かつてはとある聖人が殉教した日であり、いまは恋人たちが愛を祝う日とされる。
実を結ばぬ恋がある。一方で実を結んだ恋もあるだろう。
まずは恐れず、話しかけてみることだ。
すべてそこからはじまるのだから。
ここは、ヤーナム。
ビルゲンワース。早朝。
ヤーナムの他の地域ではどうか分からないが、たいていの問題、特に議論とは早朝のうちに起こることが多い。
もっぱら発端となるのは、月の香りの狩人と呼ばれる狩人だ。
彼は夜間ほとんどの時間を市街で過ごす。そして、夜明けと共にビルゲンワースへやってくる。
クィレルが暖炉のある部屋へ向かおうと足を向けたのは、彼が戻って間もない朝早い時間だった。決して姿の見えない不気味な鳥の鳴き声が響く、だだっ広い廊下を歩いていると半端に開かれた扉から声が聞こえた。
──それで? 君はどうするのかな、狩人君。僕としては、ぜひ連盟の使命など忘れて仕事に励んでもらいたい……ああ、この場合の仕事は『学業』の意味だがね。
──ふむ。……ところで、ヤーナムの外では人が死ぬのは、たいへんな労力が要るように思う。どうか?
──そうだねぇ。事故死でもなければ珍しいんじゃないか? テルミの話を聞くに僕が思いを馳せるところ。まあ、そうでなくとも子供は価値が高い。だから死ぬのは珍しいことだ。殺されるなんて滅多なことなんだろう。
とんでもない会話が耳に飛込んできた。
そして、嫌な予感がヒシヒシと心身に迫ってきた。
こういうときに限って、まるで謀ったように間の悪い人物が現れるのだ。ヤーナムではしばしばそういうことがある。
クィレルは覚悟を決めて振り返った。
「あら。おはよう。佳い朝ね。ご機嫌はいかが?」
──ああ、やはり。
クィレルは朝から項垂れた。
ビルゲンワースの学徒、ユリエが可笑しそうに「あふふ」と微笑んだ。
目隠し帽子のせいで今日も彼女の目はクィレルには見えなかった。
「け、け、結構です……」
「あの人たち、いけないわね。『扉を開けっ放しにしないで』と言っているのだけど。効き目は薄いみたい。さぁ、中へ。先生。お茶があると思うわ」
再び「結構です」と言いかけたクィレルは、そっと背中を押されて抵抗を諦めた。
扉を開くとソファーに寝転ぶビルゲンワースの学徒、コッペリアが「おや」と顔を向けた。
狩人は軽く手を挙げた程度でテーブルの上で銃を分解していた。
「──お、ぉ、おはよう、ございます」
「ご機嫌よう。君がやってくるのが見えたよ。もっと早くに声をかけてくれてもよかったのに」
コッペリアが和やかに笑ってソファーから身を起こした。
無論、二人の間にはビルゲンワースの厚い壁があるので直視はできなかったハズだ。
寝ずの番をしていた彼は、生あくびを噛み殺しながら言った。
「ねぇ。先生、子供に囲まれるのってどういう気分なんだい? もちろん、自分の子供ではないが……しかし、それでも子供に囲まれることって幸せなことではないかと思うんだよ。それより大切なことってある? あったね。君は賢者の石とかヴォル、ヴォルデ、ヴォルフガング? あ、これは作曲家だったかな。えーと、何だっけ?」
「その話は、も、しないでください」
喘ぐようにクィレルは言った。
間延びしたコッペリアの声が「そーう?」と不思議そうに囁いた。
コッペリアは、クィレルにとって悪癖を疑ってしまうほどに子供好きだった。
彼は事あるごとに「クルックスやテルミがいなくて僕は寂しい」と嘆いた。そして子供の前の教壇に立っていたクィレルのことを「羨ましいなぁ」と言った。
しかし、どうも彼の「好き」は小さい子供に向ける性質の「好き」ではない気がしている。
カップに半分も注がないミルクで溶かしたココアのように甘ったるい感情の気配がするのだ。
しかし、色の付いた感情の機微に鈍い狩人は「そうか」と何やら感心したように頷いている。
しまいには「クルックスはしっかり者だけどな。ちょっと心配なところがあるから……」とコッペリアに見守りを頼むが、傍からは頼む相手を間違っているように見えて仕方がない。──心配なのは貴方と貴方の息子だ。もちろん、クィレルは命が惜しいので誰にも指摘する心算はないけれど。
「ちょうどいい。相談に乗ってくると嬉しい」
ツンと臭いのするオイルを布巾──ヤーナムの物はたいてい使い込まれた風体である──に染みこませた狩人が、細かな部品を分別しながら言った。
今日の話題の発端は、クルックスが送ってきた一通の封書だ。
内容を要約すれば「所属上、殺すべき敵を見つけたので殺してもよろしいか」という物騒な伺いであった。
それを聞いたクィレルは椅子に座っていなければ、腰を抜かすところだった。クルックスが戦っているのは獣だと聞いていた。主義主張が異なる人間を殺そうと決心する少年だとは知らなかったのだ。もし、褒められることがあるとすれば凶行に及ぶ前に事前に伺いをしたことだけだった。
「質問なのだが魔法界には、虫がいないのか?」
──またおかしな質問が飛んできたぞ。
クィレルは、頭痛の発露を感じた。
しかし。
狩人は作業を止め、銃口を指に置いた。
その目は真剣だ。
「望む者だけに見える虫の話を聞いたことはないか? 虫。見かけは……そうだな……百足の類いだ。血から沸いて現れる」
「私は、聞いたことが、あ、ありません」
すこしだけどもってしまったが、ハッキリと告げた。
狩人は「そう」と素っ気なく言った。
「よく隠れているのか。見落としたか。忘れてしまっているのか。けれど失って気付くこともある。外の世界では、どれだろうか? 本当にいないのであればよい。善いことだ。連盟員として断言するが、それは絶対的に『善いこと』なのだ。……しかしカレル文字を刻んだ連盟員の目は、誤魔化せない。虫はいた。世界は、どうしても淀まずにはいられないものらしい」
「あら。狩人君もヤーナムの外が羨ましいのかしら?」
狩人の声音に物足りない思いを感じたのかユリエが問いを投げかけた。
彼は古布にオイルを浸した。
「羨ましい? その言葉は当てはまらないな。『違う世界の話だ。比べることが間違っている』と感じている。私から言わせてもらえば、なぜ地続きのように感じられるのか。そちらの方がよほど不思議な感覚だ」
──断崖なのだ。決して混じらない境界がある。
狩人は語る。音のしない空間がしばらく続いた。
ユリエが部屋の隅に置いていたポットを取り上げた。
そして、クィレルの近くのテーブルにカップを置き、注ぐ。「目が覚めるわ」と囁いた。
狩人は作業を再開しながら言った。
「虫を見るのは、連盟の業だ。慈悲でもある。腕の立つ優秀な狩人であればあるほど『まとも』から遠ざかる。身に覚えて知っているが……なるほど……ヤーナムの外の平穏を知り、そこに情が生まれるとこうして酷いことになるのだな。それにクルックスは真面目だからな。俺も鼻が高い。だから心配でもあるのだが……ふむ……少々酷なことをしてしまったか。……獣を狩る経験は多くあれど彼は『まとも』に見えていた人間を殺した経験はないハズだから」
「人の形をしたものを殺すには訓練がいるからね。……興味深い。連盟の使命があっても心には抑制が及ぶのだね。なぜだろう?」
「クルックスは、とても優しい性格だからな。生徒の中に虫を見つけては心穏やかな狩りにはならない。そのあたり俺に似ていると人形ちゃんも太鼓判を押していて──」
「え? ごめん、何か言った? ユリエに僕の背中を毒メスで刺すよう命令した卑怯者とそっくりさんが誰ですって?」
「まだ根に持ってるのか。二〇〇年以上前の話だろう」
苦い顔をして狩人はボソボソと言った。
「曇りの日とか、たまに背中が痛むのさ。……。しかし『優しい』とはねえ。狩人君、クルックスの優しさはヤーナムだけに向けられるべきだと思わないかい?」
微妙な言い方で声音だったが、そこにはヤーナムの外について快いと思っていない心情がありありと感じ取れた。
だが、狩人はその意見を退けた。
「それはクルックスの問題だ。彼が大切にしたいものを大切にすればいい。私達が強要するものではない。狩人に繰り言が不要であるように。その種の助言も要らないのだ。俺はそれを『導き』と呼ばないのだから。……とはいえ、今は苦しんでいるようなので手助けが必要だろう。ふむ。私も連盟の使命を蔑ろにしたくはない」
狩人は、考え込む目つきになり単純な作業を繰り返した。
やがて手を止め、汚れた布巾や銃の部品を置き、綺麗な布巾で手を拭った。それから取り出したのは古びた手帳だった。
それに何かを書き付けて項を破る。床に放った紙は、落ちる前に消えた。まるで夢を見ていたかのように。
「たとえ『問題の先延ばし』と誹られようが迫る期限ある話でもない。虫の存在は、世界をどこまで広げてもカレル文字を刻んだ連盟員『だけ』の問題なのだ。長い夜に正しかった連盟の長も咎めまい。まずは身の回りのことからはじめよう。あるいは、見損ねた虫の正体をつかんでからでも遅くはない。──そんな内容だ」
ユリエとコッペリアが、微かに頭を動かす。
彼らが目隠し帽子の下で視線を交わしたのが分かった。
「……夢を見る狩人達に優れた点があるとすれば『時間だけは多くある』ということだ。躊躇は人の証でもある。深く淀んだヤーナムの虫を一掃してから、魔法界の虫の駆除に取りかかっても遅くはないだろう」
「それが最善でしょうね。実効性が無さそうなところが特に最高よ」
「僕もいい判断だと思うよ。連盟の使命とお父様の命令は、彼にとってどちらが重みを持つのか試そうというのか。ああ、どうなるのか興味深いものだね」
「え。いや、別に、そういうつもりでは……」
三人の間に、不気味な沈黙が生まれた。
強いて形容するならば「ちょっとマズいんじゃない、これ?」と言えるかもしれない。
しかし、言葉にしてしまえば、それは何よりの脅威になってしまいそうで誰も口にすることはできなかった。言い出したハズのコッペリアさえ「ハハハッ」と笑った顔のまま硬直している。
最初に動き出したのは狩人だった。
彼は、調子外れの鼻歌を歌いながら汚れた布巾を手に取った。
「まあ、クルックスならばうまくやるだろう。真面目だし。真面目だしな……」
──だからこそ、最も心配だと言ったのは数分前の貴方じゃないか。
もちろん、クィレルは命が惜しいのでやはり誰にも指摘する心算はないけれど。
■ ■ ■
手記が届いた。
クルックスは悪夢の使者達から手記を取り上げて読んだ。
『連盟の使命は、定めのあるものではない。世の「淀み」たる虫は、踏み潰さなければならない。だが、深く淀んだヤーナムの虫を一掃してから、魔法界の虫の駆除に取りかかっても遅くはないだろう。長も咎めまい。気負うことなかれ』
頭の中で父たる狩人の声で再生された言葉は、クルックスにとって一つの納得となった。その納得が深く、理解し、実行しようと思うほど内心で膨らむ不安は無視できない存在感を得た。
手記を手放した。
使者達の細い腕は手記をつかみ、そのまま虚空に透けて消えていった。
だが、クルックスはしばらくベッドの端から動くことができなかった。
(俺は……なぜ……安堵しているのだろうか?)
連盟の使命は、いつもクルックスに勇気を与え、正当性を保証するものだ。
苦に思ったことはなく、まして重荷に感じたことはない。
(連盟の使命は正しいものだ。絶対に、絶対的に正しいものだ。これが間違っていたら他の何も正しいものはないと思えるほどに。けれどお父様の言葉も正しいのだ。そうでなければ夜を明かせるハズがなかった。ビルゲンワースのユリエ様達が協力するハズもない。──正しい。どちらも正しいのだ)
それぞれの指示は『殺せ』と『見逃せ』だ。
両者の主張を矛盾なく成立させる理屈をクルックスは持たなかった。
だから、虫の気配はない。カレルの蠢きもない。
この現実をもって問題を棚上げするしかなかった。
そして『いずれ時間が解決するだろう』。そんな楽観的な見通しを、未来の自分が抱けることを信じるしかなかった。
(……こんなことを考えてしまう俺がどうかしていて、きっと間違っている。連盟の使命を……お父様の言葉を……。いいや、やめよう。こんなことを考え続けるべきではないのだ……)
視界に誰かの靴が目に入った。
顔を上げるとロン・ウィーズリーが立っていた。
「……っ。な、なにか?」
「この前の、ふくろう便の件さ」
「? あ、ああ、そうか……」
クルックスは「いったい何の話だっただろうか」と言いかけて、寸でのところで思い出した。先日、スネイプ先生とバッタリ出くわして件について話していなければ、そのままロンに質問していたことだろう。
「パパとママからオーケーの手紙が届いたんだ。これ、契約書。パパのサインが書いてある」
「ご快諾に感謝する。お父様にお礼の手紙を送るよう伝えよう」
「うん。……えーと、何かあった?」
「何もないが……何か?」
「顔色が良くないからさ。何もないならいいんだ」
大丈夫だ。
誰よりも信じたい少年は、そう呟いた。
■ ■ ■
明るい季節がやって来た。
暴れ柳が身震いして積雪を地に落とす。
それを合図としたかのように分厚い雲と白い雪にふさがれた日は終わりを告げ、薄れた雲を透かし陽光が地を照らした。
季節が変わる。
時を同じくしてホグワーツの陽気も戻りつつあった。
ジャスティン・フィンチ=フレッチリーと「ほとんど首無しニック」の事件以来、誰も襲われていない。
また、マダム・ポンフリーがマンドレイクが順調だと報告したことも良い出来事として生徒のなかで大きな話題になった。
「もうまったく心配はないと思いますがね! ミネルバ」
特に暢気なのは、誰の追随も許さないロックハートだった。
ニコニコと彼は中身のない笑みを浮かべて語りかける先は、マクゴナガルだ。
グリフィンドール生が変身術のクラスの前で列を作っていると彼は自信満々に頷いて見せた。
「今度こそ部屋は永久に閉ざされましたよ! 犯人は私に捕まるのは時間の問題だと観念したのでしょう。なかなか利口だとは思いませんか?」
ところでロックハートは先日、廊下で石になっていたところをフィルチに発見され、すわ新たな犠牲者かと大きな騒ぎとなった。
しかし、実は誰かが彼に「ペトリフィカス・トタルス 石になれ!」と呪文をかけたから石となって廊下で転がっていたことが分かった。不思議なことに犯人が探されることはなかった。とても不思議なことである。
「そうですか」
マクゴナガルは常に厳格な女性であるが、度を超して今日は無愛想だ。
「そう、いま、学校に必要なのは気分を盛り上げることです。先学期のいやな思い出を一掃しましょう! まさにこれだ、という考えがあるのですよ」
ロックハートは、笑いながら歩き去って行く。
クルックスは、彼の背中をジッと見ていた。
(虫の気配は無い……無い……誰も……)
あの一件以来、クルックスは周囲の人々をより注意して見るようになった。
誰もが怪しく見えるなど、そんなことはなかった。
誰もが普通だ。わずかに怯えつつも平穏に過ごしている。
殺伐とした目で誰もを警戒しているのはクルックスだけだった。
「何だろうね気分を盛り上げるって」
ネビルが変身術の教室へ歩き出したことも話しかけたこともクルックスは気付くのが遅れた。
「はっ!? 何だ?」
「ああ、うん、気分を盛り上げるって何をするんだろうねって……」
「……どうせまた突飛でもないことだろう。とびきりくだらない……」
クルックスの予感は多くの生徒達が想像できることだったが、二月十四日にそれは決定的な出来事になった。
その日。
朝食に降りてきたクルックスは、信じられないものを見た。
ネフライトが怒り狂った顔で大広間から出てきたのだ。
「ネ、ネフ!?」
「くだらん! 愚か者どもめッ! いつか見てろよ! 必ず、必ずや! 貴様らを冒涜の贄にしてやるッ!」
「ど、どうしてしまったんだ!?」
「あぁ!? 宗教上の理由だあああッ!」
質問には律儀に答えてくれたが、その答えの真意はまったく分からない。
彼の来た大広間を見たところ、その理由が分かった。
四方の壁はケバいピンクの花で覆われ、淡いブルーの天井からはハート型の紙吹雪が舞っていた。
──昨年は、こんなことがなかったハズだ。
混乱するクルックスは、後ろから来たハリーも困惑しているのを見た。小さな声がかかり、グリフィンドールのテーブルを見るとロンがいて手招きしていた。今にも再びナメクジを吐き出しそうな顔だった。
「バレンタイン、おめでとう!」
多くの生徒が席に着く頃。
教員席でロックハートが叫んだ。
生徒のざわめきが収まった。
「今までのところ四十六人の皆さんが私にバレタイン・カードをくださいました。ありがとう! そうです。皆さんをちょっと驚かせようと私がこのようにさせていただきました。しかも、これがすべてではありませんよ!」
生徒の反応は、喜びより戸惑いが大きい。教員席に至っては無表情な顔が多い。
ロックハートの提案は聞くに及ばず、クルックスは手頃なパンをいくつかつかんでローブのポケットに突っ込むと席を立った。
「あ、あとは頼んだ」
自分でもワケの分からないことを言っている自覚はあったが、ネフライトを放ってはおけない。
クルックスは、そそくさと退散を試みた。大広間を出ようとしたところ小人をみてギョッとしてしまった。
同じように大広間を出ようとした者がいる。
「あら。クルックス。おはよう。ご機嫌はいかが?」
金糸に光沢を輝かせた髪が、はらりと頬にのる。
それを細い指で払いながらテルミが挨拶した。
ネフライトの乱心を彼女も見ていただろう。しかし、ごく普通に話しかけられてしまい、クルックスは面食らった。
「ネフほど悪くない。ネフはどうしてしまったんだ。あんな取り乱すなんて……」
歩き続けてネフライトの跡を追う。
テルミは困り顔だった。
「見たとおりよ。キレちゃったの。ロックハートが『四十七人目のバレンタイン・カードは、ファンクラブ名誉会員の君からでも構いませんよ!』とか何とか言って、即プッツンしたの」
「そ、それだけ? たった?」
「これが廊下での会話であれば問題はなかったわ。環境が良くなかったのよ。ほら、ネフの頭はちょっと特別でしょう?」
テルミが自分の頭を指差しながら言った。
ネフライトの知恵の根源は、優れた記憶力にある。
『見たものを記憶し続ける』という特異性は、狩人からの素晴らしい贈り物であり彼自身、誇りにしている性質でもあった。しかし。
「常に動き続ける紙吹雪が数え切れないほどあって、ああ、ネフの頭ならば全部処理していたのかもしれないけれど……頭がパンク状態というか……とにかく、おかしくなっていたところを悪意のない言動がトドメになってプッツンしたのでしょうね」
クルックスは言葉にならない呻き声を上げた。──頭良すぎるのも考えものである。
テルミは空き教室を覗き込みながらテクテク歩いた。
「幸い、殴りかからなかっただけ理性があったみたい。……うーん。いないわね。寮に行ったのかしら? 寮ならばよいけれど……うぅん、クルックス。一応、図書館に行ってくださる? わたしは中庭を見てきますから」
テルミは、方向音痴だ。
図書館に行く間に迷子になりかねない。そのための差配だろう。
外に向かうことは図書館に行くほど難しいことではない。
クルックスは踵を返した。
「了解だ。……見つけてたとして、くれぐれも喧嘩をするなよ」
「ネフが売らなければ、わたしも買いませんわ。需要と供給の関係です」
テルミが、ひらひらと白い手を振った。
ふと思い出すのは、聖歌隊の白い服だった。長らく学徒の二人に会っていない。
──悩み事を彼らは聞いてくれるだろうか。
思い浮かんだ迷い事を振り切るように彼は走った。
■ ■ ■
「まぁまぁ。幸運とお父様は、わたしに微笑んだのね。ネフ、ご機嫌いかが? ──ところで鎮静剤はご入り用かしら? 青い秘薬の粉末もありますの。血液注射で星に届く感覚とか。トべるともっぱらの噂です」
クルックスから釘を刺された手前、中庭のベンチに座るネフライトに対し喧嘩を売るつもりは──お父様に誓って──無かった。
けれど、自分の顔を見たネフライトが隠しもしない大きな溜息を吐いたのでつい口走ってしまったのだ。
「結構だ」
むすっと不機嫌さのなかに刺々しい敵意を隠し持つネフライトは、すぐに視線を空に向けた。
テルミは、ベンチの隣に座り、ポケットからパンを取り出した。
「食べます?」
「いらない。席を立つとき、いくつか持って来てさっきまで食べていた。……何をしに来たんだ?」
「景色のいいところで食事をしたくなったの」
「ほう。私を見て? なるほど。いい趣味だ」
クッと彼は喉を鳴らして脚を組んだ。
テルミは、ポケットの中からさらに瓶に入ったカボチャジュースを取り出していた。
「そういう喧嘩を売る言葉はやめてくださらない? さっきクルックスに忠告されてしまったの。貴方、彼に嫌われたくないでしょう?」
「私は……別にそんな……。……。彼を引き合いに出すのはやめないか。何だか卑怯な感じがする」
「あら。貴方は、誰と手を組もうが構わないと思っていたのだけど、きょうだいに関しては、違うのね。意外ね。とても意外だわ」
ネフライトは、緑色の瞳を向けた。緑色を嫉妬の色としたのはイギリスが誇る劇作家であった。
そんなことを考えながら微笑むと彼は「見てはいけないものを見た」と言い出しそうな顔をしてそっぽを向いた。
「無礼も非礼も、一時だけ忘れよう。はい。精算済み。これでいいかな?」
「気前が良くて結構なことです──ということは、何か企んでいるのね?」
彼は答えず、ただテルミが差し出したカボチャジュースの瓶を受け取った。
事実上の肯定であった。
「私は、いつかホグワーツに『ほおずき』を放って遠くから観察していたい」
ネフライトの独り言は物騒だった。
狩人の悪夢に存在する『ほおずき』と呼ばれる悪夢の生き物を彼らは狩ったことがない。邪眼を有する、聖杯にも存在しない特別な生き物だ。けれど狩人が、その危険性から唯一、座学の機会を設けて説明したことがある。そして話さずにはいられなかった理由は分かる。対処の方法を知らなければ、見える距離にいるだけで死んでしまうのだ。知っていて損なことは何もない。
そんな『ほおずき』を野放しにしたいというネフライトの野望は、まったく友好的ではない。とはいえ。
「あら、素敵な夢。ええ、貴方とはこういう話題で盛り上がりたいわ」
「盛り上がっちゃダメだろう。これは冗談だ。本心から遠くないがね」
「ネフはホグワーツが嫌いなのね」
パンをちぎって食べながらテルミは言った。
ネフライトは、また答えなかった。
ただ、言わずとも分かるだろう。そんな目でテルミを見た。
「魔法使いは、魔法使いであることに満足している。我々より…………神秘を持っているにも関わらずだ」
ネフライトは言葉を詰まらせた。
いつも諭すように話す彼にしては、とても珍しい。
だから、彼の言いたいことがテルミにはよく分かった。
きっと「優れた」とは認めたくなかったのだ。
「互助拝領機構のチラシ、見たか?」
「ええ。拝見しました。素敵なイラストが描いてあったわ」
チラシは、ルーナ・ラブグッドが作成した。
そのことを言ったあとで彼は口を噤んだ。なぜ黙るのだろうか。見ればネフライトは、唇を噛んでいた。
「あら。貴方、悔しいと感じているのね?」
「私が持ち得なかった発想だ。メンシスの檻は祭祀の道具であり、交信の装置であり、客観の概念であるから。けれど、彼女は私の知らない瞳を持っているようだ。広告。シンボルとしての活用。記号的認識に使えるとは考えていなかった。悔しい。認めたくないものだが。とても悔しい……」
──だから『ほおずき』を放ってぐちゃぐちゃにしたいのだ。
テルミは、ほんのすこしだけ驚いた。
彼は目的のために誰かを害することも厭わない思考を持っているとは知っていたが、手に入らないものを羨む場合は、壊してしまい最初から『無かった』ことにしたいのだ。
(なんと、まぁ、難儀な人よね)
賢ければ賢いほどに、物事の底も天井も見えてしまうだろうに。
当然のことながら彼もそのことを分かっていて、それでも智慧を食む手を止められないのだから『ヤーナム人らしく病んでいる』のだと医療者は同じ枝葉の隣人を見た。聖歌隊が彼の所属するメンシス学派の居所たるヤハグルに火を付けるよりも、彼が自己矛盾に陥って、火を使う日も遠くないかもしれない。
「そうね。作ることは壊すことより難しいことだわ。お父様がおっしゃっていましたから」
「……ヤーナムと魔法界。ひいては私達とホグワーツは、良好な関係を続けなければならない」
ついさっき『ほおずき』を放ちたいと言った人物とは思えない慎重な意見だ。
だからこそ、テルミは頷いた。
ネフライトは一個人の感情よりもヤーナムの利を考えているとハッキリ分かったからだ。
「そこだけは、ええ、わたしと貴方でも意見が一致しますね」
「そうだ。次はそれを示さなければと思うのだよ。だから君に何事か起こった場合は、ひとつの手落ちなく状況を整えよう」
「──わたしに何かが起こることを決定的に語るのね? ひょっとして喧嘩売ってらっしゃる?」
「いいや、別に……そういうワケではないのだが……。心の準備だけは、互いにしておくべきだと言っているんだ。お澄まし顔のセラフィは何を考えているのか、私にはさっぱり分からない」
「セラフィは大丈夫でしょう。女王様に面白い話を届けないといけないお仕事があるのですから、大人しくできると思うわ」
「だといいがな。セラフィの差配について私は今でも納得がいかない。お父様はいったい何をお考えなのだろう。騎士など名ばかりの血狂い。狂人どもだ。セラフィもセラフィだ。──なぜ大人しく従っているのか?」
「貴方、わたしにこんなこと話していいのかしら。うっかり口が滑るかもしれませんよ?」
「滑らせてみるがいい。私は『テルミから持ちかけた話だ』と言うだろう。どちらを信じるか。見物だな」
「自分の方が信頼されていると思い上がっている貴方って可愛いですよね。この場限りの愚痴に留めてあげましょう」
ネフライトは、鼻で嗤った。
テルミはそれを聞こえなかったことにしたが、新しい噂のネタを仕込んでおこうと決心した。
「セラフィは、ほら、いい子ですから」
「ただの身内贔屓と道徳心の欠如だ。穢れた貴族どもの教育の賜だな」
「貴方が言うと説得力がありますね。あぁ、怒らないでくださいね。ただの事実ですから」
「どちらが? はぁぁ、まぁどちらでもいい。セラフィのことは出来れば考えたくない。操舵は任せたぞ。何があっても責任は君ということにしよう。私はクルックスを見なければ。どうやら自分のことで手一杯のようだから……」
「クルックスがどうかしたのかしら? 最近のあの人は、調子が良さそうに見えていたけれど」
「虫がいると言う。虫。連盟のアレだ」
テルミは「へえ」と言ってみた。
ネフライトはカボチャジュースを飲んだ。
「驚かないのだな」
「これでも驚いていますけれどね。もっとも『見つけるのが早かったなぁ』という感想ですけれど。魔法はわたし達の神秘とは違う種類の神秘ですが、それでも神秘には違いないのですから『何によってもたらされているのか』──その根幹如何によっては、血が淀むということもあるのでしょう。わたし達のような『血液感染』とは違うような気がしますが……。それにしても可哀想なクルックス! あの人、魔法界は綺麗だと思っていたのでしょうに。でも、ちょうどよかったのかしら? そろそろ進展が欲しいと思っていました。血の主は、きっと継承者かそれに近しい誰かなのでしょう。あの人も望むモノが見つけられてよかったですね。そして踏み潰すことだけが連盟の使命なのですから。──それで、虫は誰のなかに?」
「その情報は伏せる。クルックスにも聞くな。……彼にも分からなかったのだ」
「ふぅん。そうなの。不思議ね」
テルミは、ネフライトの顔をよく見た。
彼は、驚くべきことに嘘をついていなかった。
「よく隠れているのだろう。クルックスはそう言っていたが……それだけではないような。むむ、言語化が難しい。やはり連盟のカレル文字は信用したくないぞ、私は」
それを聞いてテルミはつい笑ってしまった。
医療教会の英雄が取り憑かれていた『導き』のカレル文字とどちらがマシかを考えてしまったのだ。
「とにかくだ。二人は使い物になりそうがない。正確には、有事だからこそアテにすべきではないと言うべきか。特に今のクルックスはヤーナムのことにまで気が回っていない。私達だけでも行動指針を定めておく必要がある」
「それは、そうですね。あ。──もしかして互助拝領機構って」
「私が慈善事業をしていると本気で思っていたのか?」
「心を入れ替えたのかと思ってましたの」
「それは君が宗旨替えするくらいありえないことだ」
カボチャジュースが入っていた瓶を返却したネフライトは立ち上がった。
「有意な会話となった。感謝を。君のお父様に対する感情が──君のために『愛情』と呼ぶことにするが──ヤーナムに利益をもたらすことを期待する」
「貴方の献身も報われるといいわね」
パンを食べきったテルミは言った。指先に付いたパン屑を地面に落とす。
その行方を見ていたネフライトは、あるとき片方の口の端が歪に上がる、いつもの笑みを浮かべた。
「私は、いつだって報われたくて頑張っているワケではないのだよ」
──君とは違う。
その響きがあることに気付いていたが、テルミは気に留めなかった。
「でも報われないことは、きっと悲しいことだわ」
「労りの情は、お父様にこそ相応しい。……その感傷だけを私は慈悲と呼びたいのだから」
拒絶されてしまっては、触れることもできない。
ネフライトはローブをはためかせて校舎へ戻っていった。
春になった。
誰もが陽気に感じる季節の訪れだが、彼の心は解かしてくれなかったようだ。
あるいは。
テルミは、落としたパン屑に虫が集っているのを見た。
彼の目は、こうしたものばかり見つめてしまうのかもしれなかった。
■ ■ ■
バレンタインの夜。
クルックスが談話室に戻ったのは、偶然だった。
今年になり、しばしば服用するになった青い秘薬が尽きてしまったことに気付き、外套を取りに談話室に戻った。
螺旋階段を昇っていると頭の中で何かが蠢いた。
──カレル文字だ。
ここがどこか。忘れたクルックスは駆けだしていた。
辿り着いたのは、寝室だ。
「はッ……?」
クルックスは、ほんの一時、カレル文字の疼きも気にならなくなった。
誰もいない。
寝室には誰もいなかった。
だが、カレル文字の反応は続いている。
その反応の先で、クルックスは顔を歪めた。
「まただ! なぜ……問題は、いつもハリー・ポッターなのだ!?」
彼の机に広がっているのは、黒革の本だ。
最近、どこかで見覚えがあった。
カレル文字の反応は──クルックスにとって信じがたいことだったが──この本が原因で発生しているように感じられた。
「何だ。どうなっている……? カレルは、文字は、人の淀みを見定めるモノのハズだ。無機物に反応するのか? いや、連盟の長が間違えるハズがない。……なぜ、本が……? はッ!」
気配に振り返る。
突然、ハリー・ポッターが立っていた。
途端にカレル文字の反応が消えた。
クルックスは額を押さえながら、一方の手でハリーの胸倉をつかんだ。
「何をしていたッ!?」
「わっ!? なに──」
「ここで何をしていた!? この本は何だッ!?」
「何もしてないよ!」
「言い訳は無駄だ! この本が、ただの本ではないことは分かっているぞ──」
「痛い! 離せよ!」
声にハッとしてクルックスは手を離した。
だが、落ち着かずグルグルとその場で歩き続けた。
「俺は誰も害してはいけないのだ。害してはいけない。いけない。いけない。俺は、正しい連盟員なのだから……お言葉に逆らってはいけない……。俺は、ただ……虫が……危険を……忠告で」
ハリーは、日記を抱えると急いで階段を下がって行った。
「待て」と声をかけることができなかった。
黒革の本。
あれは、ジニーが持っていた物だ。
クルックスは、よろけながら自分のベッドに座り込んだ。
再びカレルが反応を無くしたからだ。
立ち上がるには、気力と時間が必要だった。
学徒、コッペリアの悪癖:
『子供好き』の性質は、過去得られなかった、今後得られる未来もないモノを求める代替行為である。そのため、向ける感情は重々しく、甘く、爛れてしかも膿んでいる。
彼は仔らを間違いなく愛している。その感情に嘘はないが「本当は自分の所有物ではない」事実を思い出すのは、彼にとって耐えがたいことだ。彼らの愛をうまく受け取れない時に、その情動はあふれ出す。傷つけたいワケではない。それでも、ほんのすこしだけ、本当にすこしだけだが……憎いと思ってしまうことがあるのだ。
狩人、語る:
本文中の内容(たとえ「問題の先延ばし」と誹られようが迫る期限ある話でもない。虫の存在は、世界をどこまで広げてもカレル文字を刻んだ連盟員『だけ』の問題なのだ。躊躇は人の証でもある。長い夜に正しかった連盟の長も咎めまい。まずは身の回りのことからはじめよう。あるいは、見損ねた虫の正体を掴んでからでも遅くはない。)は、あとがき用に文章を書いている間にこっちのがいいな、と変更しました。変更前の文章は『深く淀んだヤーナムの虫を一掃してから、魔法界の虫の駆除に取りかかっても遅くはない』という短いものでした。
バレンタインの描写:
映画では丸々カットされているものです。原作小説では『バレンタインイベント』と言うべきロックハート先生の話がありました。
映画では、トイレで日記を拾ってから寮に戻り、すぐに日記に書き込みをはじめるハリーですが、時系列では日記を見つけたあと少々(それでも一週間程度だと思われますが)持っていて、本イベントが起きます。
そこでハリーの教科書や筆記用具がインクまみれになってしまうのですが、唯一何の変化も無かった日記帳を見て「おかしいな?」と思うことがあり、やがて日記に書き込んでみようという流れになっていきます。
けれど無いならば無いで違和感の少ないイベントなので映画版の省略と日記に引き込まれる流れは、とても好ましいものです。
本作においては、前話でロンに「知らない本は危ないぜ」という話をさせたので、ちょっとした動機付けのためバレンタインイベントを挟みました。
何が言いたいかと言うと、原作小説を知っているとちょっとだけ「あぁ、そういうこともあったよね」と頷けるかもしれないネタというだけです。
皆も見よう、ハリー・ポッター! 本は鈍器だけど今は電子版があるからね! お手軽!
(筆者はKindleで閲覧しています。というのも定額サービスに入っていると追加料金無しで見られる「kindle unlimited」に該当する作品なのです。文字検索できるのは、本当に便利ですよ。そして、本より安いBloodborneは何なんだ……?)
ネフライトの乱心:
キレた。前々からイライラしていたが、今日という今日はキレた。ヒラヒラした物は全部ゴミ箱に突っ込みたい。私は存在を許さん。
でもテルミとまともに話ができたのでたまにはキレるべきだな、と思った。それはそれとしてロックハートの名前を出したら瞬間的に怒ることになったので、やはり今回のテルミは幸運に微笑まれていた。
ネフライトの嫉妬:
ご感想でご指摘をいただいてギクリとした話でもあります。着眼点が素晴らしい! 瞳が足りています!
メンシスの檻。それは六角柱の檻であり、上位者と交信するための触覚でもあります。ネフライトはそれを祭祀道具として捉えていたので、チラシで目印としての活用、そしてシンボリックな描き方をされているのを見て「その思考があったか」と動揺し嫉妬しました。一度その考えに触れたので「自分でも使えそうだ」と思う反面、だからこそ思いつかなかった思考土壌の浅さを思い知らされます。
手に入らなければ、いっそ壊してしまえ。喰らえ、ほおずき!
そんな感じで思い詰めることがあるネフライトが心寄せるメンシス学派。テルミは「焼き討ちするまでもなく滅びそうね」と思っています。ヨシ!
テルミ視点:
ご感想でもご指摘をいただいていただいておりましたが、これまで意図的に書いてこなかったテルミ視点からの進行。今回はやっと書けたので、ちょっとホッとしています。
なおテルミ章と言うべきテルミが主人公の話は、今後の『3年生まで』章で3~4話かけて書きたいと思っています。仮題『テルミの大冒険』。お楽しみいただければ幸いです。──え? いつ投稿するか? そう、そうね……
1P漫画「ネフライトの憂鬱」
【挿絵表示】
最近一気に読んでくれる人が多いようで、筆者はとても嬉しいです。ありがとうございます。もうちょっとだけ続くのでお楽しみいただければいいなぁと思っています。
ご感想お待ちしています(ジェスチャー 交信)