甘き夜明けよ、来たれ   作:ノノギギ騎士団

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秘密の部屋
ホグワーツの創始者のひとり、サラザール・スリザリンが設けた特別な一室。
地下深くに存在するそこへ至れるものは、ごくわずかだ。
彼らが明かさないには理由がある。
……恐怖は、いつものそこから這い出てくる。……
サラザール・スリザリンはそれを知っていた。




秘密の部屋

 秘密の部屋。

 その最奥。

 淀んだ空気と水の気配。

 そのなかに──知っている血生臭さがある。

 

 

 トム・M・リドル。

 

 日記の持ち主と同じ名前を名乗る少年を。

 クルックスが認めるなり、回転ノコギリの錆びにしなかった理由はただ一つ。

 

(なぜだ。たしかに虫の気配がある。だが、妙だ。存在が薄い……。それはなぜ?)

 

 既存の感触で説明を試みるならば『獣の足跡』や『血痕』という感覚が相応しい。

 不可思議な感覚の正体がわかるまで彼の戯れ言に耳を傾ける。

 ハリーがいくつかの質問をした。

 そのなかにクルックスが知りたかった中核があった。

 答えは、トム・M・リドル自身が言った。

 

「──ゴースト? いいや違う。僕は記憶だ。日記の中に、五〇年間残されていた記憶だ」

 

 石畳のうえで冷たく横たわるジニーが抱いている日記帳。

 リドルの目はそれに注がれていた。それが、スッとハリーに移った。

 

「君にずっと会いたかった。ハリー・ポッター。君と話す機会をずっとずっと待っていた」

 

「いいや。ハグリッドを嵌めた君と話すことなんてない」

 

「すぐに話したくなる。いま、話すんだよ」

 

 リドルは、場違いに浮いた笑みを浮かべた。

 

「ジニーがどうしてこうなったか。知りたくないかい?」

 

 ハリーは、揺すっていたジニーの肩を放した。

 

 原因がわかれば処置のしようもある。

 クルックスは医療者ではなかったが、ヤーナムの民として多少の知識は持ち合わせている。傾聴の理由を見つけた彼も黙った。

 

「面白い話だよ。しかも話せば長くなる。ジニー・ウィーズリーがこんなことになった本当の原因は、誰なのかわからない、目に見えない人物に心を開いたせいだ。自分の秘密を洗いざらい打ち明けてくれた。バカバカしい心配事や悩み事をね。兄さん達がからかう、お下がりのローブや本で学校に行かなきゃならない。それに、有名な、素敵な、偉大なハリー・ポッターが自分のことを好いてくれることは絶対にないだろうとか。愚かにも日記に自分の魂をつぎ込んだ。……まったく愚かだよ」

 

「……いったい何を言っているんだ……?」

 

 彼は、冷ややかにジニーを笑っていたが、それはハリーにも向けられた。

 

「ハリー・ポッター、まだ気付かないのかい? ジニー・ウィーズリーが『秘密の部屋』を開けた。学校の雄鳥を絞め殺し、壁に脅迫の文字を書き、穢れた血やスクイブの飼い猫にバジリスクをけしかけたのはジニーだ」

 

「まさか……ジニーは蛇語が話せないだろう! 君は嘘を言っている!」

 

「そのまさかで僕は本当のことしか言っていないんだよ。バカなジニーのチビが日記を信用しなくなるまでに、ずいぶん時間がかかった。とうとう変だと疑い始め、捨てようとした。まさにこの上の女子トイレでね。そこへ、ハリー、君が登場した。ずっと会いたかった。最高に嬉しかったよ。こともあろうに君が拾ってくれた。それにジニーが日記を取り戻した後も君なら必ず継承者の足跡を追跡しているだろうとわかっていたよ」

 

「どうして僕に会いたかったんだ? お友達になりたかったワケじゃないだろ?」

 

 リドルは、貪る目でハリーを見ていた。額の傷痕をなぞるように。

 

「ジニーがいろいろと教えてくれたよ。その額の傷からはじまった君の素晴らしい経歴をね。いろいろ聞きたいことがある」

 

「何を?」

 

「これといって特別な魔力も持たない赤ん坊が、偉大な魔法使いをどうやって破ったのか。ヴォルデモート卿の力が打ち砕かれたのに、君の方は、たった一つの傷痕だけで逃れたのはなぜか?」

 

「どうして君が気にするんだ? ヴォルデモートは君よりずっとあとの人だろう?」

 

 リドルは『よくぞ聞いてくれた』と明るい顔をした。

 これを言いたいがためにここで会話を続けようとしているのではないか。

 そう思えるほどにさまざまな感慨が窺える顔だった。

 

「ヴォルデモートは、僕の過去であり、現在であり、未来なのだ」

 

 そして、彼は描いた。

 文字は語る。

 雄弁に。

 トム・マールヴォロ・リドルは、ヴォルデモートであると。

 

「世界で一番偉大な魔法使いになる日が来ることを僕は知っていた。誰もが恐れ、口にすることを恐れる名前となることをね」

 

「君が──……」

 

 ハリーがかすれた声で何かを呟いた。

 この孤児の少年がいずれヴォルデモートになるのだとしたら、ハグリッドを嵌めるのも、ジニーを騙し続けたのも、ダンブルドアを追放したのも、まったく疑問に思わなくなっていた。

 なぜならば、かの少年が大人になればハリーの両親を惨殺し、多くの魔法使いを殺し、決して消えぬ禍根を残したのだから『この程度のことは簡単にやってのけるだろう』と思える境地に至った。

 

 回転ノコギリの柄をしっかりと握り、クルックスは会話が途切れる瞬間を待った。

 意表を突くには遅すぎる。

 ならば先手を取りたかった。

 

 ハリーは、拳を握った。

 

「残念だけど君は世界一偉大な魔法使いじゃないよ。がっかりさせて、ほんと気の毒だけど。世界一偉大な魔法使いは、アルバス・ダンブルドアだ。皆がそう言っている。君が、強大だった時でさえ、君はホグワーツを乗っ取ることはできなかった。手出しさえできなかった。君のことは何でもお見通しだ。それに君も分かっている。君は、いつでもどこに隠れていようと、いまだにダンブルドアを恐れている」

 

「ダンブルドアは僕の記憶にすぎないものによって追放され、この城からいなくなった!」

 

「君が思っているほど遠くに行ってはいないぞ! いなくなりはしない。信じる者がいる限り!」

 

 音が、聞こえた。

 人の声ではない。

 

「新手か?」

 

 クルックスは獣狩りの短銃を構えた。

 

「違う──フォークスだ」

 

「ダンブルドアの不死鳥だな……!」

 

 現れたのは黄金の、クジャクのような長い尾をもつ鳥だった。

 どこからともなく聞こえていた音楽が、秘密の部屋に反響する。

 ただの歌ではない。

 クルックスの体は、神秘の気配を感じた。

 そして、それはボロボロの何かをハリーの足下に落とした。

 

「ダンブルドアが味方に送ってきたのはそんなものか! 歌い鳥に古帽子! 友達もいるとは、いやはや、これでハリー・ポッターはさぞかし安心だろうな!?」

 

 ハリーはワケも分からず古帽子──組分け帽子だ──を拾い上げた。

 もし、誰か、それこそダンブルドアが送ってきた物だとしたらクルックスに意図は計り知れなかった。

 それでも。

 

「ああ、ひとりだった君より、今もひとりぼっちの君より、ずっとずっと心強い。もうすぐ助けが来る。僕らがいないことを先生達は気付くだろう。秘密の部屋の入り口を見つけたら君は、もうおしまいだ」

 

 ハリーは帽子を握りしめた。

 リドルの顔色が変わる。

 端整な若者の顔は、醜い嫉妬の色に塗りつぶされていた。

 

 さて。

 クルックスは、回転ノコギリを駆動させた。

 

「これ以上の会話の継続を無意味と判断した。……どうせジニー・ウィーズリーの命を吸い取りきるまでの時間稼ぎだろう? バジリスクは俺が殺した」

 

「いいや、まだ死んでいない。お前達を殺しきる程度ワケないさ」

 

「そうか。スリザリンの秀才の作戦、お手並み拝見とさせてもらおう。俺の勘定では、そもそもバジリスクと戦う必要性はないのだが」

 

「ちょっと銃弾が掠っただけで何を偉そうに」

 

 憎々しげにリドルは言う。

 

「お前の過去は凄惨だったか? 捻れていたか? 暗澹であったか? どちらでもよい。血を淀ませた獣め。使命を帯びた連盟員はお前の存在を許しはしない!」

 

 クルックスはジニーの手から日記を蹴飛ばすと駆動させた回転ノコギリを振りかぶり、叩きつけた。

 目を疑った。

 鋼と石が激突し削れる激しい火花に彩られた日記帳は、健在だった。

 

「はっ!? これは面妖な! 虫の分際で──」

 

 日記帳は一枚も削れていなかった。

 リドルは、やんちゃな子供を見る目でクルックスを見ていた。

 

「言っただろう。日記に残された記憶だと。紙に記すより確実で厳重な方法で作られている」

 

「では、こちらは異邦の二〇〇年モノだ」

 

 獣狩りの短銃。

 銃弾を装填し、撃鉄を起こす。

 そして石畳に置いた日記に向けた。

 

「時代遅れの、たかが銃弾で何ができる。君たちが知るよしのない深淵の魔法だ。聞いたこともないだろうね。分霊──」

 

 何かを言いかけたリドルに対し、クルックスは聞く耳を持たなかった。

 だからこそ。

 

「神秘に見える者は幸いである。それは敵であれ変わらない。古くはトゥメル。遠くはローランより。──敵対者よ、我らの月に触れたまえ」

 

 果たして。がらんどうの空間に、銃声は高らかに響いた。

 日記からは黒い血が迸り、リドルは絶叫した。

 

「やったか!?」

 

 ほんの一瞬。

 喜色満面で手を叩いたハリーにクルックスは警戒するよう声を飛ばした。

 

「まだだ。そして運が悪い。四発。今のでカンバンだ。そして、ヤツは消えていない。──来るぞ」

 

 よろよろとふらつきながら、しかしリドルは立っていた。

 そして。

 クルックスの耳には、今際の時に漏れる呼吸に聞こえたがハリーには違った。

 

「──バジリスクを呼んでいる。来る!」

 

「幸運に見放されたな。偶然、生き残った男の子! ハハハッ! 僕を誰だと思っているっ!? サラザール・スリザリンの継承者、ヴォルデモート卿だ! たかが小童の、たかが小銃に負けるワケがないだろう!?」

 

 黒いインクに見える血反吐を吐き出して、リドルは嗤った。

 人の顔を象った石像の仕掛けが動き、口が開いた。

 そこから何か大きな生き物が蠢く音が聞こえた。

 

「そういうことは俺達を殺して下水にでも流してから言うべきだ」

 

 クルックスは「バジリスクをやるぞ」とハリーに囁いた。

 

「でも、僕は武器がないよ」

 

「ジニーを引っ張って行け。部屋を出ろ。そして、ロン達と合流してくれ」

 

「バジリスクは深手を負っているが、それでも時間稼ぎは十分にできる。そして、僕は体を取り戻す。今度は記憶ではない! ヴォルデモート卿は蘇るのだ! 現代に再び!」

 

 ハリーは、迷いながら一度は頷いた。

 しかし。

 その足がジニーに駆け寄ることはなかった。

 

「もうリドルの輪郭がハッキリしている……! きっともう時間がないんだ。逃げ出せないよ!」

 

 つり下げた携帯ランタンを壊れるほど握りしめ、ハリーは叫んだ。

 

「──君が、父さんと母さんを殺した! ここで倒れるのは君だぞ、トム・リドル!」

 

 ハリーが古びた帽子を握りしめた。

 その瞬間。彼は突然、帽子を取り落としそうになった。

 突然の神秘の気配にクルックスは、彼の握る帽子を見た。

 空気から生まれるように帽子の中から銀の剣が現れたのだ。

 

 外見は、教会の武器のなかで最もポピュラーな銀の剣に形は似ている。

 だが、最も目を引くのは柄にルビーが輝いていることだろう。

 ハリーは柄を握る。

 その重さにハッとして取り落としかける。

 だが、リドルを睨みつける目は鋭かった。

 

「かつてダンブルドア校長は言ったことがある。知っているか? トム・リドル。『ホグワーツは助けを求める者には、常に助けが与えられる』と。その言葉は真実だったようだ」

 

「ハハハッ。僕には何も要らない。僕は、特別だ。わかるだろう? 僕を見ろ! こうしてお前達を追いつめた! 誰よりも強かった!」

 

「それでも僕を殺せなかったじゃないか! あの日、君は誰よりも弱かった!」

 

 リドルが吼えた。

 蛇語の言葉が分からなくとも「殺せ」と言ったことが、クルックスには分かった。

 ──バジリスクが来る。

 殺気を感じたクルックスが回転ノコギリを構え、左手では火炎瓶を握った。

 

「蛇の皮は固い。目か口を突け。──踏ん張れよ、ハリー・ポッター!」

 

「ああ!」

 

 クルックスは目を閉じた。

 音に集中する彼が最後に見たものは、視界の端で赤をまとう不死鳥だった。

 

 攻撃はやってこなかった。

 

 しかし。 

 バジリスクはすぐそばにいるというのに、襲ってくる気配が遠ざかる。

 

「──フォークスが、蛇の目を潰した!」

 

 ハリーが大きな声で叫んだ。

 クルックスは目を開く。

 

 先日、廊下で放った『青ざめた弾丸』。

 その効果は絶大だった。

 

 バジリスクの体は内側から溶け出し、いまだ塞がらない傷となっている。ネフライトやテルミの見立ては正しく──致命傷だ。

 

 傷と盲目で混乱し、不死鳥を狙い空を噛み続けていた。

 クルックスは、火炎瓶を投げつけた。

 そのうちの一本が、バジリスクの口腔に飛び込んだ。

 

「そんな──」

 

 取り返しの付かない一瞬。

 声を上げたのは蛇語を忘れたリドルだった。

 重力に逆らえず、大蛇の頭が石の床に堕ちた。

 ピクリ、と焼けた口が動いた。

 

 ハリーが、剣を振り上げた。

 叫びと共に振り下ろされた剣は、まっすぐにバジリスクを貫いた。

 脳天に一撃。

 技量はない。だが剣の硬さがなした業だった。

 

「まだだッ! まだ終わらないぞ! 終わるものか、この僕が──!」

 

 誰にもリドルの声は届かなかった。

 

 バジリスクの頭蓋へ衝撃が重なった。

 その長い牙。うちの一本が宙を舞った。

 最初から、そこにあるべきペンだったかのように。

 日記の、すぐ隣へ。

 

「やれ!」

 

 クルックスは、迷いなく駆けた。

 杖を振り上げたリドルの前に飛び出し、胴体にめがけて回転ノコギリを振るった。

 

 だが、杖から発せられる防壁のようなものに阻まれて胴体を寸断することができない。

 構いはしなかった。

 

「邪魔だッ!」

 

 これがトム・リドルが最期に発した言葉になった。

 

「血塗れの同士よ、ご覧あれ! 我らの使命は何者にも阻めないッ!」

 

 両手で回転ノコギリの柄を握りしめ、駆動させる。

 再び杖を振るために防壁を解除した途端、リドルの中途半端の肉体は破滅することだろう。けれど、そうはならないことをクルックスは分かっていた。肉体を真っ二つにしてしまうより先に、彼という精神は破滅する。

 

「消えてくれ、トム。ずっと過去に!」

 

 ハリーが握ったのは、バジリスクの牙。

 銀の剣より扱いやすく危険な劇毒は、トム・M・リドルの日記の真芯に突き立てられた。

 

 その絶叫は。

 これまで聞いたどんな叫びよりも感情に響く憎悪があった。そして仄かな嫉妬があった。

 トム・リドルの姿は叫びが遠ざかると同時に火花と靄になり、消えた。

 

「終わった……」

 

 ハリーはバジリスクの牙を手放し、クルックスは回転ノコギリを収納した。

 疲れきって動けないかに見えたハリーは、それでも立ち上がりジニーに歩み寄った。

 それから間もなく、彼女が身震いして大きく息を呑むのを見た。

 

「ジニー!」

 

「あぁ、ハリー! あぁ、あぁ……わたし……わたしがやったの……でも、違うの、リドルが……リドルが、やらせたの……!」

 

 混乱しているジニーをなだめることは、難しいことだった。

 だから、ハリーはただぎこちなく抱きしめた。

 

「リドルは、おしまいだよ。もう大丈夫だ。見てごらんよ。バジリスクだって。……だから、ジニー、ここを出よう」

 

「あたし、退学になるわ……! だって、こんなこと……! パパとママがなんて言うかしら……!」

 

「僕が説明するよ。君のパパとママに、マクゴナガル先生にもダンブルドアにも皆に話すよ。『ジニーじゃない』って」

 

 ハリーは、ジニーの手を取って歩き出した。

 剣を拾い、杖を腰に差して、落ちている組分け帽子を拾った。

 ──日記はどこだろうか。

 辺りを見回したハリーは、どこかで誰かが足踏みをしている音を聞いた。

 

 振り返る。

 日記の周りに飛び散ったリドルの残骸とでも言うべきインクを踏み続けているクルックスがいた。

 

「……君……なにを?」

 

「虫がいる」

 

「……地下の水道だから。うん。鼠もいたし、虫もいるだろうね」

 

 ハリーは気付かなかった。

 クルックスが返した言葉が、あまりに短い言葉だったので彼の狂喜に気付くまでに時間がかかったのだ。

 それに気付いてしまったのは、バタバタという誰かの足音が聞こえてきてからだった。

 

「ジー! ニー!」

 

 土埃まみれでロンが叫ぶ。

 ジニーはその姿を見た途端、ビクリと体を震わせた。

 そして、見上げてきた。ハリーは、そっと背中を押した。

 

「ロン!」

 

 兄妹がボロボロと涙をこぼして抱きしめ合う隣を白銀の聖布を翻し、テルミが歩いてきた。

 

「──あら。終わってしまったの。また出遅れてしまったわ」

 

「おかげさまで」

 

 ハリーは、弱々しく笑った。

 彼女も笑い返した。

 それは、いつもの薄い笑みではなかった。

 

「あなたは、特別な剣を持つ人だったのですね。輝く剣って素敵よね。わたしも憧れます」

 

「僕のじゃないんだ。たぶん、ダンブルドアがくれたんだと思う」

 

「そうだとしてもですよ。正しい敵に、正しく振ったのはあなたでしょう? だからこそ、きっと剣の持ち主に相応しいのでしょうね」

 

 テルミは、ハリーの肩を優しく叩いた。

 それからインクの染みを踏み続けているクルックスに近寄った。

 

「見ろ、テルミ! ハハハッ! 見ろ、虫がいる! ここに! 蠢いて! 沸いて! 見たか! 見たか!? ほら、やっぱりここにもいたじゃないか!」

 

 クルックスは、嬉しそうに言った。

 こんなに嬉しそうな彼は見たことがなかった。

 人として大切な何かを踏み外した笑顔を見せる彼に、テルミはいつもどおり優しげに微笑むだけだった。

 

「そう、よかった! 貴方が嬉しくて、わたしも嬉しいわ! 貴方、わたしの愛しい人!」

 

「血も通わぬ小綺麗な顔をして! 潮騒さえ知らぬフリをして! 淀んで淀んで、仕方がないハズなのに──汚れていない! 穢れていない! そんなハズがないのに上辺ばかり整えやがって!」

 

「さぁ、わたし達も帰りましょう。ここは空気が悪いわ」

 

 耳元でそっと言葉を吹き込むようにテルミはクルックスの隣へ寄った。

 

「ああ! 早く早くご報告しなければ。お父様に、学徒の方々に! 長にもだ! クッハハハ!」

 

「ええ、ええ、そうするのがよいでしょうね。ネフの目も覚めるわ。一緒に行きましょうね?」

 

 狂喜は失せた。

 

「ああ、そうだ。そうだな。ネフに会わなければ。事態の報告をしなければならない。行くぞ」

 

 見ている誰もがついていけない速さでクルックスはいつもの薄暗い陰のある顔に戻った。

 そして、テルミを伴って歩き出した。

 日記を拾い上げると何枚かのページを無造作に裂き、ポケットにいれた。

 それから日記をハリーに渡した。

 

「俺が持っていってもいいが……これはジニー・ウィーズリーのものだろう。証拠物品だ」

 

「……僕が持ってるよ」

 

 日記を見たジニーが怯えた顔をしたのでハリーが受け取った。

 

「先に戻っている。できるだけ早く来た方がいいだろう。ハーマイオニーも起きるだろうからな」

 

 ハリーは、ロンとジニーの肩を叩いて「帰ろう」と告げた。

 

 不死鳥が歌う声が聞こえる。

 帰る時間がやってきた。

 

 そんな彼らの前に最後に、傍観者にもなりきれなかった人が残った。

 

「ロックハート先生も……助けに、来て、くれたんですか?」

 

 ジニーは──恐らく──心からそう思っていないことはハリーにも分かった。

 ロックハートが何を言うのか。

 ハリーとロンは睨みつけながら見ていた。

 

 そのロックハートの背後では。

 

「先生、最後の好機ではないですか? 最大の好機ではないですか? ……さぁ、躊躇いなさるな。何者かになりたい貴方が、果たしたいことなのでしょう。さぁ……さぁ……」

 

 彼にだけ聞こえる声で。

 彼だけをくすぐる声で。

 セラフィは囁いていた。

 

 ところが結局。

 ロックハートの舌から呪文が生まれることはなかった。

 

「私は……私は…………何を……しに来たんでしょう?」

 

 不思議な沈黙が生まれた。

 ロンは「知るか」と今にも言い出しそうに口の端をピクピクさせた。

 

「僕……ロックハート先生は、先生に向いていないんじゃないかと思います」

 

 ハリーが、ハッキリと言った。

 

「…………」

 

「惜しまれるうちに引退を考えた方がいいんじゃないかと思います。先生に向いていないと思いますし、えーと、そう、ハナがあるうちに。少なくともハーマイオニーは惜しんでくれると思います」

 

「…………」

 

 ロックハートは、呆然としていた。『そんなこと考えもしなかった』という顔をしている。

 彼の後方で──剣の柄に手を置いたセラフィが肩を震わせていた。

 何も言わないロックハートにロンが詰め寄った。

 

「いいか。二度と僕らの前に姿を見せるなよ。次に会ったときは、こうだッ!」

 

 ロンは、ローブから出した杖を出した。

 ロックハートは小さく「あ、それ、私の」と言いかけた。

 聞かなかったフリをして、ロンは両手で杖を真っ二つに折った。

 ドラゴンの琴線が二本になってしまった杖の間でプラプラと揺れていた。

 

「あっ──」

 

 まるで自分の腕がへし折られたようにロックハートは痛ましい顔をした。

 三人は不死鳥に導かれ、秘密の部屋を出ようとした。

 

「凍えている君にこれを」

 

 セラフィが肩に負ったマントを外し、ジニーの頭から被せた。

 

「好奇の目から守ってくれるだろう。さぁ、早く行きたまえ」

 

 ジニーが小さくお礼を言い、足音は遠ざかった。

 セラフィは、腰のベルトに差したナイフを取り出した。

 

「先生、あなたは呪文をかけなかったのだな」

 

 セラフィは、ロックハートを追い抜き死んだバジリスクの遺骸に歩み寄った。

 

「……どうしてかけることが、できるでしょう。命が救われたのに……」

 

「けれど、数時間前のあなたならどうしただろうか? 恐怖が、あなたの夢を殺してしまったようだ」

 

「……私は……ずっと……何者かになりたくて、歩いてきた。けれど、いつも見失った。いいや? そもそも、そんなものはなかったのかもしれない……私は、いったい誰になりたかったんだろうか……? 有名人……? 才人……? 最初は、誰を目指していたんだろうか……?」

 

 暗がりに人影を探す。

 ロックハートは辺りを見回した。

 どこにも鼠一匹いなかった。

 

「それは誰にも分からない。ただ自分自身を探して認めて欲しいと願う人は僕らは、現在の否定だけではダメなのかもしれない。ええ、きっと、たぶん……ですが」

 

 牙や血を回収し終えたセラフィは立ち上がり、ロックハートの正面に立った。

 年の割に背が高い彼女は、すらりとした腕を伸ばした。

 

「杖を返してもらおう。それは、僕の杖だ」

 

「ああ、そうだ……これは、君の物だ……どうにも、馴染まなくて、いけない、ね」

 

「そう死人の顔をするものではない。まだ生きているのですから。やり直すことはできます」

 

「……ペテン師を呼ぶ人なんていませんよ。……魔法界は狭い。噂はすぐに広まるでしょう。……ダンブルドアだって本当は分かっていたハズだ……私が、こんな、はははっ……役立たずだとはね。はぁぁ……もう誰も、こんな私を必要としないだろう……」

 

「あなたは大勢を見つめすぎる。群ではなく個を。読者ではなく、目の前の彼や彼女を見つめてみたらどうだろう? それに忘れていることは、いつか思い出せるものでしょう。あなたの夢。憧れたもの。素敵な自分。きっと素晴らしい夢だ。願いだ。落としたものならば拾い直せばいい。人の意志は消えないものです。ましてホグワーツでは──」

 

 遠くから。怒鳴り声が届いた。

 

 ──先生! さっさと来いよ! ジニーが心配してるだろ!

 

 がらんどうの空間に、その声はとても響いた。

 セラフィは控えめに笑った。

 

「助けを求める者には、常に助けが与えられるらしい。まったく間が良くて都合がよろしいことだ。僕はあなたが……すこし羨ましいよ」

 

 ロックハートは走り出した。

 地上に帰れば破滅が待っている。

 せめて自分の足で歩いて行きたかった。

 

 それだけが今、自分が抱えていられる勇気だった。

 常人に比べれば。

 小さく、些細で、見過ごすような勇気だ。

 

「ええ、死んではっ、め、名声も得られませんからねっ!」

 

 これまでどおりのもっともなことを言えただろうか。

 みっともない姿を晒すことで先生──教え、導く者として──最後の仕事が果たせただろうか。

 結果を知ることは、まだ恐い。

 

 それでも。

 

 彼女は素顔のギルデロイ・ロックハートを応援してくれた。

 その即席の読者が笑っていたので救われた気分になった。

 

 そして、彼は永久に秘密の部屋を去った。

 




秘密の部屋:
 一般生徒が秘密の部屋を見つけるのは恐らく過去数百~千年の間で、最も情報が出たハリー2年生時期であっても特定が困難であるため、多くの先生方が挑み、破れた探索なのも頷けます。


筆者の余談:
 前話と本話は、2年生章を執筆開始した時期に原型を作ったものです。
 2年生のオチを書いてから、これまでの話を書いていたことになります。
 結果として最終メンバーにテルミが増えたくらいで大きなプロット変更が無かったのは、とても筆者の学びとなることでした。


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