劇毒
血に宿る即効性の毒であり、蓄積により割合ダメージをもたらす。
毒の強さは血質に比し、かつて血の女王に最も近しい血の証明でもあった。
ゆえに誇る従僕は皆血に溺れた。
クルックスは逃げ帰るように市街から姿を消した。
それから、彼は夕暮れまでビルゲンワースの自室に籠もって武器の手入れをして過ごした。
リボンの少女について、思い出す度に彼は言いようのない不安と恐れに囚われた。
なぜ、あんなことが起きたのか。
クルックスには、全くと言っていいほど理解できなかった。
かの少女について何か事情を知っているかもしれないのは月の香りの狩人だが、彼は今日に限って狩人の夢にいなかった。昨日まで聖杯に入り浸っているのを見たから、いつでも会えるとクルックスは過信していた。そのため、これからの予定も聞いていない。
夢のなかに手記は残してきたが、果たして彼はいつ見るものか。それさえ曖昧だ。せめて一日に一度は狩人の夢にいる人形に会うのではないかと思い、彼女にも伝言を預けてきた。とにかく、できるだけ早く『異常』として報告しなければならないだろう。
自分でも説明が付かない感情によって焦りを感じているが、ビルゲンワースの学徒へ相談しようとは思わなかった。
──あの少女の存在は、できるだけ公言したくないのだ。
『秘密にしたい』とも違う動機に戸惑う。決して嫌いという意味ではない──むしろヤーナムの民のなかでガスコイン一家は、好ましいと感じるくらいまともで温かい家庭だ。──しかし、とにかく彼女のことは思い出したくない。一刻も早く頭の中から追い出したい気分になっている。
彼にとって最も大きな問題とは、この衝動の理由が分からないことだった。悶々とした頭を振り、市街へ行くために装束を整えた。
(普段通りに過ごそう。いつものように。……妙に浮ついているような気がするから、いつもより慎重に)
深呼吸をしてからトリコーンを被り、血除けマスクを鼻の上まで引き上げる。
そして獣狩りの斧を右手に握り、彼は薄暗い学舎を発ち、再び市街へ向かった。
■ ■ ■
ガス灯が明滅する路地をクルックスは歩いていた。ときおり、目眩に似た光の瞬きを受けると地面に自分の影がくっきりと浮かび上がった。
異邦人ならば決して近寄らない夜の道を恐れることなく彼は進んだ。獣の気配は、今のところ少ない。市街には穏やかに風が流れているが、獣特有の臭いも風上から流れてこない。
時折、早まりそうになる呼吸を押さえつつ彼は哨戒を続けた。
父たる狩人は、市街にはいないらしい。彼がいつも哨戒している場所近くを歩いているが、姿はおろか銃声の音が聞こえない。珍しいことではない。どこかの悪夢を歩いているらしいので予想できた状況だが、今日ばかりは落胆した。
見上げる空は、曇天だ。
ときおり夏らしい厚ぼったい雲の隙間から三日月が鋭く月の光を差し込んでくる。
何の気なしに水路を見た。ヤーナム市街に血管のごとく張り巡らされた水路は主に下水として使われているのだという。左手に持つ松明で照らせば、地下にあたる場所には淀み腐った底が見える──ハズだった。
「……ん? 蓋がしてあるのか?」
クルックスが蓋と呼んだそれは正確には地上から地上十数メートル下に存在するであろう、下水と地上を遮る板だった。辺りをよく照らせば、ヤーナムにしては珍しくもない昇降機に似た簡単な鉄の滑車と縄が結んである。その縄の先は下水道空間と地上を遮る板に続いている。滑車があれば重い物も軽い力で動かすことが出来るとは知っている。試しに縄を引いてみると想像よりも軽い手応えで板が地下に向かって開き、虚ろで不潔な下水空間が現れた。血除けマスクではどうすることもできない臭いがする。汚物と腐肉と生活排水をよく混ぜた混合物の臭いだった。
「ぐぅ……。血の臭いへの耐性が役に立たない。違う種類の忍耐が必要なのだな……」
この臭いに辟易した周辺の住民が設置したのだろう。医療教会が社会基盤整備に人員を回す余裕があるとは思えない。
再び哨戒を始め、汚れて傷ついた石畳を街の端に向かって歩いていると獣の死骸を見つけた。俯せでいたので路地を曲がった瞬間は斧を構えてしまった。近付いて状態を確認する。この獣は、四足歩行をする二メートル近い黒い獣、狩人達の間では通称『罹患者の獣』と呼ばれるものだ。
ブーツのつま先で死体を転がした。貶めるためではない。
(死因、急所を一撃で突いている。頸椎を正確に。素晴らしい腕だ。……ただの狩人の仕業ではない。傷口が小さすぎる。市街の狩人の武器ではこうはならない……)
罹患者の獣は四足歩行をする。──ということは、その後頭部を攻撃するためには、当然敵対者は獣の位置よりも存在を悟られにくい風上の高所から攻撃する必要がある。
長く硬い毛を探り、傷口を確認する。
(棒のようなもので突かれた後、引き抜いた傷に見える)
周囲への警戒のため耳を澄ませたクルックスは、背後を振り返りざまインバネスコート越しに発砲した。
ヤーナムの夜に。
物音を立てず狩人の背後に立つ行為は敵対行為と見なしてよい。それは市街に生きる狩人達の暗黙の了解だった。だから引き金を引いた。
足音が聞こえた。いいや、正確には。
「足音が聞こえた、気が、したのだが……?」
振り返った先には、何も無かった。跳弾が消え残響がおさまれば、ただ静かな夜が残った。
だが、足音は聞き間違いではないという確信があった。
獣はまだ温かい。
この獣を殺した狩人は、そう遠くない場所にいる。
普通の狩人であれば、一声かけて射程外から声を掛けてくるハズだ。
それをしないということは敵対の意志が窺える。
クルックスは、銃を構えたまま路地を出て広い街路へ行くために走り出す。その瞬間に、その足をすくわれた。
「がッ!」
何かに足を掴まれた感覚があり、クルックスは獣の血で濡れた石畳に額をぶつけた。
異変を見つめれば縄のようなものが足に絡まっているらしいことが辛うじて分かった。
(罠だっ!)
この夜に、狩人を罠にかけようという意図は不明だが、明確な敵対の意思表示には違いない。
即座に右手の獣狩りの斧を握り直し、振り落としかけた。
「──釣れたっ! 上げな!」
頭上から、つい最近聞き覚えのある声が聞こえた。
思わず「えっ」と声を漏らし、見上げたのが間違いだった。縄が張り、足をつり上げられて天地が逆さまになる。ついでに慣性に抗えず、家屋の壁に頭を強打した。視界に毒々しい星が散り、手足の力が抜ける。痛みで麻痺しかける頭のどこかで「しまった」と思ったときには、手から斧を落としていた。
頭は割れるように痛み、血の臭いで気が立った。
「こ──のっ! 糞袋ッ! 何だ! 連盟の狩人に喧嘩を売るとは──血に酔っているのかッ!」
屋根の上に釣り上げられたクルックスは、人の手によって足を掴まれた。
そして、月の光が照らした敵対者をよく見た。
「血には酔っていないが、酔っ払いたいくらいに困ってはいるな」
「その声、え、わっ──」
すっかり見慣れてしまった銀の薄鎧が目に映る。カインハーストの狩人、レオーだ。
しかし、叫びかけたクルックスの口に無遠慮な手甲が入り込んだ。
「おっと。シッ。いい子だ。静かにしてくれよ。騒ぐと月の香りの狩人との誓約により、やむを得ず殺さなければならなくなる。──鴉、クルックスが嘔吐いているからそんなに口に手を入れなくていいぞ。下ろしてやれ」
クルックスは自分を路地から引っ張り上げた狩人を見た。片手で逆さ吊りにしているカインハーストの狩人、流血鴉と呼ばれる狩人だった。そのうち鴉はクルックスに興味がなくなったように手甲に包まれた指をクルックスの口から抜いて屋根の上に頭から落とした。
「うっ、おっ、おっ、おぇっぐ、ぎ、ぃ……っ」
喉の奥まで手甲に包まれた指を突っ込まれていたクルックスにとって、痛みとは些細な問題になっていた。口の中が裂傷だらけだ。すぐに俯せになり腹の中のものから胃液まで吐きだした。痛みと苦しみで涙が出た。
そんな彼の頭上では、暢気な会話が繰り広げられていた。
「……夜警ならば吐かなかったのだが?」
「セラフィは鍛えているし慣れているから騒ぐなんてヘマしないだろ。……いやいや、そうじゃあなくて……ダメだろ。友好的な関係を築かないといけないヤツに乱暴しちゃ。月の香りの狩人の仔だ。それに『こども』は大事だろう。ヤーナムの貴重品だ。くれぐれも丁重に顎で使って差し上げろ」
「叫ばれると困ると言ったのはレオーだ」
「それはそうなんだが、もう少し方法があるだろう。あると思わないか?」
「歯を全部折れば満足か?」
「不満足だよ。まぁいい。あとで勉強会だ。この調子ではセラフィも危ない。クルックス、大丈夫か?」
レオーが跪いて布を差し出した。
黒くてよく見えないがハンカチのようだった。受け取り、口を拭う。知らない家の匂いがした。
「だぃ、じょ、ぶです……何か、俺に、ご用ですか?」
血で汚れている顔を拭い、痛む喉でクルックスは尋ねた。
辺りを見回せば、屋根の上に人影はない。だが、高低差の激しいヤーナムにおいて人影が無いからと言って安全とは思い難い。遠くから見られている可能性があった。市街でカインハーストの騎士と話しているのを目撃され、それが医療教会の耳に入ったら──と考えると温厚な聴取では済まないだろう。
「すこし話を、と思ってな。時間は取らせんよ。だがアリバイは必要だ」
クルックスの足に引っかかったままだった縄を解き、レオーはクルックスを縛った。
「物語としては『カインハーストの騎士によって捕まって丸腰にされ、脅されたので従うことになった』という体でいこう。どうだ。ついでに『騒いだら殺す』ってことで」
「シナリオ、了解です。では俺は虜囚なので質問しますが、何かあったのですか? レオー様、と流血鴉、いえ、鴉羽の騎士様は」
後ろ手に縛られた状態になったクルックスは、さっさと用件を済ませることが先決だと考えた。彼らもその心算なのだろう。鴉は、周囲を警戒するためクルックスに背を向けて立ったままだ。そのため屋根の上で這いつくばるクルックスの問いには、レオーが答えた。
「うむ。セラフィが、いなくなってな」
「え……ッ……」
大きな声を出しそうになったクルックスは、口を噤んだ。
「しかし、大したことではないと思っている。まあ? 反抗期というか?」
「は、反抗期?」
クルックスの知識には、存在しない言葉だった。
反抗期。音だけで考えるならば、極めて反社会的な行動に思う。
「セラフィがカインハーストに徒なすなど俺が連盟員ではなくなる程度にありえないことだと思いますが」
「いやいや、大したことではないと言っただろう。相応しい言葉ではなかったな。有り体に言ってしまえば……そう……これは家出?」
「家出。セラフィが家出。…………レオー様、俺が言うべきことではないのですが」
「ならば言わない方がいいぞ。お前の後ろの鴉は、その辺の冗談が通じないヤツだから」
レオーは、鴉を方便に──真実に遠くない事実でもあるだろうが──クルックスの言葉を聞きたくなさそうにしていた。だからこそ、彼は言わなければならなかった。
「セラフィの名誉のために俺は脅しに屈するワケにはいきません。……俺達のなかで最優を争えるほど忍耐強いセラフィが耐え難いと思うのは、よほどのことですよ」
顔の見えない兜の面覆いの向こう、レオーは苦い顔をしているような気がした。
「いったい何をしたんですか?」
「……話せば長くなる。言葉の弾みのようなものでな。そう、あれば、三日ほど前のことだ」
それからレオーが語ったのは、カインハーストの奇妙な軌跡だった。
■ ■ ■
三日前。
カインハーストの回廊にて。
何事にも『きっかけ』は存在する。
今回は、セラフィの言葉だった。
「……市街には、千景の狩人がいるのですね。初めて見ました」
カインハーストの首魁、血の女王ことアンナリーゼへの謁見後にセラフィが言った。
ただの感想に過ぎないと思われたそれを聞き留めたのはレオーだ。
「何だ知らなかったのか? 市街の千景持ち狩人。あれは連盟の狩人だ。ヤーナムでは珍しい東洋人。肌の色が違うだろう? 暗くて分かりにくいか? 名前は……何と言ったか。クルックスが言っていたな。しかし発音が珍しくて覚えがたい。鴉、知っているか?」
「知っている。ナマムラと言う」
眠気が訪れているらしい鴉は兜を抱えたまま、ぼんやりした顔で答えた。
「ああ、そうそう。そんな感じの名前だったな。処刑隊の後継というか信奉者というか、あの血族狩りを名乗る狩人と時々つるんでいるヤツだろう。ナマムラ。ナマ、ヤァマムア? あれなんか違う気がする。まあ名前はどうだっていいか。それで? ソイツがどうした?」
「僕はてっきりカインハーストの騎士だと思って声を掛けてしまったのです」
カインハーストの先達の反応は珍しく一致した。
鴉が眠気から醒めた顔をして困惑した。レオーに至っては、雪に足を取られて吹きだまりで滑りかけた。
「なんて?」
「千景はアンナリーゼ様の近衛だけに帯刀が許される仕掛け武器です。なのでワケあって今は市街にいる元騎士だと思ったのです。……違いましたけれど」
セラフィが「例外は、よくない」と微かに苛立ちを込めて言った。
「鴉羽の騎士様、どうしてあの狩人を野放しにしているのですか? 全ての千景はカインハーストのものです。そして彼は騎士ではありませんでした。千景は回収すべきでは?」
「あの千景はいつぞの騎士より託された物だ。女王の命なくば我らが召し上ぐことあたわず。従前のとおり対応している」
「しかし、女王様は市街の狩人の事情をご存じない。命じる可能性はないでしょう?」
「無いとは言えないが」
鴉は、可能性としてゼロではないこと厳密に表現した結果、曖昧な物言いになったことを自覚していたようだ。そのためセラフィは嬉々として──その顔は平時と変わりないが、スキップでもしそうなほどに弾みのある足取りで──言葉を返した。
「時には意を汲む必要があると思います。いかがですか? 僕が先駆けとなりましょう」
「不要だ」
「むむ。僕は要るのではないかという話をしているのです。なぜ不要なのですか?」
「狩人の遺志とは継がれるものだ。遙か先達が異邦人に渡した物であっても同じこと。そして我らが正しく血の狩人ならば、かつての先達の遺志を尊ぶべきなのだ。彼がいずれ手放す時まで傍観せよ」
「そう、ですか。僕は貴方の言葉を理解します。……しかし、託した遺志さえカインハーストに帰属すべきだと思いますが……」
「古きを尊ぶがいい。遺志とは、託された者が継ぐのだ。それが最も相応しい」
「むぅ。元はカインハーストの仕掛け武器なのに……」
セラフィが、レオーや鴉が帯刀する千景に目を落とした。
「その辺は、故人の事情があったのだろう。分かれよ、セラフィ」
「僕は理解しています。せいぜい傍観するとしましょう。──けれど、もし彼が獣や血に酔った狩人に殺された場合は回収してもよろしいですね? 連盟や医療教会に回収されるのは、好ましい事態ではないと思いますから」
「いいだろう。鴉もいいな?」
鴉は無言で頷きもしなかった。長い付き合いでレオーはそれを了承と受け取った。
話がひとつ終わったところでレオーがセラフィに訊ねた。
「なぁ、セラフィ。なんだって騎士だと思ったんだ? 月の香りの狩人を除けばカインハーストの騎士は、俺達二人しかいないとは分かっていたことだろう?」
「ええ。もちろん。先達の数は間違えません。けれど千景持ちの姿を見かけて『先達にも話しにくい事情があるのかな?』とか。そも千景の窃盗犯とも考えられました。どうにも放ってはおけなかったのです」
セラフィは、カインハーストの先達の騎士達をよく慕っていた。彼らの話はよく聞き、学ぶことも多くあった。
だが、彼らの意向により市街に関わる情報は限定されていた。狩人ならば自らの耳目で知るべきだ。そんな方針があるからだ。そのため、セラフィは市街で比較的有名な狩人にあたる連盟の東洋人について知らなかった。
「それに……その……」
セラフィが初めて口ごもった。
いつも明朗に話す彼女にしては珍しい。
レオーが続きを促した。
「昨夜、道に迷いました」
「それは人生とかそういう?」
「いいえ、昨日は空が見えない日でしたから、暗がりに入ると方角が分からなくなってしまったのです。僕の人生については、カインハーストと共にあるので明るいですよ」
「…………」
「え。あ、そう? うんうん、それでそれで?」
レオーは、鴉が細い切れ長の眼でセラフィを見ていることに気付いた。その険のある眼はよく知っている。彼がよからぬことをしでかす前の眼だ。好悪どちらの感情を抱いても彼の表現は実に直接的であり、しかも血を求める傾向にある。無用な血を流さないようにレオーは、慌てて続きを促した。
「ええ。そこで通りすがったその狩人について行けば市街まで出られるかもしれない、と思って尾行したのですが、枯れ木を踏んでしまい……結局、バレて……道に迷っていたとは言えないですから、仕方なく千景の件を質問したという成り行きがあります」
「本当に成り行きだな、おい。もうすこしロマンチックな出会いかと心配したぜ。……しかし少々盲点ではあったな。俺達は市街のことは知り尽くしているからな、まさか道に迷う事態が起きるとは考えていなかった。さァて、どうしたものかな」
「地図はないのですか?」
「あるにはある。医療教会の狩人が持っていた市街図だな」
「では学習したいです。それは工房に──」
「屋上を飛べばよい。降りるのは殺すときだけだ」
どこに仕舞っているか思い出そうとしたレオーに、鴉が口を挟んだ。しかし、その左手がしっかり千景の鞘を握っているのをレオーは見逃さなかった。今日はいったい何が彼の気に触れたのか。付き合いの長いレオーでさえ分からない。
「自分ができることをむやみやたらに他人に要求するものではない。夜のヤーナムを自由に飛び回って平気なのはお前くらいだろう。あいや、狩人狩りがいたな? ほう、お前も二番手に甘んじることがあるらしい」
「ヤーナムに鴉は二羽要らない。いずれ私が最優だ。──当分は足で覚えるしかないだろう。書物の知識など薄っぺらなものだ」
「夜に悠長なことはできないことが問題なのだ。それとも、お前が道案内でもするか?」
「悪い選択ではない」
レオーと鴉が検討を始める頃、セラフィが輪郭のある声で告げた。
「いいえ、ダメです。鴉羽の騎士様、レオー様も。お二人にご迷惑をかけることなく、僕は果たして見せましょう。大丈夫ですよ。僕は独りでもちゃんと歩けますから。そうとなれば善は急げというもの」
「……?」
レオーと鴉は顔を見合わせた。
彼らが市街へ出向くのは、狩りのためだ。そのためだけに赴く。
だからこそ、セラフィが意図することが思いつかなかったのだ。
「今年の夏の目標は決まりました。僕はヤーナム市街を迷わないように歩けるようになります」
「いやいや、待って待って。そう急がなくてもいいだろう。いいと思うなァ、俺は! 夜に少しずつ歩けば道は覚えるだろう! なぁ鴉! そうだよな!?」
「私はお前に地下の箱の整理を命じたのだが?」
「帰ったらやります。しかし、今年の夏の間に到底終わらない作業です。見通しが立つまで、お時間をいただきたいです。夏休みが終わる前に一次報告をしましょう」
「……ふむ」
「なんでこんな時だけお行儀良く引き下がるの? 俺の背中を撃つの大好きだよな、お前ってヤツは。心から愛せる。あー! な、なぁ、セラフィ、朝の市街と夜の市街では見え方も違うし、参考にならないと思うんだよ。だ、だからな──!」
「そうだとしても朝も夜もない下水などの地下には学ぶことも多くあるでしょう。そして、僕は市街の知識でもクルックスに劣るわけにはいきません。『きょうだい』のなかで最も強くあらねば! では市街へ行っていきます。目隠しをしても歩けるほどに覚えて参りましょう。失礼します! いざ行かんっ!」
レオーが止めるが、すこしだけ遅かった。
外界に面した石像立ち並ぶ回廊を歩いていたセラフィの姿が一瞬だけ吹雪に消える。
雪に目を細めた彼が再び明瞭な視界を手に入れた頃、セラフィは夢に身を溶かしていた。
「ぐうぅっ。やってしまった。セラフィが市街に! あぁ、あぁ、ダメだ、ダメだ。連れ戻さなければ! 今すぐに! 行くぞっ、鴉!」
「私は眠いのだが? 何を焦っている……」
「心配しているんだッ! 明るい市街には誘惑がたくさんある! 悪意も! セラフィは箱入りどころか聖杯入りだったから善も悪も判断がつかないだろう。なんせ人生経験というものが全然無いのだからな! 医療教会に捕まったカインハーストがどうなるかまだ説教が足りなかったか!? あああっこうしてはいられないっ!」
「セラフィがカインハースト以外に心移すワケがないのだが?」
「明るい人生設計を教えてくれてありがとう! そうだ! そうだとも! だが若い心というものは俺達が思いもよらない無茶をやらかす。心当たりがないとは言わせないぞ」
疲れたのだろうか。鴉は、ひとつ息を吐く。
昼の日差しに輝きつつあるカインハーストの湖を眺めていた。
■ ■ ■
クルックスは、セラフィがカインハーストで鍛錬に明け暮れながらも自由に過ごしていると思っていた。その認識は概ね正しいものだったが、ほんの少しだけ窮屈に感じることはないだろうかと疑問に思った。
「それを家出というのは言い過ぎではないかと……」
「だが、便りも寄越さないのだ。遠出するときはいつも日をまたぐことなく連絡を寄越すというのに。ここ数日、狩人の夢や市街でセラフィと会っていないか?」
「会っていないです。ビルゲンワースにもいません。……市街は広い。俺は街の中央にいましたが、地下や端の方から探索しているのかもしれませんよ」
「そう、か」
レオーがガックリ肩を落とした。クルックスが願ったように彼はセラフィを大切に思っているようだ。ならばクルックスも彼に応えなければならない。
「そうだ。夢のなかに手記を置いておきましょう。武器の手入れで必ず寄るはずです。それにカインハーストにただちに戻るように書いておきます。もちろん、俺が会ったときはこのことを伝えましょう。……これで、いかがですか?」
「ああ、うん、それなら……。悪い。手間をかけさせるな」
「いいえ。大したことではありません」
レオーがようやく了解を告げ、クルックスは微かに笑った。カインハーストの絆は重い。けれど、きっとセラフィにとっては窮屈ではないのだろう。そこには確かな情があると思えたからだ。
「セラフィは、一度熱が入るとどうにも冷めにくい質のようですね。市街のいろいろなものを見ているのでしょう」
「悪い輩に捕まっていなければいいんだがな。セラフィは、いつも帽子を深く被っているだけだろう。顔は割れていないだろうが……それでもな。目敏いヤツは気付くものだ。カインハーストにありがちな髪色でもある。金と銀は特に。まさかとは思うが、警戒しすぎることもない」
「…………」
よくよく見れば、レオーと鴉は銀色の髪だ。
もうひとつの『ありがちな髪色』とは金色であるらしい。その言葉にクルックスは、昼間に出会ったガスコイン神父の娘を思い出した。すぐに「ありえない」と首を振った。
「──どうした?」
「レオー様は市街にカインハーストの末裔がどれほどいるか、ご存じなのですか?」
「ん? ああ、それは…………──いや、なぜ聞く?」
応えは鋭い問いかけに変わった。
クルックスは首筋を刺すような視線を感じた。背後で鴉が見つめているのだろう。それは殺気が帯びてもおかしくないほどに強いものだった。
「金と銀の髪色が特徴だとおっしゃいました。……それはどれほどの割合で?」
クルックスの質問にレオーは、わずかに沈黙を挟んだ。
(躊躇だろうか。──違う。そんな甘いものではない。右手は常に千景を抜ける場所にある)
慎重に言葉を選び、クルックスは事情を話した。
「今日、出会った人が金色の髪でした。その人は狩人でもないのに俺の『月の香り』のことを言い当ててみせた。悪夢のことに勘付いたのかもしれない。その洞察はカインハーストの由来の血によるものだろうかと。俺は、気になっていて……」
「ほお。殺したか?」
「っ。いえっ、まさか。お父様に判断を仰いでから……と。敵にはなりえない。相手は、ただの市民です」
「どうせ夢が巡れば元通りだ。殺してしまえばよかったろう。疑問など後から拾えばよい。まぁ、殺さずとも夢が巡れば同じことだが。──そう恐れる顔をするなよ。種明かしをしてやるんだから」
「種明かし?」
「カインハーストのお貴族様が知りたがりの月の仔に教えてやろうと言っているのだ。結論から言ってしまえば、カインハーストの血縁とは限らん。そいつの傍にいくつかの夜『月の香りの狩人』だった者がいたのだろう。その香りを覚えていたのかもな。……狩人の生の痕跡が香りにさえ遺るとはロマンのある話じゃあないか」
では必ずしもカインハーストに由縁があるわけではないようだ。
クルックスは、強ばっていた肩から力を抜いて「ありがとうございます」と質問への礼を述べた。
冷え冷えした声で笑ったレオーは、立ち上がった。
「さて、お互いに用件は済んだ。質問に答えたのだ。もはや『ただ働き』とは言わせんぞ」
「ああ、そういう理由で答えてくれたんですか。貸し借りを思ったことはありませんでしたがそういうことであればそのように。レオー様のお願いならば俺は必ず果たして見せましょう」
「大事だぞ、貸し借りは。ヤーナムでは特にな。狩人社会は意地と矜持で成り立っているから──というかさ、なんで俺が指導してるの? 月の香りの狩人の仕事だぞ、これ。助言者、しっかりしろ。……相変わらずお前といると調子が狂う」
すみませんと言いかけたクルックスの頭にレオーは軽く拳を落とした。声は穏やかなものだった。
「またいつか学舎で会おう。それまで獣狩りでもしていることだ。せいぜい街を清潔にしてな。──鴉、やれ」
レオーが命じる。
解放されるのだろう。縄が解けないだろうかと身動きしていたクルックスは、突然、焼けるような胸の痛みに襲われた。
「えっ」
三人の口から、それぞれの思惑による言葉が溢れた。
クルックスは、胸を貫いた千景の切っ先を見ていた。
頭が真っ白になるほどの痛みだった。
痛みにもがき、仰け反る。そして鴉が被るカインの兜を見ていた。銀色の兜は、月の光を無情なまでに弾いていた。
「……ど、どうして? え? なぜ? 貴方……? 流血、鴉……」
血除けのマスクは用を成さなくなっていた。
なんせ血が内側から溢れているのだ。
自分の血に溺れそうになりながらクルックスは、痛みのなか唖然とした。なぜ、この場で鴉に攻撃されるかまったく分からなかった。しかも、最悪な事態はまだ続く。
なんと指示をしたレオーも予想外の鴉の行動であったらしい。
未だ千景に貫かれたままのクルックスの体を支え、悲鳴を上げた。
「なっ何で刺してるのーッ!?」
「『やれ』とは『殺せ』という意味ではないのか……?」
鴉は首を傾げていた。
疑問を口にして首を傾げる行為は、テルミがするから可愛げのある仕草なのだとクルックスは心底思った。彼が同じ所作をしても不気味であり、何を考えているか分からない動機の不明さが現状の混沌に拍車を掛けていた。
「それは……そうなんだけど! 時と場合によるだろ!? コイツが殺していいヤツに見えるか?」
「ああ。夢に帰るのならば、これが一番早い」
気の遠くなりそうな意識のなかで理解が及びそうで及ばないギリギリの動機だった。
レオーにとっては思いがけない行動であるが、鴉にとっては道理ある行動であったらしい。それにしてもレオーは言葉を失っているようだ。それから言い返すことはなかった。
「──おい、しっかりしろ。輸血液はどこだ?」
外套の裏を視線で伝え、場所を促す。
しかし、急所を穿たれている今、輸血液での再生は怪しい傷だと頭の冷静な場所は指摘する。口を開く気力は痛みのせいで挫けていた。
輸血液と注射器を見つけ出したレオーがコルクに針を入れた。
「いま血を入れる。目を開けてろ、寝ると死ぬぞ。鴉、まだ千景を抜くなよ。血を入れながら、ゆっくり抜いて──」
「いいのか? 私の千景は、高血質の劇毒だが」
「早く抜け、バカっ!」
勢いよく千景が引き抜かれた。
栓となっていた楔が抜けたことで止めどなく血が溢れた。
失血と毒でクルックスの命は、さほど長くなかった。
死期迫る脳内では痛みの感受性が麻痺しているようだ。
生の実感は鈍い痛みと熱であり、死は冷感だった。
今さら縄から解かれた遠くにあるように感じる手で、胸の空洞を指でなぞる。
月の光で明るかったハズの視界が暗い。
指先の感覚だけが明敏であり、ふと路地の獣を思い出した。
(あれは違う。あれは、千景の傷跡ではない)
死んでいる獣は、その周辺に仕掛けられた罠から考えてカインハーストの騎士達が仕留めたものだと思っていた。
だが、千景の傷跡は刃の形として線の如く細い長方形あるいは菱形となる。だが、獣の傷跡は──内側から引き裂かれた肉で分かりにくいが──きっと円形だった。そして、あの獣は、きっとまだ温かいだろう。
「レオー、さ……下の獣……獣は、誰が殺したんだ……?」
「は? 獣? 記憶が混濁しているのか? 動くなよ、いま針を刺してるから……」
クルックスは、失いつつある五感で必死にレオーのマントに爪を立てた。
「狩人だっ! 獣を殺した、狩人が、まだっ、どこか、近くにいる──」
息が切れる。
もう指先一つ動かせないと思える肉体の限界だった。
それでも意志は繋がった。
「レオー、我が先達。時間切れだ」
「なに──っ!?」
鴉がクルックスを路地めがけて蹴り落とした。レオーが彼の暴挙に声を荒げる暇はなかった。クルックスの体を受け止めようと手を伸ばし、平衡を失って共に路地に落ちていくレオーは、空を見た。
一筋の銀の光が、ほんの数秒まで頭があった虚空を貫く。
間髪入れずに鴉が放ったカウンターの銃撃が、市街地に轟いた。
「光──違う、矢か! 医療教会の射手かッ!? くそ、こんな時に! いったいどこから──!?」
闇夜の奥から鋼鉄の弦が張り詰め、そして弾ける音が立て続けに響いた。そして、それらを掻き消す重々しい銃撃音。
クルックスを庇い半身を地面に打ち付けて着地したレオーは、痛みに怯む体を叱咤し立ち上がった。
この夜。
レオーは幸運だった。
「何者だっ!?」
後方から声が聞こえた。
振り返ったのは、互いに同時だった。
死んでいる獣を調べていた狩人が振り返る。
狩人の証を白く刻んだ分厚い白の法衣。闇夜にギラついて輝く金色のアルデオ。そして、血と怨念混じる車輪を握る──処刑隊の男がいた。
「──カインハースト!」
「おっと。動くな。コイツの中身が見たいのなら別だがな」
クルックスの体を抱えたレオーが千景を抜いた。
月光を弾く緩やかな曲線がクルックスの首筋に添えられたのを見て、狩人が足を止めた。
「っ! 卑怯な男ッ! 人質などと! まだ子どもですよ!」
処刑隊。
カインハーストと共に歴史の闇に消えた組織の名前を、ヤーナム広しと言えど名乗る者は、いまや一人しかない。
ただ一人の処刑隊。
ただ一人の血族狩り。
熱狂的な信奉者、名をアルフレートと言う。
「人質!? 人質だと!? ククク、お前達の命には途方もない価値があるような言い方をするのだな。真価を教えてやる必要があるらしい。──お前達が、我が血にそうしたようにッ!」
血を濃厚にまとわせた千景の刃は、クルックスの首を深く撫でた。
致死に至る傷であり、彼の意識は血肉より先に途切れた。
激高したアルフレートが叫び、レオーが狂気を得て嗤う。
多くの血族を挽き潰した車輪は、新たな犠牲者を求め怨霊が溢れ出た。
応じる千景は穢れた血に塗れ、それは毒となり敵対者を蝕むことだろう。
一方では、弦が弾け、銃口は火を噴き、射線をかわしながら千景が青い火花を散らす。
得物が振るわれる度に彼らは血を流し、あるいは肉を潰していくだろう。
クルックスの首を切る直前、彼の最期にレオーは言った。
「あぁ、本当に悪いと思ってる。こどもは貴重品だ。だから、こんなに都合が良い。──愛してるぜ」
あの日、ビルゲンワースで語り合った穏やかな口調のままに、そう言った。
だから。
闇夜に聞こえた彼の言葉は、全てクルックスの幻聴であったかもしれない。
市街の硝煙
因果は巡る
ここで問題です。一番悪いのは誰でしょう。──これに関しては、クルックスの回答が気になるところです。
それぞれの動機にあるのは同胞を思いやる気持ちなのですが、各々の所属の社会的立場と個人的な感情が何もかも台無しにした状況です。こんなんばっかりだなヤーナム。この間の悪さ、ひょっとして呪われているのか?
鴉の理屈
鴉は時間に偏執的なこだわりを持っているので明確な時刻設定をしないと彼のなかでは「ただちにやります」の意を持つため、他殺RTAが始まってしまいました。これが一番早いと思います。
(誤)「夢のなかに手記を置いておきましょう」
(正)「夜が明けたら夢のなかに手記を(略)」
この話し方ならば後ろからヤられることはなかったでしょう。セラフィは鴉のこだわりを知っているため、終了の時刻は設定せず、ひとまず報告時間だけを設定しました。しかもかなりゆとりをもって。中間報告ではなく一次報告すると述べたあたりも彼女の経験値がうかがえます。
幻聴?
死の間際に聞こえた都合のいい言葉だったのかもしれません。あるいは実際にレオーが囁いたのかもしれません。とはいえ狂気と殺意で最高にハイになっているレオーが彼を気遣えたかどうかはとても怪しいところです。でも愛情深い男ですから本当に言ったのかもしれません。
ところで愛しているのは本心らしいですが、クルックスを道具として使うには躊躇しませんでした。経験に裏打ちされた殺意はどんな輸血液よりも彼に生きる力を与えてくれます。レオーが長い夜で正気を保っている原因なのかもしれません。──貴公、よい狩人だな。
ガスコイン神父の娘
狩人が少女を恐れる理由をクルックスはまだ知りません。まだ昔、何かあったのかな、と思う程度です。テルミのような少女が苦手なこと、それから少女観察日記を付けていることは知っています。
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