甘き夜明けよ、来たれ   作:ノノギギ騎士団

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■■な病み人

 夢のような日々だ。

 私の辛苦は、全て貴女に出会うためにあったのだろう。

 心から、そう思えた。

 私は持ちうる限りの全力で、心の底から、少女の形をした月の御使いを愛していたのだ。

 

「夢はお嫌い? わたしは好きよ。時を経た嘘は、神話と同じになるの。心を耕せば生活も豊かになるわ。物語と同じ。──ねぇ、神話の王様。嘘はお嫌い?」

 

 花壇のなかに座るテルミが、優しく頬に触れた。

 痩せた体を労るように。

 温かい手だった。

 ピグマリオンは、彼女の細い脚に頭を置いたまま促されるように口を開いた。

 

「私も……好きです。ああ、嘘はいい。嘘は形がない。手触りは、貴女が大切にする夢に似ている。だからこそ、私も大切にしたいのです」

 

「そう。いい子ね」

 

 テルミのしなやかな指が、ピグマリオンの白い髪に絡まり、梳いた。

 ──ああ、幸せだ。

 目の奥がジンと痛む。潤んだ目で見上げたピグマリオンは、胸に温かいものを感じていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 テルミと話すようになり、彼女のことを多少なりと理解しつつあるピグマリオンは、ある日知った。

 彼女は見目の美しさほど、心清くないようだ。

 面倒くさいことは、ハッキリと「面倒くさいですね」と言って半目になるし、サボりたい気分の時は「抜け出してきちゃいました」と小さな舌を見せて笑う。しかもそれら全てが、少女らしく気まぐれだ。だが、欠点にはなりえない。

 完璧ではないからこそ親しみを感じる。もし、完璧であったのならそれを試した罪として、自分はただちに縊死すべきだろう。

 今夜の出来事とてそうだ。

 

「今日はわたしの気分が良いので、すこし甘やかしてあげましょう」

 

 本日の思いがけない提案はテルミから成された。

 ピグマリオンは当初断ったが、上機嫌から一転、つまらなさそうな目をした。

 

「なぁに。反論ですか? 遠慮なさらないで、わたしの可愛い人。あるいは弄ぶつもりなのね?」

 

「いえ、そういうワケでは、決して……」

 

 少女に縋る自分のことを客観視すると気恥ずかしさがある。

 理性は羞恥を乗り越えられずにピグマリオンは断った。

 だが、彼女はいつも彼の事情を斟酌しないのだ。

 

「では、貴方が甘やかしてくれるのかしら?」

 

 テルミは目を輝かせて言うが、ピグマリオンは曖昧に「いえ、それも……」と断りかけた。

 待ちきれなかった彼女は、椅子に座っているピグマリオンの膝に乗り上げると首に腕を回して抱きついた。

 

「テ、テルミさん……! 離れて、て、て……」

 

「んー。貴方って骨と皮ばかりだから抱き心地がよくないかも……。けれど、ああ、まだ、すこしだけ温かさが残っているわ。ウフフ、可愛い」

 

「可愛いのは貴女です……」

 

 少女の体は、膝の上にあっても軽いものだった。

 間違っても椅子から落ちないようにピグマリオンは緊張しながら彼女の背中を支えた。

 密着した体は彼女の小さな鼓動を伝えた。

 甘い少女の香りと花の香がまざり、椅子の上で彼はクラリとした。

 

「そう? フフ、わたしのこと『可愛い』って言ってくれるのね」

 

「貴女より可愛らしい存在を私は知りません。……あぁ、私の、美しいひと……」

 

「わたしはお父様のものなので勝手に占有権を主張されると困ります。わたしだから許すのですよ?」

 

「は、はい……。貴女の前では、どうも自制が働いていない気がします。きっと、私には貴女の『可愛い』が過ぎるのです……」

 

「自分に素直なことはよいことだわ。わたしは貴方とずっとお喋りしたいもの」

 

「……私など、ただのつまらない病み人です。貴女のお時間をいただくばかりで何もお返しすることができません……」

 

 本心だった。

 ピグマリオンは、何も差し出すものがないのだ。

 

「お返しなんて要らないわ。わたしはもう受け取っているもの。生きていることは楽しいことだわ。誰かと触れて、話せる。それだけでわたしは幸せなのです。わたしはずっとずっと誰かとこうしたかったの」

 

 テルミは、惜しみない賞賛をくれる。

 ──生きているだけで偉いのだと。

 純真な感謝に触れるとき、ピグマリオンは歯がゆくなる。

 白い長手袋に包まれた手指に、テルミの黒い手袋が絡む。

 白と黒が絡まり合う様子は、何だか目が離せない。

 

「そう、ですか……」

 

 気分次第で病み人の扱いを変えるとテルミは言うが、今のところピグマリオンの願いが却下されたことはない。

 どんな小さな願いだとしても、願えば嬉しそうに彼女は微笑む。

 その顔が見たいがため、ピグマリオンは頭を寄せた。

 

「……では甘やかしていただけますか? すこし。ほんのすこしだけ。私は貴女の時間ばかりではなく慈悲も……いただきたいのです」

 

 恐らく、自分は滑稽なことをしている。

 ピグマリオンは顔を上げる勇気が持てず、そんな考えで気持ちを逸らした。

 彼女の気を引きたいがために、こうして必死になって信仰している。

 

「ええ。叶えましょう。貴方にはその権利があるのですから」

 

 そうしてテルミに手を引かれて、墓碑と花が咲く地に身を横たえた。

 小さな恋人のように振る舞う彼女は、ピグマリオンの髪を手で梳いていた。

 月の光を受け、白い肌は輝いて見えた。

 ピグマリオンは、彼女の細い指を握った。

 

「このところ貴女に触れていると眠くなってしまいます……。ああ、まだ……もっと、お話をしていたいのですが……」

 

「子供は温かいものだもの。眠くなるのも無理はないわ。それにヤーナムの人々は忘れがちなのだけど、夜は普通眠るものよ」

 

「そうでしたね。……目を閉じると獣の声が遠く聞こえるようです。今日も市街は獣狩りでしょう……」

 

「本当の月は隠れて久しいと聞くけれど、人はやはり月の魅力には抗えないのでしょうね」

 

「…………?」

 

 テルミの言うことは、ピグマリオンにとって難しい。

 空想なのか。それとも、おかしくなってしまったヤーナムの真実の一端なのか。

 考え込もうとすると手袋に包まれた指がそっと瞼を閉じた。

 

「けれど獣はここまでやってこないわ。お眠りなさい、わたしの可愛い人。今日は呼吸が落ち着いているわ。いつもより深く眠れるでしょう」

 

「もうすこしだけ……あと五分……」

 

「ダメです。さぁ、お休みなさい。貴方、ね……」

 

 ピグマリオンは、テルミの言葉に従った。

 彼女の大腿に頭を乗せると繊手に促され、薄い体に額をすり寄せる。

 

(ああ、子守歌が聞こえる)

 

 歌に誘われ、意識は苦痛に苛まれる肉体から離れ、深いところに沈んでいく。

 

 ──人は、ちょっぴりの情と温もりがあれば、こんなにも救われるのに。

 ──なぜ、人は人以外のものになろうとするのだろうか。

 ──どうして、ここに至るまで気付けなかったのだろう。

 

 わずかに涙を浮かべる眦をテルミの指が撫でた。

 

「優しい貴方の悲しみが拭われますように。望む限り、そばにいますからね」

 

 遠く失せていた人の温もりは、一度慣れてしまえば、眠気さえ招くものだと彼は知らなかったのだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 異変は、何でもない日常にこそ根付き葉を伸ばすものだ。

 そのため間違っても『悪い予感はありませんでした』とは、本日の手記に書けそうにない。

 

「貴方に、わたしの大切なものをあげます。もし、わたしの『それ』を知ったら皆さんが、こぞって欲しがるので内緒にしているの。熱心で敬虔な信仰をお持ちの、貴方だけ、ですからね」

 

 思えば、あまりに『うまい話』だった。

 今朝は眠ることができず、身の程知らずの快哉を叫んでしまったことが、遠い記憶のように回想できた。

 テルミに誘われるまま、古工房の椅子に腰掛け「目を閉じていてくださいね」という指示に従った結果、ピグマリオンは手足を拘束され、椅子に捕縛された。

 渾身の力を振り絞っても身動きが取れない。

 脱出不可能を悟ったピグマリオンは、近くのテーブルで作業しているテルミを見た。

 しかし言葉は、なかなか出てこないものだった。

 

 たとえば「私を騙したのですか?」と聞いてしまいたい気持ちは強いが「そうよ」と微笑まれたら果たして次はどう答えればよいのだろう。きっと「そうですか。困りましたね」と答えることしかできない。また「騙すってなぁに?」と聞かれたら「いえ」としか答えられない。さらには「わたしを信用していないのね。悲しいわ」なんて言われたら最悪だ。

 それに、ひょっとしたら、テルミは本当に『大切なもの』をくれるつもりなのかもしれない。最も気まずいのは「いったい何をされると思っていたの?」と聞かれた場合だ。自分はいったい何を期待していたのだろう。自分でもわからないのになぜか舞い上がっていたのだ。

 

「いい子ね。おとなしく座っていなさい」

 

 瓶が擦れる音が不安を掻き立てる。

 限界まで首を動かして見た瓶の中身は病の見せた幻でなければ、その内容物は黄色だった。

 輸血液の色は、いつも濁る赤だ。

 異常な光景を見てしまったピグマリオンは、ついに口を開いた。

 

「は、はぃ……あの、これは……どういう……?」

 

「ええ。貴方の好きな輸血をしてあげようと思ったの」

 

「けれど、その、いつもはベッドで行っていましたよね? 私の記憶違いでなければ……ですが……」

 

 テルミは、振り返った。

 手には、見間違えと思いたかった黄色の液体の入った茶瓶。そして、一本の注射器があった。

 

「ええ。今回の輸血液はヤーナムのなかでも特別な輸血液です。だから不備があってはいけないでしょう?」

 

「それは、もちろん。もちろんです。おっしゃるとおりです。でも、でも……私は、おとなしく座っていられますよ。拘束しなくとも……」

 

「念のためです。貴方を傷つけたくないの。それに『おとなしく座っていられる』のなら、そのままでも問題はないでしょう?」

 

 おとなしく座っていられる、とは。

 自分から言い出したことである。

 ピグマリオンは頷くしかできなかった。

 テルミは、優しげに微笑み対面に椅子を持って来て座った。

 こんな時でさえピグマリオンは、ワンピースの裾からチラリとのぞく小さな膝に目を奪われてしまった。

 

「……あらあら……」

 

「ひぃッ! ああ、あ、あ、あの。誤解を……しないでいただけると幸いなのですが……私は、決して、やましいことは──」

 

「わたしに触れられると思っていたのでしょう?」

 

 ──読まれていた。

 ピグマリオンは目を背けた。クスクスとテルミが笑う声だけが閑静な古工房に聞こえていた。

 テルミは、人の顔を見ただけで考えていることが分かると言う。

 彼女の前で隠し事をするのは、一般的に困難である。いいや。ピグマリオンは考える。万全な心身であれば自己暗示によって、ある程度の欺瞞は可能かもしれない。しかし、現在のピグマリオンは万全とはほど遠い心身だ。そして、何よりも。

 

「あぁ、どうしても、どうしても……私……私は……貴女を……貴女のことが……」

 

 テルミに心奪われていた。

 街の悪夢が始まる以前。ついぞ知ることはなかった恋は、ピグマリオンを狂わせた。

 一目惚れだった。

 テルミを一度殺したことが負い目となり何も断ることができなくなったのは、都合がよかった。もとより断るつもりなどなかったからだ。医療者と病み人の関係は幸福だった。もしも病を得ていなければ、彼女が訪ねて来てくれることはなかっただろう。彼女の優しさが心地よかった。気遣いが嬉しかった。言葉を交わせることが楽しかった。これだけが慈しみで愛だと信じられた。

 もっとも。

 彼女がどう思っていたのか分からない。しかし、打算的な動機があったとしてもピグマリオンは幸福だった。

 

 テルミの存在は、あまりにも眩しい。

 

 まず美しく、優しく、病を恐れることがない。──夜に迷い、血に溺れていくだけの自分にも朝は必ず昇るのだと信じさせてくれる存在だった。

 だからこそ、目が眩んだ。

 他者から見ればとうてい恋と呼ぶべくもない執着は、彼が大事に抱えていた信心さえ容易く捨てさせた。

 

「あ、貴女の、ことが……」

 

 目を合わせることなどできるハズがなかった。

 きっと自分が考えていることも見透かされている。

 ──何もかもが違う、美しいひと。影でさえ愛しい。

 ピグマリオンは、この人に触れてみたかったのだ。

 

「うんうん、好きなのね。わかっていますよ。けれど、わたしにもわからないことがあるわ。貴方、いったいどこに触れたかったのかしら? いつも見ている顔? これはちょっと面白味がないですね? いつぞや絞めた首かしら? きゅ~っ」

 

 ピグマリオンは耐えきれずテルミを見た。いったい何を言い出すのか。恐れ戦き、全身が震えた。彼の予想が当たったことはほとんどなかった。それでも見つめずにはいられなかった。

 両手で首を絞めるフリをする彼女は、かつてピグマリオンが失神を狙った手癖を真似していた。

 それから、すこし考えた顔をして、彼女はお腹を撫でた。

 

「それともここ? 肉付きは、あまりよくないのだけど……院長先生は、お好きみたい。貴方も? あとは、ええ、太股とか? ああ、ここなら一番柔らかいかもしれませんね。きっと触り心地がいいですよ。太いという意味ではありませんけどね?」

 

 言葉にならない呻きを上げ、ピグマリオンは必死で首を振った。

 テルミは自分の頬に触れ、首を、薄い腹を、太股の細さが分かるように撫でていった。

 最も耐えがたいことはピグマリオンが苦しむことを分かっていて、わざとこうして挑発的な振る舞いを見せているのだ。実際のところ効果的だった。嫉妬と怒りで狂ってしまいそうだった。

 

「お、お願いです……お願いです……! もう、な、何も言わないでください、何も、決して何も……! お願いです……お願いします……こんな辱めは、あまり……あ、あんまり、では、ないかと──」

 

「貴方の頭の中で辱めを受けているのはわたしの方ですけどね?」

 

 ピグマリオンの頭には「死」という言葉が浮かび、消えた。

 その後で呻き声は、引き付けになり、やがて不規則な呼吸に変わった。

 

「──あら。ごめんなさい。本当のことを言われただけで泣かないでくださいね? けれど、皆さんがわたしを見て考えることはだいたい同じなので貴方も恥を感じることはないでしょう。わたしの体は小さいですからね。どうとでもできてしまうのは、実際、そうでしょうし」

 

 もしも、手が自由に動いたならば耳を裂いていたかもしれない。

 ピグマリオンは、かつてないほど真剣に言葉を考えた。

 

「ち、違います……! 違うんです、信じてください……! 決して、貴女に害をなそうとは思っていません! 本当です、信じてください。私は、他の人とは違います。私は、私は、このピグマリオンは違うんです──!」

 

 テルミはどうでもよさそうに笑った。だからこそ慈悲深い微笑に見えた。

 

「ええ。わかっています。咎めませんよ。貴方も忘れてくださいね? そんなことより貴方とのお喋りは楽しくて、つい話しすぎてしまうの。私も貴方のことが好きですよ。ピグマリオン、わたしの可愛い人」

 

 しまりのない顔でピグマリオンは、力なく笑った。笑うことしかできなかった。見放されたと思った途端に救われる。繰り返される言葉は、甘く痺れるような多幸感を生んだ。頭がおかしくなりそうだった。彼女が微笑んでいるだけでピグマリオンも幸せだった。これは恋の作用なのか。はたまた他の仕業か。彼には、もう正常な判別ができない。

 

 ──どうして手が届くと思ってしまったのだろう。

 ──何もかも最初から、この子の掌の上だったのではないか?

 

 自分の思考の異常に理解が及んだ時には、遅すぎた。

 

 ──いやしかし、だから何だというのだろう。

 おおよその思考は現状を『問題なし』として判断しようとしていたからだ。

 彼女は近くのテーブルに置いていた瓶を手に取った。黄色の液体が入った瓶だった。

 

「よいしょ……と。お喋りはこのくらいにしないといけませんね。特別な輸血液を用意するのに時間がかかってしまって今頃になってしまったわ。ごめんなさい。本当はすぐにでも持って来たかったのだけど」

 

「いつもと色が、違うように見えるのですが……それは……いえ、異議を唱えるつもりは毛頭ないのですが……」

 

 話題が変わるのならば何でもいい。

 ピグマリオンは、興味がある風を装った。

 

「もともとは輸血液を調整して強い効果を得る実験の成果物なのですって。これ自体は高位の医療者であれば手法も知られているものです。安心してください。でも、持続性があるからきっと体が楽になると思うわ。ああ、ちょっと色が気になるのね? 中身は、ちょっと強めの輸血液と変わらないから安心してくださいね」

 

 それならば、と納得しかけたピグマリオンは、次に一本の注射器を見せられた。

 中身は、一見にしてただの輸血液に見える。

 指先でクルクル回して見せながらテルミは小首を傾げた。

 

「貴方は、月の香りの狩人様へ感謝をしていますね? 月への信奉を忘れてはいませんね? お父様の月から分かれたわたしにとって、その心はぜひ大切にしたいものです。貴方は善い人だわ。お父様が救い上げた理由も、きっと持ち得た善性によるものでしょう。そのお父様は誰にも何にも報わずとも頑張っています……けれど……けれど本当は……誰かが感謝することが、本当は必要だと思うの。だって報われないことは悲しいことだわ」

 

 指先でピグマリオンのタイを外した。

「むぅー」とテルミは反応の薄い彼の喉を爪で浅く掻いた。太股がビクリと震えた。

 

「あら? 反応が薄いですね。本当のことなのに」

 

「も、もちろんです! 分かっています、分かっています、ええ、はい、疑いなど何も! 貴女の言うことは、全て真実です!」

 

「うんうん、わかってくれて嬉しいわ。物わかりのよい子は好きよ。病んでいても、まだ生きていたいのでしょう?」

 

「そうです、私は、まだ……」

 

「ええ。とっても嬉しいお返事! そんな貴方に特別なプレゼント! ハイ、とっても特別な輸血液!」

 

 ピシリと注射針がピグマリオンを差した。

 どのあたりが特別なのか。外見からは分からない。

 質問のために「あの」と口走ったところでテルミは全てを察したようだ。すぐに「よくぞ聞いてくれました!」と楽しげに言った。

 

「これは、とーっても貴重で大切な輸血液なの。もし、聖歌隊や隠し街の会派に知られたら殺して奪い取る程度のね」

 

「そんな貴重品を、なぜ私なんかに……」

 

「このわたしが! この月の香りの狩人の仔の一のテルミが! 貴方の呼吸から信仰生活まで見守ることを決めたからです!」

 

 テルミは輸血液の瓶をテーブルに置いた。

 注射針を持ったまま、ピグマリオンの太股に乗り上げた。

 触れたいと願ったテルミが、吐息さえ交わせそうな場所にいる。

 だが、ピグマリオンの気分は上向くことはなかった。むしろ。

 

「ンむーっ!?」

 

 かたく口を閉ざし、顔を背けた。

 テルミは、そっと彼の頬に触れて顔を自分へ向けさせた。

 蒼い瞳には、恐怖に顔を引き攣られた自分が映っていた。

 

「貴方の病気なら、わたしには感染しませんから大丈夫ですよ。そう怯えないでくださる? 虐めたくなってしまうでしょう? 虐められたいのなら構いませんけれどね? 痛いのがお好き? それとも柔らかいの? 願えば『気持ちいいもの』という選択肢もあるかもしれませんよ? ウフフ……」

 

「ンンン──ッ!」

 

 首を横に振って拒否したつもりだったが、テルミに伝わったようには思えない。

 答えを催促するように繊手は、乾きひび割れた彼の唇を撫でた。

 

「あら、言わないの? こうして欲しかったのでしょう? 触れてほしいのでしょう? 何でもしてあげるのに。もちろん、貴方の体調とわたしの気分次第ですけどね?」

 

「え……あ……」

 

 テルミはピグマリオンの膝の上に腰掛けると彼の胸に寄りかかった。

 ──ああ、軽い。

 薄い肉付きの体は腰骨の形まで分かる。彼女の存在が身近にあると喉の乾きにも似た飢餓感ばかりが募った。

 白の長手袋が脱がされ、腕の血管がよく見えるように服をまくり上げたところ──テルミは口を尖らせた。

 

「刺そうと思ったのですが、やめました」

 

「やめたのですか。……ああ、そう、そうですか……」

 

「いえ、今日打ちます。でも、ピグマリオン、貴方……ちょっと興奮しすぎです。心臓がドキドキですよ」

 

「ア、ハイ」

 

 再びピグマリオンの頭には「死」という言葉が浮かんだ。

 居心地が悪い。彼は椅子に座り直そうとして縛られていることを思い出し、ベルトを軋ませた。

 

「時間は惜しいのですが貴方が落ち着くまで待ちましょうね。そうワクワクしないでください」

 

 するりとテルミの手が、黒衣の内を撫でる。

 それからあやすようにポンポンと優しく叩いた。

 

「ただの特別な輸血ですからね。はい、吸って。吐いて。いい子ね。吸って。吐いて。吸って。吐いて。あら? 誰が息を止めてもいいと言ったのかしら? もしかして、貴方の神様?」

 

「ご、誤解です! 緊張しているだけです!」

 

「ごめんなさい。緊張を解すための医療者ジョークのつもりだったの」

 

「そ、そうですか……! いえ、私は、いつも余裕がなく、ジョークを解する頭の持ち合わせもないので……」

 

「いいのよ。今度は病人ジョークを考えるわ。咳をして血を吐くとかね」

 

「やめて……やめて……おやめください……。私の命だけでは、とうてい釣り合いがとれませんから……」

 

 テルミは、あやすように呼吸を促した。

 どれほど混乱していようとも指先一つで従ってしまうのは、惚れた弱みだろうか。それとも。

 

「LaLa……Lulu、Lalula……」

 

 ヤーナムでは聞いたことのない歌のせいだろうか。

 

「それは外の歌ですか? ヤーナムに来てからというもの、歌は……とんと聞いたことがないのです」

 

「そうなの。外の歌。子守歌なの。どうして子守歌って小さな子供をおどかす言葉が多いのかしら。メロディーは素敵よね」

 

「ええ……とても素敵です。あ、あ、貴女の、こ、ぉ……」

 

「うんうん。貴方も落ち着いたみたいだし、輸血液の準備をはじめましょうね。消毒しますよー」

 

 ピグマリオンは『血管が火薬庫しないかな』と妄想したが、そんなことにはならなかった。

 テルミは膝の上から下りるとテーブルに戻って作業をした。

 

「はい、注目してください。ここに聖歌隊のお姉様とお兄様からご提供いただいた輸血液を精製したものがあります」

 

 テルミは、テーブルに置いた黄色の瓶を差した。

 

「そこに特別な輸血液を混ぜます」

 

 テルミは持っていた注射針を固く閉じられたコルクに差し込み、内容液を注ぎ始めた。

 その光景はピグマリオンにとって衝撃的だった。

 

「まままま、混ぜるんですかっ!? えっえっ? エッ? ……それは!? い、い、いいんですかっ!?」

 

「生搾り100%は、わたしには影響ありませんでしたけど、貴方にどんな影響があるか──あ。忘れてくださいね?──というワケで、こうして希釈するのです。輸血液自体はヤーナム最高品質ですからきっと大丈夫ですよ」

 

 黄色の液体に赤い血が混ざり合い、左回りに渦を描くように溶けていく。

 ──どこかで見覚えがある光景。

 ピグマリオンの頭には閃光のように鋭い痛みがはしった。

 

(あれは、不吉なものだ)

 

 病み人の直観は、ピグマリオンの直観は、死期迫る時こそ鋭く閃くものだった。

 それが告げる輸血液の中身は、黄色から鮮やかな赤へ変貌を遂げていた。

 

「よかった。ちゃんと混ざりましたね」

 

 テルミは背伸びをして輸血液を点滴スタンドに設置した。

 無機質な音の連なりが再び呼吸を速めた。

 動揺を悟ったようにテルミの指が、汗が浮かぶ額を撫でた。

 

「さぁ、治療をはじめましょう。……いい子ね。大人しくしていれば、すぐに終わるわ。なにも恐くありませんからね」

 

 ──この顔だ。

 輝かんばかりの笑顔で彼女は言う。

 どこか人形めいた少女が、血色の良い年頃の少女に感じられる瞬間が今だった。

 

 ピグマリオンが「生きたい」と願う度に、彼女はこの顔をする。

 何を言われても優しげな微笑を浮かべ、目の前を見つめているようでどこか先を見ている彼女と、本当の意味で目が合う、そんな心地にさせる。

 そして、彼女の表情がわずかに変われば、それを見る病み人は思わずにはいられないことがある。

 

(あぁ、この人だけが、私の命を尊んでくれる)

 

 ヤーナムに掃いて捨てるほどいる病み人の命を省みる者は少ない。

 自分のことでさえ捨て鉢な病み人もいる。

 ゴミ屑ほどの価値もない命を見つめ、救おうとしてくれる者がいる。

 どうして無碍にできるだろうか。差し伸べられた手を払うことができるだろうか。

 

 ピグマリオンにとってはテルミの優しさだけが全てに優先され、また信仰に値した。

 他者には明らかな破滅の兆しに見えたとして。

 血の医療がそうであるように。

 全てをなげうつ価値があると彼には思えたのだ。

 

「わたしに触れるより、もっといいものに、もっともっと大切なものに、素晴らしいものに触れさせてあげる。──さぁ、お父様の神秘に見えるがよい」

 

 甘い声が、耳元で囁く。

 決して衛生的とは言いにくい輸血瓶の水面が微かに揺れた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 たとえばの話だが。

 

「それでも私は、あなたに触れたいのです」

 

 そう伝えていた場合、テルミの対応は変わったかもしれない。

 もっとも。心の薄暗い場所を暴かれさらに抵抗する手足を封じられたピグマリオンには、思考する気力がなかった。

 何より遅すぎたと理性は悟る。

 初めて恋を自覚した時には、もう血染めにしていた。

 惹かれていた心に気の迷いだと言い聞かせ、信仰のために罪を重ねたのは、朝陽に憧れつつも目を背けた、かつての自分なのだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 異変は、何でもない日常にこそ根付き葉を伸ばすものである。

 そして本日、開花を迎えた。

 

「待って、まって──! こんなっ! ぐっ……! おかしい、なぜ……! テルミさんっ、止めて、輸血を止めて! おやめ、ください!」

 

 輸血が始まった直後。時間にして十秒にも満たない。常とは異なる眩暈と動悸、そして悪寒に襲われ、ピグマリオンは力の限り暴れた。息はできる。けれど苦しい。肌の下を知らない熱が暴れ回っている。頭の後ろからやって来る寒気で舌根が震えた。

 テルミは、懐中時計を開いて時刻を確認した。

 

「滴下数の計算によれば、あと五十九分です。それまで頑張ってくださいね」

 

 ──耐えられない。耐えられるワケがない。耐えられる道理もない。

 理不尽な暴力にさえ耐えうる精神は、このとき悲鳴を上げた。 

 

「お願いします! お願いします! やめて、やめて、輸血を止めてください……!」

 

「うーん。『止めてほしい』ですか? でも輸血は始めてしまったし、わたしは貴方を幸せにしたいので止める理由はありませんね。瞳孔も正常です。いい子ね。問題はないでしょう。続行ですね、はい」

 

 死刑宣告だって今の彼女の言葉に比べれば慈悲ある言葉に聞こえたことだろう。

 テルミがテーブルに置いていた布でピグマリオンの汗を拭った。

 布はヒヤリとした感覚があった。水にも浸していない、ただの布だ。それだけ自分の体が熱いのだ。

 

「苦しいのです……! お願い、お願いします、何でもしますから、このピグマリオンにできることならば、何でも……!」

 

 心臓は、かつてこれほど速く動いたことはない。

 市街で丸腰のまま獣と対峙した時でさえ、今ほど苦しくはならなかった。身の震えが止まらない。針が刺さっている腕は直視するのも憚られた。

 

「『何でも』?」

 

「何でも、もちろんです、嘘ではありません、から!」

 

「へえ。では拝領なさい。天からおちた水が地に染みこむように。月から滴る聖液が血に溶けるように。その病んだ喉を鳴らしなさい。病んだ舌で言祝ぎ謳うことを許しましょう。赦しに歓びなさい。喜びなさい。啓蒙的真実による信仰は貴方の人生を豊かにするでしょう」

 

「は?」

 

 意識は、すでに定かではない。

 ここでどこで、今がいつで、自分はいったい何をしているのか曖昧になりかけているピグマリオンの前でテルミは、ニッコリと笑った。

 

「わたしは……お父様のことが一番大好きですが、貴方のことも好きですよ。ピグマリオン。ええ、本当に。ありふれた病み人の貴方。このヤーナムで生きたいと願う、貴方のことが好き。だからこそ、わたしもワガママを言いたくなってしまったの」

 

 ウフフ、と楽しげに笑う声が頭のなかで聞こえた。

 

「ヤーナムに相応しい『まともではない貴方』のことはもっと好き! 大好きなものと好きなものが一緒になったら、きっと素敵だと思うの。だから最も新しく、最も偉大な血を受け入れてくださいね?」

 

 遠近がおかしくなっている視界に輸血スタンドが見えた。

 つい先ほどまで赤に見えた輸血液は──幻覚だろう──夜空の色に変色しているように見えた。

 

「なぜ──どうして──そんなっ、さめた……青が……」

 

 自分は、どこかで何かを致命的に間違えたことだけが分かった。

 それがどこの何だったのか分からないうちに彼の意識は暗転した。

 

 間違っているようだが、それでも後悔のような後味悪い感情は残らなかった。

 持てる限りの情熱全てでピグマリオンは、テルミに恋をしていたのだ。

 熱い体と頭の奥からやってくる寒気が、奇妙な感覚として最後まで残り続けていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「やかましい」

 

 これだけを言いに来たブラドーが見たのは、失神しているピグマリオンとそれを甲斐甲斐しく世話しているテルミだった。

 

「ごめんなさい。ブラドーおじさま。患者が突然興奮したの。もう静かになったのでお許しになってね?」

 

 一時間が経過し、輸血が終わるとテルミはテキパキと器具を片付けた。

 ピグマリオンを拘束していたベルトを外すと倒れかかる彼を支えた。

 

「終わったならば、疾く失せよ」

 

「そうするつもりなのだけど、おじさまもピグマリオンをベッドに運ぶの手伝ってくださる? わたしもおじさまくらい背が高くなりたいわ」

 

「…………」

 

 小さな体のテルミでは、運ぶにも手間ばかりかかる。

 ブラドーはピグマリオンの首根っこを捕まえるとベッドに放った。彼の意識は相変わらず戻らないままだったが「ぐえ」と声を上げた。生きてはいるらしい。

 

「ありがとう。おじさま。目が覚めるまで見守っているわ」

 

「失せろと言うのに。まったく」

 

 汗の滲むピグマリオンの額を拭い、テルミは彼の目尻を撫でた。

 頬には乾いた涙のあとがあった。

 

「なぜ、そう入れ込むのかわからんな。月の香りの狩人もお主も。ただの病み人だ。救われぬ病み人だ」

 

 ──だからこそ、なのでしょう。

 テルミは静かに言った。

 眠るピグマリオンに寄り添う彼女はいつもより、とても小さく見えた。

 

「まともに生まれてこなかったわたし達が愛せるのは、まともに生きていない人だけですから。まともになれないこの人のことは、とても大切にしたいの。ふふっ。青ざめてる。可愛い」

 

「まとも。まともか……くだらぬ」

 

 彼は吐き捨てた。

 

「古い狩人は皆、その言葉を知っているのね。たしかに。まともであることは、くだらないかもしれないわ。単純に、予想が容易くてつまらないですからね。その気持ちも深くわかります。けれど」

 

 クスクスと小さな笑い声と共に彼女は振り返った。

 

「まともであることを捨ててもヤーナムの長い夜に耐え難かったように見えます。今は長い夜に変わりはありませんが、月が見ている夜です。すこしくらい失ったまともを取り戻しても悪くないと思います。夏の夜は冷えるわ。なのに人間性ってこんなに温かいもの」

 

 悪い夢に魘されているのかピグマリオンが苦しげに歯ぎしりした。

 ブラドーはテルミに背を向けた。

 納得したワケではない。だが、まともから遠い生まれの者が、まともさを説くとは少々皮肉がきいて愉快な話である。

 ただの楽観主義の小娘だと思っていたが、陰険で冒涜的なヤーナム人らしい性格でもあるようだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ……ぅ……さん……。

 

 誰かが呼んでいる。

 眠りは泥のように意識にまとわりつき、目覚めることが難しい。

 

「ん……ぐぅ、んんん……」

 

 わずかに身動ぎして眠りに集中する。

 

「寝ないでっ!」

 

 少女のキンキンと高い声が脳を貫通した。

 

「ハひッ!? ……?」

 

 ピグマリオンは、目を覚ました。

 気付けば椅子の上でうとうとしてしまったようだ。

 あたりを見回すと石畳の舗装された道を行く馬車がある。道を通行する紳士と目が合った。彼はクスリと笑って頭の上の帽子に触れた。

 明るい視界は、ゆっくりと巡り目の前の少女を映した。

 

「もう~。寝ぼけているの? 舞台に立っている時はシャンとしているのに、降りた途端にぼんやりしちゃう癖、よくないと思う!」

 

「ああ、すみません、すみません……?」

 

 咄嗟に謝りながら、自分はいったい誰に謝っているのだろうかと顔を上げた。

 ピグマリオンの目の前にいたのは、晴れた空に似た蒼の瞳、金色の柔らかそうな髪を肩の高さで綺麗に切り揃えた華奢な少女だ。

 彼女は、つまらなさそうな目をして頬杖をついていた。

 

「明日、わたしの誕生日なの。知っているでしょう?」

 

「ああ、そうでした。そうでしたね」

 

「……その顔。忘れていたの?」

 

 恨みがましい目から逃げるように彼はうろうろと視線を彷徨わせた。

 

「わ、忘れてなんかいませんよ。ええ。ただ、すこし、考え事をね。誕生日プレゼントは何がいいだろうとか……」

 

「お父さん」

 

 甘い声で、彼女は言う。

 家族だから聞くことの出来る、愛情のこもる甘えた声だった。

 彼らは席を立つ。指を絡め、先へ先へ歩く彼女を追いかける。

 

「誕生日だもの。特別な日にしてほしいわ」

 

「ええ、はい」

 

 ──そうですね。

 答えかけたところで、ピグマリオンは気付いてしまった。

 

『お父さん』

 

 その言葉はピグマリオンにとって特別なものだった。

 

 彼は誰かに愛されたかった。誰かを愛したかった。

 きっと誰もが抱く、ありふれた小さな願いだ。

 しかし、身に巣くう病が彼の全てを奪っていった。

 家族は、ひょっとしたら自分の健康よりも使命よりも欲しかったものだ。ずっとずっと欲しかった。

 

(あぁ、どうして……)

 

 だからこそ、気付いてしまった。

 

(私は。いま。永遠に手に入らないものを見ている)

 

 ピグマリオンは目の前の世界が、ただの夢だと悟った。

 夢には、手触りがない。重みがない。

 それは、嘘と同じだから。

 誰かと話した言葉が蘇った。

 

(それなのに……どうして幸せなのだろう)

 

 右手を握っていた娘の手がすり抜ける。

 

「お父さん?」

 

 不思議そうな顔をした彼女が振り返った。

 ピグマリオンは立ち止まった。

 彼女がいる日だまりの向こう側へは行けない。

 

「ああ。……月の御使いの貴女」

 

「……。月? どうしたの? お父さん?」 

 

「──私は貴女の父にはなれません。これまでも。これからも。ずっと永遠に。けれど貴女のために祈ることは出来ます」

 

 娘の顔は、突然の逆光で見えなくなった。

 

「優しい病み人の貴方、ここは夢なのに。悲しい病み人の貴方、せっかくの夢なのに。貴方は夢を嘘にしてしまう心算なのね?」

 

 ピグマリオンはその言葉に応えなかった。

 

「……どうか貴女が、甘き夜明けと共に健やかにあることを願うばかりです」

 

 彼女は笑った。

 

「不滅を知っていながら、わたしの健康を願うなんて! 貴方が絶対に得られないものをわたしに願うなんて!」

 

 これは嘲笑だろうか。それとも憎悪だろうか。あるいは悲哀だろうか。

 どれでも相応しい笑い声だった。

 

「病んでいない体。そして家族。……美しい夢をありがとうございます。あったかもしれない夢を見せてくれて……本当に」

 

 彼女の愛が本当であるのならば、その丈、苦しむ願いを込めてピグマリオンは祈った。

 

「どうか貴女の幸せを願う私の望みを叶えてください。叶うまで祈りを重ねましょう。──月の不滅の乙女よ、どうか甘き夜明けと共に健やかにあれ」

 

「身の程を知らない生意気な願いで、しかも懇願の気配がします。わたしだから聞くだけは聞くのです。月の恩寵に感謝なさい。──お父さんにもなれなかったお父様」

 

 悔しそうに彼女は言う。

 それがテルミの顔をした娘の言った、最後の言葉だった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 いまや朝陽は、等しく深い谷にある古工房にも差し込む。

 白い光が瞼を通し、チクチクと意識を刺激する。光に誘われてピグマリオンは目を醒ました。

 

「あら、よかった。目が覚めたのね。──わたしのこと、わかるかしら?」

 

 椅子に座りながら目を覗き込んで確認した彼女は、次に指に触れた。

 今日は珍しくテルミの手の方が冷たく感じた。

 体調が良い時は、朝から体温が高い。

 ピグマリオンは気分が上向く予感がした。今日は活動的な日になりそうだ。しかし、解せないことがあった。

 

「テ、テルミさん……? 朝なのに、どうして、いらっしゃるんですか……?」

 

「貴方の目が覚めるまで待っていたかったの。昨日のことは覚えているかしら?」

 

「昨日……?」

 

 ピグマリオンが覚えている最も新しい記憶とは「貴方に、わたしの大切なものをあげます」と耳元で囁かれ、この古工房の扉をくぐったところまでだ。あれから何が起きたのか。彼には分からなかった。

 

「ええと……何と申しますか……あのー、そのー……」

 

 しかし、素直に『覚えていません』とは言えなかった。

『大切なもの』をあげたというならば、覚えていないことでテルミを落胆させてしまうだろう。それが彼には恐ろしかった。昨日、自分は何をしたのだろう。体は何ともない。ますます分からないが、頭のどこかで想像していた出来事が起きなかったことだけは確かだ。考え込んでいる間に不自然な沈黙になってしまった。ピグマリオンは観念してテルミに顔を向けた。

 

「あの……テルミさん……心苦しいのですが……」

 

「覚えていないのね。そう。いいのよ。輸血の前後のことは忘れてしまうことも多いのですから、人によって程度はありますけれど。では、夢は? 夢は見たかしら? 炎と獣の夢は見たかしら?」

 

「いえ……あ……」

 

 夢は見ていた。

 しかし、それはテルミの言う『炎と獣の夢』ではない。

 

「……貴女と外の街を歩く夢を見ていました。話の内容までは覚えていないのですが……何か温かい話をして……いたような。どうしてでしょう……おかしなものです。外の景色など……私は覚えていないのに……」

 

 テルミは、大きな目を丸くした。

 

「あら? 『願い』とは血にさえ宿るものなのかしら? お父様の望郷……? それとも貴方の……? あ。ううん。何でもないわ。いい子ね。幸せな夢だったのかしら。貴方の幸福は、わたしの喜びでもあります。よき夢が、よき導きとなることを祈っていますよ。体はどうかしら? 辛くはない? 今日は起きていられる日かしら?」

 

「ええ、今日は……大丈夫そうです」

 

 ベッドから身を起こし、深く呼吸をする。息苦しさはなかった。

 テルミは椅子から立ち上がった。

 

「大丈夫そうね。よかった。けれど、油断しないように。体調管理の記録は続けてくださいね」

 

「はい。必ずや……」

 

 もう行ってしまうのだろうか。

 ピグマリオンは、ベッドから下りると外套を手に取ったテルミの後ろをとぼとぼ歩いた。

 

「孤児院の朝礼が始まってしまいますから行きますね。……ああ、心配しなくともまた来ますよ。学校が始まる前ならば明るい時間にも来られると思います」

 

「そう……ですか……。いいえ、テルミさんのご都合もあるでしょう。無理はなさらぬように」

 

 ──もうすこしだけ一緒に……。

 気を抜けば願ってしまいそうな自分に気付き、ピグマリオンは口の内側を噛んだ。本来いないハズの人が今までいただけでも僥倖だったのだ。欲張ってはいけなかった。

 

「貴方は自分の心配だけしていなさい。わたしに無理なんて何もありませんわ。ああ、そう。──ピグマリオンさん、しゃがんでくれますか?」

 

 身を屈めたピグマリオンは、短い距離を小走りでやって来たテルミとぶつかった。「あ、失礼を……」と言いかけた彼は背中にまわされた腕でようやく抱きしめられているのだと気付いた。

 

「わっ……?」

 

「じっとしてくださいね」

 

 彼女は背伸びした。その時、頬に柔らかい感触が触れた。

 パッと離れたテルミは、明るく言った。

 

「お別れの『呪い』です。外の世界だと普通なんですって。ウフフ。おかしいですね」

 

「は、は、は……?」

 

 テルミの唇は、とても柔らかい感触だった。

 内緒と言うように人差し指を口に当ててテルミは笑った。

 

「もう行きますね。苦しくなったら、月に祈りなさい。願えば与えられることもあるでしょう。与えられないこともあるでしょう。それでも縋り、祈るのが人間というものです。信仰を尊び、月を慕いなさい。病み人には、ヤーナムには、それだけが相応しいのです」

 

 テルミは、そう言って朝の晴朗なる光のなか消えていった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「……?」

 

 テルミは、孤児院のつまらない朝礼に出席しつつ考える。

 

(右回りや左回りに変態してしまうのかと思っていたのに)

 

 時間差があるのだろうか。それとも量の問題だろうか。

 

(一口だけと思って、お父様の血をつまみ食いしちゃった分が足りていないとか……?)

 

 あの古工房には優秀な狩人がいる。そしていざ彼が変態したとなればテルミも争いに加わるだろう。準備は万端だった。それなのに彼は変態しなかった。即効性があるという予想は見事に大ハズレだ。

 経過観察が必要だろう。結果が出たら狩人にも報告するとして。

 ひょっとしたら今の父たる狩人の血は、聖血の源に代わる『聖血』になるかもしれない。

 

「ウフ……フフ……」

 

 最も尊く偉大な血なのだということはテルミにとって疑うべくないことだが。

 ──お父様は、今よりもっとたくさんの人を幸せに出来るかもしれない。

 その空想は、テルミを楽しい気分にさせるものだった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 いつ咳が出て苦しくなるか。

 ピグマリオンにとって朝も夜もなく、それは心配の絶えないものだった。

 

 テルミと出会ってからは、考え事に割く時間が減っていた。

 それが良いことであるのか。悪いことであるのか。判断を下すには早すぎるが、ここ二〇〇年以上、そればかりを考えていたことを考えるとそのほかのことを考えていくことも大切なのかもしれないと思えた。ただし、この考えは二〇〇年以上心配し続けていたことがまったくの杞憂であることを知って傷ついた事実も多少反映されている。

 

 ピグマリオンの日常は、テルミが行った『特別な輸血液』の輸血後でも大きな変化はなかった。

 数日、それとなくピグマリオンの容態を見ていたブラドーの目からも、やはり変化は察せられない。

 

 しかし、異変とはヤーナムの多くの異常がそうであるように、何でもない日常にこそ根付き葉を伸ばすものだろう。

 井戸から水をくみ上げ、手ですくい、花壇に水をまいていたピグマリオンは、視界の端に白い月を見て手を止めた。

 屈んだままだった腰を伸ばし、背中を伸ばした。

 

「あいたた……。椅子に座っているか、こうして腰を曲げているかの二択ですね、最近は。あぁ、それにしても月が……大きく見えますね」

 

 また夜が来る。

 耳を澄ませば遠く時計塔の鐘が物悲しげに鳴っているようだ。

 黄昏の風に当たっていたブラドーも白い毛皮の隙間から空を見上げているようだった。

 

「ただのまやかしだろう」

 

 庭の隅にある『使者の灯り』は、ぼんやりと光り出した。

 木々が陰を長くする度に、その光りは刻々と存在感を増している。

 そこはテルミや月の香りの狩人が現れる特別な場所だ。

 

「夜が、待ち遠しいと感じるのは初めてのことです」

 

「それもまやかしだ」

 

「そうかもしれません。けれど私は『それでもいい』としたのですから、とかく見咎めず、そう聞き咎めずに」

 

「…………」

 

 ピグマリオンほど月の香りの狩人やテルミに心を許していないブラドーには、不愉快な言葉であったらしい。

 ブラドーは革靴の踵をカツンと鳴らすと古工房に閉じこもってしまった。それを笑いかけながら見送ったピグマリオンも外に置いている椅子に腰掛けた。

 

 鼻歌を歌いながら彼は手足を伸ばした。

 

 長い夜も悪いことばかりではないかもしれない。

 その日の夕焼けは見慣れないほど赤く、すこしだけ煤けているように見えた。

 




ピグマリオンの手記(2)
 私は幸せな夢を見た。
 とても幸せな夢だった。
 残酷な、けれど素晴らしい思い出をありがとう。
 手に入らないからこそ、それは尊く。
 得られなかったものだけが、美しい。
 だからこそ。
 夢の未来は、私には眩しすぎるのです。

 ……あぁ、感謝します。
 ……私は獣ではない。
 ……まだ誰かの幸せのために祈ることが出来たのです。
 ……それがあの子であることが私は何よりも嬉しい。
 ……月の不滅の乙女。いいえ、テルミ……
 ……甘き夜明けと共に健やかにあれ……

■■
 これは幸運。それは不運。あれが幸福。どれが不幸。
 全ては月の思し召しで時々誰かとの巡り合わせ。
 彼らがどんな病み人か定義づけるのは、まだ狩人もテルミも早すぎる。
 ヤーナムにあるのは不幸と災いばかりに見える。とはいえ「それでも」を唱え続けたのが今。今日は昨日より善くなるかもしれない。今年は昨年より善くなるかもしれない。忘れても人の意志はいつかに繋がり、世界のどこかに遺り、巡っていく。人間性は、まだ暗く冷えて淀んでいないようだ。
 ピグマリオンが見つけた少女は病に食い荒らされたパンドラの箱に最後に残った希望かもしれない。
 夜明けを信じさせてくれる少女はいつか彼が願った健やかさを叶え、日当たりの向こう側へ旅立っていくだろうか? 彼はそう信じている。

青ざめた血(輸血液のすがた)+学徒の輸血液
 テルミにも何が起こるか分かりませんでしたが、青寒天のぷるぷる宇宙人になることはなく、獣になることもありませんでした。とはいえ、病がよくなったワケでもありません。
 ヤーナムを目指した人々がいつか夢見たように万能薬である輸血液になったのでしょうか。まさか。しかし、彼の幸福度が増したことは確実のようです。──まあいいか! よろしくなあ!

テルミ
 仔らのうち異性は『長い夜ですり減らし、失った可能性』ですが、そのうちテルミは狩人が早々に失った万人に対する慈愛や過激な残酷さを濃縮還元したものの一部を持っているようです。慈愛はともかく残酷さはしばしば間の悪い時と場所で発現します。特に彼女の気まぐれとワガママが起きた時にしでかすことはたいてい最悪になる傾向があるようです。ピグマリオンの内心を見透かし、辱めたのも性質の悪い残酷さです。普段は誰かのその感情に気付いても、言った方が品が悪くなるのでお口にチャックしていますが、彼を気に入りすぎて話しすぎてしまったようです。輸血については、お父様×お父様の可能性を探りたくなったのかな。
 とはいえ似ているとこもあります「自分が持っている物で最も良いものを貴方に与える」行為は狩人君が「仔らのためになるかもだし学校に通わせてみよう!」と思い立った動機と似ています。……慈悲も愛もここにある。ただし、深慮だけは留守になるようです。

第3シーズントップKill数を保守れるか
 ツキノコ(月の仔)狩りのKill数
 1位:ピグマリオン(2回)
 2位:レオー(1回)
 3位は無しですが、Goodアシスト特別賞に鴉が輝きました。カインハースト勢の躍進が輝きます。残りはメンシス学派、期待が高まりますね。……何だよこれ……。

更新について
 次話より『メンシス学派の夜2夜目』を3話編成でお送りいたします。

今後の更新について
 こちらのメンシス学派のネフライト編が終了次第、3年生章ホグワーツ編を投稿する予定でしたが、大幅加筆が必要になった為&毎日更新しながら加筆できる容量ではないことに気付いたのでしばらく投稿をお休みします。今のところ投稿再開の目安は1ヶ月後の程度を予定しています。
Q なんで投稿するまで気付けなかったんですか?
A 毎日数千字くらい加筆しているので今回もいけるかな、と思っていたのですが体力気力の低下により今回は頑張れないことが発覚してしまったのです。投稿作業で燃え尽きちゃうワケにはいかないので。……何とも情けない延期理由ですが、休んだらクォリティアップするんだな、という程度に見ていただければ幸いです。

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