甘き夜明けよ、来たれ   作:ノノギギ騎士団

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メンシスの学会
互いに学習するための会合のうち研修を兼ねたもの。
濃厚に高度で、ゆえに難度が高く理解できる者は限られる。

医療者であれ狩人であれ知を交わせる機会は貴重だ。
特に医療教会ことメンシス学派においては。



学会準備(上)

 

 ヤーナム市街のあるところに少年がいた。

 市街ではさして珍しくない、医療者に憧れる少年だ。

 家族は、父と母、そして妹に囲まれ、貧しいが穏やかな生活をしていた。

 ただ、早くに母親を亡くしたことが、彼の人生に大きく影響したのだろう。

 やがて彼は、父親より優れた医療者になることを夢にした。

 父親もそれを望んだ。

 少年は父親の『医療者』という職業を、ヤーナムに訪れる病み人を治す人と思っていたのだ。

 やがて、彼は父親の望んだ医療者になった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「めでたい話ですね」

 

 月の香りの狩人の仔のひとり。

 ネフライトは、薄い眼鏡の向こうで冷めた感想を述べた。

 

「私の昔話だよ。ところで、君は他人の感情に無関心なのかね?」

 

「学習しているので無関心ではありません。ただし詩歌の解釈は苦手です。ダミアーンさんがロマンチストであったとしても私は尊敬していますよ。物語は事実の再構成であり、理解の仕方の一つでしょう。神話が長い間、多くの人々に語られた理由でもあります」

 

「そうだね」

 

 老年にさしかかろうというダミアーンは、ネフライトがテーブルに置いたミルクティーを一口呷った。

 

「ときに。私が不在の間、学派に変わりはありませんか? 夜も近いというのに何だかバタバタしているような……」

 

「ん? ああ、君は初めてだったね。学徒達は皆、学会の準備で皆忙しいのだよ」

 

 ネフライトが所属するメンシス学派は、医療教会のなかでも神秘を探求する医療者の集団である。

 信仰団体の構成員ならば本来『信徒』と言うべき存在であったが、学派においては、彼らは『学徒』と呼ばれ、また自称している。信仰者であるよりも探求者の立場を他我に明示しているのだ。だからこそ、彼らは医療教会の装束ではなく、かつてビルゲンワースの学徒がまとった装束に身を包んでいる。

 そんな彼らにとっての一大イベントと称すべき出来事が迫っている。ネフライトは、肌で感じていた彼らの焦りの正体が分かった気がした。

 

「学会? ……研究発表会とは違うのですか?」

 

「数週に一度行う研究発表会は進捗報告に重きを置いているものでね。今回の学会は、成果発表と討論会を兼ねたものになる。三日後だ。これは一年に一度の特別なものだ。ああ、君にも働いてもらう。エドガールも一緒だが、夜詰めが必要になるだろう」

 

「問題ありません。何のお仕事でしょうか」

 

「本日零時。学徒達から資料原稿が上がってくる。発表の際に手元に置いて見る物だ。我々は『大要』と呼んでいるがね。それを学徒全員分に印刷する仕事だよ」

 

「印刷? 印刷機があるのですか?」

 

「ああ。活版印刷は知っているかね?」

 

「知識はあります。金属製の活字を並べてインクに浸して紙に押しつけるものですよね? はぁ、あるのですか、そうですか」

 

 ヤーナムが存在するのはおよそ十九世紀なのだから存在してもおかしくないのだが、いざ明言されるとネフライトは驚いた。

 そんなネフライトをどう見たのかダミアーンは、クスクスとおかしそうに笑った。

 

「零時が締め切りだが、まぁ、だいたいの学徒は期限を踏み倒すので君とエドガールには原稿の回収を頼もうかな。学徒は手負いの獣もかくやの荒れようだ。用心したまえよ、君」

 

「まさか。学徒ですよ。ハハハ」

 

 ネフライトは、学徒達のことを理性的な人々であると信じていた。

 まさかの出来事が起きようとは、夢にも思わなかったのだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 

 メンシス学派の夜は、明るい。特に今夜は明るかった。寝る間も惜しんで学会資料の作成に取り組んでいるのだろう。

 掃除の行き届かない建物の埃っぽい廊下を歩きながら、合流したエドガールと話した。

 くすんだ金髪を撫でつけた青年は、眼鏡の奥で興味深そうにネフライトを見た。

 

「ああ、そういえば学会のこと、ネフライトは知らなかったんだな」

 

「知っていたのならば教えてくれたらよかったのに。エドガールはどこのグループに属しているんですか?」

 

「僕は、まだ学徒の下っ端の下っ端だから、どこにも属していないよ。先輩方の資料を探す雑用係さ」

 

「そうですか。論文の出来を鼻で笑いにいこうと思ったのですが」

 

 ランタンに照らされるネフライトの横顔は、微かに笑っていた。

 

「僕は、ときどき君の自信がどこからやって来るのか不安になるよ。……はてさて。学会と言っても全てのグループが発表するワケではない。ミコラーシュ主宰から指名を受けたグループが発表する。カミラ、ブルース、ケンジット、スクワイア、ラッセルとまぁこんな感じ」

 

 エドガールは、学徒服のズボンから手記を取り出して代表的なグループ名を読み上げた。

 そのうちの一つ、興味が惹かれることがあった。

 

「ラッセル。そうですか。彼のグループも……」

 

「親しくなったのか?」

 

「私に夜食をせがむので知っているだけです」

 

「えっ。君、夜食なんて作っているのか?」

 

「食料庫から勝手に食材を持って行かれるよりマシです。人攫い、もといヤハグルの狩人達の軽食を作る必要もありますから」

 

 やがて二人は『カミラ研究室』と色褪せた板が張り付けられた扉の前で立ち止まった。

 まずエドガールがノックした。

 

「進捗いかがですか?」

 

 軽い調子で訊ねたが、なかなか返事が来ない。

 エドガールは半分開けた口でもう一度ノックした。

 

「ちょっと? もしもし? カミラ先輩? エドガールですが?」

 

「進捗、ダメです……」

 

 扉の向こうで切羽詰まった声が上がった。

 銃口を突きつけられたら、きっと、こんな声を出すだろう。ネフライトでさえそんな想像が働く声だった。

 

「ダメ!? 何で!? 締め切りは過ぎているんだぞ!?」

 

 扉をガタガタ揺らし脅迫しながらエドガールは言った。

 

「見れば見るほど論のアラが目に付くような気がして……いまグループ全員で推敲しているところです。頼む。別のグループを先に当たってくれ」

 

「一周終えたら戻ってきて、原稿を回収させていただきます。よろしいですね?」

 

「あ、ああ! 助かる! 最後に回してくれ!」

 

 ネフライトが、するりと言質を取ったのを最後に扉の向こう側はざわざわと口論が聞こえてきた。

 エドガールは困惑するばかりだった。

 

「ありがとう、ネフ。さすが機転が利くな。いや、そうじゃなくて。そもそも締め切り過ぎてるのに」

 

「あの様子では、説得は無理でしょう。まぁ熱心な学徒ぶりを見せたいエドガールがどうしても鍵や扉を壊して原稿を回収したいというならば、止めませんし協力しますが」

 

「……面倒だな。次行こう次」

 

 隣室の『ブルース研究室』は、流麗なカリグラフィー体で刻印された小さな板が扉につり下げられていた。ランタンで名を確認し、扉をノックしようとしたエドガールをネフライトが制した。

 

「どうした?」

 

「いえ、中に人がいる気配がしません」

 

「それって逃げた……ってコト!? まさか!?」

 

「仕事が増えましたね」

 

 原稿取り。行方不明になった学徒探し。

 かさみはじめた仕事を前にエドガールはうなだれた。

 ネフライトは、頭の中のダミアーンが「頑張ってね」とニコニコしている姿を幻視した。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「ラッセルのグループは、さすがに逃げてはいないだろう。ミコラーシュ主宰もダミアーンも言わないが、たぶん一番期待されているグループだ。──っていうか、そろそろ原稿が回収できなければ大問題だぞ。活字を拾うのも時間がかかるんだから……」

 

 エドガールとネフライトは、ブルースの研究室の後、ケンジットとスクワイアの研究室を覗いたが、どちらも思い出したくもないほど酷い有様だった。扉は──やはりというか、予想通りというか──開かず、ストレスとプレッシャーで情緒不安定に泣き出したり、怒鳴ったりする声が扉の内から聞こえていた。

 最後に残ったラッセル研究所はメンシス学派が所有する書籍を収めた一室に近く存在する。それは即ち、半ばそこの主と化しているミコラーシュのお膝元と言えた。

 

「ネフ、顔見知りだろう。対応を頼む……頼むぞ、本当に……」

 

 ノックを促され、ネフライトは扉を叩いた。

 

「もしも──」

 

「ひゃああぁあああ! ミ、ミコ、ミッミコ、ミコッ! しゅさ、主宰!?」

 

 扉は、ネフライトの右目を隠しがちな前髪を舞い上げるほど勢いよく開いた。

 

「人違いですね」

 

「ネフ!? あ、ああ、あああァ!? 資料の提出日って今日だっけ!?」

 

 取り乱して黒髪を掻き毟るラッセルのひと言は、今日巡ったどのグループの対応より疲れを感じるものだった。

 エドガールは、隠しもせず「本当にヤバいぞ、この学派」と毒を吐いた。

 

「てっきり主宰かと思って開けちゃった……! 資料は……半分できているが、でもでも、まだ完成には……」

 

 開け放たれた扉から中を覗くと学徒が五人頭を寄せ合ってあれこれと議論しているようだった。

 エドガールが強い口調で言った。

 

「活字を拾うのに時間がかかるので半分でも提出していただきたい。ダミアーンさんから急かされています」

 

「うっ。ダミアーンさんに……そ、そうか……半分、半分だが……」

 

 ネフライトは、資料を受け取った。

 ようやくの半分だ。

 

「ありがとうございます」

 

「締め切りを守れず、すまない……でも、妥協はしたくないと、とと、と……」

 

「ととと? トニトルスですか?」

 

 ネフライトは、手渡された資料をランタンの光で見ていた。

 類い希な記憶力を持つ自分にとって、一瞥で十分だった。

 

「モノ違いだな」

 

 キィと音を立てて隣の蔵書室が開き、ひょろりとした影──ネフライトは、檻を身長に見間違えた──ミコラーシュが出てきた。なぜか腐葉土の香りをまとっている。

 

「ギャ! ミコ、ミコ……主宰!」

 

「あぁ、学会。そういえば近々だったか。これは資料……? にしては少ないな」

 

「半分、半分ですので! ですので! 当日には完品で出しますので!」

 

 ラッセルは、泣きそうな顔で叫んだ。

 ネフライトの後ろではエドガールが「当日納品されても困るよ」とごもっともなことを言った。

 ミコラーシュは暗い目を資料に向けた。

 

「照明」

 

 誰がいったい何を指示されたのか。

 最も早く気付いたのはランタンを持つネフライトだった。

 ミコラーシュは腰を屈めて資料を見ていた。

 

「うん……うん……」

 

 ミコラーシュの反応は、いまいちである。

 ラッセルは今にミコラーシュに対し「どこが悪いんですか」と聞いてしまいたいのだろう。しかし「全部」と言われることを恐れて「あ、ひ、う、ひぃ……」と呻き声を上げていた。そもそも彼は緊張して「ミコラーシュ主宰」とさえ言えなかったのだ。

 ネフライトは、記憶した大要の内容を考えながら言った。

 

「悪夢領域へのアプローチの方法ですね。ミコラーシュ主宰が何年か前にお書きになった論文と同じ結論に至りそうなのは、学派の統一見解として良い傾向であると思います」

 

「よく知っている。ダミアーンの教育の賜かね」

 

 資料から目を離さず、ミコラーシュは訊ねた。

 

「主宰の論文から走り書きまで全て読みました。ダミアーンさんの書斎の蔵書の一つです」

 

「ああ、そこにあったのか。書いたのはもうずいぶん昔のような気がするが……? しかし、実験の基礎たる論拠としての強度はある理論だと思っている。だが古くさい代物になりつつある。代替または補強する論がそろそろ欲しいところではあるが……これでは、まだ至っていないようだな」

 

 二人の話を聞くエドガールだけが、ラッセルの異常に気付いた。

 ラッセルは、遂に泣き出した。

 

「あふ……! ふ……ぶ……!」

 

「ああもう、たかが先行研究が足りなかっただけじゃないか。主宰もネフもラッセル先輩をイジめてはいけないよ」

 

「……今後も頑張りたまえ。基礎研究はおざなりにしてはいけないものであるから」

 

 ミコラーシュは無感動にそう告げると猫背でヒョコヒョコと歩いて蔵書室にこもってしまった。

 

「あ。で、では、そういうことで」

 

 トドメを差してしまった気がするエドガールは、ネフライトの肩を掴むと足早にその場を立ち去った。

 彼らがすっかり去ってしまった後、グループが崩壊したのは言うまでもない。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 エドガールとネフライトは、ほとんどの原稿の回収を終えた。

 最後の原稿を手に入れる頃には、夜が明けていた。

 彼らが学んだことは、学徒達が泣いたり喚いたり叫んだりすることは『普通』の事象であり、なかには茫然自失や発狂もかくやという様子で資料を差し出すグループもあった。彼らの精神状態が心配である。

 

「学会なのだから賑やかになるのかと思ったが殺伐としているな。端的に言うとヤバいぞ。死人が出そうだ。皆、目が『血走った目玉』のようになっている。儀式素材がたくさん採れそうだよ……」

 

「何が恐ろしいのでしょう。ただの成果発表会なのに」

 

「ミコラーシュ主宰に質問されることが怖いのだろうね」

 

「ハァ?」

 

 古びたインクと黴の臭いが充満する印刷室は、隠し街の片隅に存在した。

 エドガールと共に戸棚から印刷に必要な活字を拾っていたが、思いがけない言葉にネフライトは手を止めてしまった。

 

「質問が怖い? 何ですか、それは?」

 

「ミコラーシュ主宰に他意はないんだろう。たぶん。ちょっと疑問に思ったことを何となく質問するんだろうが、それを答えられないと、衆目のなかでポツンと答えられない学徒だけが残る。考えるだに恥ずかしい。なにより、いたたまれない」

 

「知らないことや分からないことは、そう答えればいいだけなのに、どうして怖いと思うのだろう?」

 

「ネフは分からないだろうな。医療教会において、メンシス学派のやり方がとびきり奇妙なだけで、ここにいる彼らは医療者として選良だ。腕も確かだ。プライドもある。研究を続ける理由も。神秘を求める動機も人一倍ある。……答えられない自分を認められないほどにね」

 

「へぇ。そういうものですか」

 

「彼らは、大なり小なり犠牲を払ってきた。止まれないのだろう」

 

 ネフライトは活字を拾う作業に戻りながら、ダミアーンが話してくれた昔話を思い出していた。

 

「あ。そろそろ厨房に戻ります。整頓をお願いしますね。印刷は……」

 

「仮眠を取ってからでもいいだろう。夜通し催促に歩いたんだ。私にはもう『a』と『c』の区別も難しくなってきた。すこし休もう」

 

「分かりました」

 

 ネフライトは、教会式に一礼すると外に出た。

 隠し街に聳える建物は、規模こそ聖堂街や上層に劣るものの威圧的なまでに荘厳だ。

 隠し街の裏道を通り、ネフライトは厨房の扉を開いた。

 奥の食料庫からゴソゴソと人の気配がした。

 

「どなたですか」

 

「あ。ネフ。……悪いな、食料もらっているぞ」

 

 ヤハグルシリーズの狩人服に身を包み、鉄兜を被った男が振り返った。

 ヤハグルにいる狩人の一人、トニトルスという変わった仕掛け武器を使う男だった。

 ネフは腰に手を当ててこれ見よがしに溜息を吐いた。

 

「あまり持って行かれると困りますね。それに材料のまま持っていっても料理が難しいでしょう。いま料理しますよ」

 

「あー。すぐ食べられるものがいい。あと、持ち運びしやすいヤツ」

 

「貴方はいつもどこかへ持っていく話をしますね。……どこぞに猫を隠しているのですか?」

 

「…………」

 

 ネフライトは瓶詰めや肉の包みを受け取りながら彼が都合悪そうに押し黙るのを見ていた。

 

「言いたくないのなら構いません。けれど、私のように市街から連れてこられた人間だとしたら、あり合わせのモノばかりではいつか体を壊しますよ。栄養バランスを考えなければ。……この隠し街で医療者のお世話になることは避けるべきです」

 

「あー。うん、わかってるさ」

 

「学派の迷惑にならなければ、私はたいていのことを見過ごします。どうか、お忘れなく」

 

 水や炉の具合を調べているとトニトルスの狩人は、そばに椅子を持って来て座った。

 

「……ネフは誘拐されて来たにしては、物わかりがいいよなぁ」

 

「抵抗しても無駄ですからね。せいぜい愛想を振りまいているだけです。幸運なことにダミアーンさんに孫と思われていますし、ここでは食事も困らない」

 

「でも……きっと家族がいるんだろう?」

 

 トニトルスの狩人は、ガチャガチャと身にまとった鎖を鳴らし、被っていた兜を脱いだ。

 現れたのは黒い髪を短く刈り上げた、浅黒い肌の男だ。

 素顔を初めて見たネフライトは上の空で「ええ、まあ」と呟いた。

 

「帰りたいとか思わないのか? 帰れるかどうかは別な話だとしてもさ」

 

「私はここにいるように望まれたのですから、ここが私の家ですよ」

 

「望まれた? 誰に?」

 

「私が信じる唯一偉大なものによってです」

 

「……なんだ。お前もそういう手合いだったのか。たまにいるよな。そういう導かれちゃった系のヤツ……」

 

「私以外の全ては劣るもの。私だけが本物ですよ。自我という素晴らしき恩寵を与えた偉大なもの。最も忠実な私だけが、傅く幹に相応しい……」

 

「あっそ。啓蒙が高いってヤツか。何を言っているか分からん」

 

「でも手伝いはできるでしょう。お手すきならば芋の一つ、剥いてはいきませんか?」

 

 ナイフを手渡すと彼は素直に受け取った。

 食事を司っている者に対して逆らわないあたり、ヤハグル狩人がなぜメンシス学派に与しているかよく理解できた。

 ネフライトと同じように芋を剥きながら、彼は言った。

 

「細かい作業は苦手なんだが……いろいろ黙っていてくれるなら」

 

「ええ。美味しい見返りが貴方を待っていますよ。切ったら鍋にいれてください」

 

「まだ沸騰してないが」

 

「誤差です。誤差」

 

「意外とテキトーなんだな。──あいたっ!」

 

 彼は芋を取り落とした。

 見れば指から血が出ている。

 

「消毒して止血してください。芋は無事ですね。洗っておきます」

 

「芋より俺を心配すべきじゃないか? まぁ舐めときゃ治るだろう。芋って滑るんだな……」

 

 芋の代わりに肉を切らせることにした頃、厨房にふらりと学徒が現れた。

 ラッセルだ。

 

「ラッセルさん。申し訳ありません。まだ準備中です」

 

 ネフライトが厨房で声を上げた。

 たった今ちょうど鍋が煮えたはじめたところだ。彼も背伸びしてそれを見た。

 

「……ん、ああ、いい匂いがすると思ったんだが……気のせいだったようだ……」

 

 ふらふらと歩く彼は、来た時と同じように唐突に出て行った。

 

「ありゃ徹夜のしすぎだろ。目が真っ赤だった。先生みたいに……」

 

「ちょっとした不幸があって学会発表資料が全部パァになりましたし無理もないでしょう。私は早く次に取り組むべきだと思いますがね……ん? 先生? 学徒の誰かを先生と呼んでいるのですか?」

 

「……ぐ。口が滑った。何でもない!」

 

「ハァ……?」

 

 関心が薄そうな相槌をうちながら考える。

 ネフライトは、隠し街ヤハグルの全てを探索していない。

 どうやら彼には興味深い隠し事があるようだ。

 

「もう少し手伝ってくださったら、早くできますよ。皆さんが来るよりも先に裏口から食事を持っていくことも出来ます」

 

「仕方ない。うーん。手伝うか……」

 

「ええ」

 

 学徒が学会で気を病んでいても、ネフライトの仕事は減らず、やるべき日常の業務は多い。

 活字を拾い、学会に間に合わせなければならない。

 忙しいが充実していた。

 それは、燭台を磨き、いつもより一本多くの蝋燭に火を灯すよりも幸福を感じるものだった。

 

 だからこそ。

 彼の記憶は、些細な変化を見逃してしまったのだろう。




学会準備(上)

ネフライト編は3話編成でお送りいたします
『何を見て「やれ」って言ったんですか(困惑)』のクルックス編、『先達、好きですよ』のセラフィ編、『頑張れ♥頑張れ♥必死すぎ♥好き♥生きて♥死ぬかも♥生きて♥』のテルミ編をお送りして来ましたが、ネフライトくらいは平穏な日常を送って欲しいものです。
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