黒服とは、医療教会の下位の狩人である。
獣の病の罹患者、その疑いのある者を病の発症前に処理する役目を負う、予防の狩人でもある。
希臘の王の名を冠する彼は、彼だけのガラテアを待ちわびている。
『暗殺者の朝』編は4話構成でお送りします。
朝陽は、平等に全てを照らす。
痛みを知らぬ医療教会上層。
祈りを捧げるヤーナム市街。
焼け焦げた旧市街。
深い谷にある隠し街ヤハグル。
夢を見る狩人が願った在りし日を再現し続ける街の片隅。
疲れた男が地べたに座り込んでいた。
「シモンさん、あぁ、良かった。ご無事ですか」
頭上から掛けられた声に、ビクリと震える。
見上げると白い髪に丸眼鏡。
やや疲れた顔のピグマリオンが立っていた。
「お怪我もなさそうですね。良かった」
「おかげさまでな。ああ、道中すまなかったな。俺も見失ってしまった……」
ピグマリオンは、辺りを見回してから緩く首を振った。
「いえ、あなたが生きているのですから。それだけでホッとしましたよ」
「まだ墓暴き業のことも話していなかったからな。忘れていないさ。だが、すこし仮眠を取ってからでいいか……?」
シモンが、くたびれている理由。
さんざんブラドーに追いかけ回され、殺しては、追いかけられた。暗殺者は相変わらず底抜けの体力と気力で夜を駆け抜けた。
夜が明けた後は、さすがに目立つのを恐れたのか、鐘の音は遠ざかり、襲っては来なかった。
だが、朝になってもシモンは忙しかった。あちこちに射ってしまった矢を回収しに走り続け、予防の狩人として街中に散らばる獣や狩人の死体の片付けに駆り出された。
ようやく戻ってきた市街外れの教会の裏。
さすがに疲れたシモンに無理強いすること無く、ピグマリオンは穏やかに話しかけた。
「構いません。私もこれから大聖堂にお使いですから。ああ、でも、その前に……」
彼が抱えるバスケットには書類が入っているようだった。
それに隠された包みをシモンに渡した。
「きっと食事を摂っていないのだと思いましてね。ちょっとした軽食を」
「そりゃ……ありがたい……」
食事にありつくことまで考えが及ばなかったシモンにとって、本当に有り難い贈り物だった。
「それから、もし食料が必要ならば、この教会に寄ってください。食事の提供ができるでしょう。厨房には話を通しています。……市街の外れと言いましてもね、ちょっと大っぴらにできない話なのですが……大聖堂にお勤めの白服の狩人の実家が近くにあるとかで常駐の狩人が何名か詰めているのですよ。だから多少、金銭の融通が利くというワケです」
「残菜であってもありがたい」
「お腹こわしますよ。窶しって大変なんですね……そう……窶しの人は……とても大変なのですね……」
消える独り言にシモンは、思うところがあった。
受け取り、開きかけた包みを閉じる。
「……なあ、あんた。何で他人にこんなことするんだ?」
白皙の青年は、困ったように笑う。
「私がヤーナムの事情を知らない異邦人だからですよ」
「『事情を知らない異邦人』が居座れるほど医療教会がぬるくないのは、よく知っている。……何なんだ?」
ピグマリオンは笑みを消した。
「そうですよね。私は、医療教会の古狩人を騙せるほどに医療教会の何たるかを知っているワケではない。けれど、誤解されるのは耐えられないので……」
そして。
シモンから離れた壁に寄りかかって座った。
日当たりにいる彼は、ぽつりと言った。
「私が異邦人だというのは、本当のことです。また不治の病を抱えた病人でもあります」
「それは……まあ、見ればな」
彼は、肌の色がどうという問題以前に血色が悪すぎるのは、黄昏時の初対面から分かっていた。
だが、彼の献身的な態度といまいち結びつかない身の上話だった。
続きを促すと彼は、ぼんやりと言った。
「不治の病なのですが、ヤーナムの血を……血の医療を受ければ、もうすこしだけ私は生きていけるのです」
「…………」
シモンが、できれば避けたいと思っている血の医療行為は、たしかに人を救っている。そばにいる彼のように。
望まぬ病人にとって、希望の標となりえる眩いものだと理解はしている。
「もちろん。教会が医療と言いつつ完治を目指していないことは知っています。といっても、医療教会の白服様や司祭様の思惑はさっぱり分かりませんけど……。ええ、それでも……私は病み人ですから、自分が内外から壊れていくのが分かるのですよ」
「……それで」
「私は、とても恐いのです。シモン。とても恐い」
「死が?」
「ええ、そう。とても、とても恐いのです」
「その気持ちは、わかるよ」
彼は、朝陽の下で震えていた。
誰もが謳歌するそこで彼は泣いていた。
だからこそ。
「目が眩むような使命が欲しいのです。恐れを忘れるような使命を。だから、どんなに汚い仕事でもいい。どんなに傷ついても、誰かを傷つけてもいい。使命は私に勇気をくれる。それさえあれば私は、死の恐怖を耐えられる。……そして、私は、俺は、たしかにここに存在したのだと誰かに覚えていて欲しいのです」
「…………」
祈るように固く握りしめた両手が、不意に解ける。
彼の色の薄い瞳が、光を反射して煌めいた。
「そうして果てたのなら……この悲惨な人生も最期は、最期だけは! きっと幸福になれると信じているのです」
医療教会の仕事に彼の望む使命は無い。
それを断言できるのは、最も教会の内部事情に詳しいシモンだけだった。
彼と街路を歩いている時にも抱いた忠告を告げるならば、相応しい機会だった。
彼の人となりを知った今でさえ言ってしまわなかったのは、彼の目に、懐かしいものを見たからだ。かつてルドウイークが見つめていたものに似た光が宿っている。もうひとり、似た目をした男を知っている。処刑隊の長、ローゲリウスもそうだった。
この手の人間は、身のうちに抱える恐れのために、恐るべきことをしでかす。彼に対し迂闊なことを言うべきではなかった。
「……その意気込みでよく教会の献体にならなかったな」
生きている病人は大歓迎だろうに。
シモンが独りごちるとピグマリオンはクスクスとおかしそうに笑った。
「不治の病の感染症には、誰も近付きたくなかったのでしょう。ああ、今は大丈夫です。この病気は、日に弱いものですから。……それに普段から輸血液を体に入れている狩人であれば、大丈夫ですよ」
「……あんまり上手いことを言えないが……いつか使命が見つかるといいな。あんたが納得して死ねるような」
自分がひどく残酷なことを言っているとシモンは自覚していた。けれど他人を思いやることができる、ヤーナムでは希有な感受性を持つピグマリオンならば、彼の言葉の裏を察することができたことだろう。
「ありがとう、シモンさん。ええと。その。そういうわけなので私の親切は、私が安らかに死ぬための駄賃なのです。だから、お気になさらず」
「理屈が分かれば、俺も多少安心して受け取れる。それに信心深いあんたには、前払いの報酬があったっていい」
「え?」
「不安も愚痴も吐き出して楽になるなら言えばいい。病気は……どうにもならんかもしれないが……話なら聞いてやる。俺なら、いつもこの辺の路地裏に転がってるだろうさ」
「ははは……それは、とても心強いことです。ありがとうございます」
ピグマリオンは、立ち上がり細かな砂を黒衣から払う。
ほんのりと赤い目が見えた。それに気付いた彼が、恥ずかしそうに笑い、眉を寄せた。
ようやく彼は人間らしく見えた。
シモンも微かに笑った。
彼は、黒い山高帽を一度掲げて別れを告げた。
「では、シモンさん。昼過ぎには戻ります。お休みなさい」
ひらりと手を振って応える。
下り坂を歩く彼の姿は、すぐに見えなくなった。
■ ■ ■
教会の黒服、ピグマリオン。
結果として彼は二度とこの古教会に戻ってこなかった。
よってシモンの善意が役立つことはなかった。
彼が帰還を告げた時分になっても音沙汰がない。
黒服の先輩らがその行方を気にし始めた頃、大聖堂からの使いが「彼は異動になった」と簡易な通知文を持ち込んだ。
「異動? アイツ、あいや、彼が『どこ』に?」
季節外れの異動だ。黒服の先輩が思わず口をついてしまったのも仕方が無いことだった。その先輩は「彼は異邦人で病人なのだから予防の狩人以外が務まるとは思えない」とも言った。
シモンは彼らの会話を外の壁に張り付いて聞いていた。
教会の使者は答えず、去った。
ワケの分からない顔をした黒服の先輩コンビが残され、帰ってこないことになったピグマリオンの私物を片付けに部屋の奥へ向かった。
その翌日のことである。
教会の片隅に置かれた懺悔室の小さな木箱には、手紙が入っていた。
曰く。
『私は特別な任に着くことになりました。お世話になった皆さまに、お別れを告げられなかったことが悔やまれます。特にも古狩人様。お気遣い頂きながら、応えられなかったことを惜しく思っています。どうかご自愛ください。どうかお幸せで。貴方の幸いを願っております。そして、どうか私のことを覚えていてください。最後まで貴方の慈悲をお頼りするしかない私をどうかどうかお許しください』
走り書きで歪んだ文書に署名は無く、いくつかの癖字から辛うじてピグマリオンのものだと断定された。
封書を手に取った時、微かな匂いにシモンは包帯の下、目を大きく見開いた。
匂い立つのは、古く懐かしい月の香りだった。
■ ■ ■
シモンは教会の裏手にやってきた。薪の蓄えが山積みとなって置いてある。恐らく在りし日のピグマリオンが作業したのだろう。キチリと並べられた山のそばには無造作にピグマリオンの私物が置かれてあった。夜が近付けば火を焚いて、薪と共に獣除けの燃料となるだろう。
彼が突然失踪したのは間違いなく誰かの介入だとシモンは察している。
月の香り。──怪しむな、というのが無理な話だ。
しかし、念のため彼の身辺調査を行うことにした。
過去に誰かとトラブルになった経緯はないか。あれば、それは誰との諍いだったのか。
彼の性格と先輩の黒服二人を見る限り、その線は薄いように見えるが、何事も地道な確認が必要だった。
燃やされる服に紛れて、表題のない本が置いてあった。
手にとって中身を確認する。
「手記。あぁ、やはりあったな」
軒下に座り、彼は最初のページから読み始めた。
──ピグマリオンの手記──
私が目を醒ました時。
貴重品はありませんでした。私は着の身着のままです。きっと身ぐるみを剥がされるように血の医療者へ全てを差し出してしまったのでしょう。
輸血後の痛みのある腕と共に傍らにあったのは二冊の本でした。神話の本、そして医学書です。医学書のとあるページの端が折れていました。私の病とは結核だったようです。『ようです』とは、他人事のように思われるかもしれません。けれど、著しく記憶が混濁した私は、どうあっても病名が思い出せなかったので今でもそうなのだと思っています。
それに、ようやく意識がハッキリした頃、息ができると激しく感動したことをよく覚えています。
息が、できるのです。苦しくない。痛くない。私は、涙を流しました。嬉しかった。嬉しかった。生きていることが嬉しかった。生きている。とてもとても嬉しかったのです。病は治った。もう死の影に怯えなくてよい。それが私にどんな幸福をもたらしてくれたでしょう!
しかし、私には帰る場所がありません。医学書は私の病を教えてくれましたが、私が誰でどこから来たのか分からなかったのです。行き場がない私はそのまま小さな教会の黒服に「ここで働かせてほしい」と頼み込むしかありませんでした。黒服のお二人は「治療と祈りが終わったら、出て行け」と何度も言いましたが、私はすがりつき、あらゆる言葉を重ねて結局、彼らから教会の黒のなかでも最も下位の下男として仕えることを許されました。
その時のことは、いまでも印象深く覚えています。私は相変わらずヤーナムに来る前の記憶が戻らないままですが『お願い』のときに咄嗟に「外で医者をしていた」と言って彼らの失笑を買いました。けれどこうした言葉は、スラスラと出てきました。我ながら「詐欺師だったのだろうか?」と訝しく思えるほどです。
今になって思うのですが私の本職は、きっと演者だったのでしょう。私は与えられた役割をすんなりと飲み込むことができました。きっと靴を舐めろと言われても、たいそうな屈辱を感じることなくできると思います。慣れない剣を握り、戦っている時は自分のことを「歴戦の勇士」だと思い込むことにしています。すると不思議なことに恐怖を感じなくなるのです。……我が事ながら異常な没入をしていると感じています。きっと私は優秀な演者であったのでしょう。また、私の体は年の割に柔らかい。これは本当に幸いな体質です。荒っぽい仕事も多いなか、怪我が少なく済んでいる理由でもあります。
医療者として初めて死体と対峙したとき。私は吐き気と震えが止まりませんでした。私は、自分がすでにヤーナムの外で言うところの「医者」ではないことを悟っていましたが、それでも、一度仕えると決めた医療教会に背くことはできません。拝領の輸血液。あの効果は永続ではありませんでした。一週。二週。私は自分の体について詳細な観察を行いました。輸血液を絶ち、一ヶ月もすれば激しい咳と息苦しさに襲われます。ときに血痰も見られました。どんなに身の回りの環境が整っていたとしても、恐らく、血を絶って半年は保たないでしょう。一人で身動きができなくなれば、数ヶ月で死ぬでしょう。それも酷く苦しみながら。
でも、あの輸血液があれば、私はまだ、もうすこしだけ生きていける。
神話の本では『ピュグマリオーン王とガラテア』のページの端が折れていました。
何となく拝借した名前を、今では気に入っています。無論、王の名だからではありません。
死の恐怖を克つするため私が求めるものは、きっと、かの王にとってのガラテアに等しいと信じているからです。
だからいつか私にも最期に一度くらい。良いことがあったって、いいじゃないですか。
本当の私は強くもないし、賢くもない。
ただの病み人で、ただの異邦人で……ただの、弱い、人間なのです。
ヤーナム。血の医療が栄える、この街は不思議な街です。
いつもどこからか視線を感じる。
見ている。
見られているのです。
私の罪を。私の傲慢を。誰かの死の上に立って、辛うじて生きている我が身を見られているのです。
それが私にはたまらなく恥ずかしい。もし、肉体が健全であればきっと感じないことです。けれど、私の体は病に冒されて、冒されて……もう血の医療だけが救いとなっているのです。
けれど、私は、できるかぎり善い人間であろうと心がけてきました。
ヤーナムにおはす神は、そんな私の事情を汲んではくれないでしょうか。
……血に溶けた私には、血に汚れてしまった俺には……もうそれしかないのですから……
献身的な病み人
ピグマリオンは語る:
彼は狩人の夢に辿り着かなかった、ただの異邦人です。ヤーナムにおいて掃いて捨てるほどいる、ただの病み人です。つまり、主人公になれなかった病み人です。
19世紀、現代より不治の病は多くあったことでしょう。
通常の病進行であれば、余命約半年の彼の肉体はすでに身動きままならない状態ですが、血の医療を受け続けるならば、もう少しだけ生きることができます。重病人であったギルバートが獣となれば生き生きと人を襲うことができたように、彼の体も動きます。しかし、死が恐い。生きていたい。ありふれた願いが他者を傷つけてしまうので、彼は常に苦しんでいます。善人を演じるまでもなく、彼は善良だからです。
その苦しみからの逃避として使命が欲しい。
シモンは「医療教会に使命を感じられる仕事はないよ」と言うことはできませんでした。ピグマリオンにとっては使命探しが現在の心の支えなので、そんな残酷なことは言えなかったでしょう。
しかし、真実を秘匿するとは、どこか見慣れた所行で嫌になります。
手記は捨てられるところでしたが、このあとシモンの数少ない所有物としました。「誰かに覚えていてほしい」そう願った彼の人生とも言える手記がゴミのように燃やされるのは、良心が咎めたからです。
ご感想お待ちしています(交信ポーズ)