甘き夜明けよ、来たれ   作:ノノギギ騎士団

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ピグマリオンの手記(1)
医療教会の黒服、ピグマリオンの自書。
夢を悟り、夜明けを待ちわびる病み人の記憶と事実を書き記したもの。
なんら技巧を用いず、平易な言葉で綴られた物は、故に彼の心を語る物である。
──誰かがこれを見る時、私はもうこの世にいないでしょう。



上層から見えるもの

 医療教会上層。

 東西南北に広がるヤーナム市街を眼下に見下ろす高所は、彼らを統括する医療教会、その高位の医療者達の住まいである。

 医療教会の二大会派のひとつ、聖歌隊。

 彼らの居住区も上層に存在し、一角には私設孤児院を抱えている。

 

 医療教会上層、孤児院。

 月の香りの狩人の仔、テルミがヤーナムでの時間を過ごす場所であり、聖歌隊にとっては後進の育成するヤーナム屈指の教育機関であり、そして最も重要な機能とは秘められた実験場でもある。

 

「──さぁ、子供たち。夜の歌の時間は終わりですよ。皆、寝室に行きなさい」

 

 聖歌隊が管轄する孤児院の院長を勤めているのは、老年にさしかかりつつある聖歌隊の男性である。

 聖歌隊服の一式に身を包み、また頭には代表的な服装の一つである目隠し帽子を被っている。

 優しげな院長に促され、小さな音楽室にいた数十人の子供は二列になって部屋を後にした。

 

 時刻は夜。二一時を回っていた。

 市街で発砲する音は、上層にも細く甲高い音で届く。

 

 一番後ろを歩くテルミは、通りがかった窓の向こうに銃声を聞いて足を止めた。

 その音は、特にも高音で特徴的な銃声である。カインハーストの騎士達が好んで使うエヴェリンの音だ。

 

(下は、忙しいこと)

 

 テルミは、ほんのすこしでも市街が見えないかと背伸びをした。

 

「おやおや、テルミ。市街に行きたいのですか?」

 

「いいえ、院長先生。ただ……煙が見えるものですから」

 

 背伸びしたテルミに見えたのは、一筋の煙だけだった。

 院長も窓を見て足を止めた。

 

「本当だ。煙が見えますね。見回りの黒服が獣除けのついでに暖を取っているのでしょう」

 

「ええ。でも院長先生。あの煙、位置が……? 市街のものかしら?」

 

 立ち上る煙は、遠近の感覚がつかみにくい。煙は、炎の上にまっすぐ立つように見えて風の影響をよく受ける。テルミの目には、市街より近く、上層の地面より低い場所で焚かれている煙に見えた。

 

「むむ? たしかに。谷底から上っているように見えますね。方角的には医療教会の工房付近でしょうか……?」

 

「あら。教会工房は市街のなかにあると思っておりました。遠いと不便でしょう。市街の端にあるのですね」

 

「ええ。時の教区長が『威圧するのはよくない』と市街からすこしだけ離れた谷間に塔を建てたのです。あの火薬庫達もそうですが工房というものをよく思わない民が多いのですよ。特に教会の工房には神の剣の権威があります。市民はそれを恐れているのでしょう。また、彼らは火薬を扱っています。単純に危ないですからね。現に火薬庫は火薬庫しましたし」

 

「そうなのですか。民の心というものはわかりませんね」

 

「ええ」

 

 窓を離れ歩き出したテルミは、院長に肩を触れられた。

 不快だ。

 テルミは、困り顔で院長を見上げた。

 

「……うーん、院長先生?」

 

「教会の工房について興味があるのだね? 特別な講習をしてあげようか」

 

「いえ、わたし」

 

 院長は腰を屈める。

 小さな体のテルミは自分の影が大人の影と重なり、すっかり輪郭が見えなくなってしまったのを見ていた。

 

「先日聖歌隊に迎い入れられた子達は、幸せに暮らしているよ」

 

 年相応の低い声で彼は言った。

 ヤーナムにおける搾取は、多くの場合、大人の形をしている。

 

「賢い君なら分かるだろう。君は聖歌隊になるべくして生まれてきた子だ。君のためを想って言っているんだよ。評価には特別な色を付けてあげたいんだ。冷たい診察台は嫌だろう?」

 

「…………」

 

 テルミは、顔が見られないことをいいことに視線を斜め上に飛ばして肩の力を抜いた。

 それを了承としたのか院長がニコニコと笑った。

 笑顔を消し去るためにテルミは白い法衣のポケットに入れていた杖を抜き、院長に突きつけた。

 

「なにを」

 

コンファンド 錯乱せよ

 

 彼の目は見えないが、ポカンと開いた口から「あ~」と間の抜けた声が漏れ出した。

 テルミは、するりと院長の手から逃れて彼の背中を押した。

 

「さぁ、院長先生。お部屋に行ってお休みになってくださいな。大人なのですからひとりで『おねんね』できるでしょう?」

 

「あぁ……そう、しよう……かなぁ……」

 

「そうしなさい。触らないで。いいえ、こんなことでわたしは穢れませんけれどね? 単純にお父様以外の大人の男性ってたいていが不快な存在ですから」

 

 テルミは、ふらふらした足取りで暗い廊下へ去って行く院長を見送った。

 そして向き合ったのは窓だ。

 

アロホモラ 開け

 

 両開きの窓は、呪文を受けてパッと開いた。

 窓枠につかまり、呼吸を整える。

 やがてテルミは夜の上層地区に飛びだした。

 

「アハッ。魔法って便利。ヤーナムには効き過ぎる毒だわ。だって誰も想像さえしていないのですから!」

 

 地上二階。

 身を丸めて斜面に落ちる。衝撃は逃がしたが、痛みはある。それに耐えきり、テルミは聖歌隊孤児院服にくっついた小枝を手で抓んで払い、立ち上がった。

 

「クルックスもセラフィも頑張っているみたいだし、わたしも頑張らなくてはいけませんね。それに今日は月が綺麗。ちょっとした冒険をするには、きっと相応しい日になるわ」

 

 テルミは夜の上層を歩き出す。

 手にした仕込み杖は、すっかり使い慣れた。供歩きの頼もしい相棒だった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 テルミは金色の髪をたなびかせ、上層を歩いた。

 市街への行き方は知っていた。

 上層から市街へ行く道は一つしかないからだ。

 

 風の強い道を歩く。

 市街へ行く先の門には、二人の黒服が門番として立っていた。

 

 背中に、そろりと近寄り杖を向けた。

 

ペトリフィカス・トタルス 石になれ

 

 バッタリ倒れた隣の黒服に気を取られ、もうひとりの彼はテルミに気付かなかった。

 

「──お前、ど、どうした!?」

 

コンファンド 錯乱せよ

 

 白昼夢をみているのだろうか。ぽやっと顔になった黒服の彼の脇を通り過ぎ、テルミは市街への門に杖を向けた。あっさりと鍵が開いた石扉だが開くのは容易ではなかった。とても重い。

 

「ンンっ? んむむ……!? クルックスなら、こういう時あっさり開けちゃうんでしょうけど……わたしには……お、重ぃっ……で、でも、ここまで来て諦めたくは……ないわね……!」

 

 テルミの細腕は見かけより力量があるものだったが、それでも重いものは重いと感じる。

 格闘の末、数分。

 ようやく頭が通れる程度の間隙を作ることに成功し、テルミは扉をくぐり抜けた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 誰かがこれを見る時、私はもうこの世にいないでしょう。

 この手記は医療教会の黒、ピグマリオンが見聞した内容を記憶の限り、記録したものです。

 

 ここまで書いたところで、私は手記を取り上げられ、この文書を便宜上の上司に見られました。返却される時、彼は小馬鹿にしたように鼻を鳴らしました。もういっそ「言いたいことを言ってくれ」という気分になりましたが、それで辛辣かつ真っ当な批評がされることは目に見えていました。……便宜上の上司は、賢く知性的な御仁です。とてもとても口論で勝てるとは思えません。病人だからといって手加減はしてくれないようです。私はそれが嬉しくもあり、悲しくもあり。私は、まだ相応しい感情を表す言葉を見つけることができません。

 

 そんな彼からの言葉を受けて正気でいられるほど私は心穏やかな人間ではないため、死ぬほど恥ずかしい思いをして、このように文字が震えるだけで済みました。傷は浅いですよ、私。

 私は、生きてさえいれば大抵のことはどうでもいいのですから、こんなこと別に、気にしないのですが……ときおり生きているからこんな目にあうんだよなぁ、と思ってしまうこともあります……。私の生活は溜め息ばかりです。

 

 さて、私の近況から記録を始めましょう。

 

 月の香りの狩人は、約束したように週に一度の輸血液を必ず持って来てくれました。

 このお陰で誰の手も借りずに生活が出来ていると言って過言ではありません。これがなければ時が巡る悪夢の日を待たず、私はベッドで寝返りを打つこともままならず血を吐いては上司に迷惑をかけていたことでしょう。

 

 ああ、悪夢の日とは、私が勝手に命名しました。上司も共通認識を持ってくれていたので二人の間で使う単語として問題はないと思います。

 

 生活はできていますが私の体は、あまり良い具合ではありません。

 呼吸もできます。生活もできます。戦闘だって可能です。

 

 しかし、どうしてもたまらなく息が苦しいことがあります。

 このまま死んでしまうのではないか。そう思ってしまうほどに苦しい時間です。この時間の訪れだけが、今も昔も私の悩みの種です。

 

 輸血液の効果が薄くなる日は特に、月の香りの狩人の足音が待ち遠しく思えます。

 

 とはいえ、仕方のないことだと理解はしています。

 輸血の医療を受けなければ半年を待たず朽ちる体を──医療──この言葉に思うことは多々ありますが他の言葉も知りませんのでこのように表現します──で無理矢理に延命させているため、いよいよガタがきているのでしょう。

 

 無理を通せば道理が引っ込むとはよく言ったものです。

 

 本来、生きていないハズのものを生かしているのならばおかしくなって当然です。私の中身はもはや道理などあってないものに成り果てているのかもしれません。

 

 それでも生にすがる我が身を私は愛おしく、忌まわしく思っています。

 人間として歪んだ生き方には違いありません。

 それでも……私は、まだ生きていたいのです。

 

 ここまで書いたところで、ふと思いついたのですが。

 獣とは、ひょっとして、こうした病み人の成れの果ての姿なのかもしれません。

 体の中身が、まったく違うものに成り果ててしまう。その変化の先が獣である、とか。

 

 そのことを上司にそれとなく話してみたところ。

 

 彼の趣味である瀉血を勧められましたが、私の場合、体力を徒に消耗するだけなので申し訳ない気持ちでお断りしました。

 まぁ実のところ書き残すほど申し訳ないとはちっとも思っていないですが、断るときにそのような態度を取ったので記録として書いておきます。そのため未来の私、忘れずに「瀉血する体力があればな~」という顔をしてください。頼みましたよ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 これまで書いた文章を読み返し、ピグマリオンはペンを取りかけ、手記を閉じた。

 

「……ッ……ッ……」

 

 立て続けの咳が起こり、左手で口を押さえた。ひどく苦しい。

 

 彼が座っているのは、市街と上層の谷間にある捨てられた古工房の外だった。

 

 便宜上の上司である教会の暗殺者、ブラドーは屋内で仕事中だ。

 ここ一年ばかりピグマリオンの仕事とは、市街の地図を作成しつつ彼を守ることだった。

 もちろん、これまで訪れたことがある敵対者はいない。

 夜は深まりつつある。

 今日も捨てられた古工房に訪れる人はいないかもしれない。

 

 できる限りの深呼吸を心がけ、ピグマリオンは胸に手を当てた。口の中に広がる鉄の味は、しばしば彼を動揺させた。肺の震えるような呼吸を繰り返し、ただ時が過ぎるのを待った。

 

 ブラドーは工房のなかにいても構わないと言った。夏とはいえ夜風は冷える。お主の体には酷だろう、とも。だが、ピグマリオンは固辞した。肺患いは感染するものだ。万が一のことがあればピグマリオンは責任が取れないのだ。そのため食事や睡眠以外のほとんどの時間を彼は工房の軒下に置いた椅子で過ごしていた。

 

 今日も市街以外は比較的穏やかな日で終わるのだろう。

 錫の鎖を手繰り、懐中時計を確認する。時刻は二十三時。

 

「日の出まで、もうすこし……もうすこしだ……」

 

 明日になれば月の香りの狩人が、輸血液を持って来てくれるだろう。

 それを拝領すれば、この体の軋むような痛みともしばしの別れができる。

 背もたれに寄りかかりピグマリオンは、ぼんやりと月を見た。

 

 血の抜けた青白い月だ。

 

 ピグマリオンは、古い記憶を辿る。

 彼は多くの狩人と同じく昨年まで二〇〇年以上、市街を彷徨っていた。

 毎年、概ね同じ行動をして、同じ結果を招き、同じことを感じていた。そのことに疑問を抱くことなく生活していた。疑問を抱く智慧がなかったからだ。

 しかし、この古工房に至り頭の中で何かが炸裂し知が蕩け、結びつく感覚を得てピグマリオンは我が身の置かれた現状を理解した。

 

 すなわちヤーナムが陥っている、まさしく悪夢の世界を識った。

 

 時間は進んでいる。だが一年経てば、進んだ分が戻る。そして、真新しい見慣れた一年が『また』はじまる。

 

 この繰り返される時間に月の香りの狩人がどのような意味を見出しているのか。ピグマリオンには理解が出来ない。ブラドーもまだ理解が出来ていないのだろう。しかし、ブラドーは都合が良いと感じているのかもしれない。少なくとも医療教会のお偉方に重大な問題として密告するつもりはないようだ。

 

 都合が良いと感じているのは、ブラドーだけではない。

 ピグマリオンもそう思っている。

 認めなければならない心情には気付いていた。

 

 時間が進まないということは、死ぬことがないということだ。

 こうして息苦しく苦しむことはある。それでも死ぬことはない。未来の生が確実に保証されているという点で、現在のヤーナムは「それでも生きたい」と願うピグマリオンにとって都合が良すぎるものだ。

 

 だからこそ、不安にもなる。

 

 すでに自分の体が『まとも』ではないように世界が、街がもはや『まとも』ではない。重篤な事態であると言える。

 

 今後のヤーナムはどうなるのだろう。

 ヤーナムにしては狂ったように穏やかな時間がこれからも続いていくのか。それとも、ある日を境にパッタリ途切れてしまうのだろうか。

 

 繰り返した時間の先、血の医療の果てを見たいと願っているピグマリオンだが体が持つかどうかは相変わらず分の悪い賭けだ。

 

 再び咳がこみ上げ、ピグマリオンは身を丸めた。

 呼吸は細く、喉の奥でヒュゥヒュゥと虚ろに鳴った。

 

 いつ終わるとも分からない咳を吐き出す。

 そんな彼には、ふと思うことがあった。

 

(……私は、どこで死んだのだろう……)

 

 ピグマリオンは、おかしな事態になる以前の出来事を思い出そうと眉を寄せた。

 

 彼の最も古い記憶にある月は、青白い月ではなかった。しかし、旧市街の浄化作戦を知る古狩人が言う『赤い月』を見た記憶もない。ということは赤い月が訪れたヤーナムの末期を見ることなく自分は死んでしまったのだろうか。それとも思い出すと正気ではいられないため我知らず理性が蓋をしているのだろうか。

 

 ピグマリオンにとっては、遙か未来の話。

 そして。

 月の香りの狩人にとっては、過去の話だ。

 

 全てを記憶することができない彼には辿れる記憶にも限りがある。考え続けていると頭がおかしくなりそうだった。ピグマリオンは思考を放棄した。

 

 やがて咳が弱まり、ふぅふぅ、と息を整える。

 椅子に座り直し、時計を確認する。たった三分も経っていない。

 

「今日は、やけに長い夜だな……」

 

 ところで。

 月の香りの狩人が巡った夜がそうであったように。

 格別に長いと感じる夜には、特別な出会いがあることを彼は知らなかった。

 

 自分の咳が治まったあとは、上層から吹き下ろす風の音が聞こえてきた。風向きが変われば、市街から銃声が聞こえる。ほんの一年前、自分はそこにいたのだ。思い出に浸り、彼は肩を落とした。

 だからこそ、古びた蝶番の音が聞こえた時、彼は耳鳴りだと思ったのだ。

 

 この捨てられた古工房までの道のりは遠い。

 聖堂街の外れにひっそりと佇むオドン教会の閉ざされた扉を越え、医療教会の工房塔を降りてようやく辿りつく。

 

 金具の軋みが耳鳴りではなく、いよいよ足音が聞こえる頃。

 ピグマリオンは、椅子の背もたれから身を起こした。

 月の香りの狩人の来訪にしては足音が小さすぎる。彼は救いの輸血液を持ってきてくれる狩人の足音をよく知っていた。聞き間違えるハズがない。

 

 ──いったい誰が。どんな人物が現れるだろうか。

 ピグマリオンは自分でも不思議なほど浮ついた気分で待った。墓所ともなっている敷地のゆるやかな斜面に影が見えた。しかし警戒を知る右手は、さらりと椅子の隣に置いてあった銀の剣の柄を握った。現れる者が誰であっても斬らなければならない。

 

 果たして。

 弾む足取りで、彼女は現れた。

 月の光を受け、金色にきらきら光る髪は軽やかに揺れ、白い法衣から伸びる肢体は細いが健康そのものという具合に生気が漲っている。

 初めて家の外に出た子猫もかくやにあちこち巡らせていた頭は、とうとう古工房を見つけた。そして、工房の扉の前に立ち塞がるピグマリオンを。

 凍った湖の色をした瞳と目が合った。

 

 

 

 ──天使が現れた。

 

 

 

 脳に甘い痺れが奔りピグマリオンは直感した。しかし、病んでいる我が身の勘ほどアテにならないものを彼は知っていた。すぐさま思い直そうとしたが、誤った認識を正すには現実は刺激的すぎた。

 

 翼もなければ、光の輪も浮かべていない。

 

 見間違えた。

 けれど、少女の姿には違いない。

 

 我に返ったピグマリオンは、受けてしまった衝撃を忘れようと努力した。

 

(ただの小娘だ)

 

 どうして、この少女を天からの恩寵と見間違えてしまったのだろうか。彼女の見目が整っているだけなのにひどく狼狽してしまった。ただ目が合っただけなのに。

 理由をさまざま考えた。──今日はこれまでと同じ夜だと思っていた。違うことが起きてしまったから動揺してしまったのだろう。そうに違いない。

 

(いけない。いけない。……私は善き信徒なのだから。そうあるべきなのだから)

 

 恩寵を見間違えるとは、神に対する背信である。

 そして、善き信徒を惑わすものならば総じて悪しきものだ。

 

(ああ、そう。そうです)

 

 そもそも、医療教会が隠しているこの古工房を訪れた時点で疑う余地のない悪しきものに違いないのだ。捨てられ、忘れられるべき秘密に近付く者であるならば、暗殺者の敵でもある。すなわち医療教会の敵だ。

 

(──あぁ、でも、惜しい……)

 

 美しい娘だ。

 ピグマリオンがどんなに真面目に生きていても、たとえ健康な肉体を持っていたとしても、まともな世界で彼女と出会うことはないだろう。遠目で見かけることさえありえない出来事に違いない。

 

 ここで手折るには惜しい少女だ。いつか彼女が大人になったら、きっと……。

 

 空想だけがピグマリオンに許されていた。

 妄想には歯止めがかかりそうになかったが、自分を傷つけるだけだったのでそのうち彼は止めてしまった。どこまで空想を広げたとして、病んだ身の上では決して混じり合うことのない存在であると気付いてしまったからだ。

 

 ピグマリオンは銀の剣を握った。

 思いがけず受けた衝撃は、容易く反転した。

 

「ああ……いけない……いけない女……信徒を誑かす女は総じて悪なのですから……私を誑かす貴女は、そう、魔女なのだ!」

 

 右手に握る銀の剣は、月光を鋭く弾いた。

 光の反射は少女の作り物めいた微笑を照らした。

 

「あら? わたしの正体をご存じなのね?」

 

「えっ。なんて。えっ……?」

 

 ピグマリオンは狼狽え、剣の切っ先が震えた。

 

「う、嘘だ、そんなっ、嘘だ嘘だ! 嘘ッ、嘘だ嘘だ! 魔女なんて嘘だ! 天使の如き貴女が、聖女の如き貴女が、あぁぁぁ!? 違う、違う、違う! 悪魔め、悪魔め! 悪魔憑きの小娘が──私は騙されないぞ!」

 

「……? 魔法族がいるかと思ったのだけどただの頭がおかしい黒服のようね。あぁ、この話が通じない感覚。ヤーナムに帰って来たって実感があります。思考が一周半ほどして平和ですね……」

 

 少女が握る仕込み杖が、カシャリと音を立てて変形し無数の鋭い刃を見せた。

 

「わたし、この先に何があるのか知りたいのだけど。ひょっとして通してもらえないかしら?」

 

「いいえ。いいえ。許しませんし、許されませんし、許されることもないでしょう。医療教会の名の下、我が不退転の剣は神の敵を討ち滅ぼします。だから、私があなたを──」

 

「あらそう。では押し通ることにしましょう」

 

 ピグマリオンは鈍く光る銃口を見て、微かに抱いていた「できれば逃げて欲しい」という願いが永遠に叶わなくなったことを知った。

 少女の声は、どんな歌声よりも高らかにピグマリオンを魅了した。しかも笑顔が素敵だった。

 

「──さぁ、月に祈りなさい!」

 

 楽しげな宣戦布告。

 だがピグマリオンは、彼女の言葉が耳に届かないほど夢中になっていた。

 




上層から見えるもの

テルミの大冒険編
 本話を含め5話編成でお送りいたします。

搾取
 月の香りの狩人の仔という特殊な存在であっても子供として存在する彼らも例外ではありません。むしろ死に難いため搾取向きかもしれません。もっともたかが一人の人生を使い潰したとしてヤーナムをどうにかすることは出来ないどころか、上位者を使い潰しても危ういのではないかということは、上位者人生を驀進している狩人が証明中です。
 鴉のように個人的な趣味と実利のために使うのが賢い搾取方法なのかもしれません。ろくな大人がいないのはヤーナムの内外に関わりがないようです。

ピグマリオンの手記
 仰々しいことを書いていますが、要するに彼の日記です。
 市街の地図を書き終えた彼はブラドーの護衛をしていますが、まずまともな狩人はやってこないので暇をしていました。病気のせいで他人と触れあう機会も少ないので突然現れた美少女に頭が沸騰してしまったようです。

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