医療教会の権威の象徴たる聖血を拝領する儀式。
多くの宗教に不可欠な通過儀礼の一種である。
恩寵たる拝領は、消えることはない。
聖液を注ぎ、身を作り替える。
医療教会にあっては彼らの信じるものに身を捧げる事と同義であった。
夏休みの間。
月の香りの狩人の意向で魔法に関わる教科書類は全てビルゲンワースの一室に置かれることになっている。
万が一の神秘の漏洩を防ぐためである。
だが、各々の自主性に任されている状態なので本を一冊持ち出すことは容易いだろう。……ネフライトは今のところ、その必要性は感じていないが。
ネフライトは、窓から外を眺めていた。メンシスの檻のなかで目を細める。
蝋燭の節約のため日中は、日の当たるところで本を読んだり、書き物をするのが日課になっている。
普段、隠し街ヤハグルで生活している彼がここにいる理由は、宿題を片付けるためだった。
三日前、閉ざされていた扉は開かれ、各自思い思いの課題に取り組むことになった。
ネフライトの計算では、一番勉学に不向きなクルックスが十日で終わる宿題計画を立案した。要領が良いテルミは、四日の猶予を残して終わりそうである。クルックスの次に心配な成績であるセラフィも、昨日からテルミのお茶会に顔を出すようになったらしいので全てを片付ける目処が立ったのだろう。
──残り七日で全て片付けなければならない。
クルックスは獣と対峙するより真剣な顔で羊皮紙に向かっている。
「俺は、変身術が苦手だ」
「変身術の先生、ミネルバ・マクゴナガルは寮監だろうに」
「そうだ。だから、とても困っている。俺は、想像力というものが欠けているように思う」
森からやってくる風によりキラキラとさざ波立つ湖畔を眺めていたネフライトは、やや薄暗い屋内へ視線を移す。
クルックスの隣ではビルゲンワースの学徒、コッペリアが言葉遣いや文法にチェックを入れていた。
「形のないもの、その先の展開は無数に考えられる。どこまで考えればよいのか。俺にはよく分からない。ネフは、どうしているんだ?」
「質問が漠然としている。だが、言いたいことは分かる。あれもこれもと考えてしまって、終いにはとっちらかってしまうんだろう」
「それだ。まさしく、その状態だ」
「系統立てた思考は訓練によってのみ培われる。……自分でちゃんと考えることだ」
「ぐぅ……」
何かコツが聞けるかもと期待していたらしい。
しかし、彼は再びパッと顔を上げた。
「ネフは、もう出来ているじゃないか。俺ができないのはなぜ?」
「メンシス学派が素晴らしいからだろう」
クルックスの隣でコッペリアが「グフッ」と笑った。遺憾である。
彼の無礼に気付かなかったクルックスが質問を続けた。
「そういうことを聞いているワケじゃない。同じ出自なのになぜこうも違うのかと聞いているんだ」
「私は、元々頭が良いんだ」
「それは知っているが、じゃあ俺は──待て待て、お父様の名誉に関わる質問になってきた。慎重に答えてくれ」
「名誉ならば最初から大問題だ。結論は変わらんよ。私は、頭が良いんだ」
話に割り込むようにコッペリアが「ふむ」と唸り、椅子の上で背伸びをした。
「僕も気になっている。ネフ。彼らの賢い子。君の賢さの秘密とは何なのかな?」
「コッペリア様、すでにお気づきかと思っていましたがね。……私は、ただ記憶力に優れているだけです」
「それだけなのか?」
クルックスが首を傾げる。
それだけが全てである。
ネフライトは頷いた。
「私は、一度覚えたことを決して忘れない。だから二度同じ本を開く必要が無い。……私の頭の中には、いつもたくさんの言葉が浮かんでいる。色とりどりの温度さまざまだ。魔法史のテストなど大の得意だ。頭の中で教科書を開いて書き写す作業なのだから」
「そうだったのか。ネフ、すごいな!」
「経済的だ。……私は、私の特性を気に入っている。ミコラーシュ主宰の演説がいつでも聴けるからな」
再び「グフぅッ」とコッペリアが失笑した。
そろそろ主宰と学派の名誉のために立ち上がるべき時が来たかもしれない。背もたれから身を起こした。
「──コッペリア様、ネフの前でメンシス学派に対する無礼はやめていただきたい」
輪郭が見えるようなハッキリとした声でクルックスは、コッペリアに忠告した。
「いや、すまない……そういうつもりでは……フフッないのだが……」
「ネフは貴方のいない場所でも『聖歌隊など磯臭い退廃主義者の愚患者だ』など言ったことはないのだから、貴方も礼を欠くことは避けるべきです」
「メンシス学派の悪口って直接的で僕は好きだよ。うん。直情的だ。いや、すまない。本当にすまない。クルックス、気を悪くしないでくれたまえよ。君に嫌われたら僕は悲しい。……ネフ、君は大人びているから心配なのだよ」
「心配はクルックスにどうぞ。私には足りている」
ネフライトは、再び背もたれに身を預けた。
「いいや、心配だよ。一度見たことを忘れないということは、良いことでもあるが、悪いことでもある。──嫌な記憶でも、ずっと覚えていなければならないのだろう?」
「あ」
可能性に気付いたようにクルックスは瞳を揺らした。
その目が、ネフライトは苦手である。
「たしかに私は忘却を知らない。だが、知る必要もない。全てを忘れずにいられることを幸いに思っている」
「辛くないのか? 自分が死んだ時のことまで細かに覚えているんだろう? 俺なら……きっと足が竦む。すこしだが……」
「百の知識は、一の恐怖に勝る。知は人の営みだ。知識の伝達は、人のいる限り続く永続的なものだ。お父様が見つめる人間の可能性の一つだろう。──私を臆病者とバカにしてくれるな」
話ながら、まるで恐怖に対する言い訳のように思えてきてネフライトは噛みつくように言った。
噛まれたクルックスが目を丸くした。
「な、なぜ怒るのだ。尊敬しているんだ。自分が死んだときのことはできるだけ忘れるように心がけている……。君は俺より頭が良いから、いろいろと見えるものが違うのだろうな」
「…………」
誰も同じ視座を共有することはできない。
同じ色を見ているとは断定できないように。
ネフライトは、再び窓の外を見つめた。
窓ガラス越しにクルックスと目が合った。
「ところで、学校からの手紙は今日も来ていないのか?」
「来ていない」
「残り一週間。そろそろ……いい加減に来てもいい頃だろう」
クルックスが「そうだな」と言う。
コッペリアも目隠し帽子の下で壁に吊しているカレンダーを見たようだった。
「ふむ、そうだね。僕とセラフィがダイアゴン横町に行ったときは、すでに教科書リストを持っている子供がいた。いくら生徒の数が多いからといって『いい加減』に来てもいい頃だと思うね。……ふくろう便とやらで来るのならば、今日の夜から明日にかけてが狙い目かな?」
今日は、月の香りの狩人の仔と学徒達にとって特別な日である。
ヤーナムを揺籃とする上位者が一年に一度、眠りにつく日だ。
「十二時にテルミの拝領の儀を行う。それに参列したら狩人君は夢に戻る予定だ。君たちは外に出て、ふくろうが来るかどうか見ていればいい」
「そして、もしも来なかったら学校まで訪問すればいいと」
「それが一番、手間が少ないだろうね」
ネフライトには、ふくろう便を待つことも無駄に思えたが彼らの間で話がまとまってしまったのならば仕方がない。
また、ふくろう便での受け取りは魔法界の伝統かもしれない。
「あぁ、そろそろ時間だよ、クルックス。拝領の儀の準備を手伝っておくれ」
「はい。そういえば、ネフは拝領の儀はしないのか? 今回のテルミもそうだが、医療教会の礼典ではなく通過儀礼の一種らしいが」
「形骸化した儀式に何の意味がある。……私にはこれがある。勝手にやってくれ」
ネフライトは、被っているメンシスの檻に触れた。
「分かった。終わる頃、月見台に集合だ。遅れるな」
「了解している」
ぱたぱたと手を振ってクルックスとコッペリアを部屋から追い出した。
いくつもの言葉が目の前を過ぎてゆく。
自分の感情を表す言葉は、どれも相応しくない気がしてネフライトは目を閉じた。
今日は、眠気を感じる日だった。
■ ■ ■
医療教会における細かな刺繍は、使用者を守る呪いである。
ならば、白と銀の聖布は何重の呪いをまとっているのだろうか。
ビルゲンワースの学舎。
その地下は、かつて聖杯儀式を行う祭祀場があった。
可動式の天窓をわずかに開けば、地下にも光が降り注いだ。
聖杯には、多くの学徒が身を投じたことだろう。
神々しいと評してもよい空間だがヤーナムの祭祀場らしく、どこか血生臭い。
学徒とは知の探求者である。
すなわち、神の墓地たる地下を目指す墓暴きを兼ねた時代もあった。
広い空間の端にクルックスと月の香りの狩人は立ち、拝領の儀を見守っていた。
ビルゲンワースの学徒にして聖歌隊のユリエが歌うように聖句を詠み上げ、応えるようにコッペリアが聖布を広げた。そして、跪くテルミの頭と肩に聖布を巻いた。
「おめでとう、テルミ。血の加護──ではないな。君に、香る月の加護がありますように」
「ありがとう、コッペリアお兄様」
医療教会、黒装束を身につけているテルミはウィンプルと帽子を被った。
まばらな拍手が起きた。
「おめでとう、テルミ」
「あー、その、おめでとう、テルミ」
「ありがとう、クルックス、お父様。わたし、もっと頑張りますね!」
テルミの背後でユリエとコッペリアが狩人に「頑張れ」のジェスチャーをしている。
狩人は、テルミのことが苦手なのだ。テルミに原因があるワケではない。
狩人にとって後悔は、常に少女の形をしているだけなのだ。
しかし、テルミ自身には関わりの薄いことだ。意を決したように狩人はテルミと顔を合わせた。
「む、無理はしなくていい。ヤーナムの外との交流が続く以上、孤児院の場所を変えてもいい。そういう選択肢もある」
「いいえ、それには及びませんわ。わたし、ヤーナムが気に入ってますの」
「……そうか? ふむ」
「お父様のヤーナムなのですから、わたしに相応しいのです。これ以上の街はありません」
「では、まあいいか……。体に気をつけることだ」
「はぁい。お父様も今日は早くにお休みになってくださいね?」
「あ、ああ、限界が来る前に寝るさ」
狩人がこれ以上の会話に耐えきれないとクルックスを見た。
その意を酌み違えた彼は、力強く頷いた。
「お父様の安眠をお守りします。屋外の哨戒は、俺も加わりますので」
「ええ、狩人君。テルミと一緒に夢に戻るといいわ。学舎のことは私達に任せてね」
「お、おお……お気遣い、ありがとう」
全然ありがたくなさそうに狩人は言い、テルミを伴って姿がかき消えた。
彼らの姿がすっかり消えたあと。
コッペリアがウキウキと楽しげに言った。
「さぁて、忙しくなるぞ!」
「そういえば、具体的に何をするのでしょうか。哨戒とは……? 敷地に迷い込んだ脳喰らいは今朝、ネフと始末しましたが」
「道々話すわ。まずは食事を摂ってからね」
日が傾く。
天窓は、ぼんやりとした光しか入らなくなった。
ヤーナムが一年に一度、更新を迎える日。
クルックス達、月の香りの狩人の仔らにとっては初めての時間が近づいていた。
拝領の儀
聖液拝領:
ドキッとする名称なのですが、これはBloodborneの(解析により発掘された)没秘技の名称です。同じく『カインの衝撃』などの没秘技もそうですが、実装されていたらどのような秘技になっていたのか想像が掻き立てられます。
……筆者の私見では、聖血が聖血になる前の名前が聖液だったのではないかな、と勝手に思っています。聖液=聖血の扱いだったが、日本語的な言葉遊びとして「清潔【セイケツ】にしましょう(アルフレート台詞)」や「聖血【セイケツ】を求めよ(教区長エミーリア)」が面白いなとなって変わった、とか。などと考えつつ、じゃあ「賢者の血はどうなるんだ?」という問題が発生してしまうので、これはまったく私見の域を出ず、本作においても適用されないものではあるのですが。瞳をくれないか……足りないんだ……誰か……俺の目を見てくれ……。
さて、本作においては拝領の儀式の正式名称として登場しました。
拝領により受け取ったものは、消えてなくなることはありません。これは聖血を身に注ぐことで医療教会が神と呼ぶ存在により付与される概念だからです。本来であれば、輸血もセットで行う儀式ですが、テルミはすでに狩人なので省略されました。
……あぁ、君も血と獣の夢を見たのかい?……
本話について:
本来『夜歩き先生編』は4話構成であり、明日投稿する話とガッチャンコしていた話でしたが、次話(37話『つきがなく』)がヤーナム編の最長になったので、やむを得ず冒頭を本話として分割しました。そのため、本話より始まる『夜歩き先生編』は5話構成となります。
ところでヤーナムの夜を歩く先生って誰の話だろうね。危ないね。不思議だね。