甘き夜明けよ、来たれ   作:ノノギギ騎士団

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メンシスの眼鏡
隠し街ヤハグルを主宰するメンシス学派の倉庫で見つけた、何の変哲のもない眼鏡。
それ以上のことはない。
ヤーナムの医療者ないし狩人は、隙間なく身を覆う装束を好む。
それは正気であるための実践的な試みであり神秘に対する備えは、全て己を保つための呪いだった。
やがて意味は転じ客観視の装置となる萌芽は、医療教会が育んだものだ
……ただ一枚の薄い硝子であれ、信じれば檻に等しい……
迷信だ。しかし、信じる者はいる。


メンシスの夜編は1話です


悪夢からの使者

 暇さえあれば、眼鏡を磨いている。

 すでに皮脂の汚れのひとつないものだが、これがあれば小さな安心を手に入れることができる。

 ささやかな幸福をネフライトは大切にしていた。ありふれたものならば、失う機会も少なかろう。たとえ失っても惜しくはない。そう信じていたいからだ。

 

 

 ネフライトが、メンシス学派に入る『きっかけ』は、他の三人に比べ、やや強引な手段を取った。

 父たる狩人曰く「最後の周回、つまりは獣狩りの夜のことだが。メンシス学派は、赤い月を待たずに全滅していた」とのことである。

 最後の周回時に碌な生存者がいないのだから、穏やかな伝手も持ち得なかったのだろう。

 だからこそ。

 

 ──やぁ、エドガール君。初めまして。私は、狩人。メンシス学派の偵察は進んでいるか? 結構、結構。聖歌隊の間者の君に、ちょっとしたお願いがあって来た。あぁ、背後の毒メスは気にしないでくれ。……君が振り返らなければ、空気と同じものさ。

 ──『お願い』は難しいことではない。この通りを右に曲がったところに、少年がいる。彼をメンシス学派に入れて欲しい。被験者という意味ではない。くれぐれも間違えてくれるなよ。

 

 エドガールを恐喝した狩人の目論見は、結果だけを見れば正しかった。

 狩人と名乗る何者かに自分の正体を知られたと思い込んだエドガールは、自分の秘密を守る事と引き換えに、突如メンシス学派に現れたネフライト少年を学派に加入させるためにあの手この手で周囲を説得させた。もっとも説得力があったのは「腹違いの弟です」と紹介した一幕だったが、根本的な問題に対する回答を彼は持ち得ていなかった。

 

「しかし『どうやって』ヤハグルに?」

 

 ヤハグルが隠し街と呼ばれる理由は、いくつかある。

 その一つは、ヤーナムの外あるいは市街から来る人々が容易に訪れることのできない街という意味だ。実際に旧市街からヤハグルまでの門は閉ざされており、危険だ。聖堂街の大聖堂も然り。

 万事休す。

 さて、どのように切り返すのだろうか。

 見上げる先。エドガールは──流石は聖歌隊!──冷や汗ひとつかかず、柔和に微笑んだまま言葉を探しているようだった。

 致命的な沈黙になりつつあった空気を裂いたのは、意外な人物だった。

 

「……おや、部屋から出てしまったのかい。バレてしまっては仕方ない。私が招いたのだよ。といっても、もう数ヶ月前の話だが」

 

 メンシス学派における実質の運営を取り仕切る第二主席、古狩人ダミアーン。

 老年に差し掛かろうという学派きっての権威の彼が、そのようにスッパリと言い切ってしまったので周囲の学徒達の疑問のさざめきは小さくなった。

 しかし。

 

「なぜです?」

 

 不可解な行動に納得できないのは、真理を探究する集団のなかにおいて重要な要素であった。

 とある学徒が権威に屈せず、疑問を口にした点を褒めたあとで。

 

「単純なことさ。孫が欲しくなってね」

 

 学派内に突如現れた少年は、第二席の極めて個人的な事情で『人攫い』された人物であることが分かり、学徒達は一斉に静まりかえり、そして目を逸らした。最後の最後で冷や汗をかいたのは、エドガールだけだった。

 その後、学徒を散らし、作業に戻らせ、第一席ミコラーシュの注意を逸らす。

 数分後、ネフライトは彼の私室の椅子に座っていた。会話の席が設けられたのだ。

 

「言うに事欠いて孫などと口走ってしまったものだから、子供のことを思い出してしまったよ」

 

 枯れているが、穏やかな声音だった。

 夜。

 血の抜けた抜け殻のような白い月が昇る日であり、月光ばかりが眩しい。

 子供。

 思いがけない言葉にネフライトは視線を宙に泳がせた。彼は、子や孫がいてもおかしくない年頃だという常識は知識として知っている。しかし、ヤーナム全体がそうであるようにヤハグルもまた若者の数が少ないのだ。見かけた学徒の中に彼の親類がいるのだろうか。思いを巡らせるネフライトは、彼の言葉を待った。

 

「皆、私が教会で地位を得たのは『夢を見る狩人』であった功績と言うがね。あれは、事実の半分でしかない」

 

 ネフライトは、自らの影を見ていた。

 ダミアーンの持つ連装銃の影が、ネフライトの影と重なった。

 

「私の娘は──私に似ず、可愛い子でね。賢い子でもあった。そして血の質が良くてね。……あぁ、良すぎたんだ」

 

「…………」

 

「ずいぶん古い話だ。何年前かも分からない。顔も忘れてしまったよ。そして、もはやどうでもいい」

 

 何年。

 その言葉に、ネフライトは初めて視線を自分の影からダミアーンへ移した。

 月光が、深く刻まれた皺を浮き彫りにした。

 

「ヤハグルへようこそ。まるで現実のおかしな悪夢に囚われてから、初めての訪問者だよ。──さて。月の香りの少年、君は私の知りたいことを知っているだろうか?」

 

 学派の五本の指に入る碩学として讃えられる彼は、引き金に指をかけたまま問いかけた。

 四仔のなか、最も過酷な状況にあるのはカインハーストを選んだセラフィだろう。

 だが、最も穏やかざる歓待を受けたのは自分であろう。

 ネフライトは、ぼんやりとそんなことを考えていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

(星が見えない夜だ)

 

 隠し街ヤハグルに来た当時のことを思い出してしまったのは、似た夜空を知っていたからだ。

 ヤハグルの夜は、長い。

 窓から見上げる空には白い月ばかりが明るい日だった。

 

 現在。

 ヤーナムは上位者の揺籃として柔らかな閉鎖状態が続いているが、ネフライトの見るところ、ヤーナム内部でも時間の進退が異なる場所があると感じられる。

 ビルゲンワースでの一日とヤハグルでの一日は、後者が数倍ほど遅い。

 

「時計は、役立たずだな」

 

 温めた山羊のミルクに蜂蜜を垂らす。数回かき混ぜると小さなカップに淹れた。

 物音が聞こえたので彼は蜂蜜の瓶を食器棚の奥に隠した。

 

「ネフ。……もう真夜中だぞ」

 

「エドガール、まだ起きていたのですか。珍しく静かな夜だ。眠ればよろしいのに」

 

 ネフライトの言うとおり。

 今日は、獣の叫び声ひとつ届かない静かな夜だった。

 市街では獣狩りが続いているのだろう。けれど、喧噪はヤハグルまで届かない。

 夏の今夜は、短いが穏やかな夜になりそうだった。

 エドガールと呼ばれた青年は、くすみがちな金色の髪を撫でた。

 

「しかしだな、君が働いているのに私が休むのも……。ダミアーンさんの所へ持って行く役、やはり私が代わろうか?」

 

「結構。私が呼ばれている。……エドガール、新しい生活に体が慣れていないでしょう。早くおやすみになったほうがよろしいですよ。……えぇ、そうしたほうがよい。お互いに詮索は無しでしょう」

 

 エドガールが眉根を寄せる。

 では。ネフライトは銀のトレイを片手に厨房を退室した。

 長い回廊を渡り、階段を登る。そうしてやって来たダミアーンの私室の扉を叩いた。

 

「ダミアーンさん、ネフです。飲み物をお持ちしました」

 

 入室の許可が下りて部屋に入る。

 部屋の主は整理整頓が苦手な様子である。本は今にも崩れ落ちそうに積み重なり、本棚からはちぐはぐなサイズの本が飛び出している。

 混沌とした部屋で唯一、聖域となっているテーブルと椅子──そこでダミアーンは待っていた。

 

「やあ、ネフライト。久しぶりだね」

 

 ダミアーンは書き物をしていたようだ。

 今日も初めて出会った時のような穏やかさで迎え入れてくれた。

 頭を傾けるだけのお辞儀をした後でカップをテーブルに置いた。

 彼も「よいしょ」とメンシスの檻を外した。

 メンシスの檻、六角柱の鉄檻は重量もそれなりだ。老体には大きな負担に違いない。

 

「お疲れのようです。肩を揉みましょうか?」

 

「それには及ばない。君が帰ってきてからすぐにでも話したいと思っていたが、いやはや、獣が多い夜が続いたからね。夜は出ずっぱりだ。……今回は学徒のなかでも獣に変態した者が出てね。檻を外した途端にアレだ。痛ましいやら、悲しいやら、悍ましいやら……まったく……いつもの面子だが、知人だった者を殺す感覚には慣れたくないものだよ」

 

 労りの言葉を告げると彼はゆっくりと瞬きをしてネフライトに椅子を勧めた。

 一口、カップを傾ける。

 彼は「おや」とミルクを見つめた。

 

「蜂蜜だね?」

 

「ヤーナムの外から持ってきました。舶来品より貴重品ですね」

 

「たしかに。ずいぶん久しぶりだ。甘いなぁ」

 

「私がヤハグルに戻ってくるのは約十ヶ月ぶりです。ダミアーンさんは?」

 

 彼は、クスクスと笑いながらカップをソーサーに戻した。

 そして、学徒の服をたくし上げ左腕を見つめた。その腕には、等間隔で切り傷が並んでいた。いくつかの傷を数えた後で、ダミアーンは悪戯っぽく目を細めた。

 

「驚きたまえよ。私の認識では、五ヶ月ぶりだ」

 

「時の進みは、二分の一と。では、蜂蜜は百年ぶりですね」

 

「そうなるらしいな。悪夢のなかで『よもや』など言うべきではないな」

 

 やや疲れの見える横顔は、連日の獣狩りの出動によるものだけではない。

 メンシスの古狩人、ダミアーン。

 彼はヤハグル、メンシス学派のなかでただ一人、悪夢を認識していた。その孤独を悟らせるものだった。

 

「これも悪夢の主の意図したことなのかね?」

 

 その言葉は、ネフライトに投げかけられたものではなかった。焦点を結び損ねた質問にネフライトは、答えず、ダミアーンを見返した。すぐに悪手に気付き、彼は発言を翻した。

 

「君の前で話すことは、良い試みではなかったな。気を悪くしないでくれ。君は、悪夢の主からの使者であり、銀の弾丸ではない」

 

「残念ながら、そのとおりです」

 

 ダミアーンは、眠たげにミルクを啜っていた。

 

「実のところはね、君が何も話してくれなくとも私は構わないよ。ヤーナムを捕らえる悪夢の主が『使者である君をメンシスに送った』という点のみを評価すべきなのだろう」

 

 初めて言葉を交わした日に出した結論に、今も彼は納得し続けていた。

 ダミアーン曰く「君は、悪夢の主がメンシス学派へ下した贈りものなのだね」との断定はネフライト自身にも、よく響いた。

 

「悪夢の主は、メンシス学派の運営に対し積極的に関与するワケではない。……だが、一種の期待を寄せているから自らに近しい者を下賜した、と。これは正解かな?」

 

 今度は明確な質問であった。

 ネフライトは頷いた。

 

「恐らく、概ね」

 

「ぼんやりした解答をありがとう。探りを入れる意図は、あまりないのだが、君、こういうことには答えてくれるのだね?」

 

「私の主観です。けれど、周囲を見ているとそうなのだと思えてきましたから。私なりの立場表明と受け取っていただきたいと思います」

 

 ネフライトの言葉に思うことがあったのか。ダミアーンは、カップをテーブルに戻した。

 

「周囲? ……あぁ、なるほど。姿を見せない悪夢の主だ。ご執心はメンシス学派『だけ』ではないということか。なるほど合理ではある。君は『一つのカゴに卵を乗せるな』という言葉を知っているかね?」

 

 リスク配分がなっている。彼は独り言をこぼした。

 長く生きる人はどうやら大きな独り言が多くなってしまうようだ。

 

「お察しのとおり。……ダミアーンさんは、話が早くて助かります」

 

「ははは。『下手な鉄砲も数打ちゃ当たる』という言葉を知っているかね。その類いだよ」

 

「ご謙遜を」

 

 ネフライトが情報開示を行わないのは、彼の個人的な信条ゆえだ。

 

 狩人が瞳を与えれば、学派の夢は叶うだろう。狩人に願ったビルゲンワースの閉じた瞳、コッペリアが心身の健康と引き替えに常人とは異なる視座を得たように。

 

 だが、かつて夢を見る狩人だった父が上位者へ成り上がったのは、メンシス学派が滅びたあとだ。

 

 順序が逆転している。

 

 メンシス学派が全滅した後に発生した成果物に、今を生きるメンシス学派が救われることはあってはいけない。

 結果だけ得ることにネフライトは意味を見いださない。

 それでは意味が無い。

 これまでの努力も、これからの努力も、まるで意味を無くしてしまう。……もっとも上位者好みの悪夢的結末ではありそうだが。

 上位者との接触によって獣性を克つ方法にしても、その過程に父たる上位者の介入があってはいけない。

 

 人は、人間が行える範囲の手法の果てに、獣の病を克服すべきなのだ。

 だからこそ。

 メンシス学派は、メンシス学派のやり方で全てに備え、全てを起こし、全てを果たし、そして、願いに届かなければ潔く滅びるべきなのだ──彼は、そう考える。

 

 ビルゲンワースの探求の結実を自称するメンシス学派。

 彼らが行き着く先こそ、ヤーナムの終末と称するに相応しいものであってほしい。

 

 多くの人々を救う可能性は、ヤーナムにおいてメンシス学派にのみ存在する。

 

 狩人が捨てきれず、手出しもできず、諦めきれない──ヤーナムに生きる人々の可能性をネフライトは見つめていたかった。

 例え、滅びるとしても、そこには何にも勝る納得があるだろう。

 メンシス学派が人々にもたらす光だけを、ネフライトは朝と呼びたい。

 

「私は、ネフライト・メンシス。学派に最も親しい賛同者。幸いに思います。貴方のような理解のある御方に巡り会えたのですから」

 

 ダミアーンは、フゥと小さな嘆息を吐いた。

 心底残念だと言いたげだった。

 

「夢を自覚したのが私ではなくミコラーシュであれば、もっと学派の役に立てたのだがね。せっかく諸々の糸目を付けずに研究に打ち込める機会だというのに……。夢のことを話してみても気付かない。かつて狩人の夢に囚われていた者と囚われていなかった者の差異だろうか」

 

「驚いた。ヤーナムの現状のことを主宰に話したことがあるのですね?」

 

「今から……五〇年ほど前かな……ああ、話したことがなかったか。悪夢を生成するどころか、悪夢に囚われていると告発してみたことがある。結果は、さんざんなものだった。学派の皆から狂ったと言われて、樽一杯の鎮静剤を飲まされたよ」

 

「想像に容易いことです」

 

「当時の私にとってはそうではなかった。私が気付けた程度なのだから、些細なことで気付くことができるだろうと思っていたのだが……」

 

 そうはならなかったのでダミアーンは鎮静剤を見ると今でも嫌な顔をする。

 

「──ヤハグルでは一年経過すれば何もかもが直ってしまう。時間は円環だ。不可逆的事実がなければ時間が認識できない私達が、悪夢に気付く方法とは、ふむ、やはり個人の啓蒙的知識の保有量なのだろうね」

 

 ダミアーンは自らの左腕を撫でて言った。時間の経過を確認するために彼はナイフで腕を自傷している。ヤーナムでは約一年が経過した頃、ある日突然、傷が消えるのだと言う。そして新しい一年が繰り返し始まるのだ。

 不可逆的事実である自傷が無ければ、時間の経過さえ曖昧になってしまうのだ。

 

「私も同じ意見です」

 

「やはり? ふむふむ……」

 

 ダミアーンは、何事かさらさらと書籍に書き付けるとそれをネフライトに渡した。

 本のタイトルには『実験日誌』と書かれていた。

 

「君が持っていてくれたまえ。ヤハグルに置いておくとまた白紙に戻ってしまう」

 

「分かりました。正しく時が巡るまでお預かりさせていただきます」

 

「ところで季節感を得るために催しをするのはどうだろうか。季節の変わり目で上層を焼くとか」

 

「それは良い考え……いえ、それは、それは……? うぅ……」

 

 冗談なのか本気なのか、いまいち判別のつきにくい顔でそんなことを言うのでネフライトも反応に困る。

 不思議な空気が生まれようとした時、突然扉が開いた。

 

「ダミアーン、資料を探してくれ」

 

 癖のある黒髪、陰りのある黒い瞳。

 メンシスの檻を被る壮年と思しき男性が、足音を鳴らして入ってきた。

 ネフライトは、無礼な侵入者がメンシス学派の主宰であるミコラーシュだと分かり驚いた。しかし、ダミアーンは驚いていないので彼がノックも無しに私室に入ってくるのは初めてのことではないようだ。

 

「ミコラーシュ、せめて声をかけてくれと──まあいいや。何の資料かね?」

 

 ミコラーシュが滔々と書籍の名前と内容を告げる。

 それをテーブルの上に散らばる書類に書き付けたダミアーンは、肩を竦めた。

 

「覚えがある本だ。だが、上層にある。すこし時間がかかるかもしれない」

 

「構わない」

 

「それも彼次第だが。ネフライト」

 

 ミコラーシュは、初めてネフライトの存在に気付いたようだった。

 

「おや。君は」

 

「ネフライトだよ、ミコラーシュ。ネフと呼ぶといい。小さいが賢い子だ。今回は、私の代わりに動いてもらおうと思ってね」

 

 心配と疑問がミコラーシュの深い瞳の奥にチラついた。

 しかし問うことはなかった。ダミアーンへの信頼が思惑を消し去ったようだった。

 

「主宰のために尽力いたします」

 

 席から立ち上がり、ネフライトは教会式の礼をした。

 ネフライトが顔を上げた時、ジッと見つめているミコラーシュと視線が交わった。

 粗相があっただろうか。──不安になりかけたが、まったくの杞憂に終わった。

 彼が、一歩踏み出すと両手でネフライトの頭を掴んだ。そして、窓際まで引っ張ると瞳を覗き込んだ。

 

「ネフライト。なぜ鉱石の名を持っているのかと思っていたが、目の色か。遙か東の大陸ではギョクと呼ばれる、緑色の価値ある宝石でもある。君はシェイクスピアを知っているかね。緑色の瞳は嫉妬を象徴する。また古くは不吉の前触れでもあった」

 

「……冒涜のなかでこそ見いだせるモノがあれば、不吉のなかでこそ見いだせるモノもあるでしょう。幸いなる災禍となることを祈っております」

 

 息の詰まる一瞬の後で。

 

「ハハハハハハ、いい! ダミアーン! 素晴らしい! いいぞ! 若い知性だ!」

 

 ネフライトの頭を離したミコラーシュは、やや興奮気味にダミアーンを振り返った。

 

「そうだろう? 私のお気に入りだよ」

 

「次の実験に参加させたまえ!」

 

「考えておくよ」

 

 彼は入ってきた時と同じ唐突さで退室した。

 ダミアーンは、長い溜め息を吐いた。

 

「ダメだ。君がいることにまったく違和感を抱いた様子が無い。……あぁぁ、ミコラーシュ、彼だけでも……いいや、彼さえいれば『聖歌隊に出し抜かれるかも』なんて悩まされなくていいのだが……。悪夢の主は、きっと聖歌隊にも使者を送っているだろう。二大会派だ。むしろ送らない手がない。……頼むから早く夢から覚めてくれるといいのだが」

 

「そのうち目が覚めますよ。主宰の慧眼を私は信じています」

 

「私だって信じてはいるがね。これから毎日、頭蓋を砕かせようか」

 

「それは良い考え……あ、いえ、それは、それは……? うぅ……」

 

 ダミアーンは精神的に参っているような具合だった。表情が硬く、疲れ切っている。

 もう一杯、ミルクか酒を持ってこようかと提案するが、断られた。

 

「しばし老いらくの歓談に付き合いたまえ。君が来るまでの百年かそこら、周囲とは普通の会話も難しい状態だった。同じ時間を生きていないということは、話が噛み合わないという次元ではないからね。自分が何を話したのか、話していなかったか。そんなことさえ分からなくなってしまっていた」

 

「私で良ければいくらでも」

 

「それから外の神秘の話も聞きたい。……新しい思索の先触れとなるかもしれないからね」

 

「ええ、ええ。話を。もっと話を続けましょう。メンシスの古狩人、ダミアーン。私達には、もっと会話が必要なのです」

 

 目を細めた彼は、ふと思いついたようにテーブルの上に安置していた小さな箱を手に取った。

 

「そうそう。君に渡したい物があった。君を部屋に招くにあたり、いくらなんでも散らかっているのはよくないと部屋を片付けようと思ってね。その時に見つけたのだが……」

 

「それは、鐘? ですね?」

 

 ダミアーンが取り出した箱の中には小さな鐘が入っていた。

 白銀色をしたそれは真新しいように見えた。月光に照らされて鈍く光っている。

 

「『聖歌の鐘』だ。知っているかい?」

 

「傷を癒やすものだとしか……これほど近くで見たのは初めてです」

 

 ネフライトは、聖杯探索において他の仔らがそうであるように単独行動をしていた。そのため協力者のためにそれを使ったことがなかった。だが、父たる狩人の収納箱にそれが入っているのは何度か見かけたことがある。

 

「これは医療教会の古い試みの副産物でね。脳に瞳を得る手法もさまざまなことが試され、ほぼ全てが失敗に終わった。音による上位者との交感実験もその一つだった。……発想は、今でもそう悪くないものだと思うよ。カレル文字とて表音を捉えたものだ。あれこそ上位者も人間と同じように音による交信を行っている証左だろう」

 

 話が逸れてしまった、とダミアーンは鐘を元どおり箱に収めるとネフライトの手に乗せた。

 

「はじまりは、そう、遺跡から見つかった鐘だ。音が世界の境界を越えるという話は知っているだろうね。それを模して作られたのがこれだ。越えることは遂に叶わなかったが、知ってのとおり、傷を癒やすことができる。私も持っているが二つは要らないからね。君が持っていなさい」

 

「ありがとうございます。大切に使いますね。人攫い──ではなく、学派の狩人もこれで多少は輸血液の節約になるでしょう」

 

「それもあるが、一番は君の周りの人々だよ」

 

「えっ?」

 

 思いがけない言葉にネフライトはダミアーンを見つめた。

 

「どのような関係か分からないが、君は心を寄せて大切に思っているのだろう。……こんな街だ。信頼できる人との関係は大切になさい。望んで孤独になることはない」

 

「私は……別にそんな……」

 

「百年の孤立を味わった私が言うことだ。年寄りの忠告は大人しく聞くものだよ、少年」

 

 含み笑いをした彼は、温くなったミルクを一気に呷った。

 

 温度のある感情の動きは、ネフライトに最も親しい枝葉の存在である、クルックスのことを思い出させた。

 強いクセに未熟で迷いと甘さばかりが目につく。

 もう自分には持ち得ない可能性であり、だからこそ眩しく──彼のようになりたくないとネフライトは常々思っている。

 

 温かいものは、それだけでたまらない気分にさせる。

 何度、流水で手を洗っても綺麗にならない血のようだ。

 

 学派はよい。

 狩人が見た未来では滅びることが確定しているのだから、覚悟のしようもある。

 

 クルックスが連盟に寄せる共同体意識もビルゲンワースの学徒に抱く思慕も、理解したくない。テルミが戯れに呼ぶ「お兄様」だとか「お姉様」だとか、あれは虫酸が走るほど嫌いだ。

 セラフィは、前の二人に比べるとすこしマシだ。女王と臣下。成り立つ関係は、理屈として理解している。

 しかし。

 ネフライトは、苦い顔をした。蝋燭の灯りではダミアーンに見えていないだろう。

 

 かつて領主であったカインハーストは、いまやヤーナムの民の救済をまったく考えていない。彼らは領地外で民が何万人死のうと一族の悲願が達成できればそれでよいと考えている。実際にその動機で二〇〇年以上も狩りを続けている狂人だ。血質を重視するあまり互いの血肉を交えた一族でもある。目的は理解はできるが、彼らの倫理観はもう何百年前に壊れている。価値観の共有すら困難だ。それに与するセラフィもまたネフライトは「頭がおかしい」と思うことがある。父たる狩人がご執心の、あの端整な澄まし顔は何を考えているのか分からない。

 

(だから、だから私が、しっかりしなくては)

 

 例え、理解が及ばなくとも同じ枝葉の存在だ。

 その事実だけを頼りにすべきだ。それ以外の感情は、たいそうなものは、抱くべきではなかった。

 ネフライトは、逡巡を悟られぬように顔を背けた。

 

「……私は、学派と共にあるだけで、ただ、それだけで良いのです」

 

「ふふっ。学派の歩みは、遅々たるものだが決して停滞していない。後悔が少ない選択であることを祈っているよ」

 

 賢人は、肯定も否定もしない。

 心のどこかで「それでいい」と言って欲しいと思っていた自分に気づき、ネフライトはそれきり口を噤む。

 その後は、ダミアーンの話の聞き手に努めた。

 

 夜の帳は深く、メンシス学派に訪れる夜は静かだった。

 長い蝋燭が燃え尽きるまで話は続いた。

 それでも百年の孤立を慰めるのに夏の一夜は、短いものだった。

 




悪夢からの使者

ネフライト・メンシス:
善いことをヤーナムの人に。全てのヤーナムの民が、幸福になれるように。彼が願う事とは、そんな些細なことです。口に出せば笑われる夢を実現するために、彼は知恵を積み上げる。手で救える人はわずかだが、知恵ならば──。そう考える狩人の仔。沈みきった天秤を持ち上げるため、努力を惜しまない。

ネフがメンシス学派に求めることについて、分かりやすい例を用意いたしました。
例1)月の香りの狩人が瞳を「ヘイ、パス」する。
解1)ダメです。上位者になったのは学派が滅びた後なので、貴方様は学派に関わることが許されません。また『今を生きるメンシス学派が、自力で獣性を克服する』条件を満たしていません。レギュレーション違反です。なおコッペリアは論外です。視界に入らないでください。
例2)次元の高みに至り、上位者に伍する視座を手に入れました。
解2)ダメです。『人間が可能な範囲の手段』の条件を満たしていますが、貴公は『今を生きるメンシス学派』ではないのでレギュレーション違反です。辿り着いた手法について大量の水の彼方に秘匿してください。けれど素晴らしい成果です。その調子です。頑張ってください。応援しています。
例3)メンシス学派です。集団で交感実験をしたところ、月とは異なる上位者との接触に成功しました。これから脳に瞳を願おうと思います。そして獣性を克服した場合はどうなりますか。
解3)セーフです。『今を生きるメンシス学派』・『人間が可能な範囲の手段』の条件を満たしています。素晴らしい成果です。頑張ってください。応援しています。

クルックス「どれも同じじゃないか」
ネフライト「違うのだ! これだから素人は!」


ダミアーン:
「一日経ったな、ヨシ」
「まだ傷があるな、ヨシ」
「傷が消えたっ! また一年経ったのか。私以外誰も気付いていないが……」
これを繰り返してヤハグル時間で約百年。稀にしか発狂しなかったのは学派の研究が遅々たるものであれ、進んでいたからです。
一年が二〇〇年以上繰り返されている──とはいえ、人々の行動は微妙に異なっている。
獣になる者は、なる年とならない年があることをダミアーンは発見した。現在は、ミコラーシュが目を醒ましてくれることを期待しながら、その差異について研究中。そんな時分にやってきたネフライト。「これはもう答え合わせじゃないか!」と悪夢の主(仮称)の存在を確定させ、精神状況が好転した。
……時間はたしかに止まっているが、そこに生きる人々や知恵は進展を見せることもある。だからこそ賢人は『繰り返される悪夢』という仕組みに気付くことが遅れた。まさか現実ごと悪夢に侵されているとは思わなかったからだ……
教会で地位を得たのは夢を見る狩人の功績が半分。ところで血の質が良い娘はどこに行ったんでしょうかね。不思議だね。

ミコラーシュ:
まだ夢を見ている。もちろん自覚していない。
しかし、毎年何かしらの研究成果を発表しています。
そのためダミアーンが悪夢に囚われていることに十年、二十年遅れました。

「ミコラーシュがバンバン仮説を打ち立てるから、その点、悪夢のことは全然気付かなかったよ。私がただの学徒で、彼だけ見ていたのなら今も気付かなかったかもしれない。しかし、私は狩人だ。そんな私は現役狩人の最高年齢(暫定)を更新している程度に健壮だが、体感で十年、二十年経っても足腰にガタがこないのはさすがにおかしいな?とね……」

|且_<交信をお待ちしています

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