はじまりの狩人の夢を生地に、異邦の狩人達をとらえた上位者の名のひとつ。
ヤーナムの神秘。その秘奥に存在する彼方の存在である。
ゆえに狩人は、医療者は、聖職者は湖を越え、求めたのだ。
いまや名の指すものは替わったが、形を変えて存在は続いている。
……青ざめた血を求めよ、狩りを全うする為に……
──さて。
──君は、我々に従わない自由がある。
──しかし、自由の行使の先には、相応の死があることを理解したまえ。
──学舎にいる限り、我々ビルゲンワースの学徒は月の香りの狩人との約定により、命を懸けて君を守る。
──だが、我々は『残念ながら』人間であるため、手が滑る時がある『かも』しれない。
──せいぜい守護に値する言動を心がけたまえ。
──十年とは、長くはないが短くもない時間だろう。
──互いに快適な生活を送るために。
──恐れたまえよ。外の神秘を宿す者。
ビルゲンワースの学徒。
コッペリアと名乗る目隠し帽子を被ったその人が最初に告げた言葉である。
冷たい態度ではなかったが、厳しい言葉を使った。クィリナス・クィレルは、生涯忘れることはないだろう。
敷かれた行動制限は、いくつかある。
『学舎を出てはいけない』という制限が最も強いものだ。その学舎の中にもいくつか開けてはいけない扉があるものの、学舎の中であれば自由に歩いてよいと言われていた。
興味は惹かれない。
制限を守れば生きていけるのだから、それ以上のこともそれ以外のことも考えるべきではなかった。
とにかく生きてヤーナムを出ることが最も大切なことだった。
闇の帝王のことを考えると朝も夜も無く取り乱しそうになるが、学徒達に「狩人」と慕われる彼のことを信じるしかなかった。……ヤーナムの現在の支配者とは、どういうわけか、彼のようだから。
その彼は、一年に一度しか眠らないのだという。
今日が、眠りにつく日だ。
学徒達は午後から、閉じこもっている研究室から出て学舎周辺に広がる森と湖沼の見回りに出ていた。
学舎の守りは、狩人の仔達であるクルックスとネフライトに任されているようだ。テルミとセラフィは最初から不在であると聞いている。
微かに夏を思わせる、気怠い陽が照りつけていた。
地上では、見ているだけで暑くなってしまいそうな装束を着て歩いている狩人がいる。クルックスだった。
数日前に会ったとき、彼は思い詰めた顔をしていた。その理由を聞くとおもむろに懐からチョコレート板を取り出した。そして言うことは。
「貴方に助言を請うのは解答を覗き見るようで気が進まないのだが、それ以上に宿題が進まない。俺も背に腹はかえられないのだ……」
板チョコ数枚の授業料でいくつかの授業の宿題について確認と助言をすることになった。そして二人で『ほどほどに頑張ろう』と約束した。
たった数日前のことであったが、不思議なことに遠い日に思えた。
理由について心当たりがある。
ヤーナムにおいて現実とは儚いものだ。道を踏み外す気軽さであっけなく『現実』離れしてしまうものであるらしい。
現在のクィレルは、ネフライトに促され湖を臨む月見台の石畳に座っていた。隣には、安楽椅子に揺れる老人がいる。
ビルゲンワースの学長、ウィレームというこの老人はすでに人の言葉を失っている。
──意識のみが高次元へ至ったのか。あるいは、どこにもたどり着けず砕けたのか。どちらであっても観測できないことさ。
そう語ったのは、学舎のなかを案内したコッペリアだった。
彼は学徒で、この老人は学長である。
敬意を払うべき対象であるべきだろうが、彼はただ唇で笑うだけだった。
ウィレームから視線を移し、ネフライトを見る。
彼が持つ、長柄の先に取り付けられた杭は刃のように鋭利だ。もし、振るわれたなら遠心力も加わわり、体に風穴が空くことは必至だ。
杭を見つめていたので、彼が振り返っているのに気付くのが遅れた。
「ああ、ええと、何か?」
「先生、生活には慣れましたか」
「え、ええ、おぉ、おかげさまで」
現在のクィレルの生活の中で最も言葉を交わす機会が多いのは学徒達だったが、次点は目の前の少年、ネフライト・メンシスだった。
ホグワーツにおけるネフライトについて、知り得たことは多くない。『授業は真面目に聞いている。私生活は前代未聞の没交渉ぶりであり、奇妙な檻を被って図書館にいることが多い』。この程度の情報だけだ。
しかし、ヤーナムに来てから知ったことだが、ヴォルデモートに命じられてユニコーンの死骸を漁っている時、背後から銃撃したのは彼だった。教員の目を逃れ、ヤーナムへ利をもたらすために暗躍していたのかもしれない。先日は、本音なのか冗談なのか分からない顔で「その節は仕留め損なって、どうも」と言った。何が『どうも』なのかは恐くて聞く機会を失してしまったが、拾うこともないだろう。
彼は──意外なことに!──学徒達によるクィレルの聴取に同席することが多かった。
ヤーナムには無い魔法──彼らの言葉を借りれば『神秘』と呼ぶ現象──について、クィレル独りならば学徒達へ伝達するのは困難を極めたことだろう。彼が互換性のある言葉選びをよく手伝ってくれたおかげで、学徒達が満足する程度の伝達を終えることができた。
学徒達や狩人と話す様子を見ていれば彼は会話を忌避しているのではなく、ホグワーツとの交わりを拒否しているだけだと分かった。狩人の仔の中で最も社交的な振る舞いができるのはテルミだが、最も価値観の差異に注意を払ってくれるのは学者肌のネフライトだろう。
「……あなたが気を病む必要はないだろう。あなたは被害者だ」
気付けば地面を見つめてしまうのは、イギリス魔法界きっての危険人物にヤーナムの情報を漏らしてしまったことだ。
『よりによって』異常極まるヤーナムの情報を漏らしてしまったことは、クィレルの小リスのような心臓をわしづかみにして揺さぶった。寿命は五年ほど縮んだと思う。感情の起伏がどうにも押さえられなくなってくる頃、ネフライトは、クィレルが数日前にぐずぐず泣いていた時と同じ言葉をかけた。
「例え入り込んだとしてお父様がいらっしゃる。長い夜の余興には、ちょうどいい」
「お、おお、恐ろしさを知らないから、そんなことを、言えるんだ……」
「私にはお父様より恐いものがない。出来れば会ってみたいものだがね」
暢気にも聞こえる言葉についてクィレルが説き伏せることはできなかった。
知る者と知らない者の埋めがたい差だった。
「い、異常は無さそう、ですか?」
「今のところは。……しかし今日はなぜか、ひどく眠い」
「彼も眠そうですね」
地上で敷地内を哨戒しているクルックスも同じタイミングで欠伸をした。
「……夜に眠らないのはいつものことだが、それにしても……この、眠気は……?」
檻を被る頭を振って眠気を追い出そうとするが、彼の瞼は重いまま、鉄檻に引きずられるように膝を折った。
「メ、メンシス! だ、大丈夫ですか?」
「私のことはネフでいい……。いや、そんなことは、どうでも……。あぁ……違う、違う……。これは私の、私達の眠りではない、のに……」
ネフライトの檻を外し、いよいよ体の自由が利かなくなっている彼を安楽椅子の脚に体を横たえた。
「クルックスは……」
目を閉じたまま、彼が言う。
月見台から地上を見るとクルックスも頭をおさえて湖と陸を隔てる柵へ寄りかかっていた。
地上へ向かおうとしたクィレルをネフライトが止めた。
「……地上は、いい……。学徒達が来る……」
「ぁ、ああ、ユリエさんが来たよう、で」
クルックスを見つけるなり、彼女は武器ごと彼を抱えてすぐに学舎に入った。
それを見てひとまず胸をなで下ろした。
ネフライトが取り落とした教会の杭を拾い上げ、その重さにハッとする。
「……誰が泣いているんだ?」
彼のそばに杭を置く。
そのときだ。今にも寝入ってしまいそうな彼の言葉にクィレルは思わず「は、は、あ?」と聞き直した。
「こどもの泣き声……。さっきから、ずっと泣いているだろう」
「な、なにも、きこ、聞こえませんよ」
「……赤子の声だ……」
悩ましげに呻く彼は、耳をおさえて蹲った。
幻聴には違いない。
問題は、病気なのか、学徒達によくある『気の狂い』なのか、クィレルには判断ができなかった。
迷っていると月見台にクルックスを抱えたユリエとコッペリアが帰ってきた。
「おぉ、やはりネフも眠そうにしているね。するとテルミもセラフィもダメだろうか」
「例外で成立をした命よ。『当然ダメ』に決まっている。……大丈夫よ、クルックス。狩人君が目を醒ましたらきっとあなたも目覚めるわ。コッペリア、敷物を持ってきて」
「了解だ、ユリエ先輩」
コッペリアが学舎に戻る。
ユリエの腕に抱かれるクルックスが身動ぎした。
「……潮騒の。波の音が、どうして……」
「波? ああ、そう。あなたには潮の音が聞こえるのね」
回転ノコギリを学舎の壁に立てかけた。
そのうちやって来たコッペリアが広げた敷布のうえに浅い眠りに囚われた二人を横たえる。
「さぁ、眠っておしまい。目覚めたら全て元通りさ」
コッペリアが、不思議なほど上機嫌で二人に言う。
すでに応答は無かったが彼にはどうでもよいことのようだった。
「ユリエ、何が聞こえる?」
「湿った音よ。ゆっくり。滴る音。けれど不思議ね。宙へ昇っていく音でもあるの」
二人を守るようにユリエもまた敷布に座る。
仕込み杖と呼ばれる数多の剣が収納された杖は、決して手放すことはない。
彼女は、うなされるネフライトの頭を優しく撫でた。
「ククク、啓蒙高き最後の学徒様は言うことが違う」
「あなたには何が聞こえているの? それとも、見えるのかしらね」
「ああ、今日は見える日だ」
今日に限って、彼を悩ませる頭痛は失せているらしい。
いつもより活力的に歩き回る彼は月見台の端に立ち、諸手を挙げて虚空に告げた。
「悪夢よ、来たれ! 今や夢も現もあるものか! 福音よ! 主の御業を知るがいい! そして見えよ! 彼方から夢幻の神秘がやってくる! 我ら学徒の、僕ら聖歌隊の、僕の神秘だ! アハ、アッハハハハ!」
コッペリアの笑い声は、クィレルをたまらなく不安にさせた。
ヤーナムは、病の街であると狩人は告げた。
事実、街を訪れた際の見聞を思い出す。病人らしき顔色の人々が多かった。だが、病にもさまざまある。
例えば、狂気というものについて。
ヤーナムには実にさまざまな狂気の種類が存在している。
いいや、忘れよう。こんなことは考えるべきではないのだ。
祝福の聖歌ばかりが耳に届く。クィレルは、できる限りコッペリアを忘れようとした。
ユリエが空を見上げた。
ならうようにクィレルも空を見上げる。
陽は傾きつつある。いつもと同じ黄昏の空だった。
「……、……」
溜め息と共にユリエが噛みしめた言葉は、細かに咀嚼されて誰かの耳に届くことはなかった。
──嗚呼、青ざめた血がないている──
■ ■ ■
「止め!」
レオーが鋭い声を飛ばした時。
セラフィは奇跡的に弾くことに成功した千景の残光が、視界に無数見えていた。
次の瞬間には天地が分からなくなってしまい、しりもちをついた。
もう残光は見えない。だが、目を開けてもいられない。
頭の奥から重々しい眠気がやって来た。
「ストップ、ストップ、鴉。……セラフィ、どうした? どこか具合悪いのか?」
レオーがセラフィから落葉を取り上げる。
年かさの騎士にとって、若輩が突然気の狂いに陥るということは珍しいことではなかったからだ。セラフィに限ってまさか、とも呟いたが。
セラフィは、レオーに体を支えられて体を起こそうとして失敗した。
「……み、水たまりに」
「うん?」
「目玉を落としたと言っているのは誰だ?」
騎士の手袋に包まれた赤の指先が、薄い雪の降り積もる石畳を掻く。
「誰かそこにいるのか……?」
セラフィには、誰かが呼ぶ声が聞こえていた。
頭蓋に反響して、次から次へと声が聞こえるのだ。
どれもがマリアを呼んでいる。
「違う……違う……違うんだ……」
弱々しく首を振る。
「僕は、違う、あの方ではない。……ア、では、ないのに……」
どうして、マリアを呼ぶ声が自分に聞こえるのか。
頭の上では珍しく取り乱したレオーがセラフィを抱き起こした。
「待て待て、ホントどうしちゃったの? なぁ、鴉、お前がさっき千景で頭叩き割った影響じゃないの、これ?」
流血鴉が刀を納めかけ、不意に空を見上げた。
「こんな時に無視するなよ!」
「今は違う。月の香りだ。彼方に悪夢の霧が見える。たった今、狩人が悪夢を廻しているのだ」
レオーが彼につられて空を見上げる。
たしかに霧が空を覆っていた。
「ん? 『今は』って言ったな?」
「…………」
「あとで話があるから逃げるなよ! ええと、じゃあ狩人が寝ている影響がセラフィにも出てるって?」
「今のところそれしか考えられない。私の千景が原因ではない。私の千景が原因ではない」
「根に持ってんな、この野郎。しかし、じゃあどうしようもないな。狩人の夢には行けない。……辛抱しろよ、セラフィ」
彼女を抱え上げたレオーが足を向けるのは、彼が住処にしている古城外れのカインハーストの工房だ。
「とりあえず安静にさせないとな」
「あのベッドに寝せるのか?」
「厩舎のごとき……」と流血鴉が言う。
そのうち彼の長い脚はレオーを追い越し、セラフィの顔を覗いた。
「近衛騎士長様の部屋は氷室だろうが!」
レオーが言うと流血鴉は自室のありさまを思い出したらしく、静かになった。
永久凍土もかくやという万年雪のカインハーストにおいて、身を温める燃料とは貴重品だ。
工房は、少ない燃料で屋内を温められるほど狭い。レオーがそこを住まいとしているのは趣味と実益と寂れた事情もあった。
「セラフィの世話は俺がやる。地下の倉庫から鎮静剤を持ってきてくれ。青い秘薬じゃないぞ。鎮静剤だぞ」
無言のうちに流血鴉は去り、レオーは肩を落とす。
いつもより数倍素直な後輩を思えば、事情の深刻さを覚えずにはいられない。
セラフィの突然の不調に戸惑っているのは、レオーだけではないのだ。
「セラフィ……」
何事か話しているが、血の引いた唇の奥で言葉になりきれずに曖昧な音になっている。
ただ。
マリア。
乾いた唇は小さく、古い狩人の名を呼んだ。
■ ■ ■
その数時間後。
生木の芯が爆ぜる音が聞こえる。
「むー……うー……」
鎮静剤は結果としてセラフィにとって気休め程度の効果しかなかった。だが、世話をする騎士達の心の安寧には大いに寄与した。
レオーは、鉄臭い水で濡らした布巾をかたく絞る。
工房のベッドにいるセラフィはその後、寝苦しい夜にいるように額に汗を浮かべて唸るだけだ。
忙しく動いていた鴉もやるべきことが無くなってしまってからは、ベッド近くに椅子を置いて彼女の様子を見守っている。
テーブルの上には、それぞれ帽子や兜がテーブルに整列させてあった。この辺り、数分前に鴉が今の形に納めた。身の回りの物に目が届く程度には、鴉も落ち着いてきたと見える。
「なぁ、鴉。いつも狩人が悪夢を平定させるまでどれくらい時間がかかるか、覚えているか?」
「感覚が狂っていなければ一晩だ」
「長いだろうなぁ……可哀想に」
セラフィのベッドに椅子を寄せて静かに見守っていた鴉が手を差し出した。布巾を催促されていると分かり、手渡した。
「顔の汗を拭うだけでいい」
狩人が一年に一度眠り、ヤーナムを一新させる事象について。
学徒達ならば「悪夢が眠り、悪夢が目覚める」と表現し、彼らカインハーストに連なる騎士達は「悪夢を廻す」と表現する。現在のヤーナムをとりまく異常に対し、彼らの認識の差異がよく見られる表現であった。
そして。
その現象の間、聞こえる幻聴についても認識は異なる。
学徒達は「福音」と呼び、騎士達は「凶事の先触れ」と呼ぶ。
「……レオー、今年は何が聞こえる?」
「いつもの。聖杯のやかましい連中の叫び声だよ。あーあ、やだやだ。地下はうんざりだ! もう二度と行かねえよ、あんなところ!」
女王は長い夜に倦んでいるだろうが、それは騎士達も同じこと、いいや、それ以上かもしれない。
騎士達には、動機もある。誇りもある。義務も。情も。愛さえある。
だが、一向に実を結ばぬ献身の果て、絶望を耐えるには限界がある。
かつて多くの騎士達が、その限界を迎えた時期があった。
また外的要因──処刑隊の設立、そしてカインハーストへの侵攻もトドメとなった。
それらが偶然、レオーが存命であった時期に起きてしまったのが全ての運の尽きだった。
──血の赤子とは、すなわち上位者の赤子。
──夢を見る狩人から聞いた話がある。
──上位者が特別な意味を込めた指輪があるらしい。
──婚姻の。
──それがあれば。
──それ『さえ』あれば。
誰も彼もが正気を失っている夜に騎士達の狂熱に突き上げをくらったレオーは、夜ごと聖杯に放られた。
カインハーストに遙か歴史で劣る医療教会でさえ聖杯の儀式ができるのだ。カインハーストに連なる者ならば儀式など文字どおり、朝飯前だった。
他の騎士達の不安と不満を押し込める体の良い人身御供となった彼は、そのうち聖杯の中で正気を失ったか、侵入者に倒されたか、獣になったかどうかして自分自身を見失った。
自意識が久しぶりに覚醒したのは、現在から約一五〇年前の出来事だ。
ある日、突然、どういう理由かカインハーストに存在する自分に気付いた。
しかし、変わり果てたカインハーストを見て、ちょっと心が折れそうになった。
今なら暴露しても許されるだろう。っていうか許せ。
貴族は、いない。
騎士も、いない。
いるのは敷地を徘徊する血舐め。
城内で泣き叫ぶ女幽霊達。
そして、女王の間を隠す処刑隊の長であるローゲリウスのみと来た。
──なんでアンタそこにいるの? 女王様に惚れちゃった? わかる~。頼むから死んでくれ。死ねよ。並みいる血族の首をさんざ刎ねて飛ばして、まだ殺し足りねぇのかよ。穢れた血はどっちだ。淀んだ血は誰だ。教会サマの血は綺麗なのか。それはカインを滅ぼすに足る理由になったかよ。死ねよ。殺すぞ。
ブツブツ言いながら勝負を挑み、負け続けること数年。
救世主がやって来た。
そう、稀代の傑作騎士ことカインの流血鴉である。
顔がイイだけでなく、むやみやたらに血質が高く、技量もある鴉の鮮やかなお手前により、かのローゲリウスは討伐された。
ローゲリウスを退けた二人は、拭う血もそこそこに女王の間に向かった。
二人で「女王がミイラになっていたらどうしようなぁ」、「どちらかといえば肉塊だろうな」、「ははは、言えてる。しかしだ。もし空席だったらどうする? お前、王様やる? 俺は臣下やってもいい」、「やらない。要らない」、「食い気味で言うかよ、フツー」などと軽口を言いつつ玉座への階段を昇った。
その先では、在りし日の記憶のまま椅子に腰掛けた女王がいた。
口まで酸っぱい胃液が押し寄せた。
カインハーストの女王、アンナリーゼ。
まさか不老不死が本当に不老不死だとは思わなかった。
これでは医療教会の中でも過激で知られる処刑隊。その長であるローゲリウスでさえ殺すのを断念するワケだ。
尽きざる命。
真性の魔性。
感動しつつ女王様にかしずいた。
同盟者にして騎士である月の香りの狩人は、たしかに上位者なのだろう。
だが、女王の言う「好ましい時期」を最早レオーは信じてはいない。
この先の未来、女王が身ごもることが叶わなくとも自分は十分に戦い続けたと思う。
新しい騎士が来たら騎士を引退し、彼らの世話をしつつ工房仕事をして、このままカインハーストと共に血族の果てを見守るのは良い選択のように思えた。己が血の源であるカインハーストは誇るべき家だ。愛憎で複雑な感情を持て余すが、離れることは考えられない。
そんな未来予想図をあざ笑うかのごとく長らく後継者に恵まれなかったレオーに転機がやって来た。
月の香りの狩人が女王に紹介──事実上、献上された──娘である。
四仔の構成は男女二人ずつという話も同時に聞いたので「息子がいるなら息子をよこせよ」とよっぽど言ってやろうかと思ったが、彼の娘──セラフィを見て不埒な考えは霧散した。
彼女はカインハーストに連なる女性の面立ちをしている。
どことなく妹、エヴェリンによく似た彼女のことを一目で気に入ってしまったのだ。
以来、レオーの人生は彩りを取り戻した。
我ながら単純な男であるとも思うが、全ては長い夜のこと。
たとえ実を結ばずとも、身を温める想いは必要だった。
鴉にしてもそうだ。セラフィは鴉にさんざん殺されているが、彼とも実に上手く付き合っている。鴉も彼女に何か思うことがあるらしく、病んだ頭の調子が良いときは心を寄せることがある。鴉の世話を安心して押し付けられる点でも最高の後輩だった。
だから、どうしても。
セラフィの苦しむ顔は見たくないのだ。
レオーは、工房の整理を終えると椅子から立ち上がり、セラフィの顔を覗いた。
呼吸は乱れ、眉を寄せていた。
「ボタンをひとつ外してやんなよ」
「……いつもとは逆だ」
起居を共にしている鴉が手こずりながらシャツのボタンを外した。
──いつもとは逆。はて。
レオーは、腕を組んで考える。
「えぇぇぇ、自分の服くらい自分で着ろ。お貴族様かよ。お貴族様だったわ」
鴉は「む」と唸って顎を上げた。
自分が指示したわけではないと釈明したいらしい。
「うん。じゃあ、なんて言うワケないだろ。いい大人の分際で。ちゃんとしろってば」
「気をつける」
あまり頼りにならない返事である。セラフィに「ぜひ」と迫られたら「好きにしろ」と結局、受け入れそうな未来が想像できる。
そういえば。
稽古の後、船をこぎながら読書する鴉の髪をセラフィが整えている場面に出くわしたことがある。あのときは微笑ましいと思ったものだが、実のところ自堕落な大人を作る過程であったかもしれない。
「けれど、まあ、分かるよ。セラフィは可愛いからな。甘えたくなる。……鴉は、いま何が聞こえるんだ?」
「ヤーナムの誰もいない街に吹く風の音」
──そりゃ静かでいいな。
レオーは頭のなかで騒ぎ立てる聖杯の住人の声を煩わしく感じているので羨ましく思った。
「今晩の狩りはどうする?」
「取りやめる。女王には私から奏上する」
「了解。それがいい」
レオーもセラフィの傍に来た。
手首の脈を測り、指先の温度を確かめる。
「目覚めりゃそれでいいさ」
「そうだな」
珍しく同意が得られた。
レオーは、セラフィの銀の細い髪をひと撫でした。それを見てならうように鴉が指先で一房の髪をすくう。
いつもは稽古の建前である真剣勝負の下、千景で斬って捨てる女だろうに。
彼が稀に見せる、血の通う仕草を垣間見てレオーは、やはり肩をすくめた。
■ ■ ■
ピグマリオンは思う。
ブラドーという男と付き合うにあたり、重要な心がけは一つ。
諦めである。
ゆえにピグマリオンは、血塗れの異邦服も聖職者の獣から剥ぎ取った戦利品も「都会風のセンスなのでしょう」と思い込むことに成功した。
日がな一日、音の鳴らない割れ鐘を揺らしているのは、ピグマリオンには理解できないが、それが彼の仕事なのだから早々に理解を諦めることにした。
この種の諦めは、我が身の現状にも及ぶ。
望まず啓かれてしまった知恵は、世界のありさまを彼の理性に正しく理解させた。
月の香りの狩人と名乗る彼にどのような動機があったにせよ『二〇〇年以上、人間ではない何者かの手の平で病に苦しんでいた』という我が身の現状を『わからせられた』結果、三日ほど寝込む程度の不調で済んだのはブラドーの理不尽さに鍛えられたお陰だ。彼が背後に立つだけで腰が引けて足が竦む。トラウマである。
そんなピグマリオンは、四日目にして啓蒙高き人々が最後に至る諦めの境地に指をかけた。
恐らく。
平凡な病み人の自分は、最も自由な人格であると自覚している。出自ゆえに失うモノが少ないからだ。
ヤーナムの外に出ることだって、きっと、できるだろう。
その先で生きていけるかは、勝ち筋の見えない博打であるが。
「教会に義理立てすることはあるまい」
夢を見る狩人あるいは月の香りの狩人と呼ばれる彼から受けた施し──届けられた熱々のパンを切り分けているとブラドーが言った。
暗殺の任を受ける彼は、常々教会のことを「くだらない」とか「頭のイカれたヤツら」と思っているらしい。そばに控えるピグマリオンにはそう見える。
「不敬ですよ」
「咎める者がどこにいる」
「私が咎めましょう。私は、善き信徒なので」
ブラドーは嗤った。
ピグマリオンも笑った。
「いまや貴方も善き信徒ですよ、ブラドー氏。私のような善き信徒が従事する仕事なのですから、当然貴方も善き信徒です」
ピグマリオンは、自由だった。
病が身を冒しきるまでならば、何でもできた。
だからこそ。
「義理も人情も報恩もありません。ただ、病み人が救いにしたモノの末路を見届けたいのです」
「…………」
「私が、救われぬ病み人達が、溺れかけながら縋った手が何だったのか。その膿んで腐るまでを見つめていたいのです。いつかいつかこの命が尽きるまで」
面白くなさそうな顔をするブラドーがパンを載せた皿を奪い取った。
「心せよ。探れば殺す」
「ブラドー氏のお手を煩わせるつもりはありません。私は善き信徒なので。しかし、隠すのは暴くより難しいと思います。……大変な仕事ですよ……ええ、そう……暗殺者は大変な仕事です。つまり、やりがいがありますね?」
「ハッ。価値などあるものか」
投げやりな言葉にピグマリオンは首を傾げた。
「最も苦難な仕事は、最も大きな使命になりえるのではないでしょうか? 私は使命が欲しい。目の眩むような使命は私に勇気をくれる。……強くない私にとって、死を正気で受け入れるのは恐ろしいのです」
「お主が言う『最も苦難な仕事』。その任は私のものだ。お主の仕事にはなりえまい」
「え。では私はここで何をすればいいのですか? ここ数週間で花壇の整理が終わってしまいましたが……」
ブラドーは「知らぬ」と言いたいに違いない。
言わせないためにピグマリオンは、棚から古い紙を取り出した。
「さて、目の前で作業をしていたのでご存じかと思いますが、こちらシミだらけの古い地図──だったのですが、ただいま最新情報に書き換えています。きっとお役に立つと思いますよ」
「お主の手は借りぬ」
「ところで、ブラドー氏は鐘で誰かを探しているらしいですね。南区教会支部、隣に何があるかご存じですか?」
ブラドーは、押し黙った。
ピグマリオンは古い地図をテーブルに敷いた。
ヤーナムの地名の由来となった聖堂をなぞり、指は南進した。
「どなたを探しているか私は伺いません。しかし、道と建物を知っていた方が有利ではないでしょうか。ささやかながら助力できると思っています。貴方の命令ならば、私は喜んで」
「……。それで?」
ブラドーは広げられた古い地図を指先で叩いた。
南区教会の隣には何があるのか。問われていることに気付いたピグマリオンは、微かに笑った。
「ああ、隣は空き地です。家屋がありましたが先日、獣が出たので焼き払い、ついでに打ち壊したのです」
拍子抜けだったらしい。彼はパンを囓った。それから。
「……ゆめゆめ探ることなかれ。終わらぬ死など、まさに悪夢であろう」
これが彼と交わした会話のなかで最も建設的な内容であり、印象深いこの出来事が数日前。
まともな生活を諦めつつ、慣れてきた頃。
異変は夕方に起きた。
ブラドーが古工房の外に出て空を眺めている。
彼が外に出るのは、珍しい。とても珍しい。
遠目から眺めれば獣が空を仰いでいるようにも見える。
「ブラドー氏、何事ですか」
「獣の声が聞こえる」
「な、何ですって?」
ピグマリオンは両手を耳に当てて外の音に耳を澄ませる。しかし獣の声は聞こえない。
代わりに、こどもが泣く声が聞こえていた。
「いいえ。こどもの声しか聞こえませんよ?」
あとは風の音でしょうか。
そう告げた時、ふたりは顔を見合わせた。
「こどもの声など聞こえないが」
「え。で、でも私も獣の声は聞こえませんよ。まだ夜ではありませんし……」
「まやかしか」
「そうかもしれませんね。こわっ。とりあえず戸締まりしましょうか」
ふたりは揃って古工房に戻る。
扉を閉めようとするピグマリオンをブラドーが制した。
「……たしかに私たちの家に物盗りなど入らないでしょうけれど。聞こえるまやかしが不気味ではないですか?」
「よい。今宵は懐かしい匂いがする」
「はあ。では、そのように」
ピグマリオンは、頷いて扉を開け放った。
とにかく──諦めが肝心なのだ。
そう自分に言い聞かせた。
■ ■ ■
シモンは猫しか通らない薄汚れた路地で転がっていた。
海水が岩礁にぶつかって砕ける音が止まらない。
この音の正体は知っている。
漁村の灯台隣の小屋で聞こえた音だ。
もちろん、幻聴の類いである。
鳴り止まない鐘の音はいつでも悩ましいものだが、今際に聞こえていた波の音も精神に堪える音だと覚えつつある。
行方不明になっているピグマリオンの行方を追わなければならない。
彼は教会の不祥事を被せられたか。間の悪い現場に出くわしてしまったに違いない。
今は何でも手がかりになりえる。この現状で彼を追わない手はなかった。
しかし。
(なんだ、この音は……?)
繰り返し、繰り返し、繰り返し、波が叩きつけられて砕かれる音が遠く聞こえる。時を同じくして聞こえる鐘の音は波音と同じ幻聴か、たった今鳴っている音なのかも分からない。
狩人の悪夢の地下牢で見た連盟の男を思い出す。壁に頭を打ち付けたくなる気分が初めて理解出来た気がする。したくはなかったが。
不安に駆られないように。
何より狂気に陥らないように。
シモンは、空を見上げる。
その先。
彼は包帯の下、目を瞠った。
「いったい何が……」
時刻は、夕暮れ。
季節外れの深い霧が市街を満たしていく。
薄れた雲から黄昏の光が差す。
ヤーナムの外では天使が掛ける梯子だと言うらしい。
そんなことはどうでもいい。
地上に満ちる空気は、なぜだろうか、月の香りをまとっている。
■ ■ ■
いずれ市街に至る、禁域の森にて。
兜──それは誤解を恐れず言えば、バケツを逆さまにしたような──鉄兜を被り、ヤーナムではまず見かけない青の官憲一式に身を包んだ男が、歩む足を止め、空を見上げた。
「ヤマムラ、今日は風がうるさいな」
彼の数歩後ろを歩いていた男も立ち止まり、狩帽子を上げた。
「……? ああ、そうですね。市街の方向から獣の声が聞こえます」
どこで聞いたのだったか。
考え込もうとする東洋人、ヤマムラは声の正体を探すように虚空を睨んでいる。
長と呼ばれる男は、乾いた声で笑った。
「同士、それは気の迷いと言うものだ」
「そういうことにしておきます。……あぁ、何だか頭も痛くなってきた。……? ヴァルトール殿?」
兜に空いた穴。
連盟の長、ヴァルトールの瞳が見えたような気がしてヤマムラは穴を見つめた。
しかし。
「また厄介な夜が来る。さて、市街に急がねばなるまい」
「この声の主を?」
「……。ああ、これほど聞こえるのだ。淀みを飼い太らせた獣がいるに違いない。頭のイカれた医療者どもめ」
「ええ。ごもっともです」
再び彼が歩き出したのでヤマムラは、応えた。
間もなく宵闇に紛れた霧が二人の姿を飲み込んでしまった。
■ ■ ■
上位者の眠りとは、祀られるものである。
トゥメル人は上位者との赤子を願ったというのに、その上位者には眠っていて欲しかったのだろうか。
いいや、違う。
眠り。そして、その先の夢こそが上位者と人間を繋ぐ唯一の交流できる場であった。
だからこそ、眠らせておく必要があったのだ。
ヤーナム医療教会において会派内でさえ統一の見解を得られていない問題について、テルミ・コーラス=Bが言えることは、ただひとつ。
「上位者の思惑を人間『ごとき』が考察できるなんて素敵な思い上がりね。けれど、どうか上位者の意を騙る狂言をお許しになって? 人間の傲慢さも極まれりって感じですから、特に『らしく』てとってもいいと思うの!」
トゥメル=イルの大聖杯が語るトゥメル人の在り方は、嫌いではない。
『上位者の眠りを祀る』とは、決して消極的な祈りのありさまではない。
上位者と人間の欲求が互いを傷つけず、互いの利を期待できる距離で出来る精一杯の行為だろう。
妥協にして幸運な在り方であると思うからだ。
ゆえにテルミはトゥメル聖杯が嫌いではない。
「もー。皆さま、お父様がお眠りだっていうのに学舎の守護なんて! ヤーナムの外から、学舎まで人が来るワケないでしょう」
テルミは誰もいない古工房で父たる狩人がそうするように、大きな独り言をこぼし白い頬を膨らませた。
愛すべきお父様は「眠い……限界……」と早々に大樹の根元に行ってしまい、人形もその後を追った。
本当はテルミも行きたかったが、我慢した。人形の役割であり、彼らの伝統を尊重したからだ。
あれこれと考え事は尽きないが、次の瞬間には薄く微笑むのだった。
「むうー、でも、セラフィはマシね。日がな一日、騎士見習いの稽古しているそうですから。けれど、あの子。騎士だ何だと言いつつ、まだ女王の穢れた血を啜っていないのは少々笑ってしまったけれど。……優しいお父様ですこと」
未だセラフィが『夜警』どまりの理由を思い出す。
カインハーストに送られた彼女が、来たるべき時まで選択できるように。
狩人が祝福した経緯は、テルミにとって興味深い。
「お父様は、ああいう子がお好きなのね、きっと」
狩人が四人に向ける目は、概ね平等である。
テルミの孤児院にも時おり聖歌隊になりすました狩人が様子見にやってくる。
並々ならない何かしらの感情があるのだろう。
感情。
それは、上位者らしからぬ情の動きだ。
「まあ、お父様らしくて素敵! とっても面白いし、どこにどう転んでも痛くはないから、なぁんにも問題ありませんけれどね!」
テルミは、楽しげに笑って床につかない脚をふらふらさせた。
だが、ある時。
「あら、あらあら」
テーブルの木目が歪む。
ハッとしてぶつかりそうな頭を押さえる。
抗いがたい眠気で瞼が重い。
「なぁに……お父様の眠気ってわたし達まで及ぶ類いなのねぇ……あぁ、おやすみなさい。……いやね。やかましいオルゴールが聞こえるわ、忌々しい、いったい、誰の……子守、歌……?」
木目が歪む。
テルミはテーブルに突っ伏した。
願わくば、父と同じ夢を見たかった。
■ ■ ■
悪夢の主は、夢を見る。
限界を訴える体を騙し騙し歩かせて大樹の根元までやって来た。
そこに座り込み、ゆるゆると足を伸ばす。
かつて最初の狩人、ゲールマンが座った場所に狩人はいた。
花の香りに包まれて、彼の人は何を考えていたのだろう。
一年に一度の思考をする。
去年もこうしてここでゲールマンのことを想ったことがある。
眠りから覚めた後は忘れてしまうことが多いけれど、ああ、考えがまとまらない。
「狩人様」
「すこし休む。ゲールマンだって眠っていただろう。そういうものだ」
「ええ。狩人様。おやすみなさい」
狩人は、ひらりと右手を挙げて答えた。間もなく、深い寝息が聞こえた。
そばに寄り添う人形が、花に埋もれた狩人の手を取り、胸の前に重ねた。
「また夜が来ますね。古い遺志が、あぁ、私の手から溢れて……」
人形が宙を見る。
優しい光を注ぐ白い月は、今や真昼のように明るい。
細かな遺志は、宙を漂う。
そして、狩人の夢から溢れ、悪夢の霧を通り過ぎていくのだろう。
■ ■ ■
眠りとは、短き死である。
ゆえに。
目覚めとは、再誕である。
■ ■ ■
全ての事態が急変したのは、悪夢の主の眠りから半日も経たない時の出来事だった。
狩人の夢の扉が破壊的な音を上げて開かれたとき。テルミは夢うつつのまま「クルックスが、また火薬庫の武器で遊んでいるのかしら?」と呑気に考えていた。
けれど、近付いて来る足音は、聞き間違えのできないほどに父たる狩人のもので。
「お、お父様?」
彼は、いつもより大股で古工房内を歩き、カレル文字を脳裏に焼き付けるための儀式祭壇で作業を始めた。
目をこすったテルミの見間違えでなければ、彼は内臓攻撃を高める『爪痕』をガン積みしている。その手つきは荒々しい。狩人の一挙手一投足をよく見ているテルミでも比較対象が思いつかないほど荒っぽい。怒っているのだ。
誰に声をかけるのも臆さない性質のテルミであっても、恐いものは存在する。──例えば、怒り狂った上位者とか。
「あのぅ、お父様? どうかなさいまして……?」
「──テルミ、ビルゲンワースに飛べ。俺が戻るまで学徒達を部屋から出すな。それからクルックスを市街に戻せ。鐘を鳴らしたらネフを。セラフィには市街の怪しいヤツを片っ端から斬り伏せよと伝えろ」
「は、はぁい……で、でも、どうして……?」
「誰かが悪夢に入った。俺のヤーナムに」
「あぃ!」
テルミは妙な声を上げた。
『まさか』が起きてしまった事態に心がついていけない。
低い声で急かす狩人に返事をしたかどうか、意識は定かではない。
テルミは、初めて狩人の夢から逃げ出すように地上の目覚めを促す墓碑に飛び込んだ。
つきがなく
狩人、寝る:
ようやく来た一年に一度の睡眠時間。
思えば、最初の狩人であり狩人達の助言者であったゲールマンはしょっちゅう寝ていた気がする。──全然、安らかではなかったようだけれど。
眠らずとも活動し続けることはできるが、人間であったときの習慣を全て捨ててしまったら人間性を喪失しそうな気がするので、一年に一度眠ることにした。ついでにヤーナムの更新日もその日に定めた。目覚めたら新しいヤーナムが再誕しているのだ。悪夢は続き、悪夢は巡る。真新しいシャツに腕を通すような気分だ。──あぁ、血生臭い! だから俺に相応しいのだ!
……でも俺は成長期のアケチャンだぞ……? 幼年期のアケチャンなんだぞ……?
仔らの体調不良:
自分の眠気ではないが、眠気にはどうも逆らえないので寝てしまった。
レオーの回想:
7年生まであるからゆっくり進行してもよいのですが、設定より人物や話を見てほしいという筆者の下心があり挿入したエピソードです。
謎解きを目的とした作品であれば、じっくり開示してもよいのかもしれない。けれど、本作はそういった目的は少ないため、実のところ、いつ開示しても変わりがなかったりもします。
けれど想像以上に情報量が多くなってしまった。申し訳ない。
幻聴:
悪夢を知覚する人々は、古い遺志に何かを見て、何かを聴く。
人により異なるそれは、その年によって変わる。
その音に、安らぎを感じるか。己が裂かれるような苦痛を覚えるか。
……どれも狩人が通りすぎた夢だ。けれど彼は覚えている。何も過去になっていないし、するつもりもないのだ。……
クルックス:海の音
テルミ:メルゴーの子守歌
ネフライト:赤子の泣く声(メルゴー)
セラフィ:実験棟の患者の声
ユリエ:脳液のぴちゃぴちゃ音
コッペリア:誰かが鉄格子を叩く音
レオー:聖杯連中の声
流血鴉:風の音
シモン:海の音
ブラドー:聖職者の獣の金切り声
ピグマリオン:赤子の泣く声(メルゴー)
ヴァルトール:?
ヤマムラ:?
ダミアーン:ミコラーシュのマジェスティック等(本当にミコラーシュが言っているのかと思って、資料室に確認に行った)