甘き夜明けよ、来たれ   作:ノノギギ騎士団

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ネフライトの休暇計画書
休暇を有効に過ごすためにネフライト・メンシスにより作成された計画書。
案であれば稟議されるべき書類だが決裁欄は空欄のまま実行に移された。
噂によれば、父たる月の香りの狩人の命令により作成された物だという。




夏の海と記憶(下)

 目で辿った海岸線を歩く。

 緩い扇状を描く陸と海の境界は、ここ数百年で次第に海の水量の嵩が増しているらしい。

 ここから、さらに南。

 南極と呼ばれる凍てついた大陸にて、太古の万年氷雪が融解しつつあるのだという。

 

 クルックスにとって想像が難しい、果てしない話である。

 

 ──マグル学では、地理を取り扱うのだろうか?

 三年生からの新たな科目を取らなかったことをクルックスは、少々後悔しつつあった。もっと早くに海を見てさまざまなものに触れていれば、選択は変わったかもしれない。

 

 足を止め、乾いた岩の上に腰掛けた。

 潮風を肌で受けるとザラリとした感覚があった。風に触れているだけで少しずつ体力が減っていくような気分になった。現在のヤーナムに海の風が流れ込んでこないのは幸いだ。これは病人の身には堪えるだろうと思えたからだ。

 ボウッと波の先にある地平線を眺めているとテルミが隣に立っていた。

 

「テルミ、どうした」

 

「ん……なんでも、ないの。なんでも……」

 

 彼女にしては歯切れの悪い言葉だ。

 取り繕う気も回らないようで不安げに立ち尽くしている。

 

「『ない』ではないだろう。どうした。何か見たのか?」

 

「ううん。違うの。ひとりで海を見ているのが、なぜか、とっても怖いの……。わかってくれる?」

 

「分からない。だが、君が辛いならば俺がそばにいよう。手を」

 

 クルックスは、手を差し伸べた。

 その手をすり抜けたテルミは、クルックスにしがみついた。

 

「おい、どうした」

 

 テルミの体を受け止めた。

 彼女の体は、小さく震えていた。

 

「海は怖いところよ。おしつけがましくて嫌い。底が知れないし、遠くから何がやってくるか分からないわ。鯨の話をしたでしょう? この大量の水のなかに得体の知れないモノが存在するなんて……わたし、どうしても怖いと思ってしまうの」

 

「……そうか」

 

「クルックスは平気?」

 

「ああ。……俺は、ヤーナムの海を見たことがある」

 

 テルミが不思議そうに蒼い目を瞬かせた。

 ヤーナムに海はない。

 彼女の言いたいことがクルックスには、よく分かっていた。

 

「お父様の夢のなかで海を見た。お父様の古い記憶なのかもしれない。降り止まない冷たい雨の降る、黄昏の海だ。……ずっと以前から俺は、波の音を聞いていた気がする。海など見たことがないハズなのに、漁村の波の音が聞こえていた。君に覚えはないのだな」

 

「ありませんね。お父様の記憶なんてわたしには何も、どこにも。……クルックス、海は好き?」

 

「好きも嫌いもないな。普通だ。今のところはな」

 

「そう」

 

「行こう」

 

 クルックスは、テルミの手を引いて歩き出した。

 藻類が生えた岩を飛び越えて、二人は浜を離れていった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「海だ」

 

「海だな」

 

 セラフィとネフライトの組み合わせは、四人で行動するうちにしばしば見られるものである。テルミとネフライトが一緒になると互いの所属に対し絶え間ない批判を言ってしまうのだから、仕方のない組み合わせだ。

 もっともクルックスとネフライトが一緒の組になっても問題はないハズだったが、ネフライトはテルミに先を越されてクルックスに声をかけられないことが多く、今日も出遅れてしまった。

 

 靴と靴下を脱いだネフライトは、波打ち際を歩いた。

 波が引いていく。振り返ると歩いた足跡が小さな窪みになって見えた。

 セラフィは岩の上に座って、その様子を眺めていた。

 

「冷たいのかな?」

 

「冷たいが、我慢できる冷たさだな。……しかし、二〇時間ほど浸かっていたら死んでしまうだろう」

 

「そうか。ところで君、水遊びは楽しいのかな?」

 

「楽しいとは思っていないが、せっかく水辺に来たのだからこうして、年頃らしくちゃぷちゃぷしている。お父様が何の目論見もなく『海に行け』と言ったワケではないだろう……とはいえ、一見したところ何の益もない気がしてならない」

 

「お父様は海を見たことがあるのだろうね」

 

「ほう、なぜそう考えるのか聞かせてもらっても?」

 

「勘だよ」

 

「なんてアテにならない情報だ。一応聞くが、その勘はどこから?」

 

「それは君がさっき言った。『お父様が何の目論見もなく「海に行け」と言うワケがない』。これには同意だ。では、海とは何だろうね。ヤーナムに海はないハズだが……お父様には心当たりがあるのだろう。何か聞いた覚えはないかな?」

 

「海に関わる言葉? はて、記憶には……んん……ないが」

 

 ネフライトは目を閉じて記憶の検索を始めたが、有益な情報はなかった。

 セラフィは岩場から立ち上がると灰色の砂を掬い上げた。

 

「君が聞いていないのならば、誰も聞いていないかもしれないな」

 

「それは?」

 

「カインハーストの先達へのお土産だ」

 

 セラフィは衣嚢を探って出てきた革袋に砂を入れた。

 その様子を見ていたネフライトは、やや高い波に気付かず太股まで折っていたズボンを濡らされた。

 

「あッ! 服は濡らさないようにしていたのに……! 待て待て、セラフィ。お土産って砂? え、ホントに砂を!? もうすこし何というか海っぽいモノをだな……」

 

「では海水にしようかな。……でも鴉羽の騎士様が間違って飲みそうだよ」

 

「間違わないだろう! いくらなんでも! 海水だぞ! カインハーストは食糧事情が悪すぎ──そういう問題か? 潮水を飲むのはお父様だけにしてくれ。ちょっと待って」

 

 ネフライトは、海のなかで砂地を探った。

 やがて、目当てのものを見つけたのか砂にまとわりつかせながら、波がやってこない岩場にやって来た。

 

「ほら、これをお土産にするんだ」

 

「貝?」

 

「砂より海らしいだろう」

 

 ネフライトが手渡したのは貝だった。

 二枚貝の一枚だけだったが、たしかにそれは貝殻であり、砂よりも海を象徴するものに見えた。

 

「ふむ……。外は黒いが、内側は乳白色だ」

 

「これは真珠層と言ってだな。成長で生成される炭酸カルシウムの──ああ説明が面倒だ。とにかく綺麗なのだからこれでいいだろう。カインハーストには地味すぎるだろうか」

 

「僕は素朴なものが好きだよ。レオー様には、もっと着飾るべきだと言われるけれど……不相応に感じてしまうからね」

 

 セラフィは、髪を結びつけている鴉羽に触れた。

 再びセラフィがネフライトを見た時、彼はつまらなさそうな顔をしていた。

 

「私達は、誰とも血が繋がっていない。枝葉の我々だって完全な同一個体ではない。君が他人であるカインハーストに入れ込む理由について、私は理解できそうにないな」

 

「そんなことを考えていたのか。とても単純で、簡単なことだよ」

 

「……それは?」

 

 ネフライトは、本心では聞きたくないと思っているのだろう。

 それでも質問をしたのは、どうしても気がかりに思っているからだ。

 

「僕を愛してくれたから」

 

「ハァ……? 君は愛を知っているのか?」

 

「知っている。カインハーストの先達が教えてくれたからね。慈しみ合う心を人は愛と呼ぶ。……君も知っているだろう。メンシス学派は噂ほど気を迷わせていないらしい」

 

「私には不要だ。君たちができる程度のことをなぜ私がやらなければならない」

 

 鼻で嗤うネフライトをセラフィは見つめなかった。その代わり、手の中の貝を何度も撫でた。

 

「君が見下すそれに、いつかすくわれるのではないかと僕は案じているのだ。……それに僕らが人に留まる縁になるのだから無碍にするものではないと思うけれどね」

 

 ネフライトは岩に腰掛け、砂にまみれ濡れた足をポケットから出した布で拭いた。

 

「……君からの忠告として覚えておこう」

 

 貝の白い裏側を指の腹で撫でる。

 つるりとした感覚は水銀弾のようでセラフィは、とても気に入った。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 嗅覚は、夜を歩む多くの狩人にとって敏感にならざるを得ないものである。

 獣の臭いは特に重要だ。風上であれば存在を確信できるだろう。その程度に、臭いに対する信頼は高い。

 また狩人を狩るカインハーストの騎士達にとっても重要だ。

 市街の狩人達が盾代わりに持つ銃、その火薬の香りは、彼らにとって道標のようなものだ。

 しかし、この匂いは知らない。異境の匂いがする。

 

「──海だと? そりゃまた遠く……? ん? 遠くだよな? 行ってきたものだ……」

 

 カインハーストの小さな工房にセラフィが帰ってきたとき。

 迎え入れたレオーも不思議な匂いを感じたのだろう。

 抱きしめたまま、セラフィの形を確かめるようにあちこちを軽く撫でた。

 

「海です。こちら砂です」

 

「え? 砂……砂? す、砂……!?」

 

 セラフィが小さな革袋を取り出し、得意げな顔で広げた。

 レオーは袋のなかを見て、指先で触れた。小粒で丸い砂が擦れる音が聞こえた。

 巷で流血鴉と呼ばれる騎士は、読みかけの本を閉じた。

 

「うん。どう見ても砂だな。まあ、これは置いておくとしてだな……。旅行は楽しかったか?」

 

「久しぶりに『きょうだい』水入らずの時間を過ごすことができました。学校では別々の寮ですから共に過ごす時間は限られているのです」

 

「うんうん。よかったな。家族の仲が良いことだぞ」

 

 レオーは猫を可愛がるようにセラフィの頬を撫でた。

 やがて解放されたセラフィが鴉のすぐそばにやって来た。

 

「鴉羽の騎士様へのお土産はこちらです」

 

「……?」

 

 大きな手のひらに落とされたのは貝殻だった。

 

「鴉羽の騎士様は、海を知っていますか?」

 

「……私は、ヤーナムから出たことがない。レオーもそうだ」

 

「そうですか。海は、とても広い場所でした。僕は大きな湖を想像していましたが、実際は違うそうです。目の前の海から、世界の他の大陸に繋がっているのだとか。僕には途方もない話です」

 

「そうか。……。……。来い」

 

 鴉は、貝殻を握ると立ち上がった。

 壁に据え付けていた仕掛け武器、千景を手に彼は工房を出た。

 

「おい、どこに行く」

 

 背中に投げかけられたレオーの言葉に「私の部屋だ」と返した。

 工房の外に出るとセラフィが衣嚢から落葉を取り出した。

 

 

 ──使うことには、ならないだろう。

 

 

 セラフィは、カインハースト城内を歩く鴉のあとに続いた。

 城内は、悪霊の悲痛な叫び声に満ちている。

 鴉は構うことなく彼女達の隣を素通りした。

 

 回廊沿いのとある絵画の裏。

 仕掛け扉を回し、螺旋状の階段を昇った先が近衛騎士長の私室である。

 

「…………」

 

 この場合、鴉に「何かご用ですか」と聞くのは、まったく得策ではない。

「用があるから連れてきたのだ」と言われ、機嫌が悪ければナイフの一本でも飛んでくるからだ。

 

「座れ」

 

「はい」

 

 指示された椅子に座り、待つ。

 彼が戸棚から取り出してきたのは、小さな木箱だった。

 カインハーストらしい精緻な意匠は、特にない。

 セラフィは、わずかに首を傾げた。

 木箱の出来はどう見ても『あり合わせの木材で取りあえず拵えました』と言うべき粗末なものだった。

 

 鴉の表情は乏しい。

 けれど彼と時間を過ごしているセラフィには、彼にとって木箱は大切な物なのだと察することができた。

 二人の間にある、小さなテーブルに木箱を置いたとき。水銀弾が互いにぶつかる特徴的な金属音が聞こえた。

 箱を開くと想像したとおり、水銀弾が入っていた。

 そのうちのひとつを取り出して鴉は言った。

 

「これは、これまでに私が狩った狩人から得た水銀弾だ」

 

「蒐集していたとは存じませんでした」

 

「教えていないからな」

 

「そうですね」

 

「最初は顔を覚えていたのだが、その顔を潰してしまったり首を下水に落としてしまったりと覚えていられないことも多いのでこうして水銀弾を集めるようになった」

 

「誰がどの水銀弾なのか覚えていらっしゃるのですか?」

 

「おおよそだ。私は狩人の名を記憶しない」

 

 木箱は二層になっていた。

 水銀弾が納められていた段を外すと、さまざまなものが入っている底があった。

 

「これは?」

 

「私が価値を見出したものが入っている」

 

 鴉が見せてくれたものは、セラフィにとって価値が計り知れないものばかりだった。

 

 鴉羽に似せた黒い布。

 精緻な彫りが施された柘植材の女神像。

 辰砂の朱紅。

 時間の止まった銀の懐中時計。

 

「光るものがお好きなのですか?」

 

「夜道では、よく見えるだけだ」

 

 さらに木箱の底をよく見れば、輝く硬貨が入っている。

 セラフィにとっては通貨として馴染み深いそれは、目の前の男にとって貨幣としての価値がない物なのだ。

 そのことに気付くとセラフィは、この人と明るい市街を共に歩く機会は、遠い遠い未来のことに思えた。

 やがて鴉は、木箱の底にあった硬貨を几帳面に重ねると空いた場所に貝殻を置いた。

 

「海の記憶はここに保存する。ヤーナムでは珍しいものだ」

 

「ええ、きっと」

 

「珍しいものには仲間がいたほうがよいだろう」

 

「はい、きっと」

 

 鴉は立ち上がった。

 

「どちらへ」

 

「地下へ」

 

「なぜとお伺いしてもよろしいですか」

 

「月の香りの狩人は、話していないのか」

 

 何のことだろうか。

 セラフィも椅子から立ち上がり、鴉の後に続いた。

 

 階段を下がり続けた先。

 地下は、空気が淀んでいるが気温が安定している。

 平均温度三度の地下は、セラフィにとって馴染みのある場所だ。

 薄い暗い廊下をセラフィは携帯ランタンに火を灯し進んでいた。

 

「レオーによれば、かつて侍従の控えの間だったと聞く」

 

「近くに拷問部屋もあることです。お仕事の内容も考えさせられます」

 

 地下はセラフィが住まいにしている拷問部屋があったが、彼はその部屋の前で一度だけ立ち止まった。

 

「レオーが……鍵のかかる部屋でなければ、お前をこの城に置いてはダメだというからここを宛がっただけだ」

 

「存じております、鴉羽の騎士様。レオー様のお心も分かります。僕は一人でお休みできますからね」

 

「……。この先だ」

 

 鴉羽を靡かせ彼は歩く。

 黒ずんだ廊下の先にあったのは、広い空間だった。

 嗅ぎ慣れた死血の匂いに気付き、セラフィは思わず立ち止まった。

 

 ただの広い空間ではないことにセラフィは気付いた。

 天井を仰ぐ。緻密に計算された部屋の天井には、わずかな亀裂があった。

 そこから差し込む空の光が、部屋の中央には鎮座する、くすんだ金の杯を照らしている。

 

 ──ここは古い祭祀場だ。

 

 携帯ランタンを腰に吊り下げたセラフィは、鴉を見上げた。

 

「……なぜ。聖杯の祭祀場が……」

 

「私が持って来た」

 

「聖杯を? いつの話ですか? 地上の聖杯は旧市街にあると聞きました。旧市街の聖杯教会に祀られていると……」

 

「それは二〇〇年以上前の情報だ。あれはすでに狩人が持ち去っただろう」

 

「……?」

 

「しかし、ヤーナムの街があの様子では聖杯も増えているのやもしれん」

 

「聖杯が増える? 自然に増えるものなのですか? 悪夢ならば分かります。でも、けれど、地上でも?」

 

 ヤーナムの地下に広がる神の墓地への接続を可能とする聖杯。

 かの聖杯は、夢のなかであれば血の遺志がある限り、無限に生成が可能である。だからこそ夢を見る狩人たちは、血晶石を求め阿鼻叫喚の聖杯探索を続けることができるのだ。

 しかし、地上で聖杯が使われているという話は聞いたことが──あった。セラフィは思い出す。他でもない先達から話を聞いたことがあった。では、この部屋にある、あの聖杯が、レオーが贄になったという聖杯だろうか。

 セラフィの緊張を隣に立つ鴉は悟ったようで彼は聖杯を指差した。

 

「あれは、レオーが彷徨っていた聖杯ではない」

 

 セラフィは『よかった』も『そう』とも言えずに、ただ強ばっていた肩の力を抜いた。

 

「レオーが、この城に戻ってきて最初にやったのは自分が入っていた聖杯を湖に投げ捨てることだったという」

 

「湖に……? どこぞに流れ着いていなければよいですが」

 

「…………」

 

「うーん。突然、だんまりされるとビックリします。僕は何も恐怖しませんが、不安にはなるのですよ」

 

 鴉は薄蒼の目をむき出しの露地へ逸らした。

 セラフィは、彼が考え事をする顔になったことに気付いた。

 

「カインハーストの物は、散逸する傾向にある」

 

 鴉は訥訥と説明した。

 彼が言葉を重ねるのは珍しいことである。

 セラフィは、耳を澄ました。

 

 ──女王の手紙が消える。

 ──手紙とは、カインハーストの招待状だ。

 ──それを使えばカインハーストに登城することができる。

 ──誰であっても。

 ──宛名が書かれていない物は、月の香りの狩人との談合で全て破棄した。

 ──私とレオー、女王そして狩人で全て燃した。

 ──残部など世界のどこにもないハズだが、存在が消えない。

 ──気付けば、女王の間に在る。

 ──何度捨てても燃やしてもそう。

 ──そして、それは放っておけば、消えるのだ。

 ──どこに行ったのか。

 ──誰も辿れず、誰も訪れはしない。

 ──しかし、散逸する。

 

「市街へ行くと貴方の姿が、ときおり消えます。招待状を探していたのですね。そして、ここでは来襲者を待ち構えているのだ。鍵のかかる部屋もそう。隠し部屋の近衛騎士長部屋も。そしてレオー様は、門番の役を兼ねていたのですね?」

 

「察しがよい」

 

 鴉は地面から目を逸らし、聖杯からも背を向けた。

 暗くて気付かなかったが、部屋の壁には大量の木箱があった。まさに鴉が抱えている物と同じ木箱。寸分違わぬ同じ物だ。手作りでそんなことがありえるだろうか。

 セラフィは近付き、とある木箱をよく見た。

 

「増える……増えるとは……まさか」

 

「悪夢が巡れば地上にある物は、増えることがある。これは増えた木箱の一つだ」

 

「どうして増えるのですか?」

 

「悪夢は法則が違うのだ。既存と認識する存在の在り方。恐らくは、その並びが異なる。稀に同一になることもある。その時は、我らの知覚の外で法則が動いているのだろう。……偏執の手で丁寧に作られたものが、最も整ったものに見える。自然に作られることなどあり得ないと知っているのだが」

 

 セラフィは、知識を常識として消化するために長い時間を要した。

 理屈はまったく分からないが、現在のヤーナムには『地上にあった物を地下に置いておくと、地上では物体が増える』という不可思議な現象があるらしい。

 

「なにかいろいろと間違っているような気がしますが、悪夢ですからね」

 

「悪夢だからな。何でもはないが、ほとんどはある。これも『辻褄が合う』というものだ」

 

「なるほど。含蓄の心を感じます」

 

「中身の整理を命じる」

 

「鴉羽の騎士様の所有物です。お確かめにはならないのですか?」

 

「不要だ。作業進捗の確認に来る」

 

「はい。分かりました。……整理は得意ではないですが、頑張ります」

 

 鴉は、地下を去って行った。

 セラフィは、足音が完全に聞こえなくなるのを待ち衣嚢からから杖を取り出した。

 なかなかに困難な仕事を受け入れることになってしまった。

 

 セラフィはこれまでの関わりのなかでうっすら気付いていたが、鴉は集めるだけ集めて整理をまったくしない性質だった。彼の興味や関心は、目的の物を手に入れた時点で次へ移ってしまうからだろう。

 私室で大切に扱っていた木箱は、地下の一角に放られてあった。その数は無数。一年に一箱中身を入れていたとすれば、ざっと一五〇になる。収集癖が波に乗ればそれ以上もあり得た。

 

「……僕の夏休みが終わらない気がする。逆に終わるのかな。……。まぁいい、頑張ろうかな。さて。──ルーモス・マキシマ! 光よ!

 

 セラフィは、照明代わりの光を天井に放った。

 空間で光の玉はふわふわと漂い、セラフィを照らした。

 

 何から取りかかるべきか。

 いろいろと考えてセラフィは目録から作ろうと決めた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 白い可憐な花が咲く狩人の夢にて。

 月の香りの狩人が工房でペンを奔らせている。その文字が綴っているのは、これまでに調査した聖杯文字だ。

 

「お父様、ただいま戻りました」

 

 工房を訪れたクルックスは、缶ジュースをテーブルに置いた。

 

「おかえり。これは?」

 

「これはブルジョアの、あ、いえ、オレンジジュースです。かぼちゃジュースではありません」

 

「ありがとう。あとでもらおう。……どうかしたのか?」

 

 いつもならば、用事が済んだら退室するクルックスがまだ工房に留まっているのを見て狩人は声を掛けた。

 

「先日のバジリスク騒動のことです。ネフに策を寄越せと言い、お父様の弾丸を使ったのは俺です。お父様は俺を咎めるべきではないでしょうか? まだお叱りの言葉を受けておりません」

 

「無いものを出せとは難しいことを言う」

 

 クルックスは「不可能ではないのだな」と場にそぐわない感想を抱いた。

 

「俺は誰も咎める心算はない。石になった者あれど死人はいなかった。そして蛇は狩られ、虫を潰し、私は元凶の残骸の一部を手に入れた。ダンブルドア校長からは丁寧なお礼の手紙を受け取った。めでたしめでたし。──ヤーナムの狩人の物語にらしからぬ結末で私は少々驚いている。もちろん我が事のように嬉しく、誇らしい。以上だ。何か問題があったか」

 

「あれ? ネフを咎めたのではないですか?」

 

「ネフは自主的に事情を説明しに来ただけだ。俺も学徒に説明する必要があったから、早いうちに来てくれたのは聴取の手間が省けたな」

 

「『独断専行で罰を受けた』と言っていましたが……」

 

「好奇心を諫めはしたが、旅行のことは罰ではない。お気楽な旅行をしてもらいたいと思ってな……。まぁ彼は俺のことを恐ろしいと感じているようなので、そう聞こえたのだろう。あるいは君達を動かすのにそう言った方が御しやすいと感じているのか。そんなところだろうな。気にするなと君に言うし、ネフが気に病んでいるようだったら気にしていないとそれとなく伝えておいてくれ」

 

「了解しました。ところでダンブルドア校長から送られたのはお礼だけではないでしょう。質問状があったのではないですか?」

 

「ああ、学徒が回答を作成した。バジリスクを殺したモノは何かとな」

 

「回答は……どのように……」

 

「『我々の秘宝ゆえに開示困難である』と。何の捻りもなく、ありのままの回答だな」

 

「その回答は、好奇を抱かせないでしょうか?」

 

「ヤーナムと君達が外の世界に露出した以上、今さらの話だ。気にすることではない。俺達に関わると碌なことにならないとは理解したことだろう。そのためにスネイプ先生を帰した」

 

「学徒のお二人の回答は妥当であると考えます。しかしお言葉ですが、先生を帰したのは結果そうなっただけでしょう。お父様は彼が生きても死んでも、どちらでもよかったのでは?」

 

「どちらにしても私達が厄介な存在だとは認知したことだろう。加えて、一枚岩でないことまで。……私は生きて帰って欲しかったとも。実際、生きているようだ。よかったな」

 

「本当ですか? お父様はあの時怒っていたようでしたが……」

 

「まぁ、死んでしまったら死んでしまったでヤーナムに漂う遺志が増える。俺のヤーナムが減ることはなく、損にはならない。とはいえ覆らないヤーナムの外の事実を話していても仕方ない。ちゃんと生きて帰ったことは、めでたいことだろう?」

 

「それは、そうです」

 

「では、この話は終わりだな」

 

「そう、ですね」

 

 ごく自然に話は終了した。

 狩人が話を避けるということは、好ましくない話題だということだ。恐らく、まだ。

 クルックスは、追求したくなる気持ちを抑えるのに苦労しながら旅行のことを語り、次第に不安は和らいでいった。ヤーナムの外の話に目を輝かせる狩人を見ているとスネイプ先生がヤーナムを訪れた日の不機嫌は気分性のものだと思えてきたからだ。

 ひとしきり話しきった後で彼に渡す物があることを思い出した。

 

「そういえば渡す機会を失念していました。こちら、レオー様からの納税記念品だそうです」

 

「の、納税記念品? なに、その……? これまで一度も受け取ったことない物だな」

 

「中身は、レオー様の匂いがする血の酒だそうです」

 

 クルックスは、手渡した瓶を見つめる狩人の瞳が喜色に光るのを見た。

 

「おぉ……! 狂気の地産地消が行われていると俺の中で噂のカインハーストの血酒!」

 

「珍しい物だと思いますが、お父様は飲んだことがあるのですね」

 

「以前、休暇でビルゲンワースに来た時に学徒と俺に振る舞ってくれたことがあってな。……そろそろ俺にも血酒の作り方を教えてくれてもいいのにな。俺も作ってみたい」

 

「青ざめた血酒ですか? お父様の血の無駄遣いなのでは、あ、いえ、俺が制止することではありませんが。かつてのビルゲンワースの学徒が見たら血の涙を流しますよ」

 

「工作といい、最近は自分でいろいろ作ることにハマりつつある。完成したときの達成感があるからな」

 

 クルックスは先日ビルゲンワースを休暇で訪れていたレオーとの会話で、父が乳母車を蒐集していることを話してしまったことを思い出した。そのことを白状しようかどうか迷っている間に彼は古工房の奥に行っていそいそグラスを持ち出してきた。

 

「さっそくいただこうかな。クルックスもどうか?」

 

「お、俺は遠慮します。お父様の労働の対価です。それに癖になると、その、困りますから……」

 

「うん? 癖? まぁ無理にとは言わないが……」

 

「では、俺は失礼します。お父様もそろそろ連盟に顔を出して下さいね」

 

「……同士が真面目で俺は本当に鼻が高いよ……」

 

「前向きな返答と受け取りますね」

 

 クルックスは、そう言って古工房を後にした。

 トリコーンを被ろうとして髪に触れる。狩人の夢に戻れば体のほとんどは万全の元通りになる。それでも、体は仄かに海の香りがする気がした。




夏の海と記憶(下)
ネフライトの休暇計画書
 前書きにある名前入りのアイテム風テキストは、彼らが殺された場合にドロップするアイテムを想定していますが、一部のアイテムはドロップに制限があります。つまり休暇計画書を入手するために夏休み行動中のネフライトをコロコロしなければなりません。トロフィー取得条件には絡みませんが、どうせなら一揃いを揃えたいスグラホーン先生のような人々には頑張ってコロコロしていただきたいと思います。

夏の海と記憶
 生命の故郷である海は、しかし、尋常ならざる生まれ方をした仔らにとって理解のしようのない存在である。
 多くの生物にとって母である海は、彼らにとって父の遠い母に位置する。
 特にテルミは、海が怖い。
 上位者(月の狩人)を脅かす他存在が、どこからやって来るか本能で理解をしているからだ。
 深海は何かが潜む。それが普通の生物であれ、異常に属するものであれ、怖いのだ。

ネフライトの手記
 漂着神信仰。寄神(「きしん」・「よりがみ」)信仰は、世界各地に見られるものだ。
 多くの神は『天から降臨する』という神話的形式を持つ。
 海は、水平線で天と繋がる存在であり、古来より同一視されてきた。
 風に流され、波に漂いやって来た浜辺の漂着物に人々は意味を見出した。
 古くは天の来現であり、霊魂の在処であり、今はただのゴミのように非魔法族は見ているようだ。
 科学により神の在処を求めた結果、物質世界において、彼らが願う神は存在しないと悟ってから長い時間が経った。
「世界には神が不存在のままに説明の付くことが多すぎる」
 現在の非魔法族は、そのように考える人々もいるようだ。
 見つめるべき神秘を見失い、終いには、瞳を失ってしまったのだろう。海は海。大量の塩水。

 私の瞳には、見えない。
 海は。
 暗すぎるのだ。
 深すぎるのだ。
 底のない悪夢のように。
 私の瞳には、まだ見えない。


狂気の地産地消
 自分の血で酒を造り、自分で飲む。──これぞ地産地消。
 鴉がレオーを生かしている理由でもあります。


夏休みヤーナム編のプロローグ(5話)が終了いたしました。
次回より『火薬庫の残り香』編(5話)をお送りいたします。
ご感想お待ちしています(交信ポーズ)

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