甘き夜明けよ、来たれ   作:ノノギギ騎士団

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テルミのカルテ
病み人の診察記録を記した、真新しい小さな手帳。
誰であれ興味で覗かないことだ。
身のうちに何が存在するかなど知らずにいた方がよい。
輝く剣の英雄でさえ真実、何も知りたくなかったのだ。



天使の鐘(下)

(……私は、報われてしまった)

 

 長いこと泣いていた。

 縋りつき、声を殺して泣いた。

 その間、頭に浮かんでいたのは、その感傷だった。

 熱に浮かされたように語った恐怖と孤独をテルミは静かに聞いてくれた。

 

「うんうん。体が痛いのね。心が辛いのね。けれど誰にも言わなかったのね、貴方。孤独だったのね。だから優しかったのね。病み人だから他人の辛苦がよく分かってしまって、誰にも言えなかったのね。立場と心情を、わたしは理解します。いい子。いい子ね。わたしとたくさんお話をしましょう。辛いことも、苦しいことも。今日からは、お話しましょうね」

 

 毛艶の悪い、白く乾いた髪を撫でてテルミは優し気に抱き留めた。黒い手袋がピグマリオンの目尻を撫でた。涙に暮れ、歪む視界にテルミは月光を受けて、より白く輝いて見えた。

 

「生は、死の逃避ではありません。死を恐れることは普通なのです。避けたい気持ちがあって当然なのです。……すこしずつ、心を整理していきましょう。焦る必要はありません。貴方の気が済むようにしていきましょうね」

 

 頭がぼんやりするまで泣き続けた。

 咳が出て、ようやくピグマリオンはテルミから離れた。

 

「あっ……あぁ、すみません、すみません……私は……とんだ恥知らずな真似を……」

 

「いいえ。構いません。お父様への感謝があれば、何も問題はないのですから。けれど、これで顔を拭った方がよいでしょうね」

 

 ピグマリオンは、テルミから言われるままハンカチを受け取った。

 それを受け取ってから、思い出したことがある。

 

「そういえば、昨日の……あの、いろいろあり言い出せずにいたのですが……貴女に、これを」

 

 ピグマリオンが衣嚢から取り出したのは、テルミから奪っていた瞳を象った宝石だった。

 それを見ると彼女は「まぁ」と嬉しそうに微笑んだ。

 

「貴方が持っていてくれたのね? てっきりどこかに落としてしまったのかと思って、あれから探していたの」

 

 手渡す時に、彼女の手が触れた。

 電気がはしったように甘い痺れが脳天から全身を駆け巡った。ウィンプルと黒帽子を目深に被り、ピグマリオンは赤くなった顔を努めて隠した。

 

「も、申し訳ありません。もっと早く言い出せばよかったのですが……」

 

「ううん。大切に持っていてくれたのでしょう。ありがとうね」

 

「あ、その、いえ……」

 

「さてと。ブラドーおじさまにご挨拶してもよろしいかしら?」

 

「あ、ああ、はい。ギリギリですが、まだ夜の鐘が鳴っておりません。仕事前です」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「また来たのか、月の仔。あるいは月の落とし子と呼んだ方がよいか?」

 

「先手必勝とばかりに罵詈を仕掛けてくるなんて半生が透けて見えるようですね。ヤーナム人らしくて安心しますけれど。それとも獣皮を被って悪辣に振る舞わなければならない理由があるのかしら? とっても興味深いですわ、ブラドーおじさま?」

 

 ブラドーは、舌打ちなど粗野な真似はしなかった。

 しかし、テーブルの下で組み直した革靴が立てたカツンという音は、どうしようもなく苛立ちを感じさせるものだった。

 テルミに手を引かれて入ってきたピグマリオンは、泣き腫らした目でブラドーを見た。目が合ってしまったとも言う。

 

「追い出せ」

 

「そう簡単におっしゃいますがね。月の香りの狩人様の子女を手荒に扱うことは……」

 

「お主、昨日殺しただろう?」

 

 ピグマリオンの内心に殺意が宿った。

 嘲笑であれば、どんなに気分が悪かっただろうか。しかし、ブラドーは事実を述べ確認したまでだった。

 真実とは時に何よりも心を追い詰めるものであることをピグマリオンは知った。

 するりとテルミがピグマリオンの手を握った。 

 

「ブラドーおじさまったら、意地悪なことを言うのね。貴方、気にしなくていいのよ」

 

「……あ、いえ……」

 

「もー、ブラドーおじさま。この人を責めてはダメよ。お仕事に熱心なだけだったのですから」

 

 ブラドーは「熱心」という言葉を繰り返し、嗤った。

 

「ピグマリオン、何を救われた顔をしている。状況はどこにも転んでおらぬぞ」

 

「そうなのですが……私は、もう……」

 

 ピグマリオンは、つい助けを求めるようにテルミを見た。

 彼女は、ピグマリオンの右手を握ってくれた。

 それだけで彼は、たまらなく幸せな気分になる。そして表情にも現れていたらしい。ブラドーは蔑んだ。

 

「ハッ。勝手に不幸になって勝手に救われたつもりになっているのだから、お主はまこと幸せな病み人と言えるだろうな」

 

「おじさま、あまりイジめないでください。それに彼は幸せになってなどいません」

 

「えっそうだったんですかっ!?」

 

 思わず尋ねたのは当のピグマリオンだった。さすがのブラドーも毛皮の下で瞠目した。

 

「ええ、これからわたしが幸せにするのですから! おじさまも一口、協賛いかが? わたしの愛と献身に掛け値はなく、貴方の良心を底値で買い叩きに参ります」

 

「囀るな。月の香りで吐きそうだ」

 

「ああ、それはずっと血生臭い毛皮を被っているからですわ。不衛生ですよ? おじさまも肺病には、くれぐれもお気を付けくださいね? ひとまず窓を開けて換気しましょう」

 

 テルミは懐から杖を取り出すとそれをヒョイと振った。

 途端に、パタンと音を立てて窓が開いた。

 

「ほう。……近頃の月の香りの狩人は、異なる神秘に執心のようだ。お主自体がその成果物というワケか?」

 

「いいえ、魔法は単なる付属品ですわ。しかも後付けの既製品。わたしは毛髪から爪先までメイドインヤーナムです。お父様から回転ノコギリのお話を聞いたことはないかしら?」

 

「またそれか。戯れ言を」

 

「真実は月のみぞ知るでもよいでしょう。さて。貴方、貴方、ピグマリオン?」

 

「はいッ!?」

 

 初めて名前を呼ばれた。

 ピグマリオンは、背筋をただした。

 

「いいお返事で結構です。ねぇ、ピグマリオンさん? お茶はこちら?」

 

 戸棚を開いて物色していたテルミが、手の平に収まる小さな木箱を取り出した。

 

「ええ、そうですが、あ、いえ、ご所望ならば私が……」

 

「いいの。お世話は大好きですから。間取りも分かると思うし、大丈夫。貴方はわたしの椅子になるか、椅子に座るか迷っていてくださいね」

 

「は、はい、はい、はあ……?」

 

 テルミは、茶葉の木箱をテーブルに置くと暖炉のそばに置きっ放しだった鍋を持ち、外に出て行った。

 男二人が暮らすこの古工房には、ポットという物は存在しない。お茶を飲むときは、いつも鍋で煮ていた。少ない食器からテルミは、その状況を察したようだった。

 彼女が小屋から出て行ったあとを熱心に眺めていたピグマリオンは、ブラドーに見つめられていることに気付くのにかなり時間がかかった。

 

「あ。ブラドー氏、何か? 目つきが、何と言いますか、やましいですよ」

 

「呆れておるのだ。小娘なんぞに絆されおって」

 

「ち、ちがっ、そんなつもりじゃ……! だ、だって、あの子は月の香りの狩人様の子女ですよ? 私が、どうこうできると思っているんですか? 頭が上がらないのは当然ではないですか」

 

 泣いてスッキリしたせいだろうか。我ながら真っ当な理由をひり出せたと思う。

 ブラドーは、呆れつつ大きな手の中に隠した割れ鐘を一瞥した。

 

「どうやら忘れているようだが、私もお主を殺せるぞ」

 

「それは知ってますが……突然恐いことをおっしゃいますね。……あの子の厚意は温かく、だからこそ私は無下にできないのですよ」

 

「くだらん。無償の厚意などあるものか」

 

「では稀なる月の例外なのでしょう。自分の目で確かめてみては? 『おじさまも一口、協賛いかが?』とおっしゃっていましたし」

 

 やや棘のある言葉で反論してみたが、ブラドーは口の端を歪ませて嗤うだけだった。

 

「ところで、ブラドー氏。すごく重要なことなのですが、聞きました? 『おじさま』ですって!」

 

「なんだと?」

 

「ええ、わかりますわかります、可愛いですよね」

 

「…………」

 

 ブラドーは白い毛皮の下で嘆息した。

 テルミの蒼い瞳を想起しているピグマリオンは、当然気付かなかった。そのうちテルミが軽い足音を響かせて戻ってきた。

 

「はぁい。お湯を持って来ましたので、お茶っ葉をくださいな!」

 

「こちらです。そうそう、これは月の香りの狩人様が持って来てくださったんです。ありがたいことです」

 

 ピグマリオンは、テーブルに置いていた木箱を開いた。

 中には小さなスプーンが入っている。

 

「いつもどれくらい入れているのかしら?」

 

「鍋一杯に対しスプーン山盛り三杯です。二人ですから、この分で三日保ちます」

 

「そうなのね。でも三日も保つのかしら? しっかり沸騰させたものを飲んでね」

 

 煮出したお茶をカップに入れたところでテルミはピグマリオンを見上げた。

 

「椅子になるか、椅子に座るか、選んだかしら」

 

「ああ、ええと、よく分かりませんので……」

 

 古工房には椅子が二脚しかない。

 選択肢の意図は図りかねるが、答えは決まっていた。

 

「テルミさんは、お客様ですし椅子に座っていただきたいですね。私はこちらに立っていますから」

 

「もう、わからない人ね。はい、座りなさい」

 

 テルミに促されてピグマリオンは尻もちをつくように椅子に座った。

 

「でも、悪いですよ。──オッ!?」

 

「悪くないでしょう? 落とさないでくださいね?」

 

 テルミはピグマリオンの膝にちょこんと座った。

 ──軽い。

 最初に思ったことは、それだ。

 ──あぁ、柔らかい。

 次に思ったことは、それだった。

 しかし、善良な病み人はブラドーの冷たい視線を受けて正気に返った。

 

「ハッ!? だ、だめですよ……こんなっ、近くに……肺患いが、伝染するとよくないですから本当によくないですから……」

 

 ──近い。

 膝の上にいる彼女の体温が、ハッキリと分かってしまう。

 小さな呻き声を上げた。彼女に触れたいと願う自分を自覚する度に浅ましく感じてしまい、ピグマリオンは苦しんだ。

 そんな彼を救うようにテルミはソッと寄りかかった。

 

「大丈夫ですよ。汚れません。穢れません。伝染しません。わたしには正しき信仰がありますから。安心してくださいね。貴方が触れても大丈夫なものが、ヤーナムにはあるのです。月の香りの恩寵ですよ。ありがたいことでしょう?」

 

「テ、テルミさん……!」

 

 テルミはピグマリオンの膝の上に座ったまま背伸びをして、ピグマリオンの唇を指で撫でた。

 乾きひび割れた唇から、悲鳴とも歓喜とも言える小さな声が漏れた。

 

「虫酸がはしる」

 

「ブラドー氏ったら、すこし黙っていることができないのですか!? 私の夢をぶち壊すのがよっぽど楽しいようで! ……お気になさらずテルミさん。本日のブラドー氏は瀉血療法が足りないのです」

 

「あら、そうなのね。お父様のご友人に悲しいことを言われたのかと心配しましたが、正気ではないのなら問題ありませんね」

 

「どこもかしこも愚者ばかりだ。……それで? お主は何をしに来たのだ。全ての狩人に言うべきことだが、獣はここにはいない。夜が始まる。己の狩りに戻るがいい」

 

「ブラドーおじさまは、会話を楽しむ性質ではないのですね。ええ、では単刀直入に言うべきなのでしょう。貴方は、お父様が懇意にしている人のようですから、ご挨拶に来たまでですわ」

 

「では、互いに顔は覚えた。疾く去れ」

 

「ええ、じきに去りますわ。長居はしません。けれど、病み人は放っておけません。わたしは医療者ですもの。血の医療あるいは代替医療による治療が可能かどうか、確かめる必要があります」

 

「ほう。なぜ? こんな夜だ。良くなることはないが、悪くなることもない。苦しくとも輸血している以上、死にはしない。死なないだけとも言えるだろうが、どちらであっても同じこと。無駄だろう」

 

「その論は、とても寂しいものだわ。『人間は必ず死ぬので医療の発達は不要』と聞こえてしまうのは気のせいと思いたいですね。いかなる生命にも終わりがあります。だからこそ生の苦痛を和らげることが、医療の本当の役目なのでしょう。──苦難は求める者だけが見えればよい。あるいは、その苦難を試練として耐えられる者だけが。……人間は脆いもの。放っておいても死んでしまうのに、どうして苦しむ必要があるでしょう? それにピグマリオンは善い人だわ。苦しい思いをしてほしくないの」

 

 ブラドーは、嗤った。

 彼の哄笑とは、たいていの場合、侮蔑の感情が込められているとピグマリオンは感じている。

 だが、今のこれはこれまでに聞いたことのないものだった。

 情熱が過ぎ去った後に残ってしまった、冷えた感情の発露のようだった。

 テルミもきっとそれを感じているのだろう。次に口を開いたとき、彼女はピグマリオンに語りかけたように柔らかに告げた。

 

「月に祈りなさい。信仰は、あなたの人生を充実させるでしょう」

 

「信仰ならば間に合っている。そして人生を充実させる手段ならばアテがある」

 

「そう。では、ご入り用になったら教えてくださいな。月がある限り、信仰は遍く病み人を救うでしょう。救世の導きです」

 

 会話は、ここで終了してもよさそうなものだった。

 それから、テルミはニコニコと笑いながら日常生活のことを語った。

 ピグマリオンの──そして、ブラドーすら──知らない、医療教会上層での生活だ。やれ小麦の値段が高い。孤児院は規則ばかり多くて参ってしまう。大人達はいつも忙しそう……だとか。

 

 我知らず、彼女の話を真剣になって聞いている自分に気付いた。

 上層に住んでいるのは、階級こそ違えど市街と変わらない人間だ。

 考えてみれば、当然のことだ。

 ピグマリオンは、上層に人間らしい生活をしている人々がいることを大して想像したことがなかった。これまでの人生に余暇がなかったせいだろう。

 しかし、今の上層は、ただの人間の住処ではない。

 

「あら、ピグマリオンさん。上層に興味があるの?」

 

「ええ、まあ、はい……」

 

 ──だってそこには、天使の寝床がある。

 

 孤児院に裕福なイメージはない。

 どんなベッドで寝ているのだろうか。柔らかいだろうか、温かいだろうか。それとも意外と硬く、冷たいベッドなのだろうか。

 真剣な顔でテルミの寝ているベッドを考えている自分をどう見たのか。彼女は「ふぅん」と鼻を鳴らした。

 

「ねぇ、ブラドーおじさま? この黒、わたしにくださらない?」

 

「ええ、うん、えッ。何ですって……!?」

 

 ピグマリオンは聞き間違いかと思い込んで相槌をうってしまったが、その後、ブラドーが思案顔をしたのを見て聞き咎めた。

 

「──よかろう」

 

「何もかもよくないですよね!? あなたの食事は誰が作るんですか!? 食器洗いは!? 洗濯は!? ひとりでお茶の一杯も淹れられない人が何をおっしゃってるんですか!?」

 

 思いつく限り喚いたが、ブラドーの思考は変えられなかった。

 一口、お茶を啜った後で彼は尋ねた。

 

「お主、今年でいくつになる」

 

「三歳です!」

 

 テルミが元気よく手を上げた。指は三本立っている。

 それを見た瞬間、ピグマリオンの脳は勢いよく破壊された。

 

「さ、さん、三歳なんですか!? わ……本物の幼女……? しかし、ワハハハ、聞き間違えでしょうね。十三歳とおっしゃったのですよね? 私の頭がおかしくて聞き間違えただけでしょうそうでしょうとも」

 

「わたしの言うことを疑うのね。悲しいわ」

 

「貴女は三歳です。そうです。貴女の言うことは全て正しい。ヤーナムの真理の一つです。ね、ブラドー氏?」

 

「あと二年経ったら、その男をお主にくれてやる。ビルゲンワースの学徒と共にせいぜい生きた病み人として使い潰すがいい」

 

「ありがとう、ブラドーおじさま! ところでピグマリオンさん。貴方ってブラドーおじさまに嫌われているの?」

 

「いえかなり尽くした気がしますけどね? あくまで個人の感想ですが」

 

 ブラドーは、ピグマリオンに対し、至極当然ことを話すように語った。

 

「咳の度に謝るお主はうるさい。狩人は狩りに戻るべきであるし、病み人はさっさと墓場へ行くべきだ。あるいは、ベッドへ」

 

 ピグマリオンは、日頃横暴な振る舞いのブラドーしか見たことがなかった。

 そのため彼がそっぽを向いて語ったことは、とても意外で嬉しいものだった。

 

「テルミさん。この方は決して悪辣ではないのですよ。とっても分かりにくいですのが」

 

「ええ、そうみたい。貴方もブラドーおじさまのこと大切なのね。ええ、ではこうしましょう。現行の治療方法を試してダメだったら、お父様とも相談してビルゲンワースに行きましょうね」

 

「月の香りの狩人様とブラドー氏がご納得なさるのであれば、そのように」

 

 ピグマリオンは、ビルゲンワースが何なのか分からなかったが、ひとまず頷いた。月の香りの狩人が関わってくれるならば、そう悪い結果にはならないだろう。

 パチリとテルミと目が合った。

 蒼い瞳だ。

 どこか懐かしさを覚えるのは、この蒼をどこかで知っていたからだろう。空ほど青くはない。しかし、どこかで見覚えがある蒼だ。 

 まじまじとテルミの顔を見てしまい、ピグマリオンは気恥ずかしくなった。

 

「えーえ、そういえば、あの……昨日、持っていた銀の剣。あれは、医療教会の輝く剣の狩人証を持つ狩人だけが持てる物でしょう?」

 

「ええ、普通はそうね。けれど、あれはお父様に火炎放射器と一緒にいただいた物ですよ。なぁに。気になるの?」

 

「い、いえ、大したことではないのですが……正直に言いますと、はい、気になりますね。しかし医療教会の狩人ならば皆、あれに憧れているでしょう。輝く剣の狩人証──聖剣の英雄。『ルドウィーク』の直系を示すものです。医療教会の狩人でも選ばれた白服しか──アイタッ!? 突然の暴力! 何か!?」

 

 椅子の下でブラドーに臑を蹴られてしまい、ピグマリオンは椅子の上で飛び跳ねた。

 

「お主……」

 

「ピグマリオン、もう一回言って欲しいわ」

 

「え? 医療教会の狩人でも──」

 

「その前だ、愚か者め」

 

「前ですか? ええと、輝く剣の狩人証、聖剣の英雄、ルドウィークの直系を……」

 

「ピグマリオンさん、よーく聞いてくださいね。ルドウィークの正しい発音は『ルドウイーク』です」

 

「ルドウイーク? ルドウィーク? え? 同じではないですか?」

 

「違うのだ。これだから教会の黒は」

 

 ブラドーの革靴のつま先が、ピグマリオンの臑を再び蹴った。先ほどと寸分違わず同じ場所だった。

 すごく痛い。先ほどまで抱いていた親愛の情が霧散するほどの痛みだった。ピグマリオンは涙を浮かべて「ヒィ、ヒィ」と泣いた。

 

「おじさま、ピグマリオンさんをイジめないでくださいってば。上司運も最悪なのね、貴方。苦労が多いでしょう。……それでね、綴りは、こう書くのですよ」

 

 テルミがピグマリオンの手のひらに一文字ずつスペルを書いた。

 ようやく納得して彼は頷いた。

 

「医療教会の最初の狩人の名前くらい覚えておけ。まったく」

 

「は、はあ……。え、最初の狩人? それって──」

 

 その時だ。

 誰かが外で走っている音が聞こえ、三人は即座に立ち上がった。

 そして各々が銃を構えた瞬間。

 

「開けろ! ルドウイーク官憲だッ!」

 

 扉を叩く音と共に聞こえたのは、すっかり馴染みになった声。

 声の主は、月の香りの狩人だった。

 もっとも扉を叩きながら叫んだ内容については、まったく理解が及ばなかった。

 ブラドーに対し『どうしよう、開けましょうか?』と視線を送ったピグマリオンは信じられないものを見た。──彼は、今まさに長銃の撃鉄を起こし引き金に指を添えたのだ。

 さらに悪いことが起きた。

 

「まあ! お父様!」

 

 テルミはパッと顔を輝かせると扉を開けようと鍵を弄りはじめた。

 ブラドーが構える長銃の銃口は、まだ扉に向けられている。

 

「ななな、何してらっしゃるんですかッ!?」

 

「退くがいい。今なら一撃で二人殺せる。夢に帰る手間も省けよう」

 

 銃を納めるという選択肢はブラドーのなかに存在しないようだ。

 ピグマリオンは咄嗟に銃を持つ彼の腕に組み付いた。

 ブラドーの怪力の前では一般成人男性の腕力など、熊と子鼠を競わせるものだったが時間稼ぎには十分だった。

 テルミが扉を開いたところ、訪問者は目を丸くした。

 

「こちらルドウイーク官憲で、アーッ!? テ、テルミ!? なぜここに、なッ──!?」

 

 扉の先には、やはり月の香りの狩人がいた。

 そして、彼は素晴らしい対応を見せた。

 テルミの首根っこをつかまえると素早く扉のそばの茂みに飛び込んだ。

 次の瞬間、散弾は月の香りの狩人の残像を容赦なく貫いた。

 鼓膜が痺れているピグマリオンは、大きな声で叫んだ。

 

「無茶苦茶するなブラドー氏! やっぱり暗殺なんてやってる人は頭がおかしいんだッ!」

 

「……ブラドーは、とても理性的な人だぞ。ヤーナム屈指の何とは言わないが優秀な狩人でもあるから」

 

「本当に理性的な人は知人に発砲なんてしないと思うわ、お父様。でも助けてくれたの、とっても嬉しい。さすがお父様! 素敵! 好き好き大好き!」

 

「あ、やめ、おッおッ、テルミ、やめ、アーッ!」

 

 茂みで狩人のブーツが激しく動いた。

 やがて狩人はテルミを放り出した。

 それからしばらくして狩人は枯れ枝を引っかけながら出てきた。

 

「テルミさん! 狩人様! 大丈夫ですか?」

 

「大丈夫だ。しかしテルミがいるとは……ど、どうしたんだ、こんなところで」

 

「クルックスもセラフィも頑張っているようなのでわたしもヤーナム探索をしようと思ったのですが……歩いていたらビックリですね。この古工房を見つけたの!」

 

 月の香りの狩人とテルミは、驚くほど共通点がない。

 ピグマリオンは、耳の痺れが薄れてきたので彼らの様子を見守った。

 血の繋がりは一見したところ無さそうに見える。

 月の香りの狩人は、空の相槌をうちながらジリジリとテルミから離れていった。

 

「探索を? ほ、ほどほどにな。無理はしないことだ。しかし、ピグマリオンの様子を見るに彼とも十分な話ができたようだな。よかったな。──それでルドウイークの名前を間違えたのは誰だ?」

 

「はい、私です。先ほどテルミさんとブラドー氏から指導を受けました。申し訳ありません。先輩方が話す音だけを聞いていたものですから」

 

「分かってくれたのならそれでいい。私は現在ルドウイーク官憲としてルドウイークをルドウィークと言う狩人を正しているところだ」

 

「月の香りの狩人様って暇なのですか?」

 

 ピグマリオンは、無礼を承知で質問をぶつけた。

 月の香りの狩人は、辺りを見回して異常が無いことを確認したようだった。

 

「そうでもない。これから市街に戻る予定だ。本活動は連盟活動のオマケだからな」

 

 ピグマリオンは素直に「そうですか……」と呟いたが、テルミは違った。

 

「きっとロクな死に方をしなかった狩人のためにお父様は名誉回復運動をしていらっしゃるのね! 慈悲深すぎて悪夢的ですね!」

 

「違うぞテルミ。死に方で人の尊厳は変わらない。問うべきは『何をしたか』と『どう生きたか』であるべきだろう。彼の人生が悪いものだと決めつけるべきではないぞ」

 

「ふぅん。そうなのですね。学ぶところは多いようですわ」

 

 それから、ようやく月の香りの狩人はブラドーに向き直った。

 

「──という活動もしている。一口、協賛いかがだろうか?」

 

「仕事も間に合っている。不愉快極まる愚行だ」

 

「そうか。残念だ。気が変わったら言ってくれ。ルドウイークには世話になった。私も日々の小さな善行を積み重ねていきたいと思っている」

 

「愚行の誤りであろう。狂気に陥ってもお主の提案に乗ることはない。疾く疾く失せろ」

 

「ああ、退散するとしよう。──あー、そろそろテルミも孤児院に帰るべきだろう」

 

「ええ。帰りますわ。けれど、その前にこの人の体を診察してからでもよろしいですか?」

 

 月の香りの狩人はピグマリオンとテルミを交互に見て、考え込んでから「いいだろう」と許可を出し、ブラドーを庭へ誘った。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 外では、月の香りの狩人とブラドーが何事か会話をしている。

 クルックスやセラフィであれば、聞き耳を立てる事態であってもテルミは変わらない。

 

 ヤーナムの医療者にとって。

 医療とは神秘の探求の『手段』だが、テルミにとってはすこしだけ違う意味を持つこともあった。

 

「ああ、そうそう。ピグマリオンさん、一応聞いておきますね。病み人の意志というものをわたしは尊重したいですから。──苦しみから逃れたいのならば、ずっと眠っていてもよいのですよ」

 

 白い長手袋を外し、厚ぼったい黒衣を脱ぎ、ベストに手をかけたところでピグマリオンは「眠る?」と聞き返した。

 

「状態的には、分かりやすく『死』という意味です」

 

 血色のよくないピグマリオンの顔は、いっそう青白くなった。

 

「『ヤーナムは一年を繰り返している』とは、お気付きでしょう? 死んだ人は元通り。殺したことも一見して『無かったこと』になります。まるで夢を見ていたかのように。この仕組みを知らない人にとっては二度と戻らない命と時間ですが、知っている人ならばただの『一回休み』と言えます。ブラドーおじさまがおっしゃる『無駄』という言葉も、これを指してのことかもしれません。知識の蓄積には願ってもない環境ですが、病み人にとっては辛い時間を長く強いることになります。だから……」

 

「お気遣いありがとうございます。けれど私が自ら死を選ぶことはないですよ」

 

「それは教義のため?」

 

「いいえ。生きていたいから自死を選ばない──という私の小さな意地です」

 

『救い甲斐がある』なんて言葉は、ヤーナムで使われなくなって久しいものだったが、今こそ使い時に思えた。

 テルミは、ピグマリオンの痩せた体に触れ、耳に息を吹き込むように囁いた。

 

「素敵な答えね。貴方の小さな意地は、ええ、いじらしくて好きになってしまいそうです。そうね。『生きている』ってとっても楽しいことだもの。死んでいるより、ずっといいわ」

 

「そうですね。苦しみを伴っていても、生きて……生きて……。時折、悪くないと思えることに巡り会えますから」

 

「わたしのことかしら? フフフ、いい子ね」

 

 ピグマリオンは、もにょもにょと口を動かした。

 

「あのぅ、その呼び方……『いい子』は控えていただきたいような……どうにも子供にかける言葉のようで気恥ずかしいのです」

 

「わたしにとって貴方は小さな『いい子』なので残念ですけれどこの呼び方は変わりません」

 

「さっき病み人の意志を尊重してくれるとかおっしゃったような?」

 

「あら、いけない子ね。医療者に口答えするなんて。消極的希死念慮があるのかしら? 所見に加えておきますね。──さて。意志を尊重する大前提として、あなたの体調とわたしの気分によります。ただし、貴方の体調は危篤状況でない限り重要ではないです。そして今日のわたしは、いい子をたくさん可愛がりたい気分なの。苦しくても辛くても生きたい貴方を『死ぬまで』応援してあげますのでこれからも頑張って生きましょうね?」

 

「はい……」

 

「ちゃんとお返事ができていい子ね。ヤーナムの病み人もこれくらい素直な人が多いと楽なのだけど」

 

「ああ、谷間の町のせいでしょうか。偏狭な人が多いですよね」

 

「貴方もそう思う? 鬱屈した彼らの気分は分からないでもないですが、医療者でも気が滅入ることがあるのですよ」

 

 彼の体は、冷たい。

 ヤーナムで蔓延する輸血液を知らなければ、多くの医療者は首を傾げるだろう。生きているのが不思議なほど冷え切っていた。

 

「ピグマリオンさん、寒くはない?」

 

「いえ、特に……。いつもと同じだと思います」

 

「わたしの手は、温かい? 冷たい?」

 

「あ、温かいですね……」

 

「……。子供の体って温かいのですよ。孤児院の先生がおっしゃっていました」

 

「は、はあ、そう、なのですか……」

 

 ピグマリオンは、両手で大事そうにテルミの手に触れていた。

 彼の手は、小刻みに震えている。こればかりは病気ではない。

 テルミにとっては、たいへん面白く、そして不思議なことに──どうやら彼は、自分に並々ならぬ感情を抱いているのだ。しかし、殺した後で気付くとは少々滑稽で迂闊で運の悪い男だとも思う。

 彼の薄い褐色の目には、炉の残り火じみた欲がチラチラと浮かんでは消える。

 

 いじらしいと言った言葉に、嘘はない。

 

 今も本当は手を握り、関節の一節一節が動くのか試してみたくてたまらない気分になっているようだ。それを堪えて唇を噛んでいることをきっと彼は分かっていない。

 

「──はっ。あ、し、失礼を。私などが触れては、よく、ありませんからね……ええ、はい、善くないことです……」

 

 彼の本質は、とても臆病な性格だ。

 ただし、もっと簡便に『優しい』とも言い換えられる。

 

「触れてもいいのに。貴方には資格がある。権利もある」

 

「っ。いえ……」

 

「遠慮なさらないで? わたしには何をしてもいいの。何でもしてあげます」

 

「な、何でも?」

 

「誰も咎めませんわ。お父様だって構いはしないでしょう。わたしが死んでも何もおっしゃらなかったでしょう? ならば、何も咎めるつもりはないのです」

 

「そんな、いえやはり、私には、ふ、不相応ですから……お体を大切に、っ、してください。何でもなんて……そんなこと言わないでください、誰にも、誰にもです……!」

 

「では、気が変わったらお好きなように。──もっともわたしの気分次第ですけどね?」

 

「もちろん。もちろんです」

 

「いい子ね」

 

 ──悪い男ではない。

 父たる狩人が目をかけている理由の何割かは彼の人格によるものだろう。

 ヤーナムに生きる病み人にしては、穏やかな気性である。ときどき正気ではない言動がある程度ならば、可愛いものだ。

 ベッドに腰掛けたピグマリオンは、着ていたシャツを脱いだ。

 

「お見苦しいものですが……」

 

「いいえ。働き者の体ですよ」

 

 昨日の戦闘の傷は、触れれば血が流れるほど生々しい。治療はおろか消毒した痕跡が見受けられない。

 テルミは医療器具を収めている箱から消毒液とピンセットを取り出した。

 

「傷をほったらかしにしていたのね」

 

「今日は何もしていません。椅子に座っているのが精一杯で……」

 

 傷口に絡まった服の繊維を剥がし、小さく千切った綿に消毒液を含ませて傷口を撫でた。

 

「じっとしてくださいね」

 

「はい。あっ! 浸みますね……」

 

「ええ。ただの擦過傷であれば水で洗い流すだけでよいかもしれませんが、これは銃弾による傷なので……傷口が焼けているようです。でもこれから輸血液を投与するので、すこしずつ回復するでしょう」

 

 しかし輸血液は、万能の薬ではない。そもそも治療薬としての使い方は効果の副次的なものだ。その効果の本質は『生きる力、その感覚を得る』ものだ。ゆえに彼のように資本となる体が蝕まれている場合、肉体の再生は遅々たるものになる。基本的な消毒は必要だった。

 

「はい。消毒は終了です。患部はガーゼで保護をしておきますから。触らないでくださいね。あと、激しい運動をしてはダメよ?」

 

「わかりました。ここには獣も来ませんから……おっしゃるとおりにいたします」

 

「そうしてください。いい子の患者は大好きです。はい。シャツを着ていいですよ」

 

 そばには輸血スタンドが置いてある。

 テルミは背伸びをして輸血瓶を設置した。

 チューブと針の具合を確認しつつ、彼がシャツを着終えた後でテルミはベッドに寄せた椅子に座った。

 

「仰向けは苦しいでしょう? 横向きになってください」

 

「はい。……貴女は、何でもお見通しなのですね」

 

「ええ。貴方が教えてくれますからね」

 

 彼は観念したように目を閉じ、左腕を差し出してベッドに横になった。

 

「苦痛ばかりは、きっとあなたでも量れるものではありません。絶対のものがあるとすれば神のほかに……病み人には、それだけだと思うのです。夢も幻も打ち消す苦痛のなかでしか見出せないものがあるのではないかと思うのです──」

 

 そう信じていなければ、挫けてしまうのだろう。

 人の心は、精神は、終わらない苦痛を耐えられるように出来ていないのだ。

 精神に異常を来さない程度に痛みを緩和することができれば幸いだが、恐らくどんな鎮痛剤も無駄だろう。輸血液で生きている多くの患者がそうであるように、たとえ致死の薬を投与したとしても効果が発揮されない可能性があった。

 常に求められるのは、変質だ。 

 狩人の業が、肉体をも変化させるように。

 

「……。ああ、良いことを思いつきました!」

 

「は、はあ……?」

 

「貴方にカレル文字を授けましょう!」

 

「かれ、かれる? なんですって?」

 

「夢を見ない貴方にとってカレル文字は、ただの印章。けれど正しく人ならぬ声の表音ならば、印章以上の効果を得るでしょう。貴方の『生きたい』という願いは偏執と呼ぶのにきっと相応しいものだわ。強い意志を保ちなさい。人の強さってそういうところにあると思うの! 覚悟してくださいね。脳裏に焼き付けてあげます」

 

「ありがとうございます……?」

 

「うんうん。楽しみにしてくださいね。焼きごて」

 

「焼きごて?」

 

「大丈夫よ。精神的なものですから」

 

「精神的焼きごて?」

 

「あら。物理的な方がお好きなのかしら。わたしは気が乗らないけれど、病み人の意志は尊重したい気分ですから…………しますか? 焼きごて」

 

 ピグマリオンは怯えた顔で不自由に首を横に振った。

 

「フフ、医療者ジョークです。笑ってね?」

 

「ワハハハ……いえ、笑いにくいですね……」

 

「素直でよろしい。腕を消毒しますね」

 

 冷たい腕に触れ、消毒をする。

 それから持って来た紐を駆血帯として腕を縛り、血の流れを滞らせる。浮き上がった血管に針を進めた。

 無事に輸血台に設置した瓶から血液が流れ始めた。

 

「滴下の計算は一時間で設定します」

 

「はい。……ああ、浸みますね……」

 

 効果は、覿面だ。

 ほんの数分でピグマリオンの体は湯に浸かった後のようにポカポカと温かくなり、呼吸も普段の浅く速いものから深いものへと変わっていった。

 ベッドの近くに椅子を寄せ、指先に触れていたテルミは次第に焦点を失っていく彼の目を見た。瞼は重そうだ。

 

「昨日から眠っていないのでしょう。ゆっくり休んで下さいね」

 

「でも、私は……もうすこしだけ、貴女の……そばに……」

 

「また来るわ。その時にお話しましょう。怪我の具合も見なければなりません。話す時間はこれからたくさんありますもの」

 

「…………」

 

 彼は頷いたが、テルミの指を握ったまま離さなかった。

 今にも泣き出しそうな顔で彼はテルミを見上げていた。

 

「慈悲を……どうか私に……不滅の、御使いさま……」

 

 病み人は、哀れだ。

 この病み人は、特にも哀れだ。

 こうして縋るしかできない。

 ほんのすこしだけ指に力を込めれば振り払うことができてしまうというのに。

 テルミは、彼を見下ろした。

 

(優しいのね。わたしの迷惑になるのが怖いのね。わたしに拒絶されることが恐ろしいのね)

 

 彼の目には、さまざまな感情が浮かぶ。崇拝。恐れ。歓び。動揺。そして、罪悪感。持ち得た善性により苦しんでいるように見える。今も激しい葛藤をしているのだ。

 

(この人の優しさは……この人を救わないのに)

 

 誰かを想う心が、無理を強いる。

 そうして摩耗し、壊れ、夜に砕けた狩人のなんと多いことか。

 この男だってそうだ。自分のことだけを考えていれば、彼はもっと簡単に幸せになれるだろう。

 大人の形をしながら彼は搾取を選ばなかった。優しいからだ。そして、自分のために誰かを積極的に消費することを選べないほど愚かだったからだ。

 

(病み人の優しさって、いったい何のためにあるのかしら?)

 

 基本的に無駄なものであり、より長く深い苦しみを招くだけではないかと思う。傷は浅いうちに治した方が良いことを彼は知らないのか、忘れているのだろう。けれど、この仕組みは父たる狩人がヤーナムに殉じる──テルミから見れば──無償の『優しさ』に通じるものがあるとも思える。または。彼女は考える。ひょっとするとカインハーストにおいては愛とも呼ばれるだろうか。

 テルミは、すっかり温かくなったピグマリオンの手を握った。

 

「ピグマリオン。わたしに象牙の服は要りません。アプロディーテーの哀れみもこの地には届かないことでしょう。けれど、もし、わたしを大切に想ってくれたのなら……その狂気に免じて、いつかの月は願いを聞き届けてくれるかもしれません」

 

 テルミの小さな手は、ピグマリオンの頬を優しく撫でた。

 

「わたしが貴方の望みを叶えましょう。そして貴方の狂気により、月の御使いはガラテアに変転するのです。貴方の意志が願う限り、そばにいますよ。さぁ、祈りなさい」

 

 右手で握る杖は「ルーモス 光よ」の呪文を受けて、杖先に光を帯びた。

 月光に似て清らかな白い光でテルミは宙に文字を描いた。

 

「いまや、お父様を指す表音だもの。月に祈るのならば、刻んでおくのも悪くないでしょう」

 

 ピグマリオンの瞳は光を追視し、その後、静かに閉じられた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 眠りは獣性にも似て、抗い難い。昨日から眠っていなければ尚のことであった。

 次第に深く沈んでいく意識のなかでテルミが握る手の温度だけが残った。

 閉じかけた瞼のなかにピグマリオンは、光を見た。

 それが幻なのか、本物の光なのか、彼には判別ができない。ただの直線や円に見えて、初めて見る不思議な形をしたそれは、やがて彼の脳裏に焼き付いた。月への祈りを経た啓示だった。

 

(拝領。ああ、きっと、私だけの拝領……はっきりと、歪んだ……月よ……)

 

 指先の感覚が分からなくなり、彼の意識は眠りに辿り着いた。朝まで目覚めることはできないだろう。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「月」

 ビルゲンワースの学徒、筆記者カレルの残した秘文字のひとつ。

 それは悪夢に住まう上位者の音を表音したもので「月」の意味が与えられ、更なる血の遺志をもたらす。

 悪夢の上位者とは、いわば感応する精神であり、故に呼ぶ者の声に応えることも多い。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「それで先日から上層にはビルゲンワースの学徒を──」

 

 ブラドーと会話を続けていた月の香りの狩人は誰かに呼ばれた気がして、振り返った。

 しかし、そこには誰もいない。

 おびただしい墓碑と白い花が咲き乱れているだけだ。

 

「? 風か……?」

 

「…………」

 

「あ、すまん。それで」

 

 どこまで話したか忘れかけている狩人の視線の先で、ブラドーが何かを思い出したように「ああ」と声を上げた。

 

「──ピグマリオンがこの頃、ひどく怯えていたのだ」

 

「アメンドーズでも見たのか? この付近では見かけたことは……あまりないハズだが」

 

 会話は、狩人が一方的に話す時間が長く過ぎた。

 そのためブラドーからの話は珍しく、貴重だった。『伝えておかなければならない情報』と彼が判断したという意味を含むのだろうと狩人は察した。

 

「今朝の錯乱時に、ようやく口を割った。聞けば、ここに片足義足の車椅子に乗った老人の幽霊がでるのだと言う」

 

「──ほう」

 

 血除けマスクの下で、恐らく自分は笑ったのだと思う。

 

「骸骨とは常に霊魂を誘うものだろうか? どう思う?」

 

「……。私はまだ見ていない。ピグマリオンは錯乱していた。妄言の可能性がある」

 

「信じてみようか。私も会いたいところだ。最初の狩人にな。──では、またいつかの夜に」

 

 来た時より軽やかな足取りで彼は古工房を去った。

 彼と彼女のまとう月の香りは、わずかに留まり、そして風にさらわれて掻き消えた。

 




天使の鐘(下)


ピグマリオンの上司です。真実をお話しします。
「信じて送り出した医療教会の黒が聖歌隊所属少女のガチ恋営業にドハマリして改宗するなんて……と思ったが、最初から期待も信用もしていなかったので、予定通り父娘共々殺すことにします」という特に隠していない本音があるので彼はピグマリオンがいてもいなくてもOKな心境です。ずっと独りでやってきたから孤独には慣れているのです。むしろピグマリオンの方が気位高い猫ちゃんみたいなブラドーおじさんが心配です。──だって、ひとりでお茶も淹れられないのにっ!(主夫ピグマリオンの感想)
 悪い大人ばかりのヤーナムの明日はどっちだ。

記憶
 ピグマリオンは工房に至り、うっかり啓蒙を得てしまったので昨年までのこと(シモンに初めて出会ったこと)を覚えています。テルミのことは二度と忘れることができないので安心です。記念のカレル文字も刻んだし。一度装備したら外せなくなるアイテムかな。

ルドウイーク官憲だッ!
 ウイーク! 開けろルド官憲だ!
 活動人数1名の細々とした活動ですが協力者ならば拒みません。──君もルドウイークがかつて願った教会の名誉ある剣の精神を守らないか? とりあえず名前を正しく呼ぶところからスタートです。

★4 テルミ・コーラス=B加入イベント
 一夜限りの期間限定イベントを開催。
 狂気ポイントを貯めて「★4 月の御使いテルミ・コーラス=B」を加入させよう!
 
 筆者は何度も思っているのです。
 Bloodborneがソシャゲじゃなくてよかったと。ゴーストオブツシマでコラボアイテムを配布する程度でよいのだと。
 おかげで★5の時計塔のマリア(剣)で財布を溶かさずに済みました。でも夏イベで★4配布になった漁村シモンのシナリオはすごく本編補完になりましたしヴァレンタインイベで★4配布になったチョコレート人形のサイドストーリーはスゴくよかったですよね青ざめたチョコからまさか学歴おじさんことアリアンナの家の向かいに住む偏屈な男が過去を遡って学歴をこじらせるきっかけになったビルゲンワースの意中の人に告白する展開になるとは思わなかったですし物語の終盤の展開は水たまりに落としちまったみたいなんだここはずっと青白いんだよ……

おまけの挿絵
テルミとピグマリオン

【挿絵表示】

ピグマリオンがデカい×
テルミが小さい○
ピグマリオン、眼鏡かけ忘れましたが……許してっ!

ご感想お待ちしています(交信ポーズ)
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