時を告げる鐘
クルックスが、月の香りの狩人の依頼を受けて鳴らす鐘。
一度目は既に鳴らした。二度目は今夜。三度目は次の夜。
不吉の鐘を打ち鳴らし、彼は駆ける。
遙かなる悪夢の空の向こう、帆柱はまだ屹立している。
日付が替われば鐘も鳴る。
月の香りの狩人が血眼で『悪夢の辺境』にて不吉な鐘を鳴らしてやって来た同業の狩人達を追いかけ回している頃。
クルックスはレオーと比較的、穏やかな時間のなかで日常を過ごしていた。
そんな彼らを見守る者がいる。
「おや。クルックスはずいぶんレオーと仲が良くなったみたいだね」
二日酔いの体調不良から復帰したコッペリアが研究室となっている教室でそう言った。教室の窓からは、彼らが剣の稽古をしている様子が見えたからだ。
窓に背を向けて座っていたビルゲンワースの学徒、ユリエは立ち上がるとコッペリアと並び窓に寄った。
「あら本当ね」
「素直な性格のクルックスはともかく、レオーがちゃんと構ってるのは珍しいなぁ。カインハーストの血を引く人間以外は基本的にゴミクズだと思っているハズなんだけど」
「例外よ。月の香りの狩人の関連は、彼にとっても特別な意味を持つでしょうから。クルックスの人生経験が充実するのは良いことね。いろいろな刺激を与えてみないと分からないことも多いから……クルックスには頑張ってもらいたいわ。あ。カインハーストに心を移されては困るけれど」
「その辺は大丈夫だろう。なんせ連盟の使命があるからね。クルックスは可愛いし、頑張ってほしいよね。狩人君は言葉にしないけど、彼もとても期待しているみたいだ。……しっかし、レオーは人を誑し込むのが上手いから心配なんだよね、僕」
「レオーがそんなに上手だとは知らなかったわ」
「いやぁ顔がイイって得だよね。僕は、ちょっと背が高すぎてさ。ま、レオーも火傷のせいで怪人に片足突っ込んだ風体になっちゃってるけど。あの子は人の外見なんて気にしないからね。それが長所でもあり、短所でもあるワケだが──さて、今年はどっちに転ぶかな?」
目隠し帽子の下で恐らくコッペリアは笑っていた。
■ ■ ■
年齢の離れた大人という存在は連盟員にもいるが、異なる価値観を持つ彼との生活は刺激的で勉強になるものだった。
特に貴重だったことは、レオーが『千景』を扱う狩人であったことだ。
湖の畔に二人はいた。
今日は森から風が吹いていた。鬱蒼とした禁域の森を通ってやってくる風は顔を顰めるほどの湿気を保ち、しかも森林の香りがした。
「狩人なんだ。見たことくらいあるだろ?」
腰のベルトから鞘に収められた千景を外し、彼は両手で持った。
「お父様の収納箱にたくさん入っています。あと連盟員でも千景を持つ人がいます」
「ああ、連盟員にもいたか。それなら見覚えだけはあるワケだ。──仕掛け武器の内容は知っているか?」
「血をまとわせて使うとか……。でもヤマム、いえ、連盟員の方は頻繁に使いませんね。……あ。喋ってはダメだった。これ内緒にしてください」
「ゴミクズ並にどうでもいい東洋人のことで俺が心煩うことがあると思うか? いいや、ない。──仕掛け武器の『仕掛け』の内容くらいちゃんと覚えておけ。まぁ見るからに血質低そうだもんな。俺はお前の血と紅茶を間違えてしまいそうだぜ。では、次の質問だ。使ったことはあるか?」
「ないです。俺には回転ノコギリや斧が性に合ってますから」
レオーは、嘆息した。
明らかに失望が込められたものであったのでクルックスは戸惑った。
「命令だ。休暇中に全ての仕掛け武器を使ってみろ。いいか? これは『使いこなせ』という意味ではない。実際に使うことで見えてくることがあるのだ。武器のリーチを体で覚えていたら敵対時に有利だろう? また敵と対峙する時にどう動くか想像がつくようになる」
──だからこそ、対人戦においては常に心理戦が繰り広げられているワケだが。
補説を挟み、彼の説明は続いた。
「例えば、ノコギリ鉈と斧では立ち回りが違うだろう? ノコギリ鉈ならば斧より距離を詰める必要がある。斧はノコギリ鉈より振りかぶる時間が必要だ。意味が分かるか?」
「なんとなく分かります」
「その顔は分かってないな。いちいち落ち込むな。『分からない』自覚は大切だ。セラフィなら、ここで『分かった』と言って自己解釈をぶちまけてくるが『俺が言いたいことはそうじゃない』と修正に時間ばかりかかる。鴉はもっと酷い。同じ言語を話しているハズがなぜかコペルニクス的転回をさせてくる。俺は天動説を否定したいワケじゃない」
「心中お察しします」
レオーは話が逸れたことを反省するように銀色の髪を手櫛で梳いた。
「次の話題に移ろうか。狩人には反省が必要だ。なぜなら、狩人の業における失敗は大抵の場合、死に直結するかるからだ。では失敗を招かないように何をすべきか?」
「訓練を頑張る、とか」
自己採点三〇点の回答を出したところ、レオーは頷いた。
「おめでとう。正解だ。『それだけ?』とでも言いたげだが、危機に際し出来ることは限られており、その限られた手段でさえ日々の積み重ねた鍛錬でしか得られない。昨日まで出来なかったことが今日突然できるようになるなんてことは、ない。分かったな?」
「なるほど」
「……いや、正確には上位者の悪夢由来のお前に当てはまるかどうか分からんが、俺含む普通の狩人はそうだ。この前提常識から始めるぞ。ここまでの会話で分からないことはあるか?」
「無い……と思います。たぶん。大丈夫です。よろしくお願いします」
「よろしい。手始めにこれを貸してやる」
「えっ。レオー様の千景ですよ。狩人は、他人の使う武器を取り扱うことを好ましく思わないとか何とか」
「市街の迷信に俺が動じるワケないだろう。気にするな。まず、基本的な握りと振り方を教えてやる。それで間合いの感覚を掴め。あとはステップだ。実際に千景を持って戦闘する場合にどう距離を詰めるか、学ぶことがあるだろう」
クルックスは、千景を受け取ろうとして──手を引っ込めた。
「何だ?」
「貴方の技術は、俺には……ええと……合わないような気がして」
遠回しにカインハーストの技術を指した言葉をレオーは受け取ってくれた。
「ああ、そうか。……お前、狩人狩りの経験は?」
「聖杯で少々。でも決して心地良いことでは──あ」
クルックスは、自然に下がった視線を上げた。
予想に反し、レオーは怒っていなかった。
むしろ。
「構わないさ。市街の狩人がカインハーストの狩りをどう思うかは知っている。それも気にしなくていい。俺は市街で暮らす人間を人間とは思っていないから何の感傷もないが、お前にはどうしてもあれらが人間に見えるのだろうな。であれば、その感想は自然なものだ。辛いことだろう。分かるぞ。──で? 人間が獣になったり狩人が正気を失ったりしたら、そいつらを哀れんで殺されてやるつもりか?」
レオーの目がスイッと細められた。
距離を詰め寄られたワケでもないのに彼の体が大きくなったように錯覚した。クルックスは幻覚を振り切るように首を横に振った。
「それは、狩人を襲う──あ──いえ……」
何も言えなくなり、口を噤んだ。内心では「狩人を襲う狩人など狂っていて血が淀んでいるに違いないのだから、それは連盟の敵です」と言葉が思い浮かんでいたが、まさに『狩人を襲う狩人』であるレオーが目の前にいるのだ。口に出せば血を見る争いは避けられない。しかし、迂闊な発言を差し替える余地は無かった。
レオーは、息を吐いた。
「お前なぁ……。いろいろと顔に出る損なヤツだよな。何を言わんとしたか察しがつく。その上で言うが、それも気にしなくていい。連盟員ならばカインハーストの業に思うこともあるのだろうからな。では、答えやすいように二択にしてやろう。──お前は、殺されたいのか? 『はい』か『いいえ』で答えてみろ」
「いいえ、です」
「ならば、戦え。知を得るのだ。生きるために」
クルックスは、両手で千景を受け取った。
ズシリと腕に感じる重みは『これで人も獣も殺せるだろう』と確信するには十分の重量だった。
「抜いてみろ」
筋力には自信がある。
回転ノコギリや斧より重心の偏りが少ないため、振りやすいと感じた。
鞘から抜いたところでレオーは口を「ヘ」の字にした。
「……薄々気付いてはいたが、木の棒を振るみたいに振るなぁ」
「『きょうだい』のなかで最も筋力があるのは俺でしょう。力には自信があります」
「それはいい。ついでに持久力もあればいいことだ。握り方を教えてやる」
レオーはクルックスから預かった鞘を千景の柄に見立て、小指から順に握っていく。
クルックスもそれを見真似て「こう? ですか?」と質問を重ねた。
「両手はそうだ。しかし、左は銃を持つから基本的に右手だけで扱うことになる。両手の時は、親指は添えるだけでもよいが片手の時は親指が起点になる。しっかりと握るためにな」
「……扱うには相当の技量が必要ですね。手に馴染まない感覚があります」
「技量は必要さね。ところで、短所のない仕掛け武器は無いとされる。短所が無いということは、長所も無いということだからな。それの短所は何だと思う?」
レオーの問いかけは、実利を重んじる狩人にとって最重要と評してよい質問だった。
狩人には、取捨選択が必要だ。必要な武装と不要な装備の選択はもちろんのこと。獣と対峙した場合に、いかに自分に有利な立ち位置を確保しつつ敵を殺すか。獣に慈悲は必要だろう。しかし、礼儀までは払っていられない事情は無数に存在する。多くの場合、獣の膂力に対し人間はあまりに無力なのだ。
「自傷が必要になることです」
クルックスの自己採点五〇点の回答にレオーは「うーん」と悩み顔だ。恐らく、二〇点程度だった。
「千景は素晴らしき血の業で、狩りを彩る仕掛け武器である。刃に刻まれた波紋の構造により、継戦する能力は少々劣る。それでも青雷の奇人、アーチボルドのトニトルスほどではないがな。しかし、制約があるからこそ工夫が生まれる。そうして短所は、ようやく長所へ変わるのだ。……とはいえ、火薬庫や医療教会の工房をくまなく探せば、構造上の短所そのものを克服する方法というものが、あったかもしれない。カインハーストはそれを選ばなかった。ただ、それだけの話でもある。市街に長く留まれない理由は他にもあるからな……」
「そういえばそうです。日が昇るまで市街で警笛が鳴っていたことはなかったと記憶しています。……カインハーストの狩人は長く市街に留まらない理由とは?」
「血族になったら教えてやるよ」
前向きな返答のように聞こえるが、クルックスが連盟を辞めることはあり得ないため彼は回答を拒絶したと見てよいだろう。
「──では、質問だ」
「はい」
今度こそせめて五〇点の回答をしたいと思い、クルックスは更に真剣に考えようと思った。
「市街でカインハーストの狩人と会敵した場合、適切な対処方法は何か?」
「確認を。この質問は……あくまで仮定ですよね?」
「いいや、必要な諍いだ。お前が市街を歩く道で俺達とバッタリ出くわすことは、そう珍しいことではないだろう。……狩人がポカンと口を開けるな。マヌケめ。百年単位で考えてみろ。ほら、会いそうな気がしてきただろう?」
「たしかに……ごもっともです。想定しておくことは大切なことです。失言でした。では市街で会ったときは……うーん、千景の武器の特性を考えるとすれば出来るだけ近付いて剣戟し続けること──」
クルックスはチラとレオーを見上げた。三十五点という顔をしていた。
「それと……えーと、えーと……狩人の頭数を用意して複数で襲う?」
「俺じゃなくても大抵の狩人は死んじゃうと思うぞ。だが対処法としては正しい。まぁ、俺が狩りをする時は単身で狩りをしている狩人が中心であり、助けを呼ばれる前に殺すけどな。鴉が遊んでいる時は死ぬまで笛を吹かせたりするけど」
夜の市街に響く教会の警笛は、なぜ危機を知らせるのか。その理由をこんな時に知るとは思わなかった。
なぜ世の中の衝撃的な出来事とは、何の気なしに話された会話のなかにしれりと混ざり込むのだろうか。クルックスは言葉が見つからなかった。黙り込んでしまった自分に気付いたらしい。レオーは見当違いの補足をしてくれた。
「あ、鴉の名誉のために言わねばな。別に趣味で半殺しにしているワケではない」
──あたりまえです。当然です。
そう言いかけてしまったクルックスは、突然の咳で誤魔化した。
「鴉の統計上、ギリギリ生きている方が『穢れ』が見つけやすいらしい。俺は死んだ狩人のほうが見つけやすいと思うが……。それと騒がせておいた方が狩人が来るからな。探しに行く手間が省けるというワケだ」
「正解は『独りで行動しない』と『やられる前に殺す』」
「大正解だ。いいぞ。市街の狩人の獲物は獣だ。俺達の千景やセラフィのレイテルパラッシュの刃が鈍るまで打ち交わすことはできまいよ。血質と技量も違うのだ」
「獣と狩人は違うでしょう。俺は、獣狩りと狩人狩りの優劣を競う心算はありませんが……しかし対人戦の技術においては、カインハーストに一日の長があります。培われた経験も日々の積み重ねた鍛錬でしか得られない。そう学ばせていただきました」
「そのとおり。問答が済んだところで、次は体を動かしてみるとしようか」
クルックスはレオーから鞘を受け取り、刃を収めた。
「具体的には何を? 俺は訓練といえどレオー様に刃を向けたくありませんよ」
「安心しろ、鞘に収めたままでいい。それでも打ち所が悪ければ互いに死ぬが狩人とはそういうものだ。むしろ死んだ方がよい。こんなこともできないマヌケはな。……それにお前も覚えておくべきなのだ。こんなご時世のヤーナムでは、獣狩りより狩人狩りの能力の方が重要だ」
「なぜです?」
「分からないのか? ……そうか。お前は愛されているな、月の仔よ。分からないのならば、そうさなぁ、上位者は恐ろしいものだが、生きている人間にとって本当に恐いのは何だって話だ。あるいは『できないこと』より『できること』が多い方が有利という観点だな」
クルックスには、分からない話だった。だが、切り上げ口上で会話の終わりを悟った。
「さて。目的は、間合いの把握とステップの練習と心得よ。二日とは存外短い時間である。体にたたき込んでやろう」
腰のベルトに括り付けていたナイフ──こちらも鞘に収められたままだった──それを宙に放り投げて弄んでいた彼の目がキラリと光る。
勢いよく突きつけられたナイフと構えた千景が鈍い音を立てた。
「やはり反応がいいな、お前は。市街で出会って初撃を逃したら、まぁまぁ面倒な手合い。それでも俺の敵ではないがな」
「しぶとい自覚はあります。レオー様はご油断なさって怪我をする心配をした方がいい」
「ほう」
レオーの瞳は、少年のように煌めいた。
新しいことを発見した狩人の目だとクルックスは気付いた。
「鴉に同じ事を言ったセラフィは泣いて許しを請うまで湖に沈められたが、お前はどうかな?」
恐怖に体が竦むことはなかった。
持ち前の筋力でナイフごとレオーを押し返し、クルックスは千景を振るった。
「踏み込みが甘い。頭で水銀弾を食いたいなら別だがな」
軽くいなされ、地面を転がった。
体勢を整える前に長い足の蹴りが鼻先を掠め、帽子を後方に飛ばした。
「そういや市街の狩人は普通、格闘をしないものだが──お前の長はいろいろと知っていそうだよなぁ。市街の噂では、都の官憲サマだとか?」
「……。さぁ、俺はよく知りませんね。知っていたとしても利て……むぅ」
つい『利敵行為』と言いかけて、口を噤む。
レオーが「学習しないのな~、お前~、愛せる~」と小馬鹿にしたように笑った。
迂闊に千景を振るえば、その隙を突かれる。
しかし、振らないことには攻撃ができない。
仕掛け武器の優位はクルックスにあったが、大人と子どもの体格の不利が有利を上回っていた。
このような場合に攻撃の起点となりうるものは銃だったが、使用の許可は下りていない。
「銃の大切さが身に染みます」
「だろ? だからこそ『整備不良で死にました』は、不名誉なことさ。……昨日、ちょっと反省した」
呼吸をひとつ。
クルックスは千景を正眼に構え、踏み出した。
■ ■ ■
月の香りの狩人が、ビルゲンワースに舞い戻ったのは単純な気まぐれ──ではなかった。
悪夢の辺境という毒と発狂に塗れ、常人であれば頭をいくつ破裂させても足りない悪夢に飽き飽きしたことがひとつの理由だ。最も大きい理由とは、カインハーストの女王へ誠意を示すため、せめてお目付役であるレオーに中間報告をしようと戻ってきたのである。
侵入した狩人を追いかけ回していた狩人は、半日ぶりに外套を脱ぎ寛いで茶を飲んでいた。
「女王様には本当に悪いことをしたと思っている。期限を破る心算はなかったが……なかなかどうして最近は時間が流れるのが早い……」
「狩人君、時間の流れる早さは変わっていないよ」
「きっと違うわ、コッペリア。時間が経つのが早いという言葉は、子どもの成長は早いと同義なのよ」
「おっと、そうか。狩人君でもプレッシャーとか感じることがあるんだね!」
コッペリアの言葉は、概ね正解だ。
狩人は、また一口お茶を飲んだ。
「ところでレオーが見当たらないが、もしかしてまだ寝ているのか?」
普段、学舎にやってくるカインハーストの騎士達の過ごし方は、レオーと鴉の両者では異なっている。レオーは学徒達と談笑することを望むことが多く、鴉は必要最低限の時間以外を宛がわれている自室で過ごすことが多い。
これまでレオーを見かけないという経験が無かった為、狩人はユリエに尋ねた。
「ああ、彼ならクルックスと一緒にお外で遊んでいるわ」
「クルックスと?」
──何をしているのだろうか。
狩人は外套を羽織り、トリコーンを小脇に抱えると学舎の扉をくぐった。
舗装された学舎の周囲に姿は見えない。湖を見ていると小さな波が動いているのが見えた。風による波紋ではない。耳を澄ませると遠く水が跳ねる音が聞こえた。学舎からは林で見えない湖の畔からだ。水遊びでもしているのだろうか。レオーが子どもの遊びに付き合ってくれるとは意外な出来事もあるものだ。狩人は林の獣道を歩き、木陰からこっそり彼らの様子を覗いた。
「惜しかったな。まぁ、長い夜の途中だ。屈辱も一興だろう。……やはり民を虐げてこその貴族。ひょっとして俺様、今年最も貴族らしい行為をしているのでは?」
レオーは湖の浅瀬に立っていた。
そして、水の中でもがいている誰かは──消去法でクルックスだろう。
その様子を認めるや否や、狩人は木陰から飛び出した。
「何をしているんだ、レオー! ユリエめ、『一緒にお外で遊ぶ』とはこういうことか」
「お。月の香りの狩人。進捗はどうだ?」
「それは順調、いいえ、今はそうではなくてだな。便宜上の父親が現れたところで息子に対する殺害未遂はやめてほしいんだが。カインハースト流のかわいがりなんて言わないだろうな」
狩人が早口で指摘するとレオーはようやくクルックスを沈めていた足を退けて、首根っこをつかまえ湖から引き上げた。
クルックスは、水と砂を吐き「し、死に、そ……」と呟いた焦点の合わない目で息をしていた。
「稽古さね。しかし、月の狩人。よその家の教育方針に口を出す心算はないが、もう少し助言者らしいことをしたらどうだ?」
「しているぞ。──クルックス、大丈夫か!? あっ。だいぶダメだな」
陸に上がりクルックスには砂水を吐かせたが、消耗しきりぐったりしていた。しかも稽古はひどく疲れたようだ。彼は目を閉じて、気絶するように眠った。
彼が回復するまでの数十分。
狩人とレオーは木に寄りかかって座り、待つことにした。
「はあ。あれが稽古? いきなり厳しいことをするな。カインハースト流の育成術なのか? 私だって虐待だと思ったぞ」
「まさかまさか、そんな意地の悪いことをするワケないだろ?」
狩人はレオーの顔をじっとり見つめた。
紙巻き煙草をうまそうに吸っていた彼は「こっち見るな」と紫煙を流した。
「いやなに。思いの外ほかクルックスが頑張るものだから、俺も手抜きが難しくなってきてさァ。素直で上達も早い。連盟なんてワケの分からん連中に任せておくには惜しい。どうだ、お前と俺で女王様に話してさ。カインハーストの騎士に推さないか?」
「勝手にすればいい。俺は遠慮する。誓約は相手とクルックスが互いに納得して決めることだ」
「ふぅん。そういうことは放任主義なのな。……では、俺も当分は諦めておこうかね」
見送るにしては未練がましい声音である。
レオーが何かに執着を見せるのは珍しいことだ。
彼を見れば千景に付いた水を払い、刃の状態を確認していた。
「カインハーストと女王様にはセラフィを送った。不満でもあるのか?」
「何もないさ。こどもは貴重品だ。分かるだろう?」
「……。身に覚えはないが、知っている……」
狩人の微妙な物言いは、多様の意味を含めたものだ。
そのうち幾分かを汲み取ったのだろう、レオーは紫煙をこぼして笑った。
「仔は我々が求める『赤子』でなくとも、それだけで価値がある。三年前に分配したのは賢い選択だったな。ひとりいれば十分と思い、我慢しようとも思っていたが……いざ触れてみれば、よその仔でも欲しくなる。奪えるならば尚のことだ」
「…………」
レオーは、クルックスの濡れた髪に触れた。
彼の気性は、鴉ほど激しいものではないことを狩人は知っている。
時代が時代ならば、血の狩人として華美を尊ぶ、ただの騎士で終わっていた人物だ。抱く情は深く、だからこそ彼を復讐に駆り立てて止まない。
しかし、今のヤーナムは夜ばかりではない。
雨も雪も降り止むことがある。同じように仮初めでも朝はやってくるのだ。
傷だらけの手指でクルックスの耳をなぞる彼は、慈愛に満ちた目をしていた。
レオーが抱きがちな愛というものは、記憶の無い狩人には肌触りが分からないものだ。
無論、彼も学習は好きなので言葉の意味は知っている。
曖昧な情の発露もあるにはある。だが、よく分からないのだ。情の温度は『生きもの』を生み出したことに由来する造物主としての感情なのか。それとも、輸血を受ける以前から存在していた感情なのか。彼には我が事ながら判断が出来ていない。
また、仔らが自分に向ける感情も受け取りが難しい。
かつて人形は言ったことが思い出されてしまうのだ。
……わたしは、あなたを愛しています。
造物主は、被造物をそう作るものでしょう?
初めて聞いた遙か昔の夜のなかで「それは違う」となぜ自分は騒げなかったのか。答えは分かっている。その頃の自分には考える余裕が無かったのだ。巻き込まれた長い夜の中で右も左も分からず殺され続ける時間のなかでは、そんなことを考えていられなかったのだ。
だが、彼女の疑問に答えなかった代償は大きく、こうして尾を引いている。いつまで続くか分からない気がかりを抱え、考えても分からないのに考え続け、いつか思考が理解に辿り着く日を年に一度の夢のなかで見ている。
素直に愛せず、愛することも拒絶した狩人は仔らに愛の代わりを与え続けていた。仔らに手ずから与えられるものがあるとすれば、永続的な死から遠ざけることだ。それは死に続ける苦しみと狩人の業を負わせ、ヤーナムにおいて最も価値の無い命を与えることになったが、それでも彼らは祝福と呼ぶだろう。
ただし、何も知らない彼らを夢に囲う行いは、かつての狩人の夢の主と被る行為である。そのことだけは、とても癪だと思っている。
意識が薄いクルックスがくすぐったそうに身をよじった。
「可愛いものだな。……弱く在るのが許しがたいほどに」
「呆れた。それで殺していては世話のない話だ」
「鴉を見習うワケではないが最も効率的な手段を求めるとこうなるんだ。月の香りの狩人の系譜は諦めないからな」
「精神性をアテにされると困る。ときどきだが心折れるときもあるからな」
「クク、ハハハッ。それはいい。時には心折れるがよい。そうでなくば狩人は人でも獣でもなく英雄になってしまう。『失敗を記憶し、学んでいく』とは、なんてまともな人間の営みだったろうか? 俺はセラフィに会うまで忘れかけていた。こどもは白紙だ。鍛え甲斐があるな」
「否定できない。最近はクルックス達がいてくれて良かったと思うことがある。……彼らは刻々と変わっていく。昨日とは違う顔をしていることがしばしばある。私とは、とても似つかない。成長を……嬉しいと思うことがある、気がするんだ」
「ほお。魔物もいよいよ成長期なのか。これは重畳。女王様に報告しなければな」
「やめてくれ。あらぬ期待を持たせたくない。レオーのなかに留めておいてくれ。この頃は、いろいろなことを知り、焦りばかり感じている。ヤーナムの外、外界のことであるとか……」
「ほう。心変わりは早い方がいい。元のようにヤーナムの外から病み人を引き入れてはどうだ? 少なくとも俺達にとっては、長夜の退屈しのぎにはなる」
「門戸を広く開いたところで今さらヤーナムの噂を辿ってくる病み人などいない。外界の医療はずいぶん進んだらしい。少なくとも『得体の知れない血液をぶち込んで解決!』を信じる人は減ったようだ」
「それは困る。まるで血に依る俺達が愚か者みたいではないか」
「地元住民のレオーはともかく、俺は現代ならば確実に指差して笑われる愚者だろうな。血液型の概念など今年になって初めて知ったからな」
「はァ? 血液型? カインハースト的に受け入れ難い概念すぎるな。ダメだろ。お貴族様と下民は流れる血の色から違っていなきゃ」
「そのとおり。吹聴する必要はないと思っている。そもそもヤーナムでは医療教会の公式発表でさえ信じない人が多いから、広めたくても広まらない──が正しいが」
「足踏みも二〇〇年以上してみるものだな。外の世界は、よほど変わったらしい。興味はないが暇潰しにはなる。そういえば外から仕入れた本が大量にあるらしいな。何冊か持って行ってもいいか?」
「あまり好ましくないがカインハーストの工房小屋から出さないことを約束してくれるのならば」
「助かる。……それで浮かない顔の理由は? 今さら外の世界に迎合できないことを悲しんでいる──なんてことではないのだろう?」
「まさか。ヤーナムのものは何であれ外界に出すつもりはない。まぁ、例外はある。困った顔をしていたつもりはなかったが……うーん、強いて言うならば……外の神秘の話だ」
「ああ、魔法な。夢のある話だ。セラフィから何度か聞いたことがある。鴉のいない時にな。俺には……どうもお伽噺に聞こえるがね」
「その認識は正しい。ヤーナムしか知らない俺たちの理解のために、この後も敢えて、ヤーナムにおける近似の概念である『神秘』と換言するが、その実、魔法族の彼らにとってはただの『技術』だ。スープを飲むために木を削り出しスプーンを作り、使う。それと何ら変わらない。『秘儀の理屈は分からないが何とか使っている』程度の私たちとは異なるものであるらしい。科学の理論と同じように経験の蓄積も人は『技術』と呼ぶだろう?」
「歴史が違うからな。比べても仕方がないだろう。でもそんなことは分かっている、という顔だな。では何だ。心配とは」
「まず大前提があるのだが私は稀な機会を手に入れたから仔らに外を勧めてみた『だけ』で、それ以上もそれ以外も求めていなかった。せいぜい……何と言うべきかな……便利な道具を拾ったから、使ってあげよう……くらいの軽い気持ちだった。相変わらず上位者はうじゃうじゃ群れていることもある。またトゥメルやローランの文化圏がどこまで広がっているか悪夢の関連が分からないにしてもヤーナム周辺に収まる規模とは思えない神秘の人々だ。東方よりもたらされたそれ──千景の存在も俺は気がかりなのだ。だから有り体に言ってしまうとヤーナム程度の病の都は『ありふれた』異常だろうと思っていた。しかし……どうやら私の思い違いだったらしい。こんなに病んでいる街は、魔法族の間でも知られていないそうだ。……それでも『あちらがヤーナムを放っておけば、こちらからあちらを構うこともない』とはクルックスに言ったことだが、今もそう思っている」
「それはまぁそうね。お前、ヤーナム以外、どうでもいいものね」
「だが、すでに縁は生まれてしまった。そして向こうがこちらを認識した以上、誰かがヤーナムに行こうと思えば、来ることができる。これは証明されている」
狩人は、学舎にいるクィレルの名を挙げた。
そして、昨年訪れたセラフィの寮監の話を。
「へえ。異なる神秘だろうに互換性があるのか。では互いに根っこまで見えそうなものだがね。……しかし、そんな心配事なら杞憂だ。市街の異邦人を見つけ次第、俺が斬っておく。それで解決する手もあるだろう」
「それはそれで困る。野蛮な土地だと危険視されるのは避けたい」
「えぇぇ……本気で言っているワケじゃないだろうな? クルックスがトロールとかいう巨人にパイル射出した時点で、もうだいぶ手遅れじゃない?」
「トロールや巨体蛇は、あくまで害虫駆除が目的だから大丈夫だと思う。大丈夫だ。私が手紙を出してフォローしたからな」
「あ、そ。面倒くさ。何が言いたいんだ? 外から見えるヤーナムを取り繕いたいって?」
「いいや、違う。そこまで大がかりな欺瞞は必要ない。ロマを増やすのは冒涜だろう。外界からの目から見て最低限『変な風土だな』の評価に留めたい。具体的には、そう思われるような行動を起こすべきではないかと思っている」
「すこし面白いことを言う。上位者様が白旗掲げて握手しに行こうって?」
「簡潔に言えばそうなる。『危険な土地』と思われて無為な敵意を受ける事態は避けたい。神秘の争いは面倒だ」
「……いろいろと言いたいことはあるが、時間の無駄は同感だ。嫌だぜ。外の戦争なんかで更に二〇〇年以上足踏みするなんて。穢れも期待できそうにない。発狂するわ」
「発狂するな。それもひどく程度の低い」
「上位者様でもお外の神秘は脅威と見ているのか? 俺にはそうは見えん。厄介ではある。だが、扱うのは刃が届けば殺せる人間だ」
「レオー。私の憂慮とは力の問題ではない。まして神秘の浅深でも人間の数でもない。時計塔の貴婦人が倦んだものと同じだ。──好奇だ」
「好奇……? ああ、それは厄介。特に現状のヤーナムの脊髄である夢の仕組みが解体されたとして……しかし、お前を殺しきれるとは思えんが」
「……。死が些細な障害に変わるほどに魅力的なのだろう。そんな人々にとってヤーナムは宝の山や新天地なのかもしれない。底知れぬ力を持つ何かは確かに存在する。人は死から免れ、死者は蘇る。お伽噺の魔法のように。ヤーナムではありふれた神秘だ。ところが外の神秘はそうでもないらしい。人間は、魔法族は、まだ死を克服できていない。死を覆すのは特異なことなのだとか」
「ヤーナムも克服しているワケではないだろう。とはいえ夢だったことにすれば『見てくれ』だけは死を克服している……ように見えるか」
「ヤーナムと外では、生死の考え方に隔絶があるような気がしてならない。外では肉体が無くとも『遺志が存在する』という状態を生とするのだろうか?」
「ゴーストを生者とは呼ばないのだから死だろうな。俺達の尺度ではそれは紛れもない生だが。あっちは啓蒙が足りないんじゃないか? 魔法という神秘を手足のように扱っているのに瞳は衰えてしまっているのかね」
狩人は「むむっ」と唸った。
「こうした思想分析も進めている。コッペリアの担当だ。平行して交渉の内容についてユリエと考えているところだ。──今後は、どうするべきか? このまま不干渉の態度を貫き、触れねば起きない獣と思われるべきか? それとも言葉が通じるナメクジと思われるべきか? カインハーストの女王様には後日奏上に伺うつもりだが……話す内容がまだ定まらない。私と学徒、そして学徒同士でも議論が割れている。今年の成果にはならないだろう」
「ナメクジ呼ばわりは抜刀モノだが個人的には後者を選びたいものだ。俺達は獣性を秘めているかもしれないが、まだ獣ではない。偏見などヤーナム内で腹一杯だ。──実際のところはどうだ。交渉は可能なのか?」
「テルミとネフライトならば、うまくやるだろう。もっとも情報は必要だ」
「あの二人か。狩人の仔だから俺は信用してもいいと思っているが……。医療教会の息がかかった者が二人きり、ね。カインハーストが頷くと思うか? 報告する俺の首をもっと真剣に思いやって欲しいものだな」
狩人は、まさに「言うと思った」という顔をして、口に手を当てた。
「ヤーナム全体の問題だ。……目を瞑るという選択はないのか?」
「それができていたのなら、ヤーナムのあちこちにある火種は半分以下になっている。滅亡間際、いいや、滅亡が分かりきった最期でさえ結局、誰も手を取り合うことはしなかっただろう? 最期までそうだったのだ。民は不在の神へ祈り、医療者はくだらない神秘を信じた。狂うのは何も知らない哀れな狩人ばかりだ。だが、狩人でさえ同じ狩人を信じきれていない。人間は弱いからな。同じ人の手より、見たこともない救いの手を信じるものなんだ。ヤーナムの民はどうしようもなくそうなんだ」
「……でも俺はレオーを信じている。レオーだって俺を信じてくれているだろう?」
「ご信用いただいて光栄だ。俺も愛している。だが俺はカインハーストの人間で、しかも個人の意向はカインハーストにおいてさほど重要ではない。やはりお前の悩み事には、いつも力になれないようだ。……悪いな」
「レオーは悪くないだろう。私が人間の形にこだわっているからダメなのだ。正解だけを選ぶ手段はある。それを選ばないと決めているだけで」
「そのスタンス。学徒はいろいろ言うだろうが俺は好ましいと思っている。ヤーナムは人間の意志で栄え、滅びるべきなのさ。華やかに。そして悪夢的に。ついでに悪趣味ならもっといい。上位者にそそのかされた結果、血に溺れて滅べば……誰も俺達を知る者は、いなくなってしまうな……」
「……何にせよ間が悪い話だ。俺は、もう人間ではないからな……」
「そうか? ククク、俺には、まだ人間に見えるぜ。しょっちゅう人形に泣きついているらしいからな。ならば人間ってことでいいだろう。一年が二〇〇年以上続いているのは、まぁ、人間の進歩に期待する上位者が気まぐれに起こした異変くらいに思っておけば俺達の気分も大して悪くないものだ」
「…………」
「学徒達も、あの様子ではまだまだ耐えられるさ。人間は強かだからな。むしろ、足下すくわれないように気をつけるべきなんだぜ。上位者とて殺し尽せば死ぬには違いない」
「こわいこわい。気を付けるとしよう。……ありがとう、レオー。夢に戻る。クルックスは……まだ意識が戻らないようだな。学舎まで頼めるか?」
「ああ。いざとなったら夢に直葬するから安心しろ」
「さて、後半戦だ。期限までにはできるだけ納めるからな」
「『できるだけ』では俺が困る」
レオーが煙草をもみ消したことを合図として狩人は立ち上がる。
そして、背伸びをすると腕を回しながら学舎へ歩いて行った。
それから間もなくのことだ。
クルックスが深刻な顔で起き上がった。
「…………」
「せっかく寝ていたことにしてやったのに。台無しにするんじゃあないよ」
レオーは狩人の会話の途中、気絶とも眠りとも言いがたい状態から覚醒したクルックスとうっかり目が合ってしまっていた。しかし、指摘して会話をやめるほどのこともあるまい。そう思って特に何もしなかったのだ。
「……お父様が、あんなことをお悩みだったとは、気付きませんでした……それが、悲しい……悲しい? 違う。これは悔しいという感情なのかもしれない……今すぐに、あの人の背を追いたい気分になっている……」
狩人がそうしていたようにクルックスも木に寄りかかって座った。
ただし、意識だけは狩人の後を追うように学舎へ向けられている。
レオーは長々と溜息を吐いた。
「それはやめておいた方がいいな。狩人が独りで考える時間も必要だからな。こどもに心配かけていると察した大人の内心たるや。目も当てられない。情けないものさ。あまり追い詰めてやるなよ。上位者が皆の期待するほど万能なら失われた赤子だって、とっとと作っていただろうよ。知らないフリをしたこどものままでいろ。……面倒なことは他の大人に任せておけばいいのさ」
「レオー様は、どうすればよいと思いますか?」
「おいおい、俺に聞くかよ。復讐鬼に未来の話ができると思っているのか?」
「それは……やってみなければわからないと思います」
「正論を言うな。そのうち逆上するぞ。俺は処刑隊以外に怒りを向けたくないんだ。……お前はカインハーストには不都合すぎる存在だな。失うものの少ない若者には分かるまい。──さてさて、だ。お前は寝てた。いま起きた。はい。この設定でいくぞ」
「あ……はい。シナリオ、了解です」
「濡れたままじゃいけない。ほら、学舎へ戻るぞ。それから……そうだな。あ、本を選ぶのを手伝ってくれるか?」
「ええ、はい」
「うんうん。いい子だ。可愛がってやろうな~」
レオーは、くしゃくしゃとクルックスの髪を撫でた。
クルックスが思うにレオーはこうしてじゃれ合っている時が最も生き生きとして見えた。
「むぅ。セラフィにもこんなことをしているんですか?」
「できていると思うか? 遺骨キックで腰イクぞ」
「逆関節かぁ」
クルックスはレオーに手を引かれて学舎に戻り、それから残りの一日と半分を有意義に過ごした。
そのためだろうか。
約束の期日、その当日。
狩人が血眼になって掻き集めた『穢れ』を預かったレオーが狩人と学徒に別れを告げる。
どうしても別れが名残惜しく思えてしまい、クルックスは学徒達の許可を得て、日暮れの森をレオーと歩いた。
「ククク……いいのか? 連盟員に見られたら面倒だろう」
──灯りはありがたいが。
レオーは楽しげに笑って一緒に歩いてくれた。
血除けマスクを鼻の上まで上げたクルックスは右手が空だった。
「その時は、貴方に脅されていたと言います」
「お、いいな、それ採用~」
「ありがとうございます。今日も市街に狩りへ行くのですか?」
「いいや、今日は狩りの日ではない。鴉は遊びにきているかもしれないが、セラフィは留守を守っているだろう。俺は市街の屋上を通り過ぎて、ヘムウィックへ行くさ。……その屋上も最近は物騒なんだけどな」
「え? 医療教会は、使いを屋根に出張させているのですか?」
「いいや、違う。教会の射手だ。何度かやり合ってるんだが、ありゃ相当なやり手だ。『窶し』なんてな。久しぶりに見たぜ」
レオーは、呆れた口調だ。
──よくもまぁやってる。
小馬鹿にするようでもあった。
「窶し。市井に紛れて獣を狩る、予防の狩人でしたか。でも俺は見たことがありません。本当にいるのですか?」
「いるさ。昨年初めて会って頭ぶち抜かれかけた。……あれが地底にこもっていた変人でもない限り、つい最近、悪夢から還って来たヤツだろう。惜しいヤツだよ。医療教会の窶しなんて仕事してなきゃ招待状渡したんだがな。つくづく残念なヤツさね」
レオーはそう言って嘆息したが、クルックスは別のことを考えていた。
(『昨年初めて会った』? 一五〇年ほど夜の市街を歩いているカインハーストの騎士が?)
悪夢から還ってきたヤツ、との評価は正しい見込みだ。
──ということは。
「セ、セラフィもそのことを知っていますよね?」
「もちろん。頭がパァになった俺を運んだのがセラフィだったからな。敵の姿も見ただろう。どうした?」
「……あ、いえ、よく、逃げおおせたものだと感心したんです……」
セラフィが知っていることならば、父たる狩人にも伝えていることだろう。
狩人は夢から還ってきた人々にどうやら接触したがっているようだ。獣の皮を被った男と同様に何かしらの接触をしているに違いない。
クルックスは、どうしても肩の力が入ってしまうのを久しぶりの夜歩きのせいだと思うことにした。
森が途切れる場所に来た。
急斜面を昇れば市街、診療所の裏手に回ることができる。
周囲を警戒するが、人も獣の気配もない。
クルックスはトリコーンを軽く上げて別れを告げた。
「道中、お気を付けて。レオー様」
「ありがとな。お前も無理するなよ。……面倒なことは、あの狩人に任せておけばいいのさ」
「だからこそ俺は、あの人の隣に在りたいのです」
レオーは顔の見えない兜のなかで、また笑った。
「そうかい、せいぜい頑張れよ。……ああ、そうそう念押しの忠告だ。もし狩人の背中を追うならば、どこにも所属しないことだ」
「どうして、ですか?」
思いがけないことをレオーが言い出したのでクルックスは、疑問ばかり浮かんだ。
彼は肩を揺らした。
「狩人だって最初から連盟の狩人だったワケではないだろう? 背中を追うならば徹底的にな。そして、お前は病んでいるワケではない。健全で自由だ。何をやってもいい。何もやらなくていい。好きなものを選んでいい。選ばなくてもいい。酸いも甘いも味わってから連盟の狗になったって遅くはないだろう。考えてもみろ、二〇〇年だぞ。ほとんどの出来事は些事、そして誤差だ」
「おっしゃる意味は何となく分かります。俺を心配してくださっているんですね。しかし、世界は綺麗にしなければなりません。連盟の使命は俺の願いでもあります。虫を潰し淀みを根絶したこの世界は、きっと本当はもっともっと綺麗です。その未来においてのみヤーナムは最も新しい朝を迎えるに値します。今も悪夢に魘されるカインハーストであっても。……お気遣いありがとうございます。レオー様も無理はなさらないように。信じる血の加護があらんことを」
「そうかい。……互いに、甘き夜明けを願いたいところだな」
「……? 甘き夜明け?」
「望む夜明けのことを女王様はそう呼ぶ。誰の望んだ夜明けなのか。誰にとって甘いものなのか。それは分からないが、祈るものが違う俺達が共通に祈れるものがあるとすれば血の他には夜明けだけだろう」
「なるほど……」
カインハーストの言い表し方は、参考にすべきことが多くあるとクルックスは思った。例えば『甘き夜明け』は、魅力的で暗闇のなかでキラキラ光る言葉に感じる。
「さて。行くとするかね。俺も、また頑張る気力が出てきたからな」
クルックスはレオーが狭い道を歩き始めて間もなく、その道の先に誰かが立っていることに気付いた。
いったい何者か。
目を細めたクルックスにレオーの鋭い声が届いた。
「ダメだぞ、鴉。あれは月の仔だ。──我らの敵ではない」
彼の騎士がまとう鴉羽の外套は月の光を受けると光沢を放っていた。
市街から流れてくる風は仄かに血生臭いのに今日に限っては、甘い。
──あれがカインハーストの流血鴉だ。
クルックスは一瞬だけ体が固まったが、すぐさま狩人の礼をして敵意が無いことを示した。
そっと見上げてみる。
鴉はレオーが合流した後で外套を翻し、暗闇のなかに消えてしまった。
彼から、ほんのすこし遅れて歩き出したレオーは控えめに手を振った。
宙を掴むように手を握り、クルックスもそれに応えた。
クルックスは空を仰いだ。
市街を照らすガス灯の光は弱く、月の光ばかりが降り注ぐ。
夏の夜は、短い。
けれど。
この土地で迎える夜は、どうしても『外』より長く感じた。
■ ■ ■
「どうだった」
鴉の質問は、いつも要領を得ないものだった。
しかし、不本意なことであるが長年を共に過ごせば大凡言いたいことは分かる。
例えば、今回の質問は「ビルゲンワースの月の香りの狩人及び学徒との定期情報交換は、どのような進行で行われたか知りたい」という意味だろう。
それを理解した上でレオーは「最高だった」と告げた。
「セラフィの話を聞いていたから、彼は性格の穏やかな奴だと検討を付けていたが、いやはや、想像以上に良い奴だったな。──ほら、見送りに来てくれていただろ? 彼。光画にもいた」
ヤーナム市街から遠く離れ、大小様々な墓碑が乱立するヘムウィック墓地街を騎士達は歩いていた。
鴉と呼ばれる青年は顔の見えない兜のなかで本日の夜の始まりについて思い出しているらしい。
次の言葉までには、やや間があった。
「クルッテル」
「混ざってる混ざってる。テルミと混ざってる。正しくはクルックスな。ぜひ会うべきだぞ。あれはヤーナムに貴重な善性だ。スレていないと言うべきか……。いやいや、悪意に悪意をもって返さないなんてヤーナムでは出来すぎた人格だ」
「死なぬゆえの余裕か?」
「そういう感じではないな。もっと自然で柔らかい。きっとユリエとコッペリアの教育が良かったのだろう。あるいは、あれこそ狩人の素に近いものなのか」
「珍しいだけだ」
「だから貴重でもある。恐らく、病み人ではない異邦人の善性に近い。お前も触れるがよい。カインハーストには存在しえない。新しい経験だ」
「セラフィがいる。必要ない」
「俺もそう思っていた。他の三人よりセラフィが優れているとな。だが種類が違う良さがある。クルックスは特にお薦めだ。単純に一緒にいると楽しいからな」
「狩人と同じ顔をしている」
「だから気に食わないって? まぁまぁ、そう言いなさんな。食わず嫌いはお前の悪い癖だぞ。中身はまったく違う。鴉を見かけた時もお辞儀しただろう。銃を抜くより先にお辞儀ができるなんて、果たして市街の狩人の何人が出来るだろう。とても可愛いぞ。あとは連盟なんて馬鹿な所属をやめてくれたなら言うことないんだが……」
「…………」
鴉は珍しく呆れたように「ハッ」と息を溢した。
──それでもセラフィの方が優れている。そしてさっさと報告しろ。
不機嫌な獣のように血濡れた鴉羽を震わせた鴉に応じてレオーはようやく口を開いた。
「なぁにも珍しいことはないさ。当分は、狩人も学徒もヤーナムの外のことにかかりきりだ。しかし、悪夢からフラリと戻って来ている狩人がいるらしいが、どこかの誰かが秘匿しているのか。それとも、自分を秘匿しているのか。何だか探し甲斐がありそうな話を聞いた」
「窶しの射手。獣皮の男。それから?」
「今のところ把握できているのはそれだけだが……どうにもクルックスの反応を見ると月の香りの狩人は射手について知らないらしい。まぁ、そのうち気付くだろう。大した問題ではないな」
「……そうだな」
ぽつり、ぽつり、と。
小さな疑問や発見を語り、二人の姿は朝焼けのなかに消えていった。
レオーはいつもと比べることもできないほどゆっくりとした歩調だった。しかし、不思議なことに並んで歩く鴉との距離は変わらない。今日に限って鴉の足取りも鈍いのだ。
時に態度とは、言葉より遙かに雄弁で優れていた。
労りと呼べるほどもない気遣いを甘受し、レオーの短い休暇は終わりを告げた。
狩人君、喋る
『得たいのしれない血液をぶち込んで解決しようぜ!』という時代ではなくなったのは、ちょっと残念だが時間の問題で当然だとも思っている。しかし、まさかこんなに時代に取り残されるとは思っていなかったし、瞳が少ない時代になるとも思わなかった。けれど結果、人は多くの病を克服する術を身につけたようだ。病み人が少なくなったのはとても嬉しい。
幸運な病み人を時折招きながら、今後は無用な敵意を招かないように握手のできるナメクジだと思われる方がいいかな、と思っている。ヤーナムで僕と握手!
仔らを悪夢に繋いでいるのはせめてもの親心──なのだが、向けられる親愛には人形の言葉がちらつく。
…わたしは、あなたを愛しています。
造物主は、被造物をそう作るものでしょう?
レオーおじさんの休暇終わる
3日でクルックスを堕とす自信があるため狩人をビル学から追い出したしコッペリアを薬でアヘさせたしユリエは放っておけば引きこもっているので下準備はバッチリ。肝心のクルックスは情報あげるよって言えば簡単に釣れた。──失敗する要素は無かったが、気まぐれによってクルックスの勧誘計画は凍結中止した。けれどまあ、狩人の悩み事には相談にのったしコッペリアには圧をかけてきたしユリエには花と言葉を贈り、クルックスは懐いたので、完璧な休日を過ごした。なのにどうして足が重いのか。レオーは認めないことで小さな意地を通しているのかもしれない。
この頃のセラフィ
レオーが帰ってきたときに彼の寝床が寒くないように部屋を温めていたら眠くなってしまったので寝てました。
甘き夜明け
本作のタイトルにもなっている「甘き夜明け」について、ようやく説明できて安堵している作者がいます。
命名は、血の女王でした。信じるものが違うと相手の幸福を願う言葉にも苦労します。これは、その小さな悩みを解決してくれる言葉として現状のヤーナムを知る人々のなかで親しまれている言葉です。