ラッセルという青年について。
ネフライトが知っていることは多くない。
約一〇〇人規模のメンシス学派にありふれた、ただの学徒である。
ネフライトの頭の中にある情報は、それだけだ。
だから。
こんなときに何を話すべきか。
ネフライトには、正しさが分からない。
「こんばんは、ラッセルさん」
「ああ、暗くなっていたのか。……気付かなかったよ。ここはずいぶん明るいから」
ネフライトは、彼の顔色も表情も分からないほど暗い闇の中にいる。
唯一の光源は、ネフライトが持つランタンだけだ。
「皆、貴方を探しています」
「ああ、そうなのか。どうりで外がうるさいんだ」
まるで他人事のように彼は言う。
声色は平坦だ。無感情で自棄になっているとネフライトは感じた。
だが、夜の屋内に手元の明かりだけでは瞳の確認ができなかった。
小さな食堂の椅子に佇むラッセルを見かけたネフライトとエドガールは一計を案じた。
──僕が背後をとる。君は注意を引いてくれ。
──もし、彼が獣になったとき?
──僕がラッセルを殺す。
──それまで君は、あらゆる手段で逃げてくれ。
──逃げられなかったらできるだけ時間をかけて死んでくれ。
──食べられている間に僕が仕留めるよ。
──僕らに幸運が傾くように祈ろう。
互いに顔も見ずに、腕をぶつけて二人は別れた。
相手を刺激しないためネフライトの武装は、腰のベルトに差した短剣ミセリコルデしかない。
ある国の言葉では『慈悲』の名を得た短い剣だ。
十字を模す剣が必要になるのは果たしてラッセルか自分か。
分の悪い賭けを挑んでいると思う。
クルックスではあるまいに。
目標は、獣化の傾向があったとしてもラッセルを保護することだ。彼の処遇はミコラーシュとダミアーンが決めるだろう。
ネフライトは両手を体の正面で握り、しきりに親指をすり合わせた。
「お疲れが見えるようです。寝所へ付き添いいたします。そして明日はお休みになるといい。……香りの良いお茶をお持ちします」
「明日、か……」
まるで遙か遠い景色を見るような声で彼は言った。
それから、暗い闇の中でラッセルと目が合ったような気がした。ネフライトは見つめられている視線を覚えた。この感覚はヤーナムの夜に生きる狩人にとって必須の勘だった。
「君は、いい子だね……。君のような子がいるのなら、ヤーナムもまだ棄てたものではないのかな……」
「何をおっしゃっているのか。私には……分かりかねます」
慎重に半歩進んだ。
途端にプンと鼻先に血の臭いが漂った。
彼に気を取られて注意が疎かになっていたが、彼のいるテーブルには血の酒が転がっていた。瓶がランタンの光を反射し、鈍くオレンジ色に光っていた。
ラッセルは、ひどく飲んでいるのだろう。
よく聞けば、彼の呂律は甘かった。
「学派は、ほら、快いことばかりではないだろう。市街から人を攫って実験している。……僕は、もうずっと前から限界だったのかもしれない。……ここ数週間、実験なんてしていないハズなのに今も耳の奥で声が消えないんだ……」
「幻聴です。貴方に必要なものは睡眠なのですから」
「眠くないんだ。もう、ずっと、ずっと、眠っていない」
「ならば、貴方はここにいるべきではない。早く。立って。──立て、立て! 立って! 帰るんだ!」
ラッセルは立った。
ネフライトは、望んだことが起きたというのに恐ろしいと感じていた。
やがて彼はネフライトがそうするように両手を組んだ。
「学派が視座高き叡智を得ることを祈るよ。願うならば、我ら学徒の智恵によって啓かれんことを」
「…………」
ラッセルは力なく言った。
「実はね……。僕は悪夢だとか、上位者だとか。本当は信じたくなかったんだ。何も期待したくなかったんだ。裏切って欲しかったんだ。『人間よりも人間ではないモノの方がマシだ』なんて嫌じゃないか。とても空しいじゃないか。そんなもので作られた人生に何の価値があるのだろう? 人間の尊厳はどこにある? でも、主宰は、獣性を持つ人間に何も期待していないんだろう。だからもう僕は学派で生きていけなくなってしまったんだよ……」
ネフライトは、最後に一歩近付いた。
手元の焔が、闇のなかで疲れきった学徒を明らかにした。
「もし、君が学派に心寄せるなら……僕の代わりに頼むよ、君……」
ネフライトは唐突に夏休みの初期を思い出していた。きょうだいで夏の海へ出かけた記憶だ。
あの時、クルックスは、人の願いに罪はないのだと言った。父たる狩人もそれに同意したのだとも。
あの時、聞き流した言葉には、たった今、異なる感想が生まれた。
人の願いは、呪いと同じだ。
(そんな言葉で、私を呪わないでくれ)
口を閉じたまま、ネフライトは噛みしめた歯の隙間から呻いた。
その時だった。
回り込み、背後から近付いていたエドガールがラッセルの背後で腕を取り、押し倒した。
「頼むから! 暴れないでくれよ! ……それだけで全部が済むんだから。ネフ!」
ネフライトは記憶していたハズの作戦を思い出し、肩を跳ねさせた。
エドガールがラッセルの体を確保したら、その瞳の確認はネフライトがする役割分担だったのだ。
何かを叫び、暴れるラッセルと目が合った。
「あ──。崩れ、て、います……」
狩人は言う。
血に酔った瞳は、正気を無くした狩人の目だ。そしてそれは獣の兆候でもある。ネフライトにとっては聖杯の多くで見飽きた瞳の形だった。
獣化とは、医療教会の研究の一説によれば『神秘』と『獣性』のせめぎ合いにおいて、獣性が勝る場合に引き起こされる変態なのだと言う。
いまだDNAを解さない時代の人々であるヤーナムの医療者がなぜ自らに宿るものが、右回りの遺伝子だと知っていたのか。なぜ獣化を『右回りの変態』と呼ぶのか。
その定説は明らかではないが、結果は目の前に顕れた。
そして、ビルゲンワースに興り、後に継承され医療教会の研究となった一説がある。曰く「上位者とは、いわば感応する精神であり故に呼ぶ者の声に応えることも多い」
「ああ、こんなにも僕らは正気なのに! 彼方の神よ……! こんな、そんな、だって、ああ、どうして、なぜ、ヤーナムに生きる僕らを見棄てたのか!?」
たとえば。そう。こんな嘆きのような祈りさえ、自らを呼ぶ声としてどこかの上位者は拾い聞く。
それはある時は父たる上位者なのかもしれない。だが、彼はこんな声は聞かないだろう。まして滅多に願いを聞き届けはしない。
だからこそ、今のヤーナムで応えるのは、いつもどんな時も人の心を知らない上位者と決まっている。
ヤーナムのどこかにいる他の上位者。あるいは、ヤーナムの外のどこかにいる上位者。はたまた、地球上という概念の存在しない、狭間の地。認知外の上位者。外なる上位者。
──それらは、きっと応えるだろう。
悪意なく、害意なく、助けを求められたことさえ理解せず、ただ感応する精神であったがために。
敢えて近代的に言えば、機械的に。
ゆえに人間には、まさしく悪夢的結果しかもたらさないのだが。
エドガールがラッセルの腕を押さえつけながら、腰のベルトから銃を抜いた。撃鉄を起こす。引き金に指がかかる。照準はもちろん彼の後頭部。
その動きがネフライトには、よく見えた。
「エドガール、まって──!」
ネフライトが苦しげに言った、そのひと言が息を呑むエドガールをわずかに逡巡させた。
■ ■ ■
「ハハハ。酷いものだな」
三階建ての建物に突き出したバルコニーから眼下を見下ろしているのはメンシス学派の主宰、ミコラーシュだ。
六角形の檻の中、暗い瞳を嬉々と輝かせ松明が右に左に動く様を見守っている。
無論、彼にとって特別楽しいことが起きたワケではない。
ちょうど部屋へ入ってきたダミアーンは素早く扉を閉め、バルコニーに飛び込んだ。
「こんなところにいたのか!」
「ああ、特等席だ」
「笑い事ではないぞ、ミコラーシュ。君には私が付こう。早く安全なところに」
「旧き神の真上に作られた街で、今も上位者の腕に抱かれるヤーナムのどこに安全な場所があるというのかね? どこにいても同じだ」
「……それはそうだが、気分の問題だよ」
「今日は赤い月の昇る獣狩りの夜ではない。だが人は獣に変じるだろう。いつものことながら秘匿は完全ではないのだ。だからこそ人から獣性を取り除くのは初代教区長、ローレンスからの悲願であり、医療教会が頭を悩ませる最古の研究のひとつでもある。そういえば最近、聖歌隊に進捗はあったと見えるかね?」
「あれば間者など差し向けてこないだろう。今年も収穫はナシだ」
「そうか。残念だ。骨の比較による獣化の比較調査より、彼らはもっとマシな発想を持っていると思っていたが……そう、うまくはいかないものだな。我らが誰も諦めていないように、彼らも諦めはしないだろうがね」
刹那。
獣の大きな声が、聞こえた。
銀色の月と宝石箱をひっくり返したように眩い星ばかりが輝く夜に、獣の声が隠し街に響いた。
ダミアーンには、その声が不本意で驚きに満ちた声に聞こえた。ミコラーシュにはどう聞こえたのだろうか。見ると彼は獣の声に耳を澄ませていなかった。
「そういえば『聖職者こそが最も恐ろしい獣になる』と言ったのは、どこの古狩人だったかな?」
「さてね。オト工房か。火薬庫だったかな。どちらにしても懐かしい言葉だ。……かつてを思えば、聖職者の獣も今ではずいぶん小ぶりになったものだ」
「ああ。ふむ。『獣化した身体から上位者の影響を計る』とは面白い観点だ。学徒の誰かに研究指揮を執らせたまえ」
「それは構わないがね。君は?」
「私はいつだって上位者との交信準備に忙しいのだよ。──おや?」
窓を壊して飛び出してきたくすんだ金髪の青年を見て、ミコラーシュは手すりから身を乗り出した。
それを見てダミアーンが慌てて彼の学徒服を引っ張った。
「落ちるぞ!」
「エドガール? やればできるものだな、彼。感心、感心」
「そ、そうだな。うんうん」
彼は聖歌隊きっての精鋭、しかも絶賛間者活動中だとは言えない。ダミアーンはできるだけ意外そうな声を作った。
「ダミアーン、君のお気に入りの小姓もいるようだが……」
「あの子もやればできる子なのだよ。君も是非、期待したまえよ。──ん? しかし、いやまて、何かおかしい気が──?」
間者であることばかり気を取られてしまい、最も重要な「そもそも彼らは印刷室に閉じ込めており外にはいない」という前提をダミアーンは、すっかり忘れていた。
■ ■ ■
メンシス学派の狩りは、狩人達にとって総力戦だ。
なぜならば、メンシス学派に属する狩人達の日常的な獲物は市街で暮らす市民であり、獣を狩ってはいないからだ。
数人で挑めばたちまち獣に食い散らかされてしまう。
だからこそ、彼らに殺される獣はいつも猖獗を極める骸を晒すことになった。
■ ■ ■
夜が明けた。
そのことについてネフライトが、感謝する存在は少ない。
暗澹たるヤーナムに仮初めであれ光をもたらした父たる狩人は、その少ない例外だった。
朝が来て、ネフライトは心底安心している。
あの時。
食堂で獣に変態するラッセルを待たず、エドガールはネフライトを抱えて窓から外へ飛び出した。
それから、獣は討伐された。
ネフライトは十三歳という外見は、どうしようもなく子供であり、非戦闘員とされているためその様子を物陰から見ていることしかできなかった。
全てが終わった後で、ダミアーンに呼ばれ、ネフライトは彼と獣の骸を眺めた。
──何でもいい。早く眠りたかった。
睡眠はネフライトにとって唯一、何も考えずに済む時間であり、安らぎでもあった。今は何も考えずに眠りたかった。
知人が獣になったことに多少なりとショックを受けている自分がいる──そのこと事態に彼はショックを受けていた。まるで自分が、情に左右される人間だと証明されてしまったようだ。
(私は、もっと理詰めで説明できるものだと思っていたのに)
昨年、クルックスの情緒の浮沈に手を焼いたことから「ああはなるまい」と思っていたのに。
今まさに制御できない感情を持て余しており、独りになりたかった。
そんなおりに呼び止められてしまい、ネフライトは夢に帰ってしまおうかとも思っていた。
けれど、ダミアーンが「話をしよう」と言った。
彼が話すことは昔話の趣がある。今日もきっとそうだった。
「ラッセルのことは残念だった。私は彼の学会発表を期待していたのに」
「……ええ。そうですね」
「ひどく気落ちしているな。分かるとも。私も悲しい」
「……ええ。そう、ですね。……? ……え? え?」
ネフライトは、たどたどしく言った。
その後で。
緊張で疲れきり、乱高下する感情を持て余していても彼が得た知識は、現状の不和を見出した。
──いま、自分はおかしな言葉を聞いた。
じっと見ていた石畳を目で辿り、ようやくダミアーンを見上げた。
「いえ? 何ですか? 何がですか? いったい貴方の『悲しい』とは何なのですか? ダミアーン、貴方は知っていたでしょう? メンシス学派が辿る一年を知っている、夢を知る貴方なら、古狩人、ダミアーン」
「まあね」
「……なぜ、私に言わなかったんですか!? もし、教えていただいていたら彼は、こんなっ! こんなところで! ここで……! もっとマシな死に方をしたでしょう!」
「私が一度もそれを試さなかったと思うかね?」
ネフライトは頭に冷水を掛けられた気分になり、開きかけた口を閉じた。
「いいや、私は怒っているワケではないのだよ。さぁ、話をしよう。ヤーナムらしい血生臭い話で、血は争えない話で、もう、ずっと昔の話だ」
■ ■ ■
ヤーナム市街のあるところに少年がいた。
市街ではさして珍しくない、医療者に憧れる少年だ。
家族は、父と母、そして妹に囲まれ、貧しいが穏やかな生活をしていた。
ただ、早くに母親を亡くしたことが、彼の人生に大きく影響したのだろう。
やがて彼は、父親より優れた医療者になることを夢にした。
父親もそれを望んだ。
少年は父親の『医療者』という職業を、ヤーナムに訪れる病み人を治す人と思っていたのだ。
やがて、彼は医療者になった。
■ ■ ■
──先日も聞いた話だ。
しかし、ネフライトには別の気付きが訪れた。
「それは、その話は、お話の彼は……」
戯言のようにネフライトは呟いた。
「彼は知らなかったのだよ。そして、私は語らなかったのだ。ヤーナムにおける『医療』は最初から患者の治療など目指していない。ビルゲンワースの興りから今まで神秘探求の手段でしかないのだと」
「それ……。私は貴方の物語だと思っていました。でも違うのですね? 貴方にいたのは娘だけだと思っていた。これも違いますね? 彼は、少年は、その男は、貴方の」
──息子のことだ。
彼が現在の地位を手に入れるために差し出したのは、娘だけではなかったことをネフライトは知った。ダミアーンの息子だ。医療者になったのであれば、さぞ優秀な息子だったのだろう。
望ましいことが起きた昔話の結果、いまの彼は後悔しているらしい。
遠くを眺める目をしていたダミアーンは、ゆっくりとした瞬きの後で地面に膝をつくネフライトを見下ろした。
「ヤーナムの医療者、そして神秘の探求者である君達は、まず、進んで患者になる覚悟を持ち、医療者になるべきなのだよ。ラッセルのこれは必然であり、彼は自らの覚悟を全うした。立派だね」
「…………」
何も言えずネフライトは彼を見上げた。
「髪の一本。骨の一片。髄の一滴。血に宿る遺志に至る全てを学派の進歩のために差し出すのだ。やがて私達は生体の分類と神秘の体系に則り、埋葬される。棺桶は硝子瓶で墓標はラベルだ」
言葉と色を無くしたネフライトに、ダミアーンは優しく微笑んだ。
「君はどうだい、ネフライト。君に、できるかね?」
「──貴方は自分の息子にもそう訊ねたのですか?」
ネフライトは掠れた声で分かりきった質問をした。
「昔話のとおりだ。私は息子に騙し討ちを仕掛けたようなものでね。後戻りの出来ない道に追い込み、追い立て、そして……。……。総括すると彼にとって私はよい父親ではなかったね」
「では、なぜ私には訊ねるのですか? 私は貴方の息子ではない。孫でもない」
「今となっては悔悟の気持ちも薄れたが、それでも私は息子に……ずっとこの質問をすればよかったのかもしれないと思い続けているのだよ。老いたとしても誤りから学ぶことが出来たようだ。私情ばかりだが、若い医療者の君に問わせて欲しい。そして答えまで知りたいのだ」
「…………」
ダミアーンは、惨劇の舞台となった石畳にある獣の体毛に塗れた頭蓋から溢れた脳の一部を拾い上げた。
「あるいは、君。……これに人間の知性が宿っていると信じるかね? この、ただの、肉片、白い、ブヨブヨに」
「……ダミアーンさんは信じているのですか」
乾いた老人は、目だけでネフライトを見た。
「ヤーナムの医療者は皆、もうずいぶん昔から天動説さえ信じていないのだよ」
不可解な笑みを浮かべたダミアーンの手の中で脳は、朝の明かりに照らされていっそう無能に見えた。
■ ■ ■
黒い煙が立つ。
タンパク質の焼ける臭いとは生理的な不快感を伴う。──とある論文に書いてあった。
『まとも』な生まれをしていない自分にとってもそれは時に正論として頷ける場合があるようだった。その下で燃やされているのは、いつも何かの死体だとネフライトはもう知っている。上位者の躯の断絶という、ある種の死から生まれた自分にも生理的な忌避感が存在するのは不思議なことだった。
汚れた石畳を歩き、火の管理をしているエドガールの隣に立つ頃。
世界には昼へ向かおうとする日差しが差していた。
ヤーナムの太陽は、まるで緊張感のない、間の抜けた光だと思う。
けれど懐かしい光のようにも感じた。ネフライトは煙に誘われて空を見上げた。
「やあ、ネフ。……冴えない顔をしているな」
「ただの寝不足です。交代に来ました。エドガールも夜から働き詰めです。休んだ方がよいでしょう。判断力が鈍ります」
「そうだが……。君だって疲れているだろう」
「私は無理が利きます。若いですから」
「そう。……無理という言葉で思い出したが、学会は無期限延期となったそうだよ」
「了解です。……そうですか」
「何か悩みを抱えているように見えるな。さっさと話してしまうことだよ。……君も薄々気付いているかもしれないが、獣化は連鎖するんだ」
エドガールは眼鏡を自分のベストで拭きながら言った。
拒絶できなかったのはネフライトに悩みがあったからだ。
すこし唸り、空に舞う白い灰を見た。
「顔見知りが獣になったのは初めてなんだな。……すこし意外だ」
「ええ。まあ……」
ネフライトは言葉を濁した。長い時間が経った。
どう切り出すか迷っている時間をエドガールは急かさなかった。
「ダミアーンさんが……ヤーナムの医療者には覚悟が必要だと言った。自ら進み患者になる覚悟が無い人間に医療者は務まらない。本当は、そう言いたかったのだろうと思います。──貴方も覚悟したのか? エドガール」
ネフライトは、エドガールを見つめた。
眼鏡をかけた後、くすんだ金髪を撫でつけて彼は肩を竦めた。
「覚悟なんて大したものは持っていないよ。……でも、そうだな。今日、隣でランチした友人が明日の検体だった。自分が選ばれなかった理由なんて大したことはない。ただ運が良かっただけだ。そういうことを繰り返していたら、自ずと気持ちは固まるものだ。医療教会が積み上げた知識。その代償のひとり、いいや、ひとつだと」
聖歌隊の間者であるエドガールの話は、一般的なヤーナムの医療者には当てはまらないことだろう。
それでも参考にはなった。頷いているとエドガールは鼻で笑った。
「しかしね、ネフ。その覚悟とやらはダミアーンやミコラーシュの優れた心がけだと思うか? 見てごらん、同胞の死体を積み上げても空に届きやしないじゃないか。そのくせ失ったものばかり固執する。……歩みを止められないだけの獣と何が違う」
「口が過ぎる。エドガール」
止めるネフライトの言葉は、実に軽いものだった。
咎める気はさらさらなかった。気力が無いとも言える。
エドガールは苦い顔をしていた。
「メンシス学派の夜明けは犠牲ばかりだ。──君は聡い。分かるだろう? こんなことを続けては、狩人も街の人々も長く保たない。精神が疲弊する。学徒だって昨夜のように変態するのだ。神秘の探求に人員の消耗は避けられない。だが、メンシス学派は消耗が激しすぎる。もっと別の形を模索すべきだ」
「それは袂を分かった意味がない。思考の思索は聖歌隊の領分なのでしょう? だがメンシス学派の目指すところは、ビルゲンワースへの回帰、邁進、そして人の手で新たに作り出すことだ」
「そして医療教会が興った初期の思想に迫っているつもりなのだろう。病み人に触れ病巣に触れる。そうした実験により見出される知見こそ英知のはじまりだ、と。──けれどね。どうして現在の医療教会があると思っている? 過去があるから今がある。なのに学派は時代を逆走している。彼らは歴史に何も学ばないつもりだ」
「時代を新しく作っているつもりなのだろう。貴方が心配せずともメンシス学派は長くない」
「意外だな。君は学派を気に入っていると思っていた」
「ええ、気に入っている。だから与している。手を汚し、汗をかき、こうして死体の煤に塗れることも労と思わない。この学派は、ミコラーシュ主宰のものだ。きっと彼に後継など必要ない。また望まないだろう」
「もともとミコラーシュが主学派から飛び出したような形だからな。首魁がいなくなればあとはどうとでも──」
「いいえ、エドガール。優れた生物に後継は必要ない。そういう話をしているのです」
エドガールの瞳が、鋭く細められた。
「……君はミコラーシュが悪夢に届くと思うのか?」
「私には未来の話です。今回は届くのだろうか。分からない。でも届けばよいと思っている。……学派の犠牲があったとしても、あの人の祈る姿は美しい」
「呆れた。君は、なかなかに激情家だったのだな」
「美しさとは、容姿ではなく内心にあると思っています。貴方はこの学派のなかで、よくご存じのハズだ」
「……君は、いろいろと知っているのだな。メンシス学派のことだけではない。聖歌隊のことまでよくも……」
「私は、ほら、ダミアーンさんの孫で飴玉代わりの昔話をよく聞く。そんな設定です」
「当分、そういうことにしておくけれどね」
──それだけじゃないだろう。
咎めたい気分になっているらしいエドガールは、重い息を吐いた。
「お互い詮索はなしでしょう。明日の検体がお隣さんだとお互い気まずいものです。──さぁ、どうぞ休憩を。火は私がみています」
指をヒラヒラと動かしてエドガールは去って行った。
存在というものは、消えた途端に存在を主張するのだ。
彼がいなくなると彼が言ったことをしきりに想起した。
『メンシス学派の夜明けは犠牲ばかりだ』
犠牲を許容するか。
許容するとすれば、それはどこまでか。
ネフライトは、この先考える必要がありそうだ、と思った。
しかし。
「何もない人間が強いのか? 強い人間には何もないのか? 『何もない』? そんなハズはない。主宰にさえ祈りがある。お父様にもいろいろとあるだろう」
ネフライトは、ダミアーンのことを学派の一員として尊敬しているが個人的なトラウマに囚われているように見えた。しかし、それはダミアーンが心弱いことを意味しない。
「感情というものに私はどうやら疎いようだ。善し悪しや程度の判断など、今はとても……。……。こういうことは、クルックスの担当だと思っていたのだが……」
ネフライトは、西の空を見上げた。
うっすらと夜の赤を滲ませて、世界は次第に清澄の青に染まっていく。
黒い煙が立ち上る向こう、白い月は素知らぬ顔で浮かんでいた。
学会準備(下)
メンシス学派ネフライト編終了
呪い。この手の願いをクルックスとテルミはバフに出来るかもしれませんがネフライトとセラフィはデバフになってしまうことでしょう。心の持ちようなのかな。
お知らせのとおり次の投稿は1ヶ月ほどお休みいたします
3年生ホグワーツ編は29話分投稿します。
まぁちょっと増えたり減ったりするかもしれません。
投稿再開時は活動報告及びTwitterでお知らせします。
よろしくお願いします!
ヤーナム編、長かったね?
かなりBloodborneに寄った話になってしまったので、やや反省しています。
元々は『2年生まで』と『3年生まで』のヤーナム章は『2年生まで』の期間で起きることとして想定していたのですが、さすがに長くなりすぎる予想となった為、『2年生まで章』と『3年生まで章』に分割しました。
それでも長くなったのは反省すべき点ですが、もうこれほどじっくりヤーナム内部の人の動きと会話を書く時間が──これは作中もリアルもです──なくなるかもしれないので念入りに書きました。──どうしてヤーナム内部の人々の話が詳しく必要なんだろうね。誰かお客さんが来るのかな?
ヒィ……ヒィ……
本作を読んでBloodborneを始めましたとしばしばご連絡をいただきます。
とても嬉しい半面、ここが入り口でいいのか、と心配になることがありますが、小指の先ほどしか心配していません。むしろぜひ手にとってプレイしていただきたいので、購入した方はぜひエンディング目指して頑張ってください。Bloodborneは試行錯誤を楽しめる人ならば、楽しめるゲームです。
昨今に溢れる考察動画や解説動画は刺激を求めすぎて、センセーショナルな偏りが過ぎることがあります。自分の手で触れるということが大事だって医療教会も言っています。また、初見の楽しみを浪費してほしくないという極めてお節介な言葉も添えさせていただきます。プレステ的な環境があればぜひ触れてもらって……いつも何だかよく分からないセールやっていて……通常価格の時間の方が短いらしいので……(なんで?)
3年生まで(ヤーナム編)が終了しました
本章においてたくさんのご感想・評価をいただいてしまいました。ありがとうございます。
さて、キリのいいところです。
さまざまご感想をいただけたら筆者はとても嬉しいです!(交信ポーズ)
筆者の長文返信が怖い方や「匿名なら、まぁ書いても」という方は、こちらのマシュマロをご利用下さい。
匿名で筆者(ノノギギ騎士団)に届くよォ!
https://marshmallow-qa.com/nonogiginights?utm_medium=url_text&utm_source=promotion
アンケート!
四仔に関わる物語をそれぞれお送りしてきました。特に面白かった話や興味深かった話を選択していただければ幸いです。
この後の物語はもうほとんど決まっているのでこれによる変更の余地は少ないのですが、参考にさせていただきたいと思います。
貴公、よい読者だな。これから先、回答が有効だ。──特に面白かった話や興味深かった話を選びたまえよ。
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夏休みプロローグ(騎士の休暇と海へ旅行)
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火薬庫の残り香(クルックス)編
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見慣れぬ女狩人(セラフィ)編
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テルミの大冒険(テルミ)
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メンシス学派の夜2夜目(ネフライト)
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俺には特別な知恵がある!(回答閲覧)