テルミの仕込み杖
狩人が獣狩りに用いる、工房の「仕掛け武器」の1つ。
刃を仕込んだ硬質の杖は、そのままで十分に武器として機能するが仕掛けにより刃は分かれ、まるで鞭のように振るうこともできる。
テルミのお気に入りの武器の1つ。
様式の美しさを重んじるあり方はトップハットに見られるように血に抗う狩人の意志を示すものだ。
ピグマリオンは、恋を知らない。
多くの病み人がそうであるようにヤーナムに来てからというもの生きるのに必死で、それ以外の目的を持てなかった。余暇の少なさが原因の一つである。また、ピグマリオンの病にも原因があった。感染する病を持っている彼は人との接触を極力避けて生活していた。
もし、誰かに感染させてしまえば存在を穢してしまうように感じられることだろう。後悔と同時に歪な感情を抱えることになるのは容易に想像できる。だからこそ、ピグマリオンは誰のことも欲しいと思ったことはなかった。病み人にとってはそれは当然で善い行いであると思っていた。今でさえ何ら行動を起こさなかったことについて、記憶にある限り惜しいと思ったことはない。『間違いを冒さないこと』は、絶対的な善行だからだ。
手を伸ばせば触れることができる温もりは貴重である。
ピグマリオンにとって最も身近な温もりとは、手触りのない朝の光だけだ。
手のひらで感じるじわりとした感触。それは彼の唯一心安らぐ小さな歓びだった。
だが、たった今。
ヤーナムに来て以来、健康のほかに初めて欲しいと思えるものができた。
喉が乾く衝動に突き動かされるまま言葉を交わし触れて、存在を確かめたいと思えた。
彼女と自分は、髪も目も声も、何もかもが違う。
至極普通のことが、とても素晴らしいことのように思えた。
夜の工房での出会いからしばらく、少女に向ける感情の正体がつかめなかった。
白手袋ごと左手を引き裂かれながら、彼女が振るう仕込み杖の刃を掴む。
──超近距離。
互いに生死を分かつ間合いだ。
「は、ッ……!?」
意表を突かれたらしい少女が、小さな声を漏らす。
左手に握る教会の連装銃の銃口が正眼を捉えるまで、とりかえしのつかない一瞬。
ピグマリオンの握る銀の剣は、少女の薄い胸を貫いた。
骨肉を貫き、返り血を浴びたピグマリオンは柄を手放し、両手で少女の体を受け止めた。
温かく、柔らかい。
血の匂いまで他人とは違う香りに感じた。
ようやく彼は自分の動揺が何であったのかを悟った。
自分でも思いがけないほど熱心な執着の根源。
目を奪われる理由は。
いわゆる、きっと。
ただの恋と呼ばれるものだ。
それに気づいたときには手遅れなあたり、本当にヤーナムという土地は病み人を深く愛しているらしい。
左手には未だ仕込み杖の刃が絡みついていた。
剣が刺さったまま力の抜けた肢体は、しなやかだ。
ピグマリオンは、我をなくした。
──治療をしなければならない。
──まだこんなに温かいのだから。
──きっと助かるだろう。
理性はそう考える。
また、工房の中にこもっているブラドーへ指示を仰がなければならないだろう。
しかし、ピグマリオンは動けなかった。
「あぁぁぁ……!」
肩で浅い息をして少女の顔を見つめた。
夢のようだった。
欲しかったものが、手の中にある。
これさえあれば何も惜しくはない。幸せで幸せで、もう、たまらないのだ。
これまで得たことのない感動で動けなくなってしまった。
丁寧に手入れされた細い金糸。痛みで細められた蒼い瞳は、潤み、一筋の涙をこぼした。
ピグマリオンは、仕込み杖の刃でボロボロになった左手を伸ばした。
「……あら……」
額に汗を浮かべた少女は、近づけた左手を見て吐息と一緒に一言を溢した。
そして、痛みを堪える蒼い瞳と目が合う。
瞳の奥。引き攣った笑いを浮かべている自分に気付き、ピグマリオンは少女から手を離した。
自分が何をして、どう感じていたのか。
俯瞰できてしまう程度に半端な理性を保っていたことは、彼にとって不幸な出来事だった。
手を放したので彼女の頭が地面に落ちた。
それは石畳にぶつかって鈍い音を立てた。
その拍子に、血が出たのかもしれない。
湿った音が聞こえた。
立ち上がり、後ずさる。
石畳に転がる少女を直視することはできなかった。彼女の影でさえ彼の心を乱した。小柄な肢体に十字が突き刺さっている様子が目に焼き付いた。
彼は辺りを見回して誰もいないことを確認する。息苦しくなった胸を抑えて彼は呟いた。
「ち、ちが、違う……違う……! 俺は、私は、私は、違う、違うんです……! ただ命令を……! 貴女がここに来たから……でも、違う……温かくて……欲しくなって……あっあっあっ──」
ピグマリオンは叫んだ。自分が恐かった。
細い体を貫いた感覚がまざまざと右手に蘇る。
(どんな獣より柔らかで、素晴らしい感触だった……)
刺した瞬間、失血と共に痙攣していた。
味わうように柄まで深々と体に突き刺した。
痛みに大きく見開かれた瞳が、天上を仰いでいた。
ぎらつく月と星々を映す蒼い瞳は、夜空を写し取ったように輝いていた。
死にゆく姿は、顔は、目は、あまりに美しかった。
記憶は鮮明だ。
思い出しては、身が歓喜と恐怖で震えた。
──若く、健康で、価値あるものが貶められていく感覚に自分は酔っていたのだ。
懺悔する勇気はない。口にすることもないだろう。ブラドーにだって言う心算はない。
だから彼は少女から離れたところで跪き無言で祈っていた。与えた傷は深い。治療も追いつかないだろう。ただ正視には耐えきれず、彼は確実に死んだと思える時間まで祈り続けていた。
そうして、どれほど経っただろう。
ずっとこうしてはいられない。
ピグマリオンは、眼鏡を外し熱い目を拭ってから立ち上がった。
誰も知らない罪と最初で最後の恋を手向けとして、せめて丁重に葬りたい。
これまでの死者と同じだ。葬送の段取りを整えているうちに心の整理も付くだろう。
しかし、勇気を出して振り返った先。
少女の姿はどこにもなかった。
「は?」
夜風が吹いた。
血の匂いのしない風だった。
手放した剣が、石畳に転がっていた。
剣に刺さっていたハズの少女の姿は消えていた。
どれほど辺りを見回そうと存在しない。
まるで。
「……夢でも見ていたのか……? 私は……」
──病気が悪化したのだろうか。
──それとも、とうとう頭までおかしくなってしまったのだろうか。
どちらにしても最悪な出来事である。
彼は、現実を正しく受け止めきれなかった。
次第に頭が冷え、目が回るような感覚に囚われて息苦しくなり、しゃがみ込んだ。
肺が震えて咳が止まらず、喉を鳴らした。
墓碑に縋り、口を押さえる。ひときわ大きく咳をした。墓碑に赤く飛び散った血を見て、ピグマリオンは口元を触れた。
白い手袋には、血が付いている。舌の奥から錆びた鉄の味わいが広がっていた。
(あぁ、これは、罰なのだ)
ピグマリオンは咳でひどく苦しみながら、ぼんやり考えた。
遅すぎた後悔が、ようやく感情に追いつきピグマリオンは涙を流した。
(あの子を殺すくらいならば、私が死ねばよかったのだ……)
どうやってここまで辿り着いたのかわからないが、隠された古工房を見出せる能力を持っていたと言える。自力で辿り着いた希有な存在でもあっただろう。未来ある子供を殺めたことで『子殺し』という言葉がピグマリオンに重くのしかかった。
──これでも、まだ生きたいと思っている自分は、なんと浅ましいのだろう。
治まらない咳に彼は背を丸めた。
咳が苦しいのはいつものことだが、今日は一段と苦しい。心臓が不規則に鳴っているせいだ。
これが罰ならば、このまま死んでしまうのだろうか。
それも悪くないと今日は思えた。しかし、彼女の死体が見当たらないことだけが気がかりだ。
(いったいなぜ──)
苦しみにもがくピグマリオンの背中を小さな手が擦った。
「あら。あなたは病み人だったのね。苦しいのね? 痛いのね?」
咳が止まった。
息も止まった。
ピグマリオンは、強ばる首を動かして背中を撫で続ける人を見た。
「は……」
「止まったのかしら? 大丈夫? 口に血が付いていますよ。うん? あなた……呼吸がおかしいですね? 肺を病んでいるのかしら?」
そこには、殺したハズの少女が立っていた。
彼は真っ先に幽霊という言葉を頭に思い浮かべ、あまりの質感に目を疑った。
振り返ったピグマリオンの口を真っ白なシルクのハンカチーフで拭った後で彼女は優しげに微笑んだ。
「綺麗になったわ。でも、すこしだけ……うーん。ちょっと血の気が引いていますが、男前ですよ」
少女の作り物めいた指先がピグマリオンの汗に湿る頬をペチペチと叩いた。
誰にもこんな言葉をかけられたことのない彼は、驚くより先に戸惑った。
「あ。ありがとう、ございます。ではなくて。死んだハズでは? いえ、私が殺しましたよね? いまここで、さっき──」
「……。さあ? 夢でもご覧になっていたのではなくて?」
「いえ、確かに、私は、あなたを……」
ピグマリオンは、自分の左手を見た。
ジリジリと熱を持っていた左手は、先ほど仕込み杖で切り裂かれ、傷ついたままだ。
ようやく気付いた傷だけが、夢ではなかったことを証明していた。
だが、同時に矛盾も指摘するものだった。
(たしかに──殺したのに──なぜ)
足下に落としたままの剣を拾い上げる。
彼女も距離を取り、脇に抱えていたルドウイークの聖剣を向けた。
だがピグマリオンは彼女ほど早く剣を向ける気分にはなれなかった。
「待って、待って、ください。なぜ、あなたは、どうしてっ、ここに」
「話す義理は今のところありませんので覚悟しなさい。さぁ、月に──あ、いえ。これはさっき言いましたね、はい。──死ね!」
簡潔明瞭な殺意に応じ、ピグマリオンも剣を振るった。
日頃、心身を病ませる咳はこういう時に限ってピタリと止む。
そして死期は命のやり取りをする戦闘のなかでこそ、彼の勘を研ぎ澄ませた。
ところで狩人同士の戦闘は、足を止めた方が負けである。
射線上に数秒いれば動きを止めるには十二分な銃弾がお見舞いされるからである。
互いに距離を取ったとき、腰のベルトに差していた教会の連装銃を抜いた。
雨水よりマシな程度しかないピグマリオンの血質だが、二口の銃の威力は細い手足に穴を開けるには十分だ。
(できれば脚を狙い、動きを止めて事情を──)
甘い目論見は、二発の弾丸であっけなく崩れた。
古工房を囲むように存在する庭、そのなかには大小さまざまな墓碑が乱立している。少女が放った弾丸は、そのうちの一つに当たった。射線が変わった跳弾がピグマリオンの肩をかすめたからだ。
「ぐぅ……!」
痛みに怯み、そして花壇の段差につまずき倒れ込んだ。
それを好機と見た少女が目を輝かせて大きく踏み出す。
あと一歩で剣の間合いという距離でピグマリオンは咄嗟に掴んだ花壇の土を投げつけた。
まさか当たるまい。半ば自棄の抵抗は──思いのほか効果的だった。
「わ、わあっ!? あッ!? むぁ! め、目に──」
一歩、二歩と後退る少女にピグマリオンは素早く立ち上がると体当たりした。
傷口は熱を持っているが、戦闘の興奮が全てを塗りつぶしていた。
好機を逃さず、首を掴んで押し倒す。銃を握る左手を掴んだ。
「ん、くぅっ──」
「武器を、す、捨てなさいっ! 捨てろ! さもなくば、この首、へし折るぞ!」
右手に握る剣は、鞘と一体化した大剣の変形状態だ。肉薄してしまえば攻撃する手段はない。
涙を流す蒼い瞳が、ギュッと細められた。
「む、むむ、ま、負けませんから──」
「負けだ、諦めろ!」
ピグマリオンは、片手で少女の首を絞めた。そして全身の体重をかけて首を圧迫する。
それでも抵抗は止まず、何度か腹を蹴り上げられながら必死の格闘の末、少女はついに銃を手放した。
「ようやく諦めて……?」
銃を手放した黒い長手袋をしばらく見つめていた彼は、我に返る。
少女は、右手に握っていた剣もいつの間にか手放していた。
それからようやく彼は、ずっと首を絞めていたことを思い出した。
「あぁッ!?」
武器を取り上げるのに夢中になって殺しかけるとは、あまりに恐ろしい出来事だった。最初から殺そうと思って挑む事とは、心の持ちようが違う。
「……っ……」
かける声もない。
肩をつかみ、必死で揺すった。
据わらない首のせいで頭がぐらぐらと揺れるが、小さく呼気が漏れた。
「よかった。呼吸は止まっていないが……」
今度は、温かい。
生きているから、温かいままだ。
ピグマリオンは、再び辺りを見回した。やはり誰もいない。
白い長手袋の紐を解き、震える手で少女の体に触れた。
「違う……違う……身分を示す何かを持っているかもしれないので……だから……」
誰に聞かせるワケでもない釈明をブツブツと呟き、ピグマリオンは見慣れない隊服を探った。少女の体の思いがけない細さと柔らかさにハッとする。そうしてときおり生唾を飲みこみながら──ではあったが。
ポケットに、めぼしいものはなかった。
これ以上は服を裂く必要があるらしい。脚のベルトからナイフを取り出したピグマリオンは、さて、どこから切ったものかとしばし迷う。この手の作業は初めてのことだった。少女の上で手を迷わせていると首に光るものを見つけた。
何かと思いボタンを外して確認してみると華奢な鎖がついたブローチが現れた。
夜空を写し取ったかのような暗い瞳を模したブローチだ。
「なんだ? なんだろうか。何か。これ嫌な予感が……」
彼女が使っていた武器を見る。
一度目が夢ではないとするならば、仕込み杖だ。医療教会関係者に多い武装である。
二度目は、ルドウイークの聖剣だ。医療教会関係者以外が持っているのを見たことがない。それもそのはず。医療教会のなかでも限られた選良と言うべき『輝く剣の狩人証』を持つものだけが所持を許されている武装だ。
「あんなものよく振り回せるものだ。いや、そうではなくて……そうではなくて……」
ピグマリオンはウンウンと唸りながら、状況の整理を試みた。
所持品だけを見れば、医療教会の狩人のなかでも上位の狩人が持つものだ。
そして、星空の瞳のブローチ。
長い夜のどこかで聞いた話が思い出せそうだ。
しかし、ピグマリオンは地面に転がる少女を見た。
彼女が医療教会と関わりがあるとは思えない。病み人の相手も碌にしない医療教会が、少女と関わることがあるのだろうか。
結局、ピグマリオンは結論を保留した。放棄したとも言える。どんな理由であれ、この少女と医療教会に関わりがあるとは思いたくなかったのだ。自らの所属する組織である医療教会だが、善い存在であるとは口が裂けても言えない。
「ん……うぅ……」
少女の呻き声にビクリと震えた。
ピグマリオンは、咄嗟に再び首を絞めるか花壇の煉瓦で殴るつけるか迷った。
だが、殺すのはできるだけ避けたい気分になっている。
慎重にブローチを外すと布に包んでピグマリオンは自分のポケットに入れた。そして、古工房の裏から縄を持って来た。
「…………」
手を縛るべきだが、彼はすこし迷ってから両足を縛り上げた。
少女がまったく抵抗できない状態になってしまったら、自分が道徳的な過ちを犯してしまいそうだった。
そもそも──殺す必要はないのだ。
ブラドーに指示を仰ぐまでに彼女が動けなければいい。
自分の行動が十分に説明可能な行動であることを再確認し、ピグマリオンは少女が持っていた銀の剣を彼女から見えない墓石の裏に隠した。
「…………」
近くの墓碑に腰かけ、ようやく余裕を得たピグマリオンは、落ち着いて少女を観察した。
(可憐だ)
穢れた地上のなかでも外の神さえ見放したヤーナム。そこに遣わされた不幸な天使だろうか。
外の信仰のことを聞きかじったことがあるピグマリオンは、空想した。
若者が少ないヤーナムにも少女はいる。
真っ先に思い浮かんだのは、ガスコイン神父の娘だ。大柄な神父の足下で子猫のようにチョロチョロと動き回る少女のことを風下の遠目で微笑ましく思ったことがある。あの少女に抱く感情とは、それだけだった。
だから、だから。
この少女だけが特別なのだ。
悪い土地であるヤーナムで生まれた存在には思えない。
(きっと私の祈りが、どこかに届いたのだろう。想像していたどんな女性より素晴らしい造形だ。声はどんな小鳥より可愛らしいものだ。病んだ背を撫でてくれた。優しい……優しい人だ……)
触れてしまえば彼女を汚すように感じられてピグマリオンは、近くでソワソワすることしかできなかった。
ところで。
月の香りの狩人は、ピグマリオンを概ね『まとも』な人間と見なした。
実際のところ、それは正しい。
普段の彼は、ヤーナム的常識人でありながらまともで、それゆえに半年の寿命をさらに短くする善良さを持っている。
だが、彼はどうしようもなく病み人だった。
肺を患う肉体は、半年がまともでいられる限界だ。
血の医療は、たしかに彼を救い、延命させ続けているが、本来迎える寿命である半年を超えた時点で彼の思考力は自覚ないまま低下する。
まともで善良だと彼だけは信じているが、傍目から見れば常軌を逸した思考に陥っていることがしばしばあった。病んだ彼の狂気は、意見を口にすることが少ないため気付かれていないだけであり、今のところ実害が起きていないだけでもある。
そして、今も。
病み人の空想とは恐ろしいものがある。
時に現実よりも現実らしく振る舞うのだ。
謎の少女について考えれば考えるほど、彼は何者かが自分に賜わしたものなのだと考えるようになった。
それは極めて幸福な想像だった。
(拝領。拝領だ。きっと、これが、これこそが拝領なのだ!)
大切にしなければならない。
寒くはないだろうか。ああ、天使も風邪を引くのだろうか?
黒いケープを外そうとした時だ。
少女の色よい唇が、小さく開いた。
「んっ。いけないわ……わたし、また死んでしまって……あら?」
ぼんやりした目が辺りを見回し、脚を動かそうとした少女が拘束に気付いた。
外そう、と一瞬だけ彼女の手が動いた。
それを制するため、ピグマリオンは銀の剣を少女の首に添えた。
「どこからいらしたのですか?」
「あなた、さっきの教会の黒? ……ええ、ちょっと上から」
「上? それはつまり天上から?」
「天上? 医療教会の上層よ?」
「? ああ、分かりました! 最初に降りたのが上層ということですね!」
声は、やはり素晴らしい。
蒼い瞳は、キラキラと輝いている。
「あなた、あなた……貴女の、お、お名前は? お名前は、あるのでしょうか?」
いくつか案を考えているピグマリオンは気の利いた言葉を考えていたが、少女が口を開く方が早かった。
「わたしは、テルミ。あの工房のなかに何があるか気になっているテルミよ」
「テルミ? テルミ……テルミ……。素敵なお名前ですね。美しい響きです」
「ありがとう。気に入っているの。お父様が付けてくれたのよ」
「お、お父様?」
ピグマリオンの幸福な空想に罅が入った。
──天使に父がいるとすれば、それは何だろうか。何だっただろうか。
思考の綻びを自覚することは、ピグマリオンにとって苦痛を伴うことだった。
「気にしないでください。それより、あなたのお名前は? わたしが名乗ったのですから、あなたのお名前も聞きたいの。教えてくれますか?」
「私? ……ああ、私の名前?」
ピグマリオンは、自分自身を不思議に思った。
この少女に魅入られて仕方がないが、彼女に対し自分のことを知って欲しいとは思ったことがなかったからだ。それを自覚した後も、すぐに口を開くことが出来ない。気が乗らないのだ。誰かに自分を覚えて欲しいと今も願っているというのに矛盾した心境である。
そのことに、ひどく戸惑った。
「名前……私は……」
「言えないのね。ええ、構いませんよ。あなたが言いたくなったら聞かせてもらいます。……さて。工房の守衛さん? これからどうするおつもりかしら? ずっとこのまま、ではないでしょう?」
「朝になれば分かります。それまでは、このままです。抵抗はよしていただきたい。……貴女の手足を切り落としたくはありません。大人しくしていただけますね?」
「はーい。仕方がないですからね。でも、お花の上にいるのは落ち着かないわ。木に吊しておくとかして欲しいわ。狩人ってそういうものよね」
「その望みを叶えることはできません。貴女を殺めたくはない」
ピグマリオンは真摯に伝えたが、テルミは微笑を浮かべるだけだった。
「──さっきは嬉しそうに殺したでしょう? どうして気が変わったの?」
ここ最近は都合のよいことを考え続ける思考をもってして、その言葉を聞き間違いとは認識できなかった。
「…………」
ピグマリオンは、表情を無くした。
自分の呼吸が分からなくなってしまった。
「さっき、わたしの胸を貫いたでしょう? 良い手際だったわ。市街で獣を狩っていた黒服は実戦経験が違うわね。だって、とっても痛かったもの」
手足が遠くにあるように感じられた。もちろん錯覚である。
左手の傷を負ったことが証明だ。何も夢でもなかった。
喉の奥が乾く。彼女を殺めた自分は嬉しそうに見えていただろうか。
「ううん。怒っていないわ。大丈夫よ、こうして生きているのだから。そう自分を責めないでね」
テルミは柔らかく微笑み、赦しを与えた。
だからこそ。
彼は耐えきれなかった。
「殺した。殺しました。たしかに、この手で……でも、でも、どうして、生きているのですか?」
「フフッ。もう一度、殺してみれば分かるかもしれませんね。さぁ、どうぞ?」
テルミは身を捧げるように両手を広げた。
ピグマリオンは剣を握り、迷った。
見逃したが彼女は一度、蘇ったのだから、二度もあるだろうか。
奇跡は、再び少女の身の上に起こるだろうか。
──しかし、もし奇跡が起こるとして、起きたとして、死から蘇った者を試すのは善い行いだろうか。神を試すことは赦されるだろうか? 以前にどこかで聞いたことがある。死んで生き返った男の信仰の話だ。あれは、いったいいつ聞いたのだったか。夜の中、それとも、輸血を受ける前? あるいは、あるいは……。
考え続けていたピグマリオンは、あるとき切っ先にチラつくテルミの顔を見た。
「ヒッ!」
「……わたしを前に考え事かしら。ずいぶん余裕ですね? 狩人ならば獲物が死ぬまで目を離さないものでしょう。それとも貴方は狩人ではないのかしら?」
「狩人ですよ。まだ、私は……」
「あらそう? わたしには、早めにベッドで休むべき病み人に見えますけれどね」
テルミが、いつの間に持っていたのだろう木の棒を向けた。
取り上げようと手を伸ばした先、木の棒が光を放った。
「エクスペリアームス 武器よ去れ」
ピグマリオンが構えていた銀の剣は、生きた魚もかくやという躍動を見せて彼の手の中から遙か後方に飛んでいった。
「はぁーっ!?」
ピグマリオンは、自分の手と白銀の弧を描いて庭園のどこかに落ちた剣を交互に見た。そして、剣の落ちた先へ走り出した。
その足下に杖が向けられた。
「グリセオ 滑れ」
革靴で踏みしめる石畳が、突然、油が撒かれたように摩擦力が皆無の状態に変化した。ピグマリオンが靴裏の妙な感触に気付いた時には、視界に夜空が広がっていた。
後頭部を強かに打ち付け、彼はほんの数秒、前後不覚に陥った。
「ぐあ、ぐぅ……! 頭が……! ……ああ、剣、私の剣は……!?」
彼が苦痛により一時の正気を取り戻したとき、喉に差し向けられた刃に気付いた。
「はぁい。ここです」
形勢逆転。
簡潔明瞭な言葉が頭に浮かぶ。
ピグマリオンは、思わず先ほどまでテルミを捕らえていた場所を見た。
何もない。
「大人しくしてくださる? 実は黒服を殺すのは初めてなの。うまくできるかどうか心配ですし……放って置いても死にそうな病み人を殺すのは良心が咎めますから。ああ、縛られたいのなら別ですけどね?」
ピグマリオンは毒々しい光を放つ視界で、月光を受けるテルミを見つめるしかなかった。
もし、剣がこの手にあったとして、それを向けることはできなかっただろう。
「貴女は……いったい……何者なのですか」
殺したハズの存在が、目の前にいる。
縛ったハズの存在が、微笑んでいる。
現実を否定する事実の連続に、彼は耐えきれなくなっていたからだ。
■ ■ ■
「それを説明するには二〇〇年以上経過がある話なので時間がかかってしまうわ。わたしがあそこの工房の中身を見てからでも構わないでしょう」
黒服の両手をしっかり縛ってから、テルミは告げた。
血色の悪い黒服の男は、そこで初めてテルミがここまで来た理由を思い出したようだ。
途端に慌てて彼は道を遮った。
「ダメです! お願いです。帰ってください。お願いします。お願いします……。覗かないでください。暴かないでください。秘密を暴いて善いことなど何もないのですから……!」
「中には何があるのかしら?」
テルミは黒服の胸に剣を食い込ませた。切っ先をほんの数センチ肉に埋める。痛みを教えるには十分のようで彼は素早く身を引いた。
「あぅッ痛い……! い、痛いですが……でも、本当に、何も、何も、ありませんから……」
「守衛を置いているのに何も守っていないワケがないでしょう。さぁ、守衛。わたしの先を歩きなさいな」
「わ、私に、何をさせようと? 盾にもなりませんよ……!」
「守衛さんには、あの扉を開けてもらおうと思って。弾よけにはなるでしょう?」
「ええええ……?」
黒服は、色の薄い瞳を大きく見開いた。
それからブツブツと「扉を開ける? 私が……私が」と不明瞭なことを言いだした。それから次第にガタガタと身を震わせ始めた。
「さっさと歩いてくださいね。背中に七つ星が欲しいのかしら」
「お、お、お考え直しを……! 美しいひと、どうか……どうか……!」
「わたしに口答えは許しません。時間稼ぎかしら? 早く歩けと言っているのよ、黒」
彼の背中をテルミは剣で突いた。
傷は浅いが、痛みに怯えて彼は歩き出した。
「本当にお考え直しを……あの……あの……」
彼はチラチラと振り返り、再考を促した。
もちろんテルミは斟酌しなかった。むしろ興味がわいた。
「貴方が恐いと思っている人がいるのね。男性? 女性? ああ、男性なのね。貴方より背は高いかしら? 低いかしら? 高いのね。へえ」
「ひぃッ!?」
黒服は、顔を引き攣らせた。
テルミも笑い返した。
「『人の心が読めるのか?』、『知っているはずがない!』、『考えていることが読まれている!?』。ええ、そう。わたしには恵まれない才ばかり溢れているわ。これもそのひとつ。人の顔を見ると何が考えているかわかってしまうの。そう怯えた顔をしないで下さいね? うっかり手が滑ってしまうわ。死ぬのが恐いのなら自分が何をすればよいのか。わかりますね?」
「そんなっ……ありえないっ……! アッ!」
「わたしが『歩け』と言っているのが聞こえないのかしら。頭まで病んでいるの? 仕方がありませんね。病み人を殺すのは気が引けるけれど」
「歩きます歩きます!」
工房の小屋に至る、ゆるやかな階段。
彼が反逆を企てるのは分かっていた。当然の反応でもある。彼は死ぬのを恐がっているが、それと等しく工房の小屋にいる何者かを恐れているのだ。
階段をのぼりきる最後の一歩だけ重心が傾いた。
「……ッ!」
恐怖に駆られた行動にしては、殺すにも止めるにも中途半端な抵抗だった。
不自由に伸ばされた手をかわし、彼の側頭目がけて銃把で殴りつけた。渾身の一撃は、黒服の重い体を階段に転がした。
「はぁ。弾よけにもなりませんね」
さて。
テルミは気を取り直して古工房の扉に近付いた。
古工房の中には、一人の男がいることが分かっている。
扉をソッと開けるか、思い切って蹴破る勢いで開くか。あるいは、神秘の秘技で先手を取るという手段もある。
テルミは、やや考えて懐から青白く光る寄生虫を取り出したが、しまい込んだ。もし、この先にいるのが父たる月の香りの狩人の知人であったら彼の立場を悪くさせかねないと思ったからだ。黒の守衛はどうせ代えのきく黒なので大した問題にはならない。
(今のわたしは医療教会の聖歌隊の孤児という立場ではなく、月の香りの狩人の仔としてヤーナム探索をしているのだから!)
テルミはノックをすることにした。
古工房は、夢の中とほとんど同じものに見えた。
ところどころ違うのは、工房の守衛ともうひとりの人物が生活しているからだろう。
ヤーナムにしては使用感の少ない食器。それから。
「獣の匂い……?」
守衛は最後の最後まで中の人物に対して、ひどく怯えていた。自死を選ぶ勇気はないが中の人物を裏切ることもできなかった。
工房のなかにいる誰か。獣の匂い。しかし、残滓のようなものだろう。獣がいるにしては静かすぎる。
開けるとカーテンの隙間から幾筋かの月光が差し込んでいた。
椅子には獣がいた。
咄嗟に銃を向けるが、それは獣の白い毛皮であることに気付いた。
「か、皮……? 毛皮? 何かしら……? ──きゃッ!?」
一歩だけ踏み出す。
それが誤りだった。
開けた扉の裏の闇、そこに潜む気配にテルミはようやく気付いた。
振り返った先にいたのは、暗い瞳の男だった。
テーブルの先の毛皮に向けた銃を反転させるのも剣を向けるのも遅すぎた。
男の長い脚がテルミの腹を蹴り上げる。
壁に置かれた戸棚に激突して頭を打ち付けたテルミは痛みで怯んだ。
(だめだめ! 仕切り直さないと──)
相手は分かった。出方も分かった。
ならば、今後はしくじりはしない。
テルミは左手の銃の撃鉄を起こすと自分の首に当てた。
夢への逃避を企てるテルミの耳に男の声が届いた。
「月の香り……」
「えっ……」
ふたりは、しばし見つめ合った。
男は、クッと歯噛みをした。
「そう。そうか。仔はマリアひとつではないということか。月の香りの狩人も余計な種を播いたものだ」
「えっ!? なに。だれ。どうしてお父様のこと……月の香りを……?」
「──表の男、殺してはおらぬだろうな」
彼の興味はもう他に移ったようだ。
誰よりも人の心の機微に聡いテルミは敵意が無いことが分かった。
「ええと。ど、どうかしら……? 力加減とかできないし……テキトーにやっちゃったものだから」
男が踵を鳴らした。
それは早く行けと催促していた。
暗い瞳に耐えかね、テルミは古工房を飛びだした。
「もう! わたしを顎で使っていいのはお父様だけなのにっ!」
■ ■ ■
気絶から目覚めたピグマリオンは、空を見上げていた。
「…………」
意識は、だいぶ前から戻っているような気がする。
しかし、指一本動かすのも面倒で気が進まない。
いつも痛みだけが、現実を現実だと教えてくれる。
……特に今日は、いつものより顕著である。
気怠く目を動かすと視界に細かくキラキラ光るものが見えた。ぼんやりした視界でそれを見ているうちに粉々になった眼鏡のレンズだと気付いた。今日はさんざんな日だ。感情の振れ幅が大きく、普段とは違う緊張と疲弊感がある。
嫌と言うほど頭を打ったせいか記憶が曖昧だ。
そうだ。どうして、感情の振れ幅が激しい日だったのだろうか?
またブラドー氏に無茶なことを言われたのか。あるいは、輸血液が足りず取り乱してしまったのだろうか。唸る。どうにもしっくりこない。今日は、昨日とも一昨日とも違う。何か、もっと違うことがあったような気がする。頭の痛みのせいで思考が阻害されているらしい。思い出せない。
考えても分からないことが多いので、彼はいつものように空を見上げた。
「ああ、あーあ……月……月が……あぁ、綺麗だ……」
いつもは虚空に溶けて消える言葉は、今日に限って誰かの耳に届いた。
拝領は、どんな空想より素晴らしい少女の姿をして、しかし、逆さまに表れた。
「ヤーナムの月が綺麗と言ってくれるのね、貴方。ウフフ、ちょっぴり気に入りました」
記憶が蘇り、ピグマリオンは絶叫した。
病み人の信仰
ピグマリオン、会敵
どうやら天使に会って恋してしまったようです。
17分割はしませんでしたが、コロコロはしました。
医療教会側の狩人であるブラドーを護るため侵入者は誰であれコロコロしないといけないので仕方ない。──オイ…なんで…生き返っている…?
月が綺麗
意図せずテルミを喜ばせるクリティカル・ワードを言ってしまったピグマリオン。
これにはテルミもニッコリです。お父様の信者が増えるのなら多少頭がおかしくてもOKです。
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