った。

 唸りを上げて擦過する瀉血の槌は、再びシモンの腸を裂くことは無かった。

 

「教会の暗殺者ッ!」

 

 右胸に矢を受けてなお、獣の皮をまとった暗殺者が怯むことは無かった。

 彼は高らかに嗤う。

 嫌でも思い出されるのは漁村での攻防だ。

 現実で聞こえるのは、あの日のように充実して楽しげな哄笑だった。

 

「死だ! お主の死が来たぞ! さぁ、己が命で贖うがいい!」

 

「……頼んじゃいないがね。あんたがいるということは、夢も記憶も『ただの真実だった』というワケだ」

 

 瀉血の槌は、嵐のようだった。

 振るわれる度に屋根に敷き詰められた洋瓦は砕け、足下、屋内からは住人の悲鳴と怒号がくぐもって聞こえた。

 このままでは屋根ごと地面に落ちかねない。

 

 シモンは、屋根を転がり、受け身を取りつつ地面に着地した。

 そして。

 

「二度、終わるつもりはないんでね」

 

 張りつめた弦が弾け、矢は暗殺者の喉笛を貫いた。

 ほんの数瞬違えば、たった今地面に落ちた瀉血の槌がシモンの脳漿を地面の滲みにしたことだろう。

 逃げ場の無い宙で射られては、いかな頑強な暗殺者といえど絶命に値するに違いない。彼が喉を押さえたのは咄嗟の行動だったのか。

 今はうつぶせで横たわっている地面に突っ伏した彼の喉と胸から、矢を引き抜く。傷口から音が漏れた。血は石畳に染みこんで浅い溝に沿って流れていった。

 

 裸足の爪先で力の失った体をひっくり返した。獣の皮を除ける。男の顔を見た。

 

「あんた、悪夢の底に倦んだのかね」

 

「……、……、……」

 

 男は目を歪め、唇が言葉を作る。

 ──秘密を暴く、愚か者に、死を。

 現実のヤーナムにおいて。

 シモンが窶しであるように、彼の仕事も変わらないようだ。

 

「……そうかい」

 

 シモンの応えから間もなく男の体は霧散した。細かな血の霧が、わずかに彼の存在の名残だ。

 

 狩人の悪夢に存在する、獣の皮をまとった暗殺者。

 その名をブラドーと言う。

 

 医療教会が秘して止まない病巣にして恥部。そして、根源。

 悪夢の秘密を守るための暗殺者が、現実のヤーナムを徘徊している。

 

 これが意味する真相は不明だが、ただ事では無いことは分かる。

 

 ヤーナムの異常と言えば、長い夜。狩人達が恐れている『獣狩りの夜』だ。

 しかし目にした事象は、それともは違う類いの異常であると長年の勘は告げる。

 そして問題の根幹は、ヤーナムだけではないのかもしれない。次元を越えて存在する狩人の悪夢も巻き込んだ大事に発展している可能性が示された。シモンの想像を超えたかつてない異常がヤーナムに訪れている。

 

「ひとまず、ピグマリオンと合流を……」

 

 カインハーストの騎士達は、森の中。

 月は明るいが、緑深く生い茂る森の夜道は暗い。解毒の準備もなしに挑むほど彼は無謀ではなかった。

 本職に戻るため、方角と未だ聞こえる笛の音を頼りに戻ろうとした矢先。

 再び、頭蓋を揺らすような鐘の音にシモンは辺りを見回した。

 

「なに……ッ!」

 

 かつてシモンが暗殺者に破れた理由とは、実に明瞭だ。

 殺しにやってくる彼は、いくら殺しても死なないのである。

 

 鐘の持ち主を──どこかで鐘を鳴らしているブラドーを殺さない限り、秘密を暴く者は彼に狙われ続ける運命にあった。しかも、襲撃は昼夜問わず続く。

 

 シモンが悪夢に身を投じるまで医療教会の悪行とは、皆うすうす勘付いてはいたものの露呈していない状態だった。

 彼はこうして秘密を守り続けていたのだろう。勤勉態度は、医療教会が手放しで賞賛すると思えるほどに優秀だ。

 

 シモンは、ブラドーという男の信条がどのようなものか分からない。しかし、性格は『死ぬほど』知っている。

 獣の皮をまとう暗殺者は外見とは相反して理性的な男であり、愚直なまでに生真面目だ。要するにイカれている。

 身を窶し、悪夢に踏み入った時から覚悟はしていた。

 それにしてもだ。 

 

「またか……またか!? 何回やるんだ!? もはや現実だろうに!」

 

 シモンは、道の先に歪な角の生えた獣を見つけ弓を引いた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 夜が明けるまで、もう一息。

 

「……レオー様」

 

 割れた額の止血は終わったが、血が足りないため彼が目覚める気配は無い。

 胸に手を置いて鼓動と呼吸を確かめる。頼りないが、たしかに動いていた。

 教会の射手は追ってこなかった。

 獣の皮をまとった彼が、止めたのだろう。

 

(僕の顔を……時計塔のマリアのことを知っていた……)

 

 時計塔のマリアと呼ばれる人物は、古い狩人だ。──ということは、あの獣の皮をまとった男も古い狩人の一人だと察しがつく。

 

(お父様の企てが成功した?)

 

 父たる狩人は、古いものに執心である。

 カインハーストに入り浸る日のほとんどを書庫やレオーとの談義に費やす彼の姿を思い出す。

 

(古い遺志ばかり集めて、いったい何を……?)

 

 ──死者の楽園でも作るつもりだろうか。

 セラフィは、口先で笑った。

 長い夜を駆けた狩人が願う夢にしては随分と退廃の趣味だと感じたからだ。頭を振り、思考を振り切る。

 

「…………」

 

 セラフィは、レイテルパラッシュを抜いた。

 パキリ。乾いた細い枝が折れる音が聞こえたからだ。

 

「誰か」

 

 凜とした声で問う。カインハーストの先達からは「誰何に二度応答がなければ、即座に切り捨ててよい」と命じられていた。そうする心算で声を掛けたが、ふと獣の皮をまとった男のことを思い出す。マリアならば、もう撃っていたのだろうか。

 木々の梢から現れたのは、鴉羽をまとったカインの騎士だった。

 

 彼は銀の兜を押し上げ、素顔を晒した。

 セラフィの敬愛する鴉羽の騎士は、血に中てられ、普段より幾分血色が良い。

 彼は定刻いっぱいまで飛んで駆けたのだろう。鴉羽の先に膨らむ血は、彼の軌跡を露わにした。──これがカインの流血鴉、名の由来だった。

 カインハースト史上、傑作の騎士はセラフィを認めると一度瞬きをした。それを合図にセラフィはレイテルパラッシュを納める。鴉も銀のバイザーを下ろした。

 

「レオーを見かけないと思った。しくじったようだな」

 

「ええ……」

 

 彼がセラフィの隣を通る。ふわりと鉄の臭いが漂った。

 膝を着いてレオーの額の傷を確認する。

 

「……この男は、顔にばかり傷を作るな」

 

「罪な御方です」

 

 鴉は顔の見えない兜の下で笑ったようだった。

 そして。

 

「夜が明けるまで待つ。それまでに目覚めなければ首を刎ねよ」

 

「なぜ」

 

「もうすぐ狩人が悪夢を廻す。全てが元通りだ。レオーも目覚める。怪我も治るだろう」

 

「…………」

 

 セラフィは東の空を見る。

 明るい。

 間もなく夜は明けてしまうだろう。

 鴉は咳払いした。

 

「何か」

 

「言わないと分からないのか」

 

「残念なお知らせになりますが、僕は他のきょうだいほど察しがよろしくない。また余計な気遣いをして貴方の気を損ねたくもない。……ご下命を」

 

 鴉は「すでに損ねている」と言いたげな雰囲気だったが、それを口にすることはなかった。

 レオーの負傷は彼の吸っていた煙草が原因だと信じて疑わないだろうが、きっかけの一端を負っていることを少々気に病んでいるようだった。

 

「あれだ」

 

「これ?」

 

 セラフィは流血鴉に禍々しい手袋を差し出した。カインハーストの誇る秘宝のひとつ。処刑人の手袋だ。

 

「違うが?」

 

「……問答を続けても良いですが、夜が明けてしまう。お覚悟を」

 

 鴉は、とうとう根負けした。

 くるりと背を向けて彼はボソボソと言った。

 

「……私に『魔法』などと言うふざけたことを言わせるな」

 

「あ。名案ですね」

 

 セラフィはマントに括り付けていた杖を抜いた。

 

リナベイト 蘇生せよ

 

 果たして。

 レオーは、激しく咳き込んだ後で目を醒ました。胸が大きく膨らみ、身を丸める。

 

「頭ッ痛ぇ……! ンだよ……カチ割られたかと思った……」

 

「レオー様、良かった。お目覚めですね」

 

 セラフィの献身は報われた。

 レオーの指は火傷で色の違う顔を辿り、額の大きな傷に触れた。

 

「ぐぎぎ。また傷が増えた……はぁぁあ……ツイてないねぇ……。セラフィ、ああ、良かった。無事だな。良かったよ……」

 

 セラフィに騎士の心得を手ほどきした先達は、強さと美を尊ぶ。

 それに寄り添うことは、現在の否定を伴わなかった。

 

「僕はレオー様のお顔がどのようなものであれ大切に思っています。教えのとおり、美を尊びましょう。だから僕は貴方の心の美しさを愛しています」

 

「え」

 

 悩ましい頭痛に襲われているレオーは、セラフィの白い顔を見上げた。

 

「セ、セラフィ……」

 

 レオーが何かを言いかけた、その時。

 鴉が唐突な遺骨ステップで二人に迫った。

 

「な、何だよ」

 

「…………」

 

 鴉は、静かにレオーを見下ろした。鎧に覆われた脚は、今にも彼を蹴り飛ばしたくてうずうずしている様子だった。

 市街のカラスがそうであるように。普段は独りでも喧しい男が、セラフィの前では寡黙になる現象にレオーは未だ慣れない。

 

「何か言えよ」

 

「セラフィに感謝せよ。お前をここまで運んだ」

 

「どっかの誰かさんが、とんずらしたせいでな! あ、ダメだ、動けん。……ぐらぐらする」

 

「お労しい。肩を貸します。鴉羽の騎士様も、ぜひ」

 

「貸さないが?」

 

 鴉の説得は、一般的に至難の業だ。

 だが、セラフィならば彼は折れることもあった。

 例えば。

 

「鴉羽の騎士様、僕は貴方も大切なのです。血族の夜は長い。お独りでは、さらに長くなりましょう。ささ、再会を祝すると思って」

 

「…………」

 

 請われて渋々──といった具合の鈍い足取りで鴉はレオーの腕を取った。

 戦闘中に見せる動きとは比べものにならないほど雑な所作だった。

 

「歩け」

 

 行くは、ヘムウィックの辻。

 断崖を下り、洞窟を下り、深い地下を歩くことになる。

 その道程を思い出したのかレオーは、相変わらずグラつく頭で呟いた。

 

「もおやだ、なにコイツ……。そうでなくとも、いつも戦場をむちゃくちゃに食い散らかすんだから……」

 

「同じ血を紐帯としているから大丈夫、大丈夫」

 

 むずがる子供を宥めすかす、拵え事のように騎士達は聞き届ける。それでもセラフィの、彼女にしては明るい声音だけが二人を前向きな気分にさせた。

 月の香りのする狩人がもたらした朝。

 それを仮初めと知る血の狩人達だが、平等に照らす朝陽に安らぎを感じない日はない。

 

「……行くぞ」

 

 三人の姿は、朝に焼ける森の奥へ消えていった。

 カインの騎士達の夜は、こうしてひとまず終わったのだ。

 

 




月の香りの狩人とアルフレート:
なぜカインハーストへの招待状を渡したのか。
恥ずべき無知? 尊ばれるべき信仰? 間違いではなかった善意?
その理由について狩人は、正しく語る言葉を得ない。
……クルックス。君ならば、いつか分かるだろうか……

カインの流血鴉:
セラフィの発言ならば低確率で耳を傾けることもある……かもしれない騎士
レオーは「できるだけコイツのそばにいたくない」と思っているが、カインの騎士はほとんど二人なので約一五〇年ほど二人一組でやってきた。そのため、とても遠慮がない。しかし、先達として尊敬はしているのだが?


教会の暗殺者、ブラドー:
さる事情から教会の暗殺者をしている男。
獣の皮を被り、獣の腸をベルトにした、ひょっとしたらタイも腸かもしれない、激重感情が垣間見えるナイスミドルです。
かつて漁村という場所で見事シモンを仕留めた教会の功労者です。
狩人の悪夢、特に聖堂を越えた先は一部を除き、彼の縄張りでしょう。
唯一失態があるとすれば現在のヤーナムでシモンの前に現れたことで、ヤーナムと狩人の悪夢の異常を明らかにしてしまったことでしょうか。
しかし、彼は清く正しい医療教会『側』の人間です。医療教会が間違えるワケがないですよね(ろくろ回し)

セラフィ:
「僕は……すこし疲れました」

【挿絵表示】

悩み多きカインハーストの夜警。
カインハーストの一族には特別に甘く、優しい。……自分を殺してしまえるほどに。
どうしてマリアのことを知っているのか。獣の皮を被った男を追うことは、弓の男を追うことに等しいことです。もし、追うのならば結果的に四人のなかで最もヤーナムの謎に踏みいることになりそうです。


私事ですが接種2回目をしてきたので、今後数日体調不良により誤字脱字の訂正・ご感想への返信が遅れる場合があるかもしれません。ご了承ください。
なお、投稿自体は数話を予約済みなので順次0時投稿されます。お楽しみいただければ幸いです。

そんなこんなですが、ご感想お待ちしています(交信ポーズ)

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